僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 「三浦和義事件」

2008年02月26日 | ニュース・時事

「ロス疑惑」の三浦和義氏が、米のサイパンで「一美さん銃撃事件」の容疑で逮捕されたニュースには本当に驚いた。26年以上も前に起きた事件である。三浦氏は「銃撃事件」については最高裁で無罪が確定しているのに、なんで今ごろになって米当局に逮捕されたのか…? 

昨日の新聞によると、FBIが新たな証拠を握ったと発表したそうである。
しかし、今朝のニュースでは、ロス市警は会見で、
「新証拠があるかないかは話せない。根拠は88年発布の逮捕状だ」
というだけで、何だか釈然としない。

証拠が出たとしたら、果たしてどんな証拠なのか、一刻も早く知りたい。

僕は、この事件に関しては、ある時に島田荘司「三浦和義事件」という長編のノンフィクションを読んでから、それまでの見方が180度変わった。つまり、少なくとも銃撃事件に関しては、三浦和義氏は無罪である…という見方をするようになった。そして今でもそう思っている。読書の影響というものは恐ろしい。

僕がこの本を読んだのは、正確には思い出せないが、6~7年前ではなかっただろうか? なぜなら、それから1~2年経って、最高裁で三浦氏の無罪が確定し、そのとき、「やっぱり無罪か。やっぱりなぁ…」という感想を抱いたことを覚えているからだ。最高裁での無罪確定は、今から約5年前だった。

この島田荘司著「三浦和義事件」は、三部に分けて構成されている。
一部はマスコミのことである。
当時のマスコミの加熱ぶりは、知る人ぞ知るである。

まだ三浦氏が逮捕される前から、新聞、雑誌、テレビは、一美さん銃撃事件は夫の三浦氏の謀略だったと決め付けたかのように、まことにセンセーショナルな調子で過激な報道をお茶の間に送り続けた。あるテレビ局は夜のゴールデンタイムに特番を組み、キャスターが三浦家の玄関に立って、
「三浦さん、三浦さん。今、このテレビをご覧になっておられますか? あなたが真犯人でなければ、今すぐ、お家から出てきて私たちに語りかけてください!」
とカメラに向かい、絶叫していた。またある番組では、三浦家の人が買い物に出かけるとマスコミが追いかけて行き、買ったものを克明にチェックし、「今夜の三浦家の夕食の献立は何々です」というような、事件と何の関係があるのかと思われるようなことを声を弾ませてしゃべっていた。

三浦氏がそこまで疑惑を持たれ、マスコミから袋叩きに遭ったのは、疑わしい行動が山ほどあったことに加え、著者の島田荘司がこの本で書いているように「女性と遊びすぎ、美女を次々と妻にし、ベンツに乗る長身の美青年」といったタイプは、世間で最も嫌われるタイプであり、マスコミはそういう人物をいくら叩いても人々から非難を浴びないことをよく知っていたからだ。三浦氏は、派手好きで、目立ちたがりで、言うことが芝居がかっていて、行動が不可解な二重人格者で、いかにも虫が好かない男…という印象を、あの頃のほとんどの国民が持っていたと思う。まあ、三浦氏は実際に、そういう気質の持ち主であったようにも見える。人は「日ごろの言動」で評価されるのだ。おまけに、情況証拠は、すべて三浦氏に不利な材料が揃っていた。疑われても仕方がなかった。しかしそれを差し引いたとしても、あのマスコミの騒ぎようは正気の沙汰ではなかった。

本の第二部は、三浦氏の生い立ちなどが紹介され、彼の視点から見た事件の一部始終が描かれている。このあたりから、いよいよ読むのを止められなくなる。

三浦氏は女優の水の江瀧子の甥であり、水の江瀧子と言えば、石原裕次郎をデビュー前から自宅に下宿をさせて面倒を見ていた人である。だから三浦氏は少年の頃から石原裕次郎がすぐそばにいて、ずっと遊んでもらっていた、という。つまり彼は普通の平凡な家庭に育った人でなく、特殊な環境で成長してきたことが、あの独特な人格形成に影響を及ぼしているのではないかと想像できる。

そして第三部は、警察での取調べの様子、裁判の経過などが詳細に語られている。

ロスの事件現場が眺望できる高い建物(水道局)の窓から、事件時の様子を見ていた局員たちの証言部分は、読んでいてもハラハラドキドキする。その人たちの証言、たとえば「白色の車」を見たという証言と、三浦氏自身の「緑色の車」証言の食い違い部分に、別の客観的事実が割り込んでくると、驚くべき別の新事実が浮かんでくるのである。そのことが、三浦氏無罪説につながることになる。

…この先は複雑に込み入った話になってくるので、これ以上知りたい人は、本を読んでもらうほかはない。出版社からお金をもらってるわけじゃないけど、いま「ロス疑惑」が再燃したのを機会に、この本を読んでみるのも悪くないと思う。

事件の詳細を知るのに、この本は格好の材料になる。

そして、(これは僕の推測に過ぎませんが)、たいていの人は、この本を読めば三浦氏は銃撃事件の真犯人ではない、と感じるようになるだろう。それだけの強烈な説得力が、この本にはある。
しかし本著は、一方的に三浦氏の肩を持つような生ぬるい本ではなく、三浦側と反三浦側の両側から、公平かつ冷静に描かれていることも付け加えておきたい。

  …………………………………………………………………………

これが文庫版の「三浦和義事件」です。

かなり長いですけど、その分読み応えは十分です。
三浦氏が無罪なのか有罪なのか…。
むろん、ノンフィクションと言えども、著者の推理は入っています。

これを読めば、自分なりの推論を立て、自分なりの判断ができます。
驚くほど綿密な取材と調査に基づいて書かれていますので、この本を読めば、事件についてめっぽう詳しくなりますし、その他に付随するいろいろなことを学ぶこともできます。僕がこの本を読んだときは、三浦氏はほとんど世間から忘れかけられていた頃でしたが、これから受けた衝撃と影響は、かなり大きなものでした。

また、作品はわが国の事件報道のあり方についても、改めて考えさせてくれます。
マスコミが「三浦氏の犯行」の脚本を書き、演出をし、視聴者に披露する…。
結果として三浦氏が有罪か無罪かはともかく、これは恐ろしいことです。

今回の米当局による「逮捕」は、どの程度の証拠に基づくのでしょうか?

冒頭にも書きましたが、「新しい証拠」がどういうものか非常に関心があります。27年ぶりに明らかになる新証拠…。なんだろう…?
当分はこの関連報道から目が離せません。

それによって、また僕のこの事件に対する見方が変わるかもしれないから。


 

 

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 赤ちゃんの頭脳は…

2008年02月25日 | モミィの成長日記



    ~ モミィとソラの成長日記 ~ 


モミィがファミレスで注文したお子様ランチに日の丸の旗がついていたので、それを家に持ち帰って、「はたぁ、はたぁ」と遊んでおりました。すると、昨日、ソラがやってきて、その日の丸の旗をつかんでふりまわし、あげくに、くしゃくしゃにして破ってしまったのです。

おいおい、ソラくん。
日の丸の旗を破るって、あんたはサッカーの中国サポーターか…?

  ………………………………………………………………

さて、最近のモミィのしゃべり方の特徴は、第一音節を伸ばすことです。
「びっくりしたぁ」は「びぃーっくりしたぁ」
「もみじちゃんも、食べたい」は「もぉーみじちゃんも、たぁーべたい」
と、こんな具合です。

ところで、イタリア語では、最後の音節のひとつ前を伸ばしますよね。
「ボナーラ(おやすみ)」
「アリベチ(さようなら)」といった感じですね。

したがってイタリア人が日本の言葉を話すときには、
「ドラエーン」とか「サザエーン」という発音をします。
それがモミィ風では「ーラエモン」「ーザエサン」になります。

このことからも、モミィがイタリア人ではないことがわかります

そのモミィが、このごろ目に見えて頼もしい存在になってきました。

先日、妻が、モミィと買い物に出かける際のこと。
「お買い物に行ったら、パンとチーズも買おうね」とモミィに言ったそうです。
駅前のジャスコに行き、他にいろんな買い物をしているうちに妻が、
「あれぇ…。何と何を買うんだったっけ?」
と、行く前に覚えていたはずの買い物を忘れ、懸命に思い出そうとしていたら、横からモミィが妻に、
「パン…、チーズ…」
と言ったそうです。

