僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

四国自転車旅行 ② 悲しき龍馬伝

2010年08月29日 | ウォーク・自転車

 

 

 

僕はこの時まで四国には一度も行ったことがなかった。
北陸、東北、北海道、関東、東海の各地は自転車で走ったし、九州は高校の修学旅行や、仕事の出張で行ったことがある。
しかし、目と鼻の先にある四国には、行ったことがないのだった。

しかし、四国…特に高知県は、妻の父母の出身地である。
父親は佐川というところで生まれ、母親は須崎というところで生まれた。
妻の兄は、高知県の中村高校の野球部だったし、中村には、今も妻のほうの親戚の人が住んでいる。現在は中村市の名は無くなり、合併して四万十市になっている。

ちなみに、次男のお嫁さんも高知の学校を出て、大阪へ来た。
高知から時々来られるお嫁さんのご両親は、バリバリの高知弁を話される。
また以前のコメント蘭でおなじみだったyukariさんも、高知とは縁が深いとお聞きしている。
そんなことで、高知には何となく親近感がある。

さて、恐ろしくきつい坂道を上がりきったところにある「国民宿舎むろと」で1泊して、第2日目は高知の市街地まで走る予定だ。

早朝、あわただしく妻に手紙を書く。
今回の旅行は毎日、その日の出来事を妻に手紙で書いて送ることにしている。だから旅の日記はつけない。大阪に帰ってから、その手紙をもとに旅行記をノートにでも綴っておくつもりだ。

宿舎の玄関で、職員さんに写真を撮ってもらって8時20分に出発した。


  
   2日目の出発前。「国民宿舎むろと」の玄関で。


今日の室戸スカイラインは心地よい。
昨日は疲れきっていたので周囲の景色にまで気が回らなかったが、今こうして見ると、土佐湾から太平洋へと、眼下に広がる海の風景はまるで絵画のようである。車の影もほとんど見えないので、ゆったりとペダルをこぐ。ひんやりとした空気がとても心地よい。

起伏に富んだ道路を、朝の引き締まった冷気を浴びて、登ったりったり下ったりしながら爽快な走りを続けることができた。まことに「昨日は地獄、今日は極楽」の室戸スカイラインであった。

しかし、それにしても尻が痛い。腕、手のひら、足のつま先も痛むが、特に尻の痛さは尋常ではない。下り坂ではさっそうと風を切って疾走するのだけれど、サドルに座っていると痛むので、尻のやり場に困るのである。難儀やなぁ。

やがて室戸スカイラインがなくなり、海岸近くの室戸市街に入る。
郵便局のポストに妻への手紙を投函する。
その郵便局の前に、室戸市役所があった。
そういえば、2年ほど前に室戸市議会議員が数名、僕の勤める松原市の議会へ視察に来たことがあったなぁ。あのとき接待してあげたんだから、これから室戸市役所の議会へ行って冷たいお茶でも呼ばれるか…と思ったというのは嘘である。そんなあつかましいこと、ようしまへんわ。

再び国道55号に出て、高知市まで80キロの表示が上がっていた。
土佐湾シーサイドコースを走る。
同じ海の景色でも、昨日の室戸阿南海岸国定公園は、ゴツゴツした岩が多く、男性的な景色を呈していたが、こちらの西海岸はほとんど砂浜で優しげな風景が広がっており、道路も平坦で走りやすい。

途中に湧き水が出ているところでは必ず止まり、頭や顔がびしょびしょになるまで冷たい水をかぶるのが気持ちいい~。

11時に安芸市に到着した。
しかし、国鉄線が未通なので駅がない。
いつも駅で休憩し、時には食事をしたりするが、駅がなければ話にならぬ。
落ち着かない気分で、安芸市を後に出発した。

11時45分。道路わきに小さな中華店があったので、そこに入った。
カウンター席しかない、小さくて薄汚れた店だった。

「いらっしゃい!」と店の主人は僕の姿を見るなり、「おっ」と何事かを納得したような表情でキンキンに冷えた水をプラスチック容器いっぱいに入れてきて、
「これ、まず水筒に入れておきなさいよ」と僕に差し出した。
自転車ごと店に入ってきたわけじゃないのに、僕がサイクリングをしていることがひと目でわかったのだろう。僕の顔を見るといきなり冷たい水を、とにかくまず水筒に入れなさいと、さっと差し出してくれたのである。

「この道路はね、毎年夏になるとサイクリングの人が沢山走るんだよ。この店にもよく入ってくれるけど、必ず水筒に入れる冷水がほしいって言うもんだから、言われる前にこっちが先に出すわけ」と解説してくれた。そして主人は、
「そうか。またそういう季節がやって来たのかぁ」とつぶやいた。
僕は今シーズンのサイクリングの「ハシリ」だったのだろう。
たしかに、この7月上旬は、道でサイクリストとすれ違うことも少ない。
「8月になったら、うじゃうじゃ走っているよ」と主人。

そんなことを話しながら400円の焼飯を注文して食べたら、ずいぶん辛かった。
せっかく水をもらっても、これじゃぁすぐに喉が渇いてしまうではないか。

南国市を走っていると道端にスーパーがあったので休憩に入った。
あぁ、暑い。クーラーの効いたスーパーの中は絶好の避難場所だ。
自動販売機のサイダーとジュースを立て続けに飲み、ベンチに腰掛ける。
もうずっと、ず~っと永遠にここに座っていたいという気持ちになる。

しかしまあ、あと30分ほどで、今日の目的地の高知市街に着くのだから、ここは重い腰を上げて、自転車にまたがらなければならない。は~い、出発ぅ~。

国道55号が高知市内に入ったとたん、それまで量の少なかった車が、どこから現れたのか、急に増えてきた。中心地に入ると、まるで大阪に帰ってきたような賑わいぶりである。市電と市バスがやたらと目につく。

高知駅で休憩するが、トイレの鏡を見て、またびっくり。赤茶色にギラギラ光る鏡の中の顔。鏡を見る度にだんだん自分の顔でなくなっていくような気がする。

売店で缶ビールを買って飲むが、スーパーで飲んだサイダーやジュースのほうがはるかにおいしい。…この瞬間、「疲れ果てた体にはビールより清涼飲料水の方がおいしいのだ」という人生の真実に目覚めた僕なのであったが、その後は、また今日に至るまで「何はさておきビールがうまい」の凡俗に戻ってしまったのは残念なことである。



