◻️192の3の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、犬飼松窓)  

2020-03-31 20:39:44 | Weblog

192の3の6『岡山の今昔』岡山人(19世紀、犬飼松窓)


 犬飼松窓(いぬかいしょうそう、1816~1893)は、江戸後期から明治時代初期にかけての儒者にして、教育家だ。備中の都宇郡山地村(つうぐんやまじむら、現在の倉敷市山地)
 農業のかたわら、学問に励む。あらかた独学にて、荻生徂徠(おぎゅうそらい)や伊藤東涯(いとうとうがい)、それに中井履軒(なかいりけん)らの説を学んだようだ。
 1856年(安政3年)、41歳の時には、中国の東晋(とうしん)時代に、「我が道をゆく」類いの詩作の日々を過ごした陶淵明(とうえんめい)にならってか、郷里において私塾「三よ塾」を運営し、多くの門弟をおしえる。門長屋のひと間を、学習室に充てる。
 この「三よ」というのは、「冬は歳のあまり、夜は日のあまり、雨は晴のあまり」の習いにて、農閑期を中心に、農耕の妨げない範囲で学べるように工夫した、と伝わる。
 主に教えたのは、漢文関係であって、四書五経を読んで聞かせたり、詩を示して門弟皆で吟唱したりで過ごしたらしい。皆、楽な身の上ではなかったであろうから、皆々での理解が大切であったに違いない。
 なお、著作に「孫子活説」などがあるというが、世間にどれだけ伝わっていたのか、ぜひ広く探求するべきだろう。

 

(続く)

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◻️204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

2020-03-31 18:40:31 | Weblog

204の6『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤井静一)

 藤井静一(ふじいせいいち、1871~1952)は、社会福祉事業家だ。
津高郡面室村(現在の岡山市北区三和)の地主の家の生まれ。二男だが、1891年(明治24年)に学業を終えて、故郷に帰り、農業を営む。
 そのうち農村の疲弊を憂い、農村救済事業に着手する。折しも、経済変動の激しい時期であった。思想的には、日蓮宗と二宮尊徳の報徳主義を信奉する。
 そのやり方は、小作料取立てや松茸の売買で得た手数料を貧しい小作人の名義で貯蓄、それを基に田畑や山林を購入して貧農に貸し与える。また、自己所有の松茸山を解放し、その収益を一部を同様に積み立て、彼らの田畑や山林を買い戻したりして、生活を支援した。
 1902年(明治35年)には、相互扶助の精神に基づく御津郡(現在の岡山市御津)に安部倉懺悔会(あべくらざんげかい)を発足させる。貧困救済を目的とした融通講を始める。わかり安く言い換えると、「農作物の収益を積み立てた基金を設け、貧困家庭に無利子て貸し付けていた」(山陽新聞、2019年4月12日付け)という。
 それのみならず、農村の精神修養や風紀矯正にも携わり、1908年(明治41年)には安部倉矯風会(あべくらきょうふうかい)を結成し、活動する。
 その後は、岡山県知事の笠井信一の要請に応えて、初代の済世顧問になったり、馬屋上村共同済世社社長などを歴任し、引き続き貧困者救済に尽力。救済事業のために私財を使い果たし、晩年は安部倉山に済世庵を設け、質素に暮らす。

(続く)

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♦️70『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)

2020-03-26 21:10:04 | Weblog

70『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシアの哲人たち(ソクラテスとプラトン)

 ソクラテス(ソークラテース、紀元前469?~紀元前399)は、古代ギリシアの哲学者である。一説には、彫刻家、石工の父と助産婦の母のもとにアテナイで生またという。哲学をこころざしてからは、公開の場で議論をよくした。
 そのソクラテスも、一度国家の危難とあれば、重装歩兵として参戦していた。50歳近くになるまでに三度参加し、アテネ市民としての義務を果たしたと、弟子のプラトンが伝えている。この間のアテネでは、政治家の筆頭であったペリクレスが死去し、ペストも流行する。そうした意味では、市民たる者は、そして広くアテネの人々は概して安住の毎日を送っていたのではなかったといって良いだろう。
 紀元前399年、ポリス社会において伝統的な神を否定し若者を惑わす危険思想として訴えられ、裁判によって有罪とされる。当時のアテネは、対外戦争(ペロポネソス戦争)敗北のためもあって、戦後を処理するための、30人から成る革命委員による政治が恐怖政治と化す中、寛容な世の中ではなかったらしい。

 さらに、民衆の暮らしは苦しく、大方の気分はすさんでいたのかもしれない。弁護する世論が盛り上がらなかったようだ。裁判では、弁論もできたのであろうが、慈悲を請うとかはしなかったらしい。あえて国法に従い、死の道を選んだため、刑死したといわれる。
 その彼の著作は現代に伝わっていないものの、弟子のプラトンとの対話編によってその思想のかなりを知ることができる。哲学者としての、その処世の最大の特徴は、「無知の知」ということで、物事の真実、真理の前に謙虚な探求心を貫いたことにある。

 とはいえ、ソクラテスが人びとに告訴された理由(罪状)の中に、「青年を堕落させ、国家公認の神々を認めず、別の新しい神々を敬っている」とあることから、そうなる次第を紐解くと、大方次のようなものであったらしい。

 「「事実はこうです。デルポイの神託より智恵のある者はいない」と告げられて、そんなはずはないと思った彼は、世間で智恵があると思われている人をつぎつぎに訪れてなは、話し込み、問答しました。その結果、善とか美とかについては誰もなにも知らない。自分も知らないが、ただ、自分は知らないということを知っている。この点でのみ自分のほうが智恵がある。これが神託の意味であろうと思いあたりました。そして、人びとに無知を自覚させ、真理を探求して魂を善くする努力を怠り評判や金銭ばかりを追い求める生活は恥ずかしいものなのだと説いてまわりましたが、このため人びとの憎しみを招くことになったのです。」(「中務哲郎(なかつかてつお)、大西英文(おおにしひでふみ)」岩波ジュニア新着、1986)


