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映画『氷菓』

2017年11月12日 | 映画鑑賞記
今日は、先日見てきました、映画『氷菓』の感想を。

原作は、米澤穂信さんのデビュー作『氷菓』。
テレビアニメ化もされた作品です。

私は、このシリーズは、アニメ化の前から大好きで読んでおり、アニメも、とても楽しみました。

実写映画化と知り、とても気になって、映画館へ足を運んだわけです(^m^)


『氷菓』は、神山高校古典部シリーズの第1作であり、今は、6巻まで出ています。

主人公達の学園生活において起こる謎を、推理・解明していく、人の死なない日常ミテスリー。

アニメでは、既刊のエピソードが描かれていましたが、今回の映画は、シリーズ第1巻である『氷菓』のエピソードのみが描かれています。

■映画『氷菓』予告編



主人公の折木奉太郎は、人生省エネ主義。
「やらなくてもいいことはやらない。やらなくてはいけないことは手短に」がモットーで、高校に入学したばかりにも関わらず、薔薇色の高校生活なんかは最初から望まず、ただただ灰色の高校生活を望むような男子です。
そんな彼が、姉の頼みで、廃部寸前の「古典部」に入部するわけですが。
そこには、彼以外にも、好奇心旺盛な千反田えるという女子が入部しており。
彼女の好奇心に引きずられるようにして、学校生活の中で起こる〈謎〉を解明し続けて行くと、ある時、彼女から、本格的な相談を受けることになります。

その相談というのは、千反田える自身が忘れ去ってしまった幼少の頃の記憶を思い出させてほしい・・・ということ。

まだ、幼少だったえるが、叔父から「ある話」を聞き、大泣きしてしまったことがあった。
そして、叔父は、それを最後に失踪。
7年以上経っても見つからないので、死亡したこととみなし、近々、葬儀が行われるとのこと。
しかし、えるは、叔父の失踪と、自分が泣いた「ある話」が何か関係があるのではないか・・・と想い、気持ちの整理を付けて叔父を見送るためにも、その「ある話」を思い出したいと思っている。
そして、そんな叔父は元神山高校の生徒で、在学中は古典部に所属していたという。しかし、何らかの事情で高校を中退。

えるは、叔父の謎を解くために古典部に入部したというのです。

えるの必死な頼みを断り切れず、引き受けてしまった奉太郎。

そんなある日、奉太郎達は、代々、古典部に伝わって来た文集の名前が『氷菓』というタイトルであることを知ります。
そして、創刊2号目の前書きで、その『氷菓』という名前は、えるの失踪した叔父・関谷純が、退学前に付けたものであることが分かるのでした。

えるの叔父の失踪は、もしかしたら、この『氷菓』という文集に関係しているのかもしれない。

こうして、関谷純の高校生活について、当時の時代背景や学校史を合わせて、紐解いていくことになった古典部員達。
そんなこんなで、「やらなくてもいいことはやらない」という奉太郎の灰色の学校生活は、どんどん崩れていき、賑やかなものになっていくのでした。

そして、彼らが辿り着いた『氷菓』というタイトルに込められた真相とは!?

・・・というストーリーです。


古典部文集のバックナンバーの在処や、えるの叔父・関谷純が巻き込まれた当時の事件の設定が、若干、原作とは異なっていましたが、でも、基本的に、原作に忠実に作られていたのではないかなぁと思います。

っていうか、原作の持つ、独特な空気を大切にして映像化されているような気がしました。

映画全編通して、ただただ静かです。

BGMもそんなに使われていなくて。役者さん達の息遣いまで聞こえてきました。

ここまで静かな映画というのも、珍しいような気がします。

でもでも、その静けさ、そして、物語が淡々と進んでいく様子は、非常に原作小説に近い空気を感じました。

アニメ化もされているので、この作品にアニメから入った人も多いと思います。で、もしかしたら、アニメしか知らない人は、賛否分かれるかなぁとも思いました。


私は、『氷菓』と2巻の『愚者のエンドロール』は、角川文庫版になって、すぐに読んだのですが、その時は、作品にあまり「色(カラー)」というのを感じませんでした。
それは、主人公の奉太郎が「灰色の学校生活」を望んでいる人生省エネ主義だから、あまり個性が出ないように描かれていたのかもしれませんし、理由は分からないのですが、とにかく、色合いが感じられなくて。

