僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ご健康に留意され、良いお年を!

2020年12月31日 | 日常のいろいろなこと

きょうは大晦日ですが
東京でコロナ新規感染者が初めて1,000人を超える1,300人超を記録したとの報道がありました。今、午後3時過ぎなので、つい先ほどのことです。

「とうとう東京で1,000人を超えたか」という思いと、「やっぱり」という思いが重なるのは、皆さんも同じでしょうか。

このブログも2007年12月01日から始めて来年は14年目になりますが、こんな物騒ぎな大晦日は初めてです。

振り返ればこの1年、
コロナ、コロナ、コロナばっかりだったもんね。

今年1月25日のブログに「新型ウィルス大丈夫か?」という題でコロナのことを書いたのが最初でした。この時はまだ「コロナ」という言葉は出ていませんでしたけど。

それから1年。
世界中が巻き込まれた大厄災になりました。

こんな時、
僕が好きな曽野綾子さんの言葉を思い浮かべるのです。

私はすべての生活を過酷だと思っている。その、あって当然の過酷を正視し、過酷に耐えるのが人生だと、一度認識すれば、すべてのことが楽になる。感謝もあふれる。(中略)。悪くて当然と思っていると、人生は思いのほか、いいことばかりである。
(「孤独でも生きられる」より)

この言葉を、最近また思い浮かべて、自分を奮い立たせています。

ま、そんなことですけど。

このブログをお読みいただいている皆さま。
この1年もありがとうございました。心からお礼申し上げます。

どうか、ご健康に留意され、良いお年をお迎えくださいね。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年いちばん驚いたこと

2020年12月29日 | 日常のいろいろなこと

2020年もあと2日で終わります。
で、きょうは今年でいちばん驚いたことを書きます。

それは今年9月のことです。書こう書こうと思いながら、自分にとってあまりに深い人生の痕跡に触れると同時に戸惑いもあって、今まで書けなかったのですが、もう今年も終わりだからね、書きますわ。

その9月のある日、送られてきたゆうパックを見てビックリ仰天したのです。いやまぁ、本当にどれだけ驚いたことか。

ゆうパックを送ってくれたのは、学生時代からの友人Nさんでした。彼のことは今年6月17日のブログで詳しく書きました。僕が北海道の自転車旅行中に出した彼あてのハガキを、彼はずっと保管してくれていて、それを50年も経ったそのときに送って来てくれたので、そのことを書きました。

そしてそのNさんが次に送って来たのがこの「ゆうパック」だったのです。そこには何が入っていたのか

 
 こんなゆうパックで、切手が何枚も貼られています。


僕は大学2年生(19歳)の頃から小説を書き始めました。高校生時代から文学に溺れて本ばかり読んでいた僕は、自分でも小説を書きたくなり、あれこれ想像をめぐらしながら他愛もない小説を書き、ガリ版で印刷して、大学の教授とか友達や高校の時の先生たちに配って読んでもらったものです。

最初に出した文集は「あくび」という題で、3篇の短編小説集でした。読んでいてあくびが出るような文集だからね~という感じですわ。

そして大学を卒業してからも書き続け、社会人になった後は、同世代の知人4人で同人誌を作り、1冊だけですが製本にしたこともありました。

といっても、あくまでも「お遊び」のレベルだったので、文芸誌に投稿したりすることはしていません。

書いた小説は10編余りだったと思います。今も僕の部屋の本棚の隅のほうに、その当時、原稿用紙に鉛筆で書いたそれらの小説の原本が残っています。

そういった小説の写しを親友だったNさんにも渡していたのですね。(もう忘れていましたけど)。

Nさんはその後もそれをず~っと大事に保管していてくれたようです。彼は同封の手紙で、僕の手書きの小説も半世紀が経つので紙質が劣化し、消滅の恐れもあるので「自分の手で再生しよう」と思い立ち、それらの作品を全部活字にし、ファイルに納めてくれ、それを「ゆうパック」で送ってくれたのでした。本当に驚きましたわ。一口で「感謝」とかいう言葉では言い表せません。ただただ、驚くばかりでした。

