拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

数字には原因あり。正しく恐れたいものである。

2020-06-30 21:06:35 | 日記
トルコのベリーダンサーが、お金を貯めて、海辺に家を買って、そこで静かに暮らしたい、と言っている(テレビの紀行番組)。私もそういうのに憧れるが、でも、ずーっと静かで満足できるだろうか。やはり、定期的に人と楽器なり歌なりのセッションをしたくなると思う(個人的感想)。コロナで家にこもってるといっそうそう思う。そのコロナだが、東京では日々の新規感染者が50人で高止まり。でも、数字には原因がある。むやみにおそれるのではなく正しくおそれ、対策をとったうえでやれることはやりたい。数字には原因があると言った。例えば、ドイツで新規感染者数が増えてるのはある精肉工場での集団感染が原因。日本とドイツは遠い。ドイツでは日本のことなどほとんど報道しないし日本も同じ。ようやく、この集団感染のニュースが日本でも流れたが、その原因にまで触れてる日本のメディアは見かけない。私は毎日ドイツのニュースを見ているので、原因を聞いている。それはこういうことである。ドイツの食肉工場の主力は東ヨーロッパからの出稼ぎ労働者である。彼らは、(日本でいうところの)たこ部屋に押し込まれ、劣悪な環境で暮らしている。そこでコロナの集団感染が起こったというのだ。そういう犠牲のうえに立っているのがスーパーの安売合戦。今回のコロナの集団感染で、「安けりゃよい」という社会の風潮が見直されそうである(このあたり、「安い」が大好きの私も相当に耳が痛い)。加えて、出稼ぎ労働者はドイツ語が分からない人がほとんだそうで、だから、コロナ騒ぎも正しく伝わっていなくて、それで感染が拡大した面もあるという。そう言えば、全世界で見ればビジネスの共通語は英語だが、ヨーロッパに限っていえば、仕事でものをいうのはドイツ語、だからドイツ語を勉強する人が多いと聞いたことがある。因みに、フライブルクのドイツ語学校に行ってたとき、地元の人とのふれあいの場みたいな催しがあって、地元のドイツ人のおじさんが私に「ドイツで働かないか」というから「歳が歳だから無理だ」というと、「歳なんか関係ない。因みにお前はいくつだ?」と聞くから「39」と答えると(そういう時代があった)、関係ないと言ってたおじさんが二の句を継がなかった。あのときは、やっぱ39は歳なんだと思ったが、今の私からみるとまだ胎児である。話をコロナに戻す。ドイツは、だから数字が増えたと言ってもそういう目に見えた理由があるから。それから、世界で2番目にコロナが席巻しているブラジルは、大統領って人が、当初「コロナ蔓延の話はデマ」と言ってて、自身もマスクは絶対しない。その結果である。ところで、なんだかんだ言っても日本の感染者数等の数字は欧米と比べると桁違いに小さい。最近、多くの人がテツandトモじゃないが「なんでだろう~」と言っている。「ファクターX」の正体を探る動きもあるという。アジア人の人種的特徴からか?因みにインドの数字は相当高い。同じアジアなのに……しかし、インド人は、実は、インド・ヨーロッパ語族で人種的には欧米人と一緒である。あと、手洗い等の日頃からの生活習慣の違いを理由にあげる人がいる。そう言えば、ドイツ人以外の欧米人はドイツ人のことを「二言目にはsauber(清潔)を口にする人達」だと言っている。そのせいか、他の欧米の国と比べると相当コロナの数字は低いが日本と比べると一桁多い。たしかに、「sauber」と言ってるわりには日本人ほどにはsauberじゃないな、と思ったことがある。日本の手洗い文化は相当に特殊だと思う(それが良かった?)。

カラスはミニトマトがお嫌い?

2020-06-29 11:33:27 | 日記

仲の悪い姉妹が珍しく近距離で佇んでいる。もともとヴォランティアさんに「保護」された猫たちだから正確な生年月日は分からないが、もう11歳にはなっているはず。すると猫生も折り返し地点である。そう、少なくとも20歳以上はがんばってもらうつもりだ。人間だって、信長の時代は「人生50年」だったが、今では、60代は青春まっただ中である(回りの60代の話)。ところで、ニャン達はベランダをながめているようだが、ベランダにはときどき鳥の訪問者が来る。

数日前に来たこの鳥がなんという鳥だか皆目分からない。もともと鳥について詳しくないうえにシルエットである。雀でないことは分かる(もっと大きい)。こうしたベランダの訪問者はときどき「落とし物」をしていく。それに未消化の種が含まれてるのを見ると、そうか、こうやって鳥が種を運んで植物は生存域を広げてるんだな、と分かる。この鳥の正体は不明のままだが、今朝来た鳥の正体は明らかだ。

神々の長ヴォータンの肩に止まっている「Rabe」である(もちろん、今朝の訪問者は別の個体である)。今日の午前中はいつにましてカーカーうるさくて仕事にならない。だからブログを書いているわけである(時間を無駄にしない)。で、朝来たRabeくんが去った後にベランダに出たら、手すりが汚れている。あっ、やられた、落とし物だ、と思ったらさにあらず。ベランダのミニトマトの食べ残しであった。全部食べなかったってことは味がお気に召さなかったのだろうか。たしかに、相当酸味が強く、触ると匂いがしばらく手に残るくらい強烈。その分、栄養がありそうである。そして、なかなかの豊作である。

昨晩のピザも、トッピングは自家製ミニトマトだった。

因みに、カラスは黒いが、昨日の宝塚記念で勝ったクロノジェネシスも黒い。しかし、クロノジェネシスは葦毛の馬だからじきに白くなるはずである(かつての名馬、メジロマックイーンも最初は黒かった)。

