僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

「鬼滅の刃」 の大人気にビックリ

2020年10月29日 | ズレズレ草

アニメ「鬼滅の刃」というのが大ヒットしていますね。

公開中の映画は10日間で100憶円を突破する記録を打ち立てたそうだし、食品会社やコンビニなどでは関連商品を次々に売り出して、これまた売れ行き絶好調らしいです。

そして今日の朝日新聞朝刊の経済欄には、
「鬼滅ノミクス」コラボ続々
という見出しの記事も出ていました。

 

見出しの「鬼滅ノミクス」という言葉はアベノミクスに引っかけて「鬼滅」関連市場の盛り上がりを指す造語で、今やツイッター上で広がっているという。

これだけ大ヒットしているアニメだから、僕としては特に関心はなかったものの、どんなものか、だけはちょっと気になっていた。そこへたまたま先週23日の金曜日の午後7時から、関西テレビでこの「鬼滅の刃」の放送が始まったので、録画をして見ました。


 
急きょ放映されたようで、番組冒頭にこんなメッセージが。
妻は「土曜プレミアム」での「鬼滅の刃」は見たそうで、
大体のストーリーは知っていました。


 
そして始まりました。

登場人物の名前が難しいというか。主人公は竈門(かまど)炭次郎といい、炭次郎は「すみじろう」と読むのかと思ったら、妻から「たんじろう」だと教えられた。そして鬼に襲われて自らも鬼にされてしまった妹は禰󠄀豆子(ねずこ)という名前。

まぁ、最近はモミィもTVでアニメを見たりしないので、僕も長い間見ていなかったけれど、その日は本当に久しぶりにこの種のものを見た。


 
 その1シーン。左端が炭次郎で、右端が妹の禰󠄀豆子。

1話30分の物語が続けて2話放映されるので、1時間の番組だ。

最初はとりあえず見てみようという程度だったが、やはり見ているとつい引き込まれる。そしていい場面で終わるので、続きが気になる。次回は明日の金曜日に放送されるのでまた見よう。そのうち病みつきになってしまうかも(笑)。

ところで、冒頭の朝日新聞の記事によると、株式会社・味覚糖は「ぷっちょ」や「シゲキックス」というお菓子に「鬼滅の刃」のデザインをつけたところ、販売を始めた週には約10倍の数量が売れたとか。ほかにも「鬼滅」とコラボした商品は次々とヒットしているそうで、いやまぁ、すごい人気なんですねぇ。

中でも、思わず笑ったのが日清食品です。
カップ麺の「出前一丁」を、「鬼滅一丁」と名前を変えて、期間限定で販売しているそうです。

出前一丁 鬼滅一丁

面白いですわ。お店へ行って「すみません。鬼滅一丁あります?」なんて聞くのはちょっと恥ずかしいですけどね。

でもこの調子だと、これからもいろんなものが登場しそうですよ。

・マクドナルドからは「鬼滅チーズバーガー」

・すき家や吉野屋では「鬼滅どん(丼)」

・お茶の伊藤園からは「お~い鬼滅」

・カーネルおじさんの店では「ケンタッキー鬼滅チキン」

そして、
キリンビールからは「のどごし鬼滅」
な~んてのが出ちゃったりしたら、僕も飲みますよ。絶対に。

 

 

 

 

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いつまでたっても、ダメな私ね~

2020年10月26日 | 心と体と健康と

2日前、左の腕を思いっきり打撲した。痛い~!!

どう打撲したのかと言うと、
これが説明が難しいのですが、ひと言で言うと、上から物干し竿(ざお)が落ちてきて、それが僕の左の前腕を直撃したのです。わかります?

わかりませんわね。

つまりですね、え~っと

その日は風がめちゃ強くて、洗濯物が吹き飛ばされそうになったので、外に干すのはやめて部屋の中に干したのです。

雨の日なんかでも、普段は使っていない3階の一部屋の両端に、古いタンスと、モミィの過去の本などをゴチャゴチャと入れている本棚があって、その上に竿を渡してそれで「室内干し」をします。
で、その日も風が強かったので、そうしたのですが

その時。
竿にいっぱい洗濯物を吊るし、その竿をちょいと持って動かしたら、竿がガーンと落ちたんです。落ちた竿が僕の左腕を直撃しました。左腕の前腕、つまり肘から手首にかけての部分です。

イテテテテテ!

