ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

関係了解

2017-09-09 | Weblog


関係了解(自己了解・他者了解・存在了解)の生成がなければ、
思考し行動する自己を組織することができない。

関係世界に対する「了解性」の必然性と限界性。
それはただ主観(わたし)の心的経験の中からのみ立ち上がる。

関係了解と相即する自己の組織化と実践的な企投──
そのことでのみ主観(わたし)の関係了解は試されるが、
関係了解の確定は同時にみずからの了解性の限界を確定することでもある。

人間的コミュニケーションは、各自的な関係了解の交換をつうじた、
集合的関係了解=客観の生成をめがける営みを意味する。

この場面で主観(わたし)の了解性は実践的に試されることになる。
仮に主観(わたし)がみずからの了解性を強行すれば集合的関係了解の生成の契機は消える。

各自的な必然性と限界性を提示しあう営みによって実践的な関係のゲームが展開する。
同時に、集合的な関係了解も各自的な関係了解と等しく必然性と限界性をもち、
この二重の意味において関係のゲームも展開していく。

了解性はこの展開の連続性においてのみその更新の契機を獲得することができる。
展開されない、いいかえると試されない関係了解は独我論的な完結性を帯びて、
力の論理(最後の論理)に従う集合的な関係の決着を図る道を開くことになる。

 

 

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「自転車に乗れた」

2017-08-29 | Weblog


 聴こえるかぎり、見えるかぎり、触れるかぎりの〈世界〉の内部で自足するとき、
 「非知」とつながる野蛮さが失われる。

 わかることの位相にすべてを収納しようとすると、
 わからないことのわからなさが消えていく。

 不確実性。未規定性。でたらめさ。ランダムネス──
 それらを糧として、それらをめがけるようないとなみがある。

 むしろそれらが不安やおそれをみちびかず、
 ポジティブなシグナルをまとう作動がある。

 試行錯誤──内なる「コール&レスポンス」が動いている状態。
 失敗の連続によって変化し前進の手がかりを獲得している経験のモードがある。

 ある瞬間、解体が同時に生成であるように、
 フォーメーションが変化する。

 因-果のルールを蹴破って「無から有が生じる」ように、
 いきなり不連続なジャンプが起こる。

〈世界〉を構成するすべての記号が意味を変化させ、
〈世界〉の変化と相即して「非知のフォーメーション」へとまるごと転位する。

「自転車に乗れた!」

 

