僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

今年もありがとうございました 皆さま 良いお年を !

2018年12月31日 | 日常のいろいろなこと

いよいよ今年も今日で終わりですね。1年経つのが、早いですわ。いや、1年どころではありません。だいたい、平成もついこの間始まったばかりみたいな感じなのに。あれから30年も経ち、来年は元号も変わるんですね~。まさに「矢の如し」です。やれやれ

ところで、今年のお正月最初のブログを読み返すと「今年こそお酒の量を減らして健康を保とう」という目標みたいなものを立てていましたが、1年を振り返ると、量を減らすどころかますます増えてきちゃってます。さらに、ここ何年かのお正月の自分のブログに目を通すと、たいてい「お酒の量を減らすのが目標」と書いています(笑)。そしてそれを実現できた年は、一度もなし!

それがわかっていたのか、今年最初のブログでも、お酒を減らしたいとの抱負を語りながら、「何度もその思いを固めながら、その都度失敗しているので、これはもう、我ながらアテになりませんわ」とも書いています。まさにそのとおりの結果になったので、もう、来年からは書きません。実現できないことを毎年目標に掲げること自体、間違ってますよね。

ともあれ、今年は地震と台風に脅かされたこともありましたが、まずまず普通の日常生活を恙(つつが)なく送れたことで、良い1年だったかな~と思っています。来年も同様な1年であってほしいです。

ブログも順調に続けて来られました。今年は「訪問者数」も400を超える時が多くあり(去年までは平均250ぐらいでしたが)、まぁ、数が多ければいい、というものでもありませんが、これもひとつの励みにはなっているところです。

昨日も書きましたように、僕にとってこのブログは、自分の元気度をはかるバロメーターとしても意味が大きいと思っていますし、また、未知の方々も含め、いろんな方にお読みいただいている、あるいはそういう方々と繋がっているという「ぬくもり」のようなものも感じていますし、特にコメントをいただいた時はその「ぬくもり」を一層強く感じ、心を弾ませています。

さて、これは新年になって書こうと思っていることですが、先日投函した年賀状は、思い切って、一部の方たちを除き「終活年賀状」としました。つまり今回を最後にさせていただきます、という一文を添えたのです。

対象とさせてもらったのは、今後つき合いがなさそうな方とか、もう会うことがなさそうな妻の遠い親戚などですが、それだけではなく、今後もつきあいのある方たち。例えばウダウダ会や昔のマラソン仲間など、これからも顔を合わす人たちとも、そこで会って話せばいいので、という気持をこめて、年賀状に限り、今年で最後にする文章を添えました。

一方で、今後も会わないかもしれないけれど、妻の一部の親戚や、過去に仕事の上で大変お世話になった方々、親しくしていただいた方々などにはこれまでどおりの年賀状を送りました。詳しいことは新年に改めて書きますが、年賀状もあまりにも多いと負担に感じるようになってきたのは年のせいでしょうか。

そんなことで、年賀状での人との繋がりは来年から激減しますが、閉鎖的になるのではなく、ブログをネットで発信している間は、それによって繋がっている人たちがいるんだ、と思えば、寂しくありません。その意味でも、このブログは大切にしたいと思っています。

今年もこれまでお読みくださいまして、ありがとうございます。
来年も変わりませずよろしくお願いいたします。

それでは皆さま、どうか良いお年を!

  ~ 2018年12月31日 午前11時30分 ~

 

 

 

 

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♪ もう二つ寝ると~ お正月 

2018年12月30日 | 日常のいろいろなこと

早いですねえ。明日はもう大晦日ですよ。明後日はお正月ですわ。

ところで、「元日」と「元旦」の違いってご存知ですか? 「元日」は正月の第一日目で、「元旦」は元日の朝、という意味だそうです。広辞苑で調べても、いちおう、そう書いてあります。まぁ、「元旦」も広い意味では元日と同じなんでしょうけど、正確に言うとそうなるそうです。

さて、テレビでは「この1年の出来事」とか、今年は平成最後の年末になるので、平成の30年間の大きなニュースを回顧する特番が、このところ毎日のように、3時間も4時間もかけて放映されています。

それ自体はいいんですが
でもね~、ダラダラと長すぎるんですよね、これが。もう少しコンパクトに、肝心のニュースだけを流してくれたら、見ている方も「あぁ、そういえばこんなことがあったなぁ」とか、自分の記憶と重ね合わせて見られるのですが、「そのあと、驚愕の展開が…」などと盛り上げてからCMが流れ、これがまた長い。そして回数も多い。その度に待たされる。そして、ニュース映像のあいだに、スタジオでタレントたちがつまらないコメントのやり取りが入ったりして、無駄に時間ばかりかけている印象です。なんで、こんなタレントたちのコメントが必要なのかな、と思ったりね~

まぁ、ボヤキはこれくらいにして

そんなことで、このブログも丸11年を過ぎ、来年で12年目になります。干支でいえば、ひと回りというところですね。今年も続けて来られてよかったです。いろんな方々からコメントもいただきましたし。これからも、自分の元気をはかるバロメーターとしても、このブログを続けていきたいと思います。

今年はモミィが、去年までは思いもしなかった私立中学への受験をし、志望校に入り、4月から電車で30分かかる学校へ通いながら、学校のクラブ活動や塾や、土・日の地域での「なぎなた」の稽古など、生活が激変したことにより、僕たちの生活のリズムも結構変わりました。

そのモミィですが…
冬休みに入る前、妻がモミィと一緒に学校へ行き、保護者と本人と担任の先生との三者懇談がありました。先生は、「問題はありません」とおっしゃってたそうで、懇談はすぐに終わったということです。こういう懇談は長ければ問題が多いわけで、短いに越したことはありませんね~

その時に、2学期の通知表を見ましたが、1年生はⅠ類とⅡ類2がクラスずつ、計4クラスあるのですが、モミィの成績は全体の真ん中くらいでした。入試の時はたぶん合格は無理だろうと塾の先生にも言われていたのに運良く合格し、1学期、2学期で少しずつ成績も上がって来たようです。

この学校はⅡ類のほうがレベルが高いのですが、モミィはむろんⅠ類です。その中で、Ⅱ類も含めた全体で真ん中くらいだったので、まぁよかったかなぁ、と思います。

それでは
明日も(たぶん)ブログは出せると思いますので、年末のご挨拶はまた明日に、ということで、今日はこれで失礼します。

厳しい寒さが続いていますが、皆さま、お正月を前に、体調を崩されませんようにね~。

 

 

 

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「まんぷく」 と 「あさが来た」 と 「おしん」

2018年12月28日 | 映画の話やTVの話など

わっ! ついに「まんぷく」のあのシーンが出ましたね!

思い起こせば
NHK大阪放送局のスタジオに朝ドラ「まんぷく」の収録を見学に行ったのは10月19日のことでした。

https://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/8393452bdba9caa2618f4b61a84ee420

どこかの留置所のような所で、金網越しに萬平と妻の福子が向かい合い、福子の腕には赤ちゃんが抱かれている。というシーンをモニタで見ました。

で、そのシーンがいつテレビで放映されるのかと楽しみにし、このブログでも何度も書いてきましたが、なかなかそのシーンが出てこなかったのですよね。

それがついに、今日、放映されました。あの10月19日にNHK大阪放送局のスタジオで見たシーンです!

