僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

奇妙な初仕事と中之島図書館

2019年01月31日 | 思い出すこと

大阪は今日は久しぶりに雨が降っています。昼頃から降り始め、いま(夜)も降っています。全国的に、特に関東地方は雨が降らず、乾燥し、川も干上がり、お肌もカサカサ、というニュースが流れていますが、わが家の近くの大和川も水位が極端に下がっています。

なので、これは恵みの雨かなぁと思ったりしています。

さて、今日は1月31日ですね。明日からもう2月です。そして2月はさらに早いです。次に気がつけば、もう3月でっせ~。「早いですね~」。このセリフ、何度書いて来たでしょうか。書いても書いてもまた書いてしまいますわ。「早いですね~」。

今年の3月31日で、僕が仕事を定年退職してから丸10年になります。つまりフリーの身になってもう10年です。これもあっという間でした。

22歳の時から10年前に退職するまでの38年間、大阪府の松原市役所に勤めたわけですが、そこへ就職した当時のことは今も鮮やかに覚えています。

郵送で合格通知をもらい、松原市役所へ行き、同期となる新人職員の中に交じって人事課の人の話を聞き、何日間かの研修がありました。そしていよいよ配属が決まるわけですが、僕が最初に配属されたのは

辞令をもらって、それを見たら「秘書課勤務を命ず」とありました。

はぁ…? 秘書課といえば、市長の秘書? いきなりそんな華やいだ部署に配属とは、まぁよかったんじゃないかな、と思ったりしました。

ところが

案内された部屋は、秘書課秘書係の隣の部屋。誰もいない部屋。隅っこに机が一つあるだけで、あとは会議室のように机が置かれ、壁には本棚があって、なんだかわけのわからないアルバムや冊子のようなものがズラッと並んでいる。その隅っこの一つの机が僕のデスクだったのです。

「ここは何ですか?」と人事課の人に聞けば、「市史編さん室です」という答えが返って来ました。まだ職員は誰もおらず、どうやら新人の僕が「初代」の担当職員のようでした

「なに、これ?」と思いながら聞いていると、この度「松原市史」というものを刊行することになったという。

市内に住む元庄屋さんとか旧家とかに残っていた昔の古文書をお借りして、そういう文字を読み解いて普通の字に書き移す専門的知識のある嘱託職員が1人か2人、おられた。そして時々、市史を執筆する何人かの大学教授がこの部屋を訪れた。僕はその先生たちのお手伝いをする、という役割だった。そんなふうにして「松原市史」を作って行くみたいだった。でも、こんなのが市役所の仕事かいな? と正直、思いましたね~

僕の上司である秘書課長は、市史編さん室の部屋の隣にある秘書課で忙しく仕事をしており、僕にはほとんど目もくれなかった。つまり「市史編さん室」というのは、ほかの秘書課職員からはほぼ無視されている部署であることが、日を追うにつれ、だんだんわかってきた。つまり、秘書課としては「仲間外れ」みたいな部署だったってわけですね。

そんな時、僕が命じられたのは、大阪府立中之島図書館に通うことであった。いったい、何をするために中之島図書館へ? と思いますよね。それは、こういうことでした。

中之島図書館の閲覧室で、明治時代に創刊された新聞を順に目を通し、その中の松原と周辺の河内地方に関する記事をピックアップし、コピーをするのです。それが「松原市史」の材料になるという。新聞には「松原」なんてほとんど出てこないから、とにかく「河内」という言葉が新聞に出ていたら、そこをコピーして集めなさい、という大学教授の指示だった。たとえば「河内木綿、今年は豊作」といったような記事を見つけたら、それをチェックし、後でコピーするのです。

そんなことで、市役所に就職してから最初の半年間以上は、特別な日を除き、ほとんど市役所へは出勤せず、直接、朝から中之島の図書館へ行き、夕方まで新聞を閲覧する日が続いたのです。なんだかねぇ。

いったい僕は、どこへ就職したんや? と、情けない思いもしたし、同期の職員からは「おまえは何の仕事しとんねん。ヘンやなぁ」などとからかわれたりした。まだ結婚して間もなかった頃で、妻にも、どれだけ仕事の愚痴をこぼしたことだろうか?

でも、そんなことだから、逆に図書館の館長さんとは懇意になったりもした。顏が合うと「昨日は来なかったね~」などと笑顔で言ってくれたりした(今もその笑顔が思い浮かびます)。

市役所に入って、市民課とか、福祉課とか、税務課とか、そんな仕事に就くものとばかり思っていたので、まさかこんな仕事に回されるとは、思いも寄らないことでした。

まぁ、過ぎ去ってみれば懐かしい話ですけどね~。
もう
今から数えたら48年も前のことになります。

ところで、
そういう過去があった、ということを踏まえての話ですが

去年の12月18日に、「あさが来た」に登場する五代友厚の像などを見学するために、久しぶりに中之島を歩いたことをブログに書きました。中之島を通り過ぎたところに五代友厚像があったのですが、その中之島を歩いた時、「懐かしの図書館」の前を通りました。

48年前、毎日のように仕事で通った中之島図書館です。この前を通ると、当時を思い出さずにはいられません。


 
12月に、中之島のこのコースを歩きました。 


 
中之島図書館の正面からの写真(2枚とも去年12月18日に撮影)

 …………………………………………………………………………

当時、図書館で明治時代からの新聞を読んでチェックしていたのですが、その新聞はおそらく朝日新聞だったのでしょうね。でもその新聞は明治のいつごろから発行されていたんやろ? 僕は中之島の図書館で、いつごろからの朝日新聞を読んでいたのやろ? そういうことは、今思い出そうと思っても、すっかり忘れてしまってます。 

そんな折、この25日の朝日新聞を見てビックリしました。

その日の朝日新聞の1面に

「朝日新聞 きょう創刊140周年」

という記事がありました。1879年、明治12年に創刊、それも大阪です(東京での創刊はその数年後でした)。

げぇぇぇ~~~

今年の1月25日が朝日新聞創刊140周年だったとはね~


   
   1月25日の朝日新聞朝刊から

ということは、僕が48年前に中之島図書館で読んでいた明治時代からの新聞は、1879年(明治12年)からの新聞だったことになりますね~

へぇ~~。そうやったんや。

今は昔の物語ですが、48年を経て、こういう記事を見ると、やはり何だか懐かしさで涙が出そうになりますね~

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三つ子の魂 百まで!

