拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

10年来の彼女と別れました

2021-09-30 07:33:27 | 日記
大昔、「男は黙ってなんとかビール」って宣伝文句があった。これは今日では二重の意味でNG。まず「男は」と言ってる点がジェンダーフリーの観点からアウト。それから、「黙って」ちゃだめ、説明責任を果たさないと。スガさんは黙々と仕事をするタイプだそうだが、「黙々」は国民から受け容れられなかった。政治評論家は、国民に向かって立派な演説をしたドイツのメルケルさんを引き合いに出してスガさんを叩いたが、私もメルケルさんのファンだが、でも、ドイツではメルケルさんだって叩かれた。だからメルケルさんは政治家を引退したのだし、今回の総選挙でメルケルさんが率いてきた政党は惨敗を喫した。隣の芝生はよく見えるものである。私は、自民党支持ではないが、是々非々だから、スガさんがワクチンをかき集めてきてワクチン接種率でいまや世界のトップクラスにあること(スタートで出遅れたが向こう正面で猛烈にまくって先頭集団に追いついたごとし)を大いに評価している。野党も「政府のコロナ対策はすべてダメ」なんて言わないで、「ワクチンを進めたことは敵ながらあっぱれ」くらい言って度量の広いところを見せればいいのに(広くないか)。その政治評論家中、今回の自民党の総裁選の行方を正確に言い当てた人はないそうだ。彼らがずっと言ってたのは、ゲートがあいて、河野さんが飛び出し、岸田さんが番手(2番目)に付ける。最後の直線で、岸田さんが河野さんを差して優勝じゃなくて当選、だった。ところが、岸田さんは最初から先頭を走り、最後の直線は突き放して逃げ切り勝ち。議員票では高市さんが番手につけたり、野田さんが推薦人の20人を超えて30票を超える国会議員票をとったりしたことも彼らの想定外だった(野田さん、議員票発表のときうれしそうだった)。結局、政治評論家及び彼らにべらべらしゃべらせてきたテレビ局は役にたたなかった、なくてもよかったということである。同じ当たらないのなら、馬券購買のヒントをくれる競馬評論家の方がずっと有意義である。その岸田さんを私が自民党の政治家の中で唯一総理になってほしいと思ってきたのは、外務大臣を長くそつなくやったから外交関係をうまくやってくれるんじゃないかな、と期待したからだが(河野さんは英語がしゃべれるけど、岸田さんは外交はどうなのだろう、と言ったワイドショーのコメンテーターがいた。ますますいらないテレビである)、なんかとってもいい人っぽいから、身内でも足を引っ張る与党や度量の狭い野党に足をすくわれるのではないかと心配である。そんな岸田さんが絶対人に負けないのが酒量だそうな。なんと、外相時代にロシアのラブロフ外相とウォッカの飲み比べをしたそうだ。クマみたいなラブロフさんは酒豪で有名。そんなラブロフさんと互角の戦いを演じたんだからたのもしい。今回、ロシアでは「日本で酒好きな総理が生まれた」と報道しているという。そう言えば、スガさんは下戸だった。話は変わる。ここからはワタクシのプライベートの報告。私、おととい、10年間付き合ってきた彼女と別れました。別れるに別れられず、ずっと心の重しだった。そういう関係にとうとうケリをつけた。あー、さっぱりした、これで晴れて自由の身……と思ったらあなた、猛烈に寂しい。寂しくて寂しくて仕方がない。別れなきゃよかった。戻せるものならまたヨリを戻そうか……と書いても、とっくに私は狼少年(ケン)。ほとんどの読者の方にはまーたウソ(妄想)を書いていると思っていただいてるから「ウソぴょーん」と言う必要もない(たまに真面目な人がいて、私のブログはみんなウソと言ったら「イージマさん、友達なくすよ」と言った人がいた。もともと友達はいないからいいもんね)。しかし、まるっきりウソというわけでもない。ホントのことを事実と状況を置き換えて別の話にするのは芸術家の常套手段である(お前、いつからゲージツカになったんだ、というつっこみを自分で入れておく)。今回も、「彼女」を「○○」に、「別れる」を「売る」に置き換えれば真実である。そう、常々「○○と○○○で財産をすった」と言ってきた「○○」を売ったのである。10年間塩漬け状態で私が生きている間に上がることはないと思っていた○○がいきなり上がり始めた。明けない夜はない、は本当だ。で、売って、○○ですった分は取り戻したが、○○○ですった分を埋めるまでには至らなかった。だから、貧乏には変わりはないが、今後は、「○○○で財産をすった」とだけ言うことになる。これで相場や経済情勢に一喜一憂しないですむ、せいせいしたと思ったら、妙に寂しくて仕方がないのも書いた通り。塩漬けの○○にこんなに愛着が湧いていたことに自分でもびっくり。女性は別れるとさっと次の相手を探しにかかるの対して男はうじうじするというから、私も男だったいうことか。だから、今後、再び「○○と○○○で財産をすった」と言いだしたら、それは同じ○○を買い戻して、昔と同じように損をしたからである。明けない夜はないが、三つ子の魂百までも格言である。

恋人は、遠きにありて、想うもの

2021-09-29 08:17:12 | 音楽
シュッツの曲はほとんどが声楽曲。シュッツの曲ほどメロティーとドイツ語の歌詞が合致するものはないと言われる。シュッツは少年時代教会で歌うボーイソプラノだった。だからシュッツは「歌の人」である。だがシュッツはオルガンの教育も受けている。まあそうだろう。声楽曲には通奏低音が付いているのが常。アカペラで歌っていいGeistliche-Chormusikはルネサンス様式に回帰した例外である。ではバッハは?私やお友達の間ではカンタータや受難曲、モテットでおなじみのバッハであるが、それらは約1000曲ある中の約250曲である。数的には器楽曲が優勢。メロディーと歌詞もさほど合致してないから、あるカンタータのメロディーを他のカンタータに使い回すことも日常茶飯事。だからバッハは(シュッツに比べれば)「器楽の人」である(いちおう、バッハも子供の頃教会で歌ってたらしいが)。ではベートーヴェンは?ベートーヴェンと言えば、交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲等々の器楽曲。第九の声楽パートは器楽的で歌いにくい(私が大好きなフィデリオもやはり器楽的である)。だから当然「器楽の人」のイメージがあったが、「ベートーヴェン 不滅の恋人」の著者の青木やよひさんに言わせると、ベートーヴェンはリート(歌曲)を書くにあたって、徹底的に詩を吟味し、そこに恋心を含めた思いのたけをぶつけたのだという。その例が「遙かなる恋人に」。不滅の恋人がいたり遙かなる恋人がいたりで紛らわしいが、「遙かなる」というのは、要は「遠くにいる」ということ。そんなに遠くがいいのだろうか。西城秀樹の歌にも「遙かなる恋人へ」があるし(ベートーヴェンの方は「恋人に」。西城秀樹の方は「恋人へ」。一応区別が付けてある)。♪恋人よ、ぼくは旅立つ……って歌もあった(旅立っちゃえば遠くなる)。そう言えば、こないだ見たテレビ番組で、高度成長時代の日本のサラリーマンの様子を映した映像を流していて、その中に、週休二日制についてどっかのサラリーマンの奥さんが「困る。亭主に家でごろごろされていると迷惑」と堂々とテレビカメラの前で述べておられた。かように、恋人や亭主は遠くにありて思うものであるようだ。すると、通い婚だった平安時代のシステムは合理的だったと言えよう。さて、そのベートーヴェンの「遙かな恋人『に』」の話である。「私と恋人の間には山河がある」と歌っている。なるほどいい歌だ。ベートーヴェンのピアノソナタ第30番のメロディーが使われていて印象的。かく言う私と恋人の間にも「河」がある。ウソだろうって?ウソなもんか。私んちから数100メートル歩くと東西南北いずれの方向にも河がある。東には中川、西には綾瀬川、南には花畑運河、北には(埼玉県との県境を画す)垳川。だから、恋人が同じ町内在住でない限り、間に河があることになる。さらに、恋人が都心以西在住なら荒川や隅田川だってあるし、神奈川県なら多摩川もある。場合によると相模川まで超える。翻って千葉県在住なら江戸川も超えるし、茨城県なら利根川まで入ってくる。え?恋人の存在自体がウソだろうって?あのね。この場合の恋人っていうのは一方的な片思いでもいいの。しかも裁判じゃないんだから証明する必要はない。いくらでも作れる(作る?)。しかも、「カタログの唄」のドン・ジョヴァンニのように、季節で入れ替えることも可能である。夏は花火が上がる隅田川が隔てた恋人を想い、冬は筑波山が見下ろす利根川の彼方にいる恋人を想う恋多き青年、それがワタクシである(今日は、オホホは封印。え?あたしんちの前の河が抜けてる?抜けてる河は適宜付け足して下さいませ)。