生ファンファーレは久々/ヨハンとハンス

2020-06-28 19:16:31 | 音楽
今日の宝塚記念、依然として無観客であったが、ホントに久しぶりにファンファーレが生演奏だった。ファンファーレといえば管楽器。これまで管楽器は不当に飛沫が飛ぶと思われていた。管の先っぽから空気が飛び出るイメージなのだろう。しかし、吹いている方の感覚では全然そんなことはない。実際、実証実験でも飛沫が飛ばないことが証明されている。そうした証明等によって、例えば某区では、施設の貸し出しにおいて、ついこないだは、歌はマスクをすればいいが管楽器はだめと言っていたのが最近は逆転、管楽器は演奏中はマスクをはずしてもいいが歌は従来通りマスクをしろに変わった。因みに、今日の宝塚記念はファンファーレには感動したが馬券ははずした。私は女好きだから牝馬二頭を入れて、それからオペラファンだからオペラがらみの馬二頭(ヴァルディとヴァーグナーに因んだ馬。つまりスティッフェリオとワグネリアン)を入れて、それに一番人気の馬を加えた5頭の3連複のボックスを買って、そのうちの一頭(牝馬)がぶっちぎって優勝したが、オペラ勢が全滅だった。まったくもって困る。オペラがらみの名前を付けるんだったら強い馬にしてもらわないと。こっちは義理でも買わなきゃならないんだから。因みに、馬名のせいでやはり義理でも買わなきゃという強迫観念にとらわれていたショウナンバッハは、忘れた頃3着に入ってくるからなおさら買わずにいられなかったが、最近引退した。ご苦労様でした。今後、バッハがらみでどんな馬名が登場するだろう。9文字までだから、「ヨハンセバスチャンバッハ」はNG。「ヨハンバッハ」ではJSバッハのほかバッハ一族の多くが該当するからだめ。「セバスチャンバッハ」ならちょうど9文字である。その他、「ジェイエスバッハ」も字数はOKだが英語とちゃんぽんだと言っていちゃもんを付ける人がいるかもしれない。だからといって「ヨットエスバッハ」だとセーリングのヨットと勘違いされそうだ。因みに、「ヨハン」はもともとは「ヨハネス」である。そして、「ハンス」もまた「ヨハネス」の省略形である。だから「ヨハン」と「ハンス」はもとは同じ名前だったわけだが、今ではそれぞれ独立したお名前としてその地位を確立している。と言っても元が同じだからこの二つを合わせたお名前はないだろう。と思いながら「Hans Johann」「Johann Hans」でググってみた。すると、hans-Johannさんがヒットした。あるものである。日本なら一郎太郎さんってところだ。まてよ、するとヨハネス・ブーラムスはハンス・ブラームスでもあるわけだが、なんだか雰囲気が違いますなー。

ゲーテのファウストには大五郎は出てこないが三太郎は出てくる件

2020-06-27 21:00:05 | 言葉

ゲーテの「ファウスト」を原書(ドイツ語)で読もうと奮闘したことは大リーグボール養成ギブスであった。はずした途端(日本語訳で読み始めた途端)、すいすい進んで一週間で読了した。しかし、森鴎外の訳は、これはこれで相当難儀した。まず、外来語の表記が現代と全然違う。例えば「チェウス」ってぇのが出てくる。文脈から「全能の神ゼウス」のことだと合点がいったが、いったい何語で読めば「チェウス」になるんだ?ドイツ語では「Zeus」は「ツォイス」である。森鴎外って、ドイツに留学した人だ。ドイツ人の彼女もできた。そういう人がなぜ「チェウス」なのだろう(だからいつも言ってる。ドイツ語の歌詞をどう発音するかについて、ドイツに長くいたって人が当てになるとは限らない)。これに比べれば、漱石が「ベートーヴェン」のことを「ベトヴェン」と表記してる方がよっぽど分かる。それでも、まだ「チェウス」は「ゼウス」だなと想像がつく。困るのは日本語である。例えば、アップした写真の文字。「チャン」とふりがなが振ってある。「チャン」って何だ?真っ先に浮かぶのは「大五郎」「ちゃん!」の「チャン」。そう言えば、漢字にも「父」と「児」が入ってるからいっそうそれっぽい。しかし、「チャンと硫黄」という文脈からは「おとうちゃん」を意味する「ちゃん」とは思えない。原文は「Pech」である。Pechって言ったら「Ich habe Pech」(私は不運だった)の「Pech」、つまり「不運」。硫黄と何のつながりがあるんだ?まったく分からな……かったのだが、最近、判明した。これはアスファルトのような物質のことだった。ドイツ語辞典にも「ピッチ」という訳が載っていて、「ピッチ」=「アスファルト(みたいなヤツ)」=「チャン」ということが分かって疑問が解けた。最初から「ピッチ」について調べてみれば早期に解決したのかも知れなかったが、私の頭が「Pech=不運」で占められていたから気が回らなかった。言われてみれば「Pech」と「pitch」は似ている。でも、あの漢字二文字からはいまだにぴんとこない。もう一つ訳が分からなかったのが「三太郎」。「アダムの昔から三太郎はバカにされてきた」というくだりがある。この「三太郎」て何だ。今、「三太郎」で思いつくのはAUのCMに出てくる金太郎、桃太郎、浦島太郎である。その三太郎でないことは容易に分かるが、じゃあ、なんだ。「三太郎」は原文では「Hansen」。「ハンス」(人名)の(あまり用いられない)複数形である。これもしばらく奮闘した結果判明。「三太郎」には「バカ」の意味があるという。「ハンス」にも、「ありふれた名前」=「平凡な人」という意味があるという。つまり私のような輩のことであった。なるほどね。勉強になった……が、考えてもごらん、高尚なんだろうな、って思わせる文書を読んでていきなり「ちゃん」だよ。それから「三太郎」だよ。フェイント感がはんぱでない。それでも、森鴎外の訳はいまだに名訳なのだそうだ。原文で韻を踏んでいるところをきちんと韻を踏んでいるからだそうだ。でもなー、日本語で無理矢理韻を踏んでる言葉を探して使ってるんだから原作とは別の作品のような気もする。だもんで、最近の訳には、韻を無視して、とにかく分かりやすい訳をめざしたものがある。そういう訳なら、私も作ってみたいな(できるものなら)。後から思ったのだが、あのチャンと読ませる漢字はたしかに大五郎のチャンのことで、アスファルトと読みが同じなので当て字として使われた‥ってことはないだろうか。