   
    高知駅で。


時計を見ると、午後2時半だ。
この日はまだ大事なことが残っているのだ。
この旅行ではおよそ観光など眼中になかったが、ただ一箇所だけはどうしても見ておきたい場所があった。桂浜に立つ坂本龍馬像である。

北海道への自転車旅行のとき、東京の新宿から自転車で日本一周している男性がいた。年上で豪快な人物だったので、僕はその男性を「新宿の大将」と呼んだ。

僕は「大将」と帯広駅で出会い、そこから襟裳岬、苫小牧、函館、青森県の下北半島から八戸で別れるまで、ず~っと一緒に走った。「大将」は勤め人だったが、どうしても坂本龍馬の像を見たくて、仕事を休職までして自転車で走り出したと言った。自分の最も尊敬する人物である坂本龍馬の像に会いに行くための自転車旅行だったが、どうせなら日本一周をしよう、と相成ったそうだ。

僕も高知駅まで来て、その龍馬像を見ずに帰るのも芸のない話だ。
今回は、ここだけ特別に観光しよう、と決めていた。
龍馬像の前で写真を撮って、長い間会っていない「大将」に送ってみよう。

「桂浜方面」と書かれてある、駅からまっすぐ南に伸びる道路を走る。ここから桂浜までは、約10キロとのことである。

走り始めて7、8分で宇津野トンネルに入る。トンネルを出ると急に道が狭くなり、車も家族連れらしい乗用車が圧倒的に多くなった。長浜というところを左にカーブすると右手に太平洋が見えてきた。海にぴったりと沿ってペダルをこいでいると、前方にひときわ華やかな「桂浜観光ホテル」が見えてきた。

ホテルからクネクネした下り坂を降りていくと、土産物やなどが並び、大きな駐車場がある。ここへ自転車を置き、歩いて桂浜に行く。浜辺はこじんまりしていたが、何だかまとまりが良すぎて映画のセットみたいにも思えそうだが、前方に待望の坂本竜馬像が立っているのが見えるとゾクゾクとしてきた。

「う~む、これが、かの有名な坂本龍馬像か…」
像の前に立って、龍馬の顔を見上げる。感慨もひとしおである。

さて、写真だ。像をバックに写真を撮ってもらわなければならない。

ひとり旅で自分を撮ろうと思えば、当たり前のことだが、人に頼まなければならない。かつて、太宰治の実家である津軽の「斜陽館」がまだ旅館をしていた頃に、僕はそこを訪れ、玄関先で通りがかりの人に写真を撮ってもらうようお願いした。しかし、それはまことに不幸なめぐりあわせだった。僕に写真を頼まれた女性は、生まれて一度も写真を撮ったことがない…つまり、カメラを持ったことがない、という人であった。
「じゃぁ、いいです」と言おうにも、ほかに人影はなく、またその女性も「どこを押すか教えてくれたら撮れますよ」とわりに気安く言うので、つい「お願いします」とカメラを手渡した。でも、教えてあげてもやっぱりシャッターの位置がわからないようで、関係ないところを押したりする。どうにか撮ってもらって、後でその写真を現像して見たら、僕の顔がカメラに向かって「あ、そこを押すんじゃありませんよ、シャッターはそっちです、そっち…」と指差して叫んでいる表情がそのまま写っていた。

ああいうことのないようにと、僕は写真の上手そうな人を探した。
しかし周囲は団体さんばかりだったので、仕方なく、その中の一人の中年男性に写真を撮ってくれるようにお願いし、龍馬像の前に立った。

写真を撮り終えた中年男性は、僕にカメラを渡しながら、
「思ったよりシャッターが硬かったんで少しブレたかも知れないです。まぁ、大丈夫と思うけど」と、心細い言葉を残して離れて行った。

当時はむろんデジカメなどはない。
今のように、撮った画像がその場で見られる時代ではなかった。

旅行から帰って、フィルムを写真屋さんに出し、出来上がってきた写真を見て、僕は絶句した。この貴重な坂本龍馬像の前での写真が…

こともあろうに…
坂本龍馬の首から上が、写っていなかったのである。とほほ。

 


   
   この場所で撮ってもらったのはこれ1枚だけ。
  あぁ、せめてもう1枚、ほかの誰かに頼めばよかったぜよ。

  
追伸 
 さすがにこの写真は「新宿の大将」には送れなかった。
 「なんだこりゃぁ。顔が写ってねえじゃね~か」と言われますものね。

 

  

 

 

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四国自転車旅行 ①室戸岬へ

2010年08月27日 | ウォーク・自転車

 

  
  大阪からフェリーで徳島に渡って、黄色い部分を6日間で走り、
  瀬戸内海の東予からフェリーで大阪に帰った。赤い印は宿泊場所。
 (この地図は最近のものですが、僕が走ったのは30年以上前なので、
  地名などが一部変わっています)

 

20歳の時の大阪~北海道往復自転車旅行から9年の歳月が経っていた。
1978年(昭和53年)。29歳の時だった。

僕は市役所で働いており、その時は議会事務局の職員だった。
2人の息子たちは、長男が5歳、次男が4歳だった。

役所では夏期休暇が8日間もらえた。
生活も落ち着いてきたので、久しぶりに自転車旅行を復活しよう、と考えた。
今年は四国へ。来年は九州へ。そして再来年は中国地方へ。
何とか11年がかりの日本一周を実現したい…という思いに駆られたのだ。

1978年(昭和53年)の7月7日。
僕は午前2時に起き、支度をして、2時50分、妻に見送られ、四国への自転車旅行に出発した。午前4時45分発の徳島の小松島行きのフェリーに乗るためには、こんな、とんでもない時間に起床しなければならない。

今回は四国で5泊する予定だが、すべて事前に宿泊施設を予約しておいた。
市町村職員共済組合会館とか、国民宿舎とか、安宿ばかりだけれど。

おかげで昔のようにテント・寝袋などは自転車に乗せずに済む。きわめて軽装の旅支度で臨めることになった。その代わりに、寄り道は許されない。きちんとその日に、予定の宿に到着しなければならない。予約金も支払っているしね。

雨が降ったらどうなる…? もちろん構わずに走らなければならない。
じゃあ、恐ろしい雷が鳴って嵐でも来たらどうなる…? 
計画どおり走れるのか…? 
…と、これはこれで悩みがある。
どうも、やろうとすることに比べて気が小さいので、そんなことが気になる。

