魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

とも倒れ

2021年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

小池都知事が入院したことで、失言王麻生副総理が、「自分でまいた種だ」と言ったらしく、またまた非難の的になっている。
今回も、口は悪いが間違ってはいない。何でも自分でやりたがる小池知事のタチが災いしたという意味だろう。
小池知事はいろいろな意味で今年は転機の年になり、そうでなくても多重苦の中にあったことは間違いない。そんな中で、入院の引き金になったのは意外にも、愛犬の死だ。

東京での入院騒ぎは余り興味が無かったが、余談で、20年連れ添った愛犬が死んだことを聞いて、「あ、これだ!」と思った。
人によっては、ペットの死は親の死より衝撃が大きい。
そうでない人には信じられないことだが、ペットに溺れる人は自己愛の強い人だ。
幼少期から多くのペットを飼った人や、牧場などで育った人は、多くの死を見ているので、動物の死を環境として受け入れるが、自己投影の対象として集中的に可愛がっていたペット、それも犬が死ぬと、ペットロスで自分も死んだようになる人がいる。猫の場合は勝手な行動を互いに認め合っているので、犬ほど喪失感がない。

夫婦でお店をやっていた60代の男性は、ほとんど奥さんが切り回していたので、花壇の手入れと愛犬の世話に明け暮れていた。人と会うと、男性は何も言わずに先ず犬に挨拶させるので、近所の人は犬に挨拶しなければならなかった。
世話が良かったのか愛犬は20年も生き、市から表彰までされたが、流石に寿命には勝てず、とうとう死んでしまった。
すると、男性は起き上がれなくなって入院し、もう長くないから店をやめると言い張り、やむなく、奥さんが店も花壇も始末して、引っ越してしまった。
その後の話では、退院したものの抜け殻のように何もせず、働き者の奥さんは、家にいるのもうっとうしいので仕事に出ているとのことだった。

小池知事は犬に記者会見をさせていたわけではないが、コロナ、オリンピック、都議選と追い詰められた状況で、自我のよりどころである愛犬に支えられていたのだろう。嘘のような話だが、向こう意気の強い人は、意外と芯は弱い。
同じ時、バイデン大統領の愛犬も死んだが、バイデンは子供もおり、子供を失った経験もある。ペットの存在意義がまるで違う。


上がれば

2021年06月27日 | 星の流れに

最近、世界中でビルの崩壊が相次いでいる。イスラエルの攻撃でパレスチナのビルが崩れたのは、意図的なものだが、中国、韓国に続いて、アメリカのビルまで自然崩壊した。
大阪では崖っぷちの民家が立て続けに崩れ落ちた。
結論的に言うと、これは水瓶座の土星の影響と言える。

水瓶座は、無理して「上昇」する事を意味し、水瓶座に惑星の悪影響があると「落ちる」。
飛行機の墜落や隕石の落下を始め、登山者の滑落や、今回のような崩壊崩落まで、人知を超えた力や、限界を超えた技術によって高みにあったものが「落ちる」。(ビル崩壊は技術不足)
911同時多発テロビル崩壊の時は、天王星が水瓶座にいた。天王星自身が水瓶座と同意で、飛行機や革命を表す。
ただし、同じ落ちる事でも、道路の陥没などは、平坦から地下の世界へだから、サソリ座の影響と言え、何れも定着宮相互の影響がある。

土星は萎縮し重くなり下がる現象だから、それが水瓶座に来れば高いところにあったものが下がる、つまり、自ずと「落ちる」。
現在、水瓶座に対し、牡牛座の天王星が悪い角度90゜にあり、さらに、獅子座180゜に火星までいる。イカロスの翼の蝋が溶ける。


法治世界

2021年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

2016年、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所が、中国の「九段線」を、国際法上無効とすると、中国は「こんな物は紙くずだ!」と大声で拒否した。
その後、中国が着々と「九段線」の領土化を進めているのは世界が知るところだが、今年に入り、更に露骨な囲い込みを始め、フィリピンが怒ると、中国は「身分をわきまえよ」と言い放った。

7世紀、日本は中国に法というものを教えられた。中国には紀元前から法が有った。
中国は、何かにつけ法治国だと自賛する。しかし、中国の考える法と今日の国際的な法の意味は決定的に違うようだ。
為政者が民を管理するための古代法を法と考える中国は、国民が共存するための約束事である民主法が理解できない。中華の歴史はあまりにも偉大すぎて、簡単に頭を入れ替えることができないようだ。

