僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

平成最後のブログです~

2019年04月29日 | 日常のいろいろなこと

今日は4月29日。昔は昭和天皇の誕生日で祝日だったのですが、その後「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わり、そして今は「昭和の日」なのですね。カレンダーを見ると、今日が「昭和の日」で、明日30日は「退位の日」、そして明後日5月1日は「即位の日」と印刷されています。

平成の時代も、明日で終わりなんですね~

テレビでは平成30年間の大きな出来事やスポーツ名場面などを映像で振り返る番組が連日放送されており、また新聞折込のスーパーのチラシには「平成最後の大バーゲン」とか「ありがとう平成・大セール」なんていう文字がデカデカと踊っています。そうか、いよいよ平成時代も終わりなんや、と改めて思う次第です。

天皇陛下は明日の午後5時から退位の儀式を行われるとのことですが、そういう儀式が行われるのも202年ぶりなんだそうです。

  …………………………………………………………………………


思い返せば、1989年1月7日に昭和天皇が崩御され、その日のうちに新元号が「平成」に決まりましたね。そして翌日の1月8日から平成が始まりました。

 
 1989年1月7日 朝日新聞夕刊

その平成がスタートした1月8日というのは、僕の30代最後の日で、翌1月9日に満40歳の誕生日を迎えました。

そんなことで
昭和の時代を40年生きて、平成の時代を30年生きたことになります。

こう見ると、昭和が自分の人生の前半で、平成が人生の後半ということになりますが、じゃぁ次に始まる令和は?というと、これはもう「人生のロスタイム」でしょうか(笑)。モミィがいなければ、自分はもういつ死んでも思い残すことはない、という心境になっていると思いますが、現実にはそうもいかず、健康にも気を配らなければならないので、なかなか厳しいですわ。

このブログをお読みくださっている皆さまには、改めて心より感謝いたします。これを平成最後のブログとさせていただきますが、また新しい時代になっても、一向に新鮮さのないこのブログですが、しつこく続けたいと思いますので、またよろしくお願い申し上げます。

明日はどのテレビ局も報道特別番組が組まれているようですが、NHKでは「ゆく時代くる時代」というタイトルの番組もあります。「ゆく年くる年」をもじったんでしょうね。

それでは皆さま、どうかよいお年をじゃなかった、よい「お時代」をお迎えくださいませ~

 

 

 

 

 

 

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令和に死す ?!

2019年04月27日 | 日常のいろいろなこと

今日から「10連休」がはじまりました。かつてなかった10連休が始まったということで、今日は海外旅行へ行く人たちへのインタビューなどがあちらこちらで報道されていました。

ところで 僕は10連休くらいでは驚きません。仕事を定年退職してから10年間、ず~っと連休が続いているんですから。10連休どころか「10年連休」ですわ。さらに言えばこの先も連休が続きますから、つまり、まあ「死ぬまで連休」というところですか(笑)。

さて、平成時代もあと3日となりました。マスコミはじめ、世間では何でもかんでも「平成最後」という言葉をつけていますね。

3月には「平成最後の大相撲」とか「平成最後の甲子園」とかありましたけど、今でも毎日「平成最後の〇〇コンサート」「平成最後の〇〇展」とか、とにかく何でも「平成最後のナントカ」が大流行です。

そして5月に入ると、今度はもう平成のことなどすっかり忘れてしまったかのように、「令和最初の〇〇!」の大合唱でしょうね。記念イベントも目白押しだと思います。令和、令和、令和元年!

日本人はこういうことで盛り上がるのが好きなんですよね。盛り上がるだけ盛り上がって、すぐに忘れる。

さて、僕らは「平成」と言っても、それが終わろうとしている今でもまだピンと来ません。たとえば、阪神大震災が起きたのは1995年ですが、それが平成何年だった?と聞かれてもわかりません。昭和だったら、頭の中で西暦と結び付いていたので、昭和何年は19〇〇年、というふうにすぐに思い出せますが、平成になってからは、「あれはいつだったか?」というのがわからなくなったような印象があります。

そんなピンと来ないままで平成が終わり、また次の元号が始まります。

令和元年が今の西暦2019年すよね。で、大阪万博が開催されるのは2025年だから、令和でいえば何年? え~っと、令和7年か。

やれやれ。昭和から平成に変わってなってややこしくなったのに、これがさらに令和へとまたがると、ますます西暦との兼ね合いが難解になってきます。メディアも、過去の出来事は西暦で統一する、とかしてくれたほうが、記憶をたどりやすいんですけどね~

新しい元号の始まる日が近づいてきて、また5月1日から、世間やマスコミが大騒ぎする光景が目に浮かびます。

まぁ新時代と言っても、僕も残り少ない人生ですから、令和の一ケタのうちに、この世から姿を消してしまうんだろうと思いますけど。

 

 

 

 

 

 