しかし、幸いに…というか、この年は7月上旬に早々と梅雨が明け、僕が出発した7日はすでに真夏の青い空が広がっていた。その分、毎日ものすごく暑かったけれど、まぁ、あれもこれもいいことなんて、ありませんよね…。

9年前の自転車旅行は、これと言ってアテのない旅だった。
気に入ったところがあれば何日か逗留したし、自転車仲間と出会ったらその人たちと回り道もした。まことに行き当たりばったりの旅で、それは「自転車放浪の旅」と呼ぶにふさわしかった。しかし今回は、ごく普通のまっとうな自転車旅行である。いちおう、妻子もある社会人になっていたんだもんね。

 ………………………………………………………………………………

自宅から自転車で、フェリーが出る大阪南港まで1時間10分を要した。
時計はちょうど午前4時をさしていた。

4時25分、目の前に大きなフェリー「あきつ丸」が姿を現した。

中からトラック、乗用車などが次々と吐き出されて来る。たった一隻の船の中に、これだけ多くの数の車が入っていたとは、このフェリーというやつは、とてつもなく巨大で力持ちなのだなぁ…と感嘆しながら眺めていると、いよいよ最後の1台らしき車が出てきた。あ、これで終わりだ、と思ったら、しばらくして1台の自転車に男性が乗ってスイっと出てきた。まるで勢いよく水が流出していた水道の蛇口を閉じた後、ポトリと落ちる最後の「しずく」のようであった。

轟々たる騒音を響かせながら車の行列が出て行ったあとに、ひょっこり現れた小さな自転車は、まさに最後の一滴そのものである。

僕も同様に最後の一滴だから、車が全部入ってから自転車を船に入れる。

乗船の順番待ちをしていたら、不意に誰かが僕の背中を叩いた。

ギョギョっと驚いて振り向くと、役所の同期の上○君がニコニコ笑っている。
「のんさん。いよいよ出発ですねぇ。がんばってくださいよ」
「え…? どうしたん…? こんなとこで何してるん…?」
「見送りに来たんですよ。ひとこと、がんばってね、と言いたくて…」
「ほ、ほんまかいな。こんな時間に…。びっくりするがな。でも、悪いねぇ」
「いいです、いいです。のんさんのサイクリング姿も見たかったし」
そう言って、4歳年下の同期の上○君は手を差し伸べた。
僕らはがっちり、握手した。

やがて「自転車の方、どうぞ乗船くださ~い」という声があった。
「ではね。行って来ます。気ぃつけて帰ってや」
「のんさんも、道中、くれぐれも気をつけて」
「ありがとう。行って来ま~す」

上○君には、僕のこの旅行のことは知らせていたが、彼は「見送りに行きます」な~んてことは一言も言っていなかったので、いきなり姿を見せた時は、本当にびっくりした。こんな未明に、単車に乗って港まで来たらしいのである。

その上○君であるが、その後も友人でもありいい後輩でもあったが、数年前、肺がんで亡くなった。まだ50代半ばだった。その悲しい訃報に接したとき、真っ先に思い浮かんだのは、彼がこの南港に見送りに来てくれた時のことだった。

ともあれ、僕は船上の人となった。
フェリー料金は人間が1,440円。自転車は「特殊小荷物」の扱いで550円だった。

定刻より45分遅れの午前8時35分に、フェリーは徳島の小松島港に着いた。



 
   徳島の小松島港へ着く


小松島から国道55号に出て、阿南市に向かう。
道路に、室戸まで126キロとの標識が出ている。
今日、僕が宿泊を予定しているのが「国民宿舎むろと」である。
う~む、126キロとは、僕にとってはえらい距離やなぁ。

那賀川を渡り、しばらく走ると左手に目の覚めるような眺望が開けてきた。
室戸阿南海岸国定公園の一部である橘湾だ。とても美しい風景だ。

しかし海の景色はほんのわずかで、間もなく山間コースに入る。
道路脇の自動販売機でファンタを飲み、冷たいお茶を水筒に補給する。
それにしても、暑いこと、暑いこと。

土佐街道と呼ばれるトンネルの多い道を日和佐まで。
日和佐の大浜海岸は、ウミガメの産卵で有名だ。
6月から7月にかけての夜間、体重200キロ級の巨漢のアカウミガメが浜に上陸し、直径4センチ大の卵を150個近く産みつけるという。

日和佐から海沿いのコースで、南阿波サンラインという道が開通したそうだが、僕は国道55号を走り続ける。何とかラインと名のつく道路は、景色はいいのだが、たいてい起伏がきつく、自転車ではしんどいのだ。

日和佐トンネルを抜け、12時半に牟岐町に到着。駅前食堂に入ってトンカツ定食を食べるが、不思議なことに食欲が湧いてこない。店に入ってもまだ心臓がドキドキして、呼吸が収まらず、「食べよう」という気が起こらないのである。やはり、この暑さと疲労で体がバテバテになっているのだろう。大好きなトンカツがなかなか喉を通らない。まだ半日しか走っていないというのに、この有様では先が思いやられてしまうぜよ。

牟岐からは海岸コースだったが、案の定、起伏が多い。
だいたい海沿いのコースは、イメージよりも登り下りの坂道がきついのだ。
自転車に乗っているとそれがイヤというほどわかる。
しかし、それにしても起伏が多すぎる。平坦がなく、坂道ばっかりである。
休憩の時に地図を見ると、ここの地名は「八坂八浜」とあった。
な~るほどなぁ…(と感心している場合ではないのだけど)。

牟岐町を過ぎると海南町。そして海部町、宍喰町と通過して、長い長い水床トンネルを潜り抜けた時、「高知県・東洋町」の標識があった。
ここで徳島県に別れを告げ、高知県に入ったのだ。午後2時半だった。

 

   
 

ここから今日の目的地の室戸岬まで、約40キロだ。

へとへとになりながら、5時過ぎに室戸岬に到着した。

国民宿舎は山の頂上にあるので、ここから登って行かなければならない。
宿舎に電話をかけ、あと1時間ぐらいで到着すると伝え、宿舎の場所を尋ねた。

岬をぐるりと回る。
そこから室戸スカイラインという有料道路に入るのだが、グネグネと曲がる道の勾配が恐ろしくきつい。自転車に乗るどころか、降りて押してもエイヤっと力を入れなければ前に進まない。時々、たまらずその場に座り込んでしまう。汗が全身を滝のように流れている。えげつない登り道である。

