(38)『自然と人間の歴史・日本篇』律令制の成立

2016-03-30 09:47:29 | Weblog
(38)『自然と人間の歴史・日本篇』律令制の成立

 689年(持統天皇3年、同天皇は天武天皇の皇后であった)、天武天皇の時から準備されていた「飛鳥浄御原令」(あすかきよみがはられい)が正式に制定・発布される。ここに飛鳥浄御原宮とあるのは、645年の難波(長柄豊崎)宮から667年の近江大津宮、それから672年の遷都で同宮となっていた。これを受けての690年(持統天皇4年)、最初の全国戸籍となる庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成される。これで当時の全国の人民を掌握し、かれらを日常普段に統治するための行政組織が定められる。
 さらに694年(持統天皇4年)には、飛鳥(あすか)の北方、東、そして西を三つの山(いわゆる「大和三山」)に囲まれた盆地に、「藤原京」(ふじわらきょう)(現在の奈良県橿原(かしはら)市)が造られ、遷都がなされる。新都は、それより前の690年から4年をかけて着工されていた。この国での最初の本格的な都城であった。遷都から10年後の704年に完成している。この藤原京は、中央に宮殿を持っていた。都の地理的構造は、中国の都城にならって条坊制と呼ばれる。これは、碁盤の目状に整然と街路が設けられ、これが街割りとなっている。いわゆる「唐風」である。夜、上空からの写真はもちろんある由もないが、現代の画家・平山郁夫の大作「高○(ひか)る藤原京」(縦166.2センチメートル、横363.0センチメートル)に古代の光り輝く区割りが再現されているのが、何故か懐かしく感じられる。
 それでは、飛鳥時代の身分制はどうなっていたのであろうか。これを覗うものとして、令制に於ける良賎制と、戸籍制度(こだいにほんのこせきせいど)があった。良賎制というのは、民を領民と賤民とに分けた。良民(良人)として、公民、雑色人があった。後者は、品部と雑戸に分かたれていた。また五色の賎としては、陵戸、官戸、公奴婢(官奴婢)、家人及び私奴婢の区別があった。かかる良賎制に基づいて、朝廷が律令による人民把握のためのに戸籍が撰定・編纂された。戸籍の主なものに天武天皇の時の庚午年籍(こうごのねんじゃく)や、持統天皇の時の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)があげられる。いずれも、現存していないし、詳細な内容も伝わっていない。
 『日本書紀』巻第三十、「高天原広野姫(たかあまのはらひろのひめの)」にある、691年(持統天皇5年)の項の「三月壬申朔甲戌」以下の末尾に、領民と賤民の区別と人身売買に関する詔が紹介されている。
 「五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。
二月壬寅朔、天皇詔公卿等曰「卿等於天皇世作佛殿經藏・行月六齋、天皇時々遺大舍人問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢所生、亦皆從良。」
 この部分の書き下し文は、つぎの通りである。
 「持統五年・・・・・三月壬申(みずのえさる)朔・・・・・癸巳(みずのとみ。22日)若し百姓の弟、兄の為めに売らるる者有らば良(おおみたから)に従え。若し子、父母の為めに売らるる者は賎(やつこ)に従え。若し貸倍(かりもののこ)に准(いれ)られて、賎に没(い)れらば、良に従え。其の子奴婢に配(たぐ)えりと雖も、生める所は亦皆良に従え。」
 もし百姓が兄のために売られている場合は、解放して良民、つまり公民として扱う。父母によって売られている場合はそのまま賤、つまり奴隷に据え置きとする。さらに借金を返済できないことで賤、つまり奴隷になった者は解放して良民、つまり公民として扱う。賤、つまり奴隷の子供はすべて良民、つまり公民として扱うべきことになっている。
