拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

谷川慕いて~愛しい某子

2020-02-29 10:10:51 | 言葉
おしんも初子も息子たちも歳をとったら役者さんが変わったのに、兄と兄嫁はそのまま。兄嫁(とら)はずっと渡辺えり子さんである。見事に老けたなと思う。さて。A合唱団には波瀾万丈伝の持ち主が何人かいるが(と言ってもおしんの波瀾万丈に比べればプチ波瀾万丈である)、その中で、私の波瀾万丈は楽しそう、なのだそうだ。波瀾の渦中にいる間は楽しいわけはないのだが、楽しく見えるのはきっとこのブログのせいだ。ある意味で真理をついている。自分におきた出来事を客観視して文章にすることは精神衛生上よいのだという。免疫力の向上につながるのだという。だとすると、鹿が谷川を求めるように(sicut cervus)、私は無意識のうちに免疫力の向上を求めてパソコンのキーボードに向かっているのだろう(「sicut cervus」の話はこれだけ。パレストリーナの話を期待していた方、すみません)。ということで、今日も免疫力の向上を求めて(この時期、うってつけ)、自分史を客観視しよう。そう、まさに客観的に考えて思い当たった話がある。昨日、某子がいい歳ぶっこいて「イージマくん、あたしのこと好きなんでしょ」と言った話を書いた。それは某子の女王様気質によるもの、と昨日まで思っていた。だが、ふと思い当たった。以前、ドイツ語学校に通っていたとき、クラスメイトの人妻と意気投合して、互いにドイツ語の能力を高めるために、ドイツ語でFAX(!時代ですなー)のやりとりをしようということになった。ところが事件が起きた。彼女が急にもうFAXはできない、二度と会えない、と言ってきた。その理由はこうだ。われわれは、FAXの文は手紙の体裁をとっていたら、文頭に、私は「Liebe ○○(彼女のファーストネイム)」、彼女は「Lieber Masashi」を付けていた。直訳すると「愛しい○○」「愛しいマサシ」であるが、これは君僕で話す友達同士の間の手紙の決まり文句で、「拝啓だれだれ」の意味である。ところが、彼女の夫が、自分の妻の書いたものを読んだ。夫は「中途半端にドイツ語が分かる人」(彼女の弁)で、「愛しいマサシ」とはなにごとだ(怒)となったわけだ。ドイツ語をまったく分からない人なら「なにこれ」だし、よく分かっている人なら普通の手紙の文章だから問題ない。中途半端に知識があったもんだから騒動となった。結局、私はいい友達を一人失った。さあ、ここからである。某子の話に戻る。実は、某子と50を過ぎて再会してから、連絡事項があるときメールで(おおっ、時代が流れた!)やりとりをしていたのだが、私は文頭に「Liebe 某ko」と書いていた。某子はドイツ語が分かるはず、と思ったからだ。だが、本当に分かっていたのだろうか。もし、件の夫と同様なら、あら、イージマくんたら、いい歳ぶっこいて、あたしに「愛しい某子」だって!いやーね。まだあたしに気があるのね。でも夫がいるし(某子も人妻である)。あたしって罪な女……なーんてとんでもない勘違いをしてもおかしくない。だから私に「あたしのこと、好きなんでしょ」と言ったのか。霧が晴れるように疑問が解消。このことに思い至ったのはまさに昨日である。ブログを書きながら事実を客観視したのだろう、見えてきた話である。ブログは書いてみるものだ。さて、そうだとして、某子の方はどうしよう。変な誤解をさせたままなのもどうかと思うが、でも、「あたしって罪な女」と思って喜んでるかもしれないし、そうだとしても私に減るものは一つもないから、いっかー。ほっとこ。因みに、ある女性から「変しい変しいイージマ様」というタイトルのFAX(また時代が戻った)をもらったことがある。受け取る人によっては、「変しい」を勝手に「恋しい」に読み替えて、告られた、ど、どうしようと悶々としたかもしれないが、私は、送り主の期待どおり、大笑いであった。

告って生まれた服従関係(ピアノの腕前その2)