 プラトン(プラトーン、紀元前427~紀元前347)は、古代ギリシアの哲学者である。また、政治家ではないものの、政治向きの話をよくしたという。ソクラテスの弟子にして、 アリストテレスの師に当たる。 
 壮年期からは、「イデア説」を研く。中でも、「哲人政治」を志す。その国家論の一節には、こうある。
 「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」(プラトン著、藤沢令夫訳「国家(上)」岩波文庫)
 支配階級の中からの優れた者、保護者としての政治家による政治の実現を唱える。理想国家を打ち立てるための遊説もしていたのかもしれない。また、人材を育てるべく、アテネの北西郊外にアカデメイアと呼ばれる学園(紀元前387~後529)をつくる。その特徴は、今日の大学教育にも通じるものもあるが、かなり異なる面がある。
 その1として、ちゃんとした建物は持たず、またカリキュラムもない。その2として、公的援助に頼らない。公共体育場を、その場の一部としていたという。その3として、市民なら階層などでの制限はなかったらしい。女性も参加できたという。その4として、プラトンは校長で、これといった講義は受け持たなかった。まさに、組織者であったのだろう。講師としての研究員は原則として、ほぼ対等であったという。教育に対する熱情は、終生続く。
 この間、政治的な実践にも手を染めている。紀元前357年、弟子のディオン(シュラクサイの政治家)の懇願を受け、シチリア島のシュラクサイへ旅行する。そこで、シュラクサイの若き君主を指導しての哲人政治の実現を試みる。しかし、ディオンが追放され、計画は失敗したという。紀元前353年にディオンが政争により暗殺されたことによって、政治的な野望は途絶えたのではないか。

(続く)

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♦️363の4『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・重力レンズ効果)

2020-03-23 21:32:59 | Weblog

363の4『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・重力レンズ効果)

 20世紀に入って、アインシュタインによって発表された「一般相対性理論」においては、新たな時間と空間の概念が二つ導入された。その名を「等価原理」と「一般相対性原理」という。
 ここでは、重力により空間そのものが落下しており、物体はその場に留まろうとして空間と一緒に落下する。したがって、全ての物質はその質量に関係なく同時に落下すると考える。また、重力によりGが掛かったのか、加速によりGが掛かったのか区別出来ない。という訳で、加速系と重力系とを、同じ方程式で表すことが出来る。
 それから、一般相対性原理というのは、加速度系を含むいかなる座標系においても物理学の法則は同等に働く、言い換えると、任意の座標系において物理法則は同形でなければならないのをいう。
 1914年から16年にかけて、アインシュタインは、特殊相対性理論を発展させた重力理論として一般相対性理論を構築していく。なぜ「一般」という名称が付いているのかというと、特殊相対性理論では重力のない一定の速度で動く慣性系について考えていた。それに対して、この慣性系を、加速度運動や重力を含んだより広い状況に拡張するのが一般相対性理論だという。

 そこでの重力は、質量をもつ物体により周辺の時空に生じたひずみが生み出す物理的効果であらわされ、光も天体の重力によって曲げられる(重力で曲がる)というのだ。

 それからのアインシュタインは、自身による一般相対性理論と、アイザック・ニュートンの万有引力の法則の差として、水星の近日点の移動、太陽の近くを通る光線の曲がり、それに重力を受けている光源が出す光のスペクトルの赤方偏移を測定することを提案する。要は、自分の理論の正当性を観測で確かめてもらいたいというもの。
 そして迎えた1919年、イギリスの天文学者アーサー・エディントン(1882~1944)らは、アフリカのプリンシペ島に出掛けていた。目的は、5月29日の日食を観測することである。この日食の間、彼らは太陽の近くに見える恒星の写真を撮影する。

 というのも、彼はアインシュタインの一般相対性理論を知っていて、それによれば、遠くの恒星から観測者に達する光線が太陽の近くを通る場合、太陽の重力場によって光線が曲げられるため、本来の位置からわずかにずれて見えるはずだ。ところが、昼間の地球上からの観測では太陽の光による空の明るさでその恒星の光は紛れてしまうため、この現象を観測するには皆既日食の時を選ぶしかないと考えた。
 この日食時の太陽近傍での観測の結果としては、太陽の背後に存在するであろう複数の恒星(それはみずから光を放つ)からの光が、太陽の近くでその重力により曲げられて地球に到達していることが確認された。とはいっても、曲がった角度は1.6秒程度(1秒は3600分の1)と極めて小さなものであったのだが、この値はアインシュタインの一般相対性理論による予言にとても近いものであったという。

 その後も、天体のもっている重力により、その近傍を通る光が曲がる事例が天文観測により多数見つかっており、これらの事例のことを「重力レンズ現象(効果)」と呼んでいる。

(続く)

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♦️363の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・等価原理と一般相対性原理)

2020-03-23 21:31:17 | Weblog

363の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学(一般相対性理論・等価原理と一般相対性原理)