 
 僕が書き散らした小説の数々を1冊のファイルにまとめてくれた。


 
 ページを開くとまず僕の最初の文集「あくび1」が出てくる。

 その右下に3作の目次があります。
 
「馬五郎が村を出たその理由」
「小悪魔」
「シャボンの王子」

いずれも19歳の時に書いた短編小説です。もう何十年も読み返していないし、今後も読むことはないと思っていましたが、活字にしてもらったので、また読もうかという気持ちが湧いてきそうです。そうそう、その中の一つぐらい、このブログに転載して、皆さんに読んでいただこうかな~(いや、恥ずかしいなぁ)。

という次第で、大昔に僕が書いた十数編の小説を、Nさんがファイルで製本してくれて僕に送ってくれたという信じがたい話でした。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビドラマの ゆく年くる年 

2020年12月27日 | 映画の話やTVの話など

~吉高由里子さん、いいね~

昨日の26日(土)からいよいよ「歳末態勢」に入ったようですね。スーパーのチラシにも「歳末大感謝祭」とか「歳末大特価」などと派手な文字が躍っています。年の瀬ですね~

テレビも見ていたドラマが全部終わり、今はどのチャンネルもお笑い芸人らが出ている年末特集番組ばっかり。あまり見る気はしません。しかし中には見逃した番組の再放送があったり、キラリと光る番組があったりするので、いちおう新聞のテレビ欄は毎朝チェックしています。

たとえば昨日見た番組、NHKの「新日本風土記」は、高倉健の映画のロケ地となった北海道が舞台でした(タイトルは「そこに健さんがいた」)。「駅」「鉄道員(ぽっぽや)」「幸せの黄色いハンカチ」「網走番外地」「遥かなる山の呼び声」の5つの映画の舞台となった北海道の町が映し出され、地元の人たちの思い出話などを含めながらそれぞれの地を紹介するという番組で、2年前の放送の再放送とのことでした。5本の映画とも大好きだった僕は、初めてこの番組を見て胸が熱くなりました。

だから、テレビ欄はしっかり見て、録画しておかなければね。

さて、この数ヵ月で僕が欠かさず見ていたドラマは、NHKの朝ドラと大河ドラマ(再放送分も含む)と、その他では次の5本です。

★医師役の波留が笑わせてくれた「#リモラブ ~ 普通の恋は邪道~」

 


★妻夫木聡と吉高由里子の2人が主演で謎だらけの話「危険なビーナス」

 


★「不死身の龍」と呼ばれた極道・玉木宏が主夫をする「極主夫道」

 


★柴崎コウが10歳から25年間眠り続けた後に目覚める「35歳の少女」

 


★3人の女性の「不倫」を描き昔の「金妻」を思わせる「恋する母たち」

 

というものですが

最近、妻に影響されてか(笑)、ドラマを見ることが以前より多くなりました。でも出てくる俳優さんは、全然知らないか、顔は知っているけど名前は知らない、というケースが多いです。そのつど妻に教えてもらったりしていますが、女優さんでは「危険なビーナス」に出ていた吉高由里子さんが特に印象深かった。ごく普通の女性に見せて実はある事件を調べる潜入捜査官だった、という役柄も奇抜で、彼女の演技もキラキラしていた。昨日だったか、テレビでジェイコムのCMが流れていたのを見ると彼女が出ていた。俳優さん、特に若い女優さんはみんな同じような顏に見えて誰が誰だか区別がつかないんだけど、吉高さんはよくわかりました。もう顔も覚えて、すっかりファンになったって感じです。

その吉高さんの経歴をネットで見てみると、NHK朝ドラの「花子とアン」に主演していたとのこと。6年前に放送されたドラマだそうですが僕は見ていません。そんな折、偶然にもNHK総合で、来年1月25日からその「花子とアン」が再放送されることを知ったので思わずパチパチパチと拍手してしまいました。

その再放送の時間帯は毎週月曜日~金曜日の午後4時20分から午後4時50分までで、1日2本ずつ放送されます。ただ、大相撲や国会中継などがある時は放送されないので、ず~っとコンスタントに見られるわけではありません。特に大相撲がある時は最低15日間は見られないので寂しいですが、ともあれ全156回あるそうなので来年は長い期間、吉高さんを見続けることができるので楽しみです。

今はこの時間帯は宮崎あおい主演の「純情きらり」が再放送されていますが、もうすぐ終わりです。これもなかなかよかったです。

と、今日はテレビについて気の向くままに書きましたが、やはりコロナのせいか、今年はテレビ(特にドラマ)を見る時間が増えました。ビールを飲みながら見ることが多いので、飲む量もその分増えましたわ。