2020-02-28 10:05:49 | 音楽
今回もおしんネタから。希望と初子は結婚しなかった。それは希望の表情から予想できたが、この際、この二人について気になっていたことを吐き出して前に進もう(私が)。まず初子。このドラマでは絶滅危惧種である「いい人」であるが、その初子が以前、妻に自分の過去を白状した仁に対して「シラを切り通すのが愛情ってもんでしょ。ホントのことを言うバカがどこにいるのよ」と言っていた。初子もこんなことを言うんだ、まあそうなんだろうが、普段の不自然なほど丁寧な言葉遣いとのギャップを感じた。その初子に対して、他のみんなは「はっちゃん」なのに、希望だけは「はっちゃん」。アクセントの位置が違う。同じ家で育ったのに不自然である。なんで直さなかったのだろう。橋田脚本は台詞が膨大で、役者さんもときどき思い出しながらしゃべっているし、多少かんでもそのまま放送されている。アクセントを直す時間的余裕がなかったのかもしれない。ということで、昨日の続き。思い出してみると、大学に行ってからはピアノで全曲弾ける曲が何曲かできた。自作の歌の伴奏である。室内合唱団の宴会の余興用に毎回何曲か作っていて、どれも芸術性とは縁の無いふざけた二分くらいで終わる曲で(でも、なかにはきれいな曲もあった)、人に歌ってもらって自分で伴奏するのだが、自分用にピアノパートはとことん簡単にして、それでも結構聞き映えがした。私には最小の技術で最大の効果を生む才能はあったらしい。やはり私は詐欺師であった。高校の音楽の先生ですらだまされたんだから、多くの友人がこの詐欺にひっかかって、「イージマ君はピアノが上手いね」と言う中、一人だけ「イージマ君のピアノは、上手く聞こえるね」と言った人がいた。某子である。ばれた、と思った。某子は、室内合唱団において私の抵抗勢力の最先鋒として立ちはだかっていて、学生指揮者だった私が提案した曲をことごとく却下した。グロムイコ外相もまっさおの「ミス・ニエット」であった。私は某子には頭が上がらなかったから、一切逆らうことはできなかった。実は、大学1年のとき、某子に告って振られたことがある。その際、告られて振った某子は優位に立ち、告って振られた私は劣位に落ちて「支配・服従関係」が築かれ、その関係が継続したのだと思う。後日談がある。数十年の歳月が経って、50も過ぎたとき某合唱団(現在休止中)で某子と再会し、ともにアルトを歌うことになった。それはそれで感慨無量だったのだが、そのとき某子が「イージマ君、あたしのことが好きなんでしょ」と言ったのにはたまげた。「好きだったんでしょ」ではなく「好きなんでしょ」である。一度マウントした相手は永久に自分の下僕であると信じているようだった(「アドリアーナ・ルクブルール」(チレーアのオペラ)のアリア「私は神の卑しい下僕」は名曲である)。私は、「なーに言ってんのさ。あれはお互い18んときだよ。その後、あなたもそうだけど、こっちも山ほどいろいろあってさ、趣味だってぜーんぜん変わっちゃってんだから。あんときはそういう趣味だったんだなー、ほんと、不思議」と言ってやった。自分自身に、である。ドイツ語の「自身に言う」は「心の中で思う」の意味である。つまり某子には言わなかった。言えるわけない。某子は一面真理をついている。一度マウントされた相手には逆らえない。某子とは会う予定はないし、年賀状に私のブログを読んでないと書いてあったから決死の覚悟で書いたのだが(Ich wage zu schreiben)、書き終わった今、恐怖におののいている。B子がなにか言って来たらC子のことだ言い、C子が言って来たらA子のことだと言い、A子が言って来たらB子のことだと言おう。

トム・ソーヤーになった私(ピアノの腕前)

2020-02-27 10:46:56 | 音楽
本題の前におしんネタ。希望(のぞみ)は初子と結婚するのだろうか?数日前からその予感はあった。希望の縁談を聞いて初子は顔を曇らせていたし(人間、ああいう風に顔に出るのだねぇ。人にもよるが。私はすぐ出るらしい)。希望は初子との結婚に希望をもって……どうしようもないことを言った(こういうだじゃれを言い出すのは加齢による脳の劣化によるものだそうだ(チコちゃん))。そう言えば、イタリアの保健大臣は、スペランツァさんだそう。「スペランツァ」=「希望」である。ボエームでロドルフォがハイCを出すときの歌詞は「スペランツァ」である。気が済んだので本題。ピアノの腕が戻ってない、などと書くと、まるで私が昔ピアノを上手に弾いたみたいだが、自信を持って言えます。下手でした!なにせ、有名な曲のさわりだけいい加減に弾き散らしてただけだから、一曲丸々弾ける曲がなかった。だから、今話題になっている、50代で独学でピアノを始めてラ・カンパネラを丸々弾けるようになった海苔漁師さんは大尊敬である。最後まで弾ける曲がなかったことで苦い思い出がある。高校のとき、音楽室に誰もいないのを見計らってピアノを弾いていた。それを陰で聴いてる人がいた。音楽の先生である。でも、先生は何も言わなかったから、私はまさか聴かれていたとは夢にも思わなかった。そして事件が起きた。ある日の音楽の授業のとき、先生がいきなりみんなの前で「今日はイージマさんにピアノを弾いてもらいます」と言い出した。青天の霹靂とはこのこと。何も聞いてない、なにより弾ける曲などない。だから「弾けません」と言うと、「いーえ、弾けます」。以前、カバリエ(ソプラノ)と共演することになっていたホセ・カレーラスが不調で歌えないと訴えたとき、カバリエが「いーえ、歌えます」と言って、カレーラスはカバリエには逆らえないもんでやけくそで歌ったらいい出来だったということがあった。しかし、私の場合はやけくそでどうなるものではない。しばらく「弾けます」「弾けません」の押し問答が続いた。先生も相当執拗だったからよっぽど途中まで弾いて「こっからは弾けません」と言って退散する考えが頭をよぎったが、もしそうしていたらそれがトラウマになって、私は今一切音楽活動をしていなかっただろう。最後は先生が根負け。「そう……」と言った姿がいかにも残念そうで(先生は、すらっとした高齢の女性であった。生徒は陰で「た○えさん」と呼んでいた)、私はとっても悪いことをした気分になった反面、先生だったら生徒の力量くらい分かるだろうになんでだまされちゃうんだろ、などと恨めしく思ったりもした。「トム・ソーヤーの冒険」にこういうエピソードがある。トムの通う学校は、聖句を言えた生徒にカードを渡していて、そのカードが一定量たまると聖書をもらえたのだが、トムは策略でもって友達からカードをかき集めて、ある日、父兄のいる前で、カードがたまりました、と高らかに宣言。まんまと聖書をせしめたかに見えた。ところが先生が、トムの実力を父兄の前で披露させるべくある聖句について訪ねる。実力で景品を勝ち取った者ならなんなく答えられる聖句だったがトムは答えられない。いちかばちか出まかせを言って化けの皮がはがれたのだった(パネルクイズ「アタック25」の最後の問題で正解が浮かばない挑戦者もよくいちかばちかのでまかせを言う。「分かりません」と言って降参する人もいる)。このトム・ソーヤーに自分が重なってみえた。だが、決定的に違うのは、トムは故意に先生をだまそうとしたが、私の場合は先生が勝手にだまされた点である(などと罰当たりなことばかり書いたが、た○えさんは私のことをかってくれてたわけである。それがどんだけはげみになったか分からない。た○え先生ありがとうございました)。ところで、「トム・ソーヤーの冒険」を読んだのは子供の頃。件の聖句は日本の子供用にアレンジされていたと思う(聖句ではなかったと思う)。宗教曲をたくさん歌ってきた今、オリジナルの聖句が気になるし、それを読めば、あ、これか、と思うかも知れない。よし、読もう。どうせならドイツ語がいい(歌ってきた宗教曲はシュッツやバッハのもの、つまりドイツ語だったから、そっちの方がなじみがある)。早速キンドルで「Tom Sawyer german edition」で検索。タダのはなかったが100円のがあったから早速ダウンロード。便利の世の中だね。ついでにアンチョコ(日本語訳)も。おっ、0円だ。だが、なんか小さく書いてあるぞ。「なんとかの会員は読み放題で読書 または、いくらで購入」。なんだ、会員じゃないとタダじゃないんかい。じあ、とりあえずアンチョコなしでがんばってみる。もともと子供向けの小説だからなんとかなるかもしれない(ただし、著者は、昔子供だった大人にも読んで欲しいと書いているそうだ。大人は、たいがい昔は子供だよな)。ピアノの技量の話には続きがあったのだが、途中からトム・ソーヤーになってしまった。続きは次回にでも。