間男、父になる?/筑波山のようなピアノソナタ

2021-09-28 08:54:51 | 音楽
あれ?KMCって辛子味噌合唱団だっけ?違う、麹味噌合唱団だった(つうか、どちらでもない)。もうろくしたか。不滅の恋に破れて一気に老け込んだベートーヴェンが憑依?ということで、青木やよひ著の「ベートーヴェン 不滅の恋人」を読了(二度目)。ベートーヴェンの死の直後、遺体の横の机の引き出しから発見された恋文に人々は驚いた。それまでベートーヴェンは石部金吉だと思われていたから。で、人々は相手探しに躍起になった。すると、ベートーヴェンをとりまくいろんな女性の存在が明らかになり、ベートーヴェンは石部金吉ではないことが判明。結局、その恋文は、42歳のときのもので(投函されなかったか、戻ってきたか)、相手は最終的に二人の候補に絞られた。一人は元カノのヨゼフィーネで(元カノ時代の熱烈な手紙のやりとりも後から出てきた)、もう一人はアントーニア。ヨゼフィーネ説をとる人は、ヨゼフィーネの末子の父親は、実はベートーヴェンであると推定する。そう、申し遅れましたが、ヨゼフィーネもアントーニアも人妻であり、当時、夫婦仲は破綻していた。青木説の面白いところは、アントーニア説をとりながら、ヨゼフィーネがベートーヴェンの子を産んだことも「ありうる」としている点である。青木説はこうである。当時、ベートーヴェンの本命はアントーニア。彼女もその気で、夫と別れてベートーヴェンと一緒になる気でいた。そこで「別れの儀式」として夫とちょめちょめをしたら「一発的中」。妊娠してしまった。夫の子を身ごもったからには離婚はできない。ベートーヴェンの側にも事件が起きた。元カノのヨゼフィーネの夫が夫婦げんかの末、家を飛び出して行方不明だったこともあり、ベートーヴェンが彼女とちょめちょめをしたら(絵に描いたような「間男」)、こちらも「一発的中」。妊娠してしまった。だが、夫がひょいと戻ってきて、その夫の子として育てることになった。と言っても父親はベートーヴェンだから、ベートーヴェンは養育費を払い続けた。当時、ベートーヴェンはかなりの収入を得ていたのに、みすぼらしい格好をしていたのは養育費のせいである……というのだ。まあしかし、実社会にはそこらへんにごろがっていそうな話。興味をひくのは、こうした出来事が音楽に与えた影響である。本命女性とうまくいく直前に破談となり、逆に元カノが生んだ子のために養育費を払うことになったベートーヴェンの音楽は、がらっと変わってしまったという。英雄的な力強い音楽が、内省的な、諦観に満ちた音楽に変わった、それをよく表しているのがピアノ・ソナタ第28番なのだという。なるほどー、大いに納得。私、高校のとき1か月千円の小遣いをもらっていて、それでバックハウスが弾くベートーヴェンピアノソナタ全集のレコードのばら売りを第1番から買っていた(モノラル録音の方である。ステレオ録音は1枚2,000円だった)。ベートーヴェンのピアノ・ソナタは「宝の山」で、有名でない曲もそれぞれに味わい深い。そうやって聞き進めていって、第28番に到達。驚いた。まさに曲想ががらっと変わっているのだ。古典派の鬼だった作風が、いきなりロマン派まっただ中にワープ。それこそドビュッシーではないが雲の上をふわふわ浮いている感じである。当時、私はえらく感銘を受けて第1楽章を練習したものである(全編ゆっくりで細かい音符はない)。さて、一気に老け込んだ感のあったベートーヴェンは、いきなり復活した。第28番に続く第29番のピアノ・ソナタこそ「ハンマークラヴィーア」と呼ばれる大ソナタ。「低迷期」に忽然と姿を現すこの曲の姿は、関東平野にいきなりポコンとそびえ立つ筑波山のごとしである。そして、その後、ミサソレ、第九、後期の弦楽四重奏曲と最後の大山脈が続く。因みに、私がみすぼらしい格好をしているのは、隠し子に養育費を払っているからである。ウソである。私の様子が最近変わったのは、不滅の恋を断念したからである。ウソである。今の文を読んで、あっ、あたしのことだと思った方、多分あなたのことではない(かどうかは分からない)。ベートーヴェンはハンマークラヴィーアを書いて復活したが、ワタクシは、レバニラ炒めを食べ歩く旅で復活しようと思う。それに常磐線沿線のピッツェリアを巡る旅も加える所存である(亀有や金町にあるんですよー、良さそうな店が)。