おまけにその竿には洗濯物以外にカーペットも乗せていたので余計に重く、それが僕の腕にドドーンと落ちたものですからそれはまぁ本当に痛かった。

それがお昼過ぎのこと。そして時間が経つにつれて痛みがひどくなり、触ってみるとかなり腫れてきている。腕を動かしたらむろん痛いけれど、動かさなくてもズキズキ痛む。

それで、家にあった湿布薬を妻に出してもらい、貼って、さらに痛み止めの薬も飲んで様子をみることに。

それが2日前の土曜日のことでした。実はその日のブログ「ビュッフェでビールを飲み放題」は左腕の痛みをこらえて書いたものでした。指先は痛くないのでパソコンは打てるのですが、何かの拍子に左腕を動かすと痛い! という状態でしたけど、えらそうなことを言えば「負けへんで!」みたいな気分でした。

土曜日の午後だったので近くのお医者さんはどこも開いていないし、翌日は日曜日でこれも開いていない。月曜日までどうなるんだろ? と不安な気持でその日を過ごしたのですが、一晩寝て、次の日曜日(つまり昨日)は、ずいぶん痛みが和らいできました。やれやれ、でした。

まぁ、お医者さんに行っても「どうされましたか?」と聞かれ「家の中で洗濯物を干していたら竿が落ちて腕に当たりましてん」なんて、よう言わんし(笑)。

で、今日はどうかと言えば、昨日と同じような感じで、左手で何かを持ったり動かしたりしたら左腕の前腕が痛みます。でもまぁ腫れはほぼ引いたようだし、このまま日が経って、そのうち治ってくれるんだろうと思います。

それにしても、今回のことは、ホンマに僕の不注意で、普通の人ならそんなこと絶対にやらないと思います。竿をちょいと持って動かしたら竿が落ちた、と書きましたが、そんな時は気をつけてやらなきゃならないのにゼンゼン気をつけてなかった。それがこの事態を招いたわけで、これはもう僕が普段から注意力が散漫である、という動かぬ証拠でもあります。

とほほ。

いつまでたっても、ダメな私ね~
ですわ。

 

 

 

 

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ビュッフェでビールを飲み放題 ♪

2020年10月24日 | 日常のいろいろなこと

先日、所用で妻と、藤井寺市の隣にある八尾市へ行った。ちなみに八尾市というのは大阪府内にある30数市の中でも人口がベスト10に入る大きな市です(藤井寺市の人口は下から5番目くらいですけど)。

用が済むと、あとはもちろん何の予定もない。時刻は午前11時。

僕たちが今いる場所は近鉄八尾駅に近いエリアで、大きな商業施設もあり、八尾市で最も賑わっているところだ。わが家の近くのバス停から「近鉄八尾行き」のバスに乗って終点がここなので、昔からよく来ている。

さて、お昼はこのあたりで食べるつもりだけど、どこへ行こうか? と2人で相談した結果、「リノアス(LINOAS)」という大型ショッピングセンターの8階にあるレストラン街へ行くことにした。

何年か前までは、この「リノアス」は西武百貨店だった。しかし、この隣に「アリオ八尾」という大きな商業施設ができたことで西武百貨店は客足が遠のき、やがて閉鎖され、そのあとに入ったのがこの「リノアス」だった。

ということで、その「リノアス」8階のレストラン街へ行った。

時間はまだ午前11時過ぎだった。8階には沢山の店があって、あちらこちらと見て回っていると、11時半から開店するというビュッフェがあり、そこに沢山の人たちが集まっていた(ほとんどが若い女性のグループでしたが)。

入口に立てかけてある案内板を見てみると、ビュッフェだからもちろん食べ放題なんだけど、値段の安いのにびっくりした。平日のお昼は女性が1,000円、男性が1,200円。しかも時間は無制限ということだった。な~るほど。それで多くのお客さんが集まっているわけね。

さらに、「アルコール全種類飲み放題」というのがあり(僕はすぐそんなところに目が行くのです)、2時間で1,000円とのこと。これも安い(うひひ)。

「ここ、よさそうね」と妻が言ったので、もちろん僕に異存はない。ここで飲むことに…じゃない、食べることにした(笑)。

開店まではまだ20分ほどあったけれど、お店の前に発券機があり、そこで「大人2人」と入力したら「13」という番号が出てきた(つまり13番目ですわ)。やがて11時半になり、1番から順に番号を呼ばれ始めた。順番が来たらカウンタで先に料金を払い、テーブルナンバーの書かれた立て札をもらって席へ行くというシステムだ。

そして僕たちの番が来た。お金を払うとき、僕はもちろん店のお姉さんに、
「飲み放題一人分お願いします」
と伝えることを忘れなかった。ふふっ。

するとお姉さんは小さな腕章のようなものを僕の腕に巻き付けてくれた。ま、ごく小さいものなのであまり目立たないけれど、生ビールのお代わりをするときに店員さんにわかるようにしてあるんでしょうね。

そんなわけで、生ビールを何杯もお代わりしながらいろんな料理を少しずつ取って食べ、1時間半近くいました。コロナ禍以来、外食する機会がめっきり少なくなったので、妻も喜んでいました。

よ~く食べてよ~く飲みました。ちょっと運動しなければ、と、帰りは妻だけバスに乗り、僕は家まで2時間以上かけて、テクテク歩いて帰りました。ビールでいっぱいに満たされたお腹が、歩くたびにチャプチャプと鳴るような感じ。

テクテク、チャプチャプ。
テクテク、チャプチャプ。
な~んて。

しかし歩いたおかげで満腹感は解消され、
夜もまた、グビグビとやりました(笑)。

では、そのお店をご紹介して今日は終わります。

神戸クックワールドビュッフェ リノアス八尾店

 