アントニエッタ・ステッラの太ももと笑い声(西部の娘)

2020-06-26 21:58:51 | 音楽

今週のコロンボの吹き替えの声は変だった。疲れていた、というかかすれていた。コロンボは吹き替えの小池朝雄の声が命である。昨日一昨日の私のブログのコロンボの台詞も、例の吹き替えの声をイメージして書いたものである。奇妙なのは、ところどころ、いつもの潤いのある声になっていたこと。おそらく、あまりに声が出なかった箇所について後から録り直したのだろう。都合良く、というか、最後のコロンボの台詞は「わたし、今日、声の調子がよくないんで」。そのままでしたね。ということで本題。今夜、「西部の女」にとりつかれた話を書こう。一日家にいては気が滅入るので夜外食に出る。珍しくサ○○○ヤではなく「某の丘」に行ったのだが、ワインのグラスの量の少なさにびっくり。これは私が何口か飲んだ残りではない。この状態で出てきたのだ。私の中のこの店の評価はだだ下がり。ただ、店内のBGMが椿姫だったのは良かった(サ……は、いっつも同じポップスで聞き飽きた)。ヴェルディの椿姫とはイタリアオペラつながりでしかないが、帰り道、妙に、プッチーニの「西部の娘」が頭の中で鳴っていた。このオペラ、有名なテナーのアリアが第3幕にあるのだが、その後が、もっぱらミニー(ヒロイン)のお涙ちょうだいシーンでちょっとたるい。それよりも、迫力があるのが第2幕。愛人の命を救うため、保安官とカードの勝負に意挑むミニーは、カードを自分のストッキングに隠していかさまをする。このシーンで印象的だったのは、NHKイタリアオペラの第何回だかのアントニエッタ・ステッラ(私もリアルタイムでは見てない。その後、再放送を見てどぎもを抜かれた。私がリアルタイムで見たのは1971年のパヴァロッティのリゴレットの年からである)。カードを隠すときにスカートをめくる。そのときステッラの太ももがあらわになる。ただの太ももではない。大歌手ステッラの太ももである。ここで鼻血どぴゅー。そしていかさまに勝った後のステッラの笑い声。あのドラマティックなソプラノは、こういう地声から発せられるのか。もう、まいりましたというほかのない太ももと笑い声であった。因みに、ステッラは、第1回のNHKイタリアオペラでアイーダを歌いに来日していて、そのときのアムネリスはジュリエッタ・シミオナート!!! もちろんこれだってリアルタイムで見てるはずはない(私の生まれる前の年である)。後年映像を見たのだが、モノクロで音質は最悪。それでもため息が出るようなすさまじい二重唱である。そして、第2幕のがい旋の場のエンディング。楽譜ではアイーダとアムネリスの二人で高いB♭を伸ばす。だが、多くの場合、あっちが歌ってるからいいやって感じでどっちかがさぼる。例えば、ヴェローナの野外劇場では、アムネリスのフィオレンツァ・コッソットが猛烈にがんばってややフラットながらこの音をむきになって伸ばすそばで(コッソットはメゾである)、アイーダのマリア・キアーラは、あたし、つきあってらんない、と言わんばかりに歌をさぼってる。ところが、件のステッラとシミオナートはまさに横綱同士のがちんこ勝負。一歩も譲らずに二人してはりあげるもんだから、当時のマイクでは拾いきれなかったらしくワンワンワンワンのハウリングの嵐である。昔はこういうすさまじい演奏があった。他にも第2回(私が生まれた翌年)のオテロ。オテロのデル・モナコとイァーゴのティト・ゴッビの二重唱は、ぐーの字も出ないすさまじさである。ステッラの話に戻る。あるとき、FMで大御所と若手の二人のオペラ評論家がNHKのイタリアオペラの思い出話をしていた。で、大御所が「テバルディのほかに、大歌手は来なかった」みたいなことを言ったらすかさず若手の方(故K田さん)が「いや、ステッラは大歌手ですよ」と返した。すると大御所はむっとした風で「いや、私が言ってるのは、カラス、テバルディと言った大歌手の話」と反論。私はK田さんに一票。日本でのネームヴァリューがあまりなくてもすごい歌手ってぇのはいくらでもいる。K田さんは、歌好き、声好きってぇのが話から伝わってきて信頼できる評論家だった。例えば、「グルベローヴァの名を耳にしたオペラファンは、またたびを見せられた猫と同じ」と言ったのもK田さん。うまいこと言うなぁ、と心からガッテンした私であった。

真犯人は再婚妻(CD殺人事件)

2020-06-25 10:32:35 | 音楽

前回のあらすじ。私はCDをたくさん持っている。そのCDをAに遺贈する旨の遺言書を書いたとたんに誰かに殺された。一番怪しいのは受遺者のA。コロンボ警部もとりあえずAを疑った。さあ、ここからが今日の話である。しかし、コロンボはすぐにAはシロだと思った。一番怪しい人物を犯人に決めつけるのはたいてい経験不足のおっちょこちょいである。コロンボは目を真っ赤にして泣き腫らした20代と思しき女性に目を付けた。「お嬢さん、ご愁傷様です。被害者の姪御さんかなんか?」「い、いえ。妻です」「こりゃ驚いた。おたくいったいおいくつ?いやこんなこと聞いちゃ失礼なんだけど、ごめんなさいね、刑事なんて因果な商売でね。失礼だとはじゅうじゅう承知なんだけどつい気になっちゃって」「34離れてますの。人は歳が離れすぎてると申しますけどね、あの人、マサシさん、言うことはバカだけど可愛いのよ。だから、事件の前の日に籍を入れましたの。それがこんなことになってしまって。私もうどうやって生きていったらいいか」と言っておよよと泣き崩れる。しかしコロンボの目が光った。以後、コロンボはこの20代の未亡人(以後、「B」と呼ぶ)につきまとうことになる。そう、コロンボはBに狙いを絞ったのだ。コロンボの見立てはこうだ。Bが被害者(私)に近づいたのは、やはり私のCDがねらいだった。「あったりまえよー、じゃなきゃ誰が床にこぼれたワインを四つん這いになって舐めるような変態と結婚なんかするもんですか。それなのにバッカねー、鼻の下伸ばしちゃって。そ。男はみんなバカ。その中でもとびきりのバカだったわ」(後日のBの供述)。ところが、Bは私の遺言の内容(全CDをAに遺贈する)を知った。え?それじゃ、このまま彼が死んだらCDは全部Aのもの?冗談じゃないわ。そこでBは一計を案じる。私を殺してAを犯人にでっちあげるのだ。受遺者が遺贈者を殺せば欠格となって遺贈は無効。Aに行きかけたCDは配偶者がいれば配偶者が相続する(母も共同相続人だが配偶者の方が相続分が多い)。だからBは結婚を急ぎ、犯行の前日に籍を入れたのだ……あとがきその1。妻と34歳差にしたのは、ムターとプレヴィンの歳の差が頭にあったからである。その2。今回の写真は、昨日の写真に入りきらなかったオペラとその他ボックスの一部。同い年のヴェルディとヴァーグナー(中央やや右側に上下で並んでいる)は髪の分け方が似ている。変わったところでは、右上の黄金色のボックス。往年の名演奏家による協奏曲集である。探したが見当たらないものもある。マリア・カラスのスカラ座ライブ録音全集とか。フルトヴェングラーのスカラ座のリングも。その3。今回のシリーズのAB……はイニシャルではない。単に登場順に割り振った記号である。因みに、数回前のブログに「私が弾いた『ハンマークラヴィーア・ソナタ』を懐かしがったO嬢」が登場するが、O嬢はイニシャルで言えばS嬢である。O嬢と書いたのは彼女の血液型がO型だったから。

通唱会がアリバイ!?

2020-06-24 21:48:48 | 音楽

あの狭いヨーロッパの地形の中に実に多様な民族と言語がある。それはやはり山脈だとか大河とかが各地域の独立性を担保しているからだろう。狭い我が家も同様、玄関を入るとすぐジャングル。ここを抜けるとキッチン盆地、そこから淫靡な布団山脈を越えると居間平野が広がる。ここまで来ればもう安全である(どういう意味で?)。この間、様々な生き物が生息する。人間と猫のほかいるかって?いるとも。この時期未明の3時にブーンという羽音と共にやってくる睡眠妨害な蚊。臭いが結構きつくなってきたぬか床に生息する乳酸菌。その他もろもろ。要は、気持ちが通うのは猫だけだが、その他、生命体が無尽蔵にたむろしているわけである。そうした、狭いながらも多様な地域で構成されるわが家に分散して保存されていたCDを一箇所に集めてみた。CD専用ではないため上部にできる隙間が不経済だから専用ラックを買おうかとも思ったが、隙間にCDを横積みすれば(あまり推奨される置き方ではないが)結構埋まるのではないかと思って実践してみたら、おお、オペラと声楽家のボックス以外はほぼおさまった。専用ラックを買う目が消えてもうかった気分。なお、オペラと声楽家のボックスは、これと同量くらいあって、依然として「流浪の民」である。さらに、映像付きのDVD、ブルーレイはこの何倍もある。このようにモノに執着するのはモノのない時代に育った性(さが)だ。子供の頃、満足にレコードを買えなかったものだから、大人になって大人買いしてこんなことになってしまったのだ。今やネットでなんでも聴いて見れる時代である。しかし、これらは遺しておきたい。でないと、自分の生涯が否定された気分になる。だから、この「金目のない資産」をどう後生に遺すかをそろそろ考える時期である。このまま私がおっちんだら相続人は母である。すると、私が生涯をかけてかき集めた「お宝」は、わがやにあった「キジの剥製」と同じ運命(あっさり棄てられた)をたどるのは必定である。これは、誰か(どこか)に遺贈する旨、遺言をしておかなければならぬ。で、Aに遺贈する旨の遺言書を書いたとする。すると、私は誰かに殺される。なぜ、そう思うかというと、「コロンボ」ではたいていそういうことになるからだ。したがって、ここにレインコートを着たコロンボ警部が現れる。「気の毒に、殺された方は音楽がお好きだったんですねー。うちのかみさんも音楽が大好きでね。いえ、私もなんですけどね」とか言いながらまずコロンボが疑うのは受遺者のA。私が死ねば、遺言によって膨大なコレクションが自分のものになるからだ。しかし、Aにはアリバイがある。私が殺害された時間帯、こうもり通唱会に行っていたというのだ。たしかにこうもり通唱会の受け付け名簿にはAの名前がある。そして、終わった後打ち上げにも行っている。でも、歌ってる最中にこっそり抜けて、私を殺害した後、けろっとして戻ってきたのかもしれない。「こうもり」は台詞抜きで2時間。その間に犯行に及んだかもしれないのだ。しかし、コロンボは額に手を当てて悩む。「どうにもおかしんですよねー、だってね、被害者はこうもり通唱会の主宰者なんです。だから、通唱会の間に殺すのは無理なんです」。 じゃあ、私生きてるじゃん。「そうなんです、だから不思議なんです」。