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イオンモール藤井寺 完成まであと3ヵ月

2019年04月25日 | 日常のいろいろなこと

1973年(昭和48年)に建設され、約40年後の2014年(平成26年)に閉店して取り壊されたわが街・藤井寺のイオンが、数年間放置された後、去年やっと再建の工事が始まりました。

そのことを、僕もこのブログで何度か書いてきました。

少しずつ工事が進んでいるのを目にしながら、完成を心待ちにしているのは、もちろん僕だけではなく、地域の人たちのみんなの思いです。そして、その完成がいよいよ近づいて来たのです。

完成は今年の7月15日と公示されています。
つまりあと3ヵ月足らず。

そして先週、その様子を写真に撮りました。
去年からの写真(このブログで載せた写真)から順にそれを掲載します。 

まず去年の写真から。

 
やっと工事が始まったのが去年の7月でした。 

 

 
そして建物が建ち始めたのが去年の10月。

 

 
12月になるとこんな感じです。

 

 
同じ時に撮った写真です。
先の写真はいずれも駅の側から撮ったものですが、
これは、駅のほうに向かって撮った写真です。
この建物の突き当りが近鉄南大阪線・藤井寺駅です。

  
そして
今年になって2月の写真です。

 
外観がくっきりと見え始めました。


 
これは駅に向いての写真。

 

そんなことを、これまでのブログに載せてきました。

そして現在。4月になり、その姿がいよいよはっきり見えてきました。

 
塀や足場もなくなり、ホント、いよいよという感じです(先週に撮影)。

 

 
同じ日。駅の方へ向いた角度から。
ここにも入口があるようです。
我が家からは、ここから入ることになるのでしょうね。

7月のオープンが、今から楽しみです~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高齢者の運転事故に思うこと

2019年04月23日 | ニュース・時事

東京の池袋で、87歳の男性が100キロ近いスピードを出したまま信号無視をして突っ走り、31歳のお母さんと3歳の女の子を死亡させるという事故が起きた数日後に、今度は神戸の三宮で市バスの運転手が青信号で横断中の列に突っ込み、若い男女を死亡させるなどの悲惨な事故が起きた。どちらの事故も、なぜ運転手がそんな不可解な行動をしたのかということが、まだよくわからないままである。

それにしても、池袋の暴走の事故のほうは、運転していた男性が87歳ということで「またか」という思いが強い。高齢者による交通事故がどれほど多いことか。

去年、わが家の近所で91歳の男性が1歳の子をはねて大怪我をさせ、新聞にも載った。その時にも高齢者の運転についてこのブログに書いた。一定の年齢を超えたら免許証を返納して運転をやめるべきではないか、と。

やはり、それによって尊い命を奪われた人たちのことを思うと、当局も、年齢による運転免許証の交付の制限を考える時期に来ているのでは、と思うほかない(むろん運転能力には個人差があるので、むずかしい問題であることは承知の上ですが)。

高齢者は、運転に関し、以下のことを意識しなければならないという。

★車庫入れがうまくできない
★ウィンカーを出し忘れる
★道路標識を見逃す
★一方通行を逆走しそうになる
★カーブがスムーズに曲がれなくなる
★交通違反を繰り返す

こういうことが一つでもあれば、運転はやめたほうがいい、ということを専門家が言っていた。高齢運転者はぜひ肝に銘じてほしい。

ちなみに僕は21歳の時に運転免許証を取った。その後、父親の車で友達のいる京都へ行ったり、大阪近郊をドライブしたりした。叔母が住んでいた日本海の丹後半島まで走ったこともある。

でも僕は早い時期から自分が運転に向いていないことを感じていた。運転中も、何か気が散るのである。つまり注意力が散漫なのだ。

運転中によそ見していて中央分離帯に乗り上げかけたり、ぼんやりしていて踏切の遮断機が降りているのを直前に気づいて急ブレーキをかけたり、 狭い道でもう少しで溝に落ちかけたりと、危ないことだらけだった。

仕事でもごくたまに車を運転していたが、ある日、職場のガレージで車をバックで入れる時、バックし過ぎて車の後部を鉄柱にぶつけた。

音に驚いてかけつけた車両担当者が、 「あのね、バックでの車庫入れは、アクセルを強く踏んじゃダメ」 と言ったあと、 「〇〇クン、車の運転はやめておいたほうがええんと違う? そんな運転だと、この先、人でもハネたら取り返しがつかないよ」と言われた。

僕は彼の言葉に深く納得し、それ以来、車の運転を完全にやめた。今思うと、もしあの時やめていなかったら、いつか大きな事故を起こし、残りの人生を棒に振っていた可能性が高かったのではないか、と正直言って思う。

ということで、前述の「★車庫入れがうまくできない」ことで、僕は車の運転をやめたということになります(それ以来ずっとペーパードライバーで、3年半前に免許証は自主返納しました)。