食べて寝るだけの生活から、いよいよ人の世の役に立つ存在に成長してきたことはまことに慶賀すべきことでありましょう。


さて、モミィ&ソラのママである「あきなママ」ですが、0歳から6歳までの子供を持つ母親で構成する「まみっこサークル」というのがあって、そこに入り、ほかの気の合ったママたちと交流を初めています。1人で悩むのではなく、育児に関する共通の悩みなどを抱えるママ同士が、互いに経験談や情報を交換するのは、あらゆる面でとてもプラスになることだと思いますね。

先日、そのクラブで仲良しになったママのお家へ遊びに行ったときの写真です。

     

    

 ソラは、自分より年下の友達ができて、ちょっと得意げですかね~。


ところで、以前に新聞で読んだ話ですが、赤ちゃんの脳というのは生後6ヶ月から8ヶ月で大きく変化する、という有力な説があるそうです。

それによると、英・ロンドン大の脳科学者ガーガリー・チプラという博士が、乳児の脳波を調べると、6ヶ月で認知できなかった図形を、8ヶ月では大人と同様に認知していることが裏付けられたそうです。博士はかねてより行動学の実験(目の動きなど)から、6ヶ月と8ヶ月の間で認識の差があると推測していたそうですが、それをこの脳の実験によって確実なものにしたと言われています。

6ヶ月から8ヶ月までのあいだに、乳児の脳内には大きな変化が起きる…。
となると、ソラはもう9ヶ月だから、大変化が起きた後である。

ちょっと興味深い話ですね~  

どんな変化が出てきたのか、じっくりソラを観察してみようと思います。

 

 

 

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 ためいき

2008年02月24日 | スポーツの話題

あぁ~ぁ。
また東アジア選手権の優勝を逃してしまったサッカー日本。

韓国と勝ち点で並びながら、総得点差で優勝できなかった。
…ということは、日本で開催された2003年の第1回大会と同じ結果だ。

くやしいなぁ

でもまあ、先制された時はショックだったけど、後半に同点に追いついただけでもいいか…。負けなかっただけでもいいか…。
と、なんだかんだとつぶやいて自分を慰めている。

昨日はワイワイ騒いでテレビを見ながら、少し飲み過ぎてしまった。

今朝は、ちょっと二日酔いです。

新聞のスポーツ欄を読んで、また、ためいきをつく僕なのです。

新聞といえば「ロス疑惑」の三浦和義元社長が米で逮捕された報道に驚いた。

「みうら・かずよし」って言えば…
今の人はみんなサッカー選手の「カズ」のことを思い浮かべるだろうね。

まぁ、今日の話題とは関係のないことだけど。

それにしても…

あぁ~~~ぁ…

 

 

 

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 さぁ、サッカー韓国戦だ

2008年02月23日 | スポーツの話題


      1997年11月1日。フランスW杯アジア最終予選。 
         日本は、アウエーのソウルで 韓国を 2対0 で破った。
         選手は、上から北澤、 呂比須、相馬。 なつかしいなぁ。 

         (わが家秘蔵の 当時のサッカー週刊誌の表紙です)

          今日もぜひ、この試合の再現を期待しています!
 

いよいよ今日、午後7時15分から、サッカー・東アジア選手権の優勝を決める大一番が行われる。対戦相手は宿敵韓国。岡田Jの真価を問われる試合になるだろう。

同じサッカーの試合でも、日韓戦だけは異様に燃える…という人が多い。
他の試合を見なくても、韓国戦なら見る、という人も沢山いる。
まして今回のように、タイトルをかけたガチンコ真剣勝負の場であれば、ますます息詰まる熱戦が期待できる。
見ているうちに、本当に息が詰まってきたりする。ゴホッゴホッ。

わが家は一家揃ってサッカーファンであり、息子たちは2人とも、少年時代は地元のサッカークラブに所属していた。親子4人で住んでいた頃は、主だったサッカーの試合があると、揃ってテレビの前で観戦した。妻も、サッカー大好き人間で、選手に関してなどは、僕よりはるかに詳しい知識を持つ。

4人で見た、今でも忘れられない試合…。あのドーハの悲劇と呼ばれた試合だ。


日本にJリーグが発足した1993年に、翌年のワールドカップアメリカ大会のアジア最終予選が行われた。オフト監督率いる日本代表は、サウジに引き分けた次の試合でイランに敗れていきなりピンチに立たされた。しかし北朝鮮に勝って何とか立ち直ると、次の強敵・韓国戦で、カズ(三浦)が見事に決めて奪った1点を最後まで守り抜き、一気に望みを広げたのだ。試合中、テレビの前で、僕たちは何度も近所に聞こえるほどの大声で雄叫びを上げた。このときの日韓戦のビデオテープは、今もわが家に残っている(見たい方には貸し出しますよ)。

最終戦はイラク戦。勝てば文句なしに史上初のワールドカップ出場が決まる。
しかし、御存知のように、日本は2対1とリードしながら、最後の最後のロスタイム…あと何10秒で終わるというところで同点に追いつかれ、すべての夢が消えた。

ずっとテレビに見入っていた僕たちは、あと何分! あと何分! と残り時間を連呼しながら、「いよいよワールドカップ出場やなぁ」と、はやる気持ちを抑えつつ、日本の勝利を信じて疑わなかった。隣にいた長男の肩を思わずぎゅっと握って、試合終了の歴史的な瞬間が訪れるのを待った。

ところが…
イラクのコーナーキックから、イラク選手のヘディングシュートでふわりと上がったボールが、日本のキーパー松永の頭上を越え、ゴールネットに入るという信じられない光景が目の前に展開されたときには、茫然自失となった。
「え…?」
何が起きたのかわからないうちに試合終了の笛が鳴った。
2対2の引き分け。悲願のW杯初出場の夢は無残に打ち砕かれた。

グラウンドに倒れ込んだまま立ち上がれない日本選手たちの姿がテレビ画面で映し出されていたが、僕たちも、金縛りにあったように固まってしまった。長男も、次男も、妻も、そして僕も、言葉がまったく出なかった。くそぉっ! とか、残念! とかいう言葉すら、白々しくて出せないような重苦しい空気が部屋に流れた。僕も、妻も、涙を流した。息子たちの悲痛な表情を見るのが、何よりも辛かった。

このとき、先に試合を終えたサウジが1位に立っていた。同じく試合を終えていた韓国は、日本がイラクに勝てば3位になり、上位2チームにしか与えられないW杯出場権には手が届かないところだった。日本がイラクをリードしている時点で試合を終えた韓国には、あきらめムードが漂っていただろう。そこへイラクが同点に追いついたという情報が入ったので、韓国選手は飛び上がって喜び、韓国の国民は狂喜乱舞したであろうことは想像に難くない。
日本が沈み、韓国が逆転浮上…そのことがよけいに僕らの悔しさを増幅させた。

それから4年経った1997年。
今度はフランスW杯のアジア最終予選。
日本は、ホームの国立競技場で韓国に1対0でリードしながら、後半39分から立て続けに2点を奪われ、痛恨の逆転負けを喫した(この試合のビデオも最近まで保管していたが、先日廃棄した)。このときの悔しい思いは、いまも身体の中に刻み込まれている。(ちなみに、2年前のドイツW杯のオーストラリア戦で、終盤まで1対0とリードをしながら土壇場で3点を連取され逆転負けした試合は、この日韓戦のコピーのような試合であった)

苦境に立たされた日本は、次のアウエーでのカザフスタン戦でも、勝てていた試合を引き分けてしまい、これで加茂監督がクビになり、急遽コーチだった岡田武史が監督に昇格した。そのあとも、格下相手に引き分けが続き、日本のサポーターは大荒れに荒れ、カズがファンから卵を投げつけられたこともあった。これで宿願のW杯出場は、またも夢に終わるかと思われた。

その、崖っぷちに立たされた日本に与えられた最後のチャンスが、アウエーのソウルで行われた韓国戦であった。半分あきらめていた日本のファンの大半の予想を覆し、この試合は、日本が2対0で快勝した。まさかと思われた勝利であった。

(この試合のビデオはわが家の宝物として今も本棚に入っています。
 また、冒頭の写真は、試合の数日後に発売されたサッカー週刊誌
 「サッカーダイジェスト」の表紙を今日スキャンしたものです)

そのあと、カザフスタンに大勝し、最後はジョホールバールでイランとのW杯出場を賭けた一戦で、岡野が延長Vゴールを蹴りこみ、悲願を達成したことは周知のとおりである。日本中がお祭り騒ぎとなり、岡田監督は時の人となった。

あれから11年が経った。

日本代表監督は、再び岡田武史が務めることになった。
11年前、ソウルで韓国を破ったことが、栄光のW杯初出場につながったのである。
あの試合を決して忘れてはならない。

日本の前に、いつも、必ず立ちはだかる韓国。
僕らは、この韓国に負けるのが、一番悔しいのである。

しかも、この東アジア選手権では、日本はまだ優勝がない。
日本で開催された第1回大会では、紙一重の差で韓国に優勝をさらわれた。
韓国で開催された第2回大会では、中国が優勝し、日本はまたも2位であった。
その意味でも、今年の第3回大会は、是が非でも日本に優勝してほしい。

韓国選手の勝負に賭ける執念は、他国に例を見ないほど強烈である。
しかし、日本には、先日の審判の不可解な判定や相手の度重なる反則行為を跳ね返した逞しさがある。勝機は十分である。

11年前のソウルで、韓国を破ったのも岡田ジャパンなのだ。
ぜひ、ぜひその再現を!