2019年01月29日 | ズレズレ草

テレビはもっぱら「嵐」が来年末で活動休止するという話題で持ち切りですね。テニスの大坂なおみも少し影が薄くなった感じです。さらに大相撲初場所で優勝した玉鷲などは、ちょろっと映るだけで、まあ、気の毒と言えば気の毒ですね~

さて、今や英雄となった大坂なおみのインタビューでの受け答えは「なおみ節」と呼ばれ、天真爛漫で飾らないところが聞いていて楽しいですね。

今回の全豪オープンが始まる前の会見では、「私は精神面で3歳児のようなところがある。人間的に成熟することが最大の目標だわ」と言った。

そして優勝したあと、インタビュアーから「大会を通じてメンタル面の成長はどうでしたか?」と聞かれると、なおみチャンはこう言った。
「1歳くらい成長したかな。4歳ね。おめでとう、わたし」

微笑ましいエピソードとして報道されていましたよね。

しかし僕は、ここはもう少しヒネって、こんな答えをしたら面白かっただろうな~と勝手なことを想像しました。

つまり、こんな感じです…

インタビュアーが、
「なおみさん、大会前は精神面で3歳児のようなところがあると言われていましたが、大会を通じてメンタル面の成長はどうでしたか?」

という質問に、なおみチャンがこう答えるのです。

「今も3歳ですね。まだまだ3歳のままです」
「えぇっ? いつまで3歳なんでしょうか?」とインタビュアー。
「そうですね、ず~っず~っと3歳です」
「ず~っと3歳? 具体的には何歳ぐらいまで?」
「百歳です」
「ぎゃっ…?? 百歳までメンタルは3歳?」

そこで、なおみチャンは、こう言うのです。

「よく言うじゃないですか。『三つ子の魂、百まで』って

が~~~~~ん!    

「三つ子の魂百まで」ということわざは、皆さんご存知のとおり「3歳の頃の性質は老年まで変わらない」という意味です。双子・三つ子の三つ子ではありませんよ(わかってるわ!)。

僕はなおみチャンが大会前に「精神的には3歳」と言ったのは、そのメンタルの弱さをず~っと(それこそ百歳まで)持ち続けるのよ、という一種の自虐というか、ジョークを飛ばしたのかな? とチラッと思ったのですが、残念ながら違いましたね。メチャ考えすぎでしたわ。

さて、この「三つ子の魂、百まで」を「三つ子の魂、いつまでも」とか「三つ子の魂、三つまで」な~んて間違える人もいるそうです。ことわざも、だんだん日常で使われなくなり、影が薄くなってきたんでしょうかね~

ことわざやカルタと言えば、子どもたちの「珍答」には笑います。

例を挙げると、こんな感じです。

犬も歩けば…くたびれもうけ
仏作って…墓、作らん
立つ鳥…足がじょうぶ
火のないところに…火を持って行くな
能あるタカは…飛んで行く
雨降って…洪水おこる
(受験生は)花より…単語

というような面白い間違いを新聞や本で目にしました。

面白い話と言えば、以前読んだ本にこんなのがありました。

「オートバックスでカフェテラを注文したんや」
(スターバックスでカフェラテやろ)

「いま、オロナインCを飲んできたよ」
(オロナミンCやろ。オロナインは軟膏やで~)

また、僕がこの種の話で思わず噴き出したのは、こんなやりとりです。

「お名前はどういう字をお書きになります?」と問いかけられた鈴木英子さんという女性が、こう答えました。
「英語のエイにこどもの子です」と。
するとある日、「鈴木A子様」と書かれた郵便物が届いたそうです。
うふっ。ほんまかいな。

また、同じような話ですが、「アキコさんって、どんな字を書くの?」と聞かれた晶子さんが、漢字を説明するのに「日3つです」と言ったら相手は「なんで秘密にするのよぉ!」と怒ったとか。

まぁ、今夜はそんな話ですわ。まとまりのない話でした。
(飲みすぎちゃうん?)。

大変失礼いたしました。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂なおみ優勝! でもテニス用語は難しい?

2019年01月27日 | スポーツの話題

 
 今日の朝刊。大坂選手の記事が1面を全部占めています。


僕はテニスの試合のテレビ中継というのは、ニュースやダイジェストなどでは見るけれど、生中継で1試合全部を片時も目を離さずに見続けるというのは、昔はともかく、ここ数十年はまったくなかった。(ま、その昔の記憶もほとんど頭から消えているんですけどね)

それが、24日に行われた全豪オープン女子準決勝に大坂なおみ選手が出た試合は、最初から最後まで見続けた。そして大坂選手が勝って決勝進出を決めたこの中継を見ながら、自分があまりにもテニスのルールを知らなさ過ぎることを、イヤというほど感じさせられたのです。

yukariさんもコメントの中で「なんだか点数の数え方がわかりません」と書かれていましたが、僕も同じで、準決勝の時は、画面左に出ているスコアというか、数字の意味がよく理解できませんでした。

「セット」と「ゲーム」の意味も分からなかったんですもんね。

まぁ、見ているうちにだんだんと分かるようになり、1ポイント取るごとに、15、30、40と数え、もう1ポイント取るとそれで1ゲーム終わり。お互いに3ポイント(40)ずつとなると「デュース」となり、2ポイント差をつけた方がゲームを取る。デュースの際に、どちらかが1ポイントリードしていることをアドバンテージと呼ぶ。通常は6ゲームを取ると1セットを取ったことになる。

な~んてことも最初は知らないまま「にわか大坂なおみファン」の僕は、準決勝で彼女に声援を送っていたのですが、1試合見て、少しだけルールがわかるようになりました。

そして迎えた昨日の決勝戦。まさに手に汗を握る熱戦でしたね。大坂選手が第1セット(さっそく覚えたての言葉を使う!)を大接戦の末に取り、第2セットに入っても連続ポイントを重ねて優勝目前となったところ、相手の猛反撃を受けて大逆転を許し、このセットを取られてしまう。土曜日の夕方から夜にかけての時間帯だったので、日本中の多くの人が、手に汗を握りながら見ておられたことと思います。たぶん、今週のTV視聴率では断然トップになることは間違いないでしょうね。

中継したアナウンサーも、さすがNHKだけあって落ち着いていました。これが民放なら、アナも解説者もギャァギャァと自分たちだけで盛り上がって、特に解説者は「行けぇ!」とか「よぉし!」とか「やったぁ!」とか大騒ぎをし、視聴者がシラケてしまう場合がよくありますからね~

そして第3セットは大坂なおみ選手が取って、見事に優勝。
ぱちぱちぱち。

準決勝、決勝と2試合をじっくり見て、テニスの点数の数え方やルールなどが、少しはわかってきましたが、それでもまだまだややこしいですね。なにせ、にわかファンなものですから用語も難しいです。

「ダブルフーォルトです」
「サービスエースです」
「リターンエースです」
「ブレークです」

など、最初は何のことやら???

でも、とにかく大坂なおみ選手が勝ってよかったですね。しかも、世界ランク1位ですよ。あの愛嬌たっぷりの可愛い21歳の女の子がねぇ。

ところで昨晩は、相手のチェコのクビトバ選手の顏が夢に出てきて、ビックリして目が覚めました(笑)。テレビで何度もクビトバ選手の鋭い表情がアップされていましたが、実に迫力ありましたね~。それが僕の脳裏に刻み込まれていたのでしょうか? そのせいか、今朝は4時過ぎに目が覚めて、眠れず、そのまま起きて、早朝からこのブログを打っています。

でも、クビトバ選手も精悍で、何度も苦境に立たされながらも粘り強く頑張っていましたよね。実況アナの話によると、彼女は  2016年の12月といえば今から2年少し前ですよね。信じられないことに、自宅に押しかけた強盗に襲われたそうです。その際、刃物で利き手である左手を切られ、神経と腱を損傷という重傷を負ったとのこと。そんな悲惨な事件を克服して、ここまで復帰してきたのだから、並みの精神力じゃありませんね。夢にまで出てきたほどの強烈な印象を持ったクビトバ選手は、28歳のベテランですが、今後も変わらぬ活躍を期待します。