僕の場合、性格的に車の運転が向いていなかったわけだけど、高齢になると自然に頭と体が連動しなくなったり、危険を察知する能力が衰えたり、何かの拍子に固まってしまったりして、運転への適応性が衰えていくので、やはりこれも車の運転には適していない状態と言える。

危険かつ無謀な運転で人を死亡させた場合は、ご存知のように「過失運転致死傷罪」と「危険運転致死傷罪」というのがあり、特に後者は最高で懲役20年の刑だという。

しかし、高齢者で、今回のように故意に人を轢き殺したのではなく、また過失があったとしても、どういう過失なのか立証できなければ、無罪の可能性すらある、というのだ。高齢になり、自覚のないまま運動能力が低下していたり、頭がパニックになったり、という状態だったら過失にさえ問えない場合もあるそうだ。繰り返すが、それで亡くなった人、そして残された家族は一体どうなる? 殺されたも同然なのに、誰も罰せられない。こんな理不尽なことが通っていいのか、と思ってしまう。

年齢だけによる運転免許証の交付の制限が難しいのなら、免許証の更新時に実技試験も入れてその人のとっさの判断能力を見たりし、結果次第では更新はできない、という制度にすることも早急に考えなければならない。

高齢者による様々な自動車事故が何度も何度も繰り返され、数多くの罪のない人々の尊い命が次々と奪われていくのを、ただ「法的には厳罰に処せない」とか「無理に免許証の返納をさせることはできない」というようなことのままで放置していていいのか、と、今回の事故を見て、改めて強い焦燥感が湧き上がってきたのです。

 

 

 

 

 

 

 

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選挙カーから聞こえてきた一言 それは…

2019年04月20日 | 日常のいろいろなこと

今日は土曜日。わが街の市長と市議会議員の選挙戦も最終。がぜん、熱を帯びてきています。

今日の午前、買い物がてらに街の中をウオーキングしていたら、ある市長候補の車がすぐ横を通って行きました。僕は歩道を歩いていたのですが、その選挙カーのほうを見ると、僕を追い越しざま、「〇〇さま、振り返っていただきありがとうございます」と、車の中から何人かの人たちが僕に手を振ったのです。

「〇〇さま」と言われ、ひっくり返りそうになりました(笑)。

これは今から数時間前の話で「〇〇さま」の意味はあとで明かします。

明日の日曜日は、統一地方選挙の後半戦の投票日ですね。つまり、政令指定都市を除く市町村の長と議員の選挙です。

ま、僕が勤めていた松原市のように、今回は選挙と関係のない都市もありますけども、わが街は市長選挙も市議会議員選挙もあるので、この1週間「市議会議員候補〇〇です、よろしくお願いいたします~」「市長候補の〇〇です。よろしく~」と、賑やかに候補者たちがあちらこちらを回っています。特に今日は最終日なので「最後のお願いに参りました」などとますます騒がしくなっています。

わが街藤井寺市はとても面積の狭い市で、わずか8.9平方キロメートルしかありません。日本全国で800近い市があるのに、後ろから5番目に面積の狭い市なのです。もちろん大阪府の中でも一番小さい市です。

そんな狭い市域に、市議会議員候補者が22人。当選するのは 14人ですから、まあ、他市から見てわりに競争率が高いほうだと思いますが、なにせその22人と、市長候補も3人いるので全部で25人が市内をグルグル巡っているのですから、どこも賑やかですよね~。

僕は松原市に勤めていた38年間のうち、議会事務局に26年間いたので、松原の市議会議員さんたちはよく知っています(といっても退職して10年だから今は議員メンバーもガラッと変わっていますが)。

今回の選挙でも、旧知の松原市の元議員さんたちから「〇〇さんのことお願いしますよ」と電話がかかってきたり、実際に家にまで来られたり、また候補者ご自身が「〇〇さんからご紹介をいただきまして」と何度か家に訪ねて来られたり、ということで、まぁホントに選挙って大変だなぁと改めて思った次第です。

ところで、選挙公報というのが各家庭に配られますよね。そこに市長候補や市議候補がそれぞれの公約とか抱負を書かれています。市議会議員は行政を直接担当するわけではないので、やはり市長候補の人の公約に目が行きますよね。

すると

今回の3人の市長候補の中で、ある人が「学校給食の無償化」と「18歳以下の医療費の助成」を公約に掲げていました。うちには中学2年生で13歳のモミィがいるし、しかも今月から公立中学に変わったんだから、給食代が無償になるといいじゃん。さらに医療費助成は今は15歳までだけど、それが18歳まで延びたら、これもいいじゃん。

な~んて思っていたところだったのです。

さて、そこで冒頭の話に戻ります。

今日、僕は買い物ついでに府道沿いの歩道を歩いていました。そこへ道路の後ろから選挙カーが通りがかり、ふと見ると、その「学校給食無償化」などを公約に掲げていた市長候補の人だった。「おっ、この人か?」と車を覗き込むようにしたら、選挙カーの人たちが一斉にこちらに手を振って、「ありがとうございます。お兄さま、振り返っていただきましてありがとうございます」

そう言って、皆さん、車から身を乗り出して手を振ってくれたのです。

「お兄さま」ですわ。冒頭の「〇〇さま」は、お兄さま!