古代法は大前提に支配者がいて、支配者は民を思い、民は支配者に従う。その秩序を守るために、支配者は民に法を与える。それが中華の美しい善であり、共産党はその善を行っている。
中華の法は「伝家の宝刀」として、むやみに持ち出すものではない。易経の「訟」は、裁きそのものを不測の事態と考え、法に訴えるような「いさかい」そのものを止めるべきとしている。
日本を含め、中華圏に訴訟が少ないのは、「伝家の宝刀は抜くものではない」の意識が根付いているからだろう。問題があれば、自分たちで始末するのが基本で、お上の手を煩わせるのは最悪で最後の時だ。

法はただの象徴と考える中国にとって、国際法の場に引き出されること自体「ありえない」ことであり、その法が、具体的に行動を規制してくるなど、意味が理解できない。法廷は単に、双方の「話し合い」を促す権威、脅迫に過ぎない、ハズだ。
そう思っていた飾り物が直接、指示を出したことに驚き、「そんな馬鹿な!」と荒れ狂った。そして、「話し合い」が出来ないのならと、実力行使を始めたのだ。
結局、力関係が前提の中国だが、押さえるには力以外にも、巧妙な論争という道もある。
ただし、あくまで中国的価値観をよく理解してのことだ。

とてもわかりやすい実例がある。戦前、日本の国策映画で中国人に人気だった李香蘭が、敗戦で日本人の山口淑子だったことが解り、中国人を欺いたとしてリンチに遭うところだったが、中国人の有志が、「日本人が日本の国策に協力するのは当然だろう」と演説し、群衆が納得して、命が助かった。
ここには、まず、李香蘭が愛されていた事実がある。しかし中国人を欺いた人間は生かしておけない。そこに、中国人が納得する愛国の道理を提示され、群衆は内心「救われた」。
中国式の情と義理は、この逆に、「泣いて馬謖を斬る」の故事がある。

中国を説得するコツは、「情を読んで道理を用いる」ことのようだが、日本人は意外にこの点が弱い。情を求めているかと思えば、意外にアッサリ理に走る。その切り替えを、「水に流す」と言い、情も理も捨ててしまう。
むしろ、欧米人は中国に通じるところがあり、情のために理を活用する。
ベニスの商人の「血を一滴も流さず肉を切れ」とか、「34丁目の奇跡」などの裁判がらみの映画では、法の立て前を逆手に無理を通し、情を満足させる話が好まれる。

日本人は法は守られるものと思っているが、古代法の中国も民主法の欧米も、法は用いるものだと思っている。国際法も、いかに定めいかに活用するかであって、国際法や国際組織が守ってくれると思っていると、崖から突き落とされる。東京裁判は日本人が忘れてはならない永遠の教訓だろう。

世界の本音は、国際法も立て前だ。中国が弱小国を高利貸しで植民地化するのも、法が前提だ。中国自身が法を「紙くずだ!」と言ったのだから、債務国は全く守る必要などない。偽証文で身売りを迫られたと、他の力に頼ればいい。外交も国際法も、結局は力であると、中国自身の行動が示している。


傘がない

2021年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ワクチンは打っても打たなくてもいい。
「はい、腕を出して」と言われれば、袖をめくるが、予約して出かけて行ってまで、打ちたいとは思わない。そんな老人は少なくないのではなかろうか。
打たないことが非国民になるほど、ワクチンが効くとも思わないし、コロナ感染が死刑宣告とも思わない。それほど人と会うわけでもない。
どんな病気でも運が悪ければ死ぬし、運が良ければ(体力があれば)回復する。そうして生き残ってきた年齢だからだ。

ワクチンを打ちたくない人の大半は、コロナも怖いしワクチンも怖い。
コロナ禍は天災ではなくパニックだ。病気には違いないが、肉体的疾患以上に、世界は心を患っている。知る知らないで、一喜一憂する。
実際に何百万も死んでいるではないか!と言われるだろうが、純粋にコロナによる死者はどれほどだろう。コロナが無かったときの、他の死因はどれほどだろう。毎年、人はどれぐらい死んでいるのだろう。そんなことの冷静な比較もなく、数字だけが躍る。

