僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ジャンプの笠谷選手が亡くなる ~1972年の思い出~

2024年04月26日 | 思い出すこと

先ほどのニュースを見て驚いた。
「笠谷幸生さんが亡くなった」というニュースだった。享年80歳。
スキージャンプの選手で、札幌冬季五輪の英雄だった人だ。

えっ、笠谷幸生さんが?
何ともまぁ、久しぶりにこのお名前を聞いたわけですが。

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あれは1972年(昭和47年)の2月のことでした。

初めて日本で行われた冬季五輪。場所は北海道の札幌だった。
僕は結婚した翌年で、23歳。妻はお腹が大きかった。
4月に子供が生まれる、という時期でした。
(ちなみに、そのお腹の子は、今のモミィのパパです。古い話やねぇ~)

そんなお腹の大きい妻と2人で暮らしていた僕は、テレビの冬季五輪に夢中になっていたのです。

中でも最高に興奮したのがスキージャンプでした。
そこで笠谷選手が、冬のオリンピックで日本人として初めての金メダルを獲得したのです。しかもその種目、銀メダルに金野選手、銅メダルに青地選手と、1位から3位までの全部のメダルを日本選手が独占するという、夢のような結果でした。世界各国でも「快挙」として称賛されたようでした。

きょう、その笠谷選手が亡くなったとの報を聞き、長男が生まれた1972年(昭和47年)当時のことを思い出し、あの年は笠谷選手のことをはじめ、本当にいろんなことがあったんだなぁと思ったものです。

 
この本は、朝日グラフの「増刊」ということで、1972年を回顧する本で、僕の本棚にあったものを引っ張り出して、先ほど写真を撮りました。

 
 その本の最初のページに、笠谷選手の写真が載っています。
 やはり、1972年のトップスターだったんですよね。

当時はオリンピックは夏季、冬季とも、同じ年に行われており、この年は2月に札幌で冬季、8月にミュンヘンで夏季オリンピックが行われました。

それにしてもこの1972年というのは、いろんなことがありました。

田中角栄首相のもとに日中の国交回復があって、パンダが日本にやって来た。

 
 初めて日本へ来たパンダはカンカンとランラン。
 これはランランです。


大きな事件として、連合赤軍が浅間山荘に立てこもったあの事件は、日本中がテレビに釘付けになりました。

グアム島で、横井庄一さんが終戦から28年間、生き残ってジャングルの穴倉で生活をしていたことが発見されたのもこの年。

大阪ミナミでは千日デパートが焼け、100人以上の死者を出し、中でも7階のアルサロのホステスさんたちから大量の死傷者が出た、という事故もありました。

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そして今日ですが、19年前の4月25日に、JR福知山線の尼崎で、列車がスピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れずマンションに激突し、107名の方々が亡くなられた日でした。僕は当時、勤務先の市役所で執務中でしたが、同僚が「えらいことが起きたで!」と顔色を変えて伝えてくれたのを今でもはっきり記憶に残っています。
19年前と言えば2005年。その年の秋に、モミィが生まれました。

そんなことで、最近は特に、自分が歩んできた人生と、過去の世の中の出来事を思い比べることが多くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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TVコメンテーターの「軽はずみ」

2024年04月22日 | 映画の話やTVの話など

大谷翔平選手に関わる例の問題ですが、水原一平という元通訳が巨額の窃盗疑いで球団を解雇され、大谷選手はそれを全く知らなかったということで、先月からテレビのワイドショーで連日大々的に報じられていた騒動も、ここへ来てようやく収まってきたようです。

最初の頃は、大谷選手自身が、水原元通訳のために自分の口座から送金したのではないか、という話も出ており、まさに微妙な空気が漂っていた。

そんな時、テレビのコメンテーターは、この問題に関しては、必ずと言っていいほど意見を言う前に、
「軽はずみなことは言えないのですが
という意味の前置きをしていました。
それを言ったあと、ムニャムニャとわかったような、わからないような話をするんですよね(笑)。