そんな道でも料金を取るのだから恐れ入る(当たり前か…?)。
料金所にさしかかり、そこで窓口のおじさんに、自転車料金30円を支払う。
30円ぐらいだったら、いっそ無料にしろって。

ついでだから、係のおじさんに国民宿舎の場所を訊く。

おじさんは、ラジオの相撲中継を聴きながら、わかりやすく教えてくれた。
うむ、これなら30円も値打ちもあるぜよ、と心を入れ替える僕であった。

というようなわけで、午後6時、「国民宿舎むろと」にようやく到着した。

風呂で鏡の前に立って自分の顔を見ると、ぎゃっと叫ぶほど真っ黒けに日焼けしていて、自分の顔ではないような気がした。

夕食は魚のフライ、マグロの刺身、ぜんまいの煮物、それに漬物と吸い物。
ビールを2本飲んだら、目がグルグル回ってきた。

しかし、食欲は戻っていた。
ビールのおかげだろうか…。

 

 

  
    やっとの思いで室戸岬に着いたけれど…。

 

   
   国民宿舎へはこの有料道路を行かなければならなかった。
   えげつない登り坂が延々と続き、もうヨレヨレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フラッシュバック 自転車旅行

2010年08月23日 | ウォーク・自転車

コスタクルタさんの自転車旅行について書いた前回の記事に、BPSさんという埼玉の男性の方からコメントをいただきました。

(ちなみにコスタクルタさんは目標を達成し、今日、東京へ戻られる予定です)

BPSさんも、偶然僕の自転車旅行のブログに行き当たり、一気に読んでくださったとのことで、これもまことにうれしいことです。

年齢を重ねるごとに感動・感激・無邪気な喜びというものが自分の中で薄れていくのを密かに感じているこのごろですが、やはりこういう喜びや刺激を与えてもらうと、自転車旅行で走り回っていた若い頃を思い出し、熱い感情がこみ上げて来て、何だか勇気みたいなものが凛々と湧いてくるのを感じます。

それにしても、20歳の時の大阪~北海道への自転車旅行記(というより、自転車放浪記ですが…)を、何十年も経ってからブログに載せて、それを読まれた方から感想を寄せていただく、ということが、その当時に想像できたでしょうか…?まさか、こんなネット社会が訪れようとは…。これはもう奇跡のようなものだと思っています。ネットはまったく思いも寄らぬ出会いを演出してくれるのです。(逆にネット社会が犯罪を産む、という悲しい現実もありますが…)。

僕は、自分がこれまでブログを通じて、ネット社会が巻き起こすさまざまな偶然と奇跡の恩恵にずいぶんあずかっているなぁ、と思っています。

今回も、2年前にネットを通じて知り合ったコスタクルタさんの自転車四国一周旅行の報に接してそれを書いたブログに、前述の埼玉のサイクリスト(趣味が高じて自転車屋さんをされているそうです)の方からコメントをいただくという出会いがありました。今回、それに刺激を受けて、とうとう長年本棚の隅に突っ込んだままだった分厚いファイルを、引っ張り出してきました。

「整理しなければ…」とず~っと気にかけながらも放置してあった、社会人になってからの自転車旅行の日記や行程表、メモ、旅先からの妻や子どもたちへの手紙やハガキ、その他いろいろ…。ほかのことは面倒がるのに、書くことだけは、僕は昔からマメでした。

このファイルには、
1978年(昭和53年)7月7日~7月13日 四国自転車旅行
1979年(昭和54年)7月12日~7月24日 九州自転車旅行
1980年(昭和55年)4月27日~5月3日 中国地方自転車旅行

これらの、ありとあらゆる日記・メモなんかが詰め込まれています。

大阪から北海道まで往復した時は、まだ学生時代でした。
勤め人になってから、70日間も旅行するのは無理ですよね。
そんなことをしたら、クビになってしまいます。

22歳で結婚し、翌年長男が誕生すると、いよいよそんな旅行は不可能です。

勤め先では「自転車で日本一周したんですってね」とよく言われました。
「い~え、違います。北海道までですよ。まあ、東日本一周ですわ」
と、いちいち説明しなければならないのが辛いところでした(笑)。

そんなことを繰り返しているうちに、本当に「日本一周」をしたくなりました。

一度には無理だから、未踏の西日本を3回に分けて行こう、と計画しました。

そこで29歳(1978年)から31歳(1980年)までの3年間、夏期休暇やゴールデンウィークを利用して、上記のように四国、九州、中国地方を走ったのです。

思えば自分のことに夢中になって家庭を顧みず、妻に子どもを任せっぱなしで、ロクに家族サービスもしなかった僕でしたが、それでも妻は、僕のやる気を尊重してくれ、「がんばってね」と激励もしてくれました。

四国を走り、
九州を走り、
最後に中国地方を走って、
ツギハギの自転車日本一周はなんとか完成しました。

さすがに20歳の学生時代とは違い、日程を決めた旅だったので、「とんでもない」ような出来事には遭遇しませんでした。それでも、今、久しぶりにこれらの旅日記を読み返してみると、「あぁ、そんなことがあったんやなぁ」と懐かしく思い出したり、「え…? ほんまかいな?」とすでに記憶から飛んでいることにショックを受けたりと、心がけっこう波乱万丈モードになってきます。

北海道自転車旅行も、ある人に勧められたのがきっかけで、ブログに掲載を始めました。その、ある人…とは、誰とは言いませんが、今もコメントをいただいているじゃいさんです(言うてるがな)。

おかげで、押入れの中に何十年と眠っていた日記を、ネット上で公開させていただき、それを読んでくださった方々との交流も実現しました。

今回も、何かの縁だと思います。

四国、九州、中国地方の旅行記を近々このブログに掲載しようと思います。

きっかけを与えていただいたコスタクルタさんとBPSさんに感謝で~す。

 

     

  3年かけた自転車旅行の日記や資料が詰まったファイルです。
  長いこと、中を開けて読むということはしていませんでした。

  

 

 

 

 

 