コロナパニックは、情報過多社会の生活習慣病だ。
現代人は、何でも知っているつもりで、知ることを当然と思っているから、知らないことに慌てる。
人類は倍々ゲームで進歩した。しかし、分れば分かるほど、何もわかっていないことが、専門家には見えてくる。ところが一般社会は、解らないことはないと思い込んでいる。専門の先鋭化は一般人を無知にし、科学は社会の信仰になった。
今回のコロナのようなことが起こると、真摯な専門家の狼狽が、科学信仰社会の底を抜く。人々は突然、闇に放り込まれたようにパニックを起こした。
全ての可能性を考慮する専門家は立場上、最悪のことしか語れない。

ためらいがちに口ごもる専門家の言葉を聞くと、今までも、見えていたわけでもないのに、「何も見えない!」と騒ぎ出す。
そうして、「ワクチンが切り札だ!」と殺到する。だが、接種率の高い英国でも、再び感染が増え始めた。ワクチンは英知の結晶だが、絶対的な免罪符ではない。
コロナ禍は、それが人為であろうと自然発生であろうと、変異であろうと、大荒れしたら去っていく自然災害と変わりない。嵐の中では、盤石な大木が倒れ、柳は残る。
一人の犠牲者も出すまい、自分だけは倒れまい、そう思う過信とエゴが人雪崩を起こし、災いを大きくする。

災害の怖さは備えの有無によるが、予測不能だから起こるのが災害だ。地震が日食のように予測できるものであれば恐怖はない。科学万能に不可能はないと思う信者は地震予知を信じて待つが、今、目の前の災害に必要なのは、何が起こっても対処できる「対応力」だ。
さまざまな災害訓練は、しないよりした方がいいが、それで安心する方が怖い。

災害にマニュアルなど無い。研究者から宇宙飛行士まで、あらゆる冒険者は常識に拘泥しない。安心安全は前提だらけの幻想であり信仰だ。われわれは宇宙船地球号に乗る冒険者であって、常に、何が起こっても瞬時に立ち向かう気概と知恵を持たなければ生き抜けない。
コロナ対応に混乱と遅れをとった日本では、早速、反省が始まり、対応策が検討されている。これは日本の良い所であり、同時に、次の混乱のもとでもある。
万の対策より、沈着冷静、現実直視、鋭意果断が最大の対策である事を知り、それを実行しやすい社会変革こそが重要だ。代替案も無く新しい行動を批判し、足を引っ張る社会風潮の是正を、常日頃から啓蒙していくべきだろう。

市井の隠者
スーパーで、80代のジイさんが、
「(やれやれ)コロナ!コロナ!だ」と、大きな声でつぶやきながら歩いていた。
歳をとると一喜一憂しなくなる。鈍感になったのか達観したのか、世の中のディテールがどうでも良くなる。だから交通規則も守らなくなる。細かなことを気にかけないから逆走もすれば、人の話も聞き流す。社会の現場では困った存在になり、ボケ老人とも呼ばれる。
だが、そんな老人だからこそ見えるものがある。瞑想により得られるようなシンプルな境地、普遍性だ。時は移り世は変われど「世の中はそんなもの」。
諸行無常、色即是空、Let It Be、ダイジョウブダア!

生老病死の世の中は、すべて受け入れることで救われる。あがきは苦を増すだけだ。
無為に諦めるのではない。喧騒に惑わされることなく、事の本質を見極め、粛々と生きる。
喧騒を避け隠遁する隠者でなくても、市井にあって隠遁の境地に生きる人もいる。
「これで迷惑かけないですみます」と接種に殺到する「責任感の強い」現役老人もいれば、死んだら死んだ時だと盆栽の手入れをしている老人もいる。
「早くワクチンを!」
「ワクチンで殺す気か!」
市井の隠者には、出かけていく「傘がない」


守りびと

2021年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

スーパーに買い物に行った人が、「干しブドウどこですか?」と若い店員に尋ねると、
若いもう一人と話し合って、「すみません、何というものでしたか?」と、もう一度聞き直す。
「干しブドウ」と言うと、「ちょっと待ってください」と、近くの先輩に聞きに行った。
先輩は「そこのドライフルーツ売り場」と指さしたので、若い店員より先に行って発見し、「あ、ありました!」と言うと、若い店員は「あ、レーズンですか」と、あきれたような顔をしたという。
「あきれたのは、こっちだ」と、その人は話してくれた。