「天」と「大空」に降りかかる新たな疑問

2021-09-27 10:03:31 | 言葉


Warum ich レバニラ炒め essen gehen möchte,ist dass dasレバニラ炒め,das ich im あさイチのおーいご飯だよ oder 上沼恵美子のおしゃべりキッチン gesehen habe,sehr 旨そう aussah. これは、昨日の記事に対して寄せられた、なぜレバニラ?に対する回答の一つである。あと、精を付けるため、という理由もある。恋を断念して何に向ける精かと言えば、それは来世で艶福家になっているであろう私に必要な精である。だが、これは無用か?苦悩を通じて歓喜に至るというベートーヴェン的な理念は、前提として苦悩の記憶が必要である。その記憶がなければ歓喜にありがたみがわかない。来世で艶福家になったとしても、前世でのもてなかった記憶がなければ、あーめんどくさい、一人になりたいなどという罰当たりなことをつぶやいているかもしれん。そんな来世の自分に精を付けてやることもないだろう。因みに、記憶がなくなるで思い出すのは、「謎の円盤UFO」で、シャドーの秘密を知った民間人が「僕たちは口が固いから大丈夫ですよ」と言ってるところに「記憶を消す注射の準備ができました」と声がかかる場面、それから、サンダーバードの秘密基地にもぐりこんだ少年に見聞きしたことは全部夢だったと思わせるために寝てる間にそっと自宅に戻すエピソード。これとそっくりな話が千一夜物語にあった。さてと。シュッツの「Die Himmel」についてである(つうか、そのテキストを使ってバッハもカンタータを書いているし、ハイドンもオラトリオを書いているが)。私は、外国語の歌の歌詞の訳は、詩人が書くような立派な意訳よりも、むき出しの逐語訳の方がいいと思っている。一つ一つの単語の意味が分かった方がいいと考えるからだ。そういう観点で「Die Himmel」を訳してみると、「Die」(もろもろの)「Himmel」(天は)「erzählen」(語る)「die Ehre」(栄光を)「Gottes」(神の)「und」(そして)「die Feste」(大空は)「verkündiget」(告げる)「seiner」(彼(神様)の)「Händewerk」(手業を)。だが、ドイツ語と日本語ではそもそもの原語の乖離が大きい。だから英語への逐語訳がよい場合もある。そうすると「Die Himmel」(The heavens)「erzählen」(tell)「die Ehre」(the glory)「Gottes」(of God)「und」(and)「die Feste」……さあこの「die Feste」が問題である。その話の前に、ちょっと時計の針を過去に戻そう。私、「天」と対になっているこの言葉を「地」だと思っていた。もともと「fest」は「硬い」という形容詞だ(「神はわがやぐら」の「やぐら」は「ein' feste Burg」。直訳すると「硬い砦」である)。硬いのは大地だと思ったわけだが、これは誤り。形容詞が名詞化した「die Feste」は、「大空」(天空)のことであった。昔の人は、天空をドームのように考えていたから硬いのである。その硬い一個のドームのあちこちに神様の住処である天がある。だから、Festeが一個なのに対してHimmelは複数なのだ。それを図にすると、冒頭の絵のようになる。だが、もともとFesteは目に見える青い物体であるのに対し、Himmelは、多分に形而上的なものらしいから、この図のように並列的に表すのは正しくないかもしれない。ここで、英訳の話に戻る。「die Himmel」=「the heavens」は問題ない。なるほど、ドイツ語ではこの単語に限っては単複同形だから定冠詞(と動詞の変化)で複数であることを表しているが、英語の方は「the」が単複同形だが語尾に「s」を付けて複数であることを表しているな。そして、いよいよ問題の「die Feste」である。いくつかの英語訳をあたってみたが、いろいろある。多いのは「the firmament」。うん、ドイツ語と同じで硬そうだ。あと、「the expanse of heaven」(天国の広がり)。まあ、イメージできる範囲。だが「the skies」には困った。「空」ならまさに日本語の「大空」とぴったりなのだが、問題は複数であること。これだと、天も大空も複数ということになり、あーだこーだの末ようやく固まった(festになった)私のイメージが根底から覆される。どうしよう。チコちゃんでもたまにこういう流れになる。そのとき、ディレクターの頭によぎるのは都合の悪い真実を覆い隠すことだという。だが、結局は「分かりませんでした」と言って開き直っている。NHKが開き直るくらいだがから、私が同じ態度をとっても何の問題もないだろう(どうせ、このブログの読者は、「男女の話」が目当てなんだし)。ということで、新たにふってわいた疑問に対して、現在のところ立ち往生。レバニラ炒めでも食べて、精をつけてから考え直すこととしよう。

シュッツと当ブログの異同/裏声で吠えるお釜ライオン

2021-09-26 18:29:40 | 音楽


シュッツの音楽と私のブログには共通点がある。予期せぬ転調が多いところである。似てないところもある。まったく心に残らないところである(ここは「ウケルネ」を押すところだ。ここで「イイネ」「超イイネ」を押されたらそれは私に対するとどめである)。以上は、味噌煮込合唱団の練習の帰りの電車の中で考えたこと(写真は、白井と西白井の間にある謎の物体)。アイディアを下さったのはKOさんである。そのKOさんとワタクシの共通点は独身者であること。つうか、こないだのシュッツの会に出席した男性はワタクシを含めて全員が独身である。その中で一番長生く生きてるのが私。そのくせに一番人間ができてないのが私。一番仕事をしてなさそうなのも私(ほぼ無職。仕事は断ってる。だって、楽器の練習の妨げになるから)。だから一番貧乏なのが私。これだけ「一番」があったら婚活の条件もダントツで一番である(下から)。だがKOさんは優しい。私に「でもお声がよくていらっしゃる」と言ってくださる(KOさんはご丁寧である)。声がいいって、味噌煮込合唱団の帰りに言ってんだからアルトの声のことだろう。たしかに、アルトのお姉様方は私に優しい笑顔を向けてくださる。しかし、その眼差しは同類を見る種類のものであり、決して、異性へのときめきを表したものではない。ライオンの雄だって、低音でガオーと吠えるから雌が来る。ライオンが裏声で吠えたらお釜ライオン。寄ってくるのは雌ライオンではなくハイエナだろう。オイメー、オイメー(私の悲しい啼き声)。そう言えば、ベートーヴェンは42歳で「不滅の恋人」に手紙を書いたが、その時の恋がベートーヴェン最後の恋となり、残りの人生は諦念とともにあった。現代人の年齢に7掛けしたものがベートーヴェン当時の年齢だというから、それで計算してみると、なんとベートーヴェンが最後に恋をしたのは60歳ということになる。今の私の歳より2歳若い。すると、私の最後のチャンスは2年前だったことになり、今後、お相手は現れないことになる。オイメー、オイメー。実は、私、10代の頃、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を愛聴していたのだが、ベートーヴェンが50代で書いた諦念の塊のような曲を10代で聴いたら早く老け込んでしまうのではないかと恐れた。もう恐れることはない。歳が追いついて、まさに人生の春を諦めるべき時期が到来したからである。もういい。今後の人生は決まった。これからは、街の中華屋さんを回って、レバニラ炒めを食べ歩く。それをライフワークにしつつ独り身の寂しさを紛らわす所存である。