ま、それも言いわけですけどね。ふふっ。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国会議員も市会議員も 「宴会議員」 か

2020年12月24日 | 議会&役所

きょう、新型コロナウィルスの感染者が東京都で888人と、過去最多と報じられていました。連日コロナに関しては東京に限らず「過去最多」が続出しています。

そんなときに伝わってきたのが、
議員たちの大人数での飲み食いのニュース。

まずご存知のように菅総理が14日に銀座の高級ステーキ店で8人で会食をしたことが批判を浴びた。政府自体が5人以上の会食を控えるよう呼びかけているんですから、これはまあ、誰が考えても良くないですよね。

そのあとも、議員たちの「宴会騒動」は続きます。

愛知県西尾市の議会議員14人が12月議会の打ち上げとして、旅館の大広間で料理を食べ、酒を飲んだという。「宴会でなく、反省会だ」という議員たちの主張でしたが、飲んで食べたことはまぎれもない事実。

このグループは西尾市議会の最大会派で自民党系の「市民クラブ」という会派の議員たちだそうです。記者のインタビューに会長の小林という市議は最初「10人ぐらいで昼飯も食べに行っているし、議員だから飲んじゃいかんとかはないんじゃないの!」とキレていた。それがテレビで報道され非難を浴びたことで一転、謝罪し、会派の会長を辞任するということになったようです。

 

 

おまけにそのとき、コンパニオンの女性も3名呼び、お酒を注がせたりしていたということで、まさに「宴会」そのものです。でもその理由が、
「議員が立ったり座ったりして酒を注ぎ合っていたら感染しやすいので、なるべく席は立たず、コンパニオンさんにお酒を運んでいただくという配慮だった」
という説明でした。つまり感染防止策としてコンパニオンを呼んだそうです。理屈と言うのはどこにでもつけられますね。

コンパニオンが感染防止の役割をしたというのだったら、去年の忘年会(つまりコロナがなかった時)にはコンパニオンは呼んでいなかったのか? と聞きたいところですが、残念ながら報道はそこまで言及していなかったようです(マスコミもこんなところは甘い)。

次は大阪の15区(松原市や富田林市など)から出ている竹本直一衆院議員が大阪市内のホテルで政治資金パーティを開いたことが判明。議員の秘書によると、勉強会と飲食を伴う会食の2部構成で約80名が参加したという。そして「勉強会」のあとにアルコールも出た飲食会、つまり「忘年会」が開かれた。竹本議員本人は忘年会には出ておらず「勉強会の後にそういうのが開催されることは知らなかったので私に責任はない」と弁明した。そして秘書が「認識が甘かった」と陳謝したという。都合の悪いことは「秘書がやったこと」にするのはよくある話だけど、本当に本人は知らなかったのか? そんなはずはないと思うんだけど、不思議な話です。

そして今度は奈良県の山添村というところの村議会議員5人がコンパニオン3人を呼んで宴会を開いていたことがニュースに。またまたコンパニオンです。

この山添村の村会議員の代表である議長は、コンパニオンを呼んだことについては、やっぱりこう言った。
「通常だったら酒を我々が注ぎに行く。それができへんさかい。だから、その子らに『注いだって』と、コロナ対策やな」
と、感染防止のためにコンパニオンを呼んだと、西尾市議会と全く同じことを言っていた。これにはもう、笑ってしまいましたね。

ちなみに、この山添村は、僕が住んでいる藤井寺市と「友好都市提携」を結んでいる村で、昔はうちの息子たちも小中学生のころ、この山添村に招かれてキャンプなどへ行っていたという馴染みの深い村です。それだけに、こんなニュースが流れるのは残念です。

議員というのは住民から選ばれた「選良」だから、むしろ模範となる行動をしなければならないのにね。それと、こういう不始末をしでかすのは、中央も地方も、傾向として自民党の議員が多いような気がします。日本政府も自民党が舵を取っているのだから、もう少しちゃんとしてよね、ホントに。

と書いていたら、また、橋本聖子五輪相も6人で「高級寿司会食」をしていた、というニュースが入ってきました。

今日のモーニングショーで、視聴者から「どうしてエライ人たちはそんなに集まりたがるのでしょう。うちの子はクリスマスパーティもできないのに」というメッセージが入っていましたが、まさにそのとおりですね。

国会議員も市会議員も村会議員も、こんなことをしていると、そのうち「宴会議員」と呼ばれるようになりまっせ。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モミィの 「クリスマス音楽会」