今夜7時15分に試合開始だ。

待ち遠しいなぁ。

 

 

 

 

 

 

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 亀のカトリーヌに関する秘話

2008年02月22日 | 雑記

亀のカトリーヌの続きです。

僕はナカタさんに、カトリーヌの写真を貸してくれ、と言った。
「ブログに載せたいのです」と理由を説明した。
「ダメ。個人情報の保護だ。亀にも人権があるんだよ~ん」
とナカタさん。

しかし僕はそんなことではあきらめない。
「デジカメで撮らせてください。カメだから、デジカメで…」

それを聞いてナカタさんは一瞬ひるんだ。しかし、すぐに真顔に戻り…
「やめてくれ、そんなおやじギャグ。とにかく、だめ」

「カトリーヌの個人情報を守るために撮影はお断り」を繰り返すのみ。

「ブログに載せられて、誘拐されたら困るからね」とも言う。

誰が白内障のカメを誘拐すると言うのか…

僕はさらに食い下がった。
「いいじゃないですか。カメですからね、写真撮るくらい」
「だめ。だめ」
「カタいこと言わないで」
と僕は、ナカタさんを正面から見つめた。
「カメやから、写真撮っても、カメへん、カメへん…言うてほしいなぁ」

ナカタさんの顔がひきつった。

でも、
もはや返事はしてくれなかった。

親しい方から、こんなブログを教えてもらいましたのでご紹介します。

http://plaza.rakuten.co.jp/teisyukanrika/diary/200706070000/

こちらも、亀のカトリーヌ。
世の中にはいるんですね、同じ名前の人、いや、亀が…。

  ……………………………………………………………………

では、…今日は金曜日です。
順調にいけば、明日は土曜日です。
今日1日、お仕事頑張りましょう。
僕も、これから仕事に行ってきます。

「あんた、ちゃんと仕事してるのん?」と言われそうですが…


 

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 まだ言いたい!

2008年02月21日 | スポーツの話題

昨日のサッカー、日本・中国戦とTBSテレビの話の続きです。
1日経っても、まだ言いたいことがあります。
僕はしつこいタイプなのです。
もう少し、書かせてもらいます。


今朝の新聞を見ると、やはり、中国の観客のマナーの悪さがこと細かに報じられていた。昨日にはわからなかったことも、今朝の記事で、またいくつかの事実を知った。僕はこんな性格(…どんな?)だから、また性懲りもなく書く。

昨日のテレビ中継。
「今日は中国の観客は、相手国(日本)を非難するのではなく、自国チームを応援するという姿勢を貫いています。中国の人たちのスタンドは、実にすがすがしい応援ぶりです」

中継したTBSのアナウンサーは、歯の浮くような言葉を何度も繰り返していた。僕はこれにかなりムカついた…ということは昨日も書いたとおりである。

中国人観客の実際はどうだったのか?
TBSアナウンサーは「すがすがしい」と賛辞を送っていたが、中国の観客は、終盤になるにつれ本性をあらわし、発炎筒に火をつけるわ、ペットボトルは投げ込むわ、日本語で日本のサポーターに「バカヤロー」と叫ぶわ、あげくは日の丸の小旗を燃やすわ、試合終了後は日本人選手の乗ったバスを取り巻くわで、相変わらずマナーのカケラもない醜態を演じていた。相手が日本であれば、どう罵倒しても、何をしても、愛国心から出たものであれば罪にならない、という中国政府の教育方針がこういうところに如実に現れていることは明らかである。

サッカーのサポーターの応援というのはもともと過激で、これは世界のどこでもあることだけれど、こうした国家によって教育された「反外国人感情」を前面に出して、スポーツの場で好き放題に発散する…というようなことは、よその地域では例を見ないことである。

こんな中国人サポーターの本質を理解もせず、
「すがすがしい応援です」と平気で言ってのけたTBSに、その真意を伺いたいものである。これの、どこがすがすがしいのか…?
たぶん、敵意剥き出しの暴挙のことを、TBSのアナウンス用語では
「すがすがしい」
と表現するのであろう。

いまの時期、中国当局は、北京五輪を控えて、国民のマナーの悪さや、毒物混入食品に代表されるような悪質行為による国のイメージダウンを極力抑えようとしているはずである。なにしろ、絶対に北京五輪を成功させなければならない。だから、最近は特に、ああ見えていても、一生懸命外国に配慮して、粗相のないようにつくろっているつもりなのだと思う。

それでいて、やっていることはぐちゃぐちゃである。
今、自国開催の五輪が迫っているこの時期にして、このありさま
である。

北京五輪が終わったあとの中国は、一体どうなるのか…?
想像しただけでも恐ろしい。
五輪が終われば、もうどこの国にも遠慮することがなくなるのだからね。

…いよいよ何をするかわからない国になっていくだろう。

日本人は、人がいいから、すぐにそういうことを忘れる。
有毒物の混ざった冷凍食品のことだって例外ではない。
中国はこの冷凍食品事件を「日本の陰謀」にすり替えようとしている。
盗っ人猛々しいとはこのことである。中国よ、バカにするなと言いたい。
それでもこの出来事は、近いうちに風化するだろう。
決して中国を批判しないメディアが、わが国には数多くあるからだ。

今は日本のマスコミも中国批判報道を続けているが、これもいつまで続くことか。
テレビ局が抱える多くのスポンサーの中には、中国とつながりのある企業も多い。だからTBSのように、意図的に中国人サポーターをほめるメディアも出てくるのだ。なさけない話だね~。
中国側も、日本のそういう弱腰や忘れっぽい体質を計算に入れているかのような対応で、日本に対して、食品問題については、焦点を完全にボカしている。
どうせ、日本人は飽きっぽいから、すぐ忘れるだろう…
そう思っているに違いない。
つまり日本国民は、中国に頭からバカにされ、舐められているのだ。

中国に対しては、絶対に、絶対に、警戒を怠ってはいけない。
この国は、今のイメージ以上に怖い、…本当に怖い国なのである。


…と、ここでまた、急に話の展開が変わるのだけど…

サッカー東アジア選手権の韓国戦は、あさっての土曜日。

絶対に勝ってほしい。

韓国戦、というのが、また中国とは違った思いがある。
サッカーでは、むしろ中国より、この国こそ「宿敵」である。
実力も、中国みたいなロングパス一本の単調な攻撃ではない。
本当に、したたかで強いのが韓国である。

岡田監督は、これに負けたら辞任する意気込みで臨むべし。
あの中国の地で、韓国を破って、中国人も韓国人も黙らせるんだ!

あ~、23日の韓国戦。
今から胸がドキドキする。

……う~ん。
今日もまた、過激な内容になってしまった。

いつもブログは早朝に書くのですが、昨日は夜に書きました。
今日もまた、夜に書きました。
ビールを飲みながら書くと、こんな感じになるのです。だは~っ。

 

 

 

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 サッカー・東アジア選手権

2008年02月20日 | スポーツの話題

夜の11時もまわって、いつもならとっくに寝ている時間だ。

しかし、今日のサッカー・東アジア選手権の日本対中国戦をテレビで見た興奮がさめないので、仕方なくまだ起きている。起きているだけでは落ち着かないので、そのことについて書く。書かなければ、気がおさまらない。

地元中国と、韓国、北朝鮮、日本の4カ国で争われるサッカー・東アジア選手権は、今年が第3回目で、これまで日本は優勝経験がない。
初戦も、「最弱」のはずの北朝鮮と引き分けた。
もう、一歩も引けない。
韓国に敗れた中国との今日の一戦は、敗れたほうが優勝争いから後退するという、両者絶対に負けられぬ一戦であった。まぁ、それはいい。

しかし今日の、中国の重慶で行われたこの試合の審判はいったい何なのだ?