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がんばれコスタ君 ~四国自転車旅行~

2010年08月21日 | ウォーク・自転車

自転車で四国一周をめざすコスタクルタさん(東京在住)から携帯にメールが入ったのは今月17日の午前中だった。その日の夕方のフェリーに乗船し、18日の昼頃に徳島へ着きます…とのことであった。

大阪の南港から徳島の港までなら短時間で行くが、関東からだと、徳島へは丸一日近くかかるんだね。さすがに遠いなぁ、と実感した。

「仕事が忙しく練習も出来ていない状況ですが4日間で四国を回りたいです」と意欲的だ。最後に「楽しんできます」と付け加えてあったのには、心が和んだ。

しかし連日のこの猛暑である。体調だけは十分に注意して、無理しないでね…と言ってあげたいところだが、4日間で四国を回るのは、「無理しなければ無理だろ」…な~んて真面目に思ったりするので、「気をつけてね」くらいしか激励の言葉を送れなかった。


コスタクルタさんは自転車旅行が趣味で、偶然にネットで僕の自転車旅行のブログを読まれたそうで、2年前に、その感想のコメントをこの「のん日記」に送ってくれた。

 自転車旅行のブログを読んで、とても感動して、目頭が熱くなりました。
 何か自分が言うのも変なんですが、ありがとうございました。
                       (2008年5月12日)

自分の息子より年の若い人からそんなコメントをもらい、本当に嬉しかった。

それから時々コメントをいただくようになった。

その年の8月に彼から、夏休みをとって輪行(自転車を分解して袋に入れ、乗物で現地までへ行くこと)で広島まで行き、そこから東京へ向って自転車で走る計画をしています…との連絡をもらった。

広島から東京へ向かう途中に、僕の住む大阪がある。
「大阪を通った時に、会いましょう」
僕たちは連絡を取り合い、大阪市内の国道1号線沿いの京橋というところで待ち合わせをし、近くの居酒屋で大いに飲み、大いに語り合った。

2人ともいい気持ちに酔ったので、コスタクルタさんは京橋駅の自転車預かり所に愛車を預け、電車に乗って東大阪市に住む先輩の家に行き、泊めてもらうことにしてお別れをした。

あれから2年。当時僕は、まだ勤めていた。懐かしいなぁ~。

以前から「ぜひ四国を回りたいです」と言っていた彼が、いま、念願を果たす旅に挑戦している。18日午後から走り始めたとすると、今日か明日にゴールインすることになる。いつフィニッシュのメールが来るのか、楽しみにしている。

僕が29歳の時に四国自転車旅行へ出かけた時は、徳島から室戸岬、高知、中村、南宇和、大洲と5泊して、愛媛県の東予から大阪南港行きのフェリーに乗船するまで、6日間かかった。それでも四国の3分の2ほど回っただけで、瀬戸内海沿いはほとんど走っていない。

コスタクルタさんはその四国一周を、4日間で走破しようという計画だ。
そのパワーは計り知れない。

最後までがんばってね~、コスタ君!

 


      
     2年前の8月。大阪の居酒屋でコスタクルタさん(左)と。

 

 

 

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熱中症からダルビッシュまで

2010年08月18日 | ニュース・時事

暑い。実に暑い。昼間に外に出ると、焼け付くようだ。
いや、ほんとに体が焼けて燃えてしまうのではないかと思うほどだ。

熱気から逃れ、スーパーなどに入ると、ヒンヤリして、実に気持ちがいい。
外出をしていても、途中でどこかの施設に入っていったん体を冷やさなければ、熱中症で倒れてしまいそうだ。

熱中症…。
いま、最もよく耳にし、目にする言葉がこれである。

来る日も来る日も熱中症で何人倒れた、何人死んだ…というニュースである。
クーラーをつけようにも電気代が払えなくて、我慢して亡くなったお年寄りの話などを聞くと、なんともやりきれない気持ちになる。何とかならなかったのか…と、悔やんでも悔やみきれない死に方だ。お気の毒でならない。

人間だけでなく、犬や猫も熱中症で続々病院に運ばれているそうだ。

海水温度が上がり過ぎてサンマが獲れない。
気温が高すぎて野菜が育たない。
…まあ、これは熱中症とは言わないんだろうけど。

いまはとにかく、熱中症に注意、注意である。

しかし、この「熱中症」という言葉は、昔からあったのだろうか…?
僕たちの世代では、熱中症とは言わず、「日射病」と呼んでいた。
それがいつの間にか、熱中症という呼び方に変わった。

広辞苑に載っているのか?と電子辞書で確かめると、たしかに「熱中症」の項目はあったが、「日射病を参照」と書いてある。これを見る限り、2つは同一のものなのであろう。

僕は「日射病」と聞くと、こわ~い感じがするけれど、「熱中症」と言われても、なんだかピンと来ない。

つまり熱中症というと、テレビゲームに熱中して勉強しなくなったとか、ギャンブルに熱中してアホになったとか、カラオケに熱中して声が枯れたとかいう、物事に熱中し過ぎてさまざまな症状を引き起こす病気を連想してしまうのだ。

それと、むかし「熱中時代」という水谷豊が主演した人気ドラマもあった。
これも熱中症にかかった人を描いた闘病ドラマではなかったはずである(当たり前やろ)。

う~ん。
どう考えても、「日射病」というほうがピンと来る。

しかし、寝ているときに体温が上昇し、亡くなった人は…?

日射病というのは、強い直射日光に長時間照らされた際に起こる症状だから、このケースでは適切な呼び方とは言えない、ということになる。それなら、やはり熱中症という呼び方が正しいのかも知れない。

もっとも、昔は就寝中に暑さで死亡する話などあまり聞いたことがなかった。だから「日射病」でよかったのだが、最近のような事例が増えると、その呼称では正確さを欠くところから、「熱中症」に統一されたのかも知れない。熱中症は日射病を含む総合的な暑さバテのこと、と理解すればいいだろうか。

それにしても、甲子園球場のあの炎天下で戦う高校野球を見ていると、恐ろしい。立っているだけでもクラクラするのに、そこで投げて、打って、走ってと、全力を出し尽くすのだから、信じられないエネルギーである。

選手だけではなく応援団の皆さんも同様である。汗だくになって声援を送っている。あれこそ、応援に熱中し、直射日光にも長時間照らされているので、熱中症と日射病の両方に注意しなけらばならない。

その高校野球だが、昨日、応援していた仙台育英が沖縄の興南に破れて準々決勝進出を逃し、悲願の東北勢初優勝も、また先送りとなった。

やはり、ダルビッシュがいた時代の東北高校が優勝しておくべきであった。

http://www.youtube.com/watch?v=Ja2oRcOBpc0

そのダルビッシュも、今や押しも押されもせぬ日本一の投手となった。

ご存知の方も多いと思うが、ダルビッシュの出身は大阪府羽曳野市だ。
僕が住む藤井寺市のすぐ隣である。
そのまた近所に富田林市というところがあり、そこにPL学園がある。
あの桑田、清原をはじめ、数々の大選手を送り出した名門チームだ。

ダル君は羽曳野ボーイズというチームで全国大会に出場して注目を浴びた。
なぜ彼が自宅近くにある高校野球界の雄・PL学園に行かず、はるか彼方の宮城県仙台にある東北高校へ行ったのか?