 

 

 

 

 

 

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そして何もなくなった

2020年10月22日 | 日常のいろいろなこと

アガサ・クリスティーじゃ、ありません。
あれは「そして誰もいなくなった」ですもんね。

10月9日のブログ「46年見続けた風景が消える日」のその後の経過です。

わが家の前にあった何軒かの建物の解体工事が始まってから、約2週間が経ちました。日曜日以外、毎日毎日、工事が続き、とうとう今日、建物はすっかり無くなって、ほとんど更地となりました。

以下の写真はいずれも3階のベランダから撮ったものです。

 
 
  前回のブログに掲載した10月6日の写真です。
  これから解体工事が始まります。


 
 10月10日。左側の倉庫が取り壊され、
 左側の奥の家屋の解体も始まった。


 
 10月15日。奥の家屋はほぼ解体され、右側の建物の解体も始まる


 
 10月17日。右側の家屋もほぼ解体される。

 
 そして今日10月22日の午後。何もなくなりました。

今後は、道の左側に立つ2本の電柱も撤去され、道自体も私道なのでここ一面が住宅の敷地に変わるとのこと。

これからまた、目の前の光景がどんなふうに変わって行くのだろうか、という興味も湧いてきますが、僕にとって最後の「昭和の光景」が消えたような寂しい思いもあります。

人も風景も、時の流れと共に変わって行くのは仕方ないことでしょうけどね。

 

 

 

 

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心房細動と 「細道」 と

2020年10月19日 | 心と体と健康と

このブログを始めてから13年になるというのに。今さらこんな間違いをするとは自分でも情けないやら呆れるやら。ホンマ、いやになりますわん! 
まあ聞いてください。

今日の午前、妻と、近所の医院にインフルエンザの予防接種へ行った。(今年は大阪府では65歳以上の高齢者のインフルエンザワクチン予防接種は無料です)。

予防接種を受ける前に「予防接種予診票」というのを受付の人からもらい、これに記入しなければならなかった。

・今日受ける予防接種のことは理解していますか? とか
・今日、普段と違って具合の悪いところはありますか? とか
・最近一カ月に何か病気にかかりましたか? とか
・今までに予防接種を受けて具合が悪くなることがありましたか?
というふうな質問事項に「はい」か「いいえ」の丸をつける。

僕に直接関係があったのは、
・現在、何かの病気で医師にかかっていますか?
という項目だった。

そこには「はい」と〇をつけて、次に
「その病気はどういうものですか?」との欄に対して、
「心房細動(不整脈)」と書いた(つもりだった)。
2か月半に一度、これで徳洲会病院へ通ってますからね。

そして診察室に入り、予防注射をしてもらったのだけど、そのあと、80歳近いそのお爺ちゃん医師は、僕の心房細動に関して「どんな具合ですか?」と尋ねるので、「まぁまぁです」と、適当に返事した。

「そうですか? カテーテル手術をしたらいいと思うんですけどね」
と、この医師は前回もそうだったけど、また同じことを言った。
毎年ここへは予防接種と健康診断に来るのだけれど、いつもそれを言う。

「ええ、まぁ、考えておきます」
と僕も適当に返事をしながら診察室を出ようとしたら、医師は僕の予診票をじっと見て、「これ、字が間違っていますね」と言った。
「えっ?」と僕が予診票を覗き込むと、医師は、
「心房細動の『細動』という字が『細道』になっています」
と言ったのだ。

あっ、つまり僕はその欄に「心房細動(さいどう)」と書くところを、
「心房細道(ほそみち)」と書いてしまったんだった。あちゃぁ~

これまでブログで何度も「心房細動」と書いてきたけれど、パソコン入力だから自然に「細動」と変換される。それが今日、自分の手で書くと、つい「細道」となってしまったわけですね。なんという恥ずかしい間違い。

医師は「ま、こちらで書き直しておきますから」と言い、僕は「はぁ、どうも」と強縮して、診察室から出たのでした。

それにしても「心房細道(ほそみち)」ねぇ。

「心房細動のほそ道で~す」なんちゃって。

このブログのタイトルも、「僕のほそ道」から、
「心房のほそ道」に変えた方がいいかも知れない。
ぐすん

 

 

 

 

 

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「また逢う日まで」 で思い出すのは

2020年10月17日 | 思い出すこと

このたび亡くなられた筒美京平さんの曲の中で、最も有名なものの一つに尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」がありますね。
この曲に、僕はいつも心を揺り動かされます。
きょうはその理由を書いてみたいと思います。        

  ………………………………………………………………………………

「また逢う日まで」が大ヒットしたのは1971年(昭和46年)だった。この前も書いたように、当時22歳で大学4年だった僕は3月初旬に結婚し、1週間後に卒業した。就職先に関しては、今でいう就活には不熱心で「どこでもええわ」っていうノリで決めた小さな和楽器店に勤めることになった。

あえて言えば、大学1年生の時、琴や尺八を演奏する「邦楽部」という、いささか風変わりなクラブに所属していたことがあるので、和楽器を扱うところだったら少しは馴染めるだろうと思ってそこに決めた、とも言える。

