ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK(Vol.6)その5

2016-09-26 06:55:00 | 日記
前島さんが、甲斐バンドのステージ照明を手がけるようになられたのは
当時のマネージャーでいらした武石さんが

舘ひろしさんのコンサート会場で、偶然お会いになった
沢田研二さんのマネージャーMさんに前島さんを紹介されたことがきっかけだったそうです

Mさんが、ピーナッツのマネージャーでいらした頃
前島さんがツアーに同行され「悲喜こもごもの珍道中を続けた仲」らしく

たまたまピンチヒッターとして
沢田さんのステージを担当なさった時にMさんと再会
沢田さんご本人も前島さんのライティングを気に入られたことから

「8年間、ジュリーのステージをじっくりとメインに据え
[沢田の前島]は、業界の高い評価を得る」ようになられたんだとか…

ともあれ、その初対面の際に武石さんから
「[甲斐バンドをやっています、今度お願いします]って
突然言われた時は、てっきり社交辞令だと思ってたんです」と前島さん

「ところが、数日後、本当に電話がかかって来て
正直、よく知らなかったから(笑)
急いで四国までステージを見に行きました」とおっしゃってるんですが

以前にご紹介しました通り
「イモなバンドだと思ったんです(笑)悪いけど…
でも、逆に俺ならこうするっていうのが沢山あった
それがやりがいになりそうな感じだったんです」
…という第一印象も語っておられました(笑)

ちなみに、甲斐さんの25周年のインタビューでは
「四国に行った時、それまでずっと照明をしてた人に会っちゃって
凄くバツが悪かったのと
ずいぶん威勢のいい連中だなと思ったのを覚えてる」と答えていらっしゃいます

それにしても、その高松でのライブの僅か1週間後
もう甲斐バンドの照明を担当されてるって
やっぱり何か引き合うものがおありだったんでしょうね?

そして「入社当時と何ら変わることのない[ケンカっ早さ]と
一度言い出したらガンとしてキカナイ一本気で
入社20年目、中堅幹部の座を目前に控えた12月
[社内の卑屈なやり方が気に入らない]と、遂に退社を決意

前島氏を慕っていた後輩たち15名も[それなら俺も]と言い出した」
会社側から[お前、引っ張ったな]と15名共々、懲戒免職を言い渡される羽目になる

その時は課長で、会社側について必死に引き留めようとしていた兄貴が
15人がバラバラに仕事をやろうとしても潰されるに決まっている
それならいっそ、懲戒免職スタッフで会社を作ってしまえと
自分も退社し、まとめ役を買って出て[Big 1]設立の運びとなった

しかし、時は12月…1年中で一番コンサートが多い時期であり
おのずと照明屋も一番忙しい時(汗)
既に引き受けている仕事を[東京舞台照明]がやるのか
[Big 1]がやるのか、の丁々発止の中

それでも受けた仕事はとにかくこなさなければならない
兄貴が家を担保に金策し、機材を購入
その新しい照明機材を持って、ステージの仕込みをハシゴして
懲戒免職1週間後には、Big 1として横浜体育館で仕事をしていた」そうです

「その時[東京舞台照明]という会社にではなく
前島良彦という個人に仕事を頼んでいたのだから
前島が辞めたのなら、辞めた前島に仕事を頼むと

最初に言ってくれたのが、甲斐バンドと沢田のチームで…
だけど、沢田の方は色々なシガラミがあったりして
この頃から、俺のメインの仕事は、沢田から甲斐になった訳です」と前島さん

後の甲斐報によると…
「音楽の仕事で、これが一番最初の仕事だと思うのは
佐良直美がレコード大賞を取った年のツアーで
転機になったのは、沢田研二の仕事かなあ」と振り返っておられましたが

甲斐バンドをメインになさった経緯について、田家秀樹さんは
「既成組織を選ばざるを得なかった沢田研二側と
前島良彦という個人と、個人が作る集団を選んだ甲斐バンド
言ってみれば[セッション・ミュージシャン]と[バンド]の違いだろう

それは、ゼロから始めようとする者への共感だったのかも知れない
そして、一緒に仕事をして来た者への[バンド的な]
スジの通し方だったのかも知れない」と記されてます

ともあれ、それ以来ずっと「手を抜かないバンドですからね
アカリ屋としての俺たちも、そうやって育って来たと思います」とか

「甲斐さんって人は、必死にやんないとついて行けない人だね
こんなに長くつき合ってて、イヤになってないんだから
やっぱり凄いと思うよ」と話されていて
仕事だけではない繋がりがおありなんだなあと…

余談ですが…前島さんが「初めて音楽の照明チーフ」となられた
佐良直美さんのツアーは、レコード大賞受賞の翌日から始まったそうですが

「四屯トラックの楽器車などあるはずもなく
列車の乗り換えともなると、大慌てでバスドラムを運んで歩いた

ホールに着いて、バイトにポジションの指示をして、ホッとひと息
楽屋でお茶を飲んでいたら、ステージが終わっていたりして…
運び屋の方がむしろ本業みたいなツアーだった」らしい(笑)

その佐良直美さんの【いいじゃないの幸せならば】についての記事によれば…

「あの子」という恋人がいながら「あなた」との恋愛に溺れる女性
「冷たい女」「悪い女」「浮気な女」と人から言われても
「いいじゃないの幸せならば」という「とんでもない歌詞」は

「恋愛を歌っていながら、どこか投げやりな退廃的とも言える匂いを漂わせ
曲名にしても、幸せを肯定しているのか、否定しているのか
単純な解釈を許さなかった」ようです

そもそもは、当時の佐良さんが司会を務めておられた
深夜のバラエティ番組の中で歌う「今月の歌」として作られ
レコード化されるかどうかは未定だったのが
大変な反響を呼んで、急遽リリース決定

「全国に飛び火した学園紛争が収束に向かいつつあり
社会が変わるという希望もしぼんで行った
[時代の空気をスポンジのように吸収したのが
この曲だったのかも知れません]と佐良さんは語る

作曲のいずみたくさんは
[結果的にレコード大賞を受賞したが
これほど賛否両論が伯仲した例は他にない]と記している」

…と書かれているんだけど、1969年10月には
ランドセルを背負っていた奥さん(笑)
曲の内容よりも「いいじゃないの幸せならば」というタイトルが
流行語として学校中で使われていたことしか覚えてないらしい(笑)
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