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ハンティング

2017-08-19 | Weblog

               https://www.youtube.com/watch?v=ovd3v0CPXJA


     *

システムは拡張可能性のアバンチュールを幻視し、
応答のパルスを明滅させつづけている。

コード群の拘束を条件として受容し生きながら、
脱コードのハイパーリンクを伸ばすハンティング。

応答する存在と非在への予期においてプレーは起動し、
予期は全履歴の決済として新たなランデブーへ赴かせる。

プレー空間には接続を解かれたエネルギーが輪舞し、
新たな結合パターンがぞくぞくと自生していく。

     *

プレーの進行が世界のランドスケープを変幻させ、
生成するfeelが新たなコマンドを走らせていく。

内部観測と外部観測は相互に照らし合い、
交わる光のハレーションになにかが兆す。

「かくありき」から「かくありうる」へ。
虚無と諦念はある地点で刹那に破られる。

サーチエンジンは万象を走査しながら、
エロス的光源をハンティングしつづけていく。

非知のスコープとシンタックスが次々と生成し、
ランダムな情報を包囲し新たな結合パターンと遭遇する。

シグナルの無限連結が偶発的な転移を用意し、
エロスの奔流は超出への「窓」を開いていく。

奏でなければ開かれない位相があり、
開かれなければ奏でられない旋律がある。

エモーショナルな走査線が風景を走り抜け、
一回的フォーメーションが連続的に展開していく。

新たなランデブーの地平線が開かれるとき、
システムには光度が増していく。

システムは状態遷移の流動にみずからを晒しながら、
未踏の均衡点を際限なくめがけていく。

応答され応答するものの属性において、
巡航速度はキープされなければならない。

  *

システムは審議をはじめるより早くfeelに染まり、
プレーに先行して色づけられた環境世界と遭遇している。

環境は多次元のテクスチャーとして姿を現わし、
センサーとプレーの協働が連続的に地と図を析出していく。

環境のランダムな要素群の流動から生存は獲得され、
環境のランダムな流動において生存はキープされる。

コンテクストにコンテクストが重なるように、
自明性を破る新たなコンテクストは次々に出現している。

一貫性をキープするには変化しなくてはらない。
変化するには一貫性を放棄しなければならない。

矛盾する命題群を生き抜くために時制が幻視され、
いまここからの離脱と着地のスパイラルが作動する。

新たなシークエンスの進行を次々と告げられながら、
志向性のベクトルは回帰曲線を描きつづけている。

センサーによるコンテクストの連続的ピックアップと、
運動の持続的組織化が新たな着地点を試行していく。

まなざしを凝らす時間はかぎられている。
情動は泣き濡れて完結することができない。

時制の展開と意味は時に酷薄な構成として、
時に偶発的な祝福としてシステムを訪れる。


      *

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アトラクター

2017-08-06 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=pL1wtqSrr-w


ひかり、いろ、かげ──

サイエンスのまなざしにとってはそうでしかありえないものが、
それより早く、動かしがたい誘因として、うつくしい〝風景〟の一撃として、
固有の心的体験として、わたしにとっての「この世界」が現象しているということ。

むしろ、ひかり・いろ・かげという要素に還元するサイエンスの「始発点」に、
世界の訪れという端的な心の体験が現象しているということ。

音素、振動、波──

物理的な現象として還元すればそのように記述されるものが、
そうした記述を可能にする始原的な心的体験として、
一つの魅了として、〝音楽〟が現象しているということ。

はじめに〝風景〟や〝音楽〟(「この世界」)との邂逅が心的に現象してのちに、
そのことを原的な資源としてさまざまな記述(というわたしの動機)が立ち上がっていく。

***

由来を問うまえに、なぜか意味と価値(アトラクター)の生成が現象する心的構造があり、
「(わたしにとっての)世界」というランドスケープがわたしにおいて開かれていく。

これらの始原的な現象を一次過程と呼べば、
いわば「ひかり・いろ・かげ/音素・振動・波」の構成として記述する二次の過程が後続する。

一次過程の受け止め、解釈、説明、評価、その交換プロセスとしての二次過程。
さらに、二次過程の展開の総体としての「社会」という項の実践的な構成。

一次過程から二次過程へ向かうとき、心的体験はある固有の交換式をくぐりぬける。
このわたしとあなたをつなぐ(と信じられた)交換式は、
交換を可能にするもの(と信じられた)、「変換・翻訳・マッピング」を制御するコードが担っている。

一次過程というエピソードそのものではなく、それぞれのエピソードを記述し、
そこからあらゆる関係(交換)のゲームを可能にしている(と信じられた)〝変換コード〟。

関係(交換)のゲームを貫くこの明示されざるコードのあり方によって、
関係の実践的展開は、たとえば「闘争」あるいは「共存」という二極を分岐させる。

***

変換コード。いいかえると、魅了の形式で示されるさまざまな、それぞれにとってのアトラクター。
一次と二次の循環的構造のなかで、遷移のポテンシャルを秘めたアトラクター。

 

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経験のモード

2017-07-25 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=Saziu2WcFww


「知」はそのままでは新たな経験のモードを形成しない。
メモリに情報を刻み、設問群に対応する「解」を増やしていくことはできる。
ここでは経験のモード(知的いとなみ)の形式的同一性は維持されたままである。

「知」の量的拡大において経験のモードは変化しない。
変化しないことが線形的な量的拡大を可能にする条件でもある。

ある生きられる経験のモード選択がデフォルト化しているとき、
「知」の獲得は選択された経験のモードを強化することになっている。

いいかえると、このとき学習(知の獲得)は、
経験のモードの妥当性を補強するものだけを選ぶように展開していく。

 ***

「知」そのものは経験のモードのあり方を決する〝最終の法廷〟を構成できない。

「知」的にどんなに上昇しても経験のモード(ゲーム)は変化しない。
ある経験のモード(ゲーム)が求める「知」はすべて、
必然的に、ゲームの枠組みに収まるように選択されるからである。

経験のモードを書き換える条件は「知の獲得」そのものとは別のところにある。
いいかえると、経験のモードが書き換わる動機はゲームの外からやってくる。

それは単に、サッカーを選ぶかベースボールを選ぶかということではなく、
新たなゲーム創発の可能性を秘めた「ゲーム選択の位相」として訪れる。

経験のモードのチェンジはプレーモードの全面的な書き換えとして展開する。
その契機は、ただゲームの多様性と多数性との出会いを起源として現われるように思える。

ゲーム選択の位相が消えると、プレーヤーが生きるゲームは一つになる。

 

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エントロピー

2017-07-11 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=5X4xjmk0KzA


神、全知、最高善、真理、絶対の正義。それらはクリスタルのように完結している。
ゆるぎない物質的な存在のありかたに似ている。
それが指定する関係のルールはただ一つである。
第二法則的からみればつねにエントロピーの増大に晒されている、とも言える。

ゆらぎ、ためらい、迷い、とまどい、はにかみ、はじらい。
それらはつねに自己完結しえず、みずからへの問い携え未決状態を生きつつある。
新たなフォーメーションの創発をめがけ負のエントロピーを探索している、ともいえる。