アイゼンシュタイン=石部金吉

2021-09-26 07:14:19 | 音楽
世界中の波止場に男がいる(と本人が言っている)某某美女は、かのレナータ・スコットに認められ指名を受けたピアニストである。この一事で私などは徳川の印籠を突きつけられた悪代官のようにへへーとなる。某某美女は、私より相当お若いが、レナータ・スコットは私の母より生まれ年で二つ下でご健在。同じイタリアを代表するソプラノで故人となったミレッラ・フレーニより一つ上である。そのフレーニは、パヴァロッティと同郷の同い年で乳母が同じ。SEX以外のすべてを一緒にした仲だという。どうせそうならSEXもすればよかったのに。いや、したのかもしれない。しましたー、とは言えないからね。その某某美女から聞いた話。芸能界では一日中「おはようございます」と言うと聞いていたら、クラシック音楽界でもそうだということをこの10年で知った(私の場合、長らく合唱はアカペラでするものだと思っていて、プロの先生(ピアニストや指揮者)との接点が生まれたのはこの10年のことである)。夜の「おはようございます」を聞くたびに、でも、山口百恵は夜は「今晩は」って言ったんだよな、と思っていたら、なんと、そういう言い方をするのは日本だけだという(某某美女から聞いた話はこれである)。へー。ガラパゴスではないが、大陸から離れた島国では、そういう独自の文化が生まれるんだなぁ。音楽ネタついでに昨日のチコちゃん。コンセントの二つの穴には正しい差し込み方があって、それによってオーディオの音が違うそうだ。番組で、正しく差した場合とそうでない場合の比較をしていた。高齢だと違いが分かりにくいということだったが、私は、「運命」もビートルズも違いが分かった。若い証拠である(精神年齢も子供のままである)。分からなかったのは運命の指揮者。往年の大家(カラヤン、ベーム、フルトヴェングラー、クライバーと言ったあたり)ではない。かと言って、最近、びっくりしたクルレンティスでもない。が、調査をする元気はない。もう一つチコちゃんネタ。お題は「お寿司に菊の花が乗っているのはなぜ?」。答は「江戸時代にお寿司を醤油で食べるようになったから」。それまでお寿司は殺菌効果のあるお酢で食べていた。だがお酢は高価なので庶民には手が出なかった。それが、江戸時代に醤油が普及して、醤油でお寿司を食べるようになった。その際、殺菌効果のある菊の花が一緒に食べられるようになった、というのである。ここでも疑問が残る。菊の花を一緒に食べる理由である。殺菌効果のあるお酢で食べなくなったのでその代わりに菊の花を使うようになったのか、醤油で食べるようになって寿司の消費量が一気に増えて食中毒が増えたので菊の花を使うようになったのか?そこの検証がされていない。私が指導教官なら、及第点を与えるわけにはいかない。ところで、江戸時代でも関東で醤油が作られるようになったという話のとき画面に映された絵は、やはり野田の風景である。キッコーマンの工場のある野田は、初めて行って駅を降りたところですでに醤油の香りが漂っていた。この路線は、今、東武アーバンなんとかというらしいが、昔は東武野田線だった。今でもこの名称はなくなったわけではないらしい。最後に二つのことを宣言しておこう。その1。これからは、お寿司を食べるときに菊の花も食べますっ。醤油の中に散らすといいらしい。もちろん、プラスチックではなく、本物の食用菊が入っていた場合である。その2。「こうもり」に出てくるアイゼンシュタインは、日本語にすると「鉄石」、順番を変えると、石部金吉である。そして、「奥様は18歳」で岡崎由紀の夫を演じたのは石立鉄男である。石と鉄は相性がいいらしい。その石部金吉こそ、私である。そう、本当の私は硬派である。これまでの女好きキャラは演技である。これこそが宣言その2である。急に石部金吉のことを書いたのは、青木やよひさんが「ベートーヴェンは石部金吉ではなかった」と書いたのを読んだから。だが、硬派だと言ってる方が演技の気もする。結局は筆任せ。自分でも本当のところは分からん。もし美女に女好きになれ、と言われればたちどころにそうなる。♪あなた好みの、おとーこーにー、なりーたいー……なお、アイゼンシュタインは女好きで、不倫願望を持っている。石部金吉のくせにふとどきである。

白鳥の湖

2021-09-25 10:19:25 | 音楽
Youtubeの「スガダイの競馬予想」のMCでコロナにかかった岡田さんが退院されたそうだ。めでたい!一時は重篤な状態だったそうな。そんな話を聞くから、やはりコロナは怖いと思うし、私のマスク会食の徹底ぶりは相当なものである。それとこれとは違う、と言いたいのは緊急事態宣言のこと。巷で「解除できるか」って話をしてるが、そもそも、法律的には、期限を付けたものは期限がくれば失効するものである。なのに、延長ありきの議論はまやかしだ。だったら、最初から無期限で出しておいて、収束が見えたら解除する方が理にかなっている。不思議なのは、既にいろいろな規制が解除され自由が戻ってきている欧米よりも、今では日本の方が新規感染者数等の数値はずっと優秀。なのに、この不自由さはなんだろう。入院したくてもできない状況というのはたしかに怖い。ということは、欧米に比べて重症者用の病床の数が圧倒的に足りないということか。あと、日本人は、心配性のDNAを持ってる人が多いそうだ。楽観的なことを言う専門家の先生もぼちぼちテレビで見るようになったが、必ず「こんなことを言うと叱られるかもしれないが」と付け加える。叱る人がいるんだー。コロナも怖いが、そういう人も怖い(戦時下の日本で、戦争批判をすると叱られるって話を思い出した。どうせ叱られるんならチコちゃんに叱られたい)。話は変わる。今やってる朝ドラでヒロインが音楽の素晴らしさを口にして、音楽ファンが喜んでいる。いやたしかに音楽は良いです。なんてったって、国や言葉や宗教が違っても、楽しい音楽を聴くとみんな楽しくなるし、悲しい音楽を聴くとみんな泣く。まっこと音楽には国境がありませぬ。ただ、外国のオペラの場合、どうしても言葉の壁がある。私は学校を出てからドイツ学校に行きだしたのだが、新学期のクラスで、必ずドイツ語を勉強する理由を言わされる。私は、常に「ドイツオペラが好きで、より楽しみたいから」と言っていた。そこへいくと、バレエはパントマイムだから、まさに万人がなんらのハードルもなく楽しめる。バレエっていいな、と思う京子の頃ではなく今日この頃である(とか、言って、毎週録画しているプレミアムシアターがバレエだととっとと削除している)。因みに、チャイコフスキーの「白鳥の湖」で私が一番好きなのは、「情景」でもなく「ワルツ」でもない。黒鳥と王子のグラン・パ・ドゥ・ドゥーである。最高の見せ場だと思うのだが、この音楽は組曲には入ってない。それから、「情景でもなく」と書いたが、情景のオーボエ・ソロは垂涎である。因みに、あのメロディーは、ヴァーグナーの「ローエングリン」の第2幕のエンディングのぱくりだ(最初にローエングリンを聞いたとき、こっちがぱくったのかと思った)。ぱくりと言えば、もとい、オマージュと言えば、昨日(だっけ?)のこのブログで「やわはだのー」と書いたのは与謝野晶子へのオマージュ(ぱくり)だが、一箇所「道」を「不倫」に変えたのは、私のキャラクターに合わせたもの(別に私が不倫をしている、と言っているのではなく、不倫について書くのが大好きということ)……なのだが、与謝野鉄幹と晶子は不倫カップルだったから、案外、妥当な改変であったとも言える。

遠い昔、別の銀河系で婚活

2021-09-24 06:55:52 | グルメ


小麦粉のストックを減らすためにせっせとピザを作る。そのためにチーズを買わなければいけないのがもどかしいが、まあ、本社を売った会社だってどっかにオフィスを借りなければいけないんだから減らす一方は無理。トータルで減っていけば良しとしよう。昨夜、隠し味にした大葉(焦げないようにチーズの下に敷く)だって、以前ならちまちまと使って残りを冷蔵庫に入れたものだが、全量使い切り。