とにかく昨日は、本当に、いい試合を見せてもらいました。

今日と明日の月曜日は、朝から晩まで、どこのチャンネルでも、この話題ばっかりでしょうね。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際ロマンス詐欺やら小室圭さんやら大坂なおみ選手やら

2019年01月24日 | ニュース・時事

それにしても、毎日毎日いろんなニュースがありますね~

「国際ロマンス詐欺」ってあるんですね。海外からインターネット上の交流サイトなどで知り合った相手を言葉巧みにだまして、恋人や結婚相手になったかのように振る舞い、金銭を送金させる振り込め詐欺の一種なんだそうです。今回、ナイジェリアやカメルーンのアフリカ人たち4人が、何人かの日本人女性からその手口で金銭をだまし取ったとして逮捕されました。いずれも、直接会ったことは一度もなかったというから、お金をだまし取られた日本人女性たちもねぇ。まぁ、被害を受けられたのだから、それ以上のことは言えませんけど

ところで、これを「国際ロマンス詐欺」と呼んでいるわけですけど「ロマンス」という言葉をこういうところで使うかなぁ?と、少し違和感を覚えます。「ロマンス」と「詐欺」という組み合わせですがどうみても二つは融合しないような。それより「外国人ネット詐欺」のほうがわかりやすくないっすか?

え~っと、それと、本日発売の週刊文春・週刊新潮の広告を見ると、いずれもトップ記事で眞子さまのお相手である小室圭さんに関する問題を扱っています。

小室さんの母親が元婚約者から400万円を借りたまま返さない、という話が発端で、順調に行くはずだったお2人の婚約が凍結されたままでしたが、今回、小室さんが「借金問題は解決済み」という文書を独断で発表し、一方、母親の元婚約者は「ウソだ。解決していない!」と怒りをあらわにしているということで、さらに混迷が深まっているようです。

いずれも、小室さんにとってはマイナスになる話ばかりです。

小室圭さんといえば、あの超人気ミュージシャンだった小室哲哉さんと、かつて多くの名曲を生んだ小椋さんを足して2で割ったようなお名前で、しかもイケメンで芸能人みたいですよね。

しかし、彼のお母さんが借金を返さないとか、いや解決済みだとか、何やかやと揉め事を残したまま、眞子さまが小室さんと結婚されても、この先、何だか不幸なことが起こりそうな気がします。父の秋篠宮さまと母の紀子さまのご心配はいかばかりかとお察しするところです。

もし、小室さんと皇族だった眞子さまが結婚されても、うまくいかなかった場合、最悪の結果として離婚はできるのか? ということについて、ある専門家が話していたことですが

離婚はできる、ということです。これは、わかりますよね。誰が考えても当たり前のことです。しかし、その後に問題があるのです。

離婚すればふつう、女性は旧姓に戻りますよね。しかし天皇家には名字はありません。旧姓なし、なんですわ。と言って一度皇族を離れると、二度と戻ることはできないという決まりになっているそうです。つまり「実家」に帰ることもできないんです。

名字もなし。実家にも帰れない。どうすればいいんでしょうね?

きっと父の秋篠宮さまと母の紀子さまは、そういうことも念頭に置かれ、最終的には眞子さまが小室家に嫁ぐことはお許しにならないだろうと思います。

ま「傷は浅いうちに」という言葉もありますので、早いほうがいいですわ。

それと、テレビや雑誌でこれだけ小室家についていろいろ書かれたら、皇室関係や宮内庁も、もう今のまま放置しておけないでしょうしね~

 ……………………………………………………………………………………………

さて、また話が変わりますが、今日の午後、テニスの4大大会・全豪オープン女子で、準決勝まで進んだ大坂なおみが出るというので、試合のテレビ中継を見ました。

ふつう、アメリカやヨーロッパでやる時は時差の関係で、日本時間の夜中、というのが多く、テレビを見るのも大変なのですが、オーストラリアは日本と緯度が変わらないので、時差も1~2時間しかなく、ほとんど現地と同じくらいの時間に中継があるので、夜に弱い僕も、今日は「余裕で」テレビを見ることができました。

試合はハラハラドキドキする展開の末、大坂なおみが勝ったので「やった~」。次はいよいよ決勝戦で、26日の土曜日に行われます。土曜日だからお仕事が休みの方も多いので、しっかり見られますよね。楽しみですね~。大坂なおみさんは大阪の人なので、僕も余計に応援してしまいます。

さてスポーツ中継と言えば、今日はこのあと、サッカーアジアカップ準々決勝、日本・ベトナム戦がありますが、午後10時に試合開始なので、終わるのは午前零時ごろになりそうです。夜に強い人にはちょうどいい時刻でしょうけど、僕は最後まで見るのは、たぶん無理です。

今朝も5時15分に起きて、昼寝もしていないので、今、まだ午後8時前なのに、そろそろ眠くなってきています。とても午後10時からの試合を真夜中まで見る体力・気力は残っていません。とほほ。

では皆さん、少し早いですが、おやすみなさ~い。

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三浦雄一郎さんと心房細動(不整脈)

2019年01月22日 | 心と体と健康と

プロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、86歳という高齢で南米大陸最高峰アコンカグア(標高6,961メートル)の登頂とスキー滑降をめざしていたが、現地時間の20日に登頂を断念したと報じられました。残念なことですが、チームドクターとして同行していた医師に「これ以上は事故の可能性が大きい」と説得されてあきらめた、ということでした。

三浦さんについては何度か書いてきましたが、一番最近では2013年5月のブログでした。この時は80歳だった三浦さんが、エベレスト登頂に挑戦し、見事に頂上にたどりついたニュースに興奮し、拍手を送りました。

その前に書いたのは三浦さんが75歳の時で、エベレスト登頂を成し遂げたわけですが、まさか80歳でまたエベレストへとは思いもしませんでした。

それなのに、今度はなんとまぁ86歳で南米で最高峰の山へチャレンジしたというのですから驚きです。

三浦さんには、心房細動(不整脈)の持病があります。僕も心房細動で10年以上病院へ通い続け、薬を飲んでいる身ですから、三浦さんの冒険にはいつも「心房細動は大丈夫だろうか?」と心配するのです。

心房細動というのは薬では完治しません。で、カテーテル・アブレーションという手術を受けると大体は完治すると言われています。ところが、僕も2007年(平成19年)の夏、ある大学病院に入院してカテーテル手術を受けたのですが、手術中に「不都合が起きた」(当時の担当医師の説明)とのことで途中で中止となり、結局何の得るところもなく退院するという悔しい思いをしたことがあります。それに懲りているので、今でも医師はカテーテル手術を勧めてくれるのだけど、断っています。

ところで、三浦雄一郎さんは心房細動のカテーテル手術をこれまで数回受けている、ということです。ということは、1回あるいは2回手術しても再発しているんですよね。やはり、カテーテル手術が成功しても「100パーセント完治」ではないのでしょう。そして三浦さんは心房細動の持病を抱えたまま75歳、そして80歳と、エベレスト登頂を果たしているのだから、う~ん、それはすごいなぁ、と感嘆したわけです。

まあ、常に医師が同行していたら、たとえ登山中に心房細動が出ても何らかの応急処置で治療してもらえるんでしょうけどね。

その三浦さんが、86歳と言う高齢でチャレンジした今回は、残念ながら医師の判断で途中離脱。ヘリコプターで下山ということになりました。

同行した医師の話では、三浦さんの血圧が高くなり、持病の不整脈(心房細動)が出始めたという。「不整脈自体は管理できるが、不整脈が出始めたということは、心臓への負担が強まってきたということ。そこからさらに標高を上げると、心臓への負担がかかって心停止を起こす恐れもある」と医師が判断したということです。心停止心不全。

不整脈から心不全へ、そして死。それも突然死。

僕自身、最近、何となくこの不吉な構図が気になっているところです。三浦さんのこの記事を読めば、やはり心房細動が出ると心臓への負担が強まり、心不全につながるもので、ホント怖いな、と思いました。

それでも三浦さんは「90歳でエベレスト」と言っているそうです。その言葉が、今朝の新聞の見出しにもなっていました。


  

いやまぁ、あきれるほどすごい方ですわ。三浦雄一郎さん!