20世紀に入って、アインシュタインによって発表された「一般相対性理論」においては、新たな時間と空間の概念が二つ導入された。その名を「等価原理」と「一般相対性原理」という。
 まず等価原理というのは、運動加速度と重力加速度の等価性を意味するもので、慣性質量(加速度に抵抗するもの)と重力質量(重力場を作り出すもの)とは等価であるといってもよい。これは、「重力は瞬時に伝わる」というアイザック・ニュートンの重力理論(万有引力の法則)を、「自然界の最高速度は光である」という相対性理論と矛盾とない形に修正しようと考えたものだ。彼は、こんな説明をしている。
 「左図のとおり、部屋の形をした広大な箱を考える。その中に観測者が居る。この状態では、観測者にとって重力というものは存在しない。
 箱の蓋の中央外部にザイルを付けたハーケンが取り付けられ、我々とは無関係な種類の存在者が一定の力でこれを引き始めるとせよ。その時、観測者もろとも一様な加速度運動で上方へ飛び始める。
 しかし、箱の中の人はこの過程をどう判断するだろうか?箱の加速度は、箱の床そのものの反動によりその人に伝えられる。その時、彼は、全く地球上の我が家の部屋の中に居るように、箱の中に立っていることになる。従って、箱の中の人は、自分も箱も重力場にあると言う結論に達するであろう。屋根の中央にハーケンがあって、それにピーンとザイルが張られているのを発見する。そのことから、箱は重力場に静かに吊るされていると言う結論に達する。
 今度は、右図のとおり箱の中の人が箱の天井の内側にザイルを固定し、その空いている方の端に物体(B)を吊るすとする。こうすると、ザイルはビーンと垂直に垂れることになる。我々はこのザイルの張力の原因を尋ねる。箱の中の人は言うだろう。「吊るされている物体(黒い丸)は重力場において下向きの力を受け、それはザイルの張力と釣合う。ザイルの張力の大きさを決めているのは、吊るされている物体の重力質量である」と。
 この例から分かる様に、Gは加速運動によるものか、重力によるものか区別が付かない。このことは、慣性質量と重力質量の同等性定理を必然的なものとして示している。」
 ここでは、重力により空間そのものが落下しており、物体はその場に留まろうとして空間と一緒に落下する。したがって、全ての物質はその質量に関係なく同時に落下すると考える。また、重力によりGが掛かったのか、加速によりGが掛かったのか区別出来ない。という訳で、加速系と重力系とを、同じ方程式で表すことが出来る。
 それから、一般相対性原理というのは、加速度系を含むいかなる座標系においても物理学の法則は同等に働く、言い換えると、任意の座標系において物理法則は同形でなければならないのをいう。
 

(続く)

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○○226の2『自然と人間の歴史・日本篇』幕末期における撫育資金の放出(長州藩)

2020-03-22 14:35:15 | Weblog

226の2『自然と人間の歴史・日本篇』幕末期における撫育資金の放出(長州藩)

 長州藩において、幕末期に特に必要とされたのは、軍備増強であった。顧みれば、撫育局(ぶいくきょく)が創設されたのは1763年(宝暦13年)にして、これは同年実施の検地によって浮い土地からあがる租税を主な基金にしている。
 その使い方には、あれこれの利殖の工夫がなされていた。具体的な例を幾つかひろうと、1771年(明和8年)には、田中藤六の建議を踏まえ「三八換持法」を実施して、塩業の復興に着手する。また、藩は鑞の生産事業にも深く関わり、例えばこう説明される。

「このとき重就は帰国中であった。検地の結果を聞いて大いに満足したが、しかし、このたびの検地は時存の計画に基づき、新事業のための資金をうることが目的であった。

 これをもって経営の不足を補うべきでない。そこで翌13年の春、残務整理の終わるのをまって新たに仕法を定め、城内に一局を設けて「撫育方」と称した。今後この増高からえられる租税その他の収入は、すべて所帯かたから切り離して撫育方の所管とし、別途の貯蓄として他日の用に備えることにしたのである。」(三坂圭治『長州藩』、児玉幸多、北島正元編「物語藩史」6、人物往来社、1965)

 さらに、1764年(明和元年)以来下関において越荷方(こしにがた)役所が運営され、追々、北陸航路の北前船を始め諸国の回船を相手に倉庫業や金融業を営み、1840年(天保11年)の事業大拡張へとつながっていく。
 そのほか、港湾の整備による商港開発、それに埋立て工事による耕作地の拡大についても、撫育局の事業として、幕末期に至るまで投資と活動、それらによる収益拡大への営みが続いていく。
 そんな中にあっても、時代が幕末に近づいていくにつれ、撫育局資金の支出項目のうち、軍政改革、中でも兵器の購入できたの占める割合が増していくのは、攘夷と勤王からやがて倒幕を掲げる中では避けられないことであったのだろう。

(続く)

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○○226の1『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)

2020-03-22 10:18:12 | Weblog

226の1『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)

 この時期には、全国の三百諸藩の藩政改革が盛んに行われた。長州藩では、天保期の初年、1830年(天保元年)に大規模な農民一揆が起こる。それは、翌年まで続き、防長二国の全域に広がった。この一揆が掲げたスローガンに「藩営専売の廃止」があり、藩が藍や櫨などの主要な産物の流通を独占したことに反対したのであった。これだと、農民としては、強制的に買い上げられるのであるから、利益は見込めなくなってしまう。こうした一揆はその後も藩内のそこかしこで頻発した。また、藩としての商業資本への借財も、「両に換算しておよそ二百万両、藩の年収の二十二倍」(松浦玲「藩政改革」:「幕藩体制の動揺」:日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970に所収)の厳しい財政状況であった、とされる。
 長州藩においては、1831年(天保2年)、藩を揺るがす大一揆が勃発する。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのだ。この一揆は、一説には十万人を超える農民が参加した。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥る。
 このようなとき、毛利敬親(もうりたかちか)は家督を継ぎ、十三代藩主となる。彼は、よいと思われる話があると、「そうせい」というのが口癖であったとか。たしかに「凡庸」な性格であったかもしれないが、それでいて、先取の気風があったのではないか。

 長州藩は、この時大いなる決断をした。1838年(天保9年)、中級武士だった村田清風(むらたせいふう、1783~1855)を抜擢し、藩政改革を命じた。村田はこの時、56歳を数えていた。この頃の長州藩は多くの負債があり、就任した村田はこれを「8万貫の大敵」と呼んで、解消を目論む。その手段として、驚くことになんと村田清風を中心に、商人達に向かって借金の棒引きと要求したのであるが、それがなんとかうまくいったようだ。
 1842年(天保14年)、村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」を出した。これは、藩債については、元金の3%を37年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。

 村田ら改革派は、下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。1840年(天保11年)には、流幣改正令を発布があり、下関越荷方を拡張する。

 そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方の「越荷」とは、他国から入ってきた荷物のことである。これを扱うべく、藩が下関で商人などを束ね、運営する金融兼倉庫業を営む。具体的には、他国船の越荷を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売を行う。

 しかし、この仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受ける。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれる。そこで、藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課すことで、藩としても収益を上げていく。
 村田らはこれらの政策実行で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、専売制の手直しを始めた。それに、藍の統制廃止や木綿の流通自由化に踏み出した。さらに藩内の豪商に対しては、責任を持たせて他藩の貨物や船舶相手の運賃稼ぎや資金の融通するという施策を行った。これらが効を奏する形で、藩の財政はしだいに好転を始めていく。