奥地で晴耕雨弾(さかりと盛りについての一考察)

2020-02-26 11:06:48 | 音楽
「目をかけられる」と「目をつけられる」は一字違いであるが、えらい違いである。以上、言ってみたかっただけ。さて。昔やってた楽器の地道な練習を始めてかなり腕が戻ってきたと書いた。それはクラリネットとヴァイオリンのこと。ピアノの方は、こちらもリハビリの意欲は十分あったから、88鍵の電子ピアノを買ったりもした。だが、仕事をして、朝ドラを見て(一日三本)、クラリネットを吹いて、ヴァイオリンを弾いて、料理をしたらそれで手一杯。ピアノまでとても手が回らない。だから、こちらはまだカーボナイトされたハン・ソロのままである。88鍵はキッチンに立てかけてあって、油でべとべと。どうにかせにゃ。と考えていたのはカンレキ直前の時期で、仕事の整理も考えた。山ん中にひっこんで家庭菜園で作った野菜で食いつなげばなんとかなる。そしたら、ピアノの練習の時間だってとれる。ところが事件が起きた。「半分、青い」(当時やってた朝ドラ)で、スズメとリツがキスをした。あれを見て青春の炎(だか地獄の業火だか)が燃え上がってしまった……なーんてモノは言いよう。要は、さかりが付いたのである。よし、誰か相手を見つけて婿入りしよう。そのためにはお金がいる。サ○○○ヤでミラノ風ドリアをおごるんだってバカにならない(塵も積もれば山となる)。ということで、仕事は整理どころかよそにも働きに出たりして増えてしまった。だから88鍵は相変わらず油でべとべとのまま。で、そのかいがあったか?当ブログでお申込みは今夜いっぱい受け付けますといった閉店セールみたいなお相手募集を何度かかけたが応募はゼロ(文章から変態的性格がばれるのだろうか)。これが現状である。そんなときに飛び込んできたのが例の八王子の奥地の物件の話であった。家庭菜園も付いている。これはもしかして、晴耕雨弾(せいこううだん?)の生活に入れという神様の思し召しかもしれない。思案のしどころである。でもなー、男盛りで隠遁生活っていうのもなー。男盛りってもちろんワタクシのことですよ。なに?さかりと盛りは違うって?(初稿では、このあと「失敬な」と怒っておしまいだったのだが、気が変わった。結末を変えて考察で終わろう)なるほどー、男盛りにさかりがつくとは限らない、さかりがつくから男盛りとは限らない。まさに「一人すれ違い」である。すれ違いはない方がいい。盛りでないときにさかりがついたらその維持が大変。後方から絶えず補給を続けなければたちどころに枯れてしまいそうである。でも、もちっとこっちでさかってたいなー、ここで奥地に入ったらたちどころに仙人になる気がする(千人通唱会は半年後である)。因みに(終わるはずなのに終わってない)、還暦になる前に還暦後についてもう一つ考えたことがあった。大学に戻って、今度は独文科に行って、で、室内合唱団に再入部してノースリーブの白いドレスを着て東京カテドラルでアルトを歌うことである。でも、室内合唱団はなくなってしまった。