あきれるほどの中国寄りの判定は、見ていて反吐が出そうであった。
ハンドボールの「中東の笛」のことを言えた義理か。
今日はまったく「中国の笛」と言いたいほどであった。
それとも「悪魔が来たりて笛を吹く」とでも呼ぶか…?

日本が1点を先制してから、審判たちの態度はガラリと変わった。
意図的と思われるような「誤審」がどれだけあっただろうか?
ことごとく、中国に有利な判定で、見るからに無理のあるジャッジが重なった。
しかも、調子に乗った中国の選手は、悪質なファールを繰り返し、審判はそれを見て見ぬふりをし、日本選手は怪我だらけである。
よくまぁ、最後まで頑張って、日本は1対0で勝ってくれたことだ。

重慶といえば日本人を鬼畜のように思っている人間の寄り集まっているところだ。そんなアウェイの中での試合は、逆に言えば日本選手を鍛えるにふさわしい場所だったかもしれない。サッカーと言うのは、それほど厳しいスポーツである。

23日の韓国戦に東アジア選手権の優勝をかけて戦う。
とにかく、今日勝ってくれたことで、なんとか腹の虫はおさまった。

しかし…
それにしても、テレビのアナウンサーもおかしなことを言った。

かつてこの重慶で行われたサッカーアジア選手権の決勝戦が日本対中国であり、そのときの中国人の観客のマナーは、何もかも最低であり、中国が敗れたことで暴動まで起こった。そして、それが政治的問題にもなった。今日はそれに比べればマシであった。当局の警備が厳しかったからであろう。

それを、テレビのアナウンサーは、
「今日の重慶の観客はすがすがしい態度で観戦しています」
なんて言っていた。
このアナは、なんでわざわざ「すがすがしい態度」などという言葉を使うのか?
言っている矢先に、日本のリードに腹を立てた中国人の観客の一部がスタンドで発炎筒をふりまわしていた。これでもすがすがしい応援なのか?

このアナウンサーは、解説者が審判の偏った判定を批判しても、それに対し、最小限度の相槌しか打たなかった。どうも変だ。おかしい。
中国側を批判しないように、というテレビ局からの指示でもあったのだろうか?

そういえば、今日これを放映したテレビ局はTBSであった。
TBSといえば、ボクシングの亀田兄弟を八百長まがいの試合で売り出させた局である。いつぞや、外国人選手との世界タイトルマッチで、どう見ても亀田兄が負けているのに、不可解な判定で無理やり勝たせた「実績」を持つテレビ局だ。だから、我が国であろうが他の国であろうが、不可解な判定には目をつぶる、というスタンスを崩さないのであろう。それを忠実に実践しているアナウンサーは、なかなか見上げた根性である。

亀田兄弟の試合では劣勢でも優勢であるかのようにギャアギャア応援するのに、サッカーでは露骨に相手国に偏った判定をする審判にも冷静で、中国人観客にも「すがすがしい応援」と褒める優等生なTBSアナウンサーなのである。
あほらし。

ついでに、亀田兄弟をこういう、四面楚歌の外国に連れて行って試合をさせてみることだ。そこで、今日のサッカー日本代表のように、我慢して我慢して、アウェイの中で勝利をもぎ取ったとすれば、それで初めて褒めてやれるというものである。

ロクでもない亀田兄弟は、サッカー日本代表を見ならえ!
亀田兄弟は、厳しいアウェイの舞台で試合をやれ!
…とは言いながら、亀田の話ではなかったなぁ。

亀田はどうした? 亀田は相変わらずか…?(これわかる人、特殊な人)

何の話だったのか、わからんようになったけど…。

それにしても、毒入りギョーザ騒動の最中でもあるが、
こんな国で間もなくオリンピックが開かれるというのだから…
スポーツファンは、それを
考えただけでも憂鬱である。

 

 

 

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 ナカタ家の亀

2008年02月19日 | 雑記

ナカタさんという、僕と同年輩の知り合いの男性がいる。
旧民社党の党員で、一時は地方議会で市議会議員もしていたが、50歳前後で辞めて、いまは議員年金を受けながら、小さなパソコン教室を開業し、のんびりと毎日を送っている。

むかし、ナカタさんが市議会議員をしていたころ、一緒に札幌へ行き、夜に2人で歓楽街・薄野の「エンペラー」という有名なキャバレーへ遊びに行ったことがある。ナカタさんは水割りをチビリチビリやりながら、横に座った女の子に「オレはアダルトビデオの監督なんや」と真面目な顔をして伝えたものだから、すっかり相手は信用してしまって、次々といろんな質問をしていたが、その答えが実にリアルでいかにも本物めいていたのを覚えている。ふだんのナカタさんは、生真面目で、温厚で、冗談一つ言わない人であったのだが、こんなひょうきんな人だとは…と、そのときに初めて知った。

そのナカタさんが数日前に、約半年ぶりくらいに僕の職場を訪れた。僕の職場は市議会議員の寄り集まる場所であり、時々こうして議員のOBも顔を出す。

僕は「久しぶりですねェ」と言いながら、ナカタさんに、
「何か変わったことありませんか?」
と問いかけると、ナカタさんは「そうやねぇ~」
と、ソファに腰を下ろしながら、
「いまは、亀の世話で忙しいねん」
そう言って、煙草に火を点けた。
相変わらず、真面目で、淡々とした口調である。
「はぁ…? 亀を飼ってはるんですか? なんでまた亀を…」

話は、次のようなことであった。

10年ほど前、ナカタさんのマンションのエレベーター前に亀がうろついていた。
どこかで飼われていた亀であろう。体長20~30センチぐらいのごく普通の亀である。やさしいナカタさんはとりあえずその亀を自宅に預かり、マンションの掲示板に写真をつけ「亀を預かっています」と書いた紙を貼り出し、飼い主が表れるのを待った。

しかし、何週間経っても名乗り出る人がいないので、飼い始めたという。

この亀は、なぜかグルメ嗜好の強い亀であった。
ペットショップで販売されている亀専用のエサには見向きもしない。
肉や魚が大好物で、それはまぁいいのだが、並外れて贅沢なのだ。
たとえば、タコは明石産のタコしか食べない。
奥さんが「モルジブ産」のタコを与えると、プイと横を向く。
豚肉も、輸入モノには知らん顔する。
鹿児島産の豚肉を与えると、喜んで食べる。
鶏肉も、地鶏しか食べないのだという。
だけど、明石のタコも鹿児島の豚肉も地鶏も、同じものを続けると、3日目には横を向くのである。

「ほんまに、贅沢な亀やでぇ…」とナカタさんはため息混じりに話す。

食事と排泄は水槽の中でするので、部屋の中を歩かせても、汚さない。
しかし、床を這っている亀の存在を、つい忘れて踏んでしまうと、
「いててて」という感じで、「フーッ!」と息を吐いて怒るのだそうだ。

奥さんが洗濯物を干すのにベランダに出ると、同じように出る。
亀は動作が遅いので、奥さんが干し終わってベランダを締めると、外に残されたままになって、コツンコツンと頭でノックをして「開けろ」と合図する。

「でもまあ、犬や猫と同じで、なかなか可愛いもんやで」
名前を呼ぶと、のそのそと歩いてくるので愛嬌がある。

夜はナカタさんの娘さんの布団にもぐり込んで寝る。
娘さんは、20歳代で、間もなく結婚をされる。
亀は、ナカタさんや奥さんの布団には絶対に入らない。
「若い女性が好きやねん。あの亀は…」

そういえば、娘さんの友達が家に遊びに来てワイワイ騒いでいると、亀はその横を何度も往復して示威行為をするらしいが、奥さんの友達…つまりおばちゃん連中が来てぺちゃくちゃしゃべっている時は、座布団にもぐり込んで隠れている。

「あの亀はちゃっかりしとんねん」とナカタさん。
「なるほど。若い女性好き…ということは、その亀はオスですね?」
「それが、オスかメスかわからんかったんや」
「わからんのですか…? で、その亀はなんという名前ですか?」
「名前はなぁ~。カトリーヌ言うねん」

「カ、カトリーヌ…?」
イメージがまったく湧いてこないような、麗しい名前である。
「娘がつけたんや。オスかメスかわからんけど、とりあえずつけた」
まぁ、ふつう、カトリーヌといえば、女であろう。しかも、美人の。

ところで、亀はいったい何歳くらいまで生きるのだろうか…
よくわからないが、まさか千年も万年も生きまい。
普通の亀は、20年から30年くらいなのだろうか…?