僕はそれを聞いて、
「へぇ~。じゃぁ、いつもは軽はずみにしゃべっているのか?」
と思うんですよね。
だって大谷選手問題に関しては、
「軽はずみには言えない」
な~んて前置きをするんだから。

この、ワイドショーのコメンテーター、特に芸人のコメンテーターの発言を聞いていると、八方美人的な発言ばかり。毒にも薬にもならないようなセリフしか言っていないように思えます。本番前に「失言」しないよう、打ち合わせをしているのかどうか知らないけど、とにかくこの人たちのクソ面白くないセリフは不快感にあふれています(なのにテレビを見ている僕?)。でも、特に見たい番組がない場合、ついそんな番組でもつけっぱなしにしていること、ありますよね。

「誰からも突っ込まれない意見、誰からも文句が出ない考えというのは、何も言っていないのと同じ」とある作家が書いていました。

まぁ、鋭い意見というのは、見方によれば「暴論」とも取られる時があり、それが今の社会ではマスコミやSNSなどで批判されたりするので、自由に物が言えない、という側面もあることは事実なんでしょうけどね。

それにしても、お笑い芸人なんかは、もっと芸の修業を積んで、みんなを笑わせてほしいと思っているのに、コメンテーターなんかでギャラをもらい、
「軽はずみには言えないのですが」などと言いながら、何の説得力もない凡庸な言葉を並べている。

お笑い芸人がそんな場所に出て来ること自体が、
「軽はずみなこと」ではありまへんのか?

 

 

 

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ヒロユキとソルちゃんと 最後の晩餐?

2024年04月19日 | 日常のいろいろなこと

義姉の旦那さんのお葬式から1週間経った昨日、アルゼンチンから来ているヒロユキと妻のソルちゃんのお誘いを受けて、大阪の京橋のイタリア料理店で会って4人で食事をしました。

 
 うちの妻とヒロユキ、ソルちゃん。ここでお別れでした。

アルゼンチン・ブエノスアイレスのレストランでシェフをしているヒロユキは毎年4月に3週間の休暇をもらって日本へ来ている。しかし、2020年から22年までの3年間はコロナ禍で来られず、23年、つまり去年、久しぶりに来日した。

しかしその年の4月はヒロユキの母である妻の姉(つまり義姉)が体調不良で入院をしており、僕自身も体の調子が悪かった上、モミィもイギリスへ短期留学していた時期だったので、去年は会えずじまいだった。

  …………………………………………………………………………

思い起こせば、義姉の末っ子であるヒロユキが家を出たのは彼が26歳の時、1995年の元旦だった。1995年(平成7年)と言えば、1月に阪神淡路大震災があり、そのあと3月に、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったりして物騒がせな年だった。

春に妻とフランス旅行を申し込んでいた僕たちは、旅行を10月に伸ばした。そして、ヒロユキが料理人として働いているスペインのサンセバスチャンという街へ行ったのでした。サンセバスチャンはフランスとのほぼ国境にあり、パリから特急列車に乗ればそれほど時間はかからなかったのです。

その後、ヒロユキは料理人としてアルゼンチンのブエノスアイレスへ行ったと聞いた。なんとまぁ、地球の裏側まで行ったんや、と驚いたものです。

その後のことはこのブログにも何度も書いていますが、僕が市役所を退職した年である2009年の9月に、ヒロユキの母(妻の姉、つまり僕の義姉)を誘って3人でアルゼンチンへ行くことにしました。

現地に着き、義姉にとっては、14年間会っていなかったヒロユキとの対面でした。26歳で家を出て、今は40歳になったヒロユキを見て、義姉は感慨無量だったと想像できます。

 
  ヒロユキと母である義姉、14年ぶりの再会でした。

 
 ここはブエノスアイレスの中心地。ソルちゃんと僕です。

そして、
それをきっかけに、翌2010年から2019年まで、毎年4月に休暇をもらって、ソルちゃんと2人で日本へ来るようになったのでした。

むろん、その都度、会いました。僕らはモミィも連れて行ったのですが、2人はモミィをとても可愛がってくれましたね~ 

   
    ソルちゃんと小学生だったモミィ。
 

ところが、2000年から2002年までの3年間はコロナ禍で日本に来ることができなかったんですよね。

そして、前述のように2003年(去年)4月、久しぶりの来日も、義姉の入院と僕たちの都合もあり、会えないまま終ってしまいました。義姉は7月に息を引き取りましたが、その時はヒロユキたちは日本にはいませんでした。