アルザス娘に貸したバス代

2020-06-23 09:42:48 | グルメ

別にオンライン飲み会だからって必要はないのに妙に張り切ってアルザスのリースリングを開け、リースリングならとソーセージとザウアークラウトを買ってきて(フタがあかなくて閉口した。ネット情報通りフタを暖めたら開いた)、ムニエルを焼いたのだが、当たり前の話、このワインおいしいね、って話にはならず、カメラの真ん前にボトルを立てておいたのに誰もふれてくれない。やはり直に会って飲むのがいい。ということで、今日のネタはアルザス。知ったのは20代に仕事でワインの勉強をしてた頃。フランスワインなのにラベルがドイツ風。リースリング(ぶどう品種)を使うところもドイツ風。アルザスは美食の街だが、ライン川を渡ってドイツに入ったとたん味が変わる、と言ったのはフランス贔屓の某ワインの大家である。だから、アルザスは独仏の国境の町だということは知っていた。そう言えば、ワインの前に世界史で「アルザス・ロレーヌ割譲」ってぇのを習っていた。戦争のたびに帰属が変わるところは国境の町ならでは。しかし、私は大きな思い間違いをしていた。アルザスは、ドイツの北西部と接していると思っていた。アルザスはフランスの北東部に位置している(これは合っている)。で、これが間違いのもとだったのだが、私は、フランスとドイツをほぼ同緯度で東西に並んでいると思っていた。だからフランスの北東部なら接しているのはドイツの北西部と思ったわけだ。しかし、実際は、フランスとドイツは、南西から北東に斜めに続いている(ついでに、スペインとフランスも南西から北東に斜めに続いている。だから、ドイツで吹く地中海風はスペインから斜めに入ってくる)。だから、フランス北東部と接しているのはドイツ南西部だったわけだ。ドイツはフランスよりはるかに北国である。そっか、だからドイツのワイン産地では補糖するんだった(すっかり忘れてる)。そんなわけだから、私はドイツの南西の端にあるフライブルクのドイツ語学校に通っていて、クラスメイトにフランス人の少女がいて、家はコルマでフライブルクのすぐ近くと聞いても、そのコルマがアルザスの街だってことに気がつかなかった。惜しいことをした。フライブルクからちょっと足を伸ばせばライン川で、渡ればアルザスだ。行けばよかった(って、その頃は金欠病で、休日は黒い森をハイキングするのが精一杯だったが)。因みに、件のアルザス娘はかなりキュートだった。だが、クラスメイトのブラジル人のイワンと恋仲になった(この「だが」という接続詞が妥当かどうかよく分からない)。学期の後半は相当べたべただった(「べたべた」と「べとべと」は大違い)。そのアルザス娘と休日のある日、フライブルク駅前でばったり会った。これからバスで家に帰るのだがバス代がないので貸してほしい。という。喜んで貸したが返ってこない。返ってこないと分かると、遡って喜んでは貸さなかったことになる。イワンに借りりゃあいいのに(私の人間性がばれる)。その彼女(名前をどうしても思い出せない)が言っていたのだが、アルザスは前記のような歴史があるものだから、フランス人も自国領だと思ってない人がいて、彼女がパリで人と話したら「あなたはアルザスの人なのにフランス語が上手いね」と言われたそうだ。

ムター、ライプチヒ、マズア、信長

2020-06-22 10:09:27 | 音楽
昨日のメンコンの話の続き。ヴァイオリン・ソロは、アンネ・ゾフィー・ムター。音はきれいだし、技術はあるしで言うこと無し。昔、カラヤンの秘蔵っ子だった。え?プレヴィンと結婚してた時期があるの?歳の差34。私の34歳下って何歳だ?思わず計算してしまった。ふむふむ、私には異存はありませぬよ……でも、ムターに子供がいるという情報はない。ムターはムターにはなってないか(これが言いたかった)。そう、ムター=ムッター=Mutter=母である。日本では「母」は「ムッター」ということが多いからアンネ・ゾフィーの「ムター」は「母」ではないと思っていた。だがドイツ人の日常会話では「Mutter」はむしろ「ムター」である。同様に、「ヒムメル」は「ヒメル」だし、「ザムメルン」は「ザメルン」。だが、いつも言っているのだが、歌を歌うときは話は別。例えば「sammeln」の「sa」が長い音に乗っているときに「ザーメルン」ではそれこそ人によっては顔を赤らめる「種」の発音と区別がつきにくくなる。発音を決めるときは、そういった有象無象のことを包括したうえで決めてほしい。単に、え?ドイツに長くいたの?で、これどっちなの?「ザメルン」?じゃ、それでいこうって感じで決めないでほしい。昨日のメンコンに戻る。エスコートしたのはクルト・マズア指揮のライプチヒ管弦楽団。「ライプチヒ」と聞くと、現在の私の音楽仲間の多くはバッハのイメージだろう。この地で膨大なカンタータが書かれた。だが、それだけではない。ライプチヒにあるゲヴァントハウス管弦楽団は、最古の民間オーケストラ。メンコンの作曲者、すなわちメンデルスゾーンが指揮者を務めたことでも知られている。そして、私が生で初めて聴いたオーケストラがこのオーケストラだった(中学だか高校だかのとき)。場所は神奈川県立音楽堂。狭い舞台に所狭しと大男らが座を占めている。開演の前に両国国歌を演奏するためにメンバーが一斉に起立したときは怖いくらいだった。初めての生オケの音はそれはそれは美しいものだった。曲はたしかベートーヴェンの4番と何番か。だが、その4番の演奏中に前の席のおじさんが同伴する女性に「ここから展開部」「ここから再現部」とかレクチャーするのがうるさかったのを覚えている。ホールではしゃべるな。言いたいことはブログに書け(って、当時はブログはありませなんだ)。さて、大男たちが一斉に起立したため妙に小さく感じたのが指揮者のクルト・マズア。東ドイツ時代、このオケの常任指揮者で、昨日の放送のメンコンでも指揮をしていた。この人についての有名な話は、ベルリンの壁と共に東ドイツが崩壊する前夜(前の日という意味ではない)、市民に大砲を向ける戦車の前に立ち塞がって市民を守ったという話。NHKの音楽番組でMCの一人がその話を持ち出して手放しでマズアを賞賛していたが、音楽ファンはその意見にそうやすやすとは賛同できなかった。ずーっと東ドイツで優遇されてきた人である。それが体制が転換するとみるや、見事(?)な転身。そのことにクエスチョンを投げかける論評(日和見だという批判)がドイツにあって、そのことを音楽ファンは音楽雑誌を読んで知っていたからだ。マズアの同僚だった指揮者のヘルベルト・ケーゲルがベルリンの壁崩壊後ピストル自殺を遂げたこと、マズアがケーゲルに意地悪をしたという噂、そういった話が一層クエスチョンを増大させた。事実はどうだったのだろう。ケーゲルはもちろん、マズアも鬼籍に入られた。だから、真相を探ることは歴史家の役割である。因みに、日本の戦国武将のイメージも時代によってころころ変わる。最近は「信長=まじめな人」論をよく聞くようになった。信長といえば、子孫であらせらるる例のスケート選手(泣きで有名)は、肖像画に見る信長そっくりである。何百年もたってDNAは受け継がれるんだなぁ、とつくづく。