まるで明日死ぬみたいである。いやいや、もし、明日死ぬと分かったら、今日付き合った美女にロマン・コンティをご馳走しよう!すると美女が現れ、私の耳元でささやく。ねえ、うんと愛してあげるから、ロマン・コンティを買うのをやめてその分のお金をあたしにくださらない?そうやって遺言書を書かせ、私が息を引き取ったとたんに豹変。現れた情人と共に高笑いを残して館(?)を去る。まるで「スーパーマン・リターンズ」の冒頭シーンだ。この映画でリターンしたのはスーパーマンだけではない。ジョン・ウィリアムズのメイン・テーマも復活。冒頭、「ダッダダ」おっ!「ダッダダダッダダ」おおっ!「ダッダダダッダダ、(ン)ダダダダダ、ダッダダダッダダ、(ン)ダダダダダ」そしてトランペット咆哮。出たー!(お化けじゃない)劇場で思わずうるっと来た私であった。話を戻す。今度は本当にロマン・コンティを飲みたい美女が来たとする。そこで問題となるのは順番。飲むのが先か、やるのが先か。私からすれば、ご馳走していざとなったときに「ごめんなさい、用事を思い出した」で逃げられたら困る。逆に美女の方も、やることをやっていざとなったときに「ごめん、ロマン・コンティ売ってなかった」では憤懣やるかたない(ワイン詐欺)。こういうとき「同時履行の抗弁権」というのがある。つまり、互いに「やらせてくれなきゃ飲ませない」「飲ませてくれなきゃやらせない」という抗弁権である。すなわち、ロマン・コンティを飲むことと、ちょめちょめをすることは同時履行の関係にあるから、ロマン・コンティを持ってホテルに行けばよい、という結論になる(パチパチ)。イージマさん、ロマン・コンティで釣ろうたってダメ。あなたについて来る人はなし。可愛そうに、やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや不倫を説く君(=私)?寂しく明日死ぬのね?そんなことはない。私の最近の朝ラーメン(復活している)の具を披露しよう。ワカメ、ひじき、梅昆布、切り干し大根、椎茸、キクラゲ、キャベツ、もやし、卵……こんだけぶちこむと互いの味が相殺しあって何が何だか分からなくなるが、これらはテレビで体にいいと言ってたやつである(ついでにサプリまで一粒入れてある)。長生きする気まんまん。つまり私は、今回のこれまでの話を全部ひっくり返すことになるが、私を愛する美女が出現するのをずっと待つ作戦=長期戦に持ち込む覚悟を決めたのである。明けない夜はない、上がらない株はない、走らない馬はない。♪Aber die Richtige,wenn eine gibt für mich auf dieser Welt(もし、私にこの世界で私に相応しい人が現れたら)……Rシュトラウスの「アラベラ」の二重唱の歌詞である。元の歌詞は、「die Richtige」は「der Richtige」であり、「eine」は「einen」だが、歌うのがアラベラ(女性)ではなくワタクシ(オホホな男)なので、性を逆にした。ん?「auf dieser Welt」(この世界で)?だめだ。これほど性格がねじまがってることが周知されてしまったら「Now,in the galaxy」では無理である。「A long time ago,in a galaxy」で美女を待つことにしよう。ということで、今回の隠れテーマはジョン・ウィリアムズである。さて、いくつか補足。文中に与謝野晶子の詩(「不倫」は「道」が正しい)を入れたが、随分前、これにメロディーを付けたやつがCMで流れた。「やわはだのー」(ミシラシドー)「あつきちしおにふれもみでー」(ラシドシラミドレレファソファー)……って感じで秀逸だった。それから、「あなたについて来る人はなし」は、黒柳徹子さんが待ち合わせ場所からとっとと先に行ってしまった渥美清さんに投げかけた言葉である。それから、上がらない株はある。走らない馬もいる。夜だって、自転に負けない速度で常に西に飛んでれば決して明けない……って、この流れで今回終わってしまっては私にとって不都合である。

ディー

2021-09-23 07:33:01 | 音楽


わが家はいまや粛正の嵐(断捨離ともいう)。なにこれと思ったものは直ちに粛正。その中に、紙製のトレイとコップがある。美女とのハイキングを夢想してストックしてあったやつらだ。憎さ百倍。即粛正……した後でハッと思った。江ノ島一人旅をするとき、あの裏側の(太平洋から見れば表側の)岩場でビールを飲むとき使えたかも。早まったか。黒田官兵衛が寝返ったと早とちりして人質の官兵衛の息子を殺せと命じた信長の気分(そのときは、人質は密かにかくまわれて難を逃れた)。因みに、その岩場というのが寂しい場所で、ビールを飲むとしても「お友達はフナムシ」。以前行ったとき暗い顔をしたスーツを着たサラリーマンが彷徨っていて、海に飛び込むんじゃないかと心配した。だが、江ノ島付近の自殺の名所というのは別の場所にあるそうだ。ダビングも一種の断捨離。ケメ子が枕にしてる幅の狭い器械が最近買ったアナログ入力端子付きのレコーダーで、これに壊れたレコーダーからせっせと録画を移しているのだが、だいたい決まってて、タモリ倶楽部、ららら♪クラシック、N響演奏会、プレミアムシアターの繰り返しなのだが、タモリ倶楽部と「ららら」は面白くて、ダビング中、思わず見入ってしまう。その中に、たまに重賞んときの競馬中継が入る。今は、アーモンドアイが3冠をとったあたり。1冠目の桜花賞のとき、スタジオの出演者でアーモンドアイを本命にしている人が誰もいなかったのにはびっくり(このときは、ラッキーライラックばかりが注目されていた)。まあ、ジェンティルドンナのときもそうだった(注目は大魔神の持ち馬のヴィルシーナに集まっていた)。いかに「専門家」の見る目のないことよ。そう言えば、音楽の批評家も聞く耳を持たぬ人が多い。多くの古今の名曲は初演時に批評家に酷評されている。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のことを、「高名な」ハンスリックは「悪臭のする音楽」と酷評した。そんな批評家にときどき作曲家は反撃をする。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」は全編皮肉のオンパレードだそうで(「ららら」で知った)、キーキー啼く「耳の長い動物」とは批評家のことだそうだ。Rシュトラウスの「英雄の生涯」にもブツブツ言う批評家が登場する。ということで、ここからが本題。「マスター」「マイスター」「マエストロ」はもともと同じ言葉だが、日本では使い分けがされている。指揮者はマエストロ、職人の親方はマイスター、マスターは英語だけにいろんな場面で使われていて、例えば、「喫茶店のマスター」「マスターキー」「マスタークラス」等々いろいろある。「マスター・ヨーダ」も忘れてならない例である。そう言えば、ヴァーグナーの「マイスタージンガー」は、英語圏で「マスターシンガー」と呼ばれるのだろうか。そもそもの意味は、文字通り「親方歌手」である。すなわち手工業者である親方が同時にシンガーソングライターでもある、それがマイスタージンガーである。だから、このオペラを「ニュルンベルクの名歌手」と訳すのは誤り。なんでそういう風に訳したのだろうか。高尚なクラシックに土臭い響きのする「親方」を使いたくないということならこれはまことにけしからぬこと。そう考えた人の耳元で千回「親方」と言ってやりたい。さらに、一層正確を期すなら「……の親方歌手たち」という風に「たち」を入れなければいかん。原題は「Die Meistersinger von Nürnberg」という風に「Die」が付いている。これは複数形の定冠詞である。だからである。シュッツの「Die Himmel」だって「もろもろの天」と言っている。まあしかし、あまりに厳密さを求めると、「マイスタージンガー」と言う場合も「ディー・マイスタージンガー」と言え、ということになる。だが、シュッツの曲ではそう言っている。「ねえ、今日『ヒンメル』歌おうよ」、なんて言われてもぴんとこない。「Die Himmel」は「ディー・ヒンメル」と言ってはっきりそれと分かるのである。因みに、「ディーマジェスティ」という馬名を最初に聞いたとき、てっきり「ディー」はドイツ語の定冠詞かと思ったら、「ディープインパクト」の「ディー」であった。