改むるに憚ること勿れ

2020-02-25 09:38:08 | 音楽
昨日はマタイ受難曲とヨハネ受難曲(ともにバッハ)の比較通唱会。同じシーンの比較をしながら両曲を交互に演奏するという実験的な試みで、実に興味深かった。主宰者の皆様や資料を作って下さったK田さんのご苦労のほどがうかがれる。ありがとうございました。ただ、普通に通すのと比べて大層疲弊したのも事実である(地球上におけるウルトマンのごとくである)。途中で、マタイだかヨハネだか分からなくなる瞬間もあった。それでも、最後の最後、ヨハネの終曲はやはり泣ける。コロナの影響でキャンセル者が出てガラガラになるのではという観測もあったが大外れ、超満員の参加者が最後の力をふりしぼって歌い上げたコラールは壮大で感動的であった。ぼくもとってもおおきなこえでうたいました(いきなり数日前の6歳児モードが再現)。そのためか、その後の(後があったのです)某合唱団の練習では、一人だけ異次元から来たエイリアンのようだ、と言われた(いや、そうは言われなかったが、意訳するとそういうことである)。この日、注目を集めたのはマタイのアリア「イエスを返せ」のあの難しいソロを見事に弾きこなした中一のヴァイオリニスト。声楽家のOHさんのお嬢さんである。この日一番の大喝采を浴びていた。その様子をOHさんが後ろから撮影していたのをみて、「お母さんだなー」と思った。私も中一に戻りたい。私が子供の頃、楽器については器用だった。ピアノでもヴァイオリンでもクラリネットでもちょこっとやって指がくるくる回った。これがいけなかった。ちょこっとやってできちゃうものがあるから、ちょこっとやってできないものは嫌になって決して練習をしなかった。その結果が今である。大成したものがひとつもない。典型的な器用貧乏である。だが、今はちょっと事情が変わったかもしれない。数年前に楽器を再開したとき、自分で信じられないほど指が動かない。まるで、カーボナイトされたハン・ソロである。以前の私ならぷいとやめてしまったところだが、やはりカンレキというほど歳を重ねてきて100分の1ほどの人間の進歩があったのだろうか、コツコツ練習しようと思いたち(偉い!(と自分でいう))、ヴァイオリンもカイザーの練習曲を弾いたりしてたら、そのかいあって、ハン・ソロの例えで言えば、カーボナイトされた板から解放された、その状況まで来た。そうか、コツコツ練習するといいことがあるんだ、とこの歳になってようやく分かったと言えば遅すぎると言われそうだが、いや、いくつになっても「改むるに憚ること勿れ」である。来年のバッハの通唱会はヴァイオリンで出ることをここに宣言する!セカンドも難しそうだったら勝手に「サード」っつうのを作って。実は、他にヴァイオリンを弾く人がいない通唱会では既にヴァイオリン・デビューをしている。ホントだな、絶対ヴァイオリンで出るんだなって?いやいや、無理だったら「改むるに憚ること勿れ」である。通唱会の余話。終わった後、だいぶたってから主宰者のお一人(Pさん)からメッセージをいただいて、すわっ一大事、またなにか忘れ物をしたか、とおおあせり。私は通唱会で忘れ物をする常連である。そう言ってお返しをすると、またメッセージをいただいた。あー、やっぱり何か忘れたんだ、とおおあせり。いや、今回は大丈夫でしたよ、というお返事であった。

ぼけてるママも知るとおり

2020-02-23 22:36:28 | 音楽
私が今日ABC(仮名。Cだけが合ってる)で、アルトのお姉様方と盛り上がっていたのは「おしん」の話である。おしんが実の息子と同じように育てたノゾミの妻の百合が交通事故死した。これだけでもショックなのに、あろうことか、これからお通夜だってときにおしんが、自分の息子の仁と百合との間に関係があったことを仁の嫁がいる前で暴露。おしんは正義感ぶって、「あたしはお前(仁)を許さないよ」と言っていたが、許せないのはおしんである。あの場であんなことを言って亡くなった百合が喜ぶとでも思っているのか。仁夫婦の間だって普通ではいれらまい。小林綾子と田中裕子が演じていたときはあんなに日本中の、いや世界中の同情を集めていたおしんは、いまやみんなのひんしゅくの的である。脚本家はそれを承知で書いたのだろうか(渡鬼みたいに誰も彼もろくでなしという趣旨だったのか)。それとも、おしんと同じ意識なのだろうか。今回のおしんの再放送で、みんながその力量にあらためて感服した脚本家は末節を汚すことになった。因みに、この脚本家さんは、おしんのお母さん役を演じた女優とクルーズに乗るのが生きがいだそうだが、今回のコロナ騒ぎでやはりクルーズ産業は打撃を被るのだろうか。Jという通販もちょうどクルーズを盛んに売り出していたところだが、影響を受けたのだろうか。今日、お姉様方と話題にしたもう一つはコロナのことである。私などは、感染しても重症化するのは高齢者か持病を持っている人、私は、(さほど)高齢でもないし持病もないから(知らないだけ?)、かるーく構えているのだが、なんといっても独り身。ぽっくり逝ったら猫達を残すことになる。「独り身」に関連したこと(ここから本題)。彼女とのデートをどこですればいいかという記事に事情通の方がコメントを下さった。うーんと高い店は、意中の人にプロポーズをするときに使えばよい、それまでは、場慣れする意味で意中の人以外の人と「予行演習」すればよいというご意見だった。なるほど!目からうろこである。だが、ここから私の妄想が燃え上がる。意中の人が様々な理由で結婚できない相手だったら?その場合は、予行演習の相手が意中の人ということになる。その後、結婚してもいい、という相手が現れた、どうせ意中の人とは結婚できない運命だ、ということで、高いレストランでプロポーズしました、そして結婚しました。しかし、意中の人のことは忘れられない。この後待っているのは刃傷沙汰である。マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナはまさにそういう筋立てである。するってぇと、私の将来の結婚相手は、私の母んところで「ママも知るとおり」と言って、私の心がよそにあることを切々に歌うことになるだろう(そういうアリアがこのオペラにある)。しかし、私のママはぼけてるから切々に歌っても意味が分からない。これが今回の物語のオチである。なお、この物語はフィクションである(いちおう、言っとかないと)。