メンコン

2020-06-21 19:29:44 | 音楽
iPadにNHKラジオアプリを入れてから、日曜の朝に「音楽の泉」を聴くことが多くなった。今朝は、メンコン(メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲)。メンデルスゾーンの曲の中でもとりわけメランコリックなメロディーが美しい。ところが「きれいなだけで奥がない」といった悪口を言う人がいる。仮にそういう人をベートーヴェン・ファンだとしよう。ベートーヴェンのファンはことさら「精神性」を言う。音楽の「深さ」についてもよく口にする。半世紀前はこちらが優勢だった。だが、その後、メンデルスゾーン派が巻き返してきた。彼らは「メロディーがきれいでどこが悪い」と言う。悔しかったらきれいなメロディーを書いてみろ」とも。ベートーヴェン派からすると「♪ひらきなおーる、そのたいどが、きにいらないのよ」である(「3年目の浮気」から)。しかし、不毛な争いである。だいたい、メンデルスゾーン=きれい=浅い、ベートーヴェン=きれいじゃない=深い、というステレオタイプの考え方が間違っている。どちらもきれいで深い。表情が異なるだけである。私にそういう見方を教えてくれたのは堀内敬三氏の著書であった。そう言えば、カラヤン派とアンチ・カラヤン派も同じような議論をしてた。競馬ファンが好んでする「最強馬論争」「最強牝馬論争」もそうした罵り合いに陥りがちである。とかく世の中は不毛な議論に満ちている。かく言う私も、子供の頃、友達と「鉄人28号」と「鉄腕アトム」のどっちが強いかという議論を戦わせたことがある。議論に勝つために私達がしたことは、とにかく腕を大きく広げて「鉄人は又はアトムは、こーーーーんなに強いんだぞ」と言うことだ。より広く腕を広げた方が勝つ。野生動物の雄同士の争いの勝負の付け方と共通だ。一応、文明人(のつもり)なのだから野生動物がする喧嘩は終わりにしよう。ヴァイオリン協奏曲に戻る。とにかく私は、メンコンも、ベトコンも、ついでにブラコンもチャイコンもシベコンもブルコンもパガコンも、そしてヴィヴァコンも大好きである(今朝、おまけで放送されたメンデルスゾーンが12歳のとき作曲した「もう一つのヴァイオリン協奏曲」もいい曲だなぁと思った)。その中で、ちと練習したのはメンコン。さわりを中学の音楽の授業でみんなの前で弾いたこともある。先生に弾いてみろ、と言われたからである。そのときは、いくぶん得意ですらあったのだが、時が経つごとにとんでもない恥さらしの思い出になり、私にとっては「なかったこと」になっていた。だが、最近、われわれアマチュアの愛好家は、音楽をもっと楽しく、おおらかにやっていいよな、って考え方に変わってきた。歌いまくる会のバッハのカンタータでも既にヴァイオリンを弾きまくっている。だから、抹殺した過去を書く気になった。私、ブログを始めて10年以上経つが、このことを書くのは初めてである。なお、歳をとって駄洒落が多くなるのは、それまで恥ずかしいことをおさえてきた脳のコントールが効かなくなるから、と言ったのはチコちゃんである。

「モンテヴェルディ」が「モンティヴェルディ」でないのはなぜ?/ジェンティルドンナの娘はハワイアン

2020-06-20 18:24:01 | 言葉
「フィールシュパース」という馬を例によってアナウンサーが言いにくそうに「ふいーるしゅぱあす」って感じで呼んでいた。「Viel Spaß!」はドイツ語で、これから遊びにいくような人に「お楽しみに!」とかける言葉。このアナウンサーの発音だとあまり楽しそうでない。この日、もう一つアナウンサーがいいにくそうだったのが「イルヴェントデーア」。「イルヴェン」まで言って口ごもってたから、「イル」で切って「ヴェントデーア」と一気に言えばいいんだよ、と教えてあげたかった……のだが、逆に私が悩んでしまった。「ヴェントデーア」は「vento」(風)+「dea」(女神)で「風の女神」だという。だったら全体につく定冠詞は「vento」の「il」じゃなくて「dea」の「la」じゃないの?イタリア語はオペラの歌詞(とワインの銘柄)しか知らないから「よい子の疑問」ということにしておく。誰か教えて。さらに悩んだのが「モンテヴェルデ」って馬。例の作曲家が頭にあって思わず語尾に「ィ」を付けたくなったが、まてよ、イタリア語で語尾が「e」の男性名詞の複数形の語尾は「i」。形容詞も同様……なら、単数は「モンテヴェルデ」で、あのお馬さんの名前は正しい。複数は「モンティヴェルディ」で、そういう名前のワインがある。じゃ、大作曲家のクラウディオはなぜ「モンテヴェルディ」なのだ?もしかして「モンティヴェルディ」?いやいや「モンテヴェルディ」である。既に私のおつむはグレートヒェンのように混乱状態。「よい子の疑問その2」とする。誰か教えて。気分を変えよう。イタリア語の馬名といえば「ジェンティルドンナ」(貴婦人)。私が愛してやまない牝馬であり、現役時代はその名に似合わずパドックでは首をぶんぶん振るし、レースでは年上の男馬に体当たりして負かしていまうど根性娘であった。その初仔が「モアナアネラ」。なにこれ?イタリア語に惹かれてジェンティルドンナのファンになった私はその娘の名前を聞いて正直落胆。1ミリもイタリア語ではない。もし私がアナウンサーだったら、私みたいな視聴者にちゃんと読めと怒られたところであろう。知ってる方は知ってるんだろうね。これはハワイの言葉で「大海の天使」と言うんだそうだ。ディズニー映画にも「モアナ」が出てくるんだそうだ。私はそっちは門外漢。ハワイなんて行きたいと思ったことないもんね。なんてってたって冬のドイツの雪道をざくざく歩きたい質だし。

管楽器もOK(バック・トゥ・ザ日常)

2020-06-19 18:26:32 | 音楽
まだまだ油断は禁物であるが、だんだん日常が戻ってきていることを実感する。例えばマスク。スーパーで30枚入りを1500円で売っていた。こうなったら50枚入りで1000円を切るまで買うものか。それから小麦粉。二つのスーパーの棚で久々に見た。母が私の顔を忘れることがあっても、私は小麦粉のパッケージの模様を忘れない。そして歌の会。既に歌いまくる会は復活を遂げたのであるが、管楽器はNGだった。しかし、同じ区で、管楽器を吹く場合の注意事項(一列に並んでどうのこうの)ってぇのが定められて、それを守れば吹いてよいことになった。東京都が対コロナのステージを3に移行したことに伴う措置である。日本って、こんなに早くものごとが動く国だっけ。自治体によっても違うだろうが、とにかく、ありがたい限りである。てなわけで、この一両日は、二つの通唱会と歌いまくる会の場所とりと連絡でてんてこまい。思えば、千人用におさえてあった場所が人数制限でとてもじゃないが使えないことが分かったのが一昨日の夕方。で、昨日の午前中に代わりのホールが見つかって(このときはネット予約が使えず電話で探した)、そして今朝、ネット予約が復旧してこうもりの会場も見つかって人々に連絡。そして、歌いまくる会の次回と次々回の会場も見つけてこれまた連絡。さすがに疲れたから、サ○○飲みにでも繰り出したいところだがあいにくの雨模様。どっちみち「お一人様」であるがそこは気分を変えたいわけよ。ちょっと思ったんだけど、なんで他の店じゃなくてサ○○○ヤが落ち着くのかな、と考えてみて分かった。そりゃ安いから安心なんだろって?それもあるが椅子だ。サ○○○ヤはソファなのだ。そこに悠々と座れるからリラックスできることに気づいた。おっと、まだリラックスには早い。シュッツを歌う会の復旧がまだである。この会のウリはサ○○○ヤと同じである。椅子のことではなく、お値段のことである。毎回、100円(1000円ではない)とかでやっている。「100円でシュッツを歌おう」がキャッチコピーである(ときどき100円を超えるが、200円を超えたことはない)。そうすると、人数制限が重くのしかかってくるわけだ。とにかく、方策を考えて、こちらも復旧させよう。

吾輩は二日酔いである。名前はもうない。

2020-06-18 18:49:03 | 言葉
夕方再放送してる「ひよっこ」で、お米屋さんで何か飲むって話をしてたから、私、「プラッシー」だと思ったら、瓶には「oissy」(オイッシー)と書いてあった。気が済んだので本題。漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」はドイツ語でなんというだろう。答を見る前に自分で考えてみる。猫は「Katze」。雄雌にかかわらず女性名詞である。そこがちょっとひっかかる。例えば私が猫で「Ich bin eine Katze」と言ったとすると、なんとなく、「私」ではなく「あたし」って感じになる(まるで、宇能鴻一郎の官能小説である)。因みに、ドイツワインで「ツェラー村の黒猫」という銘柄があるが、あれは「Zeller schwarze Katz」であり、「Katz」に「e」がないが、あるのが本来である(そこんとこで混乱したことがある)。ところで、「猫」には雄猫に限って「Kater」という言い方もあるが(これは男声名詞である)、これには「二日酔い」の意味もある。ということで、そろそろ「吾輩は猫である。名前はまだない」の独訳についての私の解答を書こう。「Ich bin ein Kater. Ich habe noch keinen Namen.」。さあどうだ?答合わせだ。へっ?「Ich der Kater」?「Kater」は合ってたが、「である(bin)」がない代わりに定冠詞が付いている。「私、噂の猫」って感じだ。しかし、よく見たら、これは小説のタイトルだった。われわれが「漱石の猫」というような感じで「Ich der Kater」と言ってるらしい。では冒頭の件の文章は?いよいよ正解が明らかになる。「Gestatten, ich bin ein Kater! Unbenamst bislang.」だって。「ich bin ein Kater!」は合ってたが(って間違えようもないが)、頭に「Gestatten」が付いている。これは「(自己紹介をして)宜しいですか」と言う意味である。なるほど。いきなり知らない人の前にしゃしゃり出て「吾輩は……」というのは失礼にあたるとみえる。「Unbenamst bislang.」は思いつかなかった。つうか、「benamsen」は普通の名前というより「仇名」である。「名前はまだない」でこんなに凝っておいて、「吾輩」が「ich」なのはなんだか物足りない。まあ、言語によって凝る場所が違うのは普通にあることだが。なお、酔っ払って二日酔いを繰り返した私は、恥辱に満ちた名前を棄てて久しい。お婿に行って正式に改名するまでの名前は世を忍ぶ仮の名前である(戸籍云々ではなく気分の問題である)。それから、これを言ってしまうと今回の記事が成り立たなくなるが言ってしまおう。「Ich bin ein Kater」では「私は二日酔い」にならない。「私は二日酔い」は「Ich habe einen Kater」である。

ブルゴーニュにはカモのオレンジ煮(布団山脈を越えてたどり着くシェ・イイジマのメニュー)

2020-06-17 21:34:51 | グルメ
朝ドラ(エール)はコロナ渦で撮影ができないから本編が中断したはずなのに、別撮りしたらしいスピンオフをやってる。本編が終わってから放送するつもりで撮ってたやつなのかなぁ。でも、今日の回などネタの宝庫であった。漱石の「こころ」の初版本の表紙の裏には「ars longa vita brevis」というラテン語が記してあって、これは「学は長く、命は短い」というヒポクラテスの格言なのだそうだ。英語なら「ars」=「art」で、「longa」=「long」だってことはすぐ合点がいく。「art」だから「芸術」が正しいんではないの?たしかにそう訳されることが多いようだが、「ars」「art」には「(科)学」という意味もあるので「学」でも間違いではないそうだ。後半の「brevis」は「ミサ・ブレヴィス」の「ブレヴィス」なのはいいとして、「vita」(ヴィータ)は似てるから「vitalily」……ではなく「life」。そういやそうだ。この格言を、元のラテン語、英語、ドイツ語で並べてみる。「ars longa vita brevis」「art is long,life is short」「Kunst ist lang,das Leben ist kurz」。うーむ。英語とドイツ語は兄弟言語のはずだが、ここではラテン語と英語の結びつきの方がドイツ語より強い。ドラマに戻る。ここからが本題である。喫茶店の店主が今の奥さんを射止めるため勇気を出して食事に誘おうとしていた。私も勇気を出して食事に誘うとして(お相手=架空)、問題はどこに誘うかである。(以下、「英雄たちの選択」風に)人生の選択その1。サ○○○ヤに誘う。良い点。安く済む……しーっ、そんなことを聞こえるように言ってはダメだ、もといっ、メニューが頭に入ってる。「きみ、料理はぼくにまかせたまえ」と自信たっぷりにふるまえる(しかし、サ○○○ヤで「……たまえ」はそぐわない言葉遣いである)。しかも、そうやって、サ○○○ヤに慣らしておけば、ある日、奮発して「オ○ー○の丘」あたりに連れてっただけで相当な高得点が望まれる。しかし、弱点もある。相手がグルメだったら二回目はない。そこで人生の選択その2が登場する。最初から奮発して、ブルゴーニュを飲ませるような店に連れてく。何がいいって言ってとにかく旨い。いきなり高得点である。しかし弱点はある。飲み過ぎてくだをまいて挙げ句の果てに道路に寝たら次はない。もし、高級ワインがこぼれて彼女の靴にかかったりしたら、私は四つんばいになって舐める。いや、冗談であるものか、かりにロマネ・コンティなら100%そうする。「あたしの靴をお舐めっ」と言われて舐めるのではなく、自発的に舐めるのである。その場合も2回目はない。いや、こうした「事故」「事件」が起きなくても、そもそもこの場合は二回目はない。財布のお腹と背中がくっつくからである。以上、冗談のような、しかしかなり信憑性のある話であったが、ちょっと本音を言うと、私は昔ワインの仕事をしていたから結構目利きである。価格の相場も知っている。だから、自分でワインを見繕って自宅で飲むのが一番好きだ。ブルゴーニュならカモのオレンジ煮あたりを自分でこしらえて併せたらいいよなぁ、きっと。しかし、食卓にたどりつくまでには、エスコートしたお相手は布団山脈という名の万年床を越えてゆかねばならない。万年雪をかき分けて進むよりも至難である(道徳的意味合いで)。

ネゴシアン

2020-06-16 21:14:21 | 日記



ベランダのミニトマトが色づいたので初収穫。早速ピザに乗せた。かなり酸味が強かった。ということで本題(今日は本題までが早い)。「サラメシ」を見てたら、寿司チェーンの仕入れのために全国を飛び回って魚の買い付けをする人が登場。思い出した。私がサラリーマンを辞めたのはネゴシアン(ワイン畑を飛び回ってワインの買い付けをする人)になるためだった。でも、ポケットに保険が欲しい。で、保険の意味で某国家資格をとった。しかし資格を持ってるだけでは使い物にならぬ。実践しなければ、と思ってその資格業の事務所で丁稚奉公。ばりばり働かせてもらったので実務をすぐ覚えて、だったらいよいよネゴシアン……になるはずが、その事務所の先生の前でぽろっと「そろそろ独立しようかと思います」と口がすべった。すると、「そーかぁ、じゃあがんばれ」ということで開業。で、今に至る(「今」=音楽ばかりやってる今)。だが、よかったのだと思う。ネゴシアン(フランス語)は、英語の「negotiate」から想像が付くとおり「交渉する人」である。気弱な私にはできなかったろう。そう言えば、私は、通唱会だとか歌いまくる会だとかシュッツを歌う会だとかあれこれ主宰してるもんだから、しょちゅう人集めをしている。その過程で、「押しが強い」と言われたことがあって、これには大いにびっくり。女性との付き合いでも、私が優位に立ったことなど一度もない。いっつも言われっぱなしである。いったい私のどこが押しが強いのだろうか(男を尻に敷きたい女性へ。私は格好の獲物よん!)。でも、人集めに必死になるあまり押しが強く出るところがあるのかもしれない。さて、そのいろんな会のこと。人集めももちろんだが、このご時世、会場探しも大変。多くの団体が早々と延期、中止を決めるなか、もがくだけもがく私は押しが強いわけではないが相当しつこいかもしれない。さっきも、某会で使う予定の場所に思わぬ人数制限が課せられて大騒ぎである(私の中で)。同じ区でも、人数制限を電話で知らせてくれるところとこっちが聞くまで知らせてくれないところがある。区は関係ない。やっぱり最後は「人」だ。