 持統天皇の跡を継いだのが文武天皇で、その治世の701年(大宝元年)、日本に中国の唐に習った本格的な政治を敷くべく、『大宝律令』が定められた。647年(大化3年)の正月の「改新の詔」において律令を定めることになっていたのを踏まえた措置であった。この律令は、新たに刑罰法令を加え、古代日本の律と令の根幹を網羅した初めての基本法だと言える。この法体系の中で、すべての土地は耕地として、国家の所有の建前であり、人民はその国家に従属する立場にあることとされた。「班田収授法」が制定され、口分田として判田収受される。一人一人に分け与えられた土地はその本人一代限りのものであり、世襲されるものではない。その土地毎に全国の戸籍、人民の土地利用などが定まる。これには、賦役や軍事に至る一連の人民の義務あれこれが組み入れられている。それらは、645年(大化元年)の大化改新の後直ぐには間に合わず、その本格的成立は701年の大宝律令を待たねばならなかった。その後の『令義解』は、同律令の解説書として編さんされた。その戸令、田令、賦役令及び軍防令について言うと、我が国の古代律令政治の基本が、こう伝えられる。
「(戸令)
 凡そ戸は五十戸を以て里と為せ。里毎に長一人を置け。
 凡そ計帳を造らむことは、年毎に・・・・・
 凡そ戸籍は六年に一たび造れ。
 凡そ戸籍は恒に五比を留めよ。其遠き者は次に依りて除け。(近江の大津宮の庚午の年の籍は除かざれ)
 (田令)
 凡そ田は長さ卅歩、広さ十二歩を段と為よ。十段を町と為よ。段の租稲二束二把、町の租稲廿二束。
 凡そ口分田を給はむこと、男に二段。女は三分の一を減ぜよ。五年以下には給はざれ。
 凡そ田は六年に一たび班へ。神田・寺田は此の限りに在らず。・・・・・
 凡そ諸国の公田は、皆国司郷土の估価に随ひて賃租せよ。
 (賦役令)
 凡そ調の絹・あしぎぬ・糸・綿・布は,並びに郷土の出す所に随え。
 凡そ正丁の歳役は十日。若し庸を取るべくんば、布二丈六尺。・・・・・
 凡そ令条の外の雑徭は、人毎に均しく使へ。総て六十日を過ぐることを得ざれ。
 軍防令
 凡そ兵士の上番せむは、京に向はむは一年、防に向はむは三年、行程を計へず。
 凡そ兵士の京に向ふをば、衛士と名づく。
 ・・・・・辺守るをば、防人と名づく。」
 ここ大要が述べられている新法制の骨子としては、公地公民制をとって、貴族や豪族の私有していた「田荘」と呼ばれていた土地、そして「部曲」(かきべ)と呼ばれていた人民を朝廷の直接支配下に置くものであった。このため、地方を国、郡、里に分割するとともに、これまでの地方豪族の中から「郡司」や「里長」という下級官僚に任命する、あわせてそれぞれの国には中央から国司を派遣して治めさせることにした。更には、戸籍と計帳を作成するとともに、6歳以上の男子に田2段(2反、約24アール)、同女子にはその三分の二の1段120歩(約16アール)の土地を、「口分田」(くぶんでん)として一代に限り貸し、耕作させる。
 この新法制では、統一税制が採用される。具体的には、人民には租、庸、調、雑徭などの義務を課す。「租」は口分田1段からの収穫を百束と見積もり、このうち稲2束2把、収穫高の約3%を朝廷に上納させることに定めた。「庸」は、成人男子一人につき麻布2丈5尺を納入させること(本来は都で年に10日間の労役に服させる)にある。さらに「調」は人頭税であり、絹、糸、綿、麻布の中から一つを選んで朝廷に物納させる。
 さらに労働税があった。その中の「雑徭」として、国司の下で年間15~60日間の労役に就くことが求められる。『養老の賦役令』によると、公民は一年に一回都に出て、食料を自前で労力を提供、つまり無償労働する義務を負っていた。瀧川政次郎氏は、これを次のように説明している。
 「この一年十日の徭役を正役と云い、正役畢つて尚徴せられる徭役を留役と云った。正役は蓋し正則の徭役の意であり、留役は正役畢つて放環すべき徭丁を尚留めて役する徭役の意味である。この正役を負担したものは、庸を徴せられることなく、この正役を免れたものは、庸を徴せられるのである。ゆえに庸として化せられる物品は、実に当時の十日間の法定賃金の額より成っている。即ち当時の国家は、宮殿の造営、新都の経営等の国家に労力を必要とすることの有る年には、人民より正役を徴し、正役を以て足らざるときには、更に人民をして留役せしめ、国家に労力を要せざる年には庸を徴したのである。而して奈良時代以後に於いては、徭役を徴する場合に於いても、自ら労働を提供することを欲しない人民からは、徭分銭又は徭分稲なるものを徴し、これを資源として人民を雇ひ、これをして所要の労務につかしめた。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
 公民の男子には、「兵役」もあった。成人男子三人に一人の割合で徴兵される。その場合、軍団「兵士」として10番交代で10日間を勤務しなければならない。その他にも、「仕丁」といって都を守る中央官庁の「衛士」として労役が1年間課せられたり、九州防備の「防人」として3年間任地に赴く義務も課せられる。