ある雑誌の記事では、50以上の全国の高校からスカウトがやって来て、説明を聞いたそうだ。その結果、東北高校の練習環境が最も充実していたから決めた、ということである。杜の都仙台、という街にもきっと魅力があったに違いない。すぐ近所にあるPL学園では窮屈な思いをするだけだったろうなぁ、とも思う。

あぁ~、仙台は本当に美しくていい街です。 しかし仙台育英は残念!

…と、なんだかわけのわからない話になってきました。

連日この暑さですから、少々ボケております。

皆さまも、くれぐれも熱中症・日射病にはご用心ください。

 

 

 

 

 

 

 

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痛恨の落球 ~高校野球~

2010年08月14日 | スポーツの話題


~ がんばれ 仙台育英 ~

いつのまにかお盆の真っ只中に突入している。
僕はずっと役所務めだったから、お盆休みというのはなかった。いったいいつ頃から世間はお盆休みに入るのか…?いまだによくわからない。なんでも、今週9日から休みに入っている会社もあるということだ。

そういえば最近スーパーへ買い物に行くと家族連れでごった返しているなぁ、という感じである。

この時期はまた高校野球の季節でもある。

昔から東北や北海道にあこがれていた。
この地方は高校野球の成績に関してはいいところがなかった。
わずかに、僕が20歳で自転車旅行をしていた1969年(昭和44年)夏に、太田投手を擁した青森県三沢高校が、松山商業と死力を尽くした投手戦の末、延長18回、0対0のまま引き分け、翌日に史上初の決勝再試合が行われ、4対2で敗れて東北勢の初優勝を逃したのが印象に残っているだけである。

そうこうしているうちに、2004年(平成16年)に北海道の駒大苫小牧が先に全国制覇を成し遂げ、大優勝旗は東北の頭上を飛び越えて、津軽海峡を渡って行った。

東北には住んだことのない僕だけど、なんとか東北勢に初優勝をしてほしくて、毎回テレビの前でエールを送っている。さらに、優勝するなら宮城県の仙台の高校である…と勝手に決めている。僕は仙台の街が特に好きなのだ。今年は実力派の仙台育英が宮城県代表として甲子園に出ている。

11日、その仙台育英が見せた。
すでにご承知だろうが、あの逆転勝ちはどうだ。
こんなことって、あるんだなぁ…というような、信じられない展開。

仙台育英は9回表の攻撃で、島根県の開星に5対3でリードされていた。
その9回も、2死ランナーなし。あと一人。万事休す…と誰でも思うよね。

しかし仙台は粘り、そこから安打と死球、そして相手のエラーで1点を返して5対4とした。さらに満塁まで攻め、押せ押せムードとなった。
…しかし、しかしである。
期待を担った次打者は、センターに凡フライを打ち上げてしまった。

「やった~」とばかり、開星のピッチャーは打球を見てガッツポーズをした。しかし試合終了…とはならず、とんでもないことが起きた。センターの選手がポロリと落球したのである。仙台の走者2人がホームイン。6対5の大逆転である。わ~い。

それでもドラマは終わらない。その裏、今度は仙台がピンチを迎えた。2死ながら1、2塁。長打が出れば開星の逆転サヨナラの場面である。

そこで開星のバッターが左中間を完全に破るような痛烈な一撃を放った。2走者が返って逆転サヨナラかぁ…と思われたが、なんと仙台の左翼手がダイビングキャッチの超ファインプレーで見事にボールをグラブにおさめた。劇的な幕切れである。

ポロリと球を落とした開星の選手は、ず~~っと言われ続けるだろうなぁ。
「あのときの、あいつの落球さえなければ…」
おまけに、相手の左翼手の超ファインプレーで試合の幕が下りた。
「えらい違いや…」と比べられ、余計にエラーが目立つだろう。
ょっと可愛そうだな~とも思うが、それが勝負の厳しいところだ。
こういう経験をして、人間は逞しくなっていくのだろうね。

痛恨の落球、といえば、今でも忘れられないのが、約30年前の夏の大会での星陵(石川)対箕島(和歌山)の試合である。

これも歴史に残る名勝負と言われているが、結論から先に言えば、延長18回裏に箕島がサヨナラ勝ちをした。そして、そこまでの経過が壮絶なのだ。

試合は1対1で延長戦に入った。

12回表、星陵は1死1、2塁で、打者が平凡なセカンドゴロ。
ダブルプレーかと思われたが、二塁手がトンネルをして星陵が1点を取った。

12回裏、1点リードされた箕島は、簡単にツーアウトをとられ、敗色濃厚となった。…が、なんと、ここでホームランが飛び出した。打った選手は打席に入る前、監督に「ホームラン狙っていいですか」と言い、監督が「狙っていけ」と答えたというのは、有名な話である。まさに起死回生の一打、とはこのことで、再び2対2の同点となった。

最大のドラマは16回の攻防だった。
16回表、星陵がまた1点を取った。3対2だ。
そして16回裏の箕島の攻撃である。今度こそ、と星陵は気を引き締める。
箕島はまたしても簡単にツーアウトをとられた。再び絶体絶命である。
両校応援団が固唾を飲む中、次打者が打った打球は一塁へのファールフライ。
一塁手がゆうゆう追いつく。