亀のカトリーヌは、性別もわからないが、年齢もわからない。
ナカタさん宅で飼われてから10年経つが、それまで何年生きていたのかは不明である。生まれて数年でナカタさんに拾われたのか、何十年も生きてから拾われたのか…? 鯉の年齢はウロコでわかるというが、亀は甲羅ではわからないらしい。

年はわからないが、贅沢な食生活がたたったのか、最近、カトリーヌは白内障を患ってしまった。ナカタさんはカトリーヌを動物病院に連れて行った。

「亀の患者さんは珍しいですね」
獣医さんがそう言ったように、そこに診察に来ていた患者の犬や猫はみんな、カトリーヌを取り巻いて、珍しそうに眺めていたそうである。

さて、亀のことだから、診察をしようとすると嫌がって首をひっこめる。
これでは診察にならない。
看護婦がカトリーヌのひっこめた頭の部分をコツンと叩く。
すると、カトリーヌは怒ってフーッと息を吐いて怒り、頭を出す。
そこをひっぱり出して、診察するのである。手間のかかることだ。

診察の結果はかなり重い白内障であり、カトリーヌはオスであることも判明した。
「だいぶ高齢のようです…」と獣医さんが言っていたそうだ。

たしかにこれまでカトリーヌは、水槽の上部に両手を置いて懸すいをし、その勢いで水槽外へゴロンと出て脱走することに成功していたが、最近は懸すいはできても水槽の外まで出ることはできなくなったという。

病院の診察券の氏名欄には「ナカタ・カトリーヌ(雄)」と書かれてあった。
年齢は「不詳」である。
まだまだ頑張って、長生きしてほしいものだが、
亀にも「高齢化時代」が訪れているのであろうか?

 

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 バレンタインデー

2008年02月15日 | ニュース・時事

 

バレンタインデー。
広辞苑によると、日本では1958年(昭和33年)頃より流行、とある。
昭和33年と言えば、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代である。
そんなころからこれが流行していたとは、知らんかったな~。

バレンタインデーも最近は模様代わりしてきて、女性同士が贈りあったり、女性が自分自身のために買ったりするケースが増えてきたという。その分、男性に回ってくる分が減ってきたのか…どうか、よく知りませんが、「義理チョコ」という日本古来の伝統的風習も、最近は薄れてきたみたいである。

昔は、2月14日になると、女性職員がごっそりとチョコの入った袋を抱えて、いろんな課を渡り歩き、義理ある(?)男性職員に配って歩いたり、生命保険のおばちゃんがあちこちにチョコを配りまわったりして、職場にいると弥が上にも「その日」を意識せざるを得なかったが、でも今はもう、そういう風景は僕の事業所では見られなくなった。これも「虚礼廃止」の風潮の一環なのかも知れぬ。

そんなバレンタインデーの昨日。
ガールフレンド(僕にもいるのです、GFが。うははっ)から、面白いチョコレートをもらった。…と言いたいところですが、これを読んだ家族から「誰や、それは?」と突っこまれると困りますので、まぁその辺は曖昧にしておきますが…。
     


薬の箱(及びビン)にチョコレートが入っている。
一見すると、薬局で売られている薬と間違える。
「なんだ、これは…?」と目をこすって眺めてみる。

まず、チョコナミン
実物を手にとって見てびっくりした。
箱からビンまで、アリナミンそっくりで、中身のチョコも黄色の錠剤で、その懲り方には恐れ入ってしまう。箱にはこう書かれてあった。

一日3回6錠位を目安に元気のない時、お食べください。とても元気が出ます。
効能:愛情がたりなくなった時、恋がなかなか進まなくなった時、新しい出会いがほしい時などに役立ちます。

 

    


 

次に、あいメイツ・メロメロ
これは「アンメルツ・ヨコヨコ」のパロディでしょうね。

頑(かたくな)な心をほぐし結婚を促進する。効能は…
・肩恋による心身痛の緩和 
・頑なな心の壁の緩和
・神経質の緩和
・煮え切らない態度の決断力促進
用法として、
自分で服用する場合…一日3回、度を超さない程度に服用してください。心のわだかまりが緩和され、どうでもよくなります。
相手に服用させる場合…意中の相手にそれとなく、さりげなく服用させてください。徐々に心を開いてゆき、メロメロになります。

結婚(血行)を促進し、肩恋(肩こり)による心身痛(神経痛?)の緩和、な~んて、ダジャレもなかなか決まっているしなぁ。

恋源、というチョコもあった。
「風邪引いてまんねん!」というCMで有名な「改源」のもじり。
パッケージには「恋愛総合補助甘味菓子」と書かれてあり、「改源」のCMに出てくる風神様が「恋してまんねん!」のセリフつきイラストが描かれている。

 

     

 

 

あと、「愛の微熱薬」というキャッチフレーズのコイカシラン

正露丸そっくりで真っ黒な粒の茶子丸(チョコ丸)というのもあった。


世の中には、いろんなことを考える人がいるものである。

 

 

 

 

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 最北端や最南端の話

2008年02月13日 | 旅行

      日本最北端 宗谷岬(1969年撮影)


昔から「日本最北端」とか「本州最東端」「本土最南端」とかいう言葉に弱い。
地の果て…というイメージが、何とも言えない旅情をかもし出すのだ。

このうち、自転車旅行では日本最北端の宗谷岬と本州最北端である下北半島・大間岬、そして本土最南端(本土…いまでもこんな言葉使うのかな?)である鹿児島県の佐多岬へ行ったことがある。

下関にある本州最西端は、すぐ近くを自転車で通過したのに、気がつかず、未だに悔しい思いが残る。

本州最南端は、和歌山県の潮岬にあり、これは近畿圏なので、何度か行ったことがある。

 

    
 下北半島大間崎。 「本州最北端の地」とある。(69年)

 

自転車と言っても、鹿児島県大隈半島にある「本土最南端」佐多岬には、厳密に言えば最後まで自転車で行くことはできなかった。
佐多岬に近づいてくると、ある地点から岬の先端部までは、佐多岬ロードパークという車の専用道路となっており、そこから先は自転車も歩行者も行けないのだ。僕はそのとき、仕方なく自転車を置いて、バスに乗って岬まで行った。これがその時の写真です。上の写真の約10年後です。
 (古い写真ばかりで恐縮です。古い人間ですから)



    

 

自転車やバイクでこうした「最○端めぐり」をするマニアは多い。
僕はマニアというほどではないけれど、やはりナントカ最○端と言われたら、ブルブルッと身震いして、あぁ…行ってみたいなぁ~と憧れる。

以前、オーストラリアのゴールドコーストへ家族で旅行をしたとき、行く前に、オーストラリアに詳しい職場の後輩から、
「のんさん。バイロン岬へ行けばとてもいい景色が見られますよ」と言われた。
「なんや、バイロン岬って? あんまり聞かへんな」と僕は気乗りしなかったが、
「そこはね~。オーストラリア最東端で、雄大な海が広がっています」
そう言われたとたん、
「なに? 最東端…? う~む。これは、…ぜひ行かねばなるまい」

現地の旅行社の人は、「バイロン岬へ行こうと思ってます」という僕らに、えぇ~?っという顔をして「何もありませんよ、あんなところ」と言われたけれど、僕たちは「いいんです、いいんです」と言い、免許取りたてホヤホヤの長男が運転するレンタカーで、地図を見ながら、「カンガルーに注意!」という標識を横目に延々と単調な景色が続く道路を走り、バイロン岬にたどり着いた。
そこは、たしかに地の果てという雄大な海の風景以外には、見事に何もないところだった。それでも、ここがオーストラリアの東の端か。これより東はないんだな~と、わけのわからない感慨にふけり、満足した僕なのであった。



  
   
バイロン岬。 写真は免許取りたて運転手 … 長男です(97年)。 

 

こんな感じで、想像を広げていくと、世界で最も広い大陸であるユーラシア大陸の最北端とか、最南端とかに立てば、ずいぶんロマンティックだろうな~という夢が膨らんでくるのである。まあ、単に「この大陸で自分が今、最も南にいる」というだけのことだが、それでも大きな喜びである。しかし、なかなか達成するのは難しい。沢木耕太郎の「深夜特急」の旅の終わりはユーラシア大陸最西端のポルトガルの岬であった。
ポルトガルなら、この先、ひょっとして行ける…かも知れない。
だが、最東端と最北端はロシアにある。ここを訪れる難易度は高い。というより、たぶん死ぬまで行かないだろう。ロシアという国は、何となく苦手である。