あんちょこ

2020-02-23 10:02:39 | 言葉

合唱の練習場の掃除をしている夢を見た。私はA合唱団の練習の後の掃除を受け持っているのだが、夢の中まで掃除当番である。では本題。私がドイツ語学習で一番力を入れたのは会話。英会話がモノにならなかったので、そのリベンジをドイツ語で果たそうという魂胆である。反面、小説とかの難しい文章はハードルが高い。グリム童話あたりが合っている(精神年齢的にも。なにしろ永遠の6歳である)。にもかかわらず、今カフカを読んでいる。ネットで誰かが「カフカをドイツ語で読めるうれしさ」を書いてるのを読んだからだ。読み始めたはいいがハードルが高すぎる。ほとんど知らない単語ばかり。関係代名詞を使った副詞節が三重にも四重にもかかっている。ハードルは既に私の頭上。普通に歩いてくぐれちゃう。しかし、全部分かる必要はない。日本語で読んだり話したりするときだって、100%理解しているわけではない。外国語学習に完璧を求めるのは日本人の悪い癖である。と気を取り直して、多分こんなんだろう、と想像をたくましくして継続しているのだが、想像は既に妄想になってきている感じで、なにかとんでもなく違うストーリーを自分でこしらえてる感じがする。例えて言えば、桃太郎が鬼に退治されるとか、金太郎が熊に食われるとか、浦島太郎が玉手箱を開けて若返るとか。その心配がとことん昂じたのでアンチョコ(日本語訳)を見ることにした。日本語訳もタダのものがあるが(私がキンドルで読むものは、カフカの原文を含めて基本的にタダのものである)、今読んでるやつの日本語訳は有料。しかし、背に腹はかえられない。ダウンロードして、左手のキンドルで原文をよみながら、右手のスマホでときどき日本語訳を確認するようにした。これは便利!桃太郎は鬼を退治するし、金太郎は熊と相撲をとるし、浦島太郎はしっかりじいさんになった(写真は、目隠しをかぶせているが、本当は画面いっぱい文字である)。で、こないだも電車の中でそんな感じでやってたら、いきなり隣に座ってたおじさんが「ドイツ語の先生ですか?」と聞いてきた。先生だったらアンチョコはいらない。「とんでもない」と言うと、「僕もドイツ語が好きで」どうのこうのと話している。「あっ、ごめんなさいね」と言って、以後話しかけられなかったので、カフカに戻ろうとしたが、おじさんが気になって文章が頭に入ってこない。そうこうするうちに、どっかの駅に着いておじさんが席を立ったと思ったらこっちを向いて「Auf Wiedersehen!」。私、意表を突かれて「Ja.」と返すのが精一杯。一本とられた気分で、その後もしばらくカフカに集中できなかった。まだまだ修行の足りない私である(なにせ6歳だもんね)。

エアバルメ・ディヒ

2020-02-22 23:35:50 | 音楽

今日は春一番だったのだろうか。強い南風が吹いていた。「春一番」と言えばキャンディーズ。私はキャンディーズが大好きだった。だからと言ってピンクレディーの悪口を言うつもりはない。ライバルの悪口を言って自分のひいきを立てようとするのは贔屓の引き倒しである。オペラファンにも多い。カラスのファンはテバルディを、テバルディのファンをカラスをそれぞれ罵っていた。競馬ファンも同じ。歴代最高牝馬はどの馬かなんて話になると、それこそ自分のひいきの馬の良さよりもライバルの馬の悪口ばかり。わがいとしのジェンティルドンナもずいぶんその被害にあっていた。そうした手合いはオペラファンと競馬ファンだけかと思ったら(私はどちらにも該当する)、朝ドラファンもそうだった(私はこれにも該当する)。今日の話に戻る。南風の後は雨が降ったらしい。だが、降ってる時間帯は、私は高田馬場駅近くの施設で楽器の自主練をやっていた。クラリネットは、来月の本番で吹く曲と、通唱会に備えたこうもり。ヴァイオリンは、次回の歌いまくる会で某さんの歌のオブリガートに弾けと言われた曲を初めて弾いてみた。リ、ラリラーリラ、ラーリラー、ラーーーーー……はいい(なかなかおいしい)。その後、音が細かくなったとたんに怪しくなった。某さん、がんばります、うまく弾けなかったらごめんなさい。そんときは「てへ」と言ってごまかします。ってな具合でトータル二時間練習してへとへと。体がだるい。すわっ、一大事、だるいってことはコロナ・ウィルスか。だが、イタメシ屋に言ってピザとパスタとワインを飲食したらすっかり元気になった(そして今ブログを書いている)。単なるガス欠であった。人間、まじめに集中してなにかをやると二時間でふらふらになるもんだなー。歌を歌ってこんなになることはなかった(いかんじゃん)。因みに、今日行った店は五文字の店ではない。将来、「安いだけがとりえのイタメシ屋」を開業するパーセントは現在の預金の利率よりも高い。だったら、あっちこち行って勉強しないといけないからね。そう言えば、今日ヴァイオリンで練習した曲は、ちょうど1年前くらいだったか、某駅の近くで号泣しながら大声で歌いまくったんだった。それを記事にしたら次に会ったお友達が一様に笑いながら「エアバルメ・ディヒ」と私にささやいたんだった。