 これらのうち蝋、米、塩は「三白」(さんぱく)と呼ばれた。「三白」のうち蝋は、櫨(はぜ)の実を原料とする。紙に劣らぬ産業にと育成策が取り組まれる。不毛の山野や畑の畦(あぜ)などの閑地を選んで櫨の植林を増やすようにと、農民を激励するとともに、「鯖山製蝋局」による統括体制が整えられていく。
 そして迎えた1841年(天保13年)には、長州藩の積年の3万貫の負債を減らすことに成功した。また、清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげるが、逆風も吹き荒れていたらしい。中級以上の藩士を中心に改革に反対する勢力の台頭があった。それに持病の中風の悪化により、63歳の村田は、坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲る。村田は、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。それからも、人材の育成には熱心であったようで、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れていたという。


 薩摩藩においては、琉球国との関係があって、これがなかなかに複雑であった。1609年(慶長14年)、琉球王国を島津氏から攻略された。

 17世紀の中頃には、その琉球では、砂糖の貢納制度が始まる。政府が自らの差は配達にて砂糖を取引することになったのだ。それというのも、薩摩藩に多額の借金を背負った琉球政府が生きていくためである。
 1647年から、国内の農民に対して税収の一部を砂糖で支払わせて、その利益を借金の返済にあてていく。1662年(寛文6年)には琉球政府は「砂糖奉行」を置いて砂糖を増産に励む。その翌年には白砂糖・氷砂糖の製法を学ばせるため、中国福建省に担当者を派遣するのであった。

 このような二重の仕組みにて、琉球の砂糖は薩摩藩にとって貴重な収入源となっていたのだが、中国からの輸入が増加し砂糖の値崩れする。

 そこで仕方なくというか、1697年(元禄10年には、琉球における砂糖生産の制限を行うと同時に、直轄地である奄美大島での砂糖生産に切り替え、薩摩が直接に砂糖の生産に乗り出す。

 稲作には向かない土地柄である奄美大島にとって、サトウキビはサツマイモとの間作が可能で、畑地で収穫も見込める。

 それから時は、ながれてのことである。おりしも、18世紀後半の薩摩藩は財政危機を迎えていた。上方の商人からの借金や、幕府命令での木曽川改修工事の請け負いなどが重なり、経済運営は苦しかった。

 ついては、財政赤字の穴埋めを狙って、1831年(天保2)年、薩摩藩は琉球に年貢米2800石分を砂糖で支払うことを命じる。また、奄美大島・徳之島・喜界島にいいて、砂糖の増産と砂糖の専売制度を始める。

 その中では、農民に一定額の砂糖生産を割り当てて、強制的に買い上げる「定式買入糖」を採用する。それに臨時に増額される「買重糖」の、あわせて2種類の方式で生産を拡大する。

 かくて、増産を成し遂げた農民には郷士格などの格式が与えられた。頑張った者には、それなりの褒美を遣わすというという、巧みさで農民たちを支配する。

 幕末になると、薩摩の財政は支出の増大がひどくなっていく。頼みとしたのは、ここでも砂糖であった。島津斉彬(しまづなりあきら)によって西洋式の製糖技術を導入し、1865年(慶応元年)イには、ギリス人技術者を雇用しての白砂糖の製造が、奄美大島に導入される。これにちいては、3年後、台風の影響で設備が崩れて目論見は崩れてしまうのだが、積極的な増産への取り組みが続く。。

 それから、できた砂糖の販売だが、薩摩藩の砂糖は大坂の薬種問屋を通さなかった。薩摩藩の大坂蔵屋敷に運び、そこでで入札が行われ、仲買に販売されたという。要するに、中間に入る業者を減らし直売することによって、利益を拡大しようとしたわけだ。

 翻って、琉球という国は、その後も日本とは異なる独立国には違いなく、中国の清との著交換系は続けていた。薩摩の経済支配に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。

 その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)旧暦5月、ペリー艦隊がやってきた。首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。

 そればかりでなく、やり手の島津斉彬は、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したというのだが、斉彬の急死で計画が中止になったという。

 これらの意味合いから、薩摩が大きく貢献しての明治維新には、薩摩の砂糖交易によるところの富かが大いなる支えとなったであろうことは、疑いあるまい。

 

(続く)

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♦️888の2『自然と人間の歴史・世界篇』オバマケア(2009~2020)

2020-03-21 19:52:18 | Weblog
888の2『自然と人間の歴史・世界篇』オバマケア(2009~2020)

 さても、2020年に入ってからの「新型コロナウイルス」の世界的流行が進行中であり、アメリカでは、これに関連する形で、オバマ政権時代に拡充された医療保険制度の今後のあり方が、きたる11月の大統領選挙の重要な争点と化しつつあるという。
 2009年1月には、アメリカにおいて、民主党のオバマ大統領が就任する。この政権が取り組んだのが、後に「オバマケア」と通称される国民保険制度の創設であった。
 2010年3月にこれの関連法が成立するのだが、大詰めの議会工作については、かなりの程度複雑なコースをたどり、こう評される。
 「ここにきて、政権および民主党は、まず上院で12月に可決した法案を下院で通過させた上で、上院案の内容に不満を持つ民主党議員を納得させるたみに、予算調整法案というかたちでの別個の修正案を上下院で可決させる、という戦略をとった」(久保文明他「オバマ政治を採点する」日本評論社、2010)という。
 2012年6月には、連邦最高裁判所が合憲判断を出し、そのことで、2014年1月には、施行関係が整い、本格実施となる。