2020年12月22日 | 日常のいろいろなこと

一昨日の日曜日(20日)、藤井寺の市民会館で「クリスマス音楽会」が開かれ、モミィが舞台でバイオリンを演奏しました。

モミィが通っているバイオリンの先生が主催する会で、その教え子たちが出演したわけですが、先生はバイオリンだけでなくピアノも教えておられるとのこと。なのでこの「クリスマス音楽会」は「バイオリン&ピアノコンサート」という形で開催されました。ちなみに、去年は11月に開かれ、それがモミィの初舞台となりました。つまり今年はモミィにとって2度目の舞台となったわけですね。

モミィは去年の2月からバイオリンを習い始めたので、まだ「駆け出し」です。この日出演した30名近い子供たちを見ると、幼児と小学生及び中学生でしたが、大半は小学生で、その次に多いのが4歳~6歳までの幼児。中学生はわずか3名で、うち2名は2年生。つまり3年生のモミィが最年長になります。最年長だけど、習い始めてまだ2年にもならない新人なんですよね~

でもまぁ、去年の初舞台は見ているこちらもガチガチに緊張しましたが、今回は2度目だしね。去年よりは技術も上がっているだろうから、と、落ち着いて見ることができました。

音楽会は、午後1時半から開演で、最初は第一部でピアノ。午後3時から第二部でバイオリンが始まりました。そしてモミィがその9番目に出てきました。


 
  舞台に立ち、バイオリンを弾くモミィ。


モミィが弾いた曲は「星に願いを」と「テイク・ファイブ」の2曲。

両方とも有名だし、僕もよく知っている曲です。それだけに時々音が狂ったりしたらすぐにわかります。特にバイオリンは「キィーキィー」という感じなので、少しでも間違うと、聞いているほうはすぐにわかるんですよね~

モミィもそんな場面がいくつかありましたけど、それでも最後まで踏ん張って弾いていました。そして無事に終わり、よかった、よかった。

モミィの演奏だけではなく、出演の子どもたちがピアノやバイオリンを一生懸命弾く姿をずっと目の前で見ていたら、胸が熱くなりました。本当に音楽というのはいいですね~

可愛い子どもたちの演奏を聞きながら、
ほっこり・ほんわか気分に浸った日曜日でした。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校受験に失敗しても ~塞翁が馬~

2020年12月20日 | 思い出すこと

今日はモミィではなく、大昔の僕の高校受験に関する話です。

僕は小学生の頃は勉強が嫌いで漫画ばかり読んでいました。当時は「貸本屋」というのがあって、そこで多くの漫画の月刊誌を借りて読むのが一番の楽しみでした。一人っ子だったし、両親は家から離れた場所で商売をしていたので日中は誰も家にいない。だから学校から帰っても、一人で漫画を読む以外にこれといった楽しみはなかったんですね。

       
  こんな漫画雑誌に夢中になっていました。

中学生になると、勉強しないと先生に叱られるのが怖かったので少しは勉強もするようになった(少し、ですよ)。そして高校受験を迎えた。まぁ大学へ行くなんてことは思いもしなかったので商業高校を受けようと、大阪市中央区にある東商業高校を受験した。でも落ちてしまった。ガッカリ。

仕方なく併願で受けて合格していた私立の近大付属高校の商業科へ行くことになった。今では近大付属高も、モミィによると偏差値は高く、結構レベルが高いそうだけど、僕らの時代はそんなことはなかった(御同輩、失礼!)。

そして初めて登校した日のこと。担任の先生が、クラスの学級委員長を決めるということで「これから5名の候補の名前を呼ぶので、みんなの挙手の数で委員長と副委員長を決めるからね」と言ったあと「〇〇クン、〇〇クン」と5人の名前を読み上げた。なんとその「候補」の中に、僕も入っていた。

僕たち5人は教壇に上がって並んだ。あとから聞くと入試の成績の良かった上位5人だったそうだ(ウソみたいな話だ)。そして5人の名前が順番に一人ずつ呼ばれ、その都度、50名以上いるクラスの生徒何人かが「お気に入り」の候補に手を挙げる。みんな今日が初対面なのに、何を基準に誰に手を挙げるのか、意味わからん。そして

終わってみたら、僕の時に手を挙げた人数が一番多かった。げぇっ!

