ワクチンは打っても打たなくてもいい。
「はい、腕を出して」と言われれば、袖をめくるが、予約して出かけて行ってまで、打ちたいとは思わない。そんな老人は少なくないのではなかろうか。
打たないことが非国民になるほど、ワクチンが効くとも思わないし、コロナ感染が死刑宣告とも思わない。それほど人と会うわけでもない。
どんな病気でも運が悪ければ死ぬし、運が良ければ(体力があれば)回復する。そうして生き残ってきた年齢だからだ。
ワクチンを打ちたくない人の大半は、コロナも怖いしワクチンも怖い。
コロナ禍は天災ではなくパニックだ。病気には違いないが、肉体的疾患以上に、世界は心を患っている。知る知らないで、一喜一憂する。
実際に何百万も死んでいるではないか!と言われるだろうが、純粋にコロナによる死者はどれほどだろう。コロナが無かったときの、他の死因はどれほどだろう。毎年、人はどれぐらい死んでいるのだろう。そんなことの冷静な比較もなく、数字だけが躍る。
コロナパニックは、情報過多社会の生活習慣病だ。
現代人は、何でも知っているつもりで、知ることを当然と思っているから、知らないことに慌てる。
人類は倍々ゲームで進歩した。しかし、分れば分かるほど、何もわかっていないことが、専門家には見えてくる。ところが一般社会は、解らないことはないと思い込んでいる。専門の先鋭化は一般人を無知にし、科学は社会の信仰になった。
今回のコロナのようなことが起こると、真摯な専門家の狼狽が、科学信仰社会の底を抜く。人々は突然、闇に放り込まれたようにパニックを起こした。
全ての可能性を考慮する専門家は立場上、最悪のことしか語れない。
ためらいがちに口ごもる専門家の言葉を聞くと、今までも、見えていたわけでもないのに、「何も見えない!」と騒ぎ出す。
そうして、「ワクチンが切り札だ!」と殺到する。だが、接種率の高い英国でも、再び感染が増え始めた。ワクチンは英知の結晶だが、絶対的な免罪符ではない。
コロナ禍は、それが人為であろうと自然発生であろうと、変異であろうと、大荒れしたら去っていく自然災害と変わりない。嵐の中では、盤石な大木が倒れ、柳は残る。
一人の犠牲者も出すまい、自分だけは倒れまい、そう思う過信とエゴが人雪崩を起こし、災いを大きくする。
災害の怖さは備えの有無によるが、予測不能だから起こるのが災害だ。地震が日食のように予測できるものであれば恐怖はない。科学万能に不可能はないと思う信者は地震予知を信じて待つが、今、目の前の災害に必要なのは、何が起こっても対処できる「対応力」だ。
さまざまな災害訓練は、しないよりした方がいいが、それで安心する方が怖い。
災害にマニュアルなど無い。研究者から宇宙飛行士まで、あらゆる冒険者は常識に拘泥しない。安心安全は前提だらけの幻想であり信仰だ。われわれは宇宙船地球号に乗る冒険者であって、常に、何が起こっても瞬時に立ち向かう気概と知恵を持たなければ生き抜けない。
コロナ対応に混乱と遅れをとった日本では、早速、反省が始まり、対応策が検討されている。これは日本の良い所であり、同時に、次の混乱のもとでもある。
万の対策より、沈着冷静、現実直視、鋭意果断が最大の対策である事を知り、それを実行しやすい社会変革こそが重要だ。代替案も無く新しい行動を批判し、足を引っ張る社会風潮の是正を、常日頃から啓蒙していくべきだろう。
市井の隠者
スーパーで、80代のジイさんが、
「(やれやれ)コロナ!コロナ!だ」と、大きな声でつぶやきながら歩いていた。
歳をとると一喜一憂しなくなる。鈍感になったのか達観したのか、世の中のディテールがどうでも良くなる。だから交通規則も守らなくなる。細かなことを気にかけないから逆走もすれば、人の話も聞き流す。社会の現場では困った存在になり、ボケ老人とも呼ばれる。
だが、そんな老人だからこそ見えるものがある。瞑想により得られるようなシンプルな境地、普遍性だ。時は移り世は変われど「世の中はそんなもの」。
諸行無常、色即是空、Let It Be、ダイジョウブダア!
生老病死の世の中は、すべて受け入れることで救われる。あがきは苦を増すだけだ。
無為に諦めるのではない。喧騒に惑わされることなく、事の本質を見極め、粛々と生きる。
喧騒を避け隠遁する隠者でなくても、市井にあって隠遁の境地に生きる人もいる。
「これで迷惑かけないですみます」と接種に殺到する「責任感の強い」現役老人もいれば、死んだら死んだ時だと盆栽の手入れをしている老人もいる。
「早くワクチンを!」
「ワクチンで殺す気か!」
市井の隠者には、出かけていく「傘がない」