塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

2002、2010それぞれのワールドカップ

2013-02-26 22:41:17 | 日記
 キャピタル・ワンカップ決勝はスワンジー・シティがブラッドフォードを

 「5-0」

 という大差で退け、クラブ100周年に大きな華を添える形になり、ラウドルップ監督に対してはレアル・マドリーがそ
の動向を注視しています。

 ゴール・コムに掲載されている「ベン・メイブリーの英国談義」によりますと、ブラッドフォード、スワンジー両陣営は
共に対戦相手に敬意を払う素晴らしい試合だったそうで、ブラッドフォードのファンは選手たちと共に

 「達成感」

 という爽快さを思う存分味わったのです。

 クライフは常に

 「敗れる時こそ美しく」

 と唱え、日本でこの言葉が常に語られるのも僕たちが思う潔さ、言い訳をしないことに通じる概念がある為でしょう。

 しかしその一方で2000年以降の日本代表は、そうした爽快さを伴った敗れ方では無く、どこかよそよそしい敗れ方で
また別の議論を巻き起こします。

 2002年ワールドカップ16強 対トルコ戦
 2010年ワールドカップ16強 対パラグアイ戦

 いずれも識者、ファン問わず

 「8強進出は出来たはず」
 「こんな恵まれた組み合わせ、もう日本には訪れないだろう」

 と思わせるもので、同時に選手たちからも中途半端な終わり方に対し、何かが違うと呟かせたものでした。

 2002年の場合、ウミト・ダバラのヘディングに沈むも、前半終了間際に訪れが三都主のFKが入っていれば、結果は
異なったかもしれません。

 日本が研究されているとは思いましたが、西澤を先発に起用した3-5-1-1が奇異の目を持って迎えられた事も確か
でした。

 ですから先発の顔ぶれを変えていなければとい疑念が、最後まで色濃く反映されて点とファンの応援が届きにくい構造の
宮城で行われたことも、疑念に拍車をかけました。

 もし2002年、がむしゃらにサッカーをして8強に進出していたなら、ひとつの結果論として2010年にも好影響を
与えた可能性はあると思います。

 特に2002年は4強に進出した韓国も、2010年は同じ16強でしたから彼らを戦績で上回ることも視野に出来たは
ずなのですが。
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失敗から学ぶこと、サッカーでも実生活でも

2013-02-26 22:30:02 | 日記
 日本代表だけでなく、僕たちも過去を振り返り上手くいかなかった理由を検証する作業には慣れていません。

 ですから猶更の事、日本代表とサッカー協会、周辺メディアが検証しないこと、敗れた理由を置き去りにしている事に
腹が立つのでしょう。

 本来ならば、僕たちファンも常にその姿勢を持つべきなのですが。

 例えばおよそ15年前、学校卒業を控えているにもかかわらず、僕は仕事が見つからず毎日落ち込んでいました。

 甲府に住んでいた当時、僕が決めていたのは

 「長野に帰る事」

 ただこれだけで、

 1・どんな職種に適性があり、その企業は長野県内のどこに拠点を持つのか
 2・その企業が支払う賃金、休日、賞与の扱い、業務内容や地域貢献活動の調査
 3・自分が記した履歴書と写真の添削、面接練習の不備

 こうした自分が全くおざなりにしている事から目を逸らし、ただただ

 「どうして駄目なんだろう」

 と気落ちしているのですから、全く始末に負えないものでした。

 サッカーでは試合の前に対戦相手の戦力分析、選手たちの体調、そして試合を行う土地に気候、風土などを常に視野に
いれなくてはいけません。

 もし僕が今転職するならば、賃金と休日だけでなく、その企業がどんな志を持ち務める従業員と経営者が、その志の為に
どんな活動を行っているのか、必ず調べます。

 また従業員数も大切な要素となりますし、その土地の風土も見逃せません。

 サッカーでも実生活でも、失敗したことがあって初めて見えてくる物が確かにあります。

 だからこそ敗戦を無駄にできませんし、例えば前回失敗したプチ合コンから感じたことが幾つもあるのが、今の僕の実情
です。
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フランスと日本、どちらも恥辱を味わうも

2013-02-26 02:04:34 | 日記
 2010年の夏、フランスサッカー史における最大の汚点を残したレイモン・ドメネクと選手たち。

 主将のパトリス・エブラとその他22名の選手、特にニコラス・アネルカ、フランク・リベリ、そしてジェレミー・
トゥラランに対する一般市民の悪感情は相当な代物で、その後就任する

 「ロラン・ブラン」

 はその名前をもじり「白い騎士」と囁かれたものでした。

 ブランの万人が認める人間性とボルドーをリーグ1優勝に導いた功績をもってしても、就任当初の向かい風は熾烈で
あったのですが。

 2010年の夏、僕はこの一連の動きをナンバーを含む専門誌で追っていましたが、でも結局は他人事です。

 しかしフランスの人々は決してこの現実から目をそらすことはありませんでした。

 日本がサッカー以外で野球とバスケットでプロが存在するように、彼の地ではラグビーと自転車、柔道の人気はとて
もく、その注目度は時にサッカーを凌ぎます。

 その一方でサッカーでは無くこれら他の競技の愛好者、ファンもこのサッカーの不手際から何かを学ぶべきだと考え
たことは確かで、その点が明らかに日本とは異なります。

 「僕たちはあの敗戦から決して目を逸らさなかった」

 1994年キリン・カップで来日したフランス代表は、98年自国開催のワールドカップせ世界一を目指すべく、A
マッチに数えられるとは言え、極東の島国に主力全てを引き連れて来日するという、ある意味暴挙のでました。

 冒頭の言葉はこの当時、まだ主力として輝いていたエリック・カントナの言葉で、あの敗戦と言うのは当然

 「パリの悲劇」

 と言われたパルク・デ・プランスのブルガリア戦にあります。

 日本は2006年、2010年のフランスと同様の醜態を晒しましたが、その痛みから目を逸らす恰好を取り結果
オシム政権の発足で市原の関係者だけが

 「肩すかし」

 を喰らう羽目になりました。

 僕も自分なりに資料や単行本を読み、ジーコの率いた4年の足取りを追っていますが、様々な要素が複雑に絡んでおり、
納得のいく答えはまだ出せていません。

 サッカーを軸に皆が考えることを放棄せず、目を逸らさないようにすること

 これが今ファンに求められている形と言えます。
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