 そこで、こうしてできたオバマケアの柱から紐解こう。その1としては、それが民間会社の提供する保険プログラムであれ、公的保険プログラムであり、国民の医療保険加入を義務化する。
 ただし、この時点で、一定の条件を満たす健康保険に加入していない人には、ペナルティーが科される。そうはいっても、歯科保険、眼科保険、介護保険、サプリメント保険、海外旅行者保険、移民用保険、短期用医療保険、生命保険などはオバマケアの対象外にて、これへの加入義務は働かない。
 また、低所得者などの一定の条件を満たす人に対しては、かかる保険加入義務が免除される道が通じている。それに、違反には罰金とあるものの、全てについてそうあらねばならぬ、ということではなかった。
 その2は、保険料の制限など民間保険会社への規制を敷く。例えば、既往症を理由に加入希望を拒んだり、その分高額の保険料を徴収することは、できない。それというのも、それらの会社は、儲けが目的であるからして、「リスクによる選別」や「患者の医療記録の監視などを通じ、保険金を負担しない方法を探ること」を行いかねない。
 その3としては、高齢者や低所得者に向けての公的医療保険の適用だ。この領域でのそれまでは、「メディケイド」(低所得者層べを対象とする医療扶助制度)が中心であったのだが、これにより、「連邦レベル133%までのすべての国民までのすべての国民に、受給資格が付与される」
(前掲書)ことになる。
 その4としては、主に低所得者層を対象に、当該保険に入りたくても経済的にできない人のために、税額控除という形での「補助金」の提供を盛り込む。

 こうして船出した制度なのだが、2014年の後半からは、逆風も出てくる。2014年11月に実施された中間選挙では、民主党が上院、下院ともに過半数を失う。

 続いての2016年12月の大統領選挙で、共和党トランプ候補は、オバマケア廃止を公約として訴える。翌年1月の就任初日に見直しに向けた大統領令に署名し、廃止法案が議会にかけられる。与党共和党が上下両院で過半数を握っていたのを当てにしていた。
 
 2017年7月、無党派的な立場で知られる米議会予算局(CBO)だが、19日、与党・共和党が成立を目指す医療保険制度改革法(オバマケア)廃止法案が施行された場合の試算を公表する。
 それによると、無保険者が来年1700万人増え、2026年までに3200万人増加するとの見通し、これだと保険料は来年25%上昇し、2026年には倍増する。一方で、連邦政府の赤字は4730億ドル(約52兆9000億円)減少するという。
 共和党は、この時点で2回、新たな医療保険制度案の採決に失敗しているが、引き続き、2010年に成立したオバマケアをまず廃止した後、2年かけて代替案をまとめることを提案している。

 ところが、2017年7月には、与党内でマケイン上院議員らが造反し法案は否決される。それでも、トランプ政権は2017年末に、保険の加入義務化の廃止にこぎ着ける。こちらは、同年12月に、同保険への加入義務廃止を盛り込んだ税制改革法が成立したことによる。
 
 そしての2018年11月の中間選挙で、上院では議席を増やして過半数を維持するも、民主党に下院で多数派を奪還される。12月には、南部テキサス州の連邦地裁が、保険加入義務付けを違憲とする判決を下す。

(続く)

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♦️360の1の9『自然と人間の歴史・世界篇』ペニシリンの発明(1928)

2020-03-21 15:03:29 | Weblog

360の1の9『自然と人間の歴史・世界篇』ペニシリンの発明(1928)

 世紀の発見というのは、たまに本人も気づかないうちに、近づいてくるのだろうか。1928年9月30日は、「世界初の抗生物質であるペニシリンが発見された日」だとされる。これを発明したのは、イギリスの医師で、細菌学者アレクサンダー・フレミングだ。
 これに至る道としては、 第一次世界大戦が勃発し、イギリスが参戦する中、軍医として戦地で兵士の治療を担当していたフレミングは、傷口から入った細菌によって苦しみながら死んでいく兵士たちの姿を見て、「どうにか治療薬がつくれないか」との思いを持ち続ける。
 待ちに待ったであろう、戦後になると、彼は医業の傍ら、感染症治療のため、薬剤研究に取り組んでいく。そんな日の続いていた1928年のある日、フレミングは黄色ブドウ球菌を培養していたペトリ皿を廃棄しようとしていた。その時、ふとそのペトリ皿を見ると、カビの胞子が落ちていて、しかもそのカビの周囲のブドウ球菌が溶解しているではないか。

 このことにヒントを得た彼は、青カビを液体培地に培養し、それでできた培養液を濾過(ろか)した濾液(ろえき)に、ある種の抗菌物質が含まれているに違いない、アオカビの培養液中からブドウ球菌の発育を阻止する物質ということで、アオカビの学名ペニシリウムにちなみ、「ペニシリン」と命名する。

 ついては、その働きの有り様について、例えば、日本薬学会による説明には、こうある。
 「Flemingにより発見された最初の抗生物質.ペニシリンはβ-ラクタム系抗生物質であり、真正細菌の細胞壁を構成するペプチドグリカンの合成酵素(ペプチドグリカン合成酵素、ペニシリン結合タンパク、PBP)と結合し、その活性を阻害する。この結果ペニシリンが作用した細菌はその分裂に伴って細胞壁は薄くなり、増殖が抑制される(静菌作用)。また細菌は細胞質の浸透圧が動物の体液よりも高いため、細胞壁が薄くなり損なわれた細菌細胞では外液との浸透圧の差から溶菌を起こして死滅する(殺菌作用)。」(公益法人日本薬学会「薬学用語解説」インターネット配信、2020年3月23日拝見)
 これに真性細菌というのは、生物界のそもそもの始めと目される古細菌や、酸素発生型のシアノバクテリアなどの微生物の仲間にして、原核生物(細胞)といって、細胞の中に「核」を持っておらず、DNAはむき出しのまま細胞の中を浮遊している。

(続く)

 

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○○278『自然と人間の歴史・日本篇』コレラの流行(1878~1879)

2020-03-20 18:13:53 | Weblog

278『自然と人間の歴史・日本篇』コレラの流行(1878~1879)

 コレラは症状の急な激しい下痢と脱水症状を伴うため体力が激減、そのため手当が遅れると半分以上が命を奪われるという難病とされる。

 日本におけるコレラの流行としては、確認されているだけでも、最初の1822年(文政5年)以来にて、何度もあろう。まずは、北里柴三郎の報告から、その時のコレラの流行がいかに大きかったかを振り返ってみよう。

 「1878年にコレラの流行はあらたに猛威を奮い始めたが、かつてほどひどいものではなかった。日本全体では患者数967人、そのうち死者が275人であった。

 1879年、この伝染病は3月はじめに四国の松山で発生し、九州の大分へと至った。流行の最終地点は、そこを超えて神戸、大阪、横浜、東京へと至り、ついには本州全域(日本全体)に広がった広域流行の出発地点である九州である。それは近年で最大の大流行だった。

 162,637人が罹患しそのうち 88,319人が男性、74,318人が女性だった。死者数は105,786人(65%)にのぼった。流行に襲われた町や村の総人口は16,024,106人であるため、罹患率は 1.015%ということになる」(北里柴三郎「日本におけるコレラ」1887年の第6回万国会議で行った口頭発表をまとめた)

 そんな中の1884年には、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見される。それからは、医学の発展、防疫体制の強化などが鋭意進み、世界的流行に対する防御の壁が拡充されていく。

 

(続く)

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♦️910『自然と人間の歴史・世界篇』新型ウイルスで露呈のイタリア医療の現状(2020年5月19日改訂月)

2020-03-18 09:57:05 | Weblog

910『自然と人間の歴史・世界篇』新型ウイルスで露呈のイタリア医療の現状(2020年5月19

日改訂)


 イタリアというと、世界第一の観光先にして、ユーロ圏(欧州連合)3位の経済大国という、概ねそんな類いの話であったのだが、昨年には、その雲行きに黄信号が灯った。
 それというのは、財政逼迫(ひっぱく)に関してのことであって、国の借金がかさんで、このままではその返済が厳しくなっていくのではないか。そこで、かねてからの財政再建が現時点においてどこまでのものであるのか、これまで一体何をやってきたのかが問われる訳だ。
 これらを振り返るに、一つには、かかる借金を重ねていく時の金利が上がるのを(2011年11月に、10年物国債の長期金利は約7%にも上昇)、国内的になんとかして抑制しなければならない。言い換えると、その反対側では、国債価格は国債を買う人が少なくなると下落、つまり両者はシーソーのような関係であるからして、そのため借金の利払い費がどんどん増えていき、財政再建が厳しくなるのを回避しなければならない。

 参考までに、その後のイタリアの長期金利は、ユーロ全体での金融措置の継続などもあって、そのかなりは落ち着きを取り戻してきたようだ。だがしかし、景気は長期低迷のままである中、最近の新聞には、例えば、こんな見出しが踊る。

 「イタリアの10年物国債利回りは17日、一時2.4%と、2019年6月以来の水準ひ上昇(債券価格は下落)した。3月上旬まで1%前後で推移していた利回りは、直近1週間あまりで2倍に跳ね上がった。欧州中央銀行(ECB)は12日に国債買い入れの増額などを決めたが、債券売りには歯止めがかからない。」(日本経済新聞、2020年3月18日付け)

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 イタリア政府がこの間に行ったもう一つの策としては、ユーロという大きな傘の下に入っている訳なのだから、「今うちは大変なんだから、こちらに支援してもらいたい」と。さしあたり、ユーロ圏各国がつくる「欧州安定化基金」(EFSF)の資金規模を拡充し、イタリアに多く融通してもらいたい」と願うも、向こうは「規模が大きすぎて、救済しきれない」とのこと。

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 そこで、本題に入ろう。この間の政府は、仕方なくということなのであろうか、「不要不急の支出」の削減に力を入れる、そこでの矛先は医療関係にも及んでいた。その際、失速しかねない国民経済となんとか折り合いをつけながら、なんとか「譲れない一線」を設けて保持(キープ)してきていたのかどうなのか、よくわからない。そうしたことを如実に示すのが、最近に至っての次の事柄であろうか。

 マクロ統計のなかでは、対GDP(国内総生産)比当たりの医療費も異なる。具体的には、イタリアは8.8%に対し、ドイツは11.2%である。この費用の差から考えれば、「医師などの待遇や病院の設備という点で、ドイツはイタリアよりすぐれている」とする意見があるものの、にわかに信じがたい。
 そのことはさておき、今回のコロナ大流行を見越しての危機対応では、ドイツ医療態勢の構築を僅か2日でひとまず完了したと報道されるのに対して、イタリアにおいてはそれが整わない間に医療機関に人々が押し寄せたのだと指摘される。

 ついては、もう少しブレイクダウンしてこれまでの対応を見よう。イタリアの病院にあるベッド数(病床数)の推移をみると、OECD(経済協力開発機構)の"Health at a Glance 2019"によると、人口千人当たりのベッド数は、イタリアは3.2床と、OECD平均の4.7床よりも少ない。
 ベッドの占有率は、イタリアが78.9%で、OECD平均の75.2%より高かったのが、現時点ではコロナ対策のため足らなくなってきているやに拝見され、しかも感染症患者に対応できる病床は足らないという。
 医師数を人口千人当たりでみると、イタリアは4.0人で、OECD平均の3.5人より多いものの、看護師数を人口千人当たりでみると、イタリアは5.8人で、OECD平均の8.8人より少ない。そこで、医療従事者のうち医師と看護師を合わせた人口千人当たりの数が紹介されているが、それによるとイタリアは9.8人で、OECD平均の12.3人より少ないという。

 ところが、2020年に入ってのイタリアの新型ウイルス(コロナ)の感染者数は、現在も増え続けている。具体的には、イタリア政府によると、3月18日現在での同国感染者数は3万5713人にして、直近での死者は1日で475人増え、2978人に達したという。致死率ということでは、これは現時点までにかぎっては世界で一番高いレベルであるからして、なぜそうなのかにつき、色々取り沙汰されている訳だ。

 そればかりではなくて、今回のイタリアにおいては、一挙に感染者数の爆発的増加が現実化した。ちなみに、感染力からいうと、同国では高齢化が進み感染症に対して脆弱な構成であったり、挨拶や何かで身体接触の場面が多め、人が密集ないし密閉空間で人間活動が行われる機会が多いのではないか、などとも指摘されているものの、それらだけでこれ程までの状況になっているというのは、わかりづらい。