というわけで、いきなり学級委員長になった。これは恥をかいたらあかん、と、中間テストや期末テストは全力を上げて勉強し、自慢ではありませぬが、3年間ほとんどクラスで1位の成績でした(自慢してるやん)。いや、それだけみんな勉強ができなかったということですわ。えへへ。

高校生になると漫画ではなく小説にのめりこみ、世界文学全集なんかを買って、一心不乱に読み続けたことも懐かしい思い出です。

で、近大付属高は近大の構内の奥の方にあったので、僕らは駅から通称「大学通り」と呼ばれる通りをまっすぐ歩き、突き当りが近大。その構内を通って一番奥の付属高校まで行く、ということで大学の中も通学路の一部でした。

やがて、大学生たちが大学通りやキャンパス内を歩いている華やいだ姿にあこがれ始め、特に男女の学生が仲良く歩いている光景など見ると、男子校の僕は「あぁ、ええなぁ」と羨ましく思い、いつの間にか「大学へ行きたいわ~」と思い始めたわけです。ちなみに、近大付属高から近大に進むのは、形ばかりの試験を受けるだけで簡単にいけました。(今は知りませんで)。

大学生活では自由と冒険を謳歌しました。3年生の夏に北海道往復自転車旅行に行き、その時期に今の妻と知り合い、大学卒業式の直前に結婚し、妻の勧めで松原市役所に奉職。それから38年間、定年退職まで、多少の起伏はあったものの、概ね仕事のほうも楽しく有意義に勤めることができました。

また一方で30歳前後の頃、四国、九州、中国地方の自転車旅行をしたあと、ニューヨークマラソンをはじめ、50歳を過ぎるまで各地のフルマラソンや100キロマラソンに参加し、子どもたちが手を離れた40代半ばから妻らと毎年のように海外旅行へ出掛けることもできました。

そんなことを今、楽しく思い出しながら、ここまで生きてこられたことを幸せに思っています。

それもこれも、東商業高校の受験に失敗したのが始まりでした。もし、そこに合格していれば、卒業後に商業関係の仕事についていただろうし、さまざまな冒険もできなかったのではないか、と思います。

「塞翁が馬」という言葉を思い出します。不幸だと思っていたことが幸運につながったり、幸運だと思っていたことが後に不幸につながったりする、というその格言そのままですね~

僕の場合は、高校受験に失敗したことが幸運につながったわけですもんね。人の運命ってホント、わからないものです。

でもね。
そんな話を今の受験前のモミィにしてやっても、きっとモミィは、
「意味わからへん。志望校に合格することが絶対に大事やから」
と言うに決まっていますけどね(笑)。

ちなみに、
僕が受験して落ちた東商業高校をネットで調べて見ると、6年前の2014年に閉校となり、95年の歴史に幕を閉じたと書かれていました。

僕にとっての「幻の母校」だった学校が、
今では、本当に「幻」となったんですね。

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モミィの高校入試が近づいてきた

2020年12月18日 | 日常のいろいろなこと

新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない中、あっという間に12月も半ばを過ぎ、年末年始が目前に迫ってきました。クリスマスパーティや帰省や初詣も、やはり例年よりは控えた形になるんでしょうかね~

特にコロナに感染したら死ぬ確率が高い人というのは、65歳以上で基礎疾患具体的に言うと、一番リスクの高いのが心臓に疾患を持っている人と言われていますが、僕はまともにそれに該当します。トホホ。

わが家でも毎年、元旦には次男の家族が来て、みんなで飲んだり食べたりしながらワイワイとおしゃべりをして過ごします。そして2日は長男の車に乗って、大勢の人たちが列を成す道明寺天満宮へ初詣に行き、帰りに外食をするというのがお決まりのパターンでした。

でもねぇ。今はこういうご時勢ですから、今回に限りそれをやめることにしました。なので家族だけで過ごすお正月になりそうです。ま、たまにはのんびりと何もせずに家で過ごすお正月もいいかも知れません。

さて、
中学3年生のモミィの高校受験がぼちぼち近づいてきました。これだけはコロナ禍であっても、実施してもらわなければ困りますよね。

最近モミィは、休みの日には妻と一緒に志望校の説明会に行っています。これまで大阪市平野区にある国立の高校や、松原市にある公立高校(長男モミィのパパの母校です)とか、先日は阿倍野区の昭和町にある私立高校へ行き、明日は同じく阿倍野区の住吉にある公立高校へ説明会に行く予定です。