そこで僕が命じられたのは、アベノ近鉄百貨店の和楽器売り場への出向だった。百貨店の店頭に立つとはねぇ。思いも寄らなかったけど。

和楽器の売り場は、僕ともう一人アルバイトの女子学生の子とでやっていたけれど、ヒマだった。琴や尺八や三味線がそれほど売れるわけないしね。お客さんというのは、和楽器の付属の小物とか、琴を弾くときの爪とか、謡曲の冊子などを求める人が大半だったが、それでもヒマなのでほぼ立ちんぼのまま。

当時近鉄百貨店は木曜日が休みで、もちろん日祝日は出勤日。勤めていた妻ともゆっくり過ごせる時間がない。新婚なのに休みの日が合わないのは寂しい。家に帰ると幸福感に満たされるが、売り場に来て立っていると、虚しさがこみ上げてくる。また、僕は出向社員なので、楽曲関係の売り場の責任者も、百貨店の正社員とは扱いも違い、時にはみじめな思いもさせられた。社会人の厳しさを身をもって知らされたわけですね。

結局、そこは3ヵ月で退職して、夏に松原市役所の入所試験を受け、8月から地方公務員としての生活が始まったことは先日も書きました。

ところで、僕がいた近鉄百貨店の和楽器売り場のすぐ横にレコード売り場があった。そこで開店から閉店までず~っと流れていた曲が「また逢う日まで」だった。

ほかにもキャンペーン曲は流れるのだけれど、ほぼ2、3曲に一度の割合でこの曲が流れた。それも大音響だ。そのすぐそばに立っている僕は、それがイヤでも耳に入って来る。来る日も来る日も「また逢う日まで」を全身に浴びながら、僕は売り場に立っていたのだ。

   タッタン タタンタタッ
  タッタン タタンタタッ
  チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン 
  チャ~ン タタンタタ~ン 
  また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 
  別れのそのわけは~ 話し~たくな~い 

開店から閉店まで、1日で何十回聴いたことだろう。なにせヒマなものだから、ボンヤリとその曲が聴こえるまま、歌も全部覚えてしまい、頭の中に刻み込まれてしまった。おそらくこれまでの自分の人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろうな、と思います。

それが、ここを辞めるまで、3カ月間続いたのでした。

「また逢う日まで」が耳に響く中で、僕は売り場に立ったまま、今のままでいいのか? 早くここを辞めて他の仕事に就いたほうがいいのか? そんなことを毎日考え続けていました。そして最後に「辞めよう」と決心した時も、この曲が流れていたと思います。

百貨店に最後に出勤した6月30日も、相変わらず一日中「また逢う日まで」が流れており、そして、僕はその歌に見送られるようにして仕事を終えたのでした。

あれから49年が経ちました。

地方公務員への転職後、60歳の定年退職までの約38年間の職場生活は、部署や上司にも恵まれ、とても楽しく仕事をさせてもらいました。

筒美京平さんの代表曲「また逢う日まで」が、今またテレビで何度も繰り返し流されているのを見て、あの百貨店の和楽器売り場に立っていた3ヵ月間を鮮明に思い出しました。

あまりの懐かしさに体が熱くなってきます。

 

 

 

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「魅せられて」 の筒美京平さんが死去

2020年10月14日 | 思い出すこと

前回ブログで「東京オリンピックマーチ」をテーマに、作曲家・古関裕而さんのことに触れました。

「えっ? この曲も、あの曲も、あの人の作曲だったの?」
と驚いたのですけど、今日もまた同様に驚いた話です。
というか、もっともっと驚いた話です、ハイ。

先日、作曲家の筒美京平さんが80歳で亡くなられました。それで、昨日はテレビ各局で筒美京平さんを偲ぶ映像が流されていました。ご覧になった方も多いと思います。

もともと昭和の歌謡曲は大好きだった僕なのですが、筒美京平さんという作曲家はあまり記憶に残っていません。よく知っていたのは、吉田正、船村徹、古賀政男、遠藤実、服部良一、中村八大などの人たちでした。しかし

昨日の朝、羽鳥慎一さんの「モーニングショー」で筒美京平さんの曲が次々と流れているのを見てびっくりしたのです。どれもこれもよ~く知っている懐かしい曲ばかり。いや、自分の人生にかかわる曲まであった。へぇ、あれもこれも、この人の作品だったのか! という驚きの連続でした。

さて、その番組で流された映像と曲を順番に書いていきますと

近藤真彦の「スニーカーブルース」「ギンギラギンにさりげなく」
庄野真代の「飛んでイスタンブール」
C-C-Bの「ロマンチックが止まらない」
いしだあゆみの「ブルーライト横浜」
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(今日の「天声人語)で絶賛してました)
ジュディ・オングの「魅せられて」
少年隊の「仮面舞踏会」
堺正章の「さらば恋人」
尾崎紀世彦の「また逢う日まで」
斉藤由貴の「卒業」
岩崎宏美の「シンデレラハネムーン」
郷ひろみの「男の子女の子」
麻丘めぐみの「私の彼は左きき」