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成の30年間で最も好きだったドラマは

2019年01月20日 | 映画の話やTVの話など

元日の新聞の記事の中に、「平成ドラマ視聴率」という特集がありました。

この30年間で、視聴率の高かったドラマを、ランキング形式で紹介していました。(NHKの朝ドラと大河ドラマは除かれています)

記事によると、平成元年(1989年)から10年(1998年)までの人気ドラマ。平成11年(1999年)から20年(2008年)までの人気ドラマ。そして平成21年(2009年)から平成30年(2018年)までの人気ドラマと、3つに分けられていました。

それを見ると

まず、平成元年(1989年)から平成10年(1998年)までの10年間の人気ドラマの第1位は「ひとつ屋根の下」でした。あとは「家なき子」とか「ロングバケーション」「渡る世間は鬼ばかり」「GTO」「101回目のプロポーズ」などが続いています。これを見ると「GTO」は1998年(平成10年)に第1回目が始まっているのですね~

次は平成11年(1999年)から平成20年(2008年)までの10年間。
1位は木村拓哉と常盤貴子が主演した「ビューティフルライフ」。ほかは「ごくせん」や「古畑任三郎」「やまとなでしこ」「HERO」などがありました。

最後に平成21年(2009年)から平成30年(2018年)11月まで。
1位は「半沢直樹」。まだ記憶に新しいですね。そのあと「家政婦のミタ」「ドクターX」「JIN」などが入っていました。

こうして見ていったら、「あ、そんなドラマもあったっけ」と思い出すものから、今も鮮やかに記憶に残っている大好きだったドラマまで、いろんなのがありますね~

ちなみに「ロングバケーション」と「ビューティフルライフ」はいずれも北川悦吏子さんの脚本で、最近では朝ドラ「半分、青い。」の脚本も手掛けられています。すごい方だなぁ、と思いますね~

僕は特にドラマ好きというほどでもないのですが、それでも妻が好きなので、「何となく」から「熱心に」まで、興味の度合いは違っても、ちょこちょこと見ています。そんなことですから、平成の30年間の人気ドラマを目にしたら、いろいろとよみがえってきますよね。

そこで(エッヘン!)僕が平成の30年間で大好きだったドラマをあげるとしたら、次のようになります。

1に「古畑」
2に「ロンバケ」

3、4がなくて
5に「半沢」

ということになるでしょうか(笑)。

1位は「古畑」にするか「ロンバケ」にするか迷いました。どちらもテレビ画面にくぎ付けにされたドラマですからね。

でも、やはり「古畑任三郎」でしょうか。

今のブログを始める前に、別のブログをしていたのですが、そのブログのプロフィール欄には、今のように本物の自分の写真ではなく、こんなのを出していました。


     

古畑任三郎のシルエットです。


で、その下の「自己紹介」では、こんなことを書いています。

性別 男性
都道府県 大阪府
職業は探偵です。もつれた謎を解きます。
もつれた問題でお悩みの方はご相談ください。 
というのはウソです。普通の勤め人です(笑)。
この「似顔絵」は、たまごさんに描いていただきました。
(たまごさんとは、当時のブログ仲間で北海道在住の方です)

まぁ、それほど古畑任三郎が好きだったという証拠でもあります。
もう、こんな面白いドラマって、二度と出てこないのでしょうか?

脚本を書かれた三谷幸喜さん。
また夢中で見てしまうようなチョー面白いドラマを頼みまっせ~

 

 

 

 

 

コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阪神・淡路大震災から24年

2019年01月17日 | ニュース・時事

今朝もいつものように起きて、5時20分過ぎにMBSテレビをつけたら、25分から始まるはずの「朝チャン」はやらず、特別番組が始まりました。 

今日、1月17日は、6434人の命を奪った阪神・淡路大震災が起きた日で、その追悼番組でした。

5時46分に黙とう。僕も、テレビの前で頭を下げました。あれから24年が経ったのですね。テレビは、神戸市中央区の東遊園地というところからの中継でした。 

今年の言葉は「つなぐ」でした。あの震災の記憶をつないでいく。そういう思いが込められた言葉なのでしょう。僕もこのブログで、ほぼ毎年この日は、震災に関する記事を続けてきました。記憶を「つなぐ」ということの大切さを、この日を迎えるたびに、しみじみと感じるのです。

また、特に去年の6月には大阪北部で観測史上最大の地震が起きたこともあり、改めて地震の恐ろしさを身近に感じているところです。


 
今朝の朝日新聞1面。隣に稀勢の里の引退記事も。

 ………………………………………………………………………

“あの日”は、大阪に住む僕にとっても、忘れられない日でした。1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に震災は起きたのですが15日(日)が華やかな成人の日で、16日(月)は振り替え休日でした。まだ成人の日が1月15日だった時代で、翌日がその振り替え休日だったのです。

そして次の17日の火曜日は3連休も終わり、
「さあ、また仕事に戻らなければ」
という日でもありました。

午前5時46分のことなので、僕はまだ寝ていたわけですが。

グラッと揺れを感じて目が覚めるとすぐ異常に気がついた。「あっ」と思っているうちに、ガタガタガタっと天井や壁が揺れ出し、大きな地震をあまり経験したことのない僕や妻は何をどうしていいのかわからず、ただ布団にうつぶせて揺れが収まるのを待つばかりだった。ひたすら布団の中で身を硬くし「早く止まってくれ」と念じていた。2階のキッチンで、ガチャンガチャンと食器などが落ちている音がした。 

 ようやく揺れが収まり、NHKテレビをつけると、臨時ニュースで、早くもこの地震を報じていた。NHKの屋上のカメラから、まだ真っ暗な神戸の街の生の映像が流されていた。これで、地震の中心が神戸だったことを知ったのです。

 TVのスタジオにいた記者は、
「外に出てみましたが、今のところ大きな被害は出ていないようです」
そう伝えたのです。

街はまだ真っ暗だったし、火事も起きていなかったから、記者も状況をつかめなかったのだろうか。

ともかくそれを聞いた 僕は、ホッとしてテレビを消した。
「あぁ、大したことなかったんだ。しかし、すごく揺れたな」
台所で床に落ちた食器類を妻と2人で片付けて、僕はそのまま、朝のジョギングに出ました。そのあと、いつものように自転車に乗り、勤務先へ。だから地震の続報はまだ知らなかったのです。