その入試の日程ですが、来年2月に私立と国立高校の入試があり、3月に公立高校の入試があります。しかし、モミィが志望している学校はいずれも偏差値が高く、今の彼女の学力で合格する可能性はメチャ低い
と、これは本人が言ってるから間違いないでしょう(笑)。

高校へ行ったらロンドンかカナダかのどこかへ海外留学したいとか、いろんな夢や希望を口にしとりますが、その基本となる肝心の学力がねぇ。なかなか克服できない苦手科目もあって、狙っている高校のどこへも入れないことも十分に考えられます。まぁ、そのへんは、以前からモミィの実力をしっかり掌握してくれている熟の先生と十分相談して決めることになると思うので、僕らがヤキモキしても仕方ない。今はただ、黙って見守っているだけですし、そんな高い期待も抱いていないし。

それと、志望校に入れなかったら、モミィは深く悲しむかもしれませんが、それで本人が本当に不幸になるわけでもないでしょう。長い人生です。これから歩む道がどう展開していくかわかりませんが、高校受験に失敗したぐらいで何が不幸やねん! とまぁ、これは僕自身の高校受験の時の経験に基づく実感です。

僕は高校受験で志望校が不合格だったのですが、むしろそのおかげでその後の50数年間というもの、実にいい人生を送ることができたと思っています。

細は次回に記しますね~

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不整脈はお酒が原因 とわかっていても

2020年12月12日 | 心と体と健康と

昨日の11日(金)、また病院へ行きました。前回書いたように、その6日前の5日(土)に不整脈の症状が止まらなくて駆け込み、点滴を受けた病院です。昨日の場合は、前から決まっていた2か月に一度の定期検査・診察でした。

昨日は通常の採血に加え、心電図と心臓の超音波検査(心エコー検査)と心臓のレントゲン検査もしました。

検査を終え、1時間ほど後に診察室に呼ばれました

担当医は電子カルテのデータを見ながら、先日僕が不整脈が止まらずこの病院で点滴を受けたことに関してその時の様子を詳しく聞き、
「う~ん。なんでこんなことになったのかな?」
と首をかしげて、先ほどの採血の検査結果を画面で確かめ、
「ガンマも上がっていますし」
と、肝臓の数値が高くなっていることを指摘したあと、
「お酒のほうは、控えてますか?」と僕の目をググっと覗き込んだのです。

「えぇ、まぁ、あの、その、ムニャムニャ…」
お酒は控えていないので、僕もウソはつけない。
でも「はいは~い、飲んでまっせ~」とも言いづらい。

「いつも言っていますように」と、医師は僕をじっと見て、
あなたの場合、お酒が不整脈の主な原因だと思われますので、そこをきちんとしなければ、何度でも同じことを繰り返しますよ」
と、いつになく、きつい口調で言われた。
そしてさらに、
「次回は奥さんと一緒に来られませんか?」とも言われた。
「お酒をやめるか控えるかはご家族の協力も必要ですし
と、僕だけに言ってもダメだと思ったのか、医師は真剣な顏でそう言った。
「いや、それは」と僕。ちょっと大層じゃない? 妻もビックリするで。
「ま、無理にとは言いませんけど」と医師も少し口調をやわらげた。

そんなやりとりが続き、とにかく僕の場合はアルコールが不整脈の主な要因である可能性が高いので、これを控えることが何より先決、ということで昨日の診察は終わりました。

僕もわかってるんですけどね。
確かに、僕の不整脈は飲み過ぎた日の夜に出ることが圧倒的に多いのです。

これから年末年始です。
まぁ、今のコロナ禍だから、外で忘年会や新年会には行かないけれど、だからと言って飲む量が減るわけではない。家で飲むのも好きですからね。

でも、先日のように、何日も不整脈が続き、病院へ駆け込んで点滴を受けなければならないというような事態は、もう懲り懲りです。

断酒、までとはいかなくても、1日に500mlの缶ビール(とかチューハイ)を1本だけにし、さらに週に1日か2日、休肝日をつくる、というふうにしたら不整脈も起きにくいし、肝臓の数値も下がるだろうと思う。なにせ最近は1日に2本から3本、時には4本飲むときもあるので、これはやめなければね。

あ~あ。
もう、これまで何度も何度も同じような決意をしてきたのに、意志が弱いのでその決意を貫けない。でも今度こそ!