 

 

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〝普遍性〟とは。

2017-07-08 | Weblog


「私たちが芸術をもっているのは、 私たちが真理で台無しにならないためである」(ニーチェ)


世界に透明な切れ込みを入れて、
「正義/不正義」「善/悪」「真理/虚偽」という二項に分割し、
「正義」「善」「真実」という〝普遍的価値〟の側にみずからポジショニングする。

そこで言明される「正義」「善」「真理」はそのまま普遍性をもつことを意味するわけではない。
なぜなら、「正義」「善」「真理」はさまざまな内実を伴って並立あるいは乱立するから。

しかし、「世界に透明な切れ込みを入れる」というふるまい自体には普遍性(原理性)がある。
みずからが、なかまたちが「普遍的価値」の側にいるという確信の意識が、
みずからとなかまたちの生に正当性(意味)を与え、それが生をよく支えるから。

このことは、共同体をまとめ上げるために要請される正当性の原理とも言える。
この〝普遍性〟は依然として現実を駆動するものとして生きている。

ここから、並立あるいは乱立する〝普遍的価値〟同士(各種共同体間)の対立が極まるとき、
その決着を求めて暴力原理(パワーゲーム)が顕在化する。このことにも普遍性(原理性)がある。

暴力原理の帰結は、無数の歴史上の惨劇であり、これからも帰結することになる。
正義、善、真理、愛という〝普遍的価値〟が一つであるなら、惨劇は収束する。

しかし〝普遍的価値〟の多様性と多数性が生み出す矛盾を解消するために、
「神」の系列に属する絶対項を仮構することは歴史を反復することにしかならない。

 

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「二次過程」の入り口

2017-06-28 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8   


  二つの記述が担う情報が、別々に集められたものである場合、
  あるいは別々の記号で表されている場合、
  原則的にそこに―比喩的な意味で―何らかの"奥行き"が加わると言ってよい。
                       (グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』佐藤訳)

端的な知覚や情動、欲望の訪れそのものについて、わたしは疑う理由をもたない。
疑う理由は、自分とは異なる主観との出会いを契機としてやってくる。

たとえば同じ料理を、わたしはオイシイと言い、きみはマズイと言い、だれかはマアマアと言う。
同じことがらの経験の「意味」について交換しあう場面において、
わたしは自分の味覚についてはじめて対象化する契機に出会うことになる。

このとき経験のモードになんらかの変化が起きている。
経験の直接性は間接化され、絶対性は相対化される、というように。

譬えると、われわれがそれぞれの経験を交換しようとする場面で、
それぞれの経験の意味は自明性から少し浮き上がった場所に移動する。

このとき単独の経験の位相とは異なる「なにか」、別の位相が予期されている。

この単独の経験の位相とは異なる位相(という信憑)は、
個人史の初期のどこかの段階からか、けっして引き剝がせないものになっていく。

 

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「メタローグ」(参)

2017-06-24 | 参照

         https://www.youtube.com/watch?v=TEn5xxIBxI0


(説明原理)

「パパ、重力は何で説明したら良いの?」
「重力を説明するものか。それはね、ないんだ。なぜなら重力が一つの説明原理だからだよ」
「「説明原理」と「仮説」とは違うものなの?」
「そんなに違わない。ただ、仮説というのは一つひとつの出来事を説明するためのものだが、
〝本能〟とか〝重力〟とかいう説明原理は、ほんとのところ何も説明しないんだ。
ある点から先はもう説明しようとするのはやめましょう、
という科学者同士の取り決めというのかな、それが説明原理だよ」

(ベイトソン『精神の生態学』佐藤ほか訳)

 

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一次過程と二次過程

2017-06-19 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=JHWtkBi8aBU


一次過程──一切の起源としての〈世界〉の訪れ、という心的体験。
知覚、情動の始原的生起、そのことへの配慮としての自己意識、
さらにその展開としての「関係項」を介した第二次の関係的プロセス。

二次過程──心的体験の交換プロセスにおいて生成する間主観的位相。
関係存在としての生が要請する第三項=関係項、
相互的な調整あるいは相互的な了解のための「客観」という第三の位相。

一次と二次の循環関係において動いていく心的体験は、表現型として、
主観(実存)と間主観(普遍)の弁証法的展開(関係構造)において〝現実〟を形成する。
本質的には「主観の一様態」として生成する「客観」(関係項)からさまざまなゲームが創発する。

この一次と二次の先行関係、あるいは根拠関係が見失われると、
客観という関係項は超越項(絶対項)というバケモノの属性をもつものに変異して、
相互に対等な関係において納得や妥当が成立しうる地平を離脱し、
すべての個(実存)を呑み込むように価値下落させるということが起こる。