仕事中にはもちろんテレビは見ていません。まさかこれほどの大災害であったとは、仕事をしている間は夢にも思いませんでした。しかし、昼休みにロビーでチラッとテレビを見ると、かなりの被害が出ているようでした。それでも、詳細は知りませんでした。

そして帰宅して妻から「ものすごく被害が出ているよ」と教えられ、初めて事態の大きさを知りました。ニュースを見ると、街中が炎に包まれたり、高速道路が崩れ落ちたり、信じられないような惨状でした。


その1月17日から同25日までの新聞を手元に残しています。

 地震があったその日の夕刊で報じられた死者は333人。それが翌日の朝刊では、「死者1590人・不明1017人」となっていました。その後、新聞が配達されるたびに、死者の数が増えて行ったのです。

 
  
   1995年1月17日(地震当日)の夕刊  

 

  
  同じ1月17日夕刊の社会面。
  高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもあった。

 

  
  翌18日(水)朝刊。
  地震発生後、燃え続ける神戸市街。


 
  その日の夕刊。
  家が倒れ、焼け野原になった神戸



 
 1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきた。
 写真では活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びていた。

 
  同19日夕刊。
  19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生した。
  (写真は、煙に包まれる高層ビル)
  救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先した。
  生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
  それらを地元住民の手で行なった地域も少なくなかったという。

  
 
  1月20日(金)の朝刊。
  写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
  この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたという。
  新幹線の新大阪~京都間はこの日から運転が再開された。


 
  1月21日(土)朝刊。
  当初、震度6と発表されていたが、気象庁の詳しい調べで、
  神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定された。
  昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
  震度7が確認されたのは観測史上初めてとのことだった。
  (2011年の東日本大震災の時の宮城県も震度7だった)

 
 
  1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
  死者はついに5,000人を超えたと報じられた。



阪神・淡路大震災で命を失われた方々の数は、最終的には6434人となりました。

 改めて追悼の意を表し、心より犠牲者の方々の御冥福をお祈り致します。

 

2019年1月17日。午前7時30分。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

純烈、NGT48、市原悦子、菅田将暉、あさが来た…

2019年01月15日 | 映画の話やTVの話など

今日のタイトルは、タイトルというよりも「ただ単に並べているだけ」ですよね。今日の記事の内容をわかってもらうためにはどんなタイトルがいいのか?と、いくら考えても浮かばなくて、こんな題になっちゃいました(笑)。

まあ、ひとことで言えば最近のテレビのお話でございます。

さて、
3連休も終わり、またモミィの学校も始まったので、今朝は5時15分に目覚ましが鳴り、20分ぐらいにキッチンへ降りてきてテレビとストーブをつけ、ニュースを見ながら弁当のおかずを作る、という平日のパターンが戻ってきました。テレビは5時25分から始まる「あさチャン」をつけることにしています。朝のニュース番組の中では、テンポよくいろんなニュースが流れ、ほかの局よりもキャスターたちの「お遊び」の部分が少ないし、司会の夏目三久さんの清楚で滑らかな進行ぶりと的確なコメントも好きなので、いつも見ているわけです。

そして1日が始まり、いろんな局の情報番組を見ると、大半は早朝の「あさチャン」で見たニュースばかり。要するに、どのチャンネルも同じようなことしかやらないのですよね(ま、当然の話ですけど)。で、最近はこの種の番組はなるべくつけないようにしているのですが、お昼はどこでもやっているので、ついつい見てしまったりね~

ここ数日、芸能関係では、まず「純烈」の友井雄亮とかいうメンバーが女性に対するDVや、同時期に交際していた別の女性から3000万円の使い込みをしたことなどが大きく報じられましたが、僕は紅白に出るまで「純烈」って知らなかった。スーパー銭湯などを舞台に活動を続けてきたそうで、この事件を機に、おばさんたちがキャアキャア騒いで大声援を送っている過去の映像が何度も流されていた。この友井雄亮という人は、謝罪会見を見ていても、確かに男前でいかにもおばさんたちにはモテそうです。せっかく苦労して紅白までこぎつけたイケメンやのに、そのとたんに引退とは、ホンマもったいない。でも自業自得やもんね。今になっていくら後悔してもねぇ。「後悔先に立たず」ですわ。アホやなぁ

それと、NGT48というグループ(これも知らなかったけど)の山口真帆という女の子が、去年12月に自宅マンションの玄関先で2人の男から顔をつかんで押されるなどの被害を受けたという事件も連日大きく報じられています。しかも本人がツイッターで「あるメンバーが(犯人に)帰宅時間を教え、あるメンバーが家、部屋を教え、またあるメンバーは私の家に行けと犯人をそそのかしていました」と指摘したことでまた騒ぎが大きくなり、所属事務所の対応がいい加減だったことを、どの番組でも非難していた。ネットでは、今、メンバーの誰と誰が犯人に情報を伝えたのだ! という「犯人捜し」で大騒ぎだそうですわ。

そして昨日は、朝も昼も、ず~っと市原悦子さんが亡くなったニュース。特に「家政婦は見た」シリーズを放映したテレビ朝日では、お昼前後の番組で市原悦子特集を組んでいた。その朝、「あさチャン」になぜか長嶋一茂が出ており、夏目三久さんから感想を求められた時、市原さんはいい女優さんだったとか何とかムニャムニャ言ったあと、市原悦子が声優をつとめた人気番組に触れ、「あの『日本隠し話』なんか、とてもよかったですからね」と真顔で言ってた。「まんが日本昔ばなし」のことを「日本隠し話」だって。笑いますわ。

人気者が悪事を働いたり、被害を受けたり、亡くなったりと、芸能ニュースのネタは尽きませんが、僕も結構ミーハーなので、最初は「おっ?」と思って熱心に見るのですが、同じ話、同じ映像が何度も、あちこちのチャンネルで繰り返されると、すぐに飽きますよね。

その点、ドラマや映画は同じことを繰り返さないので面白いですね。当たり前ですけど(笑)。

そのドラマで、妻が「これ、録画しているけど、面白いよ」と教えてくれたのが、菅田将暉が主演の、

3年A組  ~今から皆さんは、人質です~

というドラマ。ある私立高校での、狂気に満ちた教師(菅田)と、彼に翻弄される生徒たちの話だけど、最初はあまりに荒唐無稽なので「えぇ?こんなんが面白いの?」と妻に言ったりしながらも、見ているうちついつい引き込まれていった次第。そのうえ「半分、青い。」のスズメちゃんを演じた永野芽郁も出ていたのでね~(ファンです)。

毎週日曜日の夜に放送されているのですが、僕は昨日の月曜日の夜、ビールを飲みながら今回の第2話を録画で見始めると、モミィが来てテレビを見た瞬間、「あ、私もこれ見るわ」と言って、一緒に見ました。モミィの友だちの間で、このドラマが評判になっているので、見ておかなければ会話に入れないそうです。

