──竹田青嗣『欲望論』第二巻、271
何が「私」という主語を子に与えるのか。
「子」がはじめに「私」という主語の主体となるのは
権威者による規範、義務の交付に対する
内的な言語化をともなう対抗的弁明においてである。
すなわち「私」の至福、幸運、優越や特権の意識においてではなく、
むしろ「私」の不遇、「私」の蒙った不当、「私」の悲しみにおいて、
はじめて「私」は、一つの主語、「私」という物語の主語となる。
──竹田青嗣『欲望論』第二巻、271
何が「私」という主語を子に与えるのか。
「子」がはじめに「私」という主語の主体となるのは
権威者による規範、義務の交付に対する
内的な言語化をともなう対抗的弁明においてである。
すなわち「私」の至福、幸運、優越や特権の意識においてではなく、
むしろ「私」の不遇、「私」の蒙った不当、「私」の悲しみにおいて、
はじめて「私」は、一つの主語、「私」という物語の主語となる。