デートはサ○○○ヤで

2020-02-22 11:14:55 | 日記
昨日の記事は6歳児になったつもりで書いたわけだが、実年齢に戻っても(10をかけて1を足しても)意識が変わっていないことに気がついた。私は永遠の6歳児である(チコちゃんの1つ上である)。で、そのフレンチであるが、高級店。めったに行けるところではない。この1年でこのクラスのレストランに行ったのは3回である(他の2回は、イタリアのミラノ近郊の湖のほとりのレストランと葉山のラ・マーレ)。たまにこういう店に行くために、普段はサ○○○ヤの「赤のデカンタ」で気鋭をあげている。ところで、できたばっかりの彼女、あるいはこれから付き合いたいと思っている女性とデートをするときに、こういうお高い店を選ぶべきだろうか(私自身の心配をしているのではない。婚活にはげんでいる世の多くの方々への余計なお世話で考えているのだ)。もちろん、不動産や株や相続で大もうけをした億万長者にはそれこそ余計なお世話である。私が問題提起しているのは、普段はサ○○○ヤがいいとこである私のようなロドルフォ(心の中だけの億万長者)についてである。無理をしてこういう店に通っていれば、ようやくゴールインとなったときに財布はすっからかん(私は、通わなくても、1度目ですっからかん)。結婚した途端に貧乏暮らしになって話が違うと言われて離婚するかもしれない。実際、某女性タレントがその理由で最近離婚した。「だって、話が違うしー」という彼女の言い分は分からなくはない。昔は、離婚は大方タブーであったから、釣った魚にエサをやらなくても逃げられることはなかったが、今では、簡単に逃げられる。「はい、それまでよ」である。だとすると、スタートはサ○○○ヤくらいが穏当かもしれない。普段はサ○○○ヤくらいにしとけば、たまに「オリーブの丘」あたりに行っただけで相当な加点が見込まれる。だったらいいぞ、私、サ○○○ヤのメニューはほとんど頭に入ってる。「ねえ君、ここのミラノ風ドリアは最高だよ。お金の心配なんかしなくていいさ。僕が、も、つ、か、ら」なーんて言ってね(だから私の話ではないっつーに)。因みに、ミラノ風ドリアを二人で完全に割り勘にすると、一人149円50銭である(値段は昨日のレシートを見て確認した。もちろんお一人様である)。

借金

2020-02-21 09:57:40 | 日記
さくぶんをかきます。みんなでふれんちにいきました。とってもおいしかったです。あかいおさけをたくさんのみました。なんばいもなんばいものみました。おかしがでてきてものみました。そしたらおかねがたりなくなりました。たりないぶんを○まさんからかりました。だからぼくにはしゃっきんがあります。しゃっきんがあるからおむこにいけません。もうろくさいなんだからいいかげんにしろといわれました。いいかげんってどんなかげんってきいたらばかといわれました。ごめんなさい、いっこ、うそをつきました。ぼく、ろくさいじゃなくてろくじゅういっさいでした。おしまい。

復縁

2020-02-20 09:32:06 | 日記
「スカーレット」(朝ドラ)の今週のタイトルが「もういちど家族に」ってとこを見ると、あの元夫婦は復縁するのだろうか。そういえば、ちょうどこの間の「新婚さんいらっしゃい」にも別れて復縁したという新婚さんだか旧婚さんだか分からない夫婦が登場した(あの番組は結婚してから3年以内でないと出られない。当初の結婚を基準にすると出演の要件を満たさないが、再婚を基準にすると満たすものだから出てきたのだ)。しかし、その夫婦の場合はささいなことで喧嘩して、勢いで「別れる」「別れる」と言って別れたがすぐ寂しくなって2週間で再婚したのである。特別である。通常は、覆水盆に返らず。私がよーーーく知ってる元夫婦も、二人して雁首揃えて同じ合唱団に来るもんだから、回りが勘違いして「復縁するのか」と聞くたびに元奥さんが「あり得ない」と強固に否定。その否定の様子を見るによっぽど別れた亭主が嫌いらしい(たしかにその元夫は相当バカである)。別れたら二度と顔も見たくないという人も多く、そういう人からすると雁首揃ってるところが奇異に映るのかもしれないが、唄子啓介だって別れた後もコンビを続け、二人して「おもろい夫婦」のMCをやっていたが、復縁はしなかった。いや、人間は忘れっぽいから、たまには復縁する元夫婦もいる。そして、また別れる(歴史は繰り返す)。ところで、前記の「新婚さんいらっしゃい」に出てきた例の旧婚だか新婚だか分からない夫婦は、復縁して互いの態度が一変し、互いを思いやるようになったと言っていた。おっ、じゃあ今マンネリ気味だから夫婦間にカツを入れるために一度別れてみっぺ(今、「ひよっこ」の再放送を見てるので、頭ん中が茨城弁だっぺ)と思う人がいるかも知れない。やってごらん、あなたはすぐ復縁するつもりでも相手にとっては千載一遇のチャンスかも知れん。別れた途端、知らない誰かと手に手を取って煙のごとく消えるかも知れん。そうなったら仕方が無い、前を向いてがんばろう。離婚率65%のロシアでは3回結婚するなんて当たり前、結婚した回数が多いほど人間にハクがつくそうだ。日本だっていつの間にか離婚率35%。いまどきバツイチなんて自慢にもならない。よーし、私もがんばるぞ……って言ってもがんばってどうこうなるものではない。このブログは、通唱会の人集めの役には多少はなってるようだが、嫁取りの役にはちっともならないことは、私がいまだにバツイチでとどまっていることが証明している。そもそも私の話をしてるんじゃなかった。因みに、レオンカヴァッロの「道化師」は、芝居をしているうちに自分のことと混同していって刃傷沙汰に及ぶオペラである。