それにしても、菅田将暉という俳優さんは、相当な演技力を持っているんですね。ついこの間も、2年半前に公開された映画「セトウツミ」というのがテレビで放映され、これも妻に「面白いよ」と促されて録画で見たけれど、なんとまぁ、映画の大半が2人の高校生の会話だけで構成されているのですが、そのやりとりがメチャ面白いので感心しました。そこでも菅田将暉の演技が半端じゃないんですよね。「まんぷく」では誠実な弁護士役をこなしていましたし、この「セトウツミ」は不良っぽい高校生、そして今度のドラマはまさに狂気の教師のド迫力に、見ていて思わず引いてしまいます。

いろいろ見始めると、面白いドラマも多いですね~

さて、ドラマと言えば朝ドラですが、「まんぷく」も毎回、次はどうなるのかとハラハラしっぱなし。それにしても、1回15分だから、あっという間ですね~

もうひとつ、毎日楽しみに見ている朝ドラ、いつかここにも書きましたが「あさが来た」の再放送です。月曜日から金曜日の午後4時20分から50分まで、1日2本ずつ放映してくれるので、「まんぷく」の2倍の30分間のお楽しみです。で、話もいよいよ面白くなってきたのですが

13日の日曜から大相撲初場所が始まりました。相撲中継がその時間帯にかぶるため、「あさが来た」はその期間中お休み。大相撲は15日間あるので2週間お休みということになり、11日(金)の放送を最後に、次は28日の月曜日まで見ることができません。これは淋しいですね~

大相撲も昔は大好きだったけれど、近年はモンゴル勢ばかりであまり面白くない。唯一の日本人横綱稀勢の里も、引退の瀬戸際に立たされていますしね~(もし今日も敗れたら引退かも)。大好きだった貴乃花親方もやめてしまったし。今は貴景勝が活躍してくれることを期待するくらいです。

そんなことで、早く大相撲が終わって「あさが来た」が見られるようになればいいのに、な~んて思ったりしています。

そこで今、ふと、しょうもないことを思いつきました。

朝のニュースで好きなのは「あさチャン」で、
「あさが来た」の主人公は「あさちゃん」です。

僕は今、テレビでは2つの「あさちゃん」にハマっている、と言ったところでしょうか。

ど~も、長々と失礼しました。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「イオンモール」 と 「イオン」 どう違う?

2019年01月13日 | 日常のいろいろなこと

先週の月曜日のこと。2カ月に一度の、心房細動などに関する定期検査と診察を受けるため、松原市の徳洲会病院へ行った。予約時間がいつもなら朝一番の午前9時なんだけれど、前回、診察を終えて看護師さんにもらった予約票には午前11時となっていた。帰宅してから予約票を見てそれに気がついたのだ。

えぇ、次は11時? これは困ったなぁ~

 と、その時に思った。

というのも、僕が受診するのは循環器科で、週に月・金の2回しか診察日がなく、僕はいつも月曜日に診察を受けることになっている。しかしこの月曜日というのがまた、ものすごく混むのだ。

診察が11時からなので10時か10時半に行けばいいわ、というようなものじゃない。そんな時間に行くと、実際に名前を呼ばれるのは午後2時を過ぎた頃で、ほぼ4時間ぐらい待たされる。かなり前に一度、11時予約があったので10時過ぎに行ったら、ず~っと待たされ続け、名前を呼ばれた時は午後2時を過ぎていた。もうそれに懲りたので、それ以降、医師に一番早い9時予約でお願いをしていたわけだ。 

ところがどうしたことか、今回は11時となっていた。でも、とにかく早く行こうと思い、この日、8時頃に病院に着いてまず受付を済ませ、検査室でかなり待った後、採血をしてもらい、循環器科の待合に行ったのが9時前だった。すでに待合には多くの患者さんたちが座っていた。 

受付にいた看護師に「僕の診察は何時ごろになりそうですか?」と尋ねたら、看護師はコンピューター画面を見ながら、「そうですねぇ、だいたい11時過ぎ、くらいですかね~」と言ったので、「じゃぁ、11時まで外出してきますので、いいですか?」と聞いたら「ええ、いいですけど、こちらへ戻られたら声をかけてくださいね」と言われた。 

そんなやりとりがあって、僕は9時前に病院を出た。実は待ち時間をつぶすために、今朝から、ある「作戦」を立てていたのである。 

病院は、近鉄南大阪線の「河内天美」という駅のすぐ近くにある。そこから歩いて約45分ぐらいのところに堺市・北花田の大きなイオンモールがある。妻やモミィと時々そこへ行くので、今日はお天気もいいし、待ち時間でそのイオンモールまで往復ウオーキングをしようと考えていたのだった。待ち時間が長ければ、その間、イオンモールで時間を過ごしたらいい。病院の待合でじ~っと待っているより、ずっと心地よく過ごせるもんね。というわけで 

9時前に病院を出て、柔らかい日差しを浴びながら、途中「西除川遊歩道」という、いいコースもあるので、気持よく歩き、イオンモールをめざしました。

9時40分ぐらいに、前方に巨大なイオンモールが見えてきた。僕はいつも行く入口へ向かい、トイレにも行きたかったので早足で歩いて自動ドアの前に来ました。しかし

そこへ立っても、ドアは開かない。「あれ? このドア、故障?」なんて思いながら、振り返るとガードマンが近づいてきて、
「あのね、イオンモールは10時開店ですから」と言ったので驚いた。時計を見ると9時45分だった。

うそっ! 9時開店じゃなかったの???

「10時? なんで10時? トイレに行きたいのに~」
とぶつぶつ言うと、ガードマンのおっちゃんはニヤッと笑い、
「イオンは9時から開いてますから、そちらへどうぞ」
と言ったので、また首をひねってしまった。

「イオン? ここイオンじゃないの?」と僕は問い詰める。
「いえ、ここはイオンモールです。あちらがイオンです」
と、この大きな建物の向こうのほうを指差した。

な~んだ、それは? 
でも、言われたほうに行かなきゃ仕方ないよね。

僕はまた、元の道を引き返し、その大きな建物の周りをぐる~っと歩いて行ったら、言われたとおり「イオン」の入口があった。これまで、こんな入口から入ったこともないし、そんなのがあることも知らなかった。そして、そこは入口が開いていて、お客さんが出入りしていた。

中に入ると食料品売り場で、そこはよく知っているところだった。

ふ~ん? そういうことか。

今までイオンモールの入口から入り、奥へ奥へと進むとやがて食料品売り場に出る。建物の中を歩いているのだから気がつかなかったが、歩いているうちにイオンモールからイオンに移っていたということが、この時にわかったのです。

で、僕は「イオン」へ入り、取りあえずトイレに駆け込んだのでした。

ところで
このイオンモールとイオンの違いは何? 