それで今回、義姉の旦那さんの死去が4月だったので、たまたま日本に帰っていたヒロユキとソルちゃんはお葬式に立ち会うことができました。その時はゆっくり話す余裕はなかったのですが、数日前に「会いたいです」と連絡があって、昨日、ヒロユキの実家の近くの京橋で、ヒロユキ、ソルちゃん、うちの妻、そして僕の4人で会った次第です。

モミィは学校やスタバのアルバイトがあるので時間の都合がつかず、今回は会えなかったことを、ヒロユキとソルちゃんはとても残念がっていましたが、これはもう、仕方がないことだと思います。

僕らがアルゼンチンへ行った翌年から10年間、ず~っと日本へ帰って来たヒロユキたち。コロナで3年間のブランクのあと、去年と今年で2年。計12回、日本に帰ってきました。

でも、去年に母が亡くなり、今年は父がなくなりました。
ヒロユキの姉と兄はそれぞれ東京で生活をしているので、大阪の今の家に戻っても、誰もいないということになります。

「寂しいですね」とヒロユキ。

う~ん。これが「最後の晩餐」に?

ヒロユキとソルちゃんは、
もう日本には帰って来ないんだろうか?
二度と会うことができないのだろうか?

 …………………………………………………………………………

 最後に、あきれるほど古~い古~い写真をご紹介します。

 

 義姉の3人の子供たちと、僕らの2人の子供たちです。
 まず義姉の子供たちから。
 一番右側がヒロユキ君。この時はまだ日本にいます(当たり前やがな)。
 真ん中の奥にいるのが、去年の母親、今年の父親のお葬式などを仕切った、
 しっかり者の長女、美〇ちゃん(東京在住)。
 その前で手を上げているのが長男でやはり東京在住で内科医の信〇君。

 次に、わが家の子供たち。
 前列、真ん中の赤ちゃんがうちの次男です。
 そして一番左側にいるのが長男。つまり、モミィのパパですわ。
 こんな時代があったなんてねぇ

 

 

 

 

 

 

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「多死社会」で火葬場も順番待ち

2024年04月14日 | 日常のいろいろなこと

去年の7月11日のブログで、妻の姉が亡くなり、

「義姉の死」

という文章を書きました。

妻と大変仲が良く、僕も義姉と妻の3人で何度も海外旅行へ行ったほど親しくつき合っていたので、その死はとても辛いものでした。

そしてそれから9カ月。
今度はその義姉の旦那さんが、4月の7日に亡くなったと連絡が入りました。

義姉が亡くなった時、すでに心身が弱っており、外出も難しい状態でした。そしてその後、入退院を繰り返していたと聞いています。

妻を亡くして一人になったら、夫というものは後を追うように亡くなることが多いと聞いていますが、まさにその典型のように見えました。

亡くなった二人には3人の子がいるけれど、前にも書きましたが、長男は東京の病院で働く内科医、次男はアルゼンチンで住んでいるヒロユキ、そして長女の美〇ちゃんも東京でOLをしているのですが、この美〇ちゃんが仕事の合間に、頻繁に大阪に戻って親の世話をしていたと聞いています。

今回も美〇ちゃんから電話があったのですが、亡くなったのは7日の日曜日だったのに、お葬式は4日後の11日だと知らされました。つまり、火葬場が混雑しているんでその日までお葬式が挙げられない、ということ。

で、僕らは11日に大阪京橋の近くの葬儀場へ行き、「一日葬」という形の葬儀だったので午前に葬儀と初七日を行い、そのあと火葬場へ行きました。

もうこれで、お世話になった義姉の夫婦ともに亡くなったわけですが、それにしても火葬するのに何と4日も待たなければならないほど、「混雑」しているんですね。これには驚きました。

今は高齢者がどんどん増えてきているので、亡くなる人もそれにつれて年々増えてきている、と報じられており、「多死社会」とも呼ばれているそうです。

「多死社会」ねぇ。

なんだか、他人事(ひとごと)ではなくなってきている?