などなど、です。

いやまぁ、すごいですね~。
特に、1971年から1987年までに多くのヒット曲を量産されたとのこと。僕の年齢で言えば22歳から38歳まで。なので僕らの世代の人たちは知らない歌はないんじゃない? と思いますね。

さて、これらの中でも、じゃぁ僕が一番好きな歌はどれ?
と聞かれると、もちろん全部、と答えたいところです。しかし、どうしても一曲だけを選びなさいと言われたら

ジュディ・オングの「魅せられて」でしょうね。

僕が30歳の時(1979年)に大ヒットした曲です。
この年には八代亜紀の「舟歌」、小林幸子の「思い出酒」などもヒットしましたが、そんな強力なライバルを押しのけて、この「魅せられて」がレコード大賞に輝きました。

この歌を聞くと、今でも身も心も舞い上がるような心地がします。

むかし、職場の人達や仲の良いグループでよくカラオケに行きましたが、女性の人にはいつも「魅せられて」をリクエストしたものです。その歌を聞くともう夢心地。そのうち、いつの間にかリクエストもしていないのに「魅せられて」を歌ってくれる女性も出てきてくれました。よかったなぁ(遠い目)。

その昨日の「モーニングショー」で流された「魅せられて」の映像を写真に撮りました。


 

 

ところで、5年前のある日のこと。

当時9歳で小学4年生だったモミィの前でこの歌を歌った。

 ♪  好きな男の腕の中でも
  違う男の夢を見る
  ウ~ウ~ ウ~ウ~
  私の中でお眠りなさい

すると、それを聞いていたモミィが突如、
「それ、あかんやろ。さんかくかんけいやんか」
と、叫んだのだ。

いやまぁ、あの時はビックリしました。
「三角関係」なんていう言葉を知っていたのにもビックリ。

まあ、「好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る」
というのは確かに道徳的にはモンダイあり、なんでしょうけどネ

「ほんまやで。あかんで、三角関係は」
と、何度も繰り返したモミィでした。

それ以来、モミィのいる前では、うっかり歌も歌えませんわ(笑)。

その時のことは、5年前のこのブログに書いています。

  「魅せられて」 (2015年05月23日) 


★次回は筒美京平さんの曲で、先ほど「自分の人生にかかわる曲」と書いた曲について触れてみたいと思います。

では皆さま、また逢う日まで!

 

 

 

 

 

 

 

 

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56年前 10月10日の思い出

2020年10月11日 | 思い出すこと

昨日、10月10日に関する記事をアップしましたが、書き足らないところがあったので、書き直して掲載します。

さて、
昨日の10月10日は、56年前に東京オリンピックの開会式が行われた日でした。

そしてその日が「体育の日」に定められたのですが、いつの間にか「10月の第二月曜日」に変更され、さらに今年は「体育の日」が消え「スポーツの日」という祝日ができて、その日も10月から7月24日に変わっている。理由は、今年開催されるはずだった「2020東京五輪」の開会式に合わせてのことだったそうだけど、これでもう10月10日という僕にとって一生忘れられない日は、世間では徐々に忘れられていくのでしょうね。

 …………………………………………………………………………

56年前→1964年(昭和39年)10月10日は土曜日でした。僕はその時、近畿大学付属高校の1年生で15歳だったのですが、土曜日なので授業は4時間でした。

しかしその日の朝礼で、校長先生から、

「今日はお昼に東京オリンピックの開会式があります。ですから本日の授業は3時間目で切り上げます。諸君、早く家に帰ってテレビで開会式を見なさい」
との嬉しい言葉がありました。

もちろん、僕もまっすぐ帰宅してテレビにかじりつきました。

開会式の画面では、
天皇陛下が席に着かれ、国歌が演奏されたあと、「オリンピックマーチ」が高らかに鳴り響き、各国の選手団の入場が始まりました。オリンピック発祥の地であるギリシャを先頭に英語のアルファベット順に入場し、最後に開催国の日本選手団が入場。その時の僕の興奮は、絶頂に達しました。

それから閉会までの15日間、学校から帰るとすぐにテレビをつけてオリンピックを見て、休みの日となると、ず~っと見ていまでした。

そんなことで、毎年10月10日になると、そのことを思い出します。そのたびに、開会式の入場行進の時に流れた「オリンピックマーチ」のメロディーが思い浮かび、時には口ずさんだりしてきました。ホント、あのマーチは最高でしたね。

以上は、過去の懐かしい思い出ですが、今年の春から始まった、朝ドラの「エール」を見てビックリ仰天したのです。

あの「オリンピックマーチ」を作曲したのがこのドラマの主人公のモデルとなっている古関裕而さんだったということです。ドラマの第一回目が、東京五輪のシーンから始まったので、そのことを知りました。

ちなみに古関裕而さんはそれだけでなく、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も、僕が好きな巨人軍の「闘魂込めて」も作曲されており、それは全然知らなかった。巨人も阪神も応援歌は同じ人の作曲によるものだったとはねぇ