「あぁ…」と箕島応援席からため息が漏れ、星陵側は歓呼の声が響く。
…そのとき、テレビに、日本中が目を疑う光景が映った。

一塁手がボールを捕ったと思われた瞬間、転んだのだ。
どうやら、人工芝に足をとられたらしい。
ボールはグラブからポロリとこぼれ落ちた。

命拾いしたバッターは、次の球をレフトスタンドに叩き込んだ。
またもや、どたん場でホームランが出て、箕島は同点に追いついた。

そして延長18回裏、力尽きた星陵の投手を打ち崩してサヨナラ勝ちした。

  …………………………………………………………………………

先日、新聞に「忘れえぬ夏の高校野球名勝負」という記事が出ていた。
戦後の高校野球夏の大会での名勝負についてアンケートを取った結果…

1位 2006年決勝  早稲田実業ー駒大苫小牧
          (ハンカチ王子とマー君が投げ合い引き分け再試合)

2位 1969年決勝  松山商ー三沢
           (前述のとおり)
 
3位 1998年決勝  横浜ーPL学園
           (横浜の松坂が延長17回を投げ抜き激戦を制す)

4位 1979年3回戦 箕島ー星陵
           (前述のとおり)

5位 1983年準決勝 PL学園ー池田
           (強豪池田を、桑田、清原のPLが粉砕する)

こんなふうになっていた。

僕は、アンケートでは4位だったが、箕島対星陵の試合が、高校野球史の中でも最高の試合だったと思っているし、僕だけではなく、ファンの人たちの多くもそう思っているだろう。

星陵を破った箕島は、準々決勝に進んだ後も勝ち進み、優勝した。

「痛恨」の落球を誘った今年の仙台育英にも、ぜひ東北初の大優勝旗を!

頼んまっせ~。

 

 

 

 

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冗談は顔だけで十分です

2010年08月05日 | 雑記

うるさい耳鳴りも、何かに夢中になっている時には忘れてしまう…
それは、必ずありますよね。
大○前病院の先生が言っておられましたが、
耳鳴りで悩むある男性は、大の競馬好きで、
競馬のラジオ中継をイヤホンで聴いている時だけは、
耳鳴りが完全に消える、ということでした。
まあ、消えるというより、競馬に気を取られて忘れてしまうのでしょうね。

耳鳴り仲間(?)の akiraさんは、最近は綾小路きみまろの漫談を見ている時、耳鳴りを忘れる、と書いておられました。
今はこれが、耳鳴りの「特効薬」とのことです。

確かに綾小路きみまろの漫談はメチャクチャおもしろいですね。
僕も、大ファンです。
いま手元にきみまろさんの本を置いてこれを書いていますが、
その本をパラパラめくってその「爆笑フレーズ」を見ていますと、

  添加物を気にするわりには、厚化粧です。

  目尻は下がり、オッパイも下がり、お尻も下がり…
  上がったのは血圧だけです。

  私はハーフなんです。父が痛風で、母が糖尿です。

  若い頃は、恋に落ちました。今は、溝に落ちるようになりました。

な~んていう面白いフレーズが満載されていますが、
その中に、こんなものもありました。

  昭和の古ギャル、年金ギャル…

うっ。古ギャルとは…
…古ギャル → こぎゃる → 古ぎゃるっ娘

前回のブログの有害アダルトサイトの話を、また思い出します。

しかし…「古ぎゃるっ娘」ってサイトがあったら、誰か見ますかぁ…?


前置きが長くなりましたが、その綾小路きみまろにまつわる話です。

  ………………………………………………………………………………

4年ほど前。まだ勤めていた頃のこと。
出張で新大阪駅の構内を歩いていると、書籍売り場があった。
車中で読む本を何か買おうと、店の中に入った。

入ったばかりのところに、綾小路きみまろの文庫本が積み上げられていた。
こんな目立つところに積んでいるのは、売れている証拠だろう。
きみまろさんが、これほど何種類もの本を出しているとは知らなかった。

よっしゃ、新幹線の中で、きみまろさんに思い切り笑わせてもらおう…
と、そのうちの2冊を手に取り、レジに持って行った。
面倒だったので、カバーや包装も断り、レシートも受け取らず、
お金を払うと本をそのままカバンに突っ込み、店を出た。

時間があったので、その辺のベンチに腰掛け、2冊を取り出した。
すると…?

「ありゃ…?」
よく見たら、今買ったのは、2冊とも同じ本だった。
書店では、別々の本を1冊ずつ取ったつもりだったけれど、
目の前にある2冊は、紛れもなく全く同じ本だった。

しまったなぁ。
1冊を、別の本に取り替えてもらわなければ。

僕は急いで書店まで引き返し、レジのお姉さんに、
「すみませ~ん。さっき、これ買ったのですが、同じものだったんで、
 一冊を別の本に交換してもらっていいですか…?」

レジのお姉さんは、さっきとは別のお姉さんに変わっていた。

そのお姉さんは、
「はい。えぇっと、レシートはお持ちでしょうか?」
うぅっ。レシートねぇ…。面倒なので、もらわなかった。
しかも、カバーも包装もしてもらっていない。
裸のままの2冊の文庫本を手にしているだけだ。

「…いえ。レシートは、持っていません」
「いつごろ、お買い求めになりましたか?」
「はぁ? ついさっきです。あのぉ、10分ほど前かな…」
僕がそう答えると、お姉さんは、本を売った際に、本から抜き取るしおり状の売り上げカードが詰め込まれている箱を手元に引き寄せて、僕が買った本のカードを探しかけた。そして、僕に尋ねた。
「え~っと、その本の題名は何と言うのでしょうか?」
お姉さんにそう聞かれて、僕は答えに窮した。
「あ…、題…ですよね。題…。はぁぁ…」

僕は本の表紙をチラッと見て、仕方なくその題名を口にした。

「題名はね、えぇ~『 冗談は顔だけで十分です 』っていうんです」

…それが、僕が買った綾小路きみまろの本の題名だった。

「は?」
「いえ、あのぉ、題は『 冗談は顔だけで十分です 』」
一瞬、お姉さんの顔が引きつったように見えた…のは気のせいか。

「それが、…それが、あのぉ、本の題名なんですね? わかりました」
レジのお姉さんは、売り上げカードを繰り始めた。
「ええっと、冗談は顔だけ…冗談は顔だけ…冗談…冗談…と」
とお姉さんは独り言を言いながら、どんどん繰って行く。
僕の後ろに、若い女性客が並んでいた。
うぅぅぅ…。恥ずかしい~。