調べて見ると、「イオンモール」はさまざまな専門店やレストランの集合体であり、「イオン」は昔のジャスコの流れをくむ「総合スーパー」だったということ。イオンモールの方が規模は大きい、ということなのだそうです。

知りませんでしたな~。そんなこと。

おかげで、もうちょっとでオシッコを漏らすところでしたわ(笑)。

  …………………………………………………………………………

という次第で、イオンモールまで歩き、少しだけ中をうろうろし、また病院へ歩いて戻ったら、午前11時少し前でした。

「いま戻ってきました」と受付の看護師さんに報告して待合に座り、15分ぐらいで名前を呼ばれました。うん、いいタイミングでしたね~

診察室で医師に「待っている時間を利用して北花田のイオンまで往復歩いてきました」と言おうかなと思いましたが、「そんな元気なら、もう病院へ来なくていいです!」と言われると困るので、黙っていました(笑)。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状 「今年をもちまして最後に…」

2019年01月11日 | 日常のいろいろなこと

去年の大晦日にも少し触れましたが、年賀状のことですが

今回は、これまで年賀状をやり取りしていた多くの方々に「誠に勝手ながら、今年をもちまして年賀状を最後にさせていただきたいと存じます」という一文を添えました。
(一部の方々には例年どおりの年賀状を出しました)

ところで、これは以前から計画していたことではなく、きっかけは昨年11月18日の朝日新聞の朝刊「社会欄」の記事でした。

その記事は「年賀状 本年をもちまして」という見出しで、「来年から年賀状を辞退させていただきます。そんな一文を、年始のあいさつに添える『終活年賀状』が広がりつつある」という書き出しから始まる記事でした。それを読み「そうや! 僕もこれを出そう!」と思い立ったわけです。


 
 
 2018年11月18日、朝日新聞朝刊。


そこで、この新聞記事を参考にしながら、一部の方たちを除き、年賀状に「今年をもちまして年賀状を最後に」と書いた次第です。

新聞の見出しには「高齢・交友見直し終活」という言葉が出ており、高齢のため手足の衰えを感じ、とか、文字の読み書きがつらくなり、とかの理由も書かれていましたが、僕はまだ、そこまでは、いってませんわ。

「人間関係(交友関係)の整理」とかいう理由もありましたが、僕の場合そんな大層なものではなく、あくまでも年末になっても年賀状を出さずに済めばラクやろなぁ、という程度のことで、まぁ、ズボラですわ。少ない枚数ならいいんですけど、毎年結構多いんで。と言って、年賀状は自分の手作りでやるものと決めているので、印刷屋さんに頼むのもどうかと思うしね~

それで、今後もつきあいがなさそうな方だけではなく、今も交流のあるウダウダ会や昔のマラソン仲間など、これからも顔を合わす人たちとも、また会うのだからと、年賀状に限ってのみ今年で最後にさせてもらうという趣旨で「終結」の旨を書きました。受けた人は「どういうこっちゃ?」と首をひねっておられるかも知れませんけど。

それにしても、
僕は昔から、パソコンで写真などを入れ、自分でレイアウトを考えて年賀状を作るのが楽しみでもあったのです。交友関係にしても、いろんな分野で結構多くのつき合いがありましたし。

しかし

それが、退職してフリーとなって10年。徐々にその気持ちが変化してきたんですよね。日々の生活を重ねていくうちに、「義務を果たす」とか「慣例なのだから続ける」とかいう生活からそろそろ抜け出したい、という思いがじわ~っと心の中に生じてきたようです。このブログを続けることが出来ていればそれで十分、という思いもありましたしね。

そんなときに、
11月18日の新聞記事を見て、今まで意識の底にあったものが急に飛び出してきた、という感じです。

ともあれ年賀状を終了しても、今はネットがあり、メールやLINEで旧知の人たちとも連絡が取れますので、年賀状をやめたからと言って、それでプツンと縁が切れるものでもありません。僕の場合は、繰り返しますがこのブログがありますので、ここでいろんな方々との繋がりができていますので心強いです。

さて、あれこれ長く書いていると、何か言い訳をしているような雰囲気になりますので、この辺で置いておきます。

なお、少々お恥ずかしいですが、年賀状の写真を掲載します。

縦書きの前半部分はすべての人に同じ文章を書きましたが、後半部分は、これは今後ほとんど会わないであろう人たちへの文面です。昔のマラソン仲間やウダウダ会のように、今後いつでも会える人たちには、この部分は文章を変えています。もし同じような思いを持たれている方がおられたら、これを参考にして来年出してください。(アホか。勧めてどないするねん!)。


 
 

  

 

 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナイアガラで還暦 あれから10年が

2019年01月09日 | 日常のいろいろなこと

 10年前の今日、満60歳の誕生日を迎えました。ちょうどその時は、妻と、妻の姉との3人でカナダへ旅行に行ってました。雪に囲まれたナイアガラの滝の前でブルブル震えながら還暦を迎えたわけで、その時のことはよく覚えています。

その日の夜は、妻の姉が「お誕生日のお祝いに」と、レストランでご馳走をしてくれたことも、よ~く覚えています。(ちなみに、今もこの3人で毎月、大阪梅田のビュッフェへ出かけています)。

で、これはその還暦誕生日の当日の写真です。

 
寒さで、つい顔がこわばってしまいます。
バックにナイアガラの滝が見えているのに、

僕の姿が滝の景色を邪魔していますね(笑)。 

ちなみに、向こうのほうで白い煙のような水しぶきを上げているのがカナダ滝で、僕のすぐ右に見えるのがアメリカ滝です。つまりこの2つを合わせてナイアガラの滝と呼んでいますが、有名なのはカナダ滝のほうです。

僕が立っているのは橋の真ん中で、ここがアメリカとカナダの国境です。で、写真の左がアメリカ側、右がカナダ側です。

僕たちはアメリカ滝を近くで見るために、カナダから橋を渡ってアメリカへ入ったのですが、その時はパスポートの提示の窓口も何もなく、そのままアメリカに入国できました。しかし逆にアメリカ側からカナダ側に戻ろうとしたら係官がいて、パスポートの提示を求められました。アメリカへ入る通路とカナダへ戻る通路が別々になっているんですよね。何だかわけわかりませんわ。

 まぁ、そんなことで、10年前のそのことが思い出されます。


そしてその年の3月末に仕事を定年退職しました

退職してからの10年間はどうでしたか? と、もし尋ねられたらそうですね~、チコちゃんから「ボーっと生きてんじゃね~よ!」と言われそうな10年間だった、といったところでしょうか(笑)。

ところで、
昨日、初詣の時の写真を長男からもらいました。先日ブログに掲載した同じ場所での写真は僕が撮ったものですが、これは長男が自分のカメラで撮ってくれたものなので、僕も入っています。まぁ、久しぶりで3人そろっての写真でした。
 


 

 

そんなことで

あっという間の10年間でしたが、次の10年後、僕はどこにいる

天か地か

 

 

 

 

コメント (8)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和が終わった日

2019年01月07日 | 思い出すこと

きょう。
1月7日という日は、忘れられない日です。

昭和天皇が亡くなられたのがちょうど30年前。1989年(昭和64年)の1月7日でした。僕は早朝のテレビニュースでそのことを知りました。


 

  

 

その日は土曜日で、僕は長居競技場で行われる駅伝競争に出場する日でした。ですから、ゆっくりテレビを見る時間もなく、早々に長居へ行き、仲間たちと一緒にレースに出ました。

そのあと、午後のことです。

自分たちの出番を終え、長居競技場の観客席に座って別のレースを見ながら、愛用していた小型ラジオをイヤホーンで聴いていたら

「新しい元号が決まりました。平成と決まりました」

と放送されたので、「へぇ~? 『平成』ってか…?」と思いつつ、走る仲間たちに「新しい元号が『平成』って決まったらしいよ」と教えてあげたことを覚えています。

元号は「昭和」しか知らないので、「平成」という新しい元号に、果たしてなじめるのだろうか? という気持ちも、その時、心のどこかにあったことも覚えています。

そして、翌日の1月8日から平成時代が始まりました。個人的なことを言えば、この8日は、僕にとって30代最後の日でした。その次の日、つまり1月9日に僕は40歳の誕生日を迎えたのです。