ほかにも高校野球の入場式に流れる曲も、NHKのスポーツ番組が放送される際に流れる曲も、その他、有名な曲がヤマほどあるという偉大な作曲家だったのですね、古関さんは。
知らなかった~

で、あの東京五輪の開会式から56年。

早いですねぇ。
15歳という多感な時期と重なったのも、何かの因縁かも。

その15歳からの10年間というものは、
読書に狂い、年に100冊以上の本を読んだ。大学に進んで和楽器のクラブに入ったけれど1年足らずで挫折。19歳の時に夜間の速記学校に通って今の妻と知り合い、20歳の時に自転車で北海道往復の放浪の旅に出て、22歳の卒業式直前に結婚した。そして4月から勤めた和楽器店を約3カ月で退職し、夏に松原市役所の職員の臨時募集に応募して再就職。翌年23歳で長男(モミィのパパ)、24歳で次男が誕生。25歳の時に今の藤井寺市に引っ越してきた

というふうに、僕としては激動の10年間でした。

では、僕の最近のこの10年間はどうだったか? と言うと
市役所を退職してから「毎日が日曜日」で、これと言って特筆すべき出来事はありません。同じ10年間でも、若い時の10年間と今とでは、えらい違いですわ(笑)。ま、それが普通なのかも知れませんけど。

僕は一人っ子だったせいか、高校生になるまでは、これと言った感激や刺激もなく、たいした苦労もせず、ただぼんやりと過ごしてきた感じがします。でも、この東京オリンピックの頃から「熱中」と言う感覚を知り、自分と向き合い、自分らしい人生がやっと始まったのかな、と今となっては思います。

昨日の10月10日は、56年前の「オリンピックマーチ」を口ずさみながら、そんなことを考えていました。


★おまけ

ちなみに、56年前の東京オリンピックの担当大臣は、河野一郎さんという方でした。この人の孫が、今、ハンコを廃止するなどと何かと話題になっている河野太郎行政改革担当相です。
ま、別にどうってことない話ですけど(笑)。

 

 

 

 

 

 

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46年見続けた風景が消える日

2020年10月09日 | 日常のいろいろなこと

台風14号が迫っている中ですが、いま、わが家の目の前にある住宅や倉庫が取り壊されています。

僕らが藤井寺市に引っ越してきたのは1974年(昭和49年)のこと。その当時からわが家の前には住宅や倉庫がありました。あれから46年が経ち

この度、地主さんが老朽化したその住宅等を処分することにしたそうで、ご挨拶にも見えられました。取り壊された跡地は、新しい住宅地になるとのこと。

そしてこの6日から取り壊しの準備が始まったのですが、工事は昨日からでした。

わが家の目の前の工事だからガ~ン、ガ~ンと大きな音が家の中にも響いてきます。まぁ、ウチも引っ越してきてから15年後ぐらいに家の建て替えをしたので、その時は同じようにご近所に迷惑をかけたので、お互いさまですけどね。

取り壊しは、一軒家が2つと集合住宅とトタン屋根の倉庫などがあって、かなり広範囲です。

そして本格的な取り壊しは今日から始まった。台風の影響で雨が降り続けていたので、僕も今日は一日ず~っと家にいた。おかげで3階の部屋のベランダから、目の前で「取り壊し」の様子を眺めることができた。

いやぁ、こういうのをじっと見ることって、これまでなかったけど、クレーンというのはものすごい力持ちですね~。屋根や壁などをガンガンつぶす。まるで映画に出てくるゴジラが建物を踏みつぶしていくような豪快さだ。そして大きな破片をガチャガチャとトラックの荷台に乗せていく。その動きを見ていると、クレーンの先っぽは人間の手のように器用に動く。ほんと、すごいな、クレーン。

いま午後4時半だけど、強烈な雨風も、ものともせず、1軒の家とトタン屋根の倉庫を完全に取り壊して作業を終えるところだ。

その様子を3階のベランダから撮った写真です。 


 
これは6日の朝です。この日は、工事の下見というか、準備だった。
取り壊すのは写真左上の黒い屋根の家とその右隣りの灰色の屋根の家。
右側手前の二階建て青い屋根の集合住宅。
そして左側手前のトタン屋根の倉庫です。
つまり、この写真に写っている建物のほぼ全部です。

 
昨日から取り壊しが始まり、今日のお昼はこんな感じ。
左上の黒い屋根の家はほぼ取り壊されており、
左下のトタン屋根の倉庫も半分取り壊されています。
  

 
そして午後4時。今日の雨中の作業は終了。
左上の黒い屋根の家は完全に無くなり、
左下のトタン屋根の倉庫も無くなりました。  

46年間見てきた目の前の光景が、消えつつあります。

で、今、午後5時過ぎ。
台風14号の影響で、風雨がますます強くなってきました。

今夜は要注意ですね。

 

 

 

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再び看板・ポスターの話で~す

2020年10月06日 | ズレズレ草

わが家から大和川を渡って八尾市に入ったところにペットショップがあって、こんな看板がかかっている。 

 

そこに「ペットのお見合い結婚相談」という文字があったので「へぇ~、そんなものがあるんや」と興味をそそられた。ペット同士がお見合いをして、お互いに気に入ったら結婚!ということになるんだろうか。でも気に入ったか入らないか、どうしてわかるんでしょうね~。お互いにデレ~っとしたら、その態度でわかるのかな(まさかねぇ)。

こちらは別の隣接市にある、整骨院です。

 
 ここだとしっかりと体をもんでくれそうですね


一方、こちらは大阪ではなく、旅行先(四国)で撮ったものです。

う~うオエッ!