じぃ~っとレジのお姉さんの指先をみつめる僕。
…が、なかなかそのカードが出てこないようだった。
「おかしいですねぇ…。ちょっとその本を見せてくださいませんか?」
そう言って、お姉さんは僕の本を手に取り、表紙を確かめた。

「あ、題名が違いますね」
「えっ、間違っていましたか? 『冗談は顔だけで…』 では…」
「えぇ、違ってました。題は『失敗は顔だけで十分です』 です」

「……」 

「……」

(一瞬、僕とお姉さんは、目と目が合い、お互いに固まった)

「あ。冗談は顔だけ…ではなく、失敗は顔だけ…でしたか? あははは」
顔をこわばらせながら、笑ってごまかす僕であった。

後ろに並んでいた女性客が、クスッと小さく笑い声を上げた。

あぁ、恥ずかしいことばかりの人生です。

 

 

   

  

  結局、もう1冊を 左側の本に 替えてもらった。

  題名は、「こんな女房に誰がした?」

 

 

 

 

 

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有害アダルトサイトにご用心

2010年08月02日 | 雑記

あのインターネットのアダルトサイトのことである。
あれは、どうも目ざわりでいけない。
そんなものが最初からなければ、むろん見ることはないんだけど。
しかし、「現に存在する」ということは、どれだけ罪なことか。

ついつい見てしまうことが、時々あるのだ(えぇ?…ほんまに時々か?)。

1ヶ月ほど前、それでひどい目にあった。

家族が寝静まった夜。
僕は缶ビールをチビチビやりながら、ムフフなサイトを眺めていた。
次から次へと画面に出てくる宣伝文や写真や動画をクリックしていた。
ある動画をクリックした、その時である。

「ご入会ありがとうございました。あなたの登録は終わりました」
という文句が画面全体に出た。
「おいおい、誰も入会してへんで。アホなこと言いなや」
とパソコンに向かって抗議をしたが、画面は知らんぷり(当たり前だ)。

その日はそれでパソコンの電源を切って、一夜が明けた。
翌日、僕は昨夜のことをすっかり忘れてパソコンを立ち上げ、びっくりした。

「入会登録が完了しましたので、速やかに代金をお支払ください」

パソコン画面の4分の1を占める大きさで、そんなポップアップが出た。
「な、な、なんや、これは!」
その文字の下の画像では、若い女がニッとなまめかしく笑っている。
そしてそこには、こんなことが書いてあった。

「入会金5万8千円をお振込みください。お支払期限はあと3日です」
さらに、「お支払いされるまでは、この画面は削除されません」

「なにぃ、これ…?」
人のパソコンに勝手に入り込んで「削除されません」とは何事か。


ポップアップ画面の右上の×印をクリックした。
いったんは消えた画面が、しばらくしてまた飛び出してきた。
また消して、文章を打ち込み始めたら、また出てきた。
また、消す。
またまた、ビョ~~ンとその画面が飛び出してくる。

オー・マイ・ガッ~ 

このノートパソコンは、妻も時々使っているのだ。
妻がこんなのを見て、何か質問されたら、僕はどう説明すればいいのだ。
これはいかん。いかん、いかん。ゼッタイにいかんぜよ。

支払期限があと3日とあるので、3日間はパソコンを開けないでおこう。
僕はそっとそのノートパソコンを鞄に入れ、目に付かない所に置いた。

3日間放置しておけば、そのうち消えるだろう…という考えは甘かった。

3日後、パソコンを立ち上げた。
あぁぁ~ やっぱり。
またも、ビョビョ~ンと、見たくもないポップアップ画面が出てきた。

このサイトの名前は「○○○っ娘」という(…書くのも恥ずかしいわ)。

「あなたは“○○○っ娘”に入会登録されました。支払期限が過ぎていますので、早急に振込んでください。このポップアップは、支払われるまで削除されません」
な~んて、書いている。
誰が5万8千円も払うねん…アホらしもない。

しかし、どう操作しても、これが消えない。
消しても消しても、1分経つか経たないうちに、また出てくる。

困った。パソコンの仕組みにはまるで詳しくない僕は、本当に困った。

「そうだ。ネットで調べてみよう」
とにかく、なんとかしなければならない。
パソコンに詳しい知人に尋ねるのも、何だか恥ずかしいし…。
そうなると、頼りになるのは、ネットしかない。

「アダルトサイト」「ポップアップ」「消去」の3つの言葉で検索した。
すると、Q&Aに、このことが出てきた。おぉ、やったぞ~。

質問は、

 アダルトサイトのポップアップ(内容・入会手続き完了)が、
 PC画面に数分置きに表示されて大変困っています。
 ×ボタンはあるのに、押しても消えません。
 どうしたら消去することができますか?
 何か良い解決方法はございませんか?

というものだった。これだ、これ。僕の場合とまったく同じだ。

そして、回答には、こう書かれていた。

 いわゆる有害アダルトサイトの典型的な悪質ワンクリック詐欺です。
 「動画」をクリックした瞬間にスパイウェアが侵入したようなものです。
 「完全無視」して、絶対支払いはしてはいけません。
 また、支払っても、画面は削除されるかどうか保証はありません。
 それを消去する方法としては、基本的にはリカバリーすることですが、
 他にも何通りかの方法があります(後略)


その何通りかのひとつに、「システムの復元」というのがあった。
これは、パソコンを、何日か前の状態に戻す方法なのだそうだ。
やり方を読むと、僕ぐらいの知識でも、これならできそうだった。

説明どおり、すべてのプログラム→アクセサリ→システムツール
と進み、「システムの復元」にたどりつき、実行した。

2度失敗したが、3度目に「システムが復元されました」と画面に出た。
う~ん。これで、本当にあのポップアップが削除されたのだろうか…?

それで、パソコンの電源を切った。その日は、そのまま寝た。

翌日、恐る恐るパソコンを起動したら…

あぁ~~~あの忌まわしいポップアップは出ていない。
そして、何分経っても、それは出てこなかった。

翌日、そしてその翌日と、パソコンを起動するたびにヒヤヒヤしたが、
「○○○っ娘」のポップアップはついに出てこなかった。

ぱちぱちぱちぱち。

やれやれ。人生はどこに災難が転がっているかわからんなぁ。
まぁまぁ、解決してよかった…と、ほっと胸をなでおろす。

今後は二度と、妙なアダルトサイトには手を出さない。

もう、懲り懲りである。

 

 

 

 

 

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