拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

アイム総理

2024-03-20 15:55:17 | 言葉

漱石を読んでると「気の毒」という言葉がよく出てくる。AさんがBさんの惨状を見て「気の毒」と言う場合、誰の気が毒かというとそれはAさん。Aさんの気持ちに毒が入って痛む、ということ。ところが、この場合にAさんがBさんに「御気の毒様」と言うとよく分からなくなる。自分の「気」に「御」や「様」はつけないだろう。すると、この場合の「気」の主はBさん?Bさんの気持ちが痛んでることにAさんが同情するってこと?

これがドイツ語だったらこんな疑問は生じない。「気の毒」はドイツ語で「Tut mir leid」だけど、「mir」だから自分の気が毒なのは明らか。もし、「彼女の気」が毒なら「Tut ihr leid」になって、やっぱり明らか(「水車屋の娘」の歌詞に「Tut ihr leid」が出てくる)。

ところで、ドイツ人は、「ごめんなさい」と言うべきシーンでも「Tut mir leid」と言うけど、なんだかしっくりこない。自分がやらかしたのに「Tut mir leid」なんてどこか他人事。はっきり「ごめんなさい」と言っちゃうと責任をとらさられるのでこういう言い方をするのだろうか。でも、本当に責任をとれないのならこういう言い方の方が正直なのかもしれない。日本みたいに口ではお詫びしますと言って深々と頭を下げても実際には責任をとらないよりかはいいかもしれない。

因みに、漱石は「虞美人草」の中で「気の毒とは自我を没した言葉である……」から始めて「気の毒」という言葉についての考察を試みてる。「自我を没した」は「他人事」のことだと思って「そーだ、そーだ」と思ったけど、どうやらもっと難しいことを言ってるらしい。

英語の「I'm sorry」も直訳は「気の毒」だけど「ごめんなさい」の意味で普通に使われる。その点、「Tut mir leid」と同じ。

「アイム・ソーリー」と言えば、20年位前、某議員さんが、国会質問で舌鋒鋭く「総理!総理!」と連呼して総理大臣を追及する姿がよくテレビに映し出されて世の注目を浴びていた。そのことをご当人も意識していたのでしょう、国会を離れたなんかの会合でもネタで「そーり、そーり、アイム・ソーリー」とやっていたのをテレビで見た。さすがにはしゃぎすぎな感じがした。その後ですよ。この方が不祥事で議員辞職をして刑事処罰を受けたのは(好事魔多し)。その後、復権して、最近、党の役職につき、国会では過去の自分の事件を持ち出して「あたしは逃げなかった」と言って与党の議員を追及してる。転んでもただでは起きないとはこのこと。もし、この方の追及を受けた総理大臣が「アイム・ソーリー」と言ったら、この方はどういう反応を見せるだろうか?
可能性その1。「国会という神聖な場でふざけるあなたには総理の資格はない。即刻辞職すべき」と言う。こうした反応は高い確率で想定できる。「芸が無い」とも言える(国会では芸はいらないとも言える)。
可能性その2。「『アイム・ソーリー』は私の専売特許だ。勝手に使うな」と言う。私的には嫌いな反応ではないけれど、議論が個人間の争いに矮小化した感があり、国会ではふさわしくないと言われるかもしれない。
可能性その3。「ソーリであるあなたがソーリーと言った。自らの非を認めたものと理解します。即刻辞職すべき」と言う。シャレを残しつつ一応国会質問のカタチをとどめている。こういう反応を見せれば見上げたもの。ファンになってもいい(絶対言わないだろうけど)。