 


 

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「子ども」

2017-06-14 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=0zLQw0UfnT8


「新たな自己記述、世界記述をめがける巨大なブランク」
「未完の自覚」
「存在可能のゆらぎ」
「自己組織化の了解点の探索者」

子どもの生はこの世の「問い」に満ちている。
どう生きればよいか、なにが大事でなにが大事ではないか。

みずからを組織するための意味と価値の探索。
世界を知るための探索の方法(文法)も探索される。

問いを携えながら生きている存在は、
応答を待つ存在といいかえてもいい。

問いは呼びかけであり、応答への期待と予期であり、
呼びかけと応答が重なって響かせるものが聴きとられていく。

われわれは応答することで、応答しないことで、
子どもの生になんらかの「解」を日々刻んでいると言える。

そして子どもは純化されたわれわれの姿を象徴するとも言える。

 

 


 

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「二重記述」

2017-06-11 | Weblog


  パブのカウンターでふたりが出会い
 語りうる水準で語りあい
 わかりあえる水準でわかりあう

 しかし転調の契機はつねに同伴している

 はじまりにおいてラングの交換であるものが
 やがてパロールに相転移する臨界が存在する

 左右の眼としてのふたりから立ち上がる第三の視覚
 第三の視覚が指し示す経験の未知のエリア

 〈世界〉に〝奥ゆき〟を与える二重記述
 という未規定性に開かれた関係のモード

 そのことへの気づきが生まれる瞬間
 透明な非知のカケラがグラスを鳴らす 
 
 語りえないことの語りえなさ
 知りえないことの知りえなさ
 そのことへ開かれた二重記述の可能性

 定数としての関係のモードから
 変数としての関係のモードへ

 左右の眼が生きあい支えあうかぎりにおいて
 〝生成としてのエリアX〟が生成する

 とかろうじて信じられたとき
 超越項を必要としない信の形式において
 希望のテーブルが保持される


 

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「Knowing 知ること」

2017-05-29 | Weblog


「知」はそのままでは新たな経験を構成しない。
「静止画」をどんなに集めてもそのままでは「作動画」には移行しない。

「知」的にどんなに上昇しても、経験のモードを書き換える条件は別のところにある。
複雑な機械の原理を知的に説明することはできるが、
身体という主体を動員にみちびく原理は別のところにある。

「了解」(納得)という内的な特異点の探索が持続している機械ならざる機械。
新たな経験のモードは「知」をかきあつめながら、それとは別の原理に先行的に担われている。

 

 


 

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「マイルス自伝」

2017-05-27 | 参照

         https://www.youtube.com/watch?v=Q1rwUC-og9s&list=RDQ1rwUC-og9s&index=1  

おやじは、続けて、オレが決して忘れられないことを言った。
「マイルス、窓の外の鳥の鳴き声が聞こえるか?自分の鳴き声がないモッキンバードさ。
他の鳥の鳴き声はなんでも真似るが、自分の鳴き声がないんだ。あんなふうになるなよ。
自分だけのサウンドを身につけることが一番大事なんだぞ。自分自身に正直にな。
やるべきことはわかっているだろうし、お前の決心を信じるよ…」
                               (『マイルス・デイビス自叙伝』中山康樹訳、1990)

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「超越」への志向性

2017-05-24 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=613nUS1m3j8


われわれはたとえば「自分を勘定に入れずに」ということの〝うつくしさ〟に目がくらみやすく、
いわば倫理的な「究極解」(最高善)として特別な場所を与える、ということが起こる。

個と全体という関係存在の意識経験において生じる非弁証法的思考形式。

全体というクラスの思考は、関係存在としてあるかぎり必然的に、
クラスを構成するメンバーを制御する包括的全体として機能する。

われわれは全体に焦点化した思考の純化された形式としてソレを受け取り、
それぞれのメンバーの上位に置いて至上化し、
個の生(その他大勢)とその営みを相対的に〝価値下落〟させるという倒錯に陥ることがある。

個の生(その他大勢)の営みから離脱した包括的位相──その最終形に対する「聖性」付与。
また、その折り返しとして生じる「俗なるもの」へのあなどり、嘲笑あるいは侮蔑の意識。

「自分を勘定に入れずに」ということの倫理的強度の上昇における、うつくしさとあやうさ。
そこに少しでも命令や要請のメッセージが混じるとき、
われわれの信念の形式は超越神をいただく宗教的教義に酷似してくる。

対抗的に存在するAとBとCと………、その相互に対抗的な営為のさなかにあって、
上昇の極の教義化と実践としての全体主義、ファシズム、超集団主義の論理と倫理は、
どんな理念(クラスの思考)にも容易に張り付くことができるように思える。

 


 

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