□183『岡山の今昔』岡山人(19世紀、伊東万喜、江戸での暮らし)

2019-02-28 10:01:34 | Weblog

□183『岡山の今昔』岡山人(19世紀、伊東万喜、江戸での暮らし)

 さて、伊東万喜の手紙の中には、家計のやりくりや子供の教育、世情などが丁寧に記されていることから、その史料価値はかなり高いとみられる。それらのうち、特に開国で揺れる中での物価の動き、そして暮らし向きにつき、次のものがある。

 「当地の米の値段は、二月・五月は下値四〇余両でした。これは玄米一〇〇俵の値段です。すべて当地(江戸)は、一〇〇俵の値段を申します。当十月の玉落(たまおち)の節は、五七両二分の高値になりました。

 これは夏中雨が降り続いたためでしょうか。そちらも雨が降り続いた年で、登り年は二月の玉に二五俵、五月は一〇〇俵、みな米で支給を受けました。その節は下値で、当十月の玉は、前文の通り三分の二はお金でくださり、三分の一は米で支給されました。 

 そのうち、飯米として一三俵を請け取り、残りの分は少しです。御張紙(おはりがみ)は四一両なので、よほど心して暮らしていかなければ、なかなか収支が合いません。」(1849年(嘉永2年の筆、前掲書たる妻鹿淳子「武家に嫁いだ女性の手紙ー貧乏旗本の江戸暮らし」吉川弘文館、2011の、著者による現代語訳より引用)

 また、武士の家人ながらも、農民のことを気にかけているようなものもあって、こういう。

 「近年日照り続きで畑田ともに不作、村内の者は困窮している由、さてさて良いことはないものであろうか。」(1857年(安政4年の筆、同)

 もう一つ、今度はあわただしい世情につき、紹介されているものの中から転載させていただく。

 「当地(江戸)にも、唐人(アメリカ人)が四、五年前から来て、いろいろ難題ばかり申し、とかく難しく交易交易と言って、日本の米やそのほか入用の品々と取り替えることばかり申し出て、拒否すれば、軍船を率いて戦をすると脅し掛ける。

 いままでは、なんとか色々と言い訳をしてときを過ごしていたが、昨年より「おも立候唐人」(アメリカ総領事はハリス)が下々の者も連れて江戸へ出てきて将軍に謁見し、交易の要求を申し出ているようです。(以下、略)」(1857年(安政4年)の筆、同)

(続く)

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□111『岡山の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、公害)

2019-02-26 19:05:35 | Weblog

111『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯(石油化学コンビナート、公害)

   1964年には、水島を中心とした岡山県南地区は、国の産産業都市の指定を受けた。そうした中、同年6月から試験操業を始めた化成水島の煙突から炎が上がる。それからは、関係各社の工場の煙突が増えていく。昼も夜も炎と白煙がのぼり、煙が天高くたなびく風景となる。それに応じて、生産活動がどんどん伸びていく。そして迎えた1974年(昭和49年)12月18日、三菱石油水島製油所で重油流出事故が起きた。水島港に流出した重油は、港を油びだしにしていく。

 その流出元は、そこで三菱石油の原油を備蓄していた屋外タンク(高さ24メートル、直径52メートル)なのだが、その中にそれぞれ約容量5万キロリットルの重油を備蓄していたらしい。

 ところが、同月18日にこの中の一つの底部が裂け、重油が噴出した。この勢いでタンクの直立階段が飛ばされてしまう。防油堤もあったらしいが、これも破壊されてしまう。それからはもう遮るものとてなく、かかる重油は水島港へと流出していった。

 この原油流出は、直ぐには止まらなかったことから、瀬戸内海東部一帯のかなり広い海洋を汚染した。瀬戸内海に流れ出た重油の量は、ざっと見積もって1万7000キロリットル位もあったのではないか、と推測されている。海に流れ込むと大変なことになると、集まった消防隊員が必死で土のう積みをしたのも、タンクから流れ出たのがドラム缶で約21万5000本分、約4万2888キロリットルだったとも言われるので、大して効き目はなかったのではないか。
 かかる重油の除去作業については、それからもまだ続きがあった。そんなこともあろうかと、万一にそなえて設置されていたオイルフェンスは、冬の強風と引潮で押し寄せて来る油の波頭を堰き止めることができずに、軽々と越えてゆかれるのを許した。ために、重油は海流に乗って香川県坂出市から高松市、さらには鳴門海峡までの西へと広がっていった。重油汚染の拡大を止めようとする作業には、沿岸の瀬戸内海一帯の漁師が総出で回収作業で参加した。

 しかしながら、人手で船の上から吸着マットで吸い取ったり、ひしゃくで油をすくうのでは、大変な手間がかかる。それからも妙案が浮かばないままに、当該の作業は、厳戒態勢の中で結局、翌年の10月まで続けられるのであった。その間、大きな被害を受けたのは、のりやはまちを始とする瀬戸内海沿岸に展開していた養殖漁業の数々であった。

 これらを中心に、漁業への被害額は、後の補償費に直して約536億円にもふくれあがった。将に、「今や臨海における重化学工業都市の功罪が資本主義のそれと共に問われ始めている」(藤岡謙二郎「五訂・人文地理学」第二改訂版、大明堂、1988)とも言われる大事態を現出したのであった。この事故の後の1975年(昭和50年)には、石油コンビナート等災害防止法が制定され、その中で石油タンクの周りに油が流れ出すのを防ぐ堤(つつみ)を設けることが義務付けられた。

(続く)

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○551の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし、いくつかの形態)

2019-02-25 08:47:32 | Weblog

551の1の2『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし、いくつかの形態

 BIの定義というのは、厳密に述べるのと、もっと緩やかな、それからの派生形態としての幅広のBIとがあろう。厳密にいう場合には、基本的な生活に必要な水準とされる金額、つまり現金を、無条件かつ定期的に、貧富などの別なく、公的機関が給付するというものだ。ただし、これを文字通り行うのは、たやすくあるまい。

 この狭義で用いるBIに対し、広義でいうところの第一のタイプとして、給付を受ける人を限定して現金給付するというものだ。一定年齢以下の子供に限るのとか、高齢者に限るとか、さまざまな類型があろう。

 広義でいう場合のもう一つのタイプは、現金給付の実施方法の違いを認めるものであって、かかる無差別の前提を外しての「条件付き現金給付」があろう。こちらには、先に紹介したフリードマンの考えた「負の所得税」のみならず、「給付付き税額控除」というのもあろう。これらのうち後者は、例えば、所得税を20%とおき、額面年収200万円の世帯に向け、60万円の税額控除を認めるとしよう。すると、税引き後の所得は160万円。これにBIとして給付される60万円を足すと160万円+60万円=220万円の手取り額となろう。

 一説には、この第一、第二のタイプの組み合わせで行うものが、欧米では目下の主流の考えであるらしく、「勤労者所得税額控除」と呼ばれる。これは、BIの給付対象を主に低所得者世帯に絞ったうえで、しかも就労して所得があることを給付条件とする。

(続く)

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(続く)

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〇551の3『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのデメリット)

2019-02-24 21:26:07 | Weblog

551の3『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのデメリット)

 これに対し、多様な立場から反対論が色々と出されているようだ。一つは、財政負担が大きく、賄いきれないという。「財政危機が叫ばれて久しいのに」である。「財源不安説」といってもよかろう。

 

二つ目には、お金の「ばらまき」になるともいう。乱暴な話だというのであろうか。その分が助けとなって、なにがしかの消費財を買う、そのことで景気回復なりに役立つだろうか、それはわからない。

 なぜなら、そのカネが市場にとうじられたとして、ために世の中がインフレになったらどうするか。カネの価値はその分減じていくだろう。あるいは、そのカネが人々の浪費とか、債権者たちの取り立てをくらうとか、その他喜ばしくないことを引き起こすこともあるうる話ではある。

 三つめとしては、すべての成人に対し一律の額にて支給されることから、そのままにては「貧富の差の拡大」の是正につながらない」との声がある。その並びで、富裕層に対する支給は、格差をいっそう広げるという。

 四つめには、働かなくても最低限の生活ができるのなら、働く意欲を削がれる人も出てくるという。勤労意欲というか、勤労の美徳というか、それらの放棄につながるのではないかという。

 

 そして五つめは、現行の社会保障制度が影響を受けて、改悪されることにもなるだろうという。その並びで、個人に対して責任を高く負わせることになり、その分福祉水準の低下や廃止へとつながっていくという。

 さらに六つめは、資本と労働との力関係を労働者の不利に導くという。現にある労働・賃金との関連では、「賃金の引き下げにつながりかねない」とか、「Society5.0での人減らし合理化をたやすくする」「社会的に失業が問題視されなくなって、失業者が放置される傾向が増す」との警戒論も出されている。

 もっと生々しく言うならば、「それだけもらっているのなら、会社をやめてもやっていけるのでは」とか、「賃金が下がっても、それがあるからやっていけるかな」などと、圧力がかけられることにもなるだろうと。

 これらの理由付けのうち、21世紀を物語るのが、ロボットなどに労働者の仕事が駆逐される危険が増しつつある、というのであって、これを現時点で評価するのは誠に難しい。

 それから、狭い意味での反対論ではないが、「市場機構を通じての配分のメカニズムをそのままにしておいて、所得保障を通じて解決しようという場合」の危うさを指摘する向きもある。それに、「社会実験している例はあるが、導入した国はまだなく、うまくいくかどうかわからない」との声も聴かれる。

(続く)

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○〇551の4『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(制度設計は可能か、社会保障給付を問う)

2019-02-24 21:23:01 | Weblog

551の4『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(制度設計は可能か、社会保障給付を問う)

 前段でみたように、BIに対し狭い意味での反対論ではないが、「社会実験している例はあるものの、導入した国はまだなく、うまくいくかどうかわからない」との声も聴かれる。「それならやめよう」ないし「当面は模様眺め」とするのでなければ、その場合は具体的な検討を行う人が出てきて然るべきだろう。

 とはいえ、この制度をわが国で導入するには、既存の制度との調整が必要だろう。一説には、世の中の大方の人たちは、ゆくゆくは年金や生活保護などを一本化して、この中に社会保障関係を統合していくというプランを掲げる。そうなると、現在の社会保障関係費が丸ごとBIに集約されることになるのであろうか。

 この点については、「小さな政府」論者なども興味を示しているようだ。そこで、話を分かりやすくするために、以下に我が国の社会保障関係費の現況のあらましを紹介しておこう。

 試しに、2019年2月時点で明らかになっている2017年度(平成29年度)の社会保障給付の総額は、120.4兆円だという、その内訳だが、「介護・福祉その他」に24.8兆円、そのうち介護には10.6兆円。「医療」に38.9兆円。年金に56.7兆円となっているという

 これに対する財源としては、114.9兆円プラス資産収入の5.5兆円の合計が120.4兆円だという。そして、かかる114.9兆円のうち公費で賄うのが46.3兆円であり、その内訳は地方税等負担での13.6兆円と、政府サイドの負担での32.7兆円(国債発行での13.6兆円と国の税収19.1兆円との合計)だ。それに、保険料として68.6兆円が加わる(以上、端数が一致しない場合もある)。

(続く)


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〇551の2『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのメリット)

2019-02-24 21:08:56 | Weblog

551の2『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのメリット)

 そこで、現下の賛成論から紹介しよう。

 一つめは、原則論でいうならば、個々人の収入、資産などを調べる必要がなく、各人による申請に基づく審査も原則的には必要でない。したがって、行政コストが大幅に減らせるという。この考えでは、裕福な者に対しても、そうでない者と同様一律な支給をするというのは、「おかしい」とはならないらしい。受け手としても、審査で選別されるのでないから、気が楽ではないか。受けて同士で話もしやすい。