で、さっそく今日から実行しようと思いましたが、
今日の夜、おでんを炊いて、2本飲んじゃいました。

よ~し。
明日から。
明日から!
1本だけにしておこう。

と、酒飲みのひとり言です。
できるかどうか、怪しいもんですけど。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不整脈に悩まされた5日間

2020年12月08日 | 心と体と健康と

先週3日(木)の朝、目が覚めると何となく胸がモヤモヤする。心房細動(不整脈)が出ているようだが、まぁ珍しいことではないので普通に起きた。朝食後、いつもの薬を飲んで回復を待ったが収まらない。昼になっても夜になってもドキドキ、モヤモヤが収まらない。いつもの発作より明らかに長いけど、ごく稀に24時間続くこともあったので、ただひたすら我慢して収まるのを待つだけだ。

夜、体調が悪いまま「おちょやんと河内弁」のブログをパソコンで打ってアップして、それから安定剤のデパスを飲んで寝た。

しかし翌朝もまだ続き、24時間を過ぎてもず~っと心拍は不規則なまま。そしてその日も収まらなかった。心房細動の持病を抱え始めて15年近くになるけれど、2日間も連続して続くのは初めてのことだ。

そして発症3日目となる5日の土曜日も、信じられないことに不整脈はまだ収まらなかった。しかも朝から頻脈に変わり、1分間の心拍数は130前後まで上がっていよいよ気分が悪くなった。もう我慢も限界だ。いつも通っている松原の徳〇会病院へ駆け込んだ。

土曜日は循環器内科の診察はなかったので、一般内科で診てもらうことになったが、受付で症状を伝えると、看護師さんのカウンターの後ろ側にある急ごしらえの狭いベッドに寝かせてもらった。近くにあるいくつかの緊急用のベッドは一杯だったといことだ。

1時間ほど寝たままでいたところ、やっと医師が来て「点滴をしますから」と言ってすぐにどこかへ行ってしまった。さらに30分ほどしてから、看護師さんが点滴の機械を持ってきてくれて、やっと始まった。受付のすぐそばのベッドにいたけれど、周囲は慌ただしい雰囲気だった。看護師さんもバタバタと忙しそうだ。今、こんな時期だから、コロナ禍と関係あるのだろうか?

そんなことを思いながら、点滴を受け、心拍数も80ぐらいになった。でも心拍数は落ちたけれど、鼓動がまた不規則になり、いつもの不整脈はまだ少し残ったままだった。それでも頻脈は収まったということで、看護師さんが、「はい。ではこれで終わります」と、点滴を外した。

僕は少し楽にはなったものの、まだ何となくモヤモヤ感が消えず、戸惑ったけれど、看護師さんに「また調子が悪くなったらいつでも来てください」と言われてベッドから起き上がった。「今もまだ完全には調子良くないんですけど」とは言えませんでした。看護師さんたちも忙しそうにされてましたからね~

病院に来たのが10時頃だったが、時計を見たらもう午後1時半を過ぎていた。すると急にお腹がグーっと鳴りました。

そんなことで、12月3日の朝に不整脈が出てから、4日も1日中それに悩まされ、5日に病院へ行って点滴を受ける、という3日間だった。ところが翌日6日の日曜日もまた不整脈が出て、収まったかと思うとまた出て、という繰り返し。

さらに昨日(7日)の月曜日も、午前中は調子が良かったのに昼からまた少し心拍が乱れるというようなことで、結局3日の朝から昨日まで、5日間、調子のよかった日は1日もありませんでした。

ほんとにねぇ。こんな5日間も連続で不整脈なんて、僕にとっては前代未聞のことです。

そして今日(8日)、やっと脈拍は安定し、朝から今(午後9時)まで、スッキリした気分で過ごすことができています。やれやれですわ。

普通に生活ができることの幸せを、改めて噛み締めています。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おちょやん」 と河内弁

2020年12月03日 | 映画の話やTVの話など

先週、NHKの朝ドラ「エール」が終わりましたね。有名な軍歌から歌謡曲、阪神や巨人の球団歌、高校野球の入場行進曲、そして東京オリンピックの入場行進曲まで、驚くほど多くの名曲を生んだ古関裕而氏をモデルにしたこのドラマ。最近の朝ドラの中でも、特に見応えがありました。