まあ、僕は小柄で童顔だし、ユニクロで買った薄手のパーカーを着て、リュックを背負い、日よけに野球帽をかぶり、胸を張り両足をまっすぐ出してシャシャっと歩く「正しい歩き方」を実践しているのだから、横から見たら若く見えたのかもしれない。でも「お兄さま」とはねぇ。さすが~選挙中の人たちだ。口がうまいわ(笑)。

給食費の無償化やこども医療費の公約のこともあるので、明日はこの人に投票するか。それに「お兄さま」にも気を良くしたしなぁ(笑)。

家に帰って妻にそのことを言うと、妻は笑って 「おにいさま」ではなく「おじいさま」の聞き間違いじゃない? な~んて、ケラケラ。 なんだ、それは?

さらに、 「逆に若く見えすぎて、お坊ちゃま、て言われるよりよかったね」 と言った後、 「お坊ちゃま、おうちに帰ったらご両親によろしく、なんちゃって」

やれやれ

ということで、明日はまた投票です。

 投票用紙にうっかり「お兄さま」と書きそうですわ。

 

 

 

 

 

 

 

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ノートルダム大聖堂 まさかの火災

2019年04月17日 | 旅行

昨日の朝の6時半。
テレビをつけたら驚くべきニュースが流れていた。

パリのノートルダム大聖堂が燃えており、その映像を見て体が凍りついた。 「まさか」と思い「ウソやろ」と頭が混乱した。しかし、間違いなくあの大聖堂がテレビに映っており、そこが炎に包まれていたのである。息を凝らして見ていると、尖塔が火の中で崩れ落ちていった。うそやろ!

その後、どのチャンネルでも大きくこの火災のニュースを伝えていた。信じたくないけれど、あのノートルダム大聖堂が、燃えてしまったのである。あの思い出多いノートルダム大聖堂が

これまで海外旅行で一番多く行ったのがパリで、4回行った。いずれの時も、パリで最初に行ったのがノートルダム大聖堂だった。

ノートルダム大聖堂は、セーヌ川の中州のシテ島にあって、近くにはパリ市役所もあり、パリの中心地である。大聖堂の前には「パリ・ゼロ地点」というのがあり、パリからの距離はすべてここから起算される。


  
これがそのゼロ地点の写真です(1994年10月撮影)

 

それにしても、あのノートルダム大聖堂が燃えてしまうとは。

昨日は4度のパリ旅行の大聖堂での写真を見て、思いに耽りました。

最初は1994年10月。大阪府の市町村職員の海外研修というのに参加させてもらったのですが、その時、初めてヨーロッパを訪れ、パリにも行きました。

その時に、他の市町村の職員の人たちと撮った写真がこれです。

 

  
僕は右から2番目です。
これはノートルダム大聖堂の正面です。
この時も修復工事が行われていました。

 

続いて翌1995年の10月、妻と2人でパリへ旅行し、その時もまずノートルダム大聖堂へ行きました。

  
これは、寺院の裏庭からの写真ですが、
こちらのほうが建物の美しさが際立っています。

この時は2人だけの個人旅行だったので、このあとテクテク歩き、パリ市役所やパリ高島屋などへ行ったりしながらオペラ座周辺を巡り、やがて日が暮れ始め、地下鉄に乗りエッフェル塔の夜景を見に行ったのを思い出します。


次に行ったのは1999年の1月。妻と長男と3人で、ロンドン・パリ・ローマのツアー旅行で、やはりノートルダム大聖堂へ行きました。

 
冬のパリは初めてで、寒かったです。


4度目は退職を1年後に控えた2008年の4月。妻と、妻の姉と3人でパリへの個人旅行をしたのですが、その時も、真っ先にノートルダム大聖堂へ行きました。これはその時の写真です。

 
妻の姉が撮ってくれました。

 

そんなことで、4度訪れたノートルダム大聖堂での写真を見ながら、これらの時のことを一つひとつ思い出しています。しかし今もこの素晴らしい建物が燃えてしまったなんて信じらません。

今年の夏休み、妻と妻の姉とモミィと共に4人でパリへ旅行する予定をしています。モミィにノートルダム寺院を見せてやるのが楽しみの一つだったのに、それが「焼け跡」になってしまったなんて、とても残念です。

むろん再建はされるそうですが、かなりの年月がかかるし、また、1163年から建築が始まったというこの建物自体はもう戻ってこない。

「どんなものにも永遠はない」
ということを、改めて突きつけられた思いです。

 

 

 

 

 

 

 

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転校から1週間 2度目の新入学?