(続く)

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(87)『自然人間の歴史』鎌倉幕府の崩壊

2016-03-29 22:14:15 | Weblog
(87)『自然人間の歴史』鎌倉幕府の崩壊

1292年(正応5年)、美作の久世保(現在の久米郡)で鎌倉幕府の御家人に任じられていた久世氏は、「大炊寮領」(おおいりょうりょう)という名の荘園の所職の一つである「下司(げし)、公文職(くもんしき)」職を得ていた。ところが、その地の荘園領主とおぼしき雑掌覚証がその職を取り上げようとしたのが争論に上った。これに対する裁定であるところの「御教書」(みきょうじょ)が出される3日前には、幕府による、次の『御教書』が発布されていた。
 「西国御家人は、右大将家の御時より、守護人等、交名を注し、大番以下課役を勤むると雖も、関東御下文を給ひ、所職を領掌る輩、いくばくならず。重代の所帯たるによって、便宜に従ひ、或いは本所領家の下文を給ひ、或いは神社惣官の充文を以て、相伝せしむるか。本所進止の職たりと雖も、殊に罪科無く、者(てえれ)ば、改易さるるべからずの条、天福・寛元に定め置かるるところ也。然れば所職を安堵し、本所年貢以下の課役、関東御家人役を勤仕すべくの由、相触るべくの状、仰せによって執達件の如し。
正応五年八月七日
陸奥守(宣時)御判、相模守(貞時)御判、越後守(兼時)殿、丹波守(盛房)殿」(貞永式目追加六三三)」(『御教書』)
 この親文書を拠り所にして出された本件争論に対する「御教書」には、京都にいる大炊領の荘園主の主張を退け、久世氏に元のように所職を安堵している。関東御家人としての職務についても、引き続いて勤めるような命令がなされる。この採決によると、久世氏が就いていたのは、荘園領主が任免権を持つ荘官の地位に過ぎなく、その職は鎌倉幕府から与えられたものではない。この久世保(久世町)では幕府任命の地頭による領主制がまだ芽生えていなかった。その点で、同じ美作の梶並荘でのような、新しい地頭(これを「新補地頭」という)が補任されることを含め、従来の荘園領主による土地支配にとって代わろうとしたものでは無かった。御家人の立場から見ると、この力関係の下であればこそ、頼るべきは鎌倉幕府であったし、訴えを受けた幕府は彼を擁護するに至る。
 これに似るものとして、備後の地、神崎庄(現在は広島県か)においては、1318年(文保2年)、荘園土地を巡って、国衙(こくが)と地頭との間に、次のような約定があった。次の書状が残されている。
 「和与す
 備後国神崎庄下地(したじ)以下所務条々の事。右、当庄の領家高野山金剛三昧院内遍照院雑掌行盛と、地頭阿野侍従季継御代官助景との相論(そうろん)、当庄下地以下所務条々の事、訴陳(そちん)に番(つが)ふと雖も、当寺知行の間、別儀を以て和与(わよ)せしむ。田畠、山河以下の下地は中分(ちゅうぶん)せしめ、各一円の所務致すべし。」(「金剛三昧院文書」)
 ここに下地(したじ)とは、中世(鎌倉時代から南北朝時代にかけて)日本の荘園や公領において、土地から生み出された収益を上分と言うのに対して土地そのものを指し、また「下地中分」とは上代からの荘園領主に対し、この時代に台頭してきた地頭との間に、年貢・所領争論があった時の解決法の一つ。すなわち、そのままでは二重権力状態となりかねない下地を双方で二分し、互いの領有権を認めて相互に侵犯しないようにした試み。荘園領主から見ると地頭の荘園侵略に対抗する手段であったが、荘園制崩壊への序曲となりうる政治経済的要素を孕んでいた。
 ついては「下地は中分せしめ」とあるのは、現地の荘園の土地の相当部分を地頭に与え、国衙(こくが)と地頭とが支配権を認め合う、そうすることで土地管理の争いを収めようとした。この件では、「和与」、つまり裁判による「強制中分」ではなく、双方の話し合いによる和解(「和与中分」)が成った。よく言えば、双方による痛み分けの内容とも受け取れる。こうした苦肉の措置により、現地の荘園管理などの実質的な支配権は次第に地頭の手に移っていく。その先には、地頭に荘園管理の一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる「地頭請所(じとううけしょ)」があった。
 1317年(文保元年)、後醍醐天皇が即位する。そのことは、大覚寺統(だいかくじとう)の後宇多上皇と持明院統の後二条天皇による「文保の御和談」で決まっていた。この協定によるかぎり、後醍醐天皇の後は大覚寺党の御二条天皇の皇子が、ついで持明院統の後伏見天皇の皇子が皇太子となり、以後、これらの皇子の系統が交互に即位することにならざるをえない。こうなると、後醍醐天皇の子孫は天皇位に就けなくなる。
 それでも、政治的野心の持ち主でもあった同天皇は、密かに幕府に取って代わろうという計画を練り始める。そして1331年(元弘元年)、後醍醐天皇による倒幕の密議が関東に漏れる。これを察知した鎌倉幕府は、後醍醐天皇に幽閉処分を下す。北条氏は後醍醐の代わりとして、直ちに持明院統(じみょういんとう)から後伏見上皇の第一皇子である量仁親王(かずひとしんのう)を擁立して光厳天皇とする。
 後醍醐天皇の隠岐の処分が決まり、一行が出雲街道沿いの杉坂峠を通ったおり、備前の武士である児島高徳らが彼を奪い返そうとした。ところが、彼らは天皇一行の道筋をたがえて失敗し、児島主従のみは宿泊先の院庄館(いんのしょうやかた)に彼をたずね、忠誠心を吐露した。その時の主従のきづなの確認にちなんで、あの切々とした「桜ほろ散る院庄・・・」の「忠義桜」歌などが伝わる。その道中の高台に一本桜(在、現在の真庭市別所)があり、「醍醐桜(だいござくら)」と呼ばれる。隠岐の島に配流の途中、後醍醐天皇が桜の立派な姿を讃えたため、この名が付けられたとも言われているが、それだと言うには少し無理があるのかもしれない。ともあれ、同じ現在の真庭市に地上高く立ち上がっている「岩井畝(いわいうね)の大桜」と並んで、推定樹齢が日本有数の桜であることに間違いあるまい。
 1333年(正慶2年=元弘3年)、幕府への不満が全国で渦巻く中で、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県太田市辺り)の地頭職、新田義貞(にったよしさだ)が後醍醐天皇の命を掲げて、本拠地の新田荘において挙兵すると、全国にこの流れに乗ろうとする武士が相次いだ。幕府の有力御家人である足利氏は、関東を本拠にしていたが、西国でも大きな力を誇示していた。まさに幕府の屋台骨を恒星していた豪族の一つであった。その足利氏が、天皇方について挙兵した。新田氏による挙兵からほぼ2週間を経て、新田義貞の軍はついに鎌倉に侵入して、北条氏を中心とする幕府を滅亡へと導いた。
 また、足利氏らにより、京都の出先政府であるところの六波羅探題(ろくしらたんだい)も滅亡する。なお、この足利勢には、茂則の子である赤松則村(あかまつのりむら)も加わっていた。
 この騒乱の間に、幽閉されていた後醍醐(ごだいご)天皇は、伯耆(ほうき)の武士、名和長年らの助けで隠岐を抜け出し、これに美作の菅谷党、赤松則村(円心)などの美作勢も、その旗下に馳せ参じたことになっている。『太平記』(巻第七)は、そのことを生き生きと伝えている。
 「・・・・・美作国ニハ菅家ノ一族、江見、方賀、渋谷、南三郷、備後国ニ江田、広沢、宮、三吉、備中ニ新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、真壁、備前ニ今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経、藤井、射越五郎左右衛門範貞、小嶋、中吉、美濃権介、和気弥次郎季経、石生彦三郎・・・・・」
 そのまま全国から幕府打倒の炎が燃え上がって、ついにおよそ150年続いた我が国最初の、鎌倉を本拠地とした武家政治は終焉を迎える。

(続く)

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(36)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ

2016-03-28 21:32:26 | Weblog
(36)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥へ

 さて、628年(推古大王36年)には、推古女帝も死んで、敏達大王の孫の田村皇子と、聖徳太子の長男である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)との間で跡目争いが起きた、とされる。創られたのかも知れない「歴史」によると、山背大兄皇子の側が敗北を喫して、推古大王の甥(おい)にして中大兄(なかのおおえ)にとっては父に当たる田村皇子が即位(「践○(せんそ)」)して舒明(じょめい)大王となり、聖徳太子の一族は根こそぎにされてしまう。つまびらかではないが、太子の一族の多くは自決の道を選んだとも伝えられる。なお、この両皇子による争いの一部始終を蘇我一族の勢力拡張の野望で説明する説があるが、そのような根拠は今日までの資料では見極めがたいのではないか。
 続いて、641年(舒明大王13年)に同天皇が死ぬと、中大兄が「○(しのびごと)」
の役を務めるのであった。翌年、彼の母親の宝皇女が大王位を引き継ぎ、これが皇極大王(こうぎょくだいおう)である。この間の権力継承の経緯については諸説があるが、ここでは村山光一氏の所説を紹介させていただく。
 「皇極二年(643)十月、蘇我蝦夷は私的に大臣の身分に伴う紫冠を長子入鹿に授け、大臣の位を入鹿に譲った。唐より帰国した僧○の学堂で学び新知識を身につけた入鹿は、皇位継承の第一の候補であった山背大兄皇子を、「国家の計」をなす器量がない人物と判断し、蘇我系の古人大兄皇子を擁立して大王とし、自ら実権を握ってその思うところの政策を遂行しようとした。そこで同年十一月、突如として斑鳩宮にいた山背大兄皇子とその一族を襲い、上宮王家を滅ぼして、独裁政権を樹立した。
 この入鹿の行動は、泉蓋素文(せんむんそむん)のクーデターに倣ったものと思われるが、その強引な権力集中は、蘇我大臣家の孤立を招いた。しかも入鹿が権力を掌握した時期は、倭国をめぐる国際情勢は緊迫しており、高句麗・百済と唐・新羅の二つの陣営からの倭国への働きかけは積極的になっていた。ところが、蘇我氏は伝統的に親百済的であり、入鹿もまた同様であったと思われ、したがって入鹿は高句麗・百済側に荷担し、新羅に対しては「任那の調」の取り立てを要求するという外交政策を打ち出した可能性が高い。
 蘇我入鹿の前記のごときいわれなき上宮王家襲撃、独裁政権の樹立、唐・新羅を敵にまわしかねない外交政策の採用は、畿内豪族層の間に急速に反蘇我大臣家勢力を結集せしめることになった。その中心は中臣鎌足と皇位継承から疎外された葛城皇子(中大兄皇子)であるが、この二人は密かに蘇我氏から権力を奪取する機会をうかがい、また来るべき新政権の外交政策、内政改革について綿密な計画を練っていた。」(国史概説Ⅰー古代・中世」慶應義塾大学通信教育教材、1988)
 ここで見逃すべきでないのは、これら一連の政治の動きには、朝廷を支える豪族たちの力の伸長があったことである。こうなると、大和の朝廷の中で、互いに並び立っている複数の有力な者同士、その集合体による勢力を一本化しようという動きが火花散るようになっていくのは避け難い。つまり、権力基盤を固めようという側からは統治の一本化、集中化は避けては通れない。ありとあらゆる権謀術数が渦巻いたに違いない。その中でも、土着の勢力の筆頭であった物部氏を倒してからの蘇我氏(そがし)は大きくなり、大和朝廷の重鎮となっていた。蘇我氏の方は朝廷に忠勤を励んでいるつもりでも、「大王(おおきみ)」や対抗勢力からみると、機会があれば倒したい相手と写ったとしても、それは不思議なことではない。
 その中央集権化の最初の現れが、皇極(こうぎょく)女帝の治世、645年(大化元年)の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、斉明大王の息子にして後の天智大王)が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と謀って主導した「大化の改新」であった。おそらく、これで蘇我氏に対し、おそらくは「無実の罪」を被せ、滅ぼしたものと考えられる。
 改新の詔(みことのり)に、こうある。
 「其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまえる子代(こしろ)の民、処々(ところどころ)の屯倉(みやけ)、及び、別には臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものやっこ)、国造(くにのみやっこ)、村首(むらのおびと)の所有る部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(7)めよ。仍(よ)りて食封(じきふ)を大夫(まえつきみ)より以上に賜(たま)ふこと、各差有(おのおのしなあ)らむ。
 其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内、国司(くにのみこともち)、郡司(こおりのみやっこ)、関塞(せきそこ)、斥候(うかみ)、防人(さきもり)、駅馬(はゆま)、伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河(やまかわ)を定めよ。
其の三に曰く、初めて戸籍、計帳(けいちょう)、班田収授法を造れ。・・・・・
 其の四に曰く、旧(もと)の賦役を罷めて、田の調(みつき)を行へ。」(『日本書記』より引用)
 これと同じ645年(皇極大王4年)、同大王が弟である軽皇子に位を譲って誕生したのが孝徳大王である。こうして生まれた新政権は、おそらく朝鮮半島の新羅(シルラ)との国交を回復し、都を難波に遷し、618年((日本においては推古大王26年))に誕生した大陸の唐(タン)を模範とした国造りを急いだものと思われる。この時、皇太子には、同大王の甥(おい)に当たる中大兄が就任し、辣腕をふるっていたものと考えられる。そして迎えた647年(大化3年)の正月の「改新の詔」において、朝廷は律令を定めることにした。そして大化の改新から十数年が経過し、孝徳天皇が逝き、その姉の斉明天皇が再度の大王位に就いていた。斉明と中大兄皇子とは、大規模な土木工事を強行して、岡本宮を造営し、そこに移り住んでいた。二人は、この工事を強行したことでの民衆や一部の豪族、貴族からの不満や反感を鋭敏にも感じていたに違いあるまい。
 この新しい政府は、647年(大化3年)に、今の新潟あたりに○足柵(ぬたりのさく)、翌年に磐舟柵(いわふねのさく)を設ける。658年(斉明大王4年)からは、北方への遠征を敢行する。いずれも、自らの王朝の範図の拡大という野望を叶えるためであったといえる。
 おりしも、654年(孝徳大王4年)、同大王が死ぬと、中大兄の母が再び大王位につき(重○(ちょうそ)して)、斉明大王となる。その皇太子には、中大兄皇子が就任する。ところが、斉明の前の孝徳大王には有間皇子がいて、中大兄皇子とは従兄弟の間柄であった。658年(斉明大王4年)、中大兄皇子は側近の蘇我臣赤兄(あかえ)に命じて有間皇子に謀反をそそのかし、有間皇子が立ち上がるや逮捕し、死に追いやることに成功した。