それから30年

今年、2日後の1月9日に、僕は70歳の誕生日を迎えます。70歳なんて、自分がそんなオジンの年齢になるとは今も信じられないんですけど、事実だから仕方ありませんよね~。みんな、平等に年を取って行くんですから。

それにしても僕は、平成が始まった時に40歳になり、その平成が終わる今年に70歳になるんですよね。まぁ、わかりやすくていいですけど(笑)。

この30年間、言い尽くせないほど、いろいろなことがありました。

もちろん、皆さん方にとっても、30年間というのは膨大な時間の流れだったと思いますし、その年月を振り返られたら、さまざまな思い出が胸をよぎることだろうなぁと拝察いたします。

本当に、早いですね。年月の経つのは。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お正月 ダラダラ日記

2019年01月05日 | 日常のいろいろなこと

こんばんは。今は1月5日の土曜日の夜です。

皆さま、お正月はいかがお過ごしでしたでしょうか?

僕は毎日がお正月みたいなものなので(笑)、特にどうという感慨はありませんでしたが、それでも、年末年始の独特の雰囲気と言うのは感じますね。特にテレビを見ていると、同じような番組ばかりで面白くもないのについ見てしまいます。それでも「あぁ、お正月やなぁ」ということぐらいは、テレビからも感じさせてくれますからね。

モミィも、年末から学校もクラブも塾もなく、妻と出かけたり、家で本を読んだりスマホやタブレットをいじったり、友達を家に呼んでクッキーやケーキを焼いたりとかね~。いろいろやっていましたわ。

わが家では元旦は例によって次男夫婦と子供(ケイ)が来て、モミィとケイは食事が終わるとすぐ別の部屋へ行き、賑やかに遊んでいました。年齢は4歳違いですが、2人は今も大の仲良しです。

僕たちは、年末は元日の献立を考えたり、買い物に行ったり仕込みをしたりしてバタバタしていましたが、お正月になったらテーブルの前に座ったままビールを飲み、次男夫婦や妻らと歓談して、のんびりと過ごしました。

 
1月1日。夕方になり、帰途に着く次男家族。
助手席に次男、後部座席にケイが座っています。

運転は、アルコールを飲まない次男のお嫁さんです。
ケイ君、バイバイ。またね~

2日は、これも毎年のことですが、長男の車で道明寺へ初詣に行きました。そのあと堺方面へ走り、長男の希望で、数年前に行ったことのある「かに道楽」で昼食をとることにしました。しかし、行くと満席で、予約もしていなかったため、断られました。前回は行けたのにね~。

で、また堺方面に向かって走って行くと、長男が、
「ここに、ちょっと高いけど回転寿司の店があるから入る?」
と言ったので、「いいよ」と全員異議なく、その通りがかった「弥一」という店に車を置き、入って行くと、幸いにも1テーブル席だけ空いていて、そこへ4人がゆったりと座ることができました。

回転寿司といえば、うちの近所に「くら寿司」とか「スシロー」があって、よくそこへ行くので「一皿(2貫)100円」というイメージが強いですよね。ところが、この「弥一」というのは、結構高くて、一皿300円から600円ぐらいまでのものが多かったです。

「弥一」と聞くと、ほかの回転寿司にも「長次郎」とか「徳兵衛」とかあって、なんだか江戸時代のおっちゃんみたいな名前が多いですね。

まぁ、名前はともかく、その「弥一」で、僕はビールを飲んだのですが、お寿司を食べるとすぐにお腹が膨れるので、なるべくご飯の入っていないものを、と探していると、今まで見たこともないものが回ってきました。大きな字で、「魚の皮の煎餅」と書いてあったので、内側に座っていた長男に取ってもらい、カリリとかじったら、これがまたビールによく合うのです。しかもいろんな魚の皮があって量が多い。ホント、煎餅みたいで、レモンをかけて、カリカリかじりながら、ビール瓶はすぐに空っぽになりました(笑)。

ほかにも「鯛のアラの唐揚げ」というのも取って、ビールのアテにしましたが、よく合うこと。ふたつとも、生まれて初めて食べるものだけど、こんなビールに合うものがあるとは、思いも寄らなかったですね~

結局、それに舌鼓をうちながら、お寿司のほうは僕は一個も食べないまま、ビール瓶2本を空け、それで、お腹がいっぱいになりましたわ。

そこを出たあと、さらに堺方面へ走ると、堺市の鉄砲町というところに、巨大なイオンモールがあったので、そこへ入り、またそこを4人でウロウロし、食料品を買ったりしました。

いやぁ、それにしてもこのイオン、ものすごく広いうえ、お正月だからか、驚くほどの大勢のお客さんで大盛況。食品コーナーも、こんな広くてお客の多い店舗を僕はこれまで見たことがありません。

イオンと言えば、わが藤井寺にも今年の7月、新しい店がオープンすることを書きましたが、この堺市鉄砲町のイオンは、パンフを見ると駐車場の収容台数が二千台以上と書かれていました。一方、イオン藤井寺の予定台数は、三百数十台です。これを見ても、この鉄砲町のイオンがどれほど大規模なものか、わかりますよね。

う~ん。やっぱり藤井寺は、何と言っても堺などに比べるとローカルだし、しかも駅のすぐ近くでごちゃごちゃしているという立地条件もあり、そこまで広い面積は取れないですよね。


 
1月2日。道明寺での初詣。真ん中が長男(モミィのパパ)です。

 
そんなことで、1月2日も終わりました。

3日は予定はなし。また昼からビールを飲んで、箱根駅伝や、録画していたいろんなテレビを見ながら、1日中ぐうたらして過ごしました。体重も増えましたわ。

そろそろ運動をしなければと、翌日の4日は一念発起して、近くにある信貴山という、まぁ、400m級の低い山ですが、山登りをしました。ほぼ10年ぶりぐらいでしょうか。昔はわりに軽く登れたのですが、今は心房細動(不整脈)の持病もあって、山登りはなるべく避けており、また最近は登り坂で特に脚が疲れるのでどうかなぁと少し気にしながらも思い切って出かけました。


 
信貴山へ登り始めたところ。
いいお天気だったので、見晴らしがよく、いい眺めでした。

思った以上に頂上まで長かったですが、なんとか到着して、やれやれ。帰りは、ロープウェイで帰るという方法もあったのですが、「もうひと頑張りしよう」と、また来た道を降りて帰りました。

そして1日経った今日は、そのダメージか、足のスネや足首を始め、脚全体が少しガクガクしています。でも、じっとしていると余計にダメだろうと、また今日も午後に1時間半ほど歩きました。

今年も体力だけは衰えさせたくない、という気持ちを強く持ち、これまでの街歩きだけでなく、少々不安ですが、これからは軽い山登りにもチャレンジしたいと思っています。

以上、元日から今日までのことをダラダラと書き流しました。
ヤマなし、オチなし、意味なしですわ

あ、ご挨拶、忘れていました。

明けましておめでとうございます(今ごろ遅いわ!)。

今年もどうぞよろしくお願いいたしま~す。

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする