拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

ミサソレとフィデリオ(カール・ベームのことその2(でも一番は白昼夢の話))

2021-01-31 09:36:13 | 音楽
昨日の真っ昼間のことである。一緒にいた某美女が私の手を握ってきた。うわっ、積極的、ど、どうしよう、と思ったところで目が覚めた。某美女に握られたはずの手はジャージのポケットに突っ込んでいた。ジャージのポケットが美女の手に化けたのである。ゲーテの「ファウスト」に、居酒屋の若者達が葡萄園で葡萄を摘んでると思ったら互いの鼻だったって話が出てくる。若者達はメフィストフェレスの魔法で化かされたのだが、私を化かしたのは私自身の煩悩である。煩悩もここに極まれり、である。とっとと煩悩のなかった半世紀前に戻ろう。いや、ちょっと待て。途中、40年前で途中下車。昨日、M美女たちの間で話題になっていた山口百恵の自伝のことだが、私は読んでいる。百恵さんの歌に「あなたに女の子の一番大事なものをあげるわ」という歌詞があるが、その際、ギターがぽろろんと鳴ったはずである。そこだけ覚えている。因みに、山口百恵は私と学年が同じである。借りられる威はなんでも借りるワタクシ。あと、M美女の夫殿もI美女のご子息もいずれもイケメンであるが、お二方とも私の大学の後輩である。だから、借りられる威はなんでも借りるんだってば。気がすんだのでもう10年遡ってベームの話の続きに行こう。当時ベームは人気絶頂。ベームはアンチ・カラヤンの「Zuflucht」(避難所。宗教曲では「避け所」と訳されることが多い)であったから。また、1970年代にウィーン・フィルを連れて何度も来日し、名演を聴かせたのも大きかった。私は、ミサソレの通唱会を3回主催させていただき、第2回のアンコールにはフィデリオの最後のシーンを演奏したのだが、実は、両曲とも、その良さを教えてくれたのはベームのレコードである。ミサソレのレコードを最初に買ったのは中学生のとき。街のレコード店でトスカニーニ盤を買った。それしかなかった。レジでそこの店主(音楽仲間から影で「知ったかぶり」と揶揄されていた)に「すごいね」と言われたが、ミサソレがすごいのか、トスカニーニがすごいのか分からなかった。とにかく、自分の店に置いて売っておきながら「すごいね」は変だと思った。ところがトスカニーニ盤は音が悪く(四畳半で録音したみたい、と言った人がいる)、演奏もせかしかした感じで曲の良さは分からなかった。数年後、私は高校生になっていたが、ベームの新録音が出て、NHKFMの土曜日の番組(クラシックの新譜をよく紹介していた)で流れるというので、吹奏楽部の練習の直前に、固唾を呑んでラジオを聴いた。出だしから圧倒された。すぐそのレコードを買い、今度は曲の良さがよーく分かって愛聴曲となった。フィデリオも2回目に買ったベーム盤で良さが分かったのだが、実は最初に買ったのもベーム盤。ただし、1944年録音のもので、音が悪かったし、なにより男声陣がなよっとしていて好きになれなかった。それに対し、2回目に買ったやつ(再録音)の男声陣は強力。フローレスタンは、Theヘルデン・テナーのジェームズ・キングだし、何より悪者ドン・ピツァロが(出たっ)テオ・アダムでこれが最高だった。おかげでフィデリオというオペラの良さが分かり、これまた愛聴曲となった。ただ、そのレコードでレオノーレを歌っていたギネス・ジョーンズは、レコードではビブラートが強くて、高い音は下からずり上げる感じで好きではなかった。しかし、例によって手のひらを返す時期がくる。生でギネス・ジョーンズを聴いたときである。ジョーンズ砲の一撃は強烈だった。鼓膜が破れると思った。あのくらい強烈な一撃をくらうとビブラートもへったくれもどうでもよくなる。私が強い女に虐められて快感を感じるようになったのはこのときからである(ウソ。もっと前からである)。その後、ウィーンに旅行したとき、国立歌劇場にフィデリオがかかっていて、そのときの主役コンビがレコードと同じギネス・ジョーンズとジェームズ・キング(指揮はラインスドルフ)。ここでもジョーンズ砲は炸裂しまくっていた。そのときから数十年後、昨年のミサソレ通唱会のアンコール、思い出すなー。クラを吹く私の真後ろにソプラノの美女達がいて、レオノーレとマルツェリーネが相互に高いB♭に上っていった。昨日の白昼夢で美女に手を握られたのも天国だったが、このB♭への階段を背中に感じたときも、まさに天国であった。一つおまけ。最初に買ったトスカニーニのミサソレは、しかし強烈な演奏である。クレドの後半に速いフーガが現れるが、その速さは尋常ではない。思いっきり速く吹き込んだヤツをさらに早送りしたような、とても人間業とは思えないしろものである。もう一つおまけ。1944年のフィデリオは音が悪かったと書いたが、オケの音については、(フルトヴェングラーの録音の多くもそうだが)古いからこそのおどろおどろしさが逆にすごい効果を発揮することがある。その演奏の「レオノーレ序曲第3番」(最後の場面の前に演奏される)は、これまで聴いた中で最高であった。脱線ばかりしてるからなかなかベームの話が進まない。「ベームのこと」シリーズはまだ続く。

飛ばなかったアトム(カール・ベームのこと(その1。でも、ベームの話はほとんどない))

2021-01-30 08:49:29 | 音楽
「ベームのこと」と銘打ったが、例によって山ほど四方山話に飛ぶから、あまりベームの話は出てこない。そのことをお断りしておく。昨日、生まれて初めて小遣いで買ったレコードはベームの第九だった、と書いた。全財産が900円だったから選択の余地はなかった、と書いた。しかし、これは記憶違いだった(なにしろ半世紀前である)。もう一つ900円の第九があった。コンヴィチュニー&ゲヴァントハウス管である。もちろん、当時、ベームもコンヴィチュニーも知る由がない。ベーム盤を選んだ理由はジャケットだった。コンヴィチュニー盤はレコードを入れるだけの簡素なものだったのに対し、ベーム盤は見開きだった(そこに、Uがありったけのカラヤンの悪口を書いていたわけだ)。もう一つ記憶違いがある。昨日の記事だと、家がステレオを買ってからベームの第九を買ったように読めるが、順番は逆である。家で聴けるあてがないのに買ったのである。だが、買ったら聴きたくなるのが人情。クラスメイトが家に立派なステレオがあるからそれでかけてやると言ってくれたので出かけて行った。ところが彼の兄が「使わせない」と言う。別にポータブルのプレーヤーがあって、そっちをお情けで使わせてもらった。ところが、そのプレーヤーのレコード針がぼろぼろ。針飛びの嵐だった。それどころか、そんな針で再生したから一発で盤がボロボロになり、その後、私んちがステレオを買って再生したときは、第四楽章のソロと合唱が出るあたりで三箇所に針飛びがあり、せっかくステレオが来たというのにしばらく第九の全貌が分からず仕舞だった。待ちきれなくて墓穴を掘ったといえばこういう話もあった。私の誕生日はクリスマスと近いので、プレゼントは併せて一つだった。で、初めてクリスマスだか誕生日だかのプレゼントをもらったときのこと、親は、「サンタクロースなんていないんだからね。親が買ってやるんだからね。感謝しなさい」(ひどい親のように見えるが、今の朝ドラの「てつおテルヲ」に比べれば買ってくれるだけ神様である)と言い、その年は「回るアトム」を買ってやると予告した。私は、「回るアトム」から、「自転」するアトム、つまり、地中にもぐるときのスーパーマン、これじゃ分からないか、フィギュアスケートのスピンを想像したが、当日目にしたのは、天井からひもでつるしたアトムの脚のプロペラが回って「公転」するアトムであった(「ジェット気流」を作り出すマグマ大使のごとしであった)。母が買ってきたのだろう、父が「ちゃちいなー」と言ったのを覚えている。だが、その日は既に夜。飛ばすのは明日におあずけ。嗚呼!その夜、飛ばしていれば!私は、プレゼントをもらったのが初めてだったこともあり、うれしくて、待ちきれなくて、そのアトムを抱いて寝た。翌朝見たらプロペラが割れていた。「ちゃちい」と言った父の言は正しかった。アトムは、結局、我が家では一度も飛ばなかった。それで懲りたのか、翌年からのプレゼントは決して壊れないもの=ハードカバーの児童書だった。たしか、最初が「紅はこべの冒険」、翌年が「偉大なる王」だった(王選手の偉人伝ではない。「ワン」というトラの物語である)。母の選択であったが、今にして思えばなかなかしぶい選書である。第九の話に戻る。後で知ったことだが、選択しなかったコンヴィチュニー盤のバリトン・ソロは、なんと、てっ、てっ、テオ・アダムだ(山梨の人はびっくりすると「てっ」という。中央線のどっかの駅に大きく「てっ」と書いた看板がある。しかし、今書いた「てっ」はその意味でないことはお分かりだろう)。硬質な声で、スタイリッシュに歌うバリトン独唱は絶品である。それだけではない。ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏はいぶし銀である。指揮も、ときどき見栄をはるけれど、一本気な正攻法のまっすぐな解釈で(まるで私!)、今なら断然こっちである。ベーム盤のウィーン交響楽団(ウィーン・フィルではない)は優秀なオケだが、その演奏は、今聴いてみると、リズムは甘いし、バリトン独唱はなよなよしていて良くない。だが、なにしろ(三箇所針飛びはしたけれど)初めて手にした全曲盤だ。鳥が生まれて最初に見た生き物を自分の親だと思うごとく、私にとっての第九のスタンダートはベームとなった。その後、信仰はますます深まり、後に洗脳が解ける時期がくる。その話は次回以降に(ねっ!ベームの話はあまりなかったでしょ?)

カラヤンのこと

2021-01-29 11:04:13 | 音楽
小学校の音楽の時間に先生が第九のレコードをちょっとだけかけてくれて、第四楽章の冒頭(管だけ)と途中(トゥッティ)の二回出てくるファンファーレを聴いて、おっ、これCMで聴いた曲だ、第九だったんだ、全曲聴いてみたいなぁと思った(そう、私の第九への興味は歓喜の歌によってではなく、ファンファーレによって培われた)。チャンスはその年の大晦日に来た。テレビでN響の第九を聴いた。子供心にいまいちだと思った。テレビ欄を見ると、その1時間くらい後に(たしか)10チャンネル(って分かる?)でも第九の放送がある。親に見たいと言うと(当時はテレビは一家に一台)、一度見たからもういいだろうと言う(私の親は、なにごとも一度で十分って人達で、映画も、途中から見始めて、次の回、前回見始めたところまでくると、これで全部つながったからもういいだろう、と言って帰る人達だった)。そこを頼み込んで見た。カラヤン&ベルリン・フィルだった。子供心にすごいと思った。数年後、ようやく我が家にもステレオ装置がやってきてLPレコードを聴けるようになった。私がこづかいで最初に買ったレコードはベーム&ウィーン響の第九。選択の余地はなかった。財布の中の900円で買えるものはそれしかなかった。帰宅すると母が「べえむ?みんながカラヤンが良いって言ってるのに何でそんなものを買ってくるんだ。良くない演奏のレコードを買うのはお金をどぶに捨てるのと同じだ」といっちょまえに説教。無知とは恐ろしいものである(母のことである)。そのレコードのライナーの解説は評論家のUが書いていて、ベームのレコードのなのに半分はカラヤンの悪口だった。そのカラヤンのレコードを最初に手にしたのはそのちょっと後、英会話塾の先生から誕生日プレゼントとしていただいたエロイカだった。ベルリン・フィルの音がすごかった。そこからさらに小遣いをためて、とうとうカラヤンの第九のレコードを2000円で買った。あれぇ?変だった。評論家のUに洗脳されていることもあったが、音がうすっぺらく感じた。それからずーっとアンチ・カラヤンとなり、アンチ・カラヤンはベルリン・フィルを振った日本での最後の演奏を生で聴いて手のひらを返すまで続いた話はずいぶん書いた。因んだ話をいくつか。「変」だと感じた第九の演奏を近年デジタルで聴き直したらまるで別の演奏だった。素晴らしかった。変だったのは我が家のステレオだったということが判明した。それから、小学生のとき10チャンネルで見た第九の映像も近年見直した。こちらは、真に素晴らしい。収録時期はレコードのものと同時期だが、エンディングで珍しくカラヤンが火を噴いている。多分、音を先にとって後から映像を撮ったのだろうが、その音のスピード感にカラヤン自身が必至に合わせてる様子が見て取れる。それから、手のひらを返した後は、今度は以前とは逆に、カラヤンはいい、カラヤンはいいと念じて聴いてもどうも好きになれないものがでてきた。モーツァルトの交響曲がそうである。そして、私が、カラヤンの演奏で一番すごいなと思うのはヴァーグナーである。ヴァルキューレ第1幕のエンディング、ジークムントがジークリンデに覆い被さり、近親相姦かつ不倫が成就する瞬間、幕がト書きに従って急速に降りる、そこからエンディングまで空間を埋め尽くすベルリン・フィルのサウンドは真っ赤に解けた鉄のようである。

恋とはどんなものかしら

2021-01-28 10:29:41 | 音楽
四方山話というくらいだからいろんなことをこのブログに書いているが、ときどき人々から感想を聞くと、どうやら一番期待されているのは「男女のコト」のようだ。と言っても、私が書けるのは、男女のことを知り尽くした強者の経験談であるはずはなく、逆に「che cosa è amor(恋とはどんなものかしら)」、すなわちケルビーノと同様の、未知の世界を覗いてみたい未経験者の心情吐露である。実際、私はまだまだである。と、がっかりしたのは、最近、千一夜物語をドイツ語で読み始めたのだが、妖怪に囲われている女が妖怪が寝ているすきに、木の上に隠れていた二人の若者を見つけて降りて来させた。そして「Da taten beide Brüder,was sie verlangte.」(兄弟は、彼女が望んだことをした)とあるのだが、さて、「した」(taten)って何をしたのだろう。肩をもんだのだろうか、腰をもんだのだろうか、足の裏をくすぐったのだろうか、舟歌をデュエットしたのだろうか、といろいろ想像したが、最後まで正解が浮かばなかった。正解はちょめちょめである(別の本であらすじを読んで知った)。そっか、そうだよなー、なんで思いつかなかったんだろう。と、自分の未熟さにがっかりして、まだまだだなー、と思い知った次第である。そのあたりの鈍感さは、そっち方面の経験不足に加えて、「あたし……なんです」の直接的表現につかりすぎたせいもあろう。源氏物語も、はっきり「した」とは書いてない。行為は短い行間で行われていることが、読み進むうちに解るようになった。そう言えば、高校の教科書に芥川の小説が載っていて、病気の夫のために定期的に医者に薬をもらいにくる妻が、ある日傘をくるくるっと回しながら帰っていくって話があって、あー、お医者さんから「お許し」が出たんだな、とそのときはすぐに察せられた。かくいう私だって、自分で書くときは「営む」という表現をよく使うが、そもそも何を営むかって話である。ピザ屋?安くてまずいよ!さて、冒頭にケルビーノのことを書いたが、私と一緒にして申し訳なかった。ケルビーノはとんでもないませガキである。これと双璧のませガキと言えば「バラの騎士」のオクタヴィアン。ともに十代。オペラではどちらもメゾソプラノが男装して演じる。このうちより経験豊富なのはどちらだろう。オクタヴィアンは実際に32歳の元帥夫人と営んでいるから「実績」が目に見えているが、ケルビーノだって、伯爵夫人やスザンナに色目を使うほか、バルバリーナとは明らかに「できて」いる。さらに、ケルビーノは、「フィガロの結婚」の後日談では伯爵夫人に自分の子を産ませているから、こちらが優勢勝ちか。人のことはどうでもよかった。問題はこの歳で「まだまだ」と思い知った私である。どうせ歳ならもう3歳上ならよかった。そしたら、医療従事者の次順位でワクチンを打ってもらえたのに、結局一番最後のグループである。打ってもらえるものなら今すぐでも打ってもらいたい。

朱美さん再び

2021-01-27 09:33:56 | 言葉

私はコロナに罹りたくない。軽症で済んだとしても、味覚や嗅覚に障害が残って食欲が損なわれると楽しみは寝るだけになってしまう。猫と一緒に寝るだけである(miteinander schlafen)。因みに、「miteinander schlafen」は直訳すると「添い寝」であるが「ちょめちょめする」の意味にもなる(あるドイツ人の男の先生は、この言葉を聞いて顔が真っ赤になった)。どっちの意味になるかは誰と誰が「添い寝」をするかである程度決まる。私の添い寝相手が猫ならば、それは家族愛に満ちた添い寝である(写真のケメ子の表情を見たまえ!)。なにっ?イージマさんは隣が猫でも人間の女性でも同じ?だから安心して添い寝ができる?ここでまたしても「イージマさん実は女嫌い説」を聴くことになろうとは(一人芝居)。よしっ、昨日の記事で削除した部分をここに再現しよう。「故郷事件」である。それはa long time ago、私の風貌がちょっと前にアップした写真で見るような、M美女をして守ってあげたいといわしめた風貌だった頃のことである。前日飲み過ぎたのでアルコールを抜くためにサウナに入った。浴室内はガラガラ。一人小太りのおじさんがいた。その小太りのおじさんがどうも怪しい。洗い場で私の隣に座ってくる。気持ちが悪いから場所を変えてもついてくる。そしてとうとう口を開いた。「故郷(ふるさと)の話をしようよ」。私は総毛立った。入って早々であったが一目散にそのサウナを退出した。サウナ代はほとんど元がとれてない。にもかかわらずケチな私が逃げ出したのはよほど気持ちが悪かったのである。そのとき、私は自分が女好きであることを確信した。てな話をこないだ某会の反省会でしたら某美女が、それは相手が悪かったからだ、小太りのおじさんだったのがいけなかったのだと言う。そう思う美女のみなさんには、是非、私との添い寝を試していただきたい。自己責任で、である。因みに、故郷事件の前から私のことを知ってる某事情通は、イージマさん女嫌い説についてちゃんちゃら可笑しいと言っている。そんなことを言うなら私だって当該事情通が実は男好きであることを主張したいところだが後が怖いから言わないでおく(そういう力関係である)。言葉は多義であるという話に戻る(引き続き同じテイストである)。第九で「umschlungen」(抱く)と言ったら友達同士の喜びの抱擁であるが、千一夜物語(のドイツ語版)で「umarmen」(抱く)と言ったら人妻と間男の抱擁である。「抱っこちゃん人形」だって、文脈によって子供の玩具にもなれば大人の玩具(未亡人朱美さん)にもなる。そう言えば、先般、F美女が後者の意味の製品サイトを教えてくれたので、subito(即座に)ググってみた。私が今後浸るかもしれない世界が広がっていた。それにしても、F美女はよくこのサイトをご存じだったものだ。さすがの博識ぶりである。あれ~?今回はコロナのワクチンのことを書くはずだったのに、違う方向で話が盛り上がってしまった(一人で盛り上がってしまった)。タイトルも「Japan 『was』 number one」にするはずだった。だが、こんなことを書いた後で真面目な話はできない。次回以降に回そう。おっと、今回の記事が不真面目ということではない。「言葉」についての大真面目な議論をしたつもりである。

ウルトラビジン

2021-01-26 10:01:50 | 音楽
粛々と美女を讃える歌を歌おう(この記事は本日第三校である。校正のたんびにあちこち削除していったら純粋に歌だけが残った。いったい私は何を書いているのだろう)。なお、今回の記事の当初のタイトルは「ウルトラ美女」であったが、原曲(?)のタイトルと語呂を合わせて「ウルトラビジン」に代えたものである。「ビジョビジョー」は、ホルンで「ソドミソー」である。原曲は変ホ長調である。

♪ドーーソー、ソドーーシッソッミッ♯ファソー、ソッラシーーー(以上オケのみ(注))、ビジョー(ドソー)、ビジョー(ミドー)、ビジョー(ソミー)、ビジョー(ドソー)、ビジョッ、ビジョッ、ビジョッ(ビジョビジョー)、ビジョッ、ビジョッ、ビジョッ(ビジョビジョー)、ちーかくのむらがー(ビジョビジョ、ビジョビジョー)ふ、るーーさーとーだ(ビジョビジョ、ビジョビジョー)ウルトラービジョ、ビジョー、ビジョー、ウルトラービジョ、ビジョー、ビジョー、すーすめー、銀座のまちなかをー、ビージョビジョビームでイチコロ!ビジョー(♭シソー)ビジョッ(ドッ)!

注:ここんとこのハーモニーは最高にかっこいい。対旋律はこうである。「♪ドーーシー、シラーーソッシッドッレミー、ミッファソーーー」

自己責任

2021-01-25 09:51:51 | 日記
以下は、愛を断念したアルベリヒ某の話である(事実を基にしたフィクションである)。アルベリヒ某はボンビーである。なんでボンビーになったかと言うと○○と○○○のせい、と言って来た。この二文字又は三文字に何が入るかは決して口外せず墓場まで持っていくつもりだったが二文字の方は既に酔っ払った際方々でしゃべっているので隠しておく必要がなくなった。それは「かぶ」である。株と競馬は自己責任(あっ、三文字に「けいば」が入るわけではありませんので。競馬についてはアルベリヒ某は実に堅実。一日千円の掟を頑と守っている)。損をしても責任転嫁はできない。因みに、昨日のレースでアルベリヒ某は三連複(三着までに来る馬を順不同で当てる馬券)を当てたのだが、三着の馬(さほど人気はなかった)を選んだのは評論家が褒めていたから。だが、競馬評論家と経済評論家の言うことほど当てにならないものはない。だから、あくまで自己責任のもと、評論家の言うことを取捨選択し、なるほどと思った話だけ聞き、後は「ばーか」と言って切り捨てる態度が必要である。で、株の話である。今は暇そうなアルベリヒ某も40代は人の何倍も働いた。その結果小金がたまった。ところで、アルベリヒ某の当時の通勤路に証券会社があって、アルベリヒ某はその電光掲示板でS社株の値をチェックするのが習慣であった。アルベリヒ某はS社の製品が大好きで、家の中はその製品であふれていたから、アルベリヒ某は自らをSっ子と呼んでいた。ときは不況の世。いっとき6000円とかだったS社株が3000円を切った。「時来たれり」とばかりちびっと買った。下がった。買い足した。また下がった。これを繰り返していくうち、汗水たらしてためた小金はほとんどS社株に化けていて、取得価額の平均は2400円くらい、だが、株価は2000円を切ろうとしていた。そのとき、あまたいる「経済評論家」「投資評論家」「なんとかストラテジー」と言った面々は、S社株は今後二度と上がることはない、と口を揃えた。なかには「500円になる」と言ったヤツ(以下「500円の君」と言う)までいた。ご、ご、ごひゃくえん……。アルベリヒ某は動転した。そして、S社株を全部売っぱらって、まったく別の業種の某株に乗り換えた。そしてどうなったか。乗り換えた先の某株はその後怒濤の下げ。回復の兆しは見えない。アルベリヒ某がボンビーなのはそのせいである(今、アルベリヒ某は、ジークムントに身の上話をするジークリンデの気分である)。話がここで終わったら、単に株で損をしたお馬鹿な、だがよくある話である。話はここからである。そのS社株の方はどうなったか。な、な、なんと現在1万円を越えている。もしも、あのとき並み居る評論家諸氏、特に「500円の君」の話さえ聞かなかったら、アルベリヒ某は大金持ちである。損失に実損のほか逸失利益も加えたならば、その額は東京西部に広い一戸建てが買える額である。しかし、すべて自己責任である。経済評論家と競馬評論家ほど当てにならない者はない、その言うことは、しかし、たまに当たることもあるからうまく取捨選択すべし、という冒頭の話になるのである。アルベリヒ某が恥を忍んで私を通じて身の上話を暴露したのは、世のため人のためにこの格言を言いたかったからだ。しかし、自己責任で文句を言えなくても恨むのは自由だ。アルベリヒ某は、「500円の君」の藁人形を作って撫で撫でしてやりたいと思っている(アルベリヒ某は、自分の性格の悪さを隠さない)。ところが、その「500円の君」が誰だったかその名前を思い出せない。アルベリヒ某は、どうしても藁人形で恨みを晴らしたいものだから「S社 株価 500円」で何度もググっているのだが見つからないで今に至る。以上、重ねて言うが、あくまでも、事実を基にしたフィクションである(主人公の名前だけフィクションで、あとは実話という噂もある)。そう言えば、(これは明らかな実話である)、株でなくて円相場の話だが、いっとき1ドル70円台になったとき、「このまま50円になる」と言い切った経済学者がいた。そうはならなかったわけだが、その後もその学者先生は、50円にならなかったのは政府のせいと言ってすましている。その強心臓ぶりは是非見習いたいものである、というのはアルベリヒ某ではなく、アルベリヒ飯島自身の感想である。因みに、アルベリヒ飯島は、「クラリネット チカちゃん」でときどきググっている。フライブルクのドイツ語学校に来ていたクラリネット奏者で、フライブルク音大に通いながら、ドイツ語学校にも来ていた。もし、近くに住んでおられるならクラリネットを習いたいと思って捜索しているのだが「500円の君」と同じくいまだ見つからない。それから、ボンビーになった原因の三文字の方は、アルベリヒ某はまだ隠しておきたいそうだから、私も言わないでおく(でも、酔っ払ったらしゃべりそうである)。

連弾

2021-01-24 12:44:29 | 音楽

最近、お友達の間でピアノが大はやり。皆、昔は弾いてたんだな(昔取った杵柄)。直近ではM美女。新しい電子ピアノの写真をアップして嬉しそう。すぐ人に影響される私が影響されないはずがない。キッチンに立てかけてあった88鍵をコタツの上に置いてみる(ちゃんとした脚もこの家のどこかにあるはずだが見当たらない)。これだとなんだかお琴のよう。♪ミ、シレミラシラミー。ミ、シレミラシレミー……春の海(ちょっと時期がずれた)。この後、尺八が♪レミーーと入ってくるのだが、フランス人のルネ・シュメーが尺八パートをヴァイオリンで弾いて作曲者と協演し、それが元ととなって世界中で親しまれる曲になったそうだ。さて、M美女は、ピアノのスイッチが入ったようで、弾きまくっている模様。いずれ某会でも披露して下さるだろう。じゃあ、私もその場にちょこっともぐりこんで連弾でもいたしましょうか。普通の連弾ではない。モーツァルトのトルコ行進曲の右手をM美女が弾いて、左手を私が弾くというもの。この発想は、中学のとき、隣の組の某女子と体育館の裏手で密かに……じゃなくて(話がすぐ変な方に行く)、体育館のピアノで実際にやったことがあるのですぐさま湧き上がった。だが、M美女が「密になる」と言って警戒。あ、やっぱりそう思った?私もね、右に座るM美女が右手で弾いて左に座る私が左手で弾くとどうしたって、M美女の左半身と私の右半身が密接することになる。これは二重の意味で宜しくない。一つ目はコロナ禍で「密はだめ」と言っているお上に逆らうことになる点、もう一つは人妻のM美女とあまり密になると「善良な風俗」に反するおそれが出てくる点。これを解消する方法を考えてみた(あくまでM美女が右手のパートを弾いて、私が左手のパートを弾くことが前提である)。可能性その1。M美女が左手で右手のパートを弾き、私が右手で左手のパートを弾く。その2。M美女と私が左右の位置を交代したうえで元のパートを弾く。これだとM美女の右腕と私の左腕が鍵盤上で交錯することになる。体は密ではなくなるが、腕が密になる。腕が密になった場合、善良な風俗に反するかどうかは分からない(判例はない(当たり前))。因みに、中学当時、某女子と一緒に弾いて、密でどきどきした覚えがない。あのときは痩せてたからあまり密ではなかったんだと思う。そもそもその女子のことが好きでもなんでもなかったし。いやいや、私の下手くそな左手を交える必要はない。M美女は、ソロで素晴らしく弾くはずである。期待しよう(その前に舟歌のデュエットを頼みますね!)。かく言うワタクシが人前で最後にピアノを弾いたのは室内合唱団の宴会。余興に毎回、自作発表会をしていた。2,3曲、自作の歌を人に歌ってもらって私は伴奏。自分の曲の伴奏だからいっくらでも音を省いて弾けた。そうだ、あんとき作った曲で、「ベルチューダーインの歌」っていうのがあって、いつも一合100円の酒を飲ませる店で飲んでるくせにたまに「おねーさん」のいる店でウィスキーを飲むことがあって、それが「ベルチューダーイン」。後日、歌詞をアニュスデイに変えて、これがなかなかの名曲なのだが(自分で言ってる)まだ披露してない。これを某会で披露するついでにピアノを弾けばよいのだ!歌ってもらうイメージもどんどん湧いてくる。だが……思い出した、この88鍵を買ったときも、それを目指して練習を始めたのだが、ぜーんぜん腕が戻らなかったんだ。で、キッチンに立てかけっぱなしになったんだった…… 文中の「ベルチューダーイン」がまだあるかどうかググってみた。ヒットしたのは、5年前の私のブログだった。そのときも「検索した」と書いている。で、「見つからない」と書いている。

ありがとう

2021-01-20 09:26:11 | 音楽
拙宅(ヴィラ・イージマ)は実は縁起の良い場所らしい。千年掃除をしてなさそうな所に万年床、まさに鶴は千年亀は万年ということなのだ。だったら以後ヴィラ・イージマを鶴亀荘と呼ぼう。だが、鶴亀荘も独りぼっちだと独房である。私はまるで禁錮刑の受刑者である。懲役と禁錮の違いは、前者は作業を科されるが後者はなし。すると三食昼寝付きで本も読み放題、絶対禁錮がいいと思うのだが、禁錮刑の受刑者の多くは懲役刑の受刑者と一緒の作業を求めるのだという。人間は、かように社会的な動物である。さて、こないだグラティアスという馬が走った。「グラティアス」(ありがとう)と言えば、いきものがかりの歌(「ゲゲゲの女房」の主題歌)、それから水前寺清子が主演したドラマのタイトル(その主題歌=♪ソソラソミソ、ララシラソラ、ドドレミソソ、ラソミミレ)、そして「gratias agimus tibi」。ミサ曲のグローリアの一節である(どうせなら馬名を「グラツィアス」にしてほしかった)。であるからこの馬の馬券を買わない手はない。馬連が当たってサイゼリヤ2回分くらいの儲けが出た。そのサイゼリヤの社長が吠えた。「ランチにも行くな」というお上の発言に対して「ふざけるな」とかみついたのである。気持ちはよく分かる。当局の時短要請に素直に応じて、かつもともと広い店舗なのに加えて全席高い間仕切りを設けた。で、ランチに活路を見いだそうとした最中の大臣の発言だったからだ。真正面から休業要請をして補償金を払うのだったらまだ分かる。しかし、店には8時まで営業していいからね、おたく大手だから補償金はがまんしてね、で、頭越しに「ランチに行くな」は「死ね」と言っているのと同様である。まあ、サイゼリヤは財務が超安定しているから(借金は極めて少なく、ほとんどが自己資本である)、「死ぬ」ことはないだろうが、他の飲食店は大手も含めて(つうか大手ほど)死活問題である。サイゼリヤを応援してランチに行く人が増えたというから皮肉なものだ。ミサ曲の話に戻る。「gratias agimus tibi」で真っ先に思い出すのはミ○○○。テナー・ソロがこの曲を歌い出す直前のクラリネットのソロが超おいしい。曲名を伏せ字にしたのは、自粛警察になんか言われたからではない。言われてめげるような覚悟ではやっていない。それに、なんか言ってきた人はいないし、逆に、今回参加せず、かつ、長いことお会いしてなかった方々からねぎらいの言葉をいただいた。見守ってくれてたんだな、と思えてうれしい。伏せ字にしたのは、私にとってこの曲が永久欠番になったからだ(因みに、王も長島も現役時代の背番号(1と3)が永久欠番になった後、時をおいて別の背番号で復活している)。今回、そのクラリネットのソロをまあまあ上手に吹けた。私は、歌は女声男声を問わずに歌うし、楽器も、あれもこれもという感じで手を出しているが(こっそりOも練習してるし、Mさんがおニューの電子ピアノを前に喜んでる様子を見て、私もキッチンにたてかけてある電子ピアノを引っ張り出したくなった)、こと音色ということで言えば自分のクラリネットの音が大好きである。これ一本にしぼって稽古に励めばもう少しいっちょ前になる気もする。思案のしどころである(地元の吹奏楽団を見学したのもそういう気持ちの表れだ)。思案のしどころは他にもある。アルベリヒになって愛を断念するんだったらお金はいらない。「独房」で寝てればよい。だったら仕事をやめるか(登録の抹消方法をググってみたが出てこない。やめる人はあまりいないらしい)。そして、パパゲーノのように「恋人か女房があればよい」と言い続けるか、それとも本当にアルベリヒになるか、これこそが思案のしどころである。因みに、愛を諦めて権力を手にいれたアルベリヒが神々の長ヴォータンの謀略で指輪(権力の象徴)を奪われた後、還俗(?)して人間の女との間に子供をもうけた。これが、剛勇の士ハーゲンである。アルベリヒは人間の女と契るに際し、体格のいい女性を選んだとみえる。アルベリヒはドワーフなのに子のハーゲンは雲をつかむような大男だからだ(大男と決まってるわけではないが、バイロイトに出てくるハーゲンはみんなそう。だから、言って申し訳ないが、日本人歌手のハーゲンはどんなに歌がうまくてもハーゲンには見えない)。これぞ配合の妙(競馬的)。クライバー父子もそうである。父エーリヒは小男だったが、息子のカルロスは高身長の二枚目。さんざ奥さんを泣かせたという。だがいいことばかりが遺伝するわけではない。アルベリヒは水中でも動き回れたが(だからラインの黄金を強奪できた)、この点は子ハーゲンには遺伝しなかったようで、オペラのラストではラインの乙女に川底にひきずりこまれて溺死した。だいぶ長文になった。いろいろ思案のしどころと書いたが、こういう状況でものを考えてもろくなことを思いつかない。下手な考え休むに如かずであるから「独房」でしばらく冬眠することにする。だから、ブログもしばらくお休みである(と言ってもせいぜい2,3日である)。そのため、今書きたいことは全部書いた。それではみなさま、Gratias! そして Auf Wiedersehen!

同伴警察

2021-01-19 10:42:44 | 日記
最近食べているインスタントラーメンのスープは鰹の香りがする。成分表を見るとたしかに鰹節が入っていた。嗅覚は正常である。これもコロナ・チェックの一つである。なにしろ、愛を断念したアルベリヒ飯島としては、残された「欲」は食欲と睡眠欲のみ。コロナは軽症で済んだとしても味覚・嗅覚の異常がずっと続く後遺症の可能性があるという。そうなったら食欲も害されて、残るは睡眠欲のみ。そうでなくても、最近、寝てばかりである(ふて寝である)。コロナと言えば「自粛警察」。だが、私は別の警察の話をしよう。「同伴警察」である。そんな言葉初めて聴いた?当然だ。この言葉は私が編み出した言葉で口外するのは今が初めてである。この警察は、一種の詐欺の取り締まりが専門である。その詐欺とは、ホントは同伴でありながら、さも独りで飲食している風の写真をSNSにアップするものだ。これは社会に対する重罪である。ここに所属する刑事(同伴デカ)は、どこでその詐欺を見破るか。かつては、対面に人影が映っている、テーブルのあっちの方に取り皿とお箸がある等、現場は証拠にあふれていた。しかし、今では犯人も巧妙になった。そうした明白な物(ブツ)はまずないと見て良い。では、同伴デカはなにを見るのか。彼が見るのは、「人影」ではなく、光線が作る影、すなわち、真の意味での人の影、ピーターパンが持っていない影である。だいたい共犯者は対面で体を小さくしているからその体が写り込むことはない。しかし、その影が空席に写ることはある。同伴デカはそこを見逃さないのだ。こうして摘発に成功した後、取り調べで明かされるのは動機である。そのほとんどは不倫がバレたくないため。だが、独り者同士の場合もある。その場合は、社会に独り者と思われてもてたいとか、恋愛なんか興味ないフリをしていてホントは色情狂なのがバレたくないとかいろいろである。ところで、同伴警察の捜査対象には、上記と逆のパターンの詐欺もある。ホントは独りなのに同伴と思わせるパターンである。私は今、このタイプの容疑者側に回るための知恵を絞っている。どうやって偽装しようか。例えば、ヴァイオリンの弓をカメラのアングル外に置いておくと、一本か二本切れた毛が風に吹かれて画面に写り込む。それが女性の髪の毛に見えるかもしれない。この場合の動機は、ホントは全然もてないのにもてると思われたいとか、あるいは、しつこく迫ってくる異性に断念させるため同伴を偽装するとかいろいろあるだろうが、私の場合は当然前者である。因みに、しつこい求愛者を諦めさせるための方便として昔推奨されたのは、遠洋航路の船に乗り込むことであったが、グローバル化が進んだ今は有効な方法ではなくなったようだ(世界中どこでもWifiで捕まってしまう)。偽装方法の話に戻る。日本エレキテル連合の「未亡人朱美ちゃん」を飲食店に持ち込む方法も考えた。だが、店に入るときかさばるし、何より、真摯に受難曲を歌う私のお友達の多くは「未亡人朱美ちゃん」を知らないだろうから(知ったら眉をひそめるだろうから)、却下した次第である(だが、結局書いている)。

愚痴

2021-01-18 14:05:22 | 日記

これは、その人の外面と内面を動物に例えるというFBで流行っているアプリの結果である。このパターン、つまり外面はネコ科の猛獣で内面は可愛い猫ちゃんというパターンはI美女も同じだったからみんなそうかと思ったらそうでもない。犬の人もいるし、外面が可愛くて内面が猛獣のパターンもあるから一応人を見て判断しているようだ。いずれにしても、私は、いずれも猫(科)で良かった。猫好きをアピールしているのに犬だったら看板に偽りありである。そう言われてみれば、私は、外面的にはぐいぐいいくタイプに見られるのかもしれない。いろんなイベントの人集めの過程で「圧しが強い」と言われたことがある。自分的には大層意外だったがたしかに「なんとかしなきゃ」と必死になる際に圧しが強くなるのかもしれない。おかげで、いろんなイベントには人が来て下さる。金儲けでもこのくらい人集めができれば左うちわだと思うが、金儲けでないから人が来るのかもしれない。内面が軟弱なのはこれは大当たりである。だが、「可愛い猫ちゃん」も、それは人間から見た場合の話であり、ネズミやGやカマキリから見れば、われわれがライオンや虎を見るのと同じだろう。そう、人間も、えてして、自分より弱い者に対しては傲慢。それでウサを晴らすのだ。ところが、私は、誰に対しても弱い。私より弱い人など見たことがない。誰も彼も私に対してだけは居丈高になる。イージマさんはいじめられるのが好きなのよとか言って一層いじめてくる。だから、私が当たる相手はいない。ウチの猫だって、下手に当たろうものなら半日口をきいてくれなくなるから当たれない。テーブルをはいずる芋虫ですら私より偉そうである。すなわち、私の位置は階層の一番下なのだ。しかし、私には一つ、ウサを晴らす有効な手段がある。ブログである。アサイチで言っていた。面白くないことをうやむやのままに脳の奥にためこむのはうつ病の元。それを、言葉にして(明確にして)外に発する=愚痴を言うのは心の健康に良いことなのだそうだ。私のブログはまさにそれである。もやもやした気分を文章に構成して発表する。さらに、私のブログは、元の材料はほぼ悲しい話、つらい話なのに、読者の多くは「ウケルネ」を押して下さる。すると、なんだか私も楽しくなる。愚痴が笑いになるのは愚痴の効用の最たるものだという。よーし、じゃあ、もう一つ愚痴るぞ。M美女は「イージマさんは(今はちっとも可愛くないけど(これは私が勝手に付けた注釈))、大人の包容力があって素敵」と言ってくれた。でも、私は、そう言われるよりは、「イージマさんはいい大人のくせにホントに人間ができてないけど、抱かれてみたい」と言われた方が千倍嬉しい。これすなわち、ウケルネを狙った愚痴である。ここで間違っても「寂しいね」を押してはいけない。

恋文大作戦でノックダウン

2021-01-17 09:47:01 | 音楽
熱はないし味覚も嗅覚もあるから(2,3日風呂に入らないとしっかり臭う)コロナではない。だが気分がすぐれない。しかし、♪When I find myself in times of trouble,Mother Mary comes to me……である(ビートルズの「Let it be」)。実は、昨夜から私のマリア様に恋文大作戦を開始した。オペラからとった愛のメッセージを一句ずつ送りつける、というものである。これを1003日しようと思う……まてよ、「1003」というのはドン・ジョヴァンニがスペインでいたした回数であって(mille e tre!)その回数に倣うのは不適切。お話の数と言えば千夜一夜であった。だから1001日しようと思う。で、栄えある第1回に選んだ句は「Sei mia!」。ボエームで、ロドルフォがミミに言う台詞である。ただし、「sei」は二人称の通常のBe動詞。「(君は)ボクのもの」と断言している。いきなりこんなことを言っちゃうと、いつあたしがあなたのものになったの?ねぇ、いつなの?ねぇ、ねぇ、と糾弾されそうで怖い(「饅頭怖い」は落語のネタ)。イタリア人の男は自信家なのだね。第1回がイタリア語だったから、第2回の今日送りつける予定にしているものはドイツ語である。「Sei mein!」。ジークフリートがブリュンヒルデに言う台詞。初回と似ているが(seiの綴りはまったく同じである)、あっちは「セイ・ミーア」であるのに対し、こっちは「ザイ・マイン」。意味も似てるが、こちらは「ボクのものになって!」という懇願である。イタリア語、ドイツ語と来たから、明日の第3回は英語にしよう(なにしろ1001回送らなければいけないのだから、いまのうちに在庫を増やしておく必要がある)。しかし、英語のオペラはあまり知らない。しかも、前回のものと連想ゲーム式につながっていなければいけない。1001回どころか2回で終わってしまう。仕方が無い。ビートルズを入れよう。「I wanna hold your hand!」。これはちゃんと初回のボエームにつながっている。すなわち、「Sei mia!」のちょっと前、「冷たい手」の直前、ロドルフォは暗闇で鍵を探すフリをしてミミの手を握る。まさに「I wanna hold your hand!」である(なお、この曲の邦題は「抱きしめたい」である。意味がかなり違っちゃってる)。因みに、私はよく「独りボエームごっこ」をやる。口三味線で「冷たい手」の伴奏を歌いながら、右手で左手をさわって「はっ」と言うのである。伊独英と来た。日本人なのだから日本語の在庫も入れよう。だが、オペラだと、つうが「よひょう、よひょう、どうしてなのー、どうしてなのー」と嘆くところくらいしか思いつかない。こうなったらドラマにも範囲を広げて「すいとう」を入れよう。「水筒」でも「水稲」でも「出納」でもない。九州出身の周防さん(綾野剛)が尾野真千子の糸子に「好いとう」というアレである。私が「カーネーション」の中で一番嫌いなシーンである。おおっ、こうして探していると結構出てくるものだ(こういう作業は、ボケ防止にも役立つという)。例えば、「仮面舞踏会」の「マーミ」という台詞。マミさんをくどいているわけではない(私の知人でマミさんは二人いらっしゃる)。「M'ami」(君はボクは愛してくれてる)である(イタリア人に言ったら「それは間違っている。正しくは『Mi ami』だ」と言っていた)。そして、「ヴァルキューレ」にもいい台詞がある。「Du bist mein Lenz!」(君は僕にとっての春)。この台詞の後、男は女に対して、「den Namen nehm' ich von dir!」(僕の名前は君につけてもらう)と言い、こうして男はジークムントになり、女はジークリンデになるのである。さあ、これも言ってみようか。すると「名前?あなたはイージマさんに決まってるんじゃん。なに言ってんのよ」と一蹴されてしまった(想像)。ここからはマイナス思考のスパイラル。「フィデリオ」のヤキーノの「Wann wirst du das Jawort mir geben?」(いつ「うん」と言ってくれるんだい?)に対するマルツェリーネの答えが「Jetzt, morgen und immer, nein!」(今日も、明日も、そしていつも「ノー」よ)。そ、そんな殺生な。しかもこの「nein!」をマルツェリーネは13回繰り返す(スコアで数えた。台本では一回なのにベートーヴェンが13回も繰り返したのである。ベートーヴェンにも苦難の過去があったのだな)。ノックダウンしてる相手にパンチを浴びせるようなもので反則である。そして、この妄想の果てに私もヤキーノと同様ノックダウンして起き上がれない状態。やらなきゃよかったこんなこと。しばらくどこにも行きません……

さようなら

2021-01-16 09:46:30 | 音楽
というわけで、昨日の二つの記事ですっかり元気になってもはや鬱ではないのだが、せっかく鬱をネタにした記事を予定したので今日はその話。すなわち、(気分を変えて)私は鬱である。原因はコロナ禍ではない。こないだコード名「スターウォーズ」で開催したイベントである。直後はクラリネットを上手く吹けたこともありごきげんだったが後に私に鬱をもたらした。われながら始末に負えないのは、一つやなことがあると全部やめたくなることである。かつて、そんな感じで全部やめたことがある。しかし、さすがにカンレキを越えてほんのちょびっとだけ人間が進歩したからここで全部やめたら後悔することが分かっている。だからやめない。しかし、この抑うつとした気分をどうにかして晴らしたい。そうだ!生前葬というものがある。死んでないのに死んだものとして挙げる葬式である。いやなことをみんな持って行ってくれるという。同じ手を使おう。やめてないのにやめたとして、この誌上のみで手続をするのである。そう言えば、高校の吹奏楽時代に指揮者に文句のあるT井くんとY本くんは、しょっちゅう「今日こそは練習中にトランペットをなげつけてやめてやる」と意気込んでいて、私は、その現場を見たくて早くトランペットを投げないかな、と期待して見ていたが、投げたことはなかった。その手法を借りよう。早速実践。まずはA合唱団。ここはメール。指揮者と数名の団員に「やめます」と送る。いただいた楽譜はレターパックライトで送り返す(具体的)。S団。ここはライン。文章はもう少し凝ったものにしよう。「人生の先輩であらせられます皆様とご一緒できたことは私にとってかけがえのない財産です」。そして某会。みんなに相談してもらって次の連絡係を決めてもらったら個々の承諾を得てメアドを新しい連絡係に移行する。それではいさよならである。問題の通唱会は?あれは期限があるわけではないから、やると言わなければやらない。だから「やめます」と言う必要はない。さあ、ここからが今日のメインテーマだ。メール等を締めくくる一言、「さようなら」の書き方である。いずれ戻りたくなるわけだから、永久の別れの挨拶になってしまってはいけない。だから「Leben Sie wohl!」「Leb wohl!」(お元気でお暮らしやす!)は厳禁。例えば、「ヴァルキューレ」でヴォータンがブリュンヒルデに「Leb wohl! Leb wohl! Leb wohl!」と哀切を込めて歌うシーン。あれは一生の別れを覚悟しているからああいう表現になる。良いのは「Auf Wiedersehen!」。これは「また会いましょう」だから次がある。中国語の「再見」(サイチェン)と同じである(中国語で知ってるのはこれと「ニーハオ」だけ。われながら、かたことの知識でよくこんだけ文章が書けると感心する)。つうか、ホントにこうしたメール等を送るわけではないんだから(誌上の空論に過ぎないのだから)、そうした気遣いをする必要はそもそもないのであるが。むっ。ちょっと、書いたことが通らない話を思いついてしまった。ベートーヴェンのピアノソナタ第26番の冒頭の三つの音には「Le-be wohl」が割り振られている。だからこの曲は「告別ソナタ」と呼ばれているのだが、この曲の第3楽章の副題は「Das Wiedersehen」(再会)。「Lebe wohl」と言っておいて思いっきり再会している。いやいや理屈はつくぞ。私はやめても(だからやめないんだって)すぐ戻りたい。しかし、「Leb wohl」と言っちゃうと、すぐには戻れない(同ソナタの第2楽章は「不在」である)。ほら、だからやっぱり「Auf wiedersehen」がよいのである。今日の話はここまで。鬱なんだかふざけてんだか分からない話になった。いつものことである。因みに、文中に登場した高校時代の友人であるが、あんなことを言うくらいだから人間のできてなさ加減は私とどっこいであるが、ともに教員になった。彼らに教わった生徒諸氏に心より哀悼の念を送る。

H美女が私の妻!(老人ホームの詐欺)

2021-01-15 20:33:34 | 音楽
本日の投稿緊急第2弾。第1弾でアサイチが紹介してた人魚が出てくる映画のことを書いた。実はアサイチではもう一つ映画を紹介していて、それは、大昔に付き合ったことのある元女優が今認知症にかかっていることを知った映画評論家が自ら認知症のふりをしてその元女優の入っている施設に入り、昔の思い出話をしたりして元女優の記憶の復活に努めるという物語である。その映画についてH美女(「美女」は「さん」と同様の敬称である。「容疑者」と用法は同じである)がコメントを下さって、H美女がそうした施設に入ったら誰か来て下さるかしらとおっしゃるから、すかさず私は映画の男と同じように認知症のふりをして同じ施設に入ります、と申し上げた。すると、M美女やK美女が「あたしも入る」と後に続き、そこでバッハやシュッツを歌いましょ、という話になって大層希望のもてる明るい未来が約束された感じがして、実は、明日の予定記事のお題は「鬱」なのであが、そのお題に支障が出てしまうのではなかろうかと思うくらい元気が出たのである。さあ、そこで、である。映画では映画評論家と元女優は付き合っていたから、男が話す「昔話」は付き合っていたときの話。だが、私はH美女とは付き合ったことがない。何を話したらいいのだろう?と考えたら結構あった。初めて麹味噌合唱団のマタイで練習したとき隣同士になって、なんて上手な人がいるんだろうと思ってもっぱらH美女とハモることばかり考えていた初デート(?)の話。それから、コロナ禍で練習が中止になる直前、お互いにあおりにあおりあってスピード違反を繰り返したブラレク。ぼけてるんだったらこの二つで十分である。次回は忘れてるんだから十分話題として成り立つ。さらにすごいこと、大変非倫理的なことを思いついてしまった。H美女がボケているという設定である。すると、私は、純子さん、ボクは君の夫だよ、と言ったら信じてしまうのではないだろうか。すると、私はなんとH美女の夫である!これは夢のような話である。いや、文章だからここまで書いているが、実際、私は意気地無しだ。H美女とは当分お会いする予定がないから書いている。実際、麹味噌合唱団の練習でハモりましょ、と言ってH美女が私の真隣に来られたときは、私は緊張のあまり音をはずした。

愛の断念

2021-01-15 12:12:17 | 音楽
先履行義務を果たした私に対して二人の美女sが契約上の義務を完遂、昔の写真を投稿してくれた。pacta sunt servanda(契約は守らなければならない)。これにより、美女はいつの時代にあっても美女であることの証明がなされた。それだけではない。契約上の義務を負わないあまたの美女・美男が我先にと昔の写真を投稿。後半はツーショット写真のオンパレード。のろけ大会の様相を呈してきた。惜しむらくは、投稿がFBになされたため、私の読者のうちFBをやっていない方々の目の保養がかなわないということである。特にA合唱団のお姉様方は美女が大好物。私が方々で知り合った美女sをA合唱団に連れ来るのはお姉様方に見せびらかして喜んでいただきたいからである。だがお姉様方はそろってFBをやってない(今度私のスマホでお見せします)。ところで、ご自分の写真を投稿しなかった某美女が私の「青年時代の写真」をご覧になり「守ってあげたくなる(タイプ)」とおっしゃった。あらま。今守って下さってもよいのですよ♥ あのときの風貌でないとダメ?たしかに鏡でみる現在の風貌はおよそ写真のそれとは似ていない。だが、同じ人物である。どこかに面影が残っているかも、と鏡を見ながら口をひんまげてみたり薄目を開けたりしたが一向に似てこない。当該美女に今守ってもらうのは無理のようだ。そう言えば、今朝アサイチに出ていた吉田鋼太郎さんの学生時代の写真もまったく別人28号であった。そのアサイチで、気になる映画を紹介していた。男が人魚を救助。その人魚が男に向かって歌を歌う。おおっ、セイレーンだよ(歌を歌って航海中の船乗りの心を悩まして遭難させる人魚)、と思ったらその通り、人魚は歌を歌って男を殺そうとしたのだ。ところが男はピンピンしている。過去の恋愛の痛手から恋をするのをやめた、だから人魚の歌にもときめかない、というのだ。なるほど!いろいろ傷つくのはスケベ心があるからである。坊さんが煩悩を断ちきろうとするのはそのためだ。かのアルベリヒが、ラインの乙女から強奪したラインの黄金によって権力を得たのも愛を断念したからである。よしっ、私もアルベリヒになろう……とこれまで何度宣言したことか。アルベリヒになるのはなかなか大変である。前記の映画でも、男はだんだん人魚の歌によって胸が痛くなる。コロナではない。恋が芽生えたのである。件のアルベリヒだって、後に人間の女との間に子をもうけている。「愛の断念」は期限付きでもよいようだ。因みに、アルベリヒと人間の女との間に生まれたのが剛勇の士・ハーゲンである。