(続く)

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(135)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(1)

2016-03-24 21:39:31 | Weblog
(135)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の財政金融政策(1)

 元禄期の政治の爛熟から、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の治世、幕府は態勢を挽回しようと試みていく。そのはしりは、6代将軍になってからの「正徳の治」として展開していく。まずは1715年(正徳5年)に出された『確固海舶互市新例』には、次のような重商主義的な経済政策が盛り込まれていた。
 「一、長崎表廻銅(ながさきおもてかいどう)、およそ一年の定数(じょうすう)四百万斤より四百五拾万斤迄の間をもって、其限とすべき事。
一、唐人方(とうじんがた)商売の法、凡一年の船数、口船、奥船合せて三拾艘、凡(すべ)銀高六千貫目に限り、其内銅三百万斤を相渡すべきこと。・・・・・。
一、阿蘭陀(オランダ)人商売の法、凡一年の船数弐艘、凡(すべ)て銀高三千貫目限り、其内銅五拾万斤を渡すべき事。・・・・・。
 正徳5年1月11日」(『教令類纂』)
 これに「長崎表廻銅」とあるのは、長崎に送る輸出用の銅のことであって、その当時、幕府の長崎貿易によって大量の金銀が海外に流出していた。これを何とか食い止めようと、ある種の貿易制限と、金銀ではなく銅での支払いを強化したのであったらしい。その実務を担当したのは、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の学問方師匠役の新井白石と、前代将軍の時からの側用人間部詮房(まなべあきふさ)という因縁の二人が中心であった。
 次なる課題としては、この頃すでに幕府財政が苦しさを増しつつあった。そこで財政を再建するための一手として、新井は貨幣改鋳を画策するに至る。その彼は、その前の元禄期の貨幣政策を振り返り、自身の日記『折りたく柴の記』の中で、こういう。
 「今、重秀が議り申す所は、『御料すべて四百万石、歳々に納めらるる所の金は凡七十六万両余、此内、長崎の運上というもの六万両、酒運上というもの六千両、これら近江守(荻原重秀)申し行ひし所也。此内、夏冬御給金の料三十万料余を除く外、余る所は四十六七万両余也。しかるに去歳の国用、凡金百四十万両に及べり。此外に内裏を造りまいらせらるる所の料、凡金七八十万両を用ひらるべし。されば今国財の足らざる所、凡百七八十万両に余れり。たとひ大喪の御事なしといふとも、今より後、取用ひらるべき国財はあらず。いはんや、当時の急務御中陰の御法事料、御霊屋作らるべき料、将軍宣下の儀行はるべき料、本城に御わたましの料、此外、内裏造りまゐらせらるべき所の料なり。
 しかるに、只今、御蔵にある所の金、わづかに三十七万両にすぎず。此内、二十四万両は、去年の春、武相駿三州の地の灰砂を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金弐両を徴れしところ凡そ四十万両の内、十六万両をもて其の用に充てられ、其の余分をば城北の御所造らるべき料に残し置かれし所なり。これより外に、国用に充らるるべからず』といふなり。前代の御時、歳ごとに其出るところの入る所に倍増して、国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる。これより此かた、歳々に収められし所の公利、総計金凡五百万両、これを以てつねにその足らざる所を補ひしに、おなじき十六年の冬、大地震によりて傾き壊れし所々を修治せらるるに至て、彼歳々に収められし所の公利も忽につきぬ。
 そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば、宝永三年七月、かさねて又銀貨を改造られしかど、なほ歳用にたらざれば、去年の春、対馬守重富がはからひにて、当十大銭を鋳出さるる事をも申行ひ給ひき 此大銭に事は近江守もよからぬ事の由申せし也 『今に至て此急を救はるべき事、金銭の製を改造せたるるの外、其他あるべからず』と申す。(中略)当時国財の急なる事に至ても、近江守が申す所心得られず。其の故は彼の申す所による時は、今歳の国用に充つべきものわずかに三十七万は、即是去々年の税課なり。されば今年の国用となさるべき所は、たとひ彼の申す所のごとくなりとも、去年納められし所の金七十六万両と、今ある所の金三十万両とをあはせて、総計一百十余万両のあるべし。また当時の急に用ひらるべき物も、各色まづ其の価を給らざれば、其の事弁ぜずといふにもあらず。其の事の緩急にしたがひ、一百十余万両の金をわかちて、或ひは其の全価をも給り、或ひは其の半価をも給りて、来年に及びて其の価をことごとく償はれんに、其の事弁じ得ずといふ事なかるべし」
 この引用中段に「そののち、また国財たらざる事、もとのごとくなりぬれば」とあるように、幕府の財政は元禄期を入ってから急激な悪化を呈していた。またその直ぐ後の文中に「国財すでにつまづきしを以て元禄八年の九月より金銀の製を改造らる」とあるのは、1695年9月14日(元禄8年8月7日)に出された金銀改鋳に関する触書のことであって、それにはこうあった。
 「一、金銀極印古く成候に付、可ニ吹直一旨被レ仰ニ出之一、且又近年山より出候金銀も多無レ之、世間の金銀も次第に減じ可レ申に付、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため被ニ仰付一候事。
一、金銀吹直し候に付、世間人々所持の金銀、公儀へ御取上被レ成候にては無レ之候。公儀の金銀、先吹直し候上にて世間へ可レ出レ之候、至ニ其時一可ニ申渡一候事。」
 同時に、元禄金銀も、慶長金銀と等価に通用させるよう通達が出る。
 「一、今度金銀吹直し被ニ仰付一、吹直り候金銀、段々世間へ可ニ相渡一之間、在来金銀と同事に相心得、古金銀と入交、遣方・請取・渡・両替共に無レ滞用ひ可レ申、上納金銀も右可為ニ同事一。」
 そもそも慶長小判の1両は、金四匁(4もんめ、15グラム)と定めてあった。この「1両」というのは貨幣単位、匁というのが重量単位のことだ。これに対して新しくつくられた元禄小判の1両は、8分の3(3/8)匁の金しか含んでいない。幕府としては、これを慶長小判と同等の1両として社会に流通させたい、しかも穏便な形でそうならねばならない。そこで、個々の流通に改鋳(「悪鋳」というべきか)したことを世間に安易に分からないような体裁、すなわち銅や真鍮(しんちゅう)を金に混ぜるという、ある種のごまかし」(「目くらまし」というべきか)をとる。この場合は、貨幣の価値が下がるのであるから、その分物価が上がっておかしくないし、事実、1694年(元禄7年)に米1石の値段が銀70匁であったのが、1702年(元禄15年)には銀100匁に上昇したのであった。
 貨幣改鋳は、それからも繰り替えされていく。当の幕府としては、その都度、貨幣改鋳の出自分を収入に繰り入れることで意の破綻を糊塗(こと)なり、先伸ばしにすることが可能とみていたのであろうか。 というのも、財政の悪化の原因は、「地震や水害の復旧、ことに宝永元年の関東大洪水や宝永三年の富士山噴火被災地の復興、それに江戸城中の賄い費をはじめ生活消費出の増大、加えるに貨幣改鋳などによるインフレの昂進にあったが、なによりも年貢高の低下に大きな要因があった」(本間清利『関東郡代』埼玉新聞社、1977)とされている。これにもあるように、1704年(宝永元年)から1706年(宝永3年)にかけては災害続きでもあり、財政聞きの原因はなかなかに複合的な様になっていたことが窺えるのである。
 ついでに言えば、新井の論では、貨幣の値打を下げるような貨幣の改鋳は「悪い改鋳」として非難されるべきものだ。それでは、どうやっていくべきだとしたのだろうか。1714年(正徳4年)に彼が主導した貨幣改鋳によると、鋳造された正徳小判なるものに含まれる金量は、慶長小判に比べほぼ同重量なのであった。ところが、この改鋳ははかばかしい成果を上げられなかった、といって良い。というのも、今度は正徳小判を手にした人は貨幣退蔵を行ったため、社会に出回る貨幣がかえって不足して、経済活動をかえって停滞に向かわせてしまうという、困った事態をもたらしたのであった。