 二つめは、直接にカネが渡されることから、可処分所得が増えるので消費拡大が可能になろう、ひいては景気回復に力となろうという。

 三つめは、無収入になる不安がないことから、暮らし方、働き方の選択肢が広がるのではないか、ひいては、例えば非正規雇用問題の緩和に役立つのかもしれないという。

 四つめは、当座のカネがあることになるので、慌てて次の仕事を探さないでもよかろう。慌てると、いい加減な仕事にしかつけない。

 五つめは、失職を恐れて無理をして働かなくてもよいので、その分、心と体が楽だ。

 六つ目は、消費税の逆進性への防波堤になりうるのではないかと。

 七つ目は、貧困対策に役立とう。

 八つ目は、これをもって社会保障制度の簡素化につながるであろうし、さらにまた、こういう制度でもって従来策を束ねることでを、行政の簡素化、コストの低廉化につながるだろうという。

 九つ目は、現行の社会保障制度のうち、例えば生活保護制度の申請ができるのは、親族内で生活援助できないという証明か必要になるとかで、各自治体によりかなりの差がある。

 十番目としては、「完全BI」といって、ゆくゆくは年金や生活保護などを一本化して、この中に社会保障関係を統合していくというプランを掲げる。そうなれば、かえって社会保障制度としてのまとまりが出て、憲法条項との整合性が、とれるのてはないか。 いずれにせよ、「健康で文化的な最低限度の生活費」の水準をどのようにして認識するかが、問題となろう。

 十一番目は、今回の新型コロナ下で、国民への一斉給付が行われている。ベーシックな給付の下地ができているなら、安心だ。生体認証のあるカードを持っているなら、安全が迅速に個々人にちゃんと現金ねりが届くのでは、ないか。



(続く)

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○〇551の1の1『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし、発端)

2019-02-24 21:07:26 | Weblog

551の1の1『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシックインカム(BI)(そのあらまし、発端


 日本の憲法は、全ての国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障しているかのように見える。ところが、従来の国の解釈では、これは努力目標であって、実際的に個々の国民の生活を一律に保障するものではないことになっている。

ところが、最近ベーシックインカムという言葉が世の中に広く知られるようになった。そもそもの出所は、旧くはトーマス・モアの「ユートピア」あたりにあって、西洋諸国では人々にかなりの知遇を得ているという。

 その特徴としては、これまでの最低生活保障制度という範疇ながら、雇用の状況や収入、資産の如何にかかわらず、政府が全ての国民を対象に、最低限の生活に必要なお金を無償で与えるというものだ。

 最初に、現代風なベーシックインカムの起源は二つあるという。一つは、『社会信用論』を著したC.H.ダグラスが提唱したものだ。これは、貨幣発行益を財源とし、「国民配当」という形で政府が発行紙幣を国民全員に配るというもの。

  もう一つは、経済学者のミルトン・フリードマンが提示した構想で、「負の所得税」と呼ばれる。これは、「一定の額に所得が達しない人は、むしろお金がもらえる」という。例えば、所得税税率を一律25%、社会的合意で最低保証する所得を100万円としよう。すると、「所得×0.25-100万円」が個々人の収める税金になる。この場合、所得が400万円以上の人は納税を免れない。けれども、400万円未満の人は税額がマイナスになってしまう。例えば所得が240万円の人は、「240万円×0.25-100円=-40万円」であることから40万円の給付が受けられよう。それを元の所得に足しての再分配後の所得は、280万円に上がるだろう。所得が全然ない人にいたっては、丸ごと100万円の給付が受けられることになるだろう。

  この「負の所得税」構想とベーシックインカムとの違いは、ベーシックインカムは税金を払った後に一定額が自分のところに返ってくるのに対し、「負の所得税」は、その差し引きを最初にしてしまうということであって、損得では変わらない。

(続く)


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□176『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、良寛)

2019-02-23 22:07:38 | Weblog

□176『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(18~19世紀、良寛) 

 良寛(りょうかん、1758~1831)は、日本にあまねく知られる仏教者にして、書や詩作などもよくした。とりわけ書は、かの「平安の三筆」と並び誉れ高い。彼らとは別段の自然な境地にて、燦然と輝く。

 念のため、「良寛」とは、実名ではなく、仏教でいうところの法号にほかならない。1779年(安永8年)に、玉島の円通寺の国仙和尚が越後の尼瀬にある光照寺をおとずれ、そこで禅の修行をしていた若き日の山本新左衛門に得度を与える。国仙の下で、その新左衛門は「良寛」の法号を与えられる。自分の寺に帰る国仙について故郷を後にし、玉島の円通寺に赴く。