そこで、最後に残されたユーラシア大陸の最南端はどこなのかと言えば…

何年か前、僕は朝日新聞のシンガポール特派員の記事を読んで愕然とした。
野島ナントカさんというこの特派員も「最○端」が好きで、それと聞くと足が向くマニアであった。その人が、「シンガポールに2年もいたのに気付かなかった」と述べたことは、なんと、すぐ対岸のマレーシアのジョホール洲に「ユーラシア大陸最南端」があるという事実だった。それを知って、彼は早速出かけ、ピアイ岬と呼ばれる最南端の地を踏んだ。
…そのことを、「特派員メモ」という朝日新聞の小さなコラムに書いていた。
うぅ~! それを読んだ僕は、地団太を踏む思いだった。

ジョホールバールと言えば、かつて日本サッカーが、岡野のゴールで史上初のワールドカップ出場を決めた土地だが、僕はその何年か前にマレーシアからシンガポールへの旅行をした折、ジョホールバールへも行っている。それとは知らずに、ユーラシア大陸最南端と、あとほんのわずかな距離のところまで接近していたのだ。ぜひ見たかったなあ。最南端の地を…。
その朝日新聞の特派員は、売店で「最南端到達証明書」を作ってもらったそうだ。あぁ~、僕もその到達証明書が欲しかったなぁ。
まことに残念なことをしたものだ。

旅行は事前の予習が肝心だという。
行く前に十分勉強して、帰ってから「行っとけばよかった!」と後悔しないこと。
これが、旅の要諦です。
…と言いながら、いつも「しまった。行っとけばよかった!」を繰り返す僕です。

ちなみに、日本最南端 はここだそうです。

今、ネットで調べるまで知りませんでした。

 

 


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 初めての雪

2008年02月10日 | モミィの成長日記

       大阪市内では珍しく本格的な雪が降った


昨日(9日)は朝から小雨模様のうっとうしい天気だったが、去年8月に不整脈の心臓カテーテル手術で入院したときにお見舞いをいただいた方たちへのお返しをするために、モミィも連れて、阿部野橋の近鉄百貨店へ行くことにした。

午前11時前ごろだった。3人で家から出ようとして玄関を開けて驚いた。
最近見たことのないような大粒の雪が舞っているのだった。
雨が、知らないうちにこんなに「豪華」な雪に変わっていたとは…。

「おおっ。モミィ。雪だ、雪だよ~。雪やこんこ…だよ~ん」
モミィも、テレビでしか見たことのない雪に興奮気味。
「ゆきぃ。ゆきぃ。ゆきぃ、ふってるぅぅぅ」と声を張り上げた。
モミィの雪の初体験…という記念すべき日であった。

それにしても、これだけの雪を見るのは久しぶりだなぁと思っていたら、それもそのはずである。夕方のニュースによれば、大阪市内で5センチの積雪を観測したのは、1997年1月以来で、実に11年ぶり、とのことだった。

とにかく大阪ってところは山間部を除き、真冬でもほとんど雪が降らない。降ってもすぐ雨に変わってしまうようなしょぼい雪ばかりである。だから、モミィならずとも、今日のこの珍しい光景には目を瞠ってしまう。

雪の中、家の近くからバスに乗って、藤井寺の駅には5分余りで着いてしまうのだが、その短い間も、モミィは靴を脱いで座席に立ち、全体が白色に染まりつつある窓の外の景色を、目を輝かせて見入っていた。

藤井寺駅から近鉄電車に乗り、阿部野橋までの約15分間も、ドアのガラス越しに、雪がどんどん降り積もって行く風景を、モミィは感慨深げ(?)に眺めていた。
この15分間で、見る見るうちに全ての建物の屋根が真っ白になっていった。

百貨店前の歩道橋では、雪に慣れていない人たち、特に若い女性たちは、足元が滑るのでキャアキャア言いながら腕を組み合ったり、身体をもたらせ合ったりしながら歩いていた。その横で、歩行者が滑って転ばないように、駅員風の人が、せっせと雪かきをしていた。





   ↑ まぁ、こういう騒ぎも、雪国の人から見れば不思議な感じがするかも…。

 

 

    ↑ 「M i o」 の11階で食事をした後、9階の旭屋書店に寄りました。

 

    ↑ 近鉄百貨店の洋服売り場で、自分の姿を鏡に映して眺めるモミィ。


ということで、今回の「モミィとソラ」はこれでおしまいです…。


…といっても、もう一人のソラのほうも登場させないと、不公平になりますので、一昨日(8日)に撮影した写真を掲載します。

(ソラに雪を見せても喜ばないでしょうね。寒くて…迷惑なだけで…)



     


ソラも最近行動範囲もぐ~んと広がり、ハイハイも猛スピードになってきて、うっかり目を離すとどこへ行くかわかりません。

こうして、何かを持って立ち上がるのも大好きです。

足をよく見ると、背伸びしています。
何だか知りませんが、“意気揚々”という表情に見えますけど…。

 

 

 

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 1枚の年賀状

2008年02月09日 | 日常のいろいろなこと

“ブログの効用”といえば、最近こんなことがあった。

今年のお正月にもらった1枚の年賀状のこと。
このことを、ぜひ書いておきたい。
北海道の網走に住んでおられるFさんからもらった年賀状である。

Fさんとは、一度お会いしただけである。
もう40年近くお会いしていないが、年賀状のやり取りは続けてきた。
そんな中で、今年の年賀状には、あることが書かれてあって、それを読んだとき、信じられないほどびっくりした。
その「あること」とは…

「あなたのブログを読みました。なつかしいですね」

という一文である。
ブログと言っても、このブログや「ほそ道」ではなく、別のブログである。

「えぇっ? 読んでもらっていたのかぁ~」
僕にとっても、まさかと思うような話であった。

   …………………………………………………………………

話は39年前に遡る。
1969年(昭和44年)のことだ(ずいぶん古いですね~)。
星野仙一が新人投手として中日ドラゴンズに入団した頃のことだもんね。

その年の夏、僕は北海道まで自転車旅行をした。

出発に際して、高校時代の恩師の奥さんが、
「私の親戚が網走にいるので、そこを通るのなら訪ねて行きなさい」
と言ってくださり、先方さんにご連絡もしていただいた。

そして僕は、自転車で大阪を出発してから1ヶ月余りで網走にたどり着き、教えてもらったとおり、そのお家を訪問し、そこで数日間、心のこもったおもてなしを受けた。そのお家のご長男が、僕とほぼ同じ年齢のFさんで、その翌年から年賀状のやりとりが始まったのである。

そして僕は、最近になって、当時の70日間の自転車旅行中に書きためた日記などの記録を、じゃいさん(ネットで長いお付き合いをしているお友達で、メル友さんでもあります)のお勧めもあって、整理をして旅行記として書き直し、ブログを開設して数ヶ月の間、掲載をした。もちろんそこに、楽しかった網走での数日間のことも写真入りで載せた。なにしろ、Fさんのお家では、ジンギスカンをたらふく食べさせてもらったり、車で網走周辺の名所を巡ってもらったりして、お礼の言葉もないほどお世話になったのである。

網走には貴重な思い出がぎっしりと詰まっていた。だから、その自転車ブログも、網走での体験記は、こと細かに4回にわたって掲載し、写真も、Fさんたちのご家族がサイン帳に書いてくださった激励の言葉なども含めて、たくさん掲載した(無断掲載でした。どうもすみません)。

  http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070730

そのように、僕にとっては一生忘れられないFさん一家との数日間の交流だった。しかし遠い昔の話をブログに載せたことは、なんとなく気恥ずかしいところもあり、Fさんには、まだお知らせしないままだった。

で、何のお知らせもしていなかったのに、そのFさんからの今年の年賀状に…
「あなたの自転車旅行のブログを見ました」
と書いてあったのだから、びっくり仰天したのだ。
「偶然に見つけました…」ということだったけど…。

「…なつかしかったです」
とFさんが感想を述べておられた。
ほんとですね~。滅茶苦茶なつかし~い。

…けれど、まさかなぁ、よくこのブログがわかったもんだな~
と、今でもまだ信じられないような思いである。
ネットの世界では、こういう「まさか」が本当になったりするんだ。

ともあれ、これもブログの効用のひとつであろう。

ブログを通して、遠い過去の出来事がよみがえり、現在と結びつく…。
一期一会の縁が、40年近く経ってから一枚の年賀状で息を吹き返す…。

そんなこともあるのだ。

すご~い、やんか。

 