人妻と見る天体望遠鏡

2021-09-22 08:28:05 | 日記


今でも家で撮るときは20年選手のデジカメを使っている。月を撮るときはマニュアルモード。何をどう設定したのか覚えてない。以前、月を撮ったときの設定が残っていて、それを使っている。毎年、中秋の名月を撮るたびに、天体望遠鏡が欲しいと思う。そして、人妻のことを忘れて、毎夜、夜空を見ていたいと思う(今回のタイトルと言ってることが違うようでもある)。因みに、オートで撮るとこんな感じ。



その人妻が今日もメインテーマである。「人妻」の「人」は、生物学的意味の、すなわち哺乳類霊長目人科の「ひと」の意味ではなく、「他人」の意味である。例えば、現住建造物放火罪を規定する刑法108条は、「放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物……を焼損した者は、……に処する」と規定するが、ここでの「人」も犯人以外の人であるから、他人が現在しない自分の家を燃やしても現住建造物放火罪にはならない(と言っても無罪ではない。ほかの放火罪が成立する)。それと同じ用法である。だから「人妻好き」と言った場合、それは牝馬ではなくて人間の女性が好きということを強調しているのではなく、夫のいる女性が好きだと言っているのである(って、誰でも分かっていることを誰に説明してるんじゃい)。では、多くの人(この場合の人は、自分も含めた人類全体)はなぜ人妻が好きなのだろう。他人のものを盗ることにスリルを感じるのか(万引き常習犯と同様の心理?)、それとも、カッコウが他の鳥の巣に卵を産みつけるごとく人妻との行為は責任を伴わないからか?「責任なく」と言ったが、たしかに人妻との間に扶養義務は発生しない。だが、夫にばれたら夫からの損害賠償請求に応じる責任がある。だから、人妻と不倫をしようと思ったら、それなりの経済的覚悟が必要である。不倫は高くつく、である。「不倫保険」ってあるのだろうか?いや、不倫を助長するから公序良俗に反するということで、会社の登記ができないだろう。したがって、賠償額の相場に見合う分を自分で積み立てておかなければならない。もし、夫が相場を超えて請求してきたら?無い袖は振れない。会社で言いふらすぞと脅してきたら?そうなればしめたもの。「○○さん、たしかに、私はよくないことをした。あなたに対しては大変申し訳ないと思っている。だけどね(ここから力をこめる)。あなたのやってることは脅迫罪だよ」。壇ノ浦の戦いで、潮目が変わって劣勢だった源氏が一気に勢いづいたように、これで攻守逆転。もはや夫は請求できない。結果として、不倫は高くつかなかったことになる。だが、いかにも世知が無い話である。大事な人生をそういうことに費やすのなら、やはり天体望遠鏡で星空を眺めていた方がよい(なんだか、ここまでの話の流れは、天体望遠鏡をポチるための言い訳のようでもある)。「人妻」がらみで昨日の話に戻る。ドビュッシーは、明らかに、年上の人妻と不倫をした。だが、ベートーヴェンはどうか?私の拙い文章によって読者に誤解を与えたかもしれない。ベートーヴェンに恋人がわんさといた、と書いたが、それは、同時期にわんさといたのではなく、生涯にわたってわんさといたのである。都度都度では一途で、恋人をとりかえっこするモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」は許せなかった。では、その恋人の中に人妻がいなかったのかというと、当時としては、というか、今に通じるほどの自由主義者だったから、人妻でも平気でデートに誘ったりはするが、それイコール深い関係に入る、つまり不倫をする、ということではなかった。だからといって、不倫をしなかったかというと、そこが怪しいところなのだ。「不滅の恋人」の有力候補は人妻である。ほんとに、世知が無い話である。大事な人生をそういうことに費やすのなら、熱帯魚を飼って眺めていた方がよい(さっきは、天体望遠鏡で星空を眺めると言っていた)。だが、うちでは無理である。お嬢たちが手をつっこんで、すくいだしてご飯のおかずにしてしまうだろう。そう、猫の前足は明らかに手である。因みに、ケメ子は「お手」の代わりに「お足」をするが、ワサビは「お手」をする。