 
 胃腸科そのままのネーミングですね。
 「オエッとなったら “おえ胃腸科” へ」
 なんてキャッチフレーズ、いいかも。

おもしろい看板は海外でも見つけました。ハワイです。

 

ダイヤモンドヘッドの登り口にあった看板。
「いつちい買う必要がありません」とは
「いっさい」の間違いですよね。
(「さ」を裏返すと「ち」の字になりますけどね)
日本人が多く訪れるダイヤモンドヘッドの入口だから、
これは早く書き直してほしい、と思っているのですが、
この時から10年以上経っているので、もう直っているでしょうか。
今後ハワイ・オアフ島に行かれる方は確認してきてください(笑)。

さて、三重県・伊賀の里に「モクモク手づくりファーム」というところがあります。「モクモク」とは? まず園内の建物はログハウスが多いことから「木(モク)」。そしてファーム内の手づくりのハムやソーセージが燻製であることからモクモクと煙が出る。さらに伊賀は忍者の里で有名だから、これも忍者の術で煙がモクモクとまぁそんなことで「モクモク」と名付けられたそうです。

モミィの9歳の誕生日の時、ここへ遊びに行きました。

その園内で見たのがこの看板でした。

 
「もくの細道」?? どこかで聞いたような。


そしてさらに、こんなところにも「細道」がありました。

 

3年前の「サマージャンボ」宝くじに並ぶ人たちの間に、
『億の細道』へようこそ! 
という旗が並んでいます。

確かに、億へ到達する道は限りなく「細い道」ですよね。
しかし
「細道」ではやはりイメージが悪いと思ったのか、
その翌年には「億の近道」に変わっていました(笑)。

 
「細道」から「近道」に変わった宝くじ売り場(大阪駅前)。


では、最後は「のんちゃん」で締めくくります。

大阪府の寝屋川市内を自転車で走っていると、こんな店がありました。

 
 「十杯呑み屋 のんちゃん」とある。
 まだ開店前で、店の中の様子は見られなかった。


ふつう一杯呑み屋とは言うけれど、十杯呑み屋とはね。
つまりこの店に入ると、十杯は呑まなければならない?
ぞくっとするような、うれしい店じゃんか。だははは。

その店の名前が「のんちゃん」なんですからね~

で、思わず自転車から降りて撮影してしまったわけです。

 
お店の自転車置き場。手前が僕の自転車です。

ということで
今日も「ヤマなし、オチなし、意味なし」のお話でした~

 

 

 

 

 

 

 

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看板・ポスターがおもしろい

2020年10月04日 | ズレズレ草

ウオーキングしていると、街のあちこちで、いろいろな看板やポスターが目につきます。そんな中で「これ、おもろ~い!」というのがあると、つい立ち止まって眺めてしまうし、ついでにスマホで撮影したりします。特に、大阪ならではの言い回しで最も有名で面白がられているのがこの看板でしょうね。

 

 

   
大阪弁まる出しのところがいいですね。

これも地域によっていろんなパターンがあり、ネットを見てみると、沢山出てきます。中でも目を引いたのは大阪市東成区のこの看板でした。

 
  ネットから拝借した写真です。


ということで、先日、久しぶりに阿部野まで歩いた時にも、いろいろな看板、ポスターに出会いました。

まず目を引いたのが、いま大阪市で問題になっている「大阪都構想」のこと。歩いているうち、やがて大阪市内に入ってくると、このようなポスターが至る所に貼られていました。

 
 「都構想 大阪市廃止に NO!」 とあります。

大阪市を廃止して4つの特別区に再編する「大阪都構想」の是非を問う2度目の住民投票が11月1日に行われますが、それに向けて、これは都構想反対のキャンペーンですね。僕は大阪府民ですが、大阪市民ではないのでこの都構想の投票には関係ないのですが、果たしてどうなるのか? 気になるところです。

で、しばらく歩いて行くと、閉まっている店にこんな看板が。

 

アップにすると

   
  「商い中」? シャッター閉まってるやんか!

この時、午前10時半頃でした。たぶん、このボードの裏には「心を込めて準備中」のような字が書いてあったはずですけど、昨晩、閉店した時にひっくり返すのを忘れたままだったのでしょうね~。 それにしても、どこが「只今元気に商い中」やねん!
しっかりしぃや。きいつけや~!