誘惑されそこなった私(にっくきコロナ)

2020-02-19 09:06:00 | 音楽
あんな風にワインを扱ってはいけない(朝ドラ)。5万もするっていったら銘醸ワイン。オリがたまっている。だから飲む前の日から立てて置いてオリを沈めたらそれが舞い上がらないように静かに扱わなければならない。なのに小池ちゃん(ヒロインの友達の元女優)ときたらワインの瓶をぶん回している。小池ちゃんは金持ちかもしれないが、偽セレブである。じゃお前はセレブかって聞かれたら、んなことがあるはずがない。大体私は貧乏である。が、屋根裏に住んでいる詩人のロドルフォは「心は億万長者」と歌っている。「気は心」、私はロドルフォである。いや、違った、私は某歌姫に誘惑されるマルチェッロであった、いやなるはずだった。ちょっと説明しておくと、「ボエーム」(プッチーニのオペラ)には、ミミとロドルフォ、ムゼッタとマルチェッロの二組のカップルが登場するのだが、そのうちムゼッタがマルチェッロに対してやきもち大作戦を敢行。マルチェッロの前で生足をばたつかせながら「私が街を歩けばみんながふりむく」と歌う(ムゼッタのワルツ)。マルチェッロも対抗して酒場の女と肩をくんだりするが勝負は目に見えている。ムゼッタの圧勝。マルチェッロは「あーっ」とか言ってムゼッタの足下にひれふす(かえすがえすも男は哀れ)。さあ、私の話はここからである。あるイベントで某歌姫がムゼッタのワルツを歌うという。こんなにそそる話があるだろうか。絶対聴きに行こう、某歌姫(花ムゼッタ)はもちろん何百人に届けるつもりで歌うのだろうが、私は勝手にマルチェッロになって、自分だけが誘惑されていると妄想しよう。そして足下にひれ伏そう……と思っていたらあなた、なんと、イベントがコロナのせいで中止。某歌姫はもちろん同じ舞台に乗るはずだったお友達たちはどんなに落胆されていることだろう。マルチェッロになり損ねた私も残念無念である。にっくきコロナ。だがいずれ収束するだろう。誘惑されるのはそのときまでお預けである。ちょっと戻るが、ロドルフォが「心は億万長者」と歌う部分、有名な「冷たい手」の一節であるが、クライバー指揮のスカラ座オケがかなでる音楽は、まさに「心は億万長者」らしい馥郁たるものだった。それから、妄想の世界では喜んでマルチェッロになる私であるが、現実の世界でやきもち作戦を仕掛けられるのは大嫌いである。やせがまんが免疫の低下につながり、それこそウィルスの餌食である。

ハーレム

2020-02-18 08:47:12 | 日記
フェイスブックをやっていないお友達は私のブログに一瞬出てきた「ハーレム」を読んで意味不明だと思うからちょっと説明。私はABCという合唱団(仮名。Cだけ合っている)でアルトを歌っている関係で、回りはソプラノやアルトの美女だらけ。その状態を、囲んでいる当の美女達から「ハーレム」と言ってからかわれている。先だってもアルト仲間のK田女史が練習の合間に「イージマさん、ハーレム写真を撮りましょう」と言ったらいつも私をからかっている美女達が一斉集合してパチリ。その写真がフェイスブックにアップされて一層周知が広まった、とそういうワケである。因みに、その写真には「NKよさんと同じ」というキャプチャーが付けられていたが、これは不当である。NKよさんは美女に大層鼻が効く人で、美女の傍らにスペースがあるとさっとそこに入り込んで写真を撮ってもらうのを趣味にされている。その方と同じということは「イージマさんは美女に目がない」と言われているのと同じである。しかし、今回のハーレム写真の撮影のいきさつは前記のとおりであるし、なにより私はウブであるから美女に囲まれてハラハラドキドキ、心ここにあらず、しかも、指揮者の先生は怪訝な顔をして見てるし、囲んでくれてる美女のお一人のご主人は普段は遠くにいるから気楽なのにこのときは至近距離。非常に緊張した撮影会であった。それに、普段フェイスブックを見ない彼女がたまたま見たら怒るかもしれないし、でも、次の瞬間、そんな彼女はいなかったと現実に戻ったが、でも、将来現れたらお婿に行けなくなる(そしたら美女さんたちに責任をとってもらおう)、いや、明日の心配より今日のパン(ワケが分からない)などと、よもやまな妄想が働いて心が騒がしかったというのが後日談である。とか言ってて、ホントの美女達(ウソの美女がいるのか?)に囲まれてうれしくないはずはない。自分でもちゃっかりその写真を「ハーレム」というファイル名でパソコンに保存した。今度、A合唱団のお姉様方に見せびらかして自慢しよう(A合唱団のお姉様方は、ABCを美人の巣窟だと思っている(実際そうですけど))。ちょっと調べたら「ハーレム」は元はトルコ語で、「(男子)禁制」という意味だそう。だから、意味的には江戸時代の「大奥」と似ている。発音は「ハレム」が元に近いそうだが、ドイツ語にもなっていて、そっちだと「ハーレム」(Harem)になる。