それが終わって寂しくなりましたが、今週から新ドラマ「おちょやん」が始まったので今度はそちらに注目です。ちなみに「おちょやん」というのは大阪ことばで、茶屋や料亭などで働く小さな女中さんを意味するそうです。

この「おちょやん」に主演している千代のモデルは、俳優の故・浪花千栄子で、ドラマでは子供の頃から苦労して育ち、女中奉公先の道頓堀で芝居と出会い、やがては「大阪のおかあさん」と呼ばれるほどに有名になる、という彼女の姿を描いていく物語だそうです。

    
    ありし日の浪速千栄子。

浪花千栄子といえば、僕も子どもの頃から親によく連れて行ってもらった東映の時代劇映画に出ていました。中でも、中村(萬屋)錦之助主演の「宮本武蔵(五部作)で、武蔵を目の敵にして最後まで追い回す「お杉婆さん」を演じたのが最も強く印象に残っています。

その浪花千栄子さんは1907年(明治40年)に大阪府の南河内群大伴村というところで生まれたとのこと。ここは現在の富田林市で、かつて高校野球で有名だったPL学園があるところです。僕が住んでいる藤井寺市からも近く、共に南河内のエリアに属します。だからこのドラマの始まりの千代の少女時代は、舞台が南河内なので、すご~く親近感を覚えます。

その昔。
摂津の国、和泉(いずみ)の国、河内の国という3つの国がひとつになって大阪府が誕生しました。僕が松原市役所に入所して最初に勤務を命じられたのが「市史編さん室」という部署だったことは以前も書きましたが、当時、仕事で河内の歴史について資料集めなどもしていたので、その辺の知識は少~しだけ頭の隅っこに残っています。

 

この地図は昔の大阪の概略図で、左上が摂津。そして左の下が和泉、そして右側が河内です。ちなみに「堺」という地名は、摂津・和泉・河内のすべてと境界を接していたので「堺」と名付けられたということです。

河内はご覧のように縦に細長いので、北河内・中河内・南河内に分けられています。(円で囲った「南河内」の文字は僕が付けました)。藤井寺市も富田林市も、この南河内に属しています。

さて、ドラマの話ですが
主人公の千代の少女時代を演じるのは毎田暖乃(のの)ちゃんという9歳の子です。のんちゃんではなく、ののちゃんです(笑)。

今週と来週はこの子が主人公で、第3週からは舞台が奉公先の道頓堀に移り、千代を演じるのは杉咲花に変わります。つまり、南河内が主な舞台なのは最初の2週間ということになりますかね。

それにしても、ののちゃんの演技力はすご~いですね。オーディションで500人の中から選ばれたそうですが、9歳とは思えぬド迫力。演技力も抜群です。しっかりしてるわ~。

 
   ののちゃんが出ている1シーン。

だいたい河内弁は大阪弁とはまた少し違い、ひとことで言えばガラが悪いのです。さらに、河内は河内でも北河内から中河内、そして南河内へと、南に行けば行くほどガラが悪くなる(笑)。

「お前」のことを「われ!」とか「オンドリャー!」と言い、
「何してんねん」を「何さらしてけつかんねん!」と言い、
「このアホ」を「このドアホ!」な~んて言う。

だから、このドラマを見ている全国の人たちは、
「なんとまぁ、河内って口が悪いわねぇ」
と思われるかも知れない。

もちろん、口は悪くても人間は悪くないんですけどね~

でもまぁ、河内弁も、おもろいことはおもろいです。

そんなことで、
このドラマでナマの河内弁をジャンジャン聞けることができるのは、今週と来週だけやさかいな。皆さん、耳の穴ほじくって、よお、聞いときや!

えへへ。
さすがに、
「よう、聞きさらせ!」
とは、言いまへんで。
言いまへん。よう言いまへん(笑)。

 ………………………………………………………

と、昨日はここまで書いてアップしたのですが。

今日(金曜)の「おちょやん」を見たら、千代が道頓堀で女中奉公をするため自分の家を出て行くところで終わりました。えっ、千代がもう家を出たの?

あれ? 新聞の番組紹介欄で、来週末まで南河内が舞台になると書かれていたような気がしていたのですが、記憶違いでしたか。来週は、千代は道頓堀にある芝居茶屋へやってきて、女中として働き出す、というストーリーだそうです。

どうも、えらいすんまへんなんだ!(それ、河内弁か?)

 

 

 

コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする