ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「悪法もまた法なり?!」(『教育』2018年2月号)

2018-01-21 | Weblog


パワーゲームの世界

ビジネスの世界では他人に対するやさしさや思いやりを
〝弱点〟とか〝欠点〟と考えるような人間に出会うことがあります。
こうしたあり方は結果がすべてという成果第一、
優勝劣敗といった一つの原理で動く世界における適応形態として、
ある意味で合理的といえる面があります。

経済ゲームがプレイヤーに求め評価するのは、
いわゆる固有の人格をもった「自由な個人」というより、
目的合理性にかなう機能的な能力だからです。
そしてそれ自体には「民主主義」「人権」「個人の尊厳」といった理念は
内在していないともいえそうです。
経済ゲームの世界に漂う〝非情〟の論理に異論を唱えることはできても、
現実的にそれを覆すことはそれほど簡単ではありません。

しかし、一つ確実にいえそうなのは、
この種の一元化した力の論理(パワーゲーム)が生活世界にまで及んで全域化すると、
私たちの社会はまちがいなく不幸になるだろうということです。
外からみるかぎりですが、現在の学校はこの種の成果主義や競争原理と地続きになっていないか。
子どもを力の論理が直撃する場所になっていないか。そんな懸念を抱きます。

学校で〝何〟を学ぶのか

学校は世の中のさまざまな利害関係や権力関係、固定した役割関係から独立的でありながら、
多様性に開かれうる数少ない場所だと思います。
言いかえると、単に多様性という理念を掲げるのではなく、
多様な生き方を認め合いながら共に生きていける方法を
体験として学べる空間であってほしいと思います。

けれども特定の世界観や価値観に従うゲームに一元化した途端に、
学校はそうした特性が失われる脆さをもつ場所でもある。
学校の自意識としてそのことも考えていてもらいたいなとも思います。

もちろん、子どもの学びの〝ルート〟は多様です。
学校という公式の学びの空間の外にも非公式の学びの空間を子どもは生きています。
たとえば民主主義や人権の概念を説明しなさいという設問に、
勉強秀才クンは百点満点の「模範解答」を提出できるかもしれません。
しかしそれが血肉として生きられているかはまったく別です。

むしろ、0点の子どもが民主主義的かつ人権主義的な生き方を
生活のなかで身につけているということもありえます。
問題はどちらがよいかということではなく、
そんな子ども同士がどんな関係を結びあえるか。
そこに「教育」ということの最も大事なテーマの一つがあるようにも思います。

ルール原理主義

極論をいえば、子どもは〝天使〟としても〝悪魔〟としても育つことができる存在です。
アフリカの戦場には歳足らずの少年兵やテロリストがいまも存在します。
子どもの成長のエネルギーがどこに向かうかは、
どんな関係のモデルと出会うかに大きく左右されるように思います。

たとえば、学校スタンダードと呼ばれる〝ルール原理主義〟。
人生のはじまりの時期に、これが〝理想〟という原理的モデルに染まるのは不幸なことです。
子どもの自由エネルギー、学びの能力や方向があらかじめ決められた枠組みに刈り込まれてしまうからです。
この不幸は、社会全体の不幸と結びついていくように思います。

古代ギリシャの時代、ソクラテスは国家の秩序を乱す異分子として
民主的な(?)裁判に従って、死刑判決を受けました。
「悪法もまた法なり、正義なり」といったルール原理主義のもとでは、
異質な存在や価値を受け入れる余地がないだけではく、
みずからのあり方を修正する外の視線が失われます。
むしろ社会は「悪法は法に値しない」と主張できる存在、
ルールを書き換えることで関係をよりよく鍛え上げることができる
という知恵を必要としています。

21世紀の社会は、どこかで再びソクラテスを殺すことになるかもしれない。
学校の外でそんなことを感じています。

 

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Another Galaxy 201801

2018-01-20 | Weblog

      *

内部観測と外部観測は相互に照らし合い、
交わる視線のハレーションになにかが兆す。

      *

「かくありき」から「かくありうる」へ。
虚無と諦念はある地点で刹那に破られる。

シグナルの無限連結が偶発的な転移を用意し、
超出の「窓」が開かれエロスの奔流が流れ込む。

聞かれなければ奏でられない音楽があり、
聞くことから最も遠い無音の旋律がある。

エモーショナルな走査線が風景を走り抜け、
一回的コンテキストが次々にピックアップされる。

期待の地平線が開示されるとき、
システムには光度が増していく。

相剋と蹉跌に打ちひしがれるとき、
新たなコードの創発が強いられる。

システムは絶えざる流動に晒されながら、
未踏の均衡点を際限なくめがけていく。

応答される応答するものの属性において、
応答関係が途絶えるとき関係はバインドされる。

絶えざる流動の波しぶきに洗われながら、
巡航速度はキープされなければならない。

      *

 

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「かなしい夜」 1983-2018

2018-01-19 | Weblog


地下鉄の工事現場から大学の構内を抜け
巨大なベクトルが
この惑星の心臓深く持続している

白昼といわず、深夜といわず、
かすめとられたイノチが歩かされている道があり

紅に輝く空のむこうには
哄笑に腹をかかえた不明の中心が
今日も暴利を貪りつづけている

小さな紛争は、小学校の校庭で
オフィスの片隅で、家庭の台所で
あるいはノスタルジーに締めつけられた
難民のキャンプ地で持続の状態にあって

不明の中心から遣わされた私生児のように
あたかも最後の答えをたずさえるように
正義と倫理と戒律が雨後のタケノコのように林立している

その貢献は本人の思惑の外にあり
あらゆるコミットメントとデタッチメントを
すべからく一つの全体へと整序していく

俺たちはベクトルを解除する方法を知らないが
それでもできることはあるだろう

〈偶然とは街〉とだれかが言った

あらゆる偶然を紡ぐように
こどもたち、おとなたちの夜がある

同じ空の下で、俺とおまえが一つ一つ
すくい上げなくてはならないのは、かなしい夜

この街が知らず
この街が教えることのない

どんな祭壇にも捧げられることのない
かなしい夜がある

 

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「親はあっても子は育つ?!」(『教育』2017年4月号)

2018-01-16 | Weblog


「学校メガネ」は外せない?

子ども時代を振り返るといくらかセピア調のフィルターが掛かっています。
しかし現役(!)の子どもにとって生きる世界はおそらく原色のままで、いつも空は青く、雲は白い。
子どもに寄り添おうとすれば、おとなのまなざしには若干の色調の補正が必要かもしれません。
あるいは過去へ向かうおとなの視線と未来へ向かう子どもの視線は、必然的にすれちがってしまう。
それゆえむしろ、寄り添うことの困難さを思い知るべきでしょうか。

誰にとっても子ども時代はいわば人生の原点です。
その原点についておとなの側がどう考えるのか。
人生のはじまりの時期をリアルタイムで生きる子どもたちを、どう迎え、もてなすか。
このことはおとな自身、あるいは社会のあり方や技量が問われるような
とても大きなテーマと言えるかもしれません。

ゲームの控え選手ではない

子どもはオギャーと〝裸一貫〟、予備知識ゼロ、まさに徒手空拳で生まれてきます。
一人では生きられないピカピカの人生のルーキーは、そのままでは〝ゲーム〟に入ることができない。
世の中でどんなゲームがどんなルールで展開しているのか、どう生きたらよいか一切知らない。
プレーヤーとして独り立ちするために、覚え、身につけなければならないことは山ほどある。
監督やコーチとしてはどんな準備をしてゲームに入らせるか、少なからず悩むところです。

しかし実際には、そんな計算や思惑とは関係なく、気づくとベンチの控え席にはいなくて、
子どもはすでに人生というピッチ上に立って固有のゲームを開始しているようです。
かつて子どもが保育園に通っている頃に訊ねたことがあります。
「みんなといる時、おならする?」
「しない」
「へえ、我慢するんだ」
「うん」
人前でおならをしてはダメと教えた覚えはありませんが、
すでにその場や関係に応じた自分なりの作法(プレースタイル)を身につけています。
あえて言えば「親はなくても子は育つ」、ではなくて、「親はあっても子は育つ」でしょうか。
いつの間にか言葉を覚えるように、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら、
子どもは一人のプレーヤーとしてのスキルを磨き、更新しつつ日々生き抜いているらしい。

子どもが何を経験し、感じ、考え、学んでいるのか。
何を大事にしながら、どのように成長しているのか。
本当のところはわかりません。
実感的には、監督やコーチが考える〝よいこと〟や〝お手本〟を示しても、
それはプレーの手掛かりの一つであって、
子どもが生きるゲームやプレーの全域をカバーすることはできない。
おとなに出来るのは、プレーできるピッチやボールをきちんと用意することくらいじゃないか。
当時、そんなことを感じていました。
もちろん、一人の経験や自力で獲得できる知恵には限界があり、
世の中には多様なプレーヤーやプレースタイルが存在するということは知ったほうが良い。
監督やコーチはそのためにいろんなゲームをセットしてあげる。
ゲームの中で多くのプレーヤーと出会い、プレーを試し、学び、
みずからプレーをバージョンアップしていけばいいとも思いました。

脱オーバーコーチング

スポーツ界で最近よく語られる「オーバーコーチング」(教えすぎ)という言葉があります。
過剰な指導が選手の内発的な思考や創造性を奪ってしまう。
あるいは監督と選手の「支配-依存」という関係が固定化して、選手が自立できなくなってしまう。
そんな意味で使われます。

例えばサッカー王国ドイツでは余りに定型化(スタンダード化)した指導への反省から、
草野球ならぬ草サッカーを推奨しているそうです。子どもにはサッカーを教えない時期を過ごさせる。
サッカーは楽しい、ただプレーする歓びを知ってもらう。
現在の王国復活の背景にはそんな共通了解があったと言われます。

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「世界の訪れ」20190114

2018-01-14 | Weblog


コスモスが朝の光に洗われ、風にゆれ、まなざしに交わり、
心的な変換規則に出会うと一つのアンサンブルが奏ではじめる。

世界は、ただの「ひかり、いろ、かげ」の構成としては現われない。
心的経験はそのように世界を捉えることができない。

「ひかり、いろ、かげ」という構成は、むしろ、
アンサンブルの体験ののちに二次的に再構成されたものでしかない。

「ひかり、いろ、かげ」が織り上げる差異の模様は、
はじめからアンサンブルが奏でるさまざまな諧調として訪れている。

アンサンブルの編成はわたしの「意識の仕事」とはいえない。
意識はアンサンブルの奏でる音をただ受け取ることができるだけである。

光と色と影のランダムな差異の連なりに、
タクトを振う超越的な存在がいるわけではない。

ただ、わたしのまなざしが風景に出会うと
固有の色あい、印象、意味と価値の構成が心を直撃する。

風景との遭遇は、ただ心的な体験としてだけ現象する。
わたしの中で泡立ち、色めき立つ作動がある。

そのことの理由をわたしは知らない。

世界の到来はほかでもないわたしの心的な出来事であるにもかかわらず、
わたしの意識にとって外部からの訪れのように現象する。

この訪れそのものが「真」である否かという問いは意味をなさない。
泡立ち、感じるという体験はただ端的な事実として経験される。

この訪れをわたしは拒んだり選択しないことができない。
わたしの意思の外側からわたしにおいてわたしを一撃するもの──
この端的な訪れそのものが、意識が起動するすべての源泉であり、一切である。

しかしわたしの経験はそこで完結することはない。(つまりそこで充ちることはない)
〝問題〟は到来性そのものではなく、それを記述し交換しあう位相において生じる。

それはウソか本当か、共通の意味と価値をもつに値するものであるのか──
相互に関係しあうと関係構造において「問い」が生成し、
体験記述の再帰的な交換から共有可能な〝ほんとう〟をめぐる審議のテーブルが生まれる。

審議のテーブルにおいて、どのような相互的「了解点」「納得点」へ向かいうるのか。
テーブルをひっくり返して決裂、血なまぐさい闘争へ向かうケースもある。

どこまで持ちこたえながら「審議のテーブル」を維持できるか。
社会(関係のゲーム)という項の包摂力がそこで試される。

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「ドーナツについて」

2018-01-08 | Weblog


自然には生えないドーナツ

「ドーナツは中心が空洞です」
「それがどうしたの?」
「パティシエはいつもこの形のイメージを思い描いてドーナツを作ります」
「うん」
「では質問です。ドーナツとドーナツのイメージはどちらが先に生まれたのでしょうか?」
「ドーナツ」
「でもドーナツをイメージしなければドーナツは作れない。どう?」
「そっか。イメージが先だな」
「ところが何もないところからイメージは生まれるものかな?」
「たぶん」
「どんなふうに?」
「ないものを自然に思いつく」
「なぜか思いつく。それでいいかな」
「うん」
「ドーナツをイメージすることから、おいしいドーナツは生まれる」
「そう」
「人間がいなければ、おいしいドーナツはこの世に存在しない」
「でも嫌いな人もいるよ」
「そうだね。好き嫌いを生むドーナツは、いつも人間とともにある」
「自然には生っていない」
「ドーナツのイメージがみずから転生してドーナツになることはない。
すべては人間の創造力のおかげといえる」

「人間が存在しなければ存在しないものって、ほかになにがある?」
「え~と、学校、宿題、スカイツリー、自動車、ケータイ、新幹線、遊園地、……数えきれないな」
「モノじゃないけど、いろんなゲームやスポーツもそうだね。
自然界にストライクゾーンは存在しない」
「アンパンマンも!」
「ぼくたち人間は、ほとんどすべて自分たちで作り上げたモノやゲームの世界の中で暮している」
「なんか神サマみたい」
「おいしいドーナツと同じように、神サマという存在も創られました」
「神サマっていないの?」
「神サマに出会った人はいません、たぶん。信じることはできてもね」
「会ったことのないものをどうして信じられるのだろう?」
「カタチのないものをイメージできるのが、人間のもつ創造力だからです」
「悪魔も?」
「イエス。天使もポテトチップスもドーナツも洗濯バサミも人間の創造力から生まれてきた。
廃品回収に出したいような、がらくたも一杯あるけどね」

「拳銃、戦車、戦闘機、ミサイル、ゲンバク。
思いつかないほうがいいものもたくさんあるな。なんでだろう」
「悪と戦うため」
「だけど戦争がはじまれば、数多くの人が傷つかないではすまない。それでもオーケー?」
「戦争のない世界をイメージする」
「いい考えだね。どんなふうにイメージしたらいいと思う?」
「ものすごくおいしいドーナツを作って、みんなで食べて仲良くなる」
「おお、いいね。でもドーナツが嫌いな人がいるって言ったよね。そんな人にはどうする?」
「戦争がバカバカしくなるような、ものすごく楽しいゲームを考える」
「一つ大事なことがある気がする。限られた人だけでストライクゾーンを考えても、
みんなが共感して同意しなければ野球のゲームははじまらない。
ゲームの楽しさを全員に伝える工夫が必要だ。仲間以外にも伝わるようにね」
「嫌いな人にも?」
「好き嫌いの感情を偽ることはできないけど、嫌いなピーマンもいつか好きになるような変化も起こる。
人間にはね。その可能性を信じることはできる。象やキリンは一生草だけ食べて生きるけど、
人間は変化する。変化するいい加減さは、プラスにもマイナスにもなるけど、
プラスになる方向で創造力を使えたらいいな」

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あゆみの言葉 20180103

2018-01-03 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=ugc96laV0ek


みんな、よい子でおりこうさん
そう思います

でもね、だれにとって、
なににとって、なのかな

ちょっと考えてみましょうね

小知恵はあるのです
小綺麗なうえに
小金だってあります
 
あり余るカインドネス
失くした財布は戻ってくる
 
おのれを空しくする和の作法
他国がうらやむ協調のふるまい
 
濃厚な礼と謙譲のもてなし
生活態度、マナーはほぼ満点
勤勉の含有率だって高いのです
 
センセイが呼び掛けると
一斉に「は~い」と応える
返事の仕方も立派です
 
ふるまいをやさしく
幽玄に心をとめる
自然に対する応答も見事です
 
クオリティの高さと均質性
ゴミ一つにも心を配る清潔観
すべてに並ぶものがありません
 
いわんや豊かな国土
電気は足りている
使える資源は十分あります
 
こんなに出来すぎなのに
やんぬるかな
いかんせむ
大事ななにかが足りません
 
食材はあふれている
据え膳もあふれている
ところが一つのレシピが見当たりません
 
給食を食べすぎたせいでしょうか?

ほんとうに食べたいものを
みずから作って食べる
ほんとうに大切なレシピが起動しません
 
「とりあえずビールね」
 
みんながみんなそう思うだろうって
みんながみんな考えているはずだ
と、ひとりひとりが考える

みんなのことを考える
みんなの考えることを考える

とても大事なことです、でもね
みんなのことを考えて考えて考えすぎると
とてもふしぎなことが起こります

〝わたし〟が消えた世界

どこをさがしても、だれにたずねても
〝わたし〟という存在どこにもいない

〝みんな〟というクラスは存在するけど
そのなかにはメンバーが存在しない
つまり、〝わたし〟が一人もいない

〝みんな〟という一人称だけが歩き回る
そんな不思議な世界が生まれます

数学の世界で考えられる空集合という概念に似ています
ひとりの部員もいない野球部のようなものです

そんなふうに考えると
「みんな、よい子でおりこうさん」という集合は
一人のメンバーも含まないことになってしまいます
とんでもないことですが……

ともあれ、おのれを空しくしすぎるあまり
ほんとうに食べたいものが
迷子になってしまうのかもしれません
 
迷子であることの意味も
迷子であることの自覚も
すべてが迷子のまま消えてしまう
 
センセイの教えに忠実なあまり
給食以外の味覚もじぶんも世界もまるごと
所在がわからなくなるのでしょうか?
 
超絶のチューニングとシーズニング
ご自慢のセレビリティ御用達
豊かさの指標はあちらこちらに溢れます
 
食べたことないのに本当でしょうか?
食べた後でも本当でしょうか?
 
出来すぎのパラドクスかもしれません
うるわしい美徳のジレンマかもしれません
 
いつも、いつのまにか
ひと前で「まずい」は禁忌の言葉
 
「まずい」というなかまには
「だまれ」という声さえ上がります
 
みずからのあり方を顧みながら新たなステージを開く
そんな大切な回路が閉じてしまうのでしょうか?
 
「好き嫌いを言わずに給食は残さず食べましょう」
 
クラスの完食記録に貢献するために
食べてはならないものを食べたために
死んでしまったアレルギーの子供もいました
 
おまかせのレシピに
おなかも心も一杯一杯になって
これ以上考えることがフリーズします
 
出会ったことのない料理に囲まれると
どっと疲れがあふれて
チャレンジするきもちが萎えてしまいます
 
だれかが考えるのではなくて
〝みんな〟が考えて

だれかが決めたわけでもなく
〝みんな〟が決める

だれも信じてないかもしれないのに
〝みんな〟が信じている
とだれもが信じることに頼るあまり

〝わたし〟が決めたのではない
〝みんな〟が決めたので
どこをさがしても責任者がひとりもいない

そんなことも起きてしまいます

あれやこれやそんなこんなで
だれかが決めたわけでもない
決まりこと約束ごとが立て込みすぎて

なんだかわけがわからなくなって
ヘトヘトにくたびれてしまって

いつのまにか食べること
生きることすべてが
空しくなってしまうのかもしれません
 
ちいさな疲れや不安がドロドロと積み重なって
しかたなくなんとなく
じぶんよりも〝おバカ〟を探し出す

みつけたつもりでホッとして
だんだん強気に居丈高になって
どっちがバカなのか
そんなことはどうでもよくなって

ただスッキリしたいだけのために
「殺したろか」
なんてことも起こります
 
じぶんを修正するのはとても面倒です
だれかをバカだと決めつけて
じぶんがじぶんのままガスを抜きたい

そうなる理由ははっきりしています
信じる世界をマップしなおすのはとても面倒です
そのうえ、そうする理由がみつからないのですね

でもね、クラスの外にはちがった風が吹いています
ちがったマップを描いて生きる人たちがごまんといます
もしも面倒なことがもっと楽しいことにつながっていたら?

「じぶんってヘン?」
 
ところが一方では
反省しすぎる特性も気になります

いつもいつも頭のなかに
コワいセンセイが住んでいるからでしょうか?
 
食べることばかりではありません
あれやこれや不安になると
いつもどこかにいるはずの
 〝エラいセンセイ〟を探す傾向も顕著です
 
みつけたセンセイに心を許し
人生まるごとおまかせして
あれよあれよと、めぐりめぐった最後の最後に
ホンモノの地獄につれていかれてしまう
 
いいすぎでしょうか?
 
今日も明日も明後日も
おまかせレシピを食べながら
おバカ探し、センセイ探し
そんなのばっかりで一日が暮れていく
おお、人生も暮れていく
 
あなたが心から食べたいものは何ですか?
 
かけがえのない資源も
ひそやかな思いや願いも
最後にはすべてがすべて

台なし
もち腐れ
見殺しのまま
 
もろともカタストロフを迎えるって
ほんとうに、ほんとうに
絶対にナシにしたいなと思います

でも、唐突ですが
希望をなくす必要は全然ありません

変化することも、変化しないことも
ほんとうは〝わたし〟が決めていることです

みずからのチカラの使用において
〝わたし〟たちが等しく選んでいることです

すべては〝わたし〟から始発するということ
始発点をけっして忘れないでいるということ

そのことの大切さをきちんと知ることから
空集合のガランドウを満たす実質的な契機が生まれる
そんなふうに思うのです

あなたはどう思いますか?──

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「始発点」20171231」

2017-12-31 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=70WmQk96Btc


いま、ここで、意識のフォーカスは絞られている──

意識は「木」を見ることも「森」を見ることも「世界全体」を見ることもできる。
「宇宙全体」にも「ミクロな構造」にも向かうことができる。

意識の対象化作用──すべてみずからの「訪れとしての世界」に発している。
フォーカスされるすべての存在、思念、真理、客観、正義、
そしてフォーカスする動機そのものが〈経験としての世界〉を資源とし起源としている。

心的現象の基底、「始発点」──

それ以上たどることができない端的な所与としての〈世界〉の訪れ。
ポリフォニックな情動を帯電し、意味と価値のスペクトルを含み、
一切の作動の対象と理由が与えられる固有の経験として〈世界〉の訪れ。

対象化され外部化された「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」。
そうしたものの側からの規定として世界を見るのではなく、
「始発点」として現象する心的な構造の側からの規定として、
「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」をフォーカスすること。

 

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「問い」

2017-12-30 | Weblog

   https://www.youtube.com/watch?v=-q8GLfRI1IA&list=RD-q8GLfRI1IA&index=1


なぜ・なに・どうしたら──

実存──「問い」を携える未決のフォーメーション。
あらゆる「因-果」的記述にスキマを開くように作動する内的原理。

ためらい、迷い、とまどい、はじらい、はにかみ──
自己完結を拒むように現象するゆらぎのさざ波。

確定されざる自己記述、関係記述、世界記述。
一義的に収れんされざるポリフォニックな情動生起。

「最終解」を留保し、推論し、検証し、
審議に上げながら陣痛にむせぶ創発の地平。

創発の地平、問いの地平を確保することにおいて、
新たな「ありうる」(存在可能)をめがけ遷移する終わりなき企投。

すべては「非知」のことづけから始発している──

知ることより早く駆けている作動がある
知ることに先行して
知ることを促す生成があり

知ることの手前で
知ることに火を灯す
由来をたどれない始原の発火がある

つねに、すでに
いま、ここに

知として関係するよりまえに
理として解釈するよりまえに
知と理を走らせる作動があり
生成としての〈世界〉の訪れがある

知覚は動き
情動は走り
世界は開かれ

言葉はおくれて形を結ぶ

「おくれ」において動きだすことの意味と構造───
始原の発火にスキマを開く非直列的作動があり、
スキマだけに生成する予期があり、判断があり、選択があり、決定がある。

時間と空間、意味と価値──
新たなフォーメーションに向かう資源の自己内生成。

心的領域はつねに、決議保留の位相として開かれている。

   ***

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「カップリング」

2017-12-26 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=DmayB1PlaEU

 
   ──The sacred words 〝I love you〟.
     ……
     Was it too beautiful to last?