 

 

 

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モミィの一人暮らしの始まり~

2024年04月09日 | 日常のいろいろなこと

一昨日の日曜日(7日)、モミィが一人暮らしを始めるワンルームマンションへ行きました。妻はこれまで何度も生活用品を買ったり、持ち込んだりしてモミィと一緒にここへ来ていますが、僕は不動産屋さんに初めてここを紹介してもらった去年の11月にこの部屋に来て以来、今回が二度目でした。

長男が引っ越し荷物を運んでくれたのは一ヵ月前の3月初旬でしたが、僕は退院後まもなくだったので行けなかった。その後も、妻とモミィは何度も行っていたけれど、新しい生活に必要な物の買い物をしたりするというので、僕としては特に用事はなく、体調のこともあったので、そんなことで今回、やっと久々にここを訪れた次第です。

本棚やベッドの布団やその他いろんな生活必需品が揃っていて、当然のことながら、初めて来た時とずいぶん変わっていたのに感心しました。

 
  左側にあるのは、先月長男が車で運んでくれた本箱が二つ。
  右側はお風呂とトイレが別々にあります。


 
 奥へ行くと、左に冷蔵庫(その上に電子レンジ)、
 そしてテレビと勉強机があり、右側には
ベッドなど。


で、モミィは4月1日に大学の入学式のあと、正式な授業が始まるまでの間、いろんな催しがあり、その間は毎日わが家に帰って来ていました。それが、今週の月曜日(8日)から正規授業が始まるというので、その前日の7日から、わが家ではなくマンションへ帰ることになりました。

つまり、まぁ言ってみれば、その日から一人暮らしが始まったのです。7日の夜、8日の夜、そして今日9日の夜と、もう三日間、モミィは帰って来ません。いよいよ一人暮らしが始まったんですよね~

よくしゃべる子で、やかましい子でしたが、いなければいないで、なんだかひっそりした感じで、わが家の雰囲気も変わりました。特に、ず~っとモミィの面倒を見て来た妻は、世話の焼けるモミィから解放された一方で、一抹の寂しさは、やっぱり感じているようです。

さて、次に会った時、モミィからどんな一人暮らしの感想が飛び出すのか、楽しみです。

 


★おまけ

今年も桜の季節がやって来ました(短い期間ですけどね~)

これは過去のブログでもご紹介しましたが、わが家から歩いて数分の小さな川沿いにある桜並木です。今年も、数日前にブラっと出かけました。


  
   4月6日撮影。

 

 

 

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心身の不調は続いていますけど

2024年04月06日 | 心と体と健康と

2月に城山病院で不整脈のカテーテル手術を受けた時の主治医の先生と、今週2日の火曜日に、退院後初めて会って診察を受けました。
「どうですか、退院後の状態は?」という質問に、
「退院したその日に不整脈が出ましたが数日で収まり、その後は手術前のような不整脈は出ていません。ただ、時々、「グルッ」と心臓がシャックリをするような症状が出たり、脈が飛んだりしますけど」と答えた僕でした。

まぁ、いずれにしても3月になってからは一度も以前の不整脈は出なかったので、やはりカテーテル手術を受けてよかったというのが正直な感想です。

主治医は「カテーテル手術は心筋の一部を焼くので心臓に大きな負担が掛かかります。だから、いろんな症状が出る可能性はあります。しばらく様子を見る必要がありますね」
ということで、次回は2か月後に診察予約を行いました。

それが今週2日の火曜日。そしてその翌々日の4日の木曜日(つまり一昨日)は家の近くのクリニックへ行きました。

実は、何度も書いてきましたが、ここ10年以上、松原の徳洲会病院へ通っていました。しかしカテーテル手術は城山病院のほうが優れている、と徳洲会の医師からも言われていたのでそうしたわけです。