 それからの修行でめきめき頭角をあらわし、1790年(寛政2年)には、国仙から雲水修行の印可を受ける。師匠から「一等首座」の地位を与えられる。そして、円通寺境内にある覚樹庵を預けられる。

 翌1791年に国仙が69歳で病没すると、諸国行脚の旅に出る。どうやら、師匠の跡を継ぐ気などはなかったようだ。

 その頃の良寛の人となりをあらわすと思われるものに、その頃の作であろうか、本人による次の詩がある。

 「面仙桂和尚真道、貌古言朴客、三十年在國仙會、不参禅讀経、
不道宗文一句、作園蔬供養大衆、當時我見之不見、遇之遇之不遇、吁嗟今放之不可得、仙桂和尚真道者」

 書き下し文は、次の通り。

 「仙桂和尚は真の道者、黙して言わず朴にして容づくらず、三十年国仙の会に在りて、禅に参ぜず経を読まず、宗文の一句すら道わず、園菜を作って大衆に供養す、当時我れ之を見れども見えず、之に遇えども遇わず、ああ今之に放わんとするも得べからず、仙桂和尚は真の道者」

 これにいう仙桂和尚は、どうということはないほどに、人におのが実力を誇示したりの人ではなかったようだ。自らに与えられた職務である、同寺の典座(てんぞ、炊事係)を淡々と務めていたことであり、良寛は相当に尊敬していたらしい。思い起こせば、日本における曹洞宗の開祖・道元の言辞に、中国に留学のおり、ある典座の言葉にいたく感動したという話が伝わっており、その故事にならったのかもしれない。ともあれ、その頃の良寛は、本山争いをしている永平寺と総持寺の首脳の在り方にはうんざりしていたらしい。

(続く)

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□182『岡山の今昔』岡山人(19世紀、小林令助)

2019-02-23 21:41:31 | Weblog

182『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、小林令助)

 津山への入口ともいえる勝間田の地には、この時期に医業で多くの人材が輩出している。その中で、小林令助(こばやしれいすけ、1768~1851)の働きがあり。彼の活躍は杉田玄白(すぎたげんぱく)とも関係する。玄白といえば、語学に堪能な前野良沢と協働してして、ドイツ人の著書を翻訳しての『解体新書』を発行した人物だ。その玄白の門人として、親交があったのが小林令助であった。令助は、美作国勝南郡岡村(現在の勝田郡勝央町)に生まれる。

 医師の小林新太郎景治の三男として、それなりの富裕な家に生まれたおかげであろうか、18歳で江戸に遊学して、玄白のもとで外科を学んだ。また、1799年(寛政11年)には京都に赴き、漢方医師の吉益南涯(よしますなんがい)に内科を学ぶ。また、宇田川玄真(うだがわげんずい)や藤井方亭(ふじいほうてい)ら蘭学者とも交流する。

 その後、郷里に帰り、医院を開業した。令助の名は杉田玄白の門人帳には見当たらない。それでも、玄白の日記の1790年(寛政2年)年2月17日条」に「送帰令助之作州」という詩が見える。同様の主旨の詩が、同年3月4日条にも「業成才子作州帰」という題で残る。これから、玄白が令助に相当に目をかけていたことが窺える。

 中でも、1805年(文化2年)年11月14日付け、玄白が73歳のときに令助に宛てた手紙が、津山洋楽資料館に残っており、紹介されている。こちらの手紙の体裁としては、前年に玄白は将軍にお目見えをしており、令助がそれに対して述べた祝賀への返礼である。ソッピルマート(塩化第二水銀、消毒用劇薬、当時は梅毒治療に用いられた)の製法などに関する問合わせへの回答、令助が仕官の斡旋を依頼したことに対しての回答などが記されている。

 その後の1819年(文政2年)の令助は、当時岡村を領していた但馬国出石藩(たじまのくにいずしはん、藩庁は現在の兵庫県豊岡市)の藩医に取り立てられた。 なお参考までに、同藩ではその2年後に「江戸三大御家騒動」の一つに数えられる「仙石騒動」(せんごくそうどう)が起こる。

(続く)

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♦️325の2『自然と人間の歴史・世界篇』血液型の発見(1900)

2019-02-21 23:15:19 | Weblog

3252『自然と人間の歴史・世界篇』血液型の発見(1900)

 1900年、オーストリアの化学者のカール・ラントシュタイナー(1868~1943)は、他人同士の血液を混ぜる実験をしていたという。すると、赤血球同士がくっついてかたまりになる凝集(これを「溶血」という)が起こった。その原因を確かめるべく、自分と弟子たちの血液を赤い血球と、うす黄色の血漿(けっしょう)とに分離する。そして、その分離した各個人の血球に別な人の血漿を加えてみた。なお、ここにいう赤い血球というのは、血液の細胞成分であって約45%を占め、赤血球、白血球それに血小板などから成る。これらのうち、赤血球は、自分に乗せて全身に酸素を運ぶ役割を果たす。また血漿成分というのは、血液の約55%を占め、水分やたんぱく質から成る。

 すると、どうだろう。赤血球が凝集するものとしないものとがあった。しかも、その凝集の組み合わせに規則性というものがあることを発見した。それも、凝集するのを見越して、その原因についての仮説を立てての実験であったようで、その仮説とは、「自分と異なる血液の種類を排除する抗原抗体反応ではないか」というものだった。その10年ほど前、日本の北里柴三郎が発見した「抗体」の概念によると、実験でこのような差異が観られるのは、かかる抗体反応が今試験管の中で起きているに違いないと考えた。

 そして、カール・ラントシュタイナーらは、それぞれの場合について、どのような赤血球の型があるかを煮詰め、ついにそこに次のような規則性があるのを発見する。具体的に言うと、こう考えた。赤血球の表面には抗原と呼ばれる物質がある一方、血漿の中には抗原と結びつく抗体が存在する。例えば、A型の赤血球にはA抗原という物質がある。そして、このA抗原に結びつく抗体を抗A抗体と名付けよう。すると、A抗原の突起(いわば鍵)の部分は、抗A抗体の穴(いわば鍵穴)とびたり一致する。しかし、実際のA型の血液には抗A抗体はなくて、その代わりにB抗原に結びつくB抗原に結びつく抗B抗体があるということになった。

 そこでもし、A型の血液にB型の血液を混ぜるとどうなるか。それというのも、ここにいうB型の血液にはB抗原がある。その一方で、A抗原とびたり合う抗A抗体が存在することになっている。すると、前者としてのA抗原(鍵)をもつA型の血液(赤血球)と、後者としての抗A抗体(鍵穴)をもつB型の血液(血漿)とが、抗原(鍵)と抗体(鍵穴)とが結びつくことから、混ざり合うことになろう。そうなると、かかる赤血球同士がくっついてかたまりになる凝集が起こり、「赤血球の膜が壊れる」(「朝日新聞」2019年1月5日付け)ことになるのだという。

 カール・ラントシュタイナーは、このような実験から、私たちが今日いうところのA型、B型そしてО型の血液型を発見した。なお、AB型の血液型は後に彼の弟子により発見されたのだという。およそこのようにして、血液型の何たるかの基本的仕組みが明らかにされた。

(続く)

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□120『岡山の今昔』鉄、銅、ベンガラ、炭など

2019-02-21 18:53:47 | Weblog

120『岡山(備前、備中、美作)の今昔』鉄、銅、ベンガラ、炭など

 吹屋は、観光ではあのベンガラ屋根の家並みで知られる。いまでこそ甚だ淋しい集落であるが、807年(大同2年)の開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであった。江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 具体的には、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山は、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。

 これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。

 1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。この川上郡には、成羽町(なりわまち)の西隣に備中町がある。さらにその南が、川上郡川上町である。

 また、吹屋で有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったらしい。当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。

 さらに、江戸時代におけるの鉄の生産は、大まかには、この地方に古代から続いてきていたものの延長と考えて差し支えあるまい。とにもかくにも、このあたりには中世からの鉄の産地としての面目があったから、以来、その営業は脈々と続いてきていたようだ。それから、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、炭化してつくる。化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、「木や竹を燃やしつつも空気とけつごうできない状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。


(続く)

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♦️906『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ最低賃金

2019-02-20 10:51:45 | Weblog

906『自然と人間の歴史・世界扁』ドイツの最低賃金

 ドイツでは、2015年1月1日に全国一律の法定最低賃金(当時時給8.5ユーロ)が導入された。それまでも、業種別の最低賃金を決める枠組みは、緩い形で存在していたという。

 けれども、それは、全産業に適用される、万人に法的な拘束力を持つ最低賃金としては存在しなかった。それというのも、労使は産別を中心に団体交渉を行い、そこで決定した協約賃金を拡張適用することで、未組織労働者へ波及させてきた。そういうことなので、1990年代初頭までは、さしたる必要性が社会的な声として上がらなかったのかもしれない。

 とはいえ、この間の産業構造の変化や労働組合の力量低下もあり、その効果が限られるようになってきた。そこで政府もやっと乗り気になり、政府、産業界、労働者の間で制度化の合意がなったのだという。

 その創設の2年後の2017年1月1日には、最低賃金が8.84ユーロに引き上げられた。そして迎えた2018年6月26日の最低賃金委員会は、最低賃金(時給)を、現在の8.84ユーロから、2019年1月1日より9.19ユーロ、さらに2020年1月1日を期して9.35ユーロへ、二段階で引き上げるよう政府に勧告したという。

(続く)

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□191『岡山の今昔』岡山人(19世紀、山田方谷)

2019-02-20 09:43:43 | Weblog

□191『岡山の今昔』岡山人(19世紀、山田方谷)

 山田方谷(やまだほうこく、1805~1877)は、その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 そんな引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
 「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。

 できたばかのり明治新政府の要人として出仕するよう誘いを請けたとも伝わる方谷なのだが、固辞したらしい。すでに隠居の身の上にて、いまさら宮勤めは勘弁してくれというのであったのかもしれない。この点、今更ながら、断らなければより有名な身の上になったのではないかとの評にも出くわす。けれども、彼の名声の真骨頂は政治事に臨んでの勇断実行のほかにもあったはずで、それは上から目線で人に相対しなかったことにあるのではないか。

 新政府に出たら出たで、「富国強兵」が国是となる中、財政を担当する者には、終わりなき修羅場に違いあるまい。旧と新が激しく混ざり合う、混濁の世での対応には、気力と体力の消耗を強いられよう。必ずや出くわしたであろう、有象無象の政敵などに足元を狙われることもありうる。のみならず、晩年の方谷にとって、表舞台にて功なり名誉をほしいままにすることが人生の最終目的ではないことを、何かしら読み取ってのことだったのではないか。

 (続く)

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□178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2019-02-19 11:05:57 | Weblog

178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。

 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。

 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。

 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。

 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。

(続く)

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□177『岡山の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

2019-02-19 09:31:20 | Weblog

177『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)

 宇田川玄随(うだがわげんずい、1756~1798)は、宝暦年間(1751~1764)に津山藩医を務める。その家というのは、元々武蔵野国の出身であった。大人となってそもそもは、代々の漢方医を継いだのだが、桂川ほしゅうや前野良沢に学ぶうち、蘭方医に転じる。オランダ語の習得が必要であったからとて、いわゆる横文字との格闘が伝わる。1792年(寛政4年)に同藩内で、解剖を行う。また、「西説内科撰要」を著わし、西洋内科を初めて体系的に日本に紹介する。

 宇田川玄随の養子に宇田川玄真(うだがわげんしん、1770~1835)がいる。彼は、オランダ語などの語学に優れた。「遠西医範」(30巻)をものにし、またその要約本の「医範提要」(3巻)、およびその付図としての「内象銅版画」を著わす。

 玄真の業績としてはそればかりでなく、時代の要請があったようなのだ。語学の才をかわれたのであろうか、幕府の命で天文方の高橋景保(たかはしかげやす、伊能忠敬の師匠)に協力し、「阿蘭陀書籍和解御用」を務める。

(続く)

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