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 こうまでの状況となったきっかけは、北部のロンバルディアでの集中感染の表面化であって、これが引き金となり、感染者の多くが高齢者であったという。やがて全土への感染拡大となっていくうちに、政府の対策もよりハードなものになっていく。具体的には、2月23日には、北部の11の町を封鎖、その対象者は約5万人という。3月8日になると、北部全域を封鎖し、対象者は約1500万人に膨れ上がる。3月10日には、イタリア全土が封鎖となる。そしてむかた3月21日には、その規制が強化され、原則として屋内での運動が禁止になる。これは、「ロックダウン」と呼ばれる。

 やはり、イタリアでは、これらに、さらなる複合的な要因が加わっての、今回の現象であるということではないだろうか。そのため、2020年3月18日現時点で増え続ける患者に十分な治療が行えない状況になっているという。現にに、WHO(世界保健機関)の緊急対応者マイク・ライアン氏は18日、あまりに多くの患者が発生したので、「医療水準が保てない状況があったと思う」と述べた。

 のみならず、ライアン氏は同日の会見で、欧州各国の致死率が大きく異なる、つまり、イタリア、スペインなどで同率がより高い理由を問われ、イタリア北部では患者数が圧倒的に多いのを念頭においてか、いわく、「適切な治療を提供できるか、集中治療で容態の変化に逐一対応できるかという基本的な問題が出てくる」と述べ、あたかもイタリアが、中国の湖北省武漢と同じような状況になっていると説明したという。

 

○米ジョンズ・ポプキンス大学の4月20日のデータによると、イタリアの確認感染者数は17万8972人、死者数は2万3660人。

 

(続く)

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◻️188の5『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、難波抱節)

2020-03-18 08:33:34 | Weblog

188の5『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、難波抱節)


 難波抱節(なんばほうせつ、1791~1859)は、漢方医者も蘭学医者も、ともに担う。医者としてのその号を、抱節という。岡山の、篠野貞文の次男に生まれる。やがて、備前藩家老、日置氏の侍医である難波経寛の養子となる。
 医学の道に踏み入れては、賀川蘭斎に産科を、吉益南涯に内科を学ぶ。それに、当時の「華岡流」外科を学ぶ。こちらの師匠は、華岡青州の弟で、大阪中の島で華岡塾(外科)を開いていた華岡鹿城であった。
 やがて、故郷に帰る。前述の侍医の傍ら、備前藩金川村(現在の岡山市御津町金川)で開業する。
 主に、外科医として治療を行う。曼陀羅華を主剤とする麻酔薬を用い乳癌や、脱疽などを手術する。自然の摂理を知って、人体の再建に利用する訳だ。


 ちなみに、そんな治療の様子を眺めていた中に、後の岡山大学医学部に連なる仕事に就くことになる、生田安宅がいた、その彼は後にこう振り返っている。
 「往歳(安政元年)4月金川抱節難波翁乳岩を切断す、我が東里先生の塾徒皆行きて視る、慎(安宅の幼名)また随行す、8、9月又乳岩及び脱疽(だっそ)を切断する者34人、慎たまたま眼疾に罹り行くを果たさず、今に恨となす」(「生田安宅文書」、なお「東里先生」とあるのは安宅の師匠の難波経直にして、その経直の父は難波抱節)


 また、学塾思誠堂を開く。おそらく、地域に一つでも、学問的な空間をつくりたかったのではないだろうか。医学の延長でもあろうか。
 ほかにも、1850年末(嘉永3年)には、緒方洪庵から牛痘苗を譲り受ける。それを、金川地方で3千余人に接種したともいう。
 ところが、1859年(安政6年)には、岡山にコレラが流行する。抱節は、忙しく働くうちに、自らも感染して死ぬ。
 この時のコレラの震源地は長崎であり、一説には、長崎に入港したアメリカ船が持ち込んだ物資の中に、コレラ菌が紛れ込んでいたと考えられている。あたかも、あれよあれよという短い日数の間に、全国に伝播していく。主には、激しい下痢をともない、「3日で死ぬ」ので、「3日コロリ」と呼ばれ、日本中が恐怖に陥れられる。その時の犠牲者は、10万人とも、30万人とも言われている。


 思い起こせば、第二次世界大戦が終わって直ぐ、旧東ドイツのヴリーツェンの病院を中心に伝染病患者の治療に取り組み、多くの命を救った医師肥沼信次や、朝鮮李朝の時代に疫病から民衆を救う活動を、最期まで指揮、治療してやまなかった「御医」のホジュンなどとも共通する、「無私」の精神というのは、永く語り継がれていくだろう。
 さらにまた、全般的に多忙な中にも、著述に励み、未刊の大著「胎産新書」や「散花新書」(1850)など多数がある。

(続く)

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◻️211の19『岡山の今昔』岡山人(20世紀、竹久夢二)

2020-03-14 15:22:57 | Weblog

211の19『岡山の今昔』岡山人(20世紀、竹久夢二)

    竹久夢二(1884~1934、本名は茂次郎)は、この当時の岡山県邑久郡本庄村(現在の瀬戸市)に生まれる。この地で竹久は、17歳で京都に出るまでの、多感な時期を過ごす。長じては、最初は色々な仕事を渡り歩くが、やがて自分の道を見出していく。大正ロマンを代表する抒情派の画家にして詩人だけでなく、雑誌の挿絵から服のデザインなども手掛ける、現代流にいうとイラストレーター・デザイナーのような多彩な仕事ぶりであった。
 その中でも最大眼目としての絵は、明治末から大正期にかけて多数を雑誌や画集に発表した。これらはまぎれもなく大衆の心をとらえるのだが、画壇の反応は概して冷たかったという。たぶん、その才能は認められつつも、あれこれの既存の画風に馴染まない、奇抜というか、誰からの教わりものでないモダンさというか、それらの大方が時代の相当先を行っていたことによるのではないか。
 わけても美人画は、「竹久流」としてしか表現できない程に当時としては斬新で、物憂い表情のようではある。しかし、それでいて弱々しい人物像というのでもない、観る者の目に過去のしがらみに囚われない女性のように写ってくるから不思議である。おそらくは、その表情からしみ出てくるかのように感じられる、ある種の希望こそが、「大正デモクラシー」の中で新しい生き方を求めていた男女に受け入れられたであろうことは、想像に難くない。

(続く)

 

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◻️211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

2020-03-14 15:14:13 | Weblog

211の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森近運平)

 岡山が生んだ社会進歩の先覚者に、森近運平(1881~1911)がいる。当時の後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)の生まれ。鴨方の生石高等小学校の後、帰郷して農業に従事。その後、勉学を志し、岡山県農事学校と岡山農学校へと進む。優秀な成績であったという。1901年(明治35年)には、県庁へ入って主に農政を担当する。
 その間に社会のありかたに疑問を感じるようになっていく。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成に参加し、評議員、幹事となる。翌年になると、「日刊平民新聞」の発刊に参加するのだが、当局の弾圧により発行停止処分となる。党の方も、運動方針をめぐり折り合いがつかなかった。直接行動派(幸徳秋水ら)が議会政策派(片山潜ら)したところへ堺利彦が併用案を出して繕おうとしたものの、政府は結党を禁じた。平民新聞も廃刊となった。
 それでも、怯まない。6月、大坂の宮武外骨らの援助で「大坂平民新聞」の発刊にこぎつける。森近は、その創刊号に「賃金の話・上」を掲載するのであった。彼らは、近畿での労働運動の発展に力を尽くす。多忙の中、相当に勉強したのであろう、11月には「社会主義要綱」を堺利彦との共著であらわす。しかし、1908年(明治41年)、「農民の目ざまし」と題した同新聞付録が秩序攪乱の名によって森近は逮捕され、新聞は休刊となり、当局(第二次桂内閣)の弾圧が強まる中、同新聞も廃刊に追い込まれる。
 1909年(明治42年)、森近は岡山県高屋村の故郷に戻り、温室に着目した農業を営み、地域の農業指導から産業組合の育成に至るまで、地域人として暮らす。1910年(明治43年)からは、全国で無政府主義者、社会主義者への弾圧がエスカレートしていく。5月に長野県で大量検挙があった後、6月には明治天皇に対する暗殺計画があるとして、全国で逮捕者が出る。これを「大逆事件」という。この事件は、後に、実は実在しない「爆発物取締法違反」の容疑をかぶせることで国民の目をそらし、社会の批判勢力を一掃しようとする山形有朋(やまがたありとも、当時の政界の黒幕)や平沼騏(き)一郎大審院(当時の最高裁)検事の合作であったことが明らかとなっている。
 かねてから直接行動派から距離をおき、身に覚えのない森近もこの事件の容疑者として逮捕された。かつて天皇紀元の非歴史性をもらしたことが嫌疑となった。12月10日、大審院で公判が始まり、被告26人に死刑、2人に無期懲役が求刑される。翌1911年(明治44年)1月には、判決が下り、森近を含む24人に死刑が言い渡されるも、その翌日には、そのうち12人を無期懲役に変更した。森近には減刑がならず、その6日後に死刑が執行される。堺利彦らが、処刑者を引き取った。
 そんな森近の最後に遺したものとしては、その刑の直前に書き始めた「回顧三十年」(娘あて)は、行方がつまびらかでないのであろうか。僅かに、堺利彦の差し入れた本の裏表紙に、彼が爪で書いたという「父上は怒り玉ひぬ、我は泣きぬ、さめて恋しい故郷の夢」との句が、その時の心情を今に伝える。

(続く)

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♦️909『自然と人間の歴史・世界篇』古代から近世、近世、近代、そして現代へ

2020-03-11 10:38:26 | Weblog
909『自然と人間の歴史・世界篇』古代から近世、近世、近代、そして現代へ

 この宇宙にとっては、人間などの営みは、ほんのつかの間での出来事なのかも知れない。とはいえ、人類ならではの事情からすると、私たちは、いつから、どのようにしてここまで歩んできたのかを、たゆまなく問わずにはおられない。
 ところで、歴史などの本を読み進めていると、大方は「近世」という概念に出くわすが、概ねの論者は15~18世紀を言い、それ以前を「前近代」、その後の時代を「近代」と呼んでいるように見受けられる。
 そして近世の最後、18世紀の後半には、イギリスにおいて産業革命が始まる。もう一つ、ルネサンスを語る場合には、これも概ね14~16世紀ということでは、諸家の見解はほぼ一致しているようだ。
 それでは、ここにいうところの前近代と近代・現代とを分かつ、各々のメルクマールはどのように認識したらよいのだろうか。その1というのは、やはり生産力の大きさが前近代の末までは、しかとは定まらなかった。例えば、牧畜と農業は古代メソポタミア文明において始まる。この二つ、豚などの牧畜の方の方が紀元前約1万1000年からなのに対して、農業の方は紀元前約8500年からというのが、一説として有力であるのは興味深い。
 それというのは、チグリスとユーフラテスの二大河川がつくる、三角地帯(デルタ)の流域は、かなり肥沃な土地柄であって、中でも麦はこのあたりに自生していたものから、徐々に品種改良を重ねていったのであろうか。
 これに加えるに、生産力ということでは、そればかりというわけにはいくまい。某かの要素かそれに加えられるべきであり、道具とエネルギーにまつわるものだと言ってもよろしかろう。こちらの両方に跨がっているのか鉄であって、かたや鉄の生産であり、かたやそのために熱源として必要となる木材なのであった。
 そして、ここで興味深いのは、21世紀に入ってからの日本の調査団による、トルコ・アナトリア地方の古代遺跡での発掘にて、製鉄関連の最古級の遺物を見つけたというのだ。こちらの掘り返した地層の推定年代は、紀元前2250年から同2500年まで遡ることになるという。どうやら、ヒッタイト王国(紀元前1200年から同1400年にかけて栄えた)の前からの先住民が、これをもって鉄を生産し、それを道具に加工していたのではないかという。
 

(続く)

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