嫁取り大作戦

2020-02-17 11:21:41 | 日記
最初にお断りしておくが、今日の登場人物の仮名のアルファベットは正しいイニシャルではない。登場順にAから付けたものである。ということで本題。昨日のABC(Cだけ合っている)の練習の後の飲み会で、久しぶりに悪酔いした。いつもは記憶をなくすが悪酔いなどしない。だが、昨夜は、記憶はある。松戸でひとりぼっちになって(ほおら、ハーレムとか言ったって、帰りはいつも独りぼっち。寝室が一人のハーレムなんて聞いたことがない)、上り電車に乗ったら乗り過ごして大手町まで行って、下りはちゃんと綾瀬駅で降りて、そこで気持ちが悪くなった。ABCの練習の前にD区のファミリーコンサートに行って、5人のピアニストが交代で連弾するってコーナーがあって、各自弾かない間は踊るのだが、その中にE子先生がいて、E子先生の刺激的な衣装をまとっての踊りを見てすっかり欲情して、それで体調がおかしくなったんだと思う。それでも、飲み会で収穫はあった。Fさんの結婚のいきさつを聞き出したことである。会社をやめて失業中に外国旅行を思い立って、そのとき付き合ってた彼女(今の奥さん)が一緒に行くと言って、それが新婚旅行になったという話はなかなかのものである。私は人からこの手の話を引き出す天才だと思う(そのために、呼び水として自分の過去もしゃべる。私は、宴を盛り上げるために我が身を犠牲にしているのである)。ほかにGさんの嫁取り作戦についても花が咲いた。最近の私のミッションはGさんに嫁をとらせることである。こないだもHさんをおしつけようと思って打診したら歳が上過ぎるという(HさんはGさんより一回り以上上である)。だったら、と今度はGさんの同年配の某古楽器を弾くIさんはどうかと持ちかけたらまんざらでもない。よし、じゃあIさんにこの件をたきつけよう。なーんてことを書いているうちに少し元気が出てきた。今朝はご飯もたべずにとりあえずブログを書いている私である。いや実は、もう食べれる状態なのだが、「ご飯を食べずにブログを書く」というシナリオに縛られて、食べるのを我慢しているのである。さあてと、書き終わったから朝(昼?)ご飯にしよっと。

失恋した人はこうもり通唱会にいらっしゃ~い(失恋しない人も)

2020-02-16 11:23:19 | 音楽
千人通唱会の場所を確保、指揮も去年振ってくれたU先生が引き受けて下さって一安心。U先生は、去年、有象無象の輩を見事にまとめあげてくれたからなー。U先生とピアノのK子先生の枢軸ラインに、後は、希望があるだけ楽器を加えるという基本方針は去年と同じ。場所はオケの練習にも使うところだから金管もOKです。あとは募集をいつ始めるかである(あまり早すぎるとだれる)。本番(通唱会の「本番」というのも妙だが)は8月10日。そしてもう一つ、私が主催するのはこうもり通唱会。こっちは1月ほど早くて7月12日だが場所は未定。でも、千人ほど編成が大きくないから、場所はあせらなくても見つかると思う。K子先生の弾き振りだから指揮者探しは不要。こちらも募集はまだだが、私の中ではもう始動している。こないだ、歌いまくる会のソロ・コーナーで序曲の一部をクラリネットで吹いた。♪(移動ドで)ソ♯ファソラソ♮ファ、ミ♯レミファミ♮レ、ドミソッラッ、ラー……(ドミソッを前のめりぎみに演奏するとウィーン風)。このワルツ、最高に楽しいねぇ。どんなに落ち込んでいてもこうもりを聴けば一発で幸せな気分になる。悲しいときはこうもり、悩んだときはこうもり、泣いてるときもこうもり!失恋した人はこうもり通唱会にいらっしゃ~い!(失恋しない人も)因みに、序曲の出だし(移動ド)、♪ソッ、♯ソッ、ラを聴いて後藤美代子アナウンサーの声が浮かんできたら私と同世代のオペラファンである。そう、景気よく序曲が始まって、ちょっと静かになったところで、「オペラアワー、日曜日の午後のひととき、オペラの全曲録音でお楽しみいただくオペラアワー」と入る。後藤アナウンサーはわれわれのマドンナであった。後藤アナは私が子供の頃、NHKのクラシック番組を一手に引き受けておられたから、オペラアワー以外でもいくつか印象深かったものがある。例えば、私がオペラファンになったきっかけの中一のときのNHKイタリアオペラで、「ラ・ファヴォリータ」(ドニゼッティ)のあらすじ朗読の「時既に遅く」。それから、ウィーン国立歌劇場が引越公演で二回目にフィガロをやったときのケルビーノについて「前回の彼女がすごすぎた」(前回の彼女=アグネス・バルツァ)。そして、一番はこれ。コシ・ファン・トゥッテについてお話をされていたときのこと、コシ・ファン・トゥッテは「女はみんなこうしたもの」の意味だという話の流れで「私は、男はみんなこうしたもの、と申し上げたい」とおっしゃった。おおっ、と思った。NHKのアナウンサーであった後藤アナがご自分の意見をおっしゃったのを聴いたのは後にも先にもこのとき限りである。