(続く)

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『(65の2)』『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(近世から現代へ)

2016-03-18 20:40:37 | Weblog
『(65の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(近代から現代へ)

 総社からの高梁川は、備中南部の平野部を川幅を広げながら、悠々と流れを押し出してゆく。行く河の流れは元の流れにあらずして、時々刻々と変貌を遂げるというのは、かの釈尊の言葉である。というのも、このあたりの高梁川の清らかな流れは、この数百年来のうちにも、大きな変化を遂げた。明治以前までのこの川は、そもそも東と西の二つに分岐して海へ注いでいた。具体的な地名でいうと、その頃までの高梁川は、八幡山の北麓で東西2つに分かれていた。西の方は、八幡山の西、現在の柳井原貯水池あたりを通って、現在の高梁川の流路から玉島湾へ流れ出ていた。もう一つ、東の方の流れは、八幡山の北から東へ屈曲し、倉敷に入って酒津から南へと流れ、連島の東でこれまた当時の玉島湾に注いでいた。
 備中においては、この高梁川に沿って南に下るほどに埋立で造られた土地らしい趣がある。この川の広大な下流域を中心にして、倉敷という広域都市ができていった。その現在像としては、古くからの倉敷エリア、児島エリア、真備エリア、船穂エリア、水島エリア、そして玉島エリアの6つ地区に分かれる。
 これらのうち備中国に属していた玉島については、若き日の良寛和尚との関わりが伝わる。1779年(安政8年)、22歳の若き良寛は玉島(旧の備中国玉島湊)地を踏んだ。故郷の寺では身をもてあましていたらしく、広い舞台に出たかったのではないか。その寺は、玉島(現在の倉敷市玉島柏島)の高台にある。寺内の案内板にも、「またこの地は円通寺をふくめて山全体が高遠として、瀬戸内海の眺望はすばらしい」とある。曹洞宗寺院の円通寺第十世大忍国仙和尚に従い、これからは厳しい修行が始まる。2016年10月の円通寺の建つところを少し下った草原のベンチから見えるのは、手前にはなだらかに海へと向かううち、つれづれに茂る落葉樹、そしてこんもりとしてあるのが常緑樹といったところか。更に左手の川の流れ(溜川、道口川、里見川など)を挟んでの奥方、「玉島乙津島」地区の向こう側には、大河となった高梁川が海へと注ぐ。その境界には大きな橋が架けられていて、その奥に位置する水島の工業地帯を遙かに望む。
 そもそも良寛は1758年(宝暦8年)、越後国(現在の新潟県)三島郡出雲崎住で、代々名主兼神職を務める橘屋山本家の長男として生まれた。幼名を栄蔵という。大森子陽の塾に入り和漢の学を修めた時期もある。18歳の頃、名主見習いとなった彼は、そのわずか数カ月後に家を出てしまう。越後の曹洞宗光照寺に駆け込み、出家した。この光照寺で良寛は、越後へ巡錫(じゅんしゃく)にきて、しばらく同寺に滞留していた国仙和尚と出会う。そしてその徳を慕って弟子となり、越後からはるばる玉島へとやってきたのである。
 玉島の円通寺の開山は、徳翁良高(1649~1709))であって、1600年代後半の当時は円通庵と号した。二代目の雄禅良英和尚の代に、円通寺となる。以後高僧が相継ぎ、良寛がやって来た時には百年以上が経っていた。十代目の住持国仙の下で、良寛は厳しい修行をしたのだろうか。寝泊まりしたのは、現在「良寛堂」となっているところだった。今では往年の賑わいは片鱗すらなくとも、目を凝らせば彼と盟友たちの仏道探求への覇気ある姿が彷彿としてくるから、不思議だ。その後の1790年(寛政2年)、33歳で師の国仙から印可(いんが)の偈(げ゙)を授けられる。その翌年、国仙和尚の死を契機としてのことなのか、仔細はわからないが、諸国行脚の旅に出る。その後の彼に『円通寺』と題する漢詩があって、読み下し文に「円通寺に来ってより、幾度か冬春を経たる、門前 千家の邑(ゆう)、更に一人を知らず、衣垢(あか)づけば手自ら濯(あら)い、食尽くれば城闉(じょうえん)に出づ、曾(かつ)て高僧伝を読むに、僧可は清貧なるべしと」(入矢義高『日本の禅語録二十良寛』(講談社、1978年)による)とある。推して知るべしだが、たぶん、国仙の衣鉢を継ぐこみとのかなわなかった良寛としては、師亡き後のこの寺の主人となった玄透即中(後に本山永平寺の住持に返り咲く人物)とはそりが合わず、幕府による「曹洞宗法度」に唯々諾々と従う気持ちにもなれなかったのではないか。そこで、自分の方から宗門内で生きることはもはやないと見切りを付けての出立だったのではあるまいか。思い立ったら断乎行動するという、後の良寛の面目は、ここに既に芽生えてある。
 そして敗戦による戦後がやってくる。さらに、「平成の大合併」で倉敷市となったのが、市北部の真備エリアと船穂エリアである。このうち船穂エリアは、地形としては水島エリアの高梁川河口付近の対岸に位置する。しかも、その南に接して海に面した玉島エリアが広がっている。そこで元からの内陸というのは、精々倉敷エリアと真備エリアくらいのものであろうか。さらに、残る児島エリア、水島エリア、玉島エリアの3つは、元々が瀬戸内海に面する地域だ。「水島臨海工業地帯(水島コンビナート)」は、これら3つの地区にまたがる形で成り立っている。その広さは2514ヘクタール、2016年3月現在の倉敷市の総面積の約7%を占め、ほとんどすべてが埋立地だといっても過言ではあるまい。こうすると、倉敷の中で埋立地といえる範囲は、私たちが普段想像している以上に広い。