コンビニで買い物をしていると、オッチャンが勢いよく入ってきて、レジの店員に
「練乳あるか?」と、大きな声で尋ねた。
店員が困ったような顔をして、「ありません」と答えたので、思わず
「コンデンスミルクだよ」と言うと、
「あ、そこの棚にあります」と言う。
「なんや、あるやないか」と、オッチャンは嬉しそうに買っていった。

コンビニに若い女の子が入ってきて、
「びっくり水ありますか?」
と、尋ねたそうだ。
・・・
どれも、すべて実話だ。

よく、若者言葉がわからないと、若者が大人をバカにし、また、大人は懸命にそれを覚えようとしたりする。
スタバの注文の仕方が解らないと、若者が得意になり、大人はひがみ込む。
若者言葉も、スタバの注文も、限定された、一過性の言葉であり、時と共に消える、覚えなくても困らない言葉だが、
レーズンとは干したブドウのことである、とか、コンデンスミルクは煮詰めた牛乳で、砂糖入りを練乳というぐらいのことは、生活常識としてスタバの注文より重要だ。
まして、店員として収入を得ていれば責任でもある。

これも以前書いたことがあるが、古書店のアルバイト店員に、「万葉集って何ですか?」と聞き返されたことがある。正直なのは良いが、名前ぐらいは小学校でも習うだろう。
年寄りに言いたい。
若者言葉に追随する必要はないし、それを憶えたところで、面白がられても尊敬はされない。
むしろ、古い言葉の「守りびと」の自覚を持つべきだ。


二度三度

2021年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新から昭和20年の敗戦まで77年。敗戦から更に77年経てば2022年。
明治維新から50年ほどは昇り調子だった、敗戦から50年もそうだった。
その後の25年ほどは、いずれも新しいものが生まれず、過去の栄光に浸り、売り食いで生きていた。もし、同じサイクルであれば、来年は悲惨な年になる。ただの偶然と思いたいが、新生、出発の年でもある。

天王星周期は84年だが、日本の周期はどうも77年ぐらいらしい。
77+7=84、これが何を意味するのか解らないが、「7」は最大の神秘数だ。
ちなみに、84÷12=7(12支7回で84年、還暦+24年)
世界のサイクルとズレていることは救いでもある。84年前の悪役を中国に代わってもらうことが出来た。
二度あることは三度ある。第一次大戦、第二次大戦は、ドイツと組んだ方が負け組になった。これも何を意味しているのか解らないが、どうも今、ドイツは片足が中国から抜けられないようだ。
両足突っ込んできた日本は、うまく幽体離脱できるだろうか。
84年周期で言えば、戦争は既に始まっている。たとえ様相は違っていても。


カンセン

2021年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

何が何でも、オリンピックを強行するらしい。
例え強行しても、世界の人々が集えなければ、それはもう、オリンピックとは言えない。
何としてでも強行するために、問題山積のG7で、各国首脳に頭を下げ、秀吉の臨終でもあるまいに「オリンピック頼みまする」と懇願した。オリンピックの弊害をあらわにしたのは、コロナの功績かも知れない。
勝負は付いているのに、バンザイ突撃や特攻を繰り返した「神国日本」は今も生きている。始めたら自分では止められない。
何事も、「何のために」始めたのかを忘れ、その場の情念に流されるのが人間だが、愚直を愛する日本人は、特にその傾向が強いようだ。
「腐ってもオリンピック!」
「おまえは、もう死んでいる」

無観客と言ったり、限定収容と言ったり、元の形にこだわる姿は涙ぐましい。
反対派からは、大感染オリンピックになるとの声も上がる。
オリンピック観戦が、オリンピック感染になったら、いかんせん!?

未来は始まっている
今回はもう間に合わないが、コロナは「観客」の概念を変えるだろう。
様々なポジションの映像を見るテレビどころではない。リアルタイムで世界中の人が現場をバーチャル体感し、その反応が会場に反映する。会場には権利を買った人のアバターロボットが並び、ブーイングやウエーブまで起こる。既に、技術的環境は整っている。
「そんなもので満足できるわけがない」そう思われているから実現しなかったが、ネットやバーチャルで恋愛や結婚までする時代だ。コロナが引き金を引くだろう。

これからのイベント会場は、バーチャルを考慮して建設される。当然、観客席のスペースは要らない。周囲を囲むディスプレイがあれば良いから、組み立て式も可能で、交通の便も不要になる。通信環境を前提に生まれれてくる様々な形態が考えられるが、冗長になるのでここでは割愛する。