ぶおとこの書いた喜びの島

2021-09-21 09:57:13 | 音楽
その青木やよひさんの「ベートーヴェン 不滅の恋人」に、「ベートーヴェンは、言われてるほど醜男ではなかった」というくだりがある。ということは、しょっちゅうそのように言われている、ということである。この本の他の箇所にも「醜男」が頻繁に登場する。ワタクシの男友達のようなイケメンたちは余裕で見過ごせても、こちとら心穏やかではいられない。まず、読み方が分からない。「しゅうなん」?いや、「ぶおとこ」と読むそうだ。「醜」は一字では「ぶ」とは読まないのだが、「男」と組み合わさると「ぶ」になるらしい。読み方が分かるといっそう面白くない。表現が直接的すぎる。せめて「非美男」「非イケメン」とかにならなかったものか。例えば「非イケメン」と言った場合、イケメンではない=醜男という方程式以外に、イケメンではないがそこそこという解釈だって成り立つ。そう言えば、ドイツの語学学校で、クラスメイトから先生のことをどう思う?と聞かれたから、「nicht schlecht」(悪くない)と言ったら、「悪くないってことは、良くもないってことだよね」と言われて、「いや、良いって意味で言ったんだよ」と返したことがある。往年の朝ドラ「ひらり」で、ひらりのお母さん(演:伊東ゆかり)が浮気しそうになった夫の友達の根本(演:綿引勝彦)は、「悪くない」が口癖だったが、これは「良い」という意味だった。ことさら左様に「非イケメン」と書けばどうともとれるから波風は立たなかったろうに、これほど「醜男」を言っちゃうと、私のように心が傷つく人だっているってもんだ。アメリカなら、慰謝料もんである。ふふふ。実は、前からドビュッシーのことを書こうと思っていたが、絶妙の流れになって内心はウキウキである。ということで本題である。子供の頃教科書等で見たドビュッシーは、摩訶不思議な風貌をされていた。まさに、俗に言うイケメンとはだいぶ様相を異にしていた(ベートーヴェンのことだって、こういう風に書けばよいのだ)。しばらく、これは私の個人的印象か?と思っていたが、同時代人がドビュッシーについて書いた悪口を読んで、やはり、それはある程度共通の認識だったんだな、ということが分かった。だから、私にとって、ドビュッシーと恋愛は結びつかなかった。ところが、ららら♪クラシックのある回で、ドビュッシーの特集をしていて、ドビュッシーは女好きだった、しかも年上の人妻が好みだったと言うことが分かった。そして、ピアノ曲の「喜びの島」は、そうした不倫の成就を描いた作品だという。浅学にして知らなかった。ちゃんと、音楽の先生はそう言うことも教えてほしい。この曲はね、よその奥さんを寝取った喜びを書いたものなんだよ!と。すっかりドビュッシーの見方が変わり、いっそうフランスものに惹かれていくあさましい非イケメンこそがワタクシである。因みに、そういう場面をあからさまに描写した音楽と言えば、「バラの騎士」の第1幕の前奏曲と、「アラベラ」の第3幕の前奏曲が有名。音楽で描写したのではなく、舞台でそういうシーンが直に繰り広げられるのは、オペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」だ(私が見たときは、ストップモーションだった)。ショスタコーヴィチは、こういうオペラを書いたりするから、粛正の危うきに陥った。交響曲第5番を書いて名誉を挽回するのは5年くらい後である。編集後記。後半笑いをとってなんとか心の平穏を保った私に人はかける言葉が見つからないだろう。なぜなら、いーえー、イージマさんはイケメンですよ、と言ったら、それはあからさまな嘘だし、いーえー、イージマさんは他に取り柄がありますから、と言ったら、それはぶ○○○と言ってるようなものだからである。かと言って、「悲しいね」などを押したら救いようがない。ここは一番、読まなかったことにして見過ごすのが一番である。それから一つ、大事な補足。ドビュッシーは、年上の人妻が好みだったが、私は年下の人妻も十分好みである。

不死身の恋人

2021-09-20 09:25:08 | 音楽


今日は敬老の日か。50になったとき、織田信長を超えたと思った。57になったとき、ベートーヴェンを超えたと思った。だがまだ敬われる歳にはほど遠いというのが自覚である。電車で席を譲られたことはないし、優先席に座るときは依然として後ろめたさを感じる。平気で半ズボンで電車に乗って練習場に行くし……そうだ、半ズボンで電車に乗れなくなったときが私の老いたときである。そう言えば、今回の写真には私の生足が写っている。この一致はまったく意図しなかったものであり、ブログを書く醍醐味である。場所はわが家のテラス(モノは言いよう)。繰り出したきっかけは中谷美紀の夫殿(WPOのヴィオラ奏者)の「家の中でパソコンをすると病気になる」との発言。なるほど、やはり陽の光を浴びないといかん。ビタミンDも生成されない、と思った次第。1年間使わなかったブツは捨てるべしと言う人がいるが、最近断捨離にはまっている私にとっては飛びつきたい格言ではあるが、やはり残しておいてよかったものがある。ベランダの折りたたみ椅子がそれ。買ってから2年くらいか、ほとんど使わないまま風雨にさらされて色あせたが、実用面にはなんら問題ない。いや、この椅子は実に快適だ。で、そこで読んだのが、青木やよひの「ベートーヴェンの不滅の恋人」。前にも読んだことがあり、その後も同じ著者が書いたベートーヴェンの伝記も読んで、これまでの紋切り型のベートーヴェン像とは異なる、人間的な、とっても魅力ある作曲家像に目からうろこであったのだけれど、なにせ私は人の名前を覚えるのが苦手なところにもってきて登場人物がやたらに多いから、一度や二度読んだだけでは到底内容が頭に残らない。だから読んだ。多分、この後も何度も読むのだろう(その間、千一夜物語はお休み)。そのベートーヴェンの「不滅の恋人」だが、これは大作曲家の唯一無二の恋人という意味ではない。ベートーヴェンが亡くなった直後に、発見された恋文の宛名が「不滅の恋人」だったので、その恋文の相手が後世の人にそのように呼ばれたのだ。ベートーヴェンの恋人は、生涯にわたってわんさといた。だが、ベートーヴェンの、(青木やよひの言うところの)韜晦戦術や陽動作戦によって表に出たこなかったのだ(「韜晦」なんて言葉、初めて聞いた。辞書には「人の目をくらますこと」とある。青木氏の言うベートーヴェンの韜晦戦術とは、わざと本命ではない女性にちょっかいを出して本命がばれないようにしたことである)。だから、ベートーヴェンの遺体がまだそこにある部屋で、関係者が恋文を発見したときはびっくり仰天だった。で「不滅の恋人」探しが始まったのである。今付き合ってる(あるいは、別れそうな)芸能人のイニシャルは○と○……なんて話をテレビのワイドショーがやると電波の無駄遣いだと批判されても、ことベートーヴェンの不滅の恋人が誰かって話になると学者の研究の対象になるんだから世の中は不公平である。だが、偉い先生方が口角泡を飛ばして議論をしてもいまだ決定打というのはないらしい。一応、青木氏の見立てでは、「不滅の恋人」はアントーニア、ベートーヴェンの子供を産んだのはヨゼフィーネということらしい。そう言えば、「エリーゼのために」の「エリーゼ」が誰かということも学者の研究の対象になっていて、これまで「テレーゼなんとかさんなのだが、ベートーヴェンが悪筆だったんで、後世の人がエリーゼと読み間違えた」って説がまことしやかに言われていた(ららら♪クラシックでも某ピアニストが得意そうにそう説明していた)。だが、今では、文字通りエリーゼなんとかさんだ、いう説があるという。事ほど左様であるから、ベートーヴェンにまつわる女性のことについては、断言するのは控えた方がよさそうだ。因みに、「不滅の恋人」の元の言葉は「unsterbliche Geliebte」。直訳すると「不死身の恋人」。吉田沙保里さんに恋人がいるのかいないか存じ上げないが、もしいるなら、彼にとって吉田さんはまさに「不死身の恋人」である。それから、もし私がぽっくり逝った後、残された友人達は飲み屋で「イージマさんの相手は誰?」について議論をしてくれるのだろうか。なに?いるわけないとみんな思っているから絶対しない?だったら、ベートーヴェンみたく「書きかけの恋文」を書いておこう。宛名はもちろん「不死身の恋人」である。それを死の床の横の目立つところに置いておこう。誰に向けて書くかって?妄想はお手のものである。だが、そんなに恋多き男だったベートーヴェンも、50過ぎてからは女性関係がなくなり「自身を拘束していた迷妄から解放された」と青木氏は書いている。ベートーヴェンの50は私の80だから、私はまだまだ迷妄に拘束されていたい。

能書きは短く(シュッツの会、再起動)