 

 

 

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 ブログの効用

2008年02月08日 | 日常のいろいろなこと

昨日書いたとおり、6日は午前中に大手前病院へ行き、午後から府庁で会議があったのだが、夜は次男夫婦から妻と2人でレストランへの招待を受けていた。1月の僕の誕生日と2月の妻の誕生日祝いを兼ねて、近郊にあるベーカリー・レストランに連れて行ってくれるという。

会議を終えて谷町4丁目から地下鉄で天王寺まで行き、近鉄南大阪線に乗り換えて藤井寺まで帰ってきたら、雨が降っていた。僕は傘を持っていなかったので、次男夫婦が車で駅まで迎えに来てくれていたのは、とてもありがたかった。
途中で妻を乗せ、4人でレストランに向かった。
次男夫婦は、僕らの家からそう遠くないマンションに住んでおり、時々4人で食事をするけれど、今年になってからはこれが初めてである。

その車の中での会話ですが…

「雨が降るとは思わんかったなぁ。傘も持っていなかったし」
と僕が言えば、運転席の次男が、
「あの、大きい傘は持っていなかったの?」
と笑った。
「大きい傘…? あぁ~ん…? なんでそんなこと、知ってるの?」
と、僕は不思議に思って次男に尋ねたら、
「ブログに書いてあった」と彼は言った。
なるほど…。親骨80センチで自転車ごとすっぽり覆われてしまうような大きな傘の話を、先日のブログに書いたもんな~。次男はそれを読んでおったのだ。

「ところでお父さん。今日はどこかへ出張やったんですか?」
と、今度は助手席にいた次男のお嫁さんが、僕に尋ねた。
僕はふだん自転車通勤なのに、今日は電車で駅へ帰ってきたからである。
「そう、出張で…」と僕が答えようとしたら、次男が、
「大阪府庁で会議があったんや」と先に答えた。
その日の朝のブログに、今日は病院と府庁へ行くと書いたのを読んでおったのだ。
どうも、何から何まで把握されてしまっている。

「ところでお父さん」と、また長男のお嫁さん。
「今日はベーカリー・レストランですけど、お父さんは洋食とかパンが嫌いだと聞いたので、今日の場所はどうかなぁ、と、ちょっと心配しているんですよ」
そんなふうに言った。僕は首をひねって、
「パンが嫌い? 洋食も嫌い? そんなことないっすよ。毎朝パン食べてるし」
と、打ち消すと、
「お父さんのブログに、洋食は苦手って書いてあったというので…」
…と、またブログの話である。

これも、次男が僕の文章を読んで、そう伝えのだろう。

2月3日のブログ「中之島倶楽部」の中で、僕は、
「いつも居酒屋ばかり行っているので、こんなお上品な洋食が出る店は不得手で、テーブルマナーにも、うとい…」と書いた。
次男はそれを読み、僕が洋食のレストランは嫌いなのかと思ったという。
でも、それは違う。僕はパンも好きで、洋食も好きである。
だいたい、食べ物に好き嫌いはない。
しかし僕たちが次男夫婦を食事に誘うときは、すべて和食であることは確かだ。
僕みたいなお酒好きは、どうしても、お寿司やお鍋や会席風を選んでしまう。
「だから、あれはね…」
と、僕は真意を説明。
「レストランの洋食はナイフやフォークを使うのが何となく面倒で、慣れていないというだけで、嫌いとはまた違うんや。食べ物自体は、好きやから」

こんな会話を車の中で交わしていたわけだけど…

ブログというのは、近況を克明に映し出す鏡でもある。

次男はずっとこの「のん日記」を読んでいるようである。
次男のお嫁さんも、たいていは読んでくれているので、
「このごろ体調はどうですか? 耳鳴りの機械は、つけてはるんですか…?」
と、食事中に、いろいろと聞いてくれる。
だから、しばらく会っていなくても、次男夫婦は、ブログを通じて、僕の日常生活をよく知っているので、僕も物事の背景を一から説明することもなく、会話の流れもスムースに進んで行く。

モミィとソラの親である長男夫婦も、もちろんこのブログを読んでくれている。
この間も、長男のお嫁さんは、
「この間のブログには、退職のあとも仕事を続けようか…って書いてましたね」
勤務先の退職後の再雇用制度のことを取り上げた1月29日の「近い将来の話」を読んでくれた上での会話だった。
「う~ん。まだ、どうするかは決めていないけどね」
「退職されたら、ずっとモミィやソラと遊んでもらえると思ってましたけど」
…とまあ、こんな具合に会話が交わされていく。

こうしてみていくと、

 ~ 離れて住んでいる親子で近況や話題・情報が共有できる ~

今まで思いもしなかったこんなブログの効用というものを痛感する。


さて、そんな次男も去年からブログをやり始めている。

http://andk-nikki.seesaa.net/archives/20070716-1.html (引越し前)

http://sanbongawa.blog31.fc2.com/  (引越し後の現在のブログ)

自分の仕事のことだけをテーマにしたブログである。
それを読むと、今度は僕と妻の方が、彼の日ごろの仕事ぶりがよくわかるので、なかなか面白い。ふ~ん、仕事、頑張ってるんだ…と感心したりする。
しかし子供の頃はあんなに作文が嫌いだった子が、大人になって自分のブログを持つようになるとは…信じられないねぇ、と妻と言い合って笑ったりしている。

次男のお嫁さんも、ブログをしていたが、今は途切れてしまった。 

http://sanbongawa.jugem.jp/

以前の仕事に関することを書いていたものだから、今はもう…と言う。
「せっかくだから、また再開すれば?」と僕がビールを飲みながら提案すると、
「でも、私の書いた私の日常なんか、誰が読むんですかぁ?」
と笑った。
でも、ブログって、言ってみればほとんどその人の日常描写である。
だから、あまりそういうことは気にしなくてもいいのだ。
ブログは、書くことで自分の気持ちを整理もできるし、自分を客観視もできる。職場の人たちには内緒で仕事のウサ晴らしもできる。また、続けているうちに自分でも思わぬ展開とかメリットとかを生むこともある…。
「だから、ぜひまた、やったらいいと思うよ」

そんなことを言いながら、ひとときを過ごした。

ベーカリー・レストランでは、料理のコースの合間合間にウェイターが、さまざまな種類の焼きたてパンを運んできてくれ、パン好きの妻が喜んだことはもちろんだが、僕もこれほどパンをおいしいと思ったことはなかった。

では、改めまして…
麻紀ちゃん、一昨日はどうもご馳走様でした。
またどこかへ連れて行ってください。
僕に、嫌いなものは何もありません(笑)。

 

 


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 TRTで病院へ

2008年02月07日 | 心と体と健康と

1月23日から耳鳴り治療のデモ器をつけて「試用期間」の2週間が経過した昨日、TRTのため、大手前病院へ出向いた。

午前11時の予約だったので10時半頃に到着し、言語聴覚療法室の前で待っていると、9時からTRTをされていたyukariさんがお母さんとご一緒にお見えになられたので、しばらく会話をした。
お2人とお会いするのは、23日に続いて2度目だけれど、
「いつも励ましていただいてありがとうございます」
とお母さんは昨日も言ってくださった。
でも、僕にとっても、先にyukariさんがTRTを受けておられるので、そのお話を聞いて「予習」ができる分、余裕もできるし、技師さんに会う前に知っておきたいことなども教えてもらえるので、こちらのほうこそありがたい限りである。

不安な耳鳴りを抱えて一人病院の待合で待つ…っていうあの孤独感には何とも名状しがたい辛さがあるけれど、そんなときに、同様の症状を持たれ、同じ時期に同じ治療法を始めた方がおられて、会話を通していろんな情報を交換しあえるというのは、精神的に大きな安堵感をもたらしてくれる。

yukariさんは、すでにデモ器ではなく新しいTCIをつけておられた。
「あ、もう買ったのですか?」
「そうです。右でも左でもつけられるようになっています」
と、そのTCIを見せてもらった。
そうか…
やっぱり、今日から自分のTCIをつけるんだ。