でも、3巻目の『クドリャフカの順番』からは、そんな奉太郎の学校生活に彩り…「色(カラー)」を感じられるようになってきます。

小説自体が、それぞれの登場人物の視点で描かれ、この時になって初めて、奉太郎以外の登場人物達の個性が色濃く出ていたからかもしれません。

でも。
アニメの場合は、当初から、もう3巻目で初めて感じられるカラーがしっかりと出た人物描写もなされていた気がします。
そのため、アニメから入った人は、そのカラーを十分に感じて、古典部シリーズの世界観を知ったのではないかなぁと思うのです。

そういう人には、今回の映像化は、少しアニメとは違う空気を感じたのではないかなぁと。

私は、アニメではなく、原作から読んでいたので、初めてこのシリーズを読んだ時に感じた印象と、映画の映像世界の印象が凄くマッチしてて。
あの、恐ろしいほど静かな映像世界観、好きでした。


そして。
このお話のメインは、えるの叔父・関谷純の高校生活に何が起こったのか。そして、なぜ、彼は退学したのか。ということを、時代を超えて、彼の後輩である奉太郎達が推理する訳ですが。

映画では、この、高校時代の関谷純を、本郷奏多君が演じていましたね。
ここも、良かったと思います。

本郷君演じる関谷純は、あくまでも、奉太郎達の推理の中に出て来る人物。

なので、彼らの解釈によって、それぞれ見せる顔が違います。

推理によっては、率先して学生運動を行うリーダーだったり、また、別の推理によっては、腕力の強いヒーローだったり。はたまた、別の推理によっては、大人しい男子だったり。

どれが、本当の関谷純で、彼の身に、一体何が起こったのか?

本郷君がいろいろな関谷純を演じる推理パートは面白い表現だったと思います。

でも、最後に分かる真実。

彼が学校を去る前に『氷菓』と文集に名付けた、その真の意味が分かった時・・・。

あのシーンは凄く胸に突き刺さりました。

原作小説でも、アニメでも無かった、関谷純が大声で叫ぶシーン。
そして、そこに、奉太郎を演じる山崎賢人君も重なっていく。

あのシーンは、ある事情で学校を退学せざるを得なかった関谷純の慟哭が凄く伝わって来て・・・。
見ていて苦しかったです。

あんな、どうでも良いことで人生を変えられた。
何も悪くくないのに、人生をメチャメチャにされた。

今の時代なら、多種多様な生き方があるので、なんとかなったかも知れない。
いや、今の時代なら、いっそ、そんな学校を相手取って、訴訟だって有り得るでしょう。

でも、関谷純が高校生だった時代には、価値観的にも、そんなこと考えられなかったでしょうし。
進学校を退学になる・・・ということは、それだけで、もう、その後の人生が決まってしまったようなものだったのかもしれません。

そんな酷い体験をした、えるの叔父の想いが、時代を超えて、蘇ってくる感じで。
本当に切ないシーンでした。

原作でも映画でもそうですが、関谷純の過去の謎、そして、えるの失われた記憶を取り戻したからと言って、彼は帰って来ません。
えるの叔父は、その生死も不明なままで、法律に則って、死亡したことにされるわけです。

そこが、スッキリとせず、とても悲しくて・・・なんとも言えない後味の悪さを感じる訳ですが・・・。

映像も原作通りの後味を出していたと思います。

原作にほぼ忠実に(若干のエピソード変更、省略はありますが)、原作の空気を大事に映画化された作品だなぁと感じました。

正直、とても地味ですが、でも、胸に来るものがありました。
良かったです。

要所要所で見れらる、舞台となった、飛騨高山の風景も綺麗でした。


でも、欲を言うなら、ラストシーンが文化祭だったのは、ちょっと寂しかったなぁ。

もちろん、文化祭に纏わる物語だったからこそ、現代の彼らの楽しい文化祭シーンで終わる・・・というのは、映画としてキチンと成り立っている・・・とは思うのですが。

原作だと、その文化祭に至るまでも、本1冊分のミステリアスな出来事があるわけですし。

そして、その文化祭でも、色々なミステリーが起こる訳ですし。

一気にここまで飛ばされると・・・もう、映像化は、これが最初で最後なのかなぁと思えて、寂しかったですA^^;;

もう少し、実写での古典部の活躍、見たかったかもなぁと。


映画『氷菓』、好きです!!

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