そして、手術を終え、城山病院でもこのあとのフォローはしますが、薬処方などは引き続き徳洲会病院で受けてください、といわれ城山から徳洲会へ手紙をもらいました。しかし僕はこれを機に、徳洲会よりも近所のクリニックに変更しようと思っていたので、徳洲会の主治医に城山病院からの手紙を渡すと同時に、そのクリニックに紹介状を書いてください、と頼んだところ、快く引き受けてくれました。

そして昨日の4日、徳洲会からの紹介状を持って近所のクリニックへ行きました。中〇クリニックというのですが、実は僕はここへはこれまで行ったことがありません。ただ、この医院の前はよく通るし、看板を見ると「循環器内科」が専門で、それと、知り合いの人たちから「いい先生ですよ」と言われていたので、ここへ決めた次第です。

初めて行ったそのクリニックは、先生も看護師さんたちもやさしくて、ここを選んでよかった。たぶん、この先生が僕の「最後のかかりつけ医」になる可能性がありますね~

まぁ、最近は入院や手術や診察やらの話題がやたらに多くなってきていますけど。

僕自身も、心身の不調は続いています。
「病は気から」と言いますが、たぶん、そういうのも今の自分にはあるのでしょうね。

そんな時は、僕の好きな田辺聖子さんが、エッセイの中でこんなことを書いておられたのをメモしているので、それを読んで自分を納得させています。

若さや栄光を失うとき…われわれは乗り換えしなければいけない。新しい行く先を求めて。「体力低下、気力減退線にお乗換え願いま~す」その連呼を耳にとめて、人ははっと我に返る。いつまでもこの線でいいと思っていたのは、誤りだった。ここから別の線に乗り換えて生きなくてはならないのだ。そうやって、乗り換え乗り換えして乗り継ぎをしつつ、終点までやってくるのが、人間の一生かもしれない。


「若さや栄光」などはとっくの昔になくなっていますが、それでも「いつまでもこの線でいいと思ってここまで生きてきました。でも、やはり「乗り換え」や「乗り継ぎを」しながら「終点」へ向かうんですよね。

今、この言葉が、強く心の中に染み込んできています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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モミィもいよいよ大学生に

2024年04月02日 | 日常のいろいろなこと

昨日はモミィの大学の入学式が行われました。
(僕たちは式には行っていませんが)


いよいよこの4月から、モミィは大学生になったわけで。
でもね~、モミィが大学生なんて、にわかには信じられない話ですわ。

モミィが行く大学は、兵庫県を中心にいくつものキャンパスを持つ関西学院大学です。いわゆる関関同立のひとつ、ということですね。

関関同立というのは、関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学の4校で、関西を代表する難関私立大学グループとされています。

これに関しては、僕は近畿大学を卒業しているので、昔から「なんで近大が入らんのや」とブツブツ言っていたもんです。
ま、それはいいですけど(笑)。

モミィも大学生になったら、これまで書いてきたように、梅田のワンルームマンションでの一人暮らしも始まります(まだ今はわが家に帰ってきていますが)。


思えばモミィがわが家で暮らし始めてから十数年の歳月が経ちます。
5~6歳の頃からですね。幼稚園児でした。僕は退職したところだったので、毎日、幼稚園に送り迎えをし、その他、エレクトーン教室、英会話教室、ダンス教室、体操教室、地域のキックベースなどにず~っと付き添っていました。よく、パパと間違えられましたけどね~(ヘヘッ)。

そのモミィがもう大学生になり、家を離れ、
一人暮らしの身となるのですからね~

早いです。そりゃぁ歳も取りますわね。

 
  幼稚園の卒園式での1シーン。
  お世話になった先生とも、お別れです。


 
  そして小学校の入学式の日。

 
 
  これは中学校の運動会の1シーン。
  左から2番目がモミィです。


そしてこの4月。大学生になったモミィ。
昨日の4月1日の朝。
モミィは入学式に出席するため、出て行きました。

 

これは「行ってきま~す」とわが家を出たところを
撮ったものです。

 


  

 

 

 

 

 

 

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