「それぞれが自己修正的に動くシステム間の連結(カップリング)の問題は、
人間の社会または生態系への適応にとって、中心的重要性を持つ。」

「ぶつかりあういくつかの存在が、複雑な学習やコミュニケーションをなしうる有機体である場合には、
それらのシステム全体は、均一状態か体系的差異化に向けていずれにしても
より単純な方向へ─急速に変化する。それはいわゆる組織化にほかならない。」 (『精神の生態学』佐藤訳)

 

      *

絶え間ない流動と波乱の気象への適応と、
慣性系のガバナンスに先んじる更新が持続している。

      *

拡張可能性を予感するリズムへの自己越境的感応があり、
再帰的感応によってカップリングの形式が決議されていく。

エントロピーが加算される風土への適応課題の一方で、
すべての交感にはエシカルな制御が同伴している。

リズムへの感応はエシカルで審美的な固有のコードに従い、
創発と廃滅が分岐するボーダーへの予期がある。

〈世界〉はシステムの越境的感応に相即して、
エシカルで審美的なスペクトラムにおいて配列される。

システムが幻視するエレガントな作動の境位があり、
未だ組織化されない作動のイメージへの誘いがある。

流動する環境は審美的スペクトラムとして分光され、
固有の一回的なランドスケープが描出されていく。

確定されざる形式において現在は未来を分泌し、
越境的感応と終わりない志向そのものを創発していく。

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「十二月の光」20171225

2017-12-25 | Weblog

                 https://www.youtube.com/watch?v=_5-pBkwyUxc


十二月の月明かりの夜空は冷たく透きとおり
今夜は途切れのないクリスタルだったから
心はどんな感情も結ぶことができなかった

刹那を刻む情動の発火が先行して
時制のコマンドは壊れ 
数えきれない昼と夜が入り混じり

呼ぶ声も応える声も 
どれが自分かわからなかった

いつかあなたといた空があり
今夜もあなたといた

もうすぐ消えようとしている灯を照らすように
病室の外の月はこんなにも綺麗に輝いていた

光が触れた情景が
永遠に保たれるものなら

空の彼方のどこか 
はるかに遠ざかりながら

あなたとぼくは
いつまでも同じ場所にいるのでしょうか

真夏の太陽の下で冷たい清流を泳ぎ回り
焼けた岩肌に腹ばいになりながら
川瀬に潜ったあなたの姿を追っていた

あなたは隆々の腕っぷしを見せつけるように
並んで泳ぐ二匹の鮎を一刺しにして銛を突き上げ
こぼれるような笑顔を投げて寄こした

青空を映した水面には
白い雲が流れ

澄みきった光と風のなかで
少年の心は満たされ

水辺には夢と区別されない
黄金の時間が流れていた

横たわったベッドでか細く息をつぎながら
あなたはその意味を受け取る力なきものに
ふり絞るようにわずかに手を握り返した

帰る場所も、留まる場所も、送る場所も
だれも教えてくれないさびしい時代のシグナルが
月の光がつつむこの街に巨大な不在を告げていた

病室を出てから上流の懐かしい土地へ向かった
真夜中の時間、そこにも待ち受けてくれる人たちがいた

ヘッドライトが照らす暗闇の川べりの道を
影が走り、風がわたり、木々がそよぎ、
月明かりの夜空と無明の現在が溶け合っていた

永遠の遠ざかりの臨界に萌すものがあるのでしょうか

心なるものの応えなき応答のいとなみにおいて
冴えわたった月の輝きが
なにかに召喚を促していました

 

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Barbara

2017-12-24 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=9Gp0Qva1Rcs

         https://www.youtube.com/watch?v=OYM7d4lceWk

              https://www.youtube.com/watch?v=qqPUfuNYk8Y


一次過程──

知覚は動き
情動は走り
世界は開かれ

心は泡立ち
思考はめぐり

言葉はおくれて
かたちを結ぶ

「Alas!」 

日々、いま、ここで、
現象する始原の作動

一切の起点をつくり
一切の資源をつくり

一切がリサイクルされながら
一切が更新され
一切がはじまりつづける第一原因

***

すべてが「実存」からはじまっていること。
関係項(関係子)からの規定としての生ではなく、
関係項(関係子)の生成と展開の起源としての実存。

起源であり
起源を生きつづける

いちどきりの、永遠の一回性としての、
生誕とともに生成し、死において完全消滅する、
生と死に区切られた〝この意識生〟だけが目撃している〈世界〉。

その固有性、各自性、絶対性、とり代えられない実存の一回性。

にもかかわらず一般定立された〈世界〉という信憑(超越)において、
関係し、学習し、変化し、ゲーム的身体として、
企投の生涯を駆け抜けていく人間的実存というものの構造。