「まんぷく」は、今年は今日で終わり。明日29日の土曜日は「まんぷく前半総集編」が放映され、今日の続きは1月4日だということです。

それにしても、
僕が放送局で見た収録シーンが、今年最後に放送されるとはね~

ちなみに、今放送されているのは福子に「幸」という赤ちゃんが生まれたばかりで、時代は昭和24年ということです。僕も昭和24年生まれですから、ドラマの赤ちゃんである幸ちゃんと僕は同い年ということになりますね。関係ありませんけど(笑)。

ま、そんなことで「まんぷく」の前半は終わりました。次回以降、そろそろチキンラーメンに関する話が出てくるのかなぁ、というところですかね。

ところで、朝ドラと言えば、僕はいま「あさが来た」の再放送にハマっていると書いてきましたが、昨日から「おしん・総集編」がNHKのBSで始まりました。昨日・今日・明日と三日間ですが、昨日が第一話で、今日が第二話、明日は第三話と第四話です。

「あさが来た」は、朝ドラで今世紀(2001年以降)最高視聴率を記録したドラマだということですが、歴代の最高視聴率は「おしん」が断然トップです。

「おしん」は1983年(昭和58年)4月から翌年3月まで1年間放送されたドラマでしたが、そのころ僕はマラソンに熱中し始めていた頃なので、テレビドラマというものをほとんど見ていませんでした。

それが、今年は「半分、青い。」から「まんぷく」へと毎日見て来た時に、折も折、「あさが来た」の再放送が始まってまたそれにハマリ、朝ドラっていいもんだなぁ~と遅まきながら思っていたのですが、今度は昨日から「おしん・総集編」が始まったのですからね。もちろん、録画して見ていますよ。「にわか朝ドラファン」にとって、こんな嬉しいことはありません。

そんなことで、今は「まんぷく」「あさが来た」「おしん総集編」の3つを録画して、見て楽しんでいます。「まんぷく」は昭和24年、「あさが来た」は明治初期、「おしん」は今日見たのは関東大震災があった時なので大正時代。で、この3つを同時進行で見ていると、どれがどの時代なのか頭が混乱してしまいそうになったりします(笑)。

年末の慌ただしい時期ですが、掃除や片づけや何やかやとしたあと、夜にビールを飲みながらその録画を見るのが、いまは一番の楽しみです。

「まんぷく」ではハラハラし、「あさが来た」ではワクワクし、「おしん」では涙を流しと、ドラマを見て胸がざわざわする今年の年末です。

 

 

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イオンモール藤井寺 来年7月にオープン

2018年12月26日 | 日常のいろいろなこと

10月に「イオンモール藤井寺 来春完成」というブログを載せましたが、今日はその後の経過についてのご報告です。

僕たち家族が藤井寺市に引っ越して来た年の前年(1973年)に出来たジャスコ・ショッピングモールは、僕たちにとって(むろん地域全体もそうですが)買い物に、憩いの場にと、とても便利なスポットでした。

それが、開業から約40年後となる2014年(平成26年)の2月、建て替えをするとの理由で閉店しました。新しいイオンモールは翌2015年の12月に完成すると発表されていました。閉店したのは寂しかったですが、1年10か月後にはもっと大きなショッピングモールができるからと、みんな楽しみにしていました。

ところが古い建物は長い間放置されたままでした。1年以上経った2015年にようやく取り壊されました。「完成は2015年の12月です」と当初は言われていたのに、取り壊されたのが2015年で、さらに、その後も工事が始まる気配はなく、3年以上ず~っと、だだっ広い敷地が放置されたままの状態でした。なんだ、これは? 一体、いつになったら建つんやと、街の人たちはみんなそう思っていたはずです。

それがやっと動き出したのが2018年、つまり今年です。閉店してから4年以上経ちました。そこで、今年10月にブログでそのことを書いたのです。

改めて、今年7月に撮った写真を載せます。この時、ようやく工事らしきものが始まったな、と思ったものです

  


その3か月後の10月。
右手の方に建物の骨格ができ始めました(10月7日撮影)。
 

  

 


そして、これは一昨日の24日に撮った写真です。 

  

だいぶ、出来上がってきました。

 

 

ところで、
今月のはじめ、新聞の折り込みに、1枚のチラシが入っていました。
 

(仮称)イオン藤井寺ショッピングセンター
大規模小売店舗立地法に基づく説明会開催のご案内 

という表題で、12月21日に市民会館で説明会を開く、という通知でした。法律で義務付けられた説明会のようですが、一般市民はほとんど行かないと思います。むろん、僕らも行っていません。 

でも、そのチラシには、新しいイオンに関するいろんなことが掲載されていたので、これでようやく一安心した次第です。

店舗を新設する日(つまりオープンの日)は平成31年7月15日とありました。今年10月の時点では、工事現場の塀に「2019年春開業予定」というパネルが貼ってありました。それを見て僕は、「来年春と書いているけど、実際には夏ぐらいじゃない?」と妻に言っていましたが、やはり来年7月にオープンになるそうです。でもまぁ、オープンの日がはっきりわかったのはよかったです。

その他、店舗面積、駐車場・駐輪場の収容台数、開店時刻と閉店時刻、駐車場を利用することができる時間帯、駐車場の自動車の出入り口の数など、いろいろと書かれていました。

これだけ具体的なことがわかれば、あとはオープンする日を待つだけで、楽しみです。

オープンする日が「平成31年7月15日」とありましたが、平成は来年4月で終わるので、新しい年号での7月15日ということになりますね。わが街も来年の新しい時代の幕開けに、待ち望んでいた施設ができることを嬉しく思っています。



*最後にもう1枚、一昨日に撮った写真を載せます。
 

 

これまでの写真は駅の方から見た画像ですが、逆にこれは駅に向かっての画像です。この道路の突き当りが、近鉄南大阪線藤井寺駅になります。


 

 

 

 

 

 

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年末ジャンボ宝くじは 「億の何道」?

2018年12月24日 | ズレズレ草

このあいだ、梅田~天王寺を歩いた時のことですが

大阪駅方面から「大阪市道路元標」を見に行く途中、大阪第4ビルの前を通りました。そしてそこは宝くじを買う人たちで賑わっていました。


 


「年末ジャンボ宝くじ」の売り場があるんですね。しかも、この第4ビルの特設売り場は「大阪最強の宝くじ売り場」と宣伝されています(ほんまかいな?)

そこへ通りがかったわけです。

さて、その宝くじ売り場ですが、去年の「サマージャンボ宝くじ」の時には、売り場にこんな旗が並んでいました。


 
「億の細道」へようこそ、と書かれていますね


このブログのタイトルが「僕のほそ道」なので、「億の細道」なんてのを見ると何となく親近感を覚えたわけですが、なるほど、宝くじで何億円を当てるのは奇跡そのもので、そこへ通じる道は、細い細い道で、ほとんどの人が通れない道なんですよね~。細道も細道、チョー細道ですよね。「億のチョー細道」にしておけばよかったのに。でも、それならお客さんのほうがシラけそうですね。

しかしまぁ「億の細道」とは、宝くじの主催者もうまい宣伝文句を考えたものだなぁ、とその時思ったものでした。そしてそのことを去年7月のこのブログにも書きました。

そして先日の宝くじ売り場ですが、また「億の細道」と書かれた宣伝文が見えてきました。しかし、近づいてよく見ると、「億の細道」じゃなかったんですね。 


 
わかりますか? 真ん中の上のほうに書かれてある言葉。



 
「億の近道」でした~

いつ変わったの? 「億の細道」から「億の近道」へ。 

考えてみれば、「億の細道」は面白い表現ですが、買う人に希望を与えるという点ではいささか不適切な宣伝文句とも取れますね。芭蕉の「おくのほそ道」をそのまま使ったダシャレとしては上出来ですが、宣伝文句としては、

「億の近道」

というほうが、夢が広がりますよね。
これを発案した人は、なかなかの人物と思われます。

宝くじ主催者の会議かなんかで、「億の細道」では「当選しにくい」というイメージがあるので、ここは「億の近道」に変えたらどうでしょう? と提案した人がいたのかもね。

そんなことで、年末ジャンボの発売は先週21日に締め切られ、大晦日に抽選が行われるとのこと。

あの大阪第4ビル前のお客さんたちは、10枚や20枚どころか、何百枚も買う人が圧倒的に多いとか。いやぁ、すごいですね~

「僕のほそ道」をお読みくださっている方で宝くじを買われた方には、「億の近道」をゲットされることを、心からお祈り申し上げる次第です

 

 

 

 

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五代友厚像とか、高麗橋の里程元標跡とか

2018年12月22日 | ウォーク・自転車

 

 

昨日も載せた地図ですが、赤い印が五代友厚像のあるところ。そして、地図の右下に「高麗橋」とありますね。ここが、昨日書いた梅田の交差点の「道路元標」の前身、江戸時代から明治にかけて大阪の要所として「里程元標」があったところです。

さて、中之島を歩きながら、なにわ橋の近くへ来ると、橋の向こうにうっすらと五代友厚の像が見えてきました。

 

なにわ橋はライオン像で有名ですが、そのライオン像の向こう側に五代像が見えます。わりに目立つところに建っているわけで、なにわ橋は何度か渡ったことがあるのに、この五代像にはこれまで全然気がつきませんでした。ま、見たことがあるのかも知れませんが、五代友厚という人物を知らなかったので頭に入っていなかったのでしょうか。

「はぁ、ここかいな。これかいな」と少し驚きました。

そしてなにわ橋を渡り、中之島とはお別れ。なにわ橋のライオン像はよく知っていますが、その前に五代様がいたとはなぁ。

せっかくなので、なにわ橋のライオン像も撮っておきました。
ちなみにこの橋は「ライオン橋」の愛称でも親しまれています。

 

ちょうどこの前が信号で、ライオン像に背を向けた形で見るとこうなります。

 

ま、いずれにしても再放送中とは言いながら「あさが来た」は3年前の朝ドラです。当時「五代さま」が大人気だった頃はここを訪れる人も多かったでしょうね。この日、写真をパチパチ撮っていたのは僕だけでしたけど(笑)。

 

銅像の裏側の碑文には、五代友厚が大阪発展に多大なる功績を残したという文章が「大阪市」の名義で刻み込まれているのですが、それが「平成16年12月」となっていた。へぇ。建ってからまだ14年しか経過していないのか。それなら、以前にこの辺を歩いた時に気づかなかったのではなく、まだ銅像がなかったのかもね。ふ~む。なるほど、そうだったのか。と、何となく納得。

ところで、五代友厚の像はほかにも数カ所にあるそうで、ネットでそのイラストマップを見つけました。ただし、これを見つけたのは帰ってからなので、大阪取引所以外は行っていません。ま、ひとつ見ればいいのですけどね。

 

こんなにあったんだ。
やはり五代友厚という人は大阪にとってよほどの重要人物だった、ということですね。なにしろ「大阪の恩人」と呼ばれている人ですから。

さて、そこから堺筋を南へ歩き、適当なところで東へ曲がると、高速道路の下に東横堀川という運河が流れている。そこに架かっていた橋が高麗橋かと思ってよく見ると「今橋」と書かれていた。

で、川沿いに南へ歩くと次の橋が高麗橋だった。お~、見つけたぞ~。

 
この向こうが高麗橋。
高速道路の下に東横堀川が流れており、そこに架かる橋です。

橋を渡り切ったところに、石碑が建っていました。

 

本の説明によると、これは明治時代に作られた里程元標の跡で、江戸時代のものは、このすぐそばにあったという。京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。そして明治9年の道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、この場所に里程元標が建てられた。その里程元標には、「東京日本橋まで百四十三里二十丁、京都三条大橋まで十三里十二丁、兵庫神戸元町まで九里三十五丁」と刻まれていた、ということだそうです。

高麗橋は、そのまま東へ行くと大阪城の今の大手前につながるので、ここが重要な場所とされたのだということも、本に書いてありました。ちなみに、高麗橋の下を流れる東横堀川は、元は大坂城の外堀として開削された運河で、現在は土佐堀川と道頓堀川につながっています。

ともあれ、現在の「道路元標」も知らないのに、昔の「里程元標」なるものが高麗橋に存在したことなんて、もちろん知らなかった。「おさんぽ」の本に誘われるままここまで来て、こういうものを見られたというのは、よかった~。いいお勉強でした。


 
では、里程元標跡ともお別れして

そのあとは、ひたすら堺筋を南へテクテク。

途中、道頓堀川の橋を渡り、黒門市場を横に見たりして、日本橋を歩き、通天閣を左手に見て、終点の天王寺をめざします。


 
通天閣を堺筋から見るというのは、滅多にないことです。


 

ここはJR天王寺駅の次の駅である新今宮です。角にある「ドン・キホーテ」のところを左折し、ずっと歩いて来た堺筋とお別れをして天王寺に向かいます。行く手にあべのハルカスがチラッと見えています。

もうどこにも寄らずまっすぐ天王寺まで、と思っていたのが、新世界のジャンジャン町があったので、久しぶりに歩いてみようと、少しだけ寄り道。

 

 

名物の串カツ屋などが並んでいますが、中のお客さんたちがみんなジョッキーでビールを飲んでいるのを見て、思わず生唾がゴクリ。お客さんは若い人が多く、特に若い女性の多いのには驚きます。女性たちも、ビールやお酒を楽しそうに飲んではりました。

 

中でも、この八重勝という店は、いつ見ても満員で、この日もお客さんが並んでいました。他にも超満員の店が2つ3つありました。しかし、1人の客もおらず、店員さんだけポツンと椅子に座っている店もあれば、パラパラっと数人だけお客の入っている店も結構あり、この差っていったいなんだろうな、と思いますね。

ジャンジャン町を後にして、再びあべのハルカスを眺めながら天王寺へ。

 

時計を見ると午後3時過ぎでした。10時に家を出て、5時間以上経ちました。

さぁ、阿部野から近鉄電車で藤井寺へ。さらに駅から20分ほど歩いて帰宅ということになります。4時過ぎぐらいに家に帰れるかな? 家に着いたらさっそく冷たい「お飲み物」でのどを潤さなければならない。ジャンジャン町で、人々が楽しそうに飲む姿を見せつけられた後ですからね~

負けちゃ~いられませんわ。

ずっと歩き続けて重くなった足取りも、あべのハルカスが近づいてくると、なぜか歩調も軽くなり、速度も自然に速くなる僕でした(笑)。

 

 

 

 

 

 


 

 

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大阪市道路元標とか、五代友厚の像とか

2018年12月21日 | ウォーク・自転車

12月18日、大阪の梅田から天王寺まで歩きました。

これまではウオーキングは運動だからと、ただテクテク歩くだけのことが多かった。景色を楽しむ「おさんぽ」的なウオーキングは天王寺七坂をはじめ、いくつかはあったけれど、まあ、少なかった。で、8月下旬に阿部野からチンチン電車の路線沿いを住吉大社まで往復した時、コースに見どころが多くて新鮮な味わいがあったので、その帰りにこんな本を買いました。


 


それでもなかなかこの本を手に、大阪を「おさんぽ」する機会がなかった。ところが最近、朝ドラの「まんぷく」や再放送の「あさが来た」にハマっているわけですが、偶然にもこの本の「北浜・船場」の章で「大阪取引所」が出てきて「あさが来た」の五代友厚の像の写真が大きく掲載されていたのです。

 

へぇ~、こんな像があったの? 知らんかったなぁ。

じゃ、さっそく見に行かなければと思い、18日にそこへ「おさんぽ」に出かけることにしたのです。そんなときにまた偶然にも

先週のブログ「『あさが来た』再放送と大阪のさまざまな知識」の記事に、大阪に詳しいちひろさんから17日の夕方、コメントをいただきました。そしてそこに「五代友厚の銅像が大阪取引所の前にあるのをご存じですか」という一文があったので「びっくりぽん!」でした。翌18日の早朝、ちひろさんへのコメントのお返事で「つい最近知ったところで、実は今日そこへ行く予定なんです」と書いた次第です。

そんなエピソードもあったこの日のおさんぽでした。銅像のある大阪取引所は北浜にあり、梅田から中之島を通って行くコースをとることにしました。

いつものように、家から地下鉄谷町線の八尾南駅まで約40分歩き、そこから地下鉄で東梅田まで。梅田には妻と妻の姉と3人で月1回、大丸百貨店の14階にある「馳走三昧」というビュッフェに行っているのですが、大阪市内で生まれ育った妻は梅田周辺にも詳しく、毎回僕は妻のうしろをついて歩くだけなので、1人で梅田の地下街を歩くと必ず迷子になります(笑)。

この日も地下街をうろうろしながら、やっと地上の阪急百貨店の前の道路に出ました。地上に出たら、もうこっちのもんですわ(笑)。

そして今年新装オープンした向かいの阪神百貨店の方に架けられた「阪急阪神連絡デッキ 梅田新歩道橋」という広くて新しい歩道橋を渡ります。 


 
歩道橋に上がると、右端がJR大阪駅、左が新装の阪神百貨店です 

この歩道橋を突き当たって左折し、阪神百貨店の店内歩道橋を南に向かってまっすぐ行き、エスカレーターを降りて少し歩くと、大きな交差点に出ます。この交差点は、左(東)が国道1号線で右(西)が国道2号線です。つまり、1号と2号がここで分かれるわけですね。 

「大阪おさんぽ旅」の本によると、ここに「大阪市道路元標」というのがあるということ。何度も通っている場所なのに、そんなものがあるとは、これまで全く知りませんでした。 

さて、その道路元標とは、道路の起点と終点を示す標識のことで、各地に設置されているそうです。まず、この「大阪市道路元標」のある交差点は、国道1号線の終点(起点は東京の日本橋)で、同時に国道2号線の起点(終点は北九州)でもある、とのこと。他にも、国道26号、163号、165号の起点で、国道25号、176号の終点だそうです。全部で7つの国道の起点、終点になる重要な交差点ということです。

 地図を示します。赤く「A」と記されている場所に道路元標があります。 僕はこの地図の上から下へと歩いています。

  

 

 交差点が近づいてくると、左側に道路標識が見えますね。

 

  
国道1号がここで終わり、2号がここから始まることがわかります。真っすぐ伸びる25号というのは、難波までいわゆる「御堂筋」の愛称で親しまれている道路です。

さて、その交差点の道路元標が見えてきました。

 
右のほうにモニュメントがあります。これが「大阪市道路元標」です。ハトが沢山いますけど。

 
「大阪市道路元標」とありますね。
 


 
プレートには、全部で7つの国道の起点・終点になることが示されています。

ところで、ここに「道路元標」ができる前、明治時代は高麗橋というところにそれがありました。江戸時代から続いていた「里程元標」というものがあり、ここから江戸をはじめ、各地への距離も計算されたということです。今日のおさんぽコースには、この高麗橋の「里程元標跡」の見学も入れています。

さて、左が国道1号、右が2号という交差点を越えて、まっすぐ御堂筋を南下すると、やがて堂島川にかかる大江橋が現れ、そこから大阪市役所が見えました。 


 
 大江橋から、斜め左に大阪市役所の大きな建物が見えてきました。 

その市役所の手前を左へ曲がり、中之島に入ります。
左に流れる堂島川に沿って、テクテク。
 

 
 

 

 
途中、ここを右へ曲がりました。

そして府立中之島図書館の前を通り土佐堀川に突き当たって、再び左へ。

ちょうどお昼時で、いいお天気だったので、3段ほどの小さな石の階段にペタンと座ってお弁当を食べる男の人や女の人の姿がありました。僕もその辺に座り、リュックに入れていたパンを出してモグモグ。中之島は、いつ来ても気持ちの良いスポットです。

 
土佐堀川に面して、中之島中央公会堂も威風堂々と建っています。

 
土佐堀川に沿った
コースも、ウオーキングに最適ですね。


やがて前方に「なにわ橋」が見え、水上バスが通って行きました。

 

このなにわ橋を渡ったところに、五代友厚の像がある、ということです。

まだまだ長くなりそうなので、この続きはまた明日に掲載しま~す。 


 

   
地図の上のほうに大阪市役所があり、中之島を通ってなにわ橋まで行き、
橋を渡ったところが大阪取引所。その前に五代友厚像が立っています。
地図で赤い印のところがその像のあるところです。


 

 

 

 

 

 

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今年の漢字は「災」 来年の漢字はもう決まり?

2018年12月18日 | 日常のいろいろなこと

「今年の漢字」の第一位に、「災」という字が入りましたね。

2月に北陸の豪雪、6月に大阪北部地震、7月に西日本豪雨、9月に北海道地震や台風21号が発生するなど災害が相次いだ。

という説明がついています。そういえば、これまで地震や台風の大きな災害というものがほとんどなかった大阪だったのですが、今年は災害が相次ぎました。

特に、6月18日の大阪北部地震は震度6弱で、大阪では観測史上初という大きな地震で、朝の8時前にガタガタっときて、それはもう恐ろしい揺れ方でした。

また、台風21号も怖かった~。あのゴー! という風の音の恐怖は今も忘れられません。

いずれも、大阪南部に住むわが家の近隣には特に大きな被害はなかったのですが、地震も台風も、大阪市から北のほうにかけて、甚大な被害が出ていました。 

大阪を襲った地震 恐怖の瞬間 (6月19日)


“最強台風“ に恐怖の大阪(9月5日)
 

さて、自分自身の「今年の漢字」はなんだろう、と考えてみました。僕個人は、それほど変化のある1年ではなかったのですが、わが家で言えば「転」でしょうか。「転ぶ」ではありませんよ(笑)。「一転」の意味での「転」です。

モミィが4月から私立中学に入学し、電車で遠い所へ通い始めた時から生活が一転しました。小学生だった去年から見て「びっくりぽん」の連続です。本人ももちろん「一転」ですが、モミィの世話をする妻はそれ以上です。朝の5時半に起きておにぎりとおかずをお弁当を詰めたり(おかずは僕がその前に起きて玉子焼きを作ったりウィンナーを炒めたりなどして用意します)、それからモミィの朝食をつくり、学校への持ち物に忘れ物がないか点検したり、毎晩塾へ迎えに行ったり、勉強の手伝いをしたり、モミィの好きな服や靴を一緒に買いに行ったり、いろんな相談に乗ったり、その他、数え切れないほど、さまざまな用に追われる忙しい日々で、これまでの妻の生活からは一転しました。

その点では僕もある程度は影響は受けていますが、妻ほど一転した年ではありませんでした。できれば「心機一転」で何か新しいことにチャレンジしようか、と思うことはありましたがダメでした。まあ、いつものことです。だいたい僕は、物ごとを一からはじめて、一のままで終わってしまうのです(笑)。

さて、また朝ドラ「まんぷく」のことですが、昨日、福子が大阪から東京へ行き、そこの刑務所に入れられている夫・萬平と面会するシーンがありました。何度も書きますが、僕が10月にNHK放送局に収録の見学に行ったとき、モニタで面会シーンが映っていました。そのシーンがいつ放送されるのかを待っているのですが、僕が見たシーンというのは、福子が赤ちゃんを抱き、その隣に弁護士らしい男性が座っていた画面です。しかし昨日の面会は、福子一人で、赤ちゃんも弁護士もいませんでした。

弁護士も先週まで決まっていなかったのですが、昨日の終わりのほうで、やっと菅田将暉クンが弁護士役で登場しました。そして今朝の放送では、福子と弁護士が面会に来ました。が、赤ちゃんはいなかったので、まだあのモニタで見たシーンではありません。もう近々見られるかなぁ、と楽しみにしています。でも、近々かどうかはわかりませんけどね。

そんなことで、話は「今年の漢字」に戻りますが、日本国では「災」、そしてわが家では「転」。そこまで考えたら、「来年の漢字」がふと頭に浮かんできました。来年は、「福」です。幸福の福!

来年の春まで「まんぷく」の福子がテレビで笑顔を見せてくれますし、5月になると新しい元号になります。新しい時代のスタートなので、みんなにとって幸福な1年であってほしいという願いも込めて、来年の漢字は「福」になると予想します。

ほら、言うでしょ。「災い転じて福となす」って。

「災」「転」「福」。だから来年は「福」

ハイ。これが今日のオチです。(なんのこっちゃ)

 

 

 

 

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「あさが来た」再放送と大阪のさまざまな知識

2018年12月14日 | 読書

最近、大阪に関する2冊の本を読んだ。ひとつは本渡章という人の「アベノから日本が見える」。もうひとつは谷川彰英という人の「大阪地理地名地図の謎」という本である。この2冊を読んで、大阪に関して今まで知らなかったさまざまな知識を得ることができた。それにしても、自分が住んでいる大阪なのに、これほどまでに知らないことが多かったとは、いささか忸怩たる思いでした。

★かつて大阪は「大坂」という漢字があてられていた。「大坂夏の陣」と書きますしね。ではなぜ「大坂」が「大阪」の字に変わったのか、というと、

大阪の「阪」の字が土へんの「坂」だと、土に反(か)えるとなり、死に通じてしまうので縁起が悪い。

という考えが庶民の間に広がり、こざとへんの阪と書くようになったそうです。

★難波に千日前という所があります。この千日前という名称は、むかしここに法善寺と竹林寺という寺があって、千日参りが盛んだった。そして両方を千日寺と呼び、ふたつの寺の前にあるから千日前と呼ばれた、とのこと。

★東京は「江戸八百八町」
京都は「京都八百八寺」
大阪は「なにわ八百八橋」と呼ばれるけれど、
橋の数自体は大阪は昔から多くない。東京や京都のほうがはるかに多い。しかし江戸時代、大阪は町人が自分たちで橋を作った。大阪には800弱の橋があるが、東京は3,800、京都が1,300。大阪はかなり少ない。なのになぜ八百八橋なのか?

それは、

大阪の橋はひとつの橋の面積が他の都市より大きい。市域面積に占める橋の面積の割合は大阪は東京の2倍以上、京都や神戸の約10倍。橋一つ一つへの思い入れが違う。というようなことも、書かれていました。

ところで、

江戸時代は「天下の台所」として活気があった大阪ですが、明治の世になって一気に衰退した。その衰退した大阪を復興させた「大阪の恩人」と言われた男がいた。その男の名は、五代友厚(ともあつ)。

え? どこかで聞いた名前やな、と思われる方も多いかと思いますが、それはまたあとで。

彼は大坂証券取引所や商工会議所の先駆けになるものを作り、造幣局も誘致した。大阪のために大いに頑張り、大阪経済を見事に復興させた。明治2年30代なかばで事業家となり49歳で亡くなるまで、大阪のために大いに頑張った。

というようなことも書かれていました。

で、この五代友厚は、3年前の朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じていました。といっても、僕は当時、朝ドラは見ていなかったので、ストーリーはむろん、五代友厚も知りませんでした。なにか「五代ロス」というような言葉が流行語になり、その時初めて「あさが来た」のドラマの話だったことを知ったわけです。

読んでいた本で、大阪の経済復興に大きな業績を残した人物として五代友厚が出てきたとき、それほどの人物だったのかと感慨深かったです。

僕は今「まんぷく」を見ていますが、朝ドラを欠かさず見始めたのは「わろてんか」が初めてで、その後の「半分、青い。」もすべて見て、そして「まんぷく」も面白いなぁ、と思いながら見ています。今さらながらですが、朝ドラファンになったのです。

そんな時、あれは11月の初旬、NHK総合で月~金の午後4時20分から「あさが来た」の再放送が始まりました。1日に2回分放送するので、録画して30分間で2本見ています。

「あさが来た」は、21世紀の朝ドラ史上、最高視聴率を記録したドラマでもあるらしいです(前世紀は「おしん」の視聴率がダントツですから、これを超えるドラマは永遠に出ませんよね)。

物語のほうは、今は主人公のあさが五代友厚の話を聞き、彼の大阪経済復興への熱い思いを知る、というあたりです。

今ごろ3年前の朝ドラについてあれこれ言うのもナンですが、その再放送で、ディーン・フジオカさんを見たことと、僕が本で五代友厚に関することを読んだことが、時期的にちょうどピッタリ重なったので、強い印象を受けたのです。

ちなみに、ドラマの主題歌、AKB48 の「365日の紙飛行機」は、いつかモミィがCDをかけて聴いていたのを覚えています。「あさが来た」の再放送の第1回目を見た時、この歌が出てきたので、これにもビックリでした。でも、毎日聴いているといい歌ですね~。AKB48 と聞いただけで「僕らの世代は付いていかれへん歌や」という先入観も、これで少しは消えました(笑)。

五代友厚のことから朝ドラの話になってしまいましたが、話を戻して、大阪に関する興味深い事実を知ったので、最後にそれに触れます。

先ごろ、2025年の大阪万博開催が決まりましたが、それに関連して、明治時代のことですが

冒頭にご紹介した「アベノから日本が見える」によると、

五代友厚らの努力が実って勢いを取り戻した大阪。1903年(明治36年)に内国勧業国際博覧会(日本初の万博)が天王寺で行われ、大阪経済はますます発展し、一時は東京を上回る人口になった。その博覧会では、自動出閉器(自動ドア)とか、冷蔵庫などが初めて登場したという。

その博覧会の膨大な跡地がどうなったかというと

1912年(明治45年)、跡地の半分に新世界の街がつくられ、さらにそこに通天閣も建てられた。そして、跡地のもう半分が天王寺公園になった。ということでありました。ちなみに通天閣は昭和18年に火事で黒焦げになり取り壊し。昭和31年に今の2代目ができた、とのことです。

新世界と天王寺公園のあの場所で、今でいう万博が明治時代に開催されていたということも、初耳でした。

ウオーキングの際、少しでも大阪の知識があれば面白いだろうな、と思って読んだ2冊ですが、とても興味深く読めました。

話が断片的で、しかもあちこちに飛んで、失礼しました。
かんにんしてね。

 

 

 


 

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朝ドラ 「まんぷく」 あの収録シーンはどこへ?

2018年12月11日 | 日常のいろいろなこと

モミィたちの中学校の理科部が、日曜日に名古屋で行われた「FLL西日本大会」に出場した結果ですが

7位以内に入ったら全国大会に出場できたのですが、残念ながら入れなかったということでした。また来年、ということですね。

  …………………………………………………………………………

さて、朝ドラ「まんぷく」の話ですが、どうも合点が行かないのですね~

今日の放送では、立花萬平たちは塩づくりをやめ、並行して作っていた栄養食品「ダネイホン」の製造・販売に専念することにし、販売拡張のために東京へ進出することを決める

という話でした。まぁ、それはいいのですが

これまでも書いたように、2ヵ月前の10月19日にNHK大阪放送局へ行って、朝ドラ「まんぷく」のスタジオ収録見学をしました。その時、モニタに、いま現在収録中のシーンが映ったことを書きましたよね。それは、どこかの留置所のような所で、金網越しに萬平と妻の福子が向かい合い、福子の腕には小さな子供が抱かれていたという場面でした。

「あぁ、萬平が何かで捕まって、いつかこの夫婦の面会シーンがドラマに出てくるんだな」と思っていたら、12月1日のブログに書いたように、萬平たちが、乗り込んできた進駐軍に銃を向けられ、逮捕された。あぁ、これだ、これだと思ったのです。それで「朝ドラ『まんぷく』あの収録シーンが間もなくというタイトルの記事を書いたわけです。当然、あの面会シーンが放送されると思っていましたから。

で、そのあと3日(月)からの週、つまり先週は萬平たちが進駐軍に逮捕され、留置されている様子が描かれていました。僕がNHKで収録中のモニタを見たあの夫婦の面会シーンも、もうやるだろ、と待ち構えていました。

ところがドラマでは、福子と萬平の面会は許されなかった。う~ん、おかしいな、おかしいな、と思っているうちに、萬平たちの潔白が証明され、今週は捕まっていた萬平と社員たち全員が釈放されて戻ってきたのです。

へぇ? なんだ、それ?

僕が収録の時に見た、萬平と赤ちゃんを抱いた福子との面会シーンは、どこへ行ってしまったのだ? これからは「ダネイホン」を売り込んでいくのが中心に物語は進んでいくのだろうが、じゃあ、あの面会シーンは消えてしまった?

そんなことはないだろうと思うのだけど、しかし、進駐軍に捕まったのに、2人の面会シーンはなかった。

では、ひょっとしたら立花萬平は、さらにもう一回捕まるのかも知れない。かつて憲兵に捕まって拷問を受け、今回はそれに次ぐ2度目の逮捕だったけど、このあとまたまた何かで逮捕され、それであの面会シーンが出てくるのではないだろうか? 

10月の収録のモニタを見ていた時、そばにいたおばさんが、「また捕まったん? よう捕まる人やなぁ」と言っていたけれど、それどころか、今度捕まったら3度目の逮捕だ。

もしそうであれば、ホンマに捕まり過ぎですけどね~

ところで

かすかな記憶だが、その面会のシーンで、赤ちゃんを抱いた福子の隣に、若そうな男性が座っていたような気がする。あれは誰? 弁護士か? あるいは大人になった福子の長男か? いや、福子は赤ちゃんを抱いているのだから、それはないだろう。もしも3度目の逮捕があるとしたら、そんな先のことではないはずだ。

う~む。あれやこれやの想像が浮かんでくるけれど、このままあのシーンが出て来なかったら、

「がっかりぽん」

ですわ。 

*3年前の朝ドラ「あさが来た」の、あさの口癖だった「びっくりぽん」からパクりました。えへへ。

 

 

 

 

 

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モミィ FLL「ロボット大会」で名古屋へ

2018年12月09日 | 日常のいろいろなこと

12月9日。日曜日だというのに、わが家は朝の4時半に妻とモミィが起き、バタバタしていた。僕がいつもどおり5時15分に起きて部屋を出ると、すでにモミィは制服に着替えていた。モミィの荷物が重いので妻がその荷物を自転車に乗せ、一緒に駅まで送って行こうとしている直前だった。

外へ出ると真冬のようで、冷たい風でブルブルっと震える。まだ夜も明けていない中「行ってきます」と2人は家を出た。妻も寒いのにご苦労様なことだ。

今日は、モミィが学校で属するクラブの理科部が「FLL西日本大会」のために名古屋へ行く日だった。FLLとは何か? そう思う方も多くいらっしゃると思う。僕も知らなかった。FLLとは、FIRST LEGO League の略で「レゴのロボット大会」のことだそうである(日本語を聞いてもわからんわ)。 

詳しく説明しているサイトを見つけたので、読んでみると、 

FLLは9歳~16歳の青少年を対象とした世界最大規模の国際的なロボット競技会です。 

というような書き出して、かなり詳しい説明がされています。

FLLは、東日本大会と西日本大会、及び九州大会が12月の各日曜日に行われ、成績優秀なクラブが翌年の2月に行われる全国大会(開催地は東京工業大学)に進むことができる。

モミィの学校の理科部も、去年2月の全国大会に進出し「ベストブース賞」を受賞したということが、理科部のブログに載っています。「ベストブース賞」がどんな賞かは知りませんが

さて、今日の西日本大会はどうなるのでしょうか?

しかし、今もFLLというのがどんな競技かよくわからないし、モミィの説明もちんぷんかんぷんで、何を言っているのかさっぱりわからない。

わかっているのは、行くのが先生1人を含めて10名ということと、今日の午前8時過ぎの新大阪発「のぞみ」に乗って名古屋へ行き、午後7時過ぎに新大阪へ戻ってくる、ということだけです(笑)。

いま午前8時過ぎです。
新幹線に乗ったところかな。


 

 

 

 

 

 

  

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ブログを始めて11年が経ちました

2018年12月07日 | 日常のいろいろなこと

この12月で、ブログを始めて丸11年になりました。編集画面の「記事一覧」のところを見ると、きょうのブログは、1,627回目になるそうです。11年間やってきて「塵も積もれば山となる」とはよく言ったものだと実感しています。

これを始める2年前に、自分にとって最初のブログを立ち上げたのですが(今は削除済み)、後から述べますが、いろいろなことがあり、気分を新たにするためにこのブログを始めました。気まぐれな自分のことですから、たぶん長続きしないだろうと思っていました。そして実際にやめようと思ったことも何度かありましたが、その都度いろんな方々から心温まる励ましのコメントやメールをいただき、今日まで続けることができました。本当に、感謝の気持ちで一杯です。

当初、このブログは「日はまた昇る」というタイトルでした。そもそもこのブログを立ち上げた理由と言うのが、タイトルと関係していまして

この時、つまり11年前の2007年(平成19年)は、8月に近大病院で心房細動のカテーテル手術を受けたのですが、若い医師たちの未熟さからか、失敗に終わり、失意の日々が始まりました。そして多分そのストレスから来たものと思われますが、翌9月に耳鳴りが発症したのです。以来、心房細動は相変わらず出るわ、耳鳴りは24時間ジーンとアタマの奥で大きな音を響かせているわで、それまで人一倍元気だったはずの自分が、一気に谷底に突き落とされたような気分になったのです。

それからというもの、耳鳴りのために夜はろくに眠れず、日中は吐き気やめまいで気分が悪くなったりし、耳鼻科や心療内科、胃腸科、循環器科など、あちらこちらの病院へ行って症状を訴えたのですが、耳鳴りはほとんど相手にしてもらえす、やっとTRT療法というのを始めたのですが、なかなか改善は難しい状態。こうした心身の不快感は、ほとんどの医師からは「神経的なもの」と言われるだけ。仕事に追われながらも、時間があれば、あちこちの病院ばかり行っていました。

そのころから、僕は医者というものをあまり信じなくなりました。
本当に親身になって診てくれる医者っているのか? と思ってます。

8月にカテーテル手術の失敗、9月に耳鳴りの発症と、気分はどん底状態でしたが、何とか集中できるようなものに打ち込めないかと思い、新たなブログを立ち上げたのが11年前の12月だったのです。

で、その「日はまた昇る」というタイトルですが、自分の名前が昇だから、というふうに第一回目の自己紹介の記事には書いていますが、実を言うと、今の落ち込んだ状態が永遠に続くのではないか、という恐れから逃れるためにつけたタイトルでした。

今の気分は夜の暗闇状態だけど、いつかは日は、また必ず昇ってくる。

日はまた昇る

ひたすらそれを信じたい、という祈るような気持でつけたタイトルでした。

それから約4年が経った時、タイトルを昔のブログと同じ「僕のほそ道」に変えて、遊び感覚を取り戻そうという気になりました。4年間で、何とか日がまた昇って来たという意識が、どこかにあったのだと思います。

それ以降、皆さんのお励ましもあり、なんとかブログを続けることができ、今は日課の一つにもなっています。本を読んだり、ウオーキングに出かけたり、ニュースをチェックしたり、昔のことを思い出したりしながら、それらを気の向くまま文章にする、という行為が今はとても楽しいし、さらに、これをどなたかが読んでくださっていると思うと張り合いも出ます。

耳鳴りは、あれから休みなく11年間続いており、相変わらずうるさいし気に障りますが、自分の体の中から出てくるものなので、文句を言って行くところがありませんよね。心房細動(不整脈)も同じで、特に夜中に目が覚めると動悸が乱れている場合が多く、そんなときはごそごそ起き出して薬を飲む、といった生活が今も続いています。というような悩みも、ここに書くことでストレスの解消になっているのは確かですよね。

そんなことで、これからも、このブログは元気でいる限り続けたいです。

  ………………………………………………………………………………

ところで、全然関係ない話ですが、実は昨晩、えらいことが起きました。

寝ていてベッドから落ちたのです。あれだけ激しく落ちたのは初めてです(痛かったわ~!)。そのことを、ちょっと書いておきます。 

僕は耳鳴りのせいか夜も熟睡できなくて、眠りが浅く、毎晩いろいろとわけのわからない夢を見ます。だから寝ていても、起きているのやら寝ているのやらわからんという状態が多いのです。物忘れが激しくなった最近は、目が覚めた瞬間だけどんな夢かを覚えているのですが、10秒ぐらい経ったらもう忘れてしまいます(笑)。 

しかし、昨日の夢はよく覚えています。

どこかの広場で野球をしているのです。僕は外野を守っていて、そこへボールが飛んできました。浅いフライだったので、それを補給しようと全力で走り、グローブを差し出しながらボールに向かって突撃したのです。それはもう、思い切り、全身を激しく揺らせて疾走しました。そこで…

ドターン! とベッドから床に落ちたのです。

ゴン! と頭を打って「いててて!」と、目が覚め、右の肩と右の膝にも痛みを感じました。

あ、夢だったのか? うぅ、ビックリした。しかし痛い。夢の中で全速力で走りながら、実際に体も動いてベッドから飛び出し、落ちてしまったのです。布団も半分だけ、床にズリ落ちていました。

床に横たわったまま、寝ぼけ半分でまず頭は大丈夫なことを確認し、そのあと肩と膝をなでながら、またベッドに這い上がりました。

昨夜はそんなことがあったのです。まったく、何が起きるのやらわかりませんね。

こうしてパソコンを打っている今も、打撲した右の肩が痛いです。

最近、体のいろんなところにトラブルが起こります。幸いにも一過性のものが多いので、まだ救いですが、ベッドから落ちるなんてねぇ。本当にトホホなハプニングでした。

ひょっとして、あれから11年経った今も、まだ日は昇っていないのか? と思ったりしてしまいますわ(笑)。

まぁ、たとえ昇っていなくても、そのうちまた昇るやろ、と思わないとね~

このブログのタイトルも「そのうち日はまた昇るやろ」に変えますか? 

わけのわからんタイトルですけどね。

 

 

 


 

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犬のおまわりさん ♪ で思い出すのは

2018年12月06日 | 思い出すこと

先日、「3年B組金八先生」や「渡る世間は鬼ばかり」に出演していた女優の赤木春恵さんが亡くなり、お別れの会が開かれた様子などがテレビに映し出されていました。94歳ということでした。ご長寿でしたね~

「お別れの会」で「金八先生」の武田鉄矢が「本当にお母さんのようで、やさしい人でした」と話していましたが、武田鉄矢は僕と同じ年なので、赤木春恵さんも僕の母と同世代ということになります。

調べてみると赤木春恵さんは1924年(大正13年)生まれということですが、うちの母は1928年(昭和3年)生まれなので、母が4歳下になります。ということは、母が生きていれば、今年でちょうど90歳なんですね~。

そうか、おかんが生きていたら90なんや、とこのニュースを見ながら、そんなことを思っていました。

さて、その数日後、またひとつ訃報が入りました。

大中恩(おおなかめぐみ)という男性の方なのですが、土田藍(つちだあい)というペンネームの作曲家で、これまた、赤木春恵さんと同じ94歳で亡くなったというニュースでした。

この人はどんな歌を作曲したかと言うと、童謡の「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」という曲なんですが、僕はこの「犬のおまわりさん」という歌に、いまでも忘れられない思い出があるのです。今日はそのことを少し

あれは長男が2歳くらいの時。つまりもう大昔の話になりますが、「犬のおまわりさん」という歌が大好きな子でした。いつもいつも、家の中でも外に出ても、その歌ばかり歌っていました。よほど好きだったんでしょう。

まいごのまいごの こねこちゃん
 あなたのおうちは どこですか
 おうちをきいても わからない
 なまえをきいても わからない
 ニャンニャン ニャニャーン
 ニャンニャン ニャニャーン
 ないてばかりいる こねこちゃん
 いぬのおまわりさん こまってしまって
 ワンワンワンワーン ワンワンワンワーン

僕も妻も耳にタコができるほど、その歌を聞かされ続けてきました。

あるとき、その2歳の長男と1歳の次男を乳母車に乗せて、妻と買い物に出かけたのですが

近所の信号を渡る所でおまわりさんが立っておられました。ふだんは見かけないので珍しいなぁ、何かあったのかな? と思いながら僕が「おまわりさんがいてはるなぁ」と、ふと口に出したら、乳母車の中で立っていた長男がギョロっとこちらを見て、「おまわりさん、いてるのん?」と興奮したように聞いてきました。

ちょうど、おまわりさんのすぐそばを通り過ぎようとしていたところでした。

「うん。この人が、おまわりさんやねんで」と、僕はおまわりさんに聞こえないように、小さな声でそう言ったのですが、その瞬間、2歳の長男は驚くほど大きな声でこう言ったのです。

「あぁ、おまわりさんか? あれは犬かぁ!」

長男は元々声が大きい子だったので、確実におまわりさんの耳に入っていたと思います。おまわりさんは、チラッとこちらを見て、すぐに視線を逸らせましたが、僕は冷や汗をかきました。おい、なんちゅうこと言うねん!

長男は「おまわりさん」と言えば「犬のおまわりさん」しか知らないのですが、警察官にとってみればそんなこと想像もしていないでしょうから、

「あれはイヌか!」

と言われたら、きっといい気分はしませんよね。ドラマで「お前はサツの犬か」なんてセリフがよくあった時代ですからね~

そんなことで、
作曲者の方の訃報と同時に「犬のおまわりさん」と聞くと、遠い遠い昔の出来事を思い出した次第です。

それにしても、あの昔々の「犬のおまわりさん」を作曲された方が、このたび94歳で亡くなられたとはねぇ。

94歳

94歳まで生きるとしたら、僕はまだあと25年もあります。

まあ、僕はそんな長生きするはずがない、というのは、自分の健康状態を知っているだけに分かっていますけど。

でも、赤木春恵さんもこの作曲家さんも、
お二人とも94歳って、すごいですね~

 

 

 

 

 

 

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片山さつき大臣の顔を見ていたら…

2018年12月04日 | ズレズレ草

日産のカルロス・ゴーン前会長の逮捕のニュースの陰に隠れて、最近は片山さつき(59歳)地方創生担当大臣に関する報道が少なくなったことで、ご本人は「やれやれ」と一息ついているところでしょうか。

しかしマスコミ報道がゆるくなったからといって、この人の疑惑が無くなったわけではない。いわゆる「口利き疑惑」について、片山さつきさんは、それを暴露した週刊文春を訴えていたけれど、文春側は徹底的に争う姿勢を示したことが今朝のニュースで報じられていました。勝負はこれからですね。

どちらにしても、皆さんもご存知のように、自分の著書の広告看板に大きな顔写真を入れて目立つ場所に設置し、それが条例違反だったり、あるいは公職選挙法に違反しているのではと指摘されたり、また政治資金収支報告書を何度も訂正したりと、片山サンという人は、いろいろモンダイの多い人なんですよね。

まぁ、今日の記事は、そういう疑惑や何やらを追及するような硬い話ではなく、この片山さつき大臣に関するギャグを披露してみたいと思っています。ギャグですよ、ギャグ。

さて、
以前から、この片山さつきさんの顏が、かなり個性的だなぁ、と思って見ていましたが、最近また頻繁にテレビに映っているのを見て、うちの妻がひと言、
「この人の顏って、あの魔女の顏に似てるわねぇ」
と言ったのでした。

なるほど。「あの魔女」ねぇ。ホントだ、よく似てるわ。

で、「あの魔女」って何なのだ? ということを説明をしますと

2001年(平成13年)に、僕たちはスペインのマドリードとバルセロナに旅行に行きました。本当はニューヨークへ行くところだったのですが、9月11日に同時多発テロ事件が起こり、10月に予定していたニューヨークをやめ、行く先をスペインに変えたといういきさつがありました。

そして、マドリードに数日滞在し、次に行ったのがバルセロナでした。旅も終盤に近づいた頃、カタルーニャ広場の近くの通りを歩いていると1件の小さな雑貨店があったので、ぶらっとそこへ入ってみると、こわ~い魔女の人形がこちらを向いて立っていました。

ガイドブックか何かで、こういう魔女を置いておくと家に災いが起こらない、というのを読んだ記憶があったので「これを買って帰ろう」ということになった。代金は、日本円にして7千円ほどで、けっこう出費だったけれど、何かその魔女の人形に惹かれるところもあったので、自分たちのお土産として買ったのです。

そして、それから17年。うちの「魔女」はず~っとわが家の玄関で睨みをきかせています。これまで大した厄災もなくやってこられたのも、この魔女が守ってくれているおかげかな、な~んて思ったりね~

ところで、その魔女の顏が、片山さつき大臣とそっくりなんです(笑)。ギャグと言うのは、それなんですけどね。

これがわが家の玄関に置いてある「魔女」です。 


 

 
顔をアップにしてみますと… 

  

ということで、これが片山さつきさんと

  

  

似ていませんか? 

わが家の魔女は、家を厄災から守ってくれていますけど、
片山大臣は、ご自身が安倍内閣の厄災そのものになっちゃったりして。

 

 

 

  

 

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朝ドラ「まんぷく」 あの収録シーンが間もなく…

2018年12月01日 | 日常のいろいろなこと

NHK朝ドラの「まんぷく」も、いよいよ目が離せなくなってきましたね。福子の夫・萬平たちの努力で、塩の生産から栄養食品の開発まで、軌道に乗り始めた時、今日(12月1日)の放送では、最後に進駐軍が乗り込んできて萬平たちに銃を向ける、というスリリングなシーンで終わり、また来週ということになりました。

たちばな塩業の建物は元々陸軍の倉庫で、隠されていた手榴弾を社員が見つけ、魚をとるのに使っていたため、疑いをかけられたのだった。

「まんぷく」のホームページの「あらすじ」欄にはそう書かれています。

今朝、このラストシーンを見て僕は「あぁ、これだったか!」と思いました。覚えてくれている方もいらっしゃると思いますが

今からひと月半くらい前の10月19日に、NHK大阪放送局へ行って、朝ドラ「まんぷく」のスタジオ収録見学をしたことを、翌20日のブログに書きました。見学場所のガラス窓からは、壁の陰に隠れて収録場面を直接見ることができなかったのですが、しばらくすると天井にセットされているモニタ画面に、今現在収録中の画面が映りました。

当時のブログにも書いたように、音声はなく映像だけでしたが、そこに萬平役の長谷川博己が映っていました。見学していた人たちは、みんなスタジオから目を離し、そのモニタを覗き込んでいました。

画面では、長谷川博己と、妻の福子を演じる安藤サクラが向かい合っているのですが、2人の間に金網がありました。明らかに、長谷川博己が留置場にいて、妻が面会に来ているシーンだとわかります。そして、安藤サクラは赤ちゃんを抱いている。

「あ、もう赤ちゃんができてるんや」とつぶやく人も。

2人は何かを話しているのですが音声がないのでわからない。でも長谷川博己が、妻が抱いている赤ちゃんの髪の毛を、金網越しに、愛おしそうになでるというところまでの映像が数分間流れたのでした。

当時、ちょうど長谷川博己が憲兵に捕まって拷問を受けるシーンがあった直後なので、モニタを見ているおばさんが、「あれ? ここでもまた捕まってるやんか。よう捕まる人やなぁ」と言っていたのがおかしかったですけど。

その時のブログの最後に、

また、いつかこのシーンがテレビで放映されるのが楽しみです。

と書きましたが、今日の放送が進駐軍に取り囲まれるシーンで終わり、次回は逮捕されるだろうから、きっと来週にあの時モニタで僕が見たシーンが出てくるのでしょうね~

ということは、だいたい1ヵ月半ぐらい前に収録したものが本番で放送されるということですか? 思ったより短い期間のような気がしますが、まぁ、そんなものなんでしょうかね~

 

 


 

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