塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

他の競技には無い、サッカーの持つ柔軟性

2015-09-18 06:17:23 | 日記
 他の競技から見て、サッカーには無い要素が幾つもあります。

 悪い出来事で言えば、ファンが白いハンカチを振って監督、会長に最後通告を告げること、良い出来事はワールドカップのような、万人が認める国際大会の存在がそうです。

 僕が思うに、他の競技ではサッカーほど、コーチ、監督業が柔軟ではありません。

 例えば日本野球。

 プロの球団が12もある、いや、12しかないと考えるべきかはわかりませんが、その椅子に腰かけられるのは

 1・プロとしての実績を持つ人物
 2・2軍を含めたコーチ経験を持つ人物

 という方のみです。

 つまり、アマチュア(学生野球で日本一になった)、選手ではないが、練習内容や選手獲得に関して優れた力量を持つ。

 彼らが監督に指名されることはありません。

 でもサッカーは、どの国でも

 「コーチ・ライセンス」

 が存在し、これがあるからこそ、例えアマチュアの経験しかもたない、プロとしての名声が無かった人物でも、監督として生計が可能なわけです。

 これ、改めて考えれば凄いことですよ。

 勿論、そこには汚名返上の機会もあります。

 ザッケローニが選手として優れた実績を持たず、ミランでスクデットを得ても、それは彼の評判には繋がらず、ユーヴェやインテルでパートタイムを務める平凡な指揮官と言う評判が、イタリアでは先走る形になりました。

 しかし2011年、日本代表をアジア王者に導くと、イタリアでは

 「ユーヴェとトリノ、ミランとインテルというダービーの熱さで知られるクラブの監督を歴任」
 「ミラン、ユーヴェ、インテルで指揮を執った素晴らしい監督」

 と、その評価は一転します。

 もし、ブラジルの地で日本が3-4で敗北していなければ、ザッケローニへの見解は、更に異なっていたでしょう。

 今、ドルトムントではトッヘルがその眼力の高さを証明していますが、この

 「選手で無かった人物がベンチに座れる競技」

 としてのサッカーが、底辺を支えているように思うのです。
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