お2人と別れ、11時になって名前を呼ばれ療法室へ入った。

「デモ器をつけられて、どうでしたか?」と技師さん。
僕は、昨日のブログに書いたようなことを一通り話した。
「音量はほぼ変わりませんが、高く澄んだ音になった気がします」
「それは、元々の耳鳴りに比べて、楽になったと言うことですか?」
「まぁ楽っていうことはないんですけど、音がキーンと、より
細く高くなったというか…。あるいは、音と言うより響き、というほうが近いのか…」
「はぁ…。つまり、なんらかの変化はあったと…」
「そうですね。このまま耳鳴りが消えていってくれればいいんですけど」
と、僕がつい思っていたことをそのまま口に出すと、技師さんは
「前にも言ったと思いますが、このTRTは耳鳴りを消すんではなくて…」
と話し始めたので…
「あ、わかってます、わかってます。耳鳴りに慣れるんですよね。はい、はい」

 ~ 耳鳴りを消すのではなく、慣れることが治療の目的 ~

その違いは、言葉ではよくわかるのだが、実感としてはピンと来ない。
…が、そんなこと、今ごろ考えても仕方のないことだ。
とにかく、耳鳴りに関しては、考えすぎないことである。

話はTCIの購入のことに入った。
僕は、もちろん今後ともこれを続けたいので申し込んだ。
さっそく、もう一人部屋にいた背広を着た機器の担当社員が新しいのを出してきてくれ、技師さんがパソコンを操作しながら、そこへデモ機と同じノイズ(ピンクノイズ)を入れた。
僕はついでにもう1種類のノイズ(ホワイトノイズ)も入れてもらったが、そっちを聞いたりこっちを聞いたり、というのは治療法として適切ではないらしいので、これから1週間程度試してみて、どちらのノイズにするかを決めて、その後はずっと1種類だけにするつもりである。
しばらく、ホワイトノイズの音の調節が続いたあと、完了した。

最後に技師さんは、定規みたいなものを出してきて、
「耳鳴りの苦痛度をお聞きしたいのです。この定規の左端が苦痛がない、と思ってください。右端が、もう大変な苦痛で我慢できない。…という感じでですね、さて、あなたの今の苦痛度はどのへんになりますか?」と聞かれた。
「えぇ~? 苦痛度ですか? どの辺…と言われてもねぇ」
僕が迷っていると
「いや。目安ですので、適当でいいですよ」
と言われたので、定規の真ん中あたりを指して
「まぁ、この辺にしておきます。よくわかりませんが」
と言っておいた。

2週間前ならもっと苦痛度の大きいところを差しただろうけど、TRTを初めてから、耳鳴りそのものは大きいままだけど、TCIという機器もつけて、おかげで少しは耳鳴りもまぎれるし、先への希望も出てきたし、それよりなにより、この症状に振り回されるのがバカらしくなってきたというか、
「鳴るんやったら鳴っとれぇ!」
という開き直りの気持ちが定着してきたのか、少しずつだが、気にならなくはなってきた。それでも本当はもっと苦痛度の高いところを示すべきだったか、と帰り道に思ったりしたが、治療の本質と関係ないので、どうでもいいことにした。

そんなことで、新しい自分のTCIを左耳につけて、病院を出た。
後日、保証書や電池とともに、代金の振込用紙を自宅に送付させてもらいます、ということであった。

次回は1ヵ月後、3月5日午前10時半だ。

3月は仕事の最も忙しい時期だけれど、これだけは仕方がない。

 

 


 

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 耳鳴り・TRTのその後

2008年02月06日 | 心と体と健康と

         
          
このTCIのデモ機を左耳につけています


耳鳴りに順応するためのTRTの機器(TCI)をつけて2週間になる。
今日、午前中に病院へ行く。そこで次の段階の指示を仰ぐことになるのだろう。
今使っているのはデモ機だから、自分のTCIの購入手続きもしなければね…。

先月23日から、起きてから寝るまで、基本的にはずっとこれをつけている。
外すのは通勤時、夜の食事時、風呂に入るとき、そして就寝のときなどだ。
それ以外にも、時々外したりしているが、1日10~12時間はつけていると思う。

小さな機器なので、正面から見ると耳に装着していることは人にわかりにくい。
それでも、やっぱり目ざとい人にはすぐに“ 発見 ”されて、
「あれ? その左の耳のところ、何をつけてんの?」と聞かれたりする。
その時は、なるべく煩瑣な内容にならないよう、簡潔にTRTの説明をする。
どれだけ理解してもらえるかわからないが、職場でずっとこれをつけているので、面倒でも機器の説明は、きちんとしておかなければならない。
補聴器と間違えられても困るもんなぁ。

でも、電話で話すときは、僕は左耳でしか受話器を当てられない性分なので、機器のノイズと耳鳴りと相手の声が同じ場所から飛び出してくるような変な感じになる。相手の声が小さいと、やはり聞き取りにくい。と言って、デスクの電話が鳴るたびに機器を外していたのでは、そのうち失ってしまいそうである。

冒頭の写真をご覧になっておわかりかと思いますが、形状はやはり補聴器みたいですね。

あるとき、ある人が、これを見て、てっきり補聴器だと思ったのか、
「俺もこのごろ耳が遠くなってね。家でテレビをかけると、音を大きくしすぎじゃない…? と家族から言われるんだけど、聞こえにくいから仕方ないんだ」
そう言いながら、
「ところでその補聴器はどんな具合? 良さそうだったら紹介してよ」
そんなことを言われたことがある。

さて、これを2週間つけて、何がどうなったのか…

今のところ、トータル的には変化はないが、機器を外してからしばらくの間は、、右耳の耳鳴りが聞こえなくなることがある。機器をつけている左ではなく、右の耳鳴りが一時的に消えるのである。しかし、夜寝るときなどは以前と同じように右も鳴るので、結局何がどうなっているのか、よくわからない。

キーンという音階がこれまで以上に高くなり、音色も澄んだ音になったような気がするが、総体的に言えば、音が大きくなったという感じはない。しかし、これまでは、日によって耳鳴りの状態が変わるということはほとんどなかったが、これをつけ始めてからは、その時々で、大きくなったり小さくなったりするようになった。大きくなった時はさすがに不安になってくるが、元々この治療は、大きくなったり小さくなったりしながら徐々に改善されていく、ということだから、あまり神経質になってはいけないのである。…と、わかっていても、これをつけ始めて耳鳴りが大きくなったので、怖くなってこの治療をやめた…という人が数多くおられる。その気持ちも、よくわかる。でも、今はとにかく継続することが大切なのだ。

この2週間で変化があったところと言えばそんなものだが、まだまだ入口にさしかかったところだから、これからどうなるのか、予測がつかない。しかし、つけていても、特に不快だという感覚はないので、TRTは今後も続けていける、という感触を得たのはこの2週間の最大の収穫だった。耳鳴りの状況や周囲の静けさの度合いに応じて、ノイズの音量の上げ下げもできるのだが、その辺のコツも、少しつかめてきたし…。

ただし、小さなものなのでうっかりしていると、落としたり濡らしたりする。

先日、2日続けて失敗した。
通勤自転車に乗っている途中に、左耳をさわった拍子に機器を道路に落としてしまった。すぐに拾って事なきを得たが、翌日、もっと大きな失敗をした。朝、シャワーを浴びるのに、これをつけたまま風呂場に入り、シャワーを頭から浴びた瞬間に「あっ!」と思って左耳をさわると、はめていたはずの機器がない。ありゃりゃりゃ…えらいこっちゃ、と思って床を探すと、タイルに落ちていた。あわてて拾い上げ、乾いたタオルで拭いてそっと耳に当ててみたら、いつものザーザーというノイズが聞こえたので、ほっと胸をなで下ろしたものである。

容器に保管するときはなるべく乾燥剤を入れるように…と言われたほど、湿気に弱い機器なのに、よりによってシャワーを浴びるのに耳から外すのを忘れるなんて、本当に僕はドジである。

しかしこれも考えようによっては、それだけ「つけているのを意識していない」ことは機器との相性が合っているということになるのかも知れないが、逆に、つけているのに気がつかないほどであれば、つけている意味がない…ということになるのかも知れない。
これも、どう分析・解釈したらいいのかわからない。
あ~あぁ。いっぱいわからないことだらけだ。
わからん、わから~ん。わからへ~ん。

でも、これは僕だけの話ではない。耳鳴り治療をしている人は、大多数の人たちが迷路をさまよい歩いているのである。それというのも、耳鳴りの治療に関してはデータが乏しく、医学的にも解明されていない部分がきわめて多いからだ。

な~んてことをグズグズ言いながら、今日は午前中に病院へ行くのです。

そして、これは、たまたまそうなったのですが、大手前病院のすぐそばにある大阪府庁で、午後から会議があります。

ですから、今日の僕は、午前中は休暇をいただき…。
午後からはお仕事をさせていただく…ということになります。
 

 

 

 

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