東京オリンピックを求めた人たちは二重の間違いをした。
何のビジョンも無く、「夢をもう一度」と、過去にお金を捨てた。これは、ボロ屋に住みながら、巨大な墓を建てたようなものだ。ことある毎に出てくる陳腐なスローガンが痛い。
最大の間違いは、現代と未来に目を閉じていたことだ。
腐敗したIOCの現実、社会経済の現状とトレンド、技術環境の進歩、現代人の求める感動・・・これらを直視して、未来を呼び込むイベントは何かと考えるべきだった。
オリンピックを強行すれば、それは、それなりの盛り上がりは生まれる。
しかし、東京オリンピックは既に消えている。
この過ちは、少子化問題を始めとする、あらゆる政治認識に通じるもので、明治維新や戦後処理のような、環境刷新がない限り、「日はまた沈む」だろう。


魚座膨張

2021年06月14日 | 星の流れに

木星→魚座で、ニシキヘビに続き、ペットショップから逃げ出していたミナミジサイチョウとやらが見つかって捕獲された。12日にはオオカミ犬も捕獲され、さらに何とかオオトカゲまで。インドネシアでは日本原産の錦鯉を輸出するそうだ。
光と影の魚座はペットも表す。
魚座は虚像と実像の関係で、生まれ出る前の胎児にあたる。紐でつながれた二匹の魚は愛とエロスの象徴だが、臍帯で結ばれた母と胎児の姿でもある。人間か人間ではないのか、母がいるから生きている。つまり、ペットや人形はそれを認める人がいて存在する。夢も、それを見る人によって存在する。

魚座の人がベッタリの人間関係から突然、離れたりするのは、思い入れで成り立っている関係が「夢から覚める」からだ。
また、魚座の女性が年取るほど美しくなったり、男性がえげつない顔になったりするのは、それぞれ社会的ニーズに自分を同化させた結果であり、それだけ心的要素が強いのが魚座だ。したがって、政財界など社会的に活躍する女性は、むしろえげつない顔になる。

海王星魚座時代に木星
一方、魚座は安息も意味する。これは「現実離れ」が隠遁に通じるからだが、やはり魚座が意味する流行病(コロナ)によって、人々は隠遁を強いられた。
「拘束」は刑務所を意味する苦難のヤギ座だが、同じ閉じこもりでも、魚座の場合、羊水の胎児や隠居暮らしなど、安らぎをもたらす。
海王星が魚座に入ったこの10年ほど、「引きこもり」が問題になっているが、これは拘束ではない(心理的な拘束とも言えなくはないが)。

コロナによって社会全体が隔離されたことで、映像での人間関係が一般化し、孤独を癒やすペットのニーズが高まった。
ところが、同じく魚座の、飲酒を伴うサービス業や音楽芸能の興行が抑制された。これは、新しい業態が現れる契機になるだろう。不平ばかり言っている人は、これまで既存の商法に乗っかっていかに儲けていたかと言うことになる。
また、今回、問題になったのは賃貸料だ。貸す側が身を傷めないことで、結果的に自分の首を絞めることになるが、それとは別に、テレワークで都心のオフィスも空きが増えている。

不動産はサソリ座だが、賃貸は何だろう。「器」の観点で考えれば水瓶座だが、看板を掲げている人の影に隠れている存在と考えれば、大家と店子の関係は魚座になる。つまり、魚座時代を経て賃貸業も変わる。
同じ関係は、ITのプラットフォーム業者とユーザーの関係であり、また、企業立地と所得税の関係でもある。今回のG7でもこの件が見直されることになった。

海王星発見後、魚座の主星は海王星だが、伝統的には、膨張を表す木星だった。
木星は射手座の主星で、主に物理的膨張だが、魚座では心理的膨張を司る。
魚座の人、魚座の業界は、今悪ければ新しいことを始めるチャンスであり、今良ければ、しばらくこれ以上進まない方がいい。魚座の業界には、薬品、美容も含まれる。


杓子定規

2021年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム

ワクチン接種は有り難いことだが、なんで高齢者からなんだろう。
先ずは医療、介護、教育を始め、多人数に接する社会インフラ関係からではないのか。一日、誰とも口をきかないような老人を探し出して接種するより、その世話をする人の方が先だ。