それと、阿部野が近づいてきたとき、こんなのもありました。

貸しガレージだと思いますが、「空き」があるというお知らせです。

 

意味は分かりますが、僕は言葉にうるさいほうなので、
「空 ガレージ 有ます」
なんて看板を見たら、「何、これ?」と思うのです。

ここは、ちゃんと「有ります」と書かなければね。
子供が真似するかもしれないし、正しい送り仮名を使ってください! 

と、まあ、僕もうるさいウオーカーですわ。

さて、今日はこれぐらいにしておきますが
こんな機会ですから、次回は、
これまでブログに載せた面白看板・ポスターを掲載します。

たとえば、こんなのです。

 
  大阪・天満を歩いていた時に見た看板。
  ビール大、チューハイが10円でっせ~
  急いでいたので素通りしましたが、
  入りたかったわ~

 

 

 

 

 

 

 

 

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今年は昭和で言えば何年? 平成で言えば?

2020年10月01日 | 雑記

ある日のこと。
預金通帳を見ていた妻が僕のほうに目を向け、

「平成33年って、いつ?」と尋ねた。
平成33年?
「はぁ? なんのこと?」
と僕は、質問の意味がよく分からず、聞き返した。
「これよ」
と、妻が見せてくれた定期預金の通帳を覗き込むと、
「満期日 平成33年〇月✖日」
と記入されていた。

あ、そ~ゆ~こと。

何年前か知らないけれど、それが記入された時は平成の世だったので、そのまま「満期日・平成33年」となっているのだろう。

でも元号は去年の5月から令和に変わっている。もう平成じゃない。
だから平成33年って言われたら戸惑いますね~。

で、去年、つまり平成最後の年は平成何年だったっけ? 
それも忘れてしまった。
 
そこで僕はこんな計算方法を思いつき、妻に言った。

「え~っと、モミィが生まれたのが平成17年で、今年誕生日が来れば15歳になるんやから、17と15を足して、あぁ~、32ね。つまり今年は平成で言うと32年ということになるんだよね」
妻は、「なるほど~。じゃぁ平成33年は来年ということね」

そんな会話を交わしながら、僕は「元号ってややこしいねぇ」とため息まじりにつぶやいた。西暦との変換もむずかしいしね。

僕らが生まれ育った昭和の世は「昭和に25を足せば西暦になる」ということが常に頭に入っていた。たとえば昭和45年と言えば25を足して70だから1970年。昭和60年なら1985年、という具合。しかし、昭和から平成に変わるとそれがよくわからなくなる。

平成10年は西暦何年? と言われても、即座にわからない。人の年齢も、昭和30年に生まれた人が平成10年には何歳? と聞かれてもピンとこない。だから僕は、平成になっても「今年は昭和で言えば何年」ということを常に頭に入れてきた。これはなかなか便利である。今年の場合、昭和で言えば95年だから、昭和40年生まれの人なら95から40を引いて55歳ということがすぐにわかる。

今度はその平成が令和となり、僕もだんだん物覚えが悪くなってきているので、去年の令和元年は平成何年だったか? ということも忘れてしまった。だから、平成33年っていつなの? と妻に聞かれても即答できなかったわけ。

そんなことで去年は4月まで平成31年で、5月から令和元年だったんですね。で、今年は令和2年で、平成で言えば32年、ということになります。昭和から平成、令和と変ると西暦との変換がいよいよややこしくなる。僕の頭の中では、いまでも昭和だけが居座り続けています。

こういう元号を使っているのは現在では世界中で日本だけ、と言われています。あらゆる分野で超便利になった世の中ですが、この元号だけは甚だ不便ですね~(歴史・伝統があり、そして神聖な元号に対してこんなことを言っちゃ𠮟られるかも知れませんけど)。

そして令和に入ると、今度は「今年は平成で言うと何年?」というモンダイがいろいろ出てきます。冒頭の預金通帳の満期日もそうですし、また運転免許証の有効期限なんかでも「平成34年まで」というようなことが書かれています。わが家では、これからは、モミィが生まれた平成17年の「17」と、モミィの年齢を足すという方法で「平成で言うと何年?問題」を乗り切って行こうと思っています。

と、何の役にも立たない情報でした。
あしからず。


あ、ついでにもうひとつ、
NHKテレビのBSで毎朝7時15分から昔の連続テレビ小説が再放送されていますが、今月から始まったのが沢口靖子主演の「澪つくし」(1985年)です。その中で大正天皇崩御のニュースが流れる場面があったのですが、大正天皇が亡くなられたのは1926年の12月25日で、当時は「即日改元」だったので、その日から昭和天皇が即位されました。

ということで、昭和元年は12月25日から31日までのわずか7日間しかなかったのでした。そしてその昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に亡くなられ、翌8日に平成天皇が即位されました。つまり、昭和64年も7日間しかなかったわけで、昭和というのは最初と最後の年が、共に1週間だけだったんですね。

こう見てみると、わずか7日間しかなかった「昭和64年」生まれの人というのはごく少数なんでしょうね~。「昭和元年」生まれだったという方にもこれまでお会いしたことはありませんし。

ハイ。これで終わりです。
これもまた、何の役にも立たない情報でしたね。

 

 

 

 

 

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