ということの了解性が多くの「クソ」を排除する可能性。
そしてそのためにくぐらなければならない条件。

 

      

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「関係のゲーム」20171223」

2017-12-23 | Weblog

                           https://www.youtube.com/watch?v=TtZK9KCNGlo


メッセージを運ぶまなざし。運び屋としてのまなざし。
このことの信憑を消すことはできない──
そうした存在の形式をわれわれは生きている。

ひとつのまなざしによって心的な〝打撲〟を負うことができる。
脱臼、骨折、ときとして致命的となる心的な〝外傷〟。
ひとつのまなざしによって天に昇る〝揚力〟を獲得することもできる。

まなざしの交換。意味の受け取りと投げかけ。
相互的な存在企投、関係企投の連続的展開。

およそ自然の掟になじまない、物理法則から隔絶した特殊な関係の原理。
われわれの経験のモードをもっとも深いところで規定している「意味」の交換ゲーム。

つねに「関係」の意味という主題をたずさえながら生きる存在。
「意味の受発信」という関係のゲーム。
そこにはゲーム内の経験のモードが切り替わるような「意味の閾」がある。

「ちっ」

たったそれだけのことで決定的なトリガーが引かれる。
取るに足りないノイズの混入からメルトダウンが始まる。

肩が触れた瞬間、男の舌打ちする乾いた音が聞こえた。
男がどんな顔をしたのか見なくてもわかった。

視線が泳いだ途端にクソの毒が回りはじめる。
クソの血がたぎって脳ミソに逆流する。

このとき、あるゾーンを確定する「閾」が決壊する。
別の関係のゾーンが開かれ、経験のモードが切り替わり、
習慣化した関係のゾーンの底が割れて基底に眠る「原理」が覚醒する。

一気に、すべてを引きかえにすることを厭わない、
関係の清算を迫るように作用する「暴力原理」があり、
その組織化と凄惨な歴史がありつづけてきた。

 

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「バインド」

2017-12-19 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=JZXRB9BuLhk

バインドをほどくことの困難さは、
バインドに向かう作動の存在も告げている。
そのことにもたしかな理由がある。

「ありうる」の可能性と不可能性の両義性。

「ありうる」をめがける根本動機の起点にわからなさがあり
「ある」のバインドをほどいて結び直すことが許された
「ありうる」の〝踊り場〟があり
いまここにたえず現象している〝生成としての世界〟を告げるような音楽もある。

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関係のゲーム/エポケー

2017-12-11 | Weblog


「関係のゲーム」へ参入すると同時に、
プレーモードはゲーム仕様のギアに切り替わる。

主観としての主観はそのままゲームに入ることはできない。
ゲームのプレーヤーとしての属性を身にまとわなければならない。

プレーヤーとしての新たな属性を組織化するには、
主観が主観であることの組織化特性をいったん解除しなければならない。

この解除がゲームに入るための条件であり、
ゲーム成立の原理ともいえる。

そのまま直進することが独善=独断論に転位する(と感じられる)手前で〝クラッチ〟が切られる。
別言すれば、ゲームのピッチに立つために、
主観内部にはいわば〝小さなエポケー〟が現象するともいえる。

主観が主観のままでいることから、ゲームが指定するプレーヤー(関係存在)への転位。
このとき主観は主観のままでいることを一度脱ぎ捨てなくはならない。

主観内において、主観しての主観からプレーヤーへの転位。
すなわち主観としての主観をいったん宙づりにして、
ゲーム仕様の主観(プレーヤー)へギアチェンジするための心的儀式=エポケーが遂行される。

しかし、このエポケーは限定的な疑似的エポケーであり、
ゲーム世界のすべてに及ぶものではない。

 

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