2019年04月14日 | 日常のいろいろなこと

モミィが新しい中学校へ通い始めて1週間が経ちました。

8日(月)の始業式から3日ほどは学校が午前中に終わるので、午後から何人かの幼なじみの友だちと遊びに行ったり、家に呼んで部屋でワイワイ騒いだりして嬉しそうにしていました。

ところで、
前の学校でモミィは最後まで自分が退学することは黙っていたので、新学期が始まってそれを知った何人かの「理科クラブ」の仲良し友達(主に男子生徒)から何通かLINEが届いたそうです。

「学校やめたん? びっくりした」
「なんで? どうしたん?」

というようなものだったそうですが、今日の日曜日は、その元の学校の理科クラブの子たちが「モミィと会う集い」というのを企画してくれたということで、モミィは午前中からウキウキと阿部野へ出かけました。

そういうことで、あっという間に1週間が過ぎましたが、これまでに比べて、僕たち家族の生活のリズムが少し落ち着いてきたことも事実です。朝は比較的ゆっくりだし、モミィの通学時間は歩いて10分少しだし、親しい友達はたくさんいるし、帰ってくる時間は早いしということで。

まぁそんな状況です。

でもね。

思えば転校するというのもなかなか大変なことでした。
先日も描きましたけどね。

まず、藤井寺市の教育委員会へ行き「私立学校に関する区域外就学の事由の消滅について」という届けを出します。これはモミィが去年、通っていた小学校から校区の中学校へ進まず私立の中学に行ったので、その時「区域外就学の届け」のようなものを提出していたのですね。その「事由」が消滅したので校区中学校へ戻る、ということを申請する書類なんだそうです。それに私立中学の「在学証明書」(去年の4月1日から今年の3月31日まで在学という証明)も必要だったので、それも私立中学に申請して交付してもらい、添付しました。

その後もいろいろ手続きはあったのですが、それとは別に、新しい学校へ行くのですから、また制服などが1から必要になりますよね。

まず制服は、ブレザー、スカート、長袖シャツ2枚、夏のスカート。そしてトレパン、トレシャツ、半袖トレシャツ、ハーフパンツ、ウィンドブレーカーなども揃えなければなりませんし、さらに靴も、教室用の上靴と体育館シューズの2種類が必要です。

それぞれ、指定の店に行って作ってもらいました。もちろん、そういうことはみんな妻がモミィを連れて採寸などに行ったのですが、制服のお店は、約30年前の息子たちの時と同じ服屋さんだったそうです。

ほかにも、カバンなどもそうですが、すべて1から必要ですよね。

いろいろとお金、かかりますわ(笑)。

一方では、これまで使っていた私立中学校のネーム入りの制服類、体操服類、バッグ類その他諸々も沢山あったのですが、これももう、すべて不要になりました。まだまだ使えるのになぁと、少しもったいないような気もしましたけどね。

う~ん、なんだか二度目の入学式を迎えたみたいです。

 

 

 

 

 

 

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「なつぞら」「おしん」「あさが来た」と新しい紙幣

2019年04月12日 | 映画の話やTVの話など

朝ドラの「なつぞら」は主人公の子役の熱演が光っていますが、同じ4月1日から始まった再放送「おしん」は、やはり何度見ても泣けます。この子役が小林綾子ですが、今日の「なつぞら」にその小林綾子が出てきたので驚きました。主人公のなつの友だちの母親役を演じていました。

「おしん」は1983年(昭和58年)から翌年までの1年間放映され、歴代視聴率第1位の人気ドラマでしたが、小林綾子があれから36年後の今日、第100回目の朝ドラ「なつぞら」に出てくるとは

BSでは朝の7時15分からの「おしん」に続き7時半から「なつぞら」が放送されていますが、7歳のおしん役をしていた小林綾子が15分後には中年女性として登場したのですから、こりゃぁビックリです(笑)。

それともう一つ、夕方に再放送されている「あさが来た」も毎日録画して見ています。ディーン・フジオカの「五代様」は亡くなったけれど、今日見ていると「西の五代・東の渋沢」と言われ「銀行の神様」の異名を持つ渋沢栄一が出てきました。えっ、あの渋沢栄一?

ご承知のとおり、つい先日、新しい紙幣の肖像画が発表されたところですが、1万円札は福沢諭吉から渋沢栄一になるんですよね。

その渋沢栄一が、今日見た「あさが来た」に初登場したのです。少し前だったら「渋沢栄一」と言っても「名前だけ知っているけど」という程度だったのに、次の「1万円札の顏」と決まったとたんなので、今日はドラマに出てきたその人物を、目を凝らして見つめた次第です。

新しいお札は5年後の2024年度に発行されるそうです。

さてそれから、5,000円札は樋口一葉から津田梅子という人に変わるということですが、この人は津田塾大学の創始者とのこと。

大学の創始者といえば「あさが来た」のあさのモデルは広岡浅子という人で、日本女子大学の設立に尽力されたということです。ということは、このあさのモデルの女性が5,000円札の顏になっていてもよかったんじゃないか、な~んてことを思ったりして。