2021-09-19 07:50:43 | 音楽
結婚式のスピーチと合唱団の練習んときの能書きは、長いものは禁物。だが、昨日再開したシュッツの会では、能書きは不要であった。始まる前、不安はあった。ピアノ伴奏と違って、アカペラってやつは音が狂うと悲惨である。しかも、シュッツは楽譜の見かけと違って和声や音の動きが近代ものとまったく違うから侮ってかかるとひどいことになる。もしうまくいかなくても、じっくりゆっくりやっていこう……そう思っていたらあなた、能力も意識も高い参加者がじっくり練習をしてきたものだから、素晴らしいハーモニーが響いた。こういう人達に能書きはいらない。釈迦に説法である……が、絶対、言っときたいことがあった。それは「Die Himmel」は「もろもろの天」(もろ天)と言っているくらいだから複数である。それに続く「Die Feste」は、天と対になっているから大地を想像するが(私だけ?)、こっちも天(大空)である。この複数の天の配置はどうなっているのだろう?という問題提起、これはワタクシの永遠のテーマであり、以前、当ブログでも「特集」したことがある。そこのところだけはしゃべらせていただきました。ご静聴ありがとうございました。つうか、参加していただいて、本当にありがとうございました。「Herzlich lieb」の何度も繰り返す音型を歌っているうちに、私、感涙にむせびそうになりました。因みに、どっかで星一徹が泣いてる宣伝ポスターを見て、さすが、親子、星飛雄馬と似てる、DNAは争えない、と思った(ってそういう問題ではない)。最初の30分は、楽器と歌おうコーナー。BWV119の楽器を3人(I美女とF美女と私)で手分けをして演奏。歌の方々にも付き合っていただいた。これも、一応全曲やれました。美女様がた、ありがとうございました。って言うと、歌の方々から、あたしたちは美女じゃないのか?と怒られそう。いえいえ、皆様も美女様方でございます。すると、男子からも、おれたちは美男じゃないのか?とクレームがくる。いえいえ、あたたがたも美男様方でございます。結局、美女と美男しかいないことになり、「美女」「美男」の言葉の価値が下がるのである(これを、インフレという)。告白しますと、私もBWV119で、曲によっては通奏低音を弾いたんだけど、家では電子ピアノでしょ?で、今回、ホンモノのピアノの音に感動したのでありました(すみません、低次元の話で)。今回の参加費は160円。1600円ではない。いや、こんなものだ。昔は「100円でシュッツを歌おう!」が宣伝文句だった。今、コロナ禍でスペースを空けなきゃいけないんで、前より大きめの部屋をとったんで100円を超えてしまった(インフレ率60%。政府目標の2%を大幅に上回っている)。いやいや、うれしい夜でありました。皆様、末永くよろしくお願い申し上げます(お辞儀をしている絵文字があるつもり)。やりたい曲、言ってね。何でもやっちゃうから。

おフランス

2021-09-18 05:12:24 | 音楽
ケメ子は寝ている私のところにきて頭を撫でろと催促する。私は起きるのが面倒くさいので、目をつぶったまま手をかざすとケメ子は自分でその手の下に頭を入れてくるから撫でてやる。いいなぁケメ子は。撫でてくれる人がいて。私も誰かに撫でてほしい。さて。古い録画を見てたら誰かが「ベートーヴェンの『月光』は月光の下にさらされてる感じだが、ドビュッシーの『月の光』は月光の上でふわふわ漂ってる感じ」と言っていた。なるほど、「上下」の違いか。雨雲も下から見ると黒いが上から見ると白いよな。だが、私が思っていたのは緯度の違いである。すなわち、ベートーヴェンのドイツは北国。北国の冬の夜は厳しい。「月光」の冷徹さはそれを表しているのに対し、ドビュッシーのフランスは暖国で月は優しい。その違いかと。これがアラブに行くともっと暑いから、「月の沙漠」というように隊商は夜移動するし、美女は必ず満月に例えられる。以上のことは言葉の性にも表れている。ドイツ語の月は「der Mond」で男性名詞だが、フランス語(la lune)やイタリア語(la luna)の月は女性名詞である。太陽はこれが逆になり、ドイツ語では女性名詞で、フランス語、イタリア語では男性名詞だ(ただし、ジェンダーフリーの今日では、こうした分類には異論があるだろう。例えば、霊長類最強の吉田沙保里さんは女性だが強いのに対し、おホホ疑惑のあるワタクシは男性だが女性にいつも泣かされている(だが、腕の筋肉は自慢))。そうした北国のドイツの人は、暖かいフランスやイタリアに憧れるのだという。ワタクシは、若い頃は間違いなくドイツ贔屓だった。大学の第2外国語は、ドイツ語とフランス語がだいたい半々だったが、「武骨隆々1万年」なんて歌詞が応援歌にある高校の出身者がなよっちいフランス語なんてやってられるかい、と当然ドイツ語を選択。室内合唱団で歌った歌詞はドイツ語とラテン語だったし、好きなオペラもドイツオペラ。だから学校を出てから本格的に勉強したのもドイツ語だった(ゲーテ・インスティトゥートには中谷美紀さんも通われたという)。だが、最近、ワタクシの中で、フランス、イタリア株が高騰中である。イタリアは初めての旅行ではまったし、バロック音楽を聴き詰めていくうち、とどのつまりはルイ王朝の宮廷で演奏されていた絢爛豪華なフランス・バロックに行き着く。その代表選手の一人はリュリ。昨日楽譜を整理してたらリュリのテ・テデウムの楽譜が出てきた。以前、シュッツの会でそのうちやろうと思ってプリントアウトしたものらしい。そのリュリが亡くなったのは、指揮棒で足をつついて、そこが化膿したためである。再現映像で見たが、当時の指揮は、杖みたいなやつでかなり強くドン、ドン……と床を叩いてやっていたらしい。以前、シュッツの会で、「行進曲にならないようにしようね」と言い合ったものだが、シュッツはバロック初期でまだルネサンスをひきずっていて、元の楽譜に小節線はなかったから、強迫弱拍の意識が薄かったのに対し(だから強弱を付けると行進曲になってよろしくない)、盛期バロックのリュリのあたりになると、それがはっきり出てきたことがわかる(だから、床をドン、ドンと叩くのである)。因みに、リュリはもともとイタリア人である。一方で、権謀術数にたけていたと悪口を言われることもある。なお、フランス人は漫画やアニメを通しての日本ファンが多いそうだが、ドイツ人のほとんどは日本のことなど見向きもしない(海外ニュースを見てると感じる)。だからドイツ好きは片思いだが、フランス好きは両思いである。だいたい、イヤミが「おフランス」とか言うからいけない。変に、ブルジョワなイメージが付いてしまったから「武骨隆々1万年」からは縁遠くなったのである。ワタクシは、ワインはもともとフランスものが一番好きだった。そうだ、旅で女子を誘うんだったら(まだ言ってる。だが、ちょっと最近お疲れモードで、あまり熱量はこもってない)、アルザスがいい。フランスだから料理もワインも美味しいが、近くのライン川を渡るとすぐフライブルク(ドイツ)である。フランス北東部のアルザスと近接するフライブルクがドイツ南西部に位置しているあたりが、ドイツが北国であることを表している。さっきの話に少し補足。ドイツの月は冷徹と書いたが、春になるとそうでもないようで、ヴァルキューレ第1幕で月は「Wonnemond」(幸福の月)と呼ばれ、その下で不倫愛が進行するのである。