予約が取れないと大騒ぎだったが、実際には1割以上ものキャンセル者がいた。その後の報道では、自衛隊などが待機する大会場で、8割の空きが出ているという。
何事においても狂奔は起こる。「今だけ!」「解禁!」と言われれば、必要もないのに買ってしまう。まして、これだけ恐怖をあおり立てた上で、「さあ、始まった!」と言われれば、「大変だ!」とオレオレで銀行に駆けつける心理で殺到する。
冷静に考えれば、急ぐ必要のない人まで、初詣の「一番札」を狙って駆けだした。キャンセル続出が、それを物語る。

興奮騒ぎでなくても、「ワクチン一番札」がよほど嬉しいのか、スーパーでマスクをせず、得意げにマスクの年寄りをジロジロ見ている年寄りがいた。「オレはワクチンしたぞ」と言いたいのだろうが、ヤレヤレだ。何も解っていない。これぞコロナ狂想曲の担い手だ。
一方で、予約や遠出を嫌って、動かない老人が多く、大会場はがら空きだ。
コロナが何であれ、ワクチンがどうであれ、手洗いウガイの予防は粛々と続く。

ワクチン開始の時に、言いかけて面倒くさいからやめたが、
高齢者に限定したのは、医療崩壊と死者数を抑えるためだろうが、これはある種の延命治療に通じる発想だ。老人優先は施設だけで良いし、予約の発想はいかにも完璧主義の日本らしい。ワクチン騒動のゴタゴタが、日本の全ての停滞を物語っている。
こんな対応力のない国が、よく戦争をしようなどと考えたものだ。


芸がない

2021年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

何をしても、さしたる効果や感動がないことを「芸がない」と言う。
「技」は習練の結果だが、「芸」には希に天才がいる。しかし、普通は「技」を身に付ける過程で、人を感動させる「芸」を体得する。
「芸」は何らかの別世界、感覚的なアイデアやヒラメキであり、観る人をその世界に引き込むことで感動を生み人を動かし、世の中まで変える。

戦国三英傑で言えば、信長は天性の芸人であり、秀吉は技を芸に高めた名人で、家康はコツコツと磨き上げた職人だ。
乱世は、何らかの卓越した能力=「芸」がなければ、突破できない。だから家康は時を待った。

百年来の乱世
コロナは戦争に匹敵する乱世だ。コロナの黒船に、日本の将軍はまたしてもお腹が痛くなって、小姓頭に替わってもらった。あげく、何となく先行きが見えて来ると、再登場や院政の準備までしている。宰相の任は命がけのはずだが、政治ごっこなら何度でもチェンジできるというわけか。在任中の死は、小渕、大平、遠くは池田、石橋、戦前には暗殺された首相だけで5人もいる。
死ねとは言わないが、覚悟のない政治が日本の混乱と衰退を招いたとしか言いようがない。ごっこの音頭をとるメディアも同罪だ。

小姓頭からスライドした執権は、不器用でパフォーマンスのかけらもなく、人を喜ばす芸も色気も無い。しかし、問題はそこではない。ピンチヒッターにしては菅政権は不言実行なのか、黙々と思い切った政策を打ち出し、がんばっている。
ただ、いかんせん、「芸がない」。
不器用は良いが、効果を生む創意工夫が無い。大量のワクチンを用意しながら、接種は遅れ、ズルズルと国民の拘束を延ばし、死者を増やした。まるで乃木将軍の203高地だ。誠実だけでは「突破」は出来ない。

ところが、もたつく菅政権に、民間や現場が知恵を出し始めた。国民を喜ばせるだけの器用な前政権とは、真逆の現象が起き始めた。国民が本気になった。
黒船が来て、幕府が現状維持しかできない政権であることを知った日本人は、自ら動き始めた。
災害にもまれてきた日本人は、非常事態に強い。わめき騒ぎ、リーダーに付いて行くヌーのようなエネルギーではなく、個人や小集団が、それぞれに自立力を持っており、非常事態には、各自が適切に始動する。無能なお上がいない方がうまくいく。
停電で信号機が全部消えても、一瞬の後には、何事もないように交通が安定する。一人一人の知能と自覚があるからだ。

結局、見栄えの良いリーダーなど、いない方が、日本は活性化する。
大石内蔵助は、本気の人間を炙り出すために、「仇討ちはしない」と無為を装った。あえて存在感を消すことが、全体の本気を呼び起こす。
他民族の侵入でかき乱されることのなかった、一人っ子日本の本質的能力を引き出すには、指導をしないことが最大の指導であると、もしかすると菅総理は、それを知る大賢なのかもしれない。