「なつぞら」「おしん」「あさが来た」という新旧の朝ドラを見ながら、ドラマのストーリーとは関係のないことばかりが、あれやこれやと頭に浮かんでくるのです。

注意力散漫
これも年のせい。

でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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モミィが退学 今日から校区の中学校へ

2019年04月08日 | 日常のいろいろなこと

春休みが終わり、今日から新学年の学校生活が始まりました。

モミィは去年、電車で30分かかるところにある中高一貫の私立中学を受験し、それから1年間、そこで学びました。朝早く起きて7時前に家を出、重いバッグや手提げを持って自転車で駅まで行き、電車に揺られ、着いた駅からまた15分ほど山道を登って学校に着くというハードな通学を続けてきましたが、それも先月で終わりました。

実はこれまで書きませんでしたが、モミィは3月31日をもって私立中学を退学し、4月1日付けで近くにある校区の公立中学校へ転校したのです。そして今朝は始業式で初の登校。近所に住む小学生時代からの仲良しの2人の友だちが家に迎えに来てくれ、3人一緒に元気に出ていきました。

転校の理由はいくつかあったのですが、一つはクラスの友だちとうまく行かなかったこと。部活の理科部ではみんな仲が良かったようですが、クラスの女の子たちはいくつかのグループがあり、モミィはどのグループにも特に属することはなく、「嫌なことをよく言われる」と妻にこぼしていたようです。いわゆる「いじめ」に類するようなものです。

それともう一つは、塾での先生や友だちとの会話の中でいろんな高校の話が出て、自分で高校を選びたい、という気持ちが芽生えたようです。しかし今は中高一貫校なので、普通はそのまま高校に上がることになる。つまり高校の選択肢がないのが、モミィの悩みだったようです。

その2つが主な理由ですが、休みの日には小学校時代からの何人かの友だちと遊びに出かけたりしているうちに、やはり今の学校のクラスメイトにはない温かみを感じたり懐かしさを覚えたりしたのか、気持ちが徐々にその子たちが通う地元の公立中学に傾いて来たのではないかと思います。

思えば今年の2月ごろ。妻から「モミィが転校したがっている」と聞き、ビックリしました。元々今の私立中学はモミィ自身がぜひ受けたいと言った学校です。僕たち夫婦や塾の先生は他の私立中学を勧めたのですが、結局本人の意思を尊重しました。だから妻から話を聞いたときは驚きましたし「なに、それ?」という気持ちもありました。でも、やはりこれは本人の問題だし、その気持ちを尊重するしかないだろうとなり、妻がモミィに「じゃ、自分で決めなさい」と伝えたようです。

そして、本人も悩んだことだと思いますが、2月末の北海道へのスキー実習から帰ってきて、3月3日の日曜日にまた幼なじみの友達と遊びに行った時、その夜にモミィは妻に転校の意思をはっきりと伝えたとのことです。

その翌日の3月4日からは、今度は僕たちのほうが大変でした。まず学校に電話で退学の意思を伝えてから、こちらの教育委員会へ行って事情を話し、手続きを教えてもらい、次に学校へ行って退学届を出し、関連する必要書類をもらい、また教育委員会へ出向き、書類を整え、その後、転校先の公立中学に足を運び諸々の手続きをという具合に、3月はそんなことでバタバタしました。

中でも、通っていた学校に退学の申し出をするのが一苦労でした。まず3月4日に妻が学校の担任の先生にそのことを電話で伝えました。その夜に、担任からまた電話がかかってきたので、今度は僕が出ました。先生は相当ショックを受けられたようで、

「理由は何ですか? 何か不具合でも? 経済的なことですか? それならそういう制度もありますので。とにかく電話では何ですから、一度直接お会いして詳しい理由をお聞かせください」

と、何だか泣かんばかりの口調で述べられたのですが、経済的理由ってなぁ。なんだ、それ? なにせ私立だから、お金がかかることぐらい入る時からわかってるっていうねん。

僕は担任に「電話でも、直接会ってでも、もう決めたことですから一緒ですがな!」と応戦。「電話では話にならんというわけですか? じゃ、何のために電話ってあるんですか?」
ここは威勢良く、まくしたてる僕でした。とにかく相手を諦めさせなければならない。

一度決めたことだから学校へ残るつもりはないのですが、直接会うと必ず説得攻めにあうでしょう。特に「クラスの人間関係がねぇ」とでも言ったら、まだ3月下旬の終業式までモミィは学校に通いますし、退学の話は誰にも話さないつもりなのに、今度はモミィが担任から「いじめとかあったの?」などと根掘り葉掘り聞かれて、ひょっとしてクラスに漏れたりするかも知れない。モミィはそれが絶対に嫌なので、妻に「家の都合で、と言ってほしい」と頼んだようです。だから僕としても「諸般の都合で」とか「一身上の理由で」とか、あいまいな理由でお茶を濁さなければなりませんでした。しかし「結論に関しては絶対に変わりませんから」とだけは、きっぱりと伝えました。

その3月4日の電話のやり取りの後、6日に妻と学校へ行ったら、校長先生や学年主任まで同席し「何とか考え直せませんか?」という目で見つめられました。僕は例によって「もう決めたことですから」の一点張りで、退学届の理由欄には「一身上の都合」と書きました。たしかに、なんのこっちゃわかりませんけど。

モミィは1年間、無遅刻無欠席で、在学中には英検の準2級も合格したので担任の先生も期待してくれていたのかも知れませんが、やはりモミィにとって居心地が悪いのならやむを得ません。

そんなことで、今日から校区の公立中学校の2年生として、仲良し友達と一緒にうれしそうに家を出て行ったモミィです。ちなみに、この中学校は、長男(モミィのパパ)も次男も通った中学校なので、僕たちも馴染み深いです

ところで公立中学には学校給食があります。これまでのように5時15分に起きてお弁当を作らなくてもよくなったのは、正直、やれやれですわ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

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「なつぞら」 の放牧シーンで思い出した “恐怖の体験”

2019年04月05日 | 映画の話やTVの話など

4月に入り、NHKの朝ドラは「まんぷく」が終わって「なつぞら」が始まった。これが朝ドラのちょうど100作目とのこと。すご~い。いつから始まったんだろう? と調べたら、1961年(昭和36年)からでした。まさに歴史と伝統あるドラマ枠ですね。まぁ、僕は朝ドラの「にわかファン」ですから、過去のドラマはほとんど見ていません(笑)。でも、1日15分だけなんだから、勤めている時も見ていたらよかったかなぁ、と思ったりもしています。

この「なつぞら」は北海道の大自然が舞台になっていますね。主人公の少女・なつが孤児となり、戦死した父の親友が自分の家である北海道の十勝へ連れて帰り、そこでなつの新生活が始まる。その家は酪農家で、なつは牛が放牧された後の牛舎を掃除したり、やがて乳搾りもするようなったりする。なつを演じる女の子の演技がとても上手なので、それを見ているだけでも胸がキュンとなります。


   

さて、この写真にあるように、ドラマの中では牛たちが広々とした草原へ出て草を食べる風景が出てきます。これを見て、僕は自分の20歳の時の自転車旅行での「ビックリ体験」を思い出さずにはいられませんでした。

北海道は当時、国道でも舗装されていないところが多く、特にオホーツク海に沿った道はひどいガタガタ道だった。音標(おとしべ)というところを過ぎたあたりで夕方になったので、浜辺に降りてテントを張り、そこで一夜を過ごした。

朝、テントに何か動物のようなものが近づいて来た。外を見ると放牧されている牛たちだった。テントが珍しいのか、草を食べながら徐々に近づいてきて、なんとテントをペロペロと舐め始めたのである。テントの中で身がすくんだ。

怖~い!

こりゃあかんわ、と、そ~っとテントから抜け出した。そのうち他の牛たちは移動して行ったが、一頭だけ好奇心の強そうなやつがいて、テントを舐めた後もまわりをウロウロし、挙句の果てに僕のテントを踏みつけて倒してしまったのである。乱暴なやつですわ、まったく。

やるだけやってから、その牛も草を食べながらだんだん離れて行ったけれど、おかげでテントの一部が破れてしまった。 

そんなトホホな経験を、この「なつぞら」の牛の放牧のシーンを見て思い出した、というわけです。

 

 

 
その時の写真です。
このあと、テントを踏み倒されました。

今では笑い話ですが、この時はホントに怖かったです。

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ところで、昨日(4月4日)の放送分を、午前中に妻と録画を見た後、夕方に「最後の場面をもう1回見たいわ」と妻が言ったので「何かあるの?」と聞くと、「草刈正雄のいい言葉があったのでそれをもう1回聞きたいの」とのこと。で、その最後のほうのシーンをまた見たのですが

娘の松嶋菜々子から「頑固ジジイ」と言われている「泰樹おんじ」(草刈正雄)が、なつを帯広へ連れて行く。その帯広で牛乳を卸している店へ行き、そこの人が作ってくれたアイスクリームを2人で食べながら、泰樹おんじがなつに語る言葉が、妻がもう一度聞きたいと言った場面でした。

ネットでもそのシーンが評判になっているようで、ヤフーニューにその全文が載っていましたので、それをそのまま引用させていただきます。

「それ(アイスクリーム)は、おまえが搾った牛乳から生まれたものだ。よく味わえ。ちゃんと働けば、ちゃんといつか報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いんだ。そんなとこはとっとと逃げ出しゃいいんだ。だが、一番悪いのは、人が何とかしてくれると思って生きることじゃ。人は人をアテにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるのだ。おまえはこの数日、本当によく働いた。そのアイスクリームは、おまえの力で得たものだ。おまえなら、大丈夫だ。だから、もう無理に笑うことはない。謝ることもない。おまえは堂々としてろ。堂々と、ここで生きろ」

う~ん。たしかに。いい言葉ですね。草刈正雄、名演です。ホロリとしますわ。この言葉を糧に、なつはこれまで以上に逞しく生きていくのでしょうね。

思い出の北海道の原野も満喫できるし、
今回のドラマも「半分、青い。」や「まんぷく」同様、楽しめそうです

あ、それと同時に「おしん」の再放送も始まりました。去年の12月に「おしん総集編」が放送されたので見て、同月28日のブログに「『まんぷく』と『あさが来た』と『おしん』」という記事を書きましたが、「おしん」はダイジェストではなく全編を見たいなぁと思っていたので、こちらのほうも楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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昭和、平成から「令和」へ

2019年04月02日 | 日常のいろいろなこと

 

 

きのう、新元号が「令和」と決まりましたね。
世の中がいま、ぜ~んぶこの話題ですから、それに倣います。

発表予定時間が11時半だったので、その前からテレビをつけていたのですが、むろんどのチャンネルも生中継で「その瞬間」を待っていました。11時20分頃になると、発表場所である首相官邸が映し出され、スタジオでは「あと10分です」。そして「いよいよあと5分です」と緊張を高めていくのですが、さて11時半になっても、官房長官は出てこない。

息を詰めて画面を見守っていると、テレビは急に上空からの映像に変わり、道路を黒い車が走っている画面になった。その車は、説明によると、閣議決定した新元号を、皇居の天皇陛下にお伝えに行く車だということだった。

新元号は政令で定められるので、それには天皇陛下の署名が必要だとのこと。つまり陛下に新元号が正式に伝わってから発表される、ということだった。しかしそんなことは、それまでテレビでは一言も言わず、会見場で菅官房長官が出てくるのを今か今かと待っている映像しか出ていなかった。そこで急にそのことが報じられたので、「なんだ、それ?」と、肩透かしを食ったような格好だった。

そんな経過があった後、11時40分過ぎにやっと官房長官が出てきた。そして事務方が持ってきた新元号が書いてある額を受け取り、文字が見えないように伏せたままテーブルに置いた。置いた瞬間、上の「令」という文字がチラッと見えた。

「あ、令なんとかって書いてある」 と、僕は、一緒にテレビを見ていた妻とモミィに向かって声を上げた。そして、菅長官が額を持ち上げ、正面に見えるようにかかげた。

そこには「令和」と書かれていた。
いんろな予想の中にはまったくなかった新元号だった。

というようなことで、僕は「その瞬間」を胸に刻み込みました。小渕さんが「平成」の額を見せている映像が流れ続けてきたように、これからはずっと、事あるごとにこの映像が流れるわけですからね~

令和れいわという響きは、僕は好きです。

「れいわ」と「しょうわ」が、響きが似ているのがいいな。語感がキリっとしている。さらに言うと「明治」もキリっとしている。一方「大正」と「平成」は語感が何となく間延びしている感じです。やはり漢字は2文字でも、読み仮名は3文字がピシっとするような気がします。

これで、あと1ヵ月後、5月1日から「令和元年」になりますが、4月31日までは平成です。この1ヵ月で、多くの赤ちゃんが誕生されることと思いますが、4月下旬が「予定日」の方は、できれば5月の「令和」になってから産みたい、と思われたりしているんでしょうか。

4月なら「平成生まれの子」で、5月からは「令和生まれの子」ということになるわけですから、今でいう「昭和生まれ」と「平成生まれ」のイメージの差みたいなものが、ここでも生じるわけですよね。

同じ学年でありながら、平成生まれと令和生まれに分かれるわけですもんね。それも、平成生まれは12分の1しかいない。となると、「もう少し後に生まれたらあたしは令和生まれなのに」と嘆いたりね。

いや、そんなこともないか。「私は平成最後の子なのよ」という誇りを持ち、胸を張ればいいんですからね。

それよりも、これから生まれてきた子どもたちには「令和」という名前はもとより、「令」とか「和」とかの字を当てる子がグンと増えるでしょうね。テレビでは今朝から令和にちなんだ商品の紹介やらなにやらと、お祭り騒ぎをしていますが、実際に「令和」というお名前の方が何人もおられたようです。嬉しいでしょうね、その方々は。

ともあれ、まだ日本の人口の7割以上が昭和生まれなので、昨日は「あぁ、ついに昭和・平成・令和と3つの時代にまたがることになるのか」という感慨を持った方がたくさんおられたことでしょう。僕もその一人ですが。

ところで昨日、平成17年生まれのモミィが、テレビを見ながら、
「そのうち私も平成生まれの婆ちゃん、と呼ばれるようになるんかな~」
とつぶやいておりました。

知りまへんわ。 そんな先のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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