(続く)

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新9『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々2

2016-03-06 09:45:41 | Weblog
9『美作の野は晴れて』第一部、故郷の人々2

 祖父、安吉の人生を、本人から直接にある程度の詳しさをもって聞いたことはない。それでも、私が小学校を終えるまでの時期に聞いた身の上話で、覚えているものがある。あれは夏の日だった。炭焼きの手伝いをしていた。傾斜したところに上から下へと同寸法の穴を掘る。そこに樫や楢や栗といった材料を1メートル弱に切ったものを縦に並べていく。空気の流れも欠かせない。上の方に穴を開けて、ブリキの煙突を立てている。ある程度の間隔を確保してから土をかぶせる。それが終わったら、急ごしらえの下の口から柴や新聞紙を使って火を付ける。
 その日は火付けのあと、祖父が仕事の手を休めて傾斜地に腰掛け、僕も並んで腰掛けていた。祖父は腰にぶら下げていた煙管(きせる)を左手に取って、それに袋から藻草を少し取り出して詰め始める。フワフワした茶色い藻草を2、3回煙管に詰め終わると、祖父はそれをおもむろに口に大抵はやや下向き気加減にくわえる。マッチで火を付けてスパスパやる。
 さっそく煙がたなびいている煙管を一吸いする。うまそうに吸う祖父の顔を窺うのが好きだった。そんなにうまいものなのかと、訝るもう一つの自分の心がある。
 そのときの話は薄々ながら覚えている。
「おじいちゃん、いつ頃炭が焼けるんかなあ」
「いま火を付けたけんな(からね)。1日燃やして、それで火を引く。燃え過ぎるといかんのでな。中の様子を見ながらな」
 炭は、燃やさず消さず焼き尽くすことが大事だ。したがって、火を付けると空気穴だけを残して後は泥で塞いでしまう。酸素の供給を最小限に抑えて燃やさずに焼くと、いい炭ができる。
「そうじゃなあ(だね)、火を消してから3日くらい置いてから取り出すんじゃ(のだ)。泰司がてご(手伝い)をしてくれたんで、助かったぞ。この分だとええ炭が出来るぞ。」
そう言い終わって、祖父は煙管にもう1回肌色をしたモグサを詰め直した。今度もゆっくり吸ってから空をグルリと見渡した。
「ふーん。風が出てきとるな。雨が降らにゃあええがなあ(降らなければいいが)」
「降るんじゃろうか(だろうか)?」
私がそう訊くと、
「うーむ。西の空が怪しうなってきたな。夕方にはひと降りあるかもしれん」
祖父が目を南に広がる灰色の空を見ながら言った。
「そしたら、せっかく点けた火が消えてしまやあせんかな、おじいちゃん」
「そりゃあ、大丈夫じゃ、消えやーせん(消えない)」
 空の高い方では、雲が風で流れているようであった。このあたりでは、車が行き交う喧噪も、人々のかけ声も聞こえてこない。二人が口をつぐむと、とたんに静寂がやってきて、そのまま視線を前にやると、冬の間の白黒とは違って、色鮮やかな緑色をなす山里の風景が広がっている、それをただただ眺めて居る自分がある。ややあって、祖父が私の名を呼んだ。
「泰司」
「うーん?」
 横を向くと祖父の穏やかな表情があって、何かを話したそうにしているのがわかった。「おじいちゃんはなあ、若いとき目をけがをしたんだぞ。目の玉が飛び出るようなひどい怪我じゃった。」
そう言い終わって、祖父は真鍮製のように見える煙管をまたひと吸いした。
「ふーん」
 道理で祖父の目をいつも見慣れていて、目ぢからが感じられないと感づいていた。とはいえ、そのとき祖父の話をどう受け取ってよいのかわからない。少しだけわかったつもりで、残りの部分はぼうっと霞んでいる。今度は祖父がかわいそうになった。祖父は医者にかかって直したのだろうか。
「でもなあ、なんとか我慢した。なんとか目はつぶさんですんだが、あれからよう見えんようになってしもうたなあ」
「・・・・・」
 私には返す言葉がなかった。祖父はまた煙管に口を当て、今度はうまそうに一吸いした。
 しばらく経ってから、私の顔の方に振り向けた祖父と目線を合うと、祖父の目が弱々しい光を放っている。ほかにも、辛い思い出があったのかもしれない。それにしても、あのとき、なぜあんなふうな話を私にする気になったのだろう。
 祖父には、これといって叱られた覚えがない。祖父の代になってから、田圃の所有面積が広がったらしい。1946年(昭和21年)から、GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の肝いりで実施されたの農地改革はそれまでの農村の所有関係を一変させた。我が村内での地主の保有小作地は6反(60アール)に制限されたと伝えられる。
 全国的には、例えば不在地主が所有していた土地のうち、大地主については250町部(約250ヘクタール)も所有している者もあったとか。この農地改革によって、彼らの持ちうる土地面積は3町歩に制限され、あとは政府がただ同然で買い上げて、その地、その地を交錯している農民に安い値段で売った。これにより、戦前は農民の約80%が小作人であったのが、この改革により、基本的に全農民が一戸平均1、2町歩程度の自作農になることができた。
 その後、我が家の「西の谷」や「中の谷」などの山間の棚田を開墾したおかげで、6、7反(60、70アール)くらい増えた。そして1町8反(1.8ヘクタール)の身上となった。婿養子に入った6年後に舅の繁蔵が他界した。
 あれは真夏の日差しの強い日だった。蝉たちが声を張り上げていた中を、津山市掘坂(ほっさか)にある佐藤のうどん屋さんにうどんを仕入れに行った。そこは吉井川沿いの、ちょっとした高台にあって、祖父と兄と僕とで3台の自転車を連ねて出かけたような気がする。祖父は荷台の大きな自転車を引いていた。
 仕入れが終わるまでの間、祖父と私は広い庭で待っていた。つくったうどんやそうめんには天日干しが欠かせない。うどん屋さんのコンクリート敷の広い庭には、うどんやそうめんが干し棚に何十もという多さで立てかけてあった。
「泰司、見てみい。地面をコンクリ(コンクリート)で舗装しとる。じゃあから(だから)天気干しで麺がからからに乾くんじゃな」
「うん」
 祖父は満足そうに笑っていた。
 人工舗装の庭はたいそうな熱を蓄えていて、それがまた、上からぶら下がっている麺の乾燥を早める。
 左手の眼下には加茂川の清流がゆったりと流れている。なま暖かい風が吹いたような気がした。そこには釣り人とおぼしき人もいた。
「ほうーっ」
一呼吸置いてから、心地よさそうに次の言葉が出てきた。
「ええなあ(いいね)、今日は景色がようて(よくて)・・・・・」
額に手を当てて日差しをさえぎってから遠くを望む。
「魚釣りもぎょうさん(沢山の)人が出てしょうりんさるで(行っておられるよ)」
「でも、ここもだいぶん(相当)奥じゃなあ(だね)」
 そのときから、私の田舎の生活史で一番好きな眺めのひとつの場所としては、やや遠くではあったが、やはりあの加茂川の流れが最高のものとなっている。祖父は19歳のときまで存命であったので、思い出は尽きない。
 祖母のとみよには、幼い頃、引き戸格子の障子を破ったりして数度ならず叱られたことがある。躾けの厳しい人であった。しかし、かわいがってもくれ、小学校の低学年時代に一度自宅の風呂に一緒に入った記憶がある。
母からは
「泰司、おばあちゃんがきょうは一緒に風呂に入ろう、いっとりんさるで(言っておられるよ)」
「うん、わかった」
 その頃は、祖母に肩たたきをしたり、かゆいといって背中を掻いたりしてあげていたので、そのことで祖母が喜んでいてくれるのかと思った。
「泰司、背中を流しちゃろうか(してあげようか)」
「うん」
 祖母にへちまのたわしを使ってもらいながら、ふと、『おばあちゃんは小柄じゃなあ』などと、とりとめのないことを考えていた。
 祖父との思い出は、生き物を介在してのことが多い。ある朝、家の子牛が市場に売られていった。その朝のことは薄薄覚えている。あれはひょっとしたら小学校時代ではなく、中学校になってからのことだったのかもしれない。人の記憶とは、名か゜゛い再現でみればしょせんうつろで、頼りなくなってしまうものなのかもしれない。
 ある日やってきたのは荷馬車ではなく、見知らぬおじさんが乗ったオート三輪であった。この歌に出てくる子牛の場合は、何回かあった。私の家の牛は母牛1頭とその子牛であった。家から子牛を送り出したときのことは、ただの一度しか覚えていない。
 なにしろ、その牛をずっと見てきているので、半ば家族のようなものである。雌のため、時には、獣医さんが来て何度も種付けをしてもらい、何頭もの子牛を生んだ。子供牛は半年もするとセリに出される。牛の親子の別れは朝早くにやってくる。その度に牛の母と子は悲しげな声を上げ合うのだった。
「雄牛じゃけんいうて、殺されるんじゃないじゃろうなあ、おじいちゃん。」
僕はためらながらも祖父にたずねた。
「そうじゃな。あれをなあ、飼い主が買うてもっと太らせるんじゃ。解体されるのはそれからじゃな」
 淡々とした祖父の返事に私は少し楽な気持ちになったものだ。うちの子牛は雄なのじゃから、いずれ人間に供される肉となるために売られていったに違いない。そして、それは仕方がないことだと思い直すしかなかった。

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新7『美作の野は晴れて』第一部、冬場の狩り

2016-03-05 23:22:46 | Weblog
7・六九の二『美作の野は晴れて』第一部、冬場の狩り

 私たち部落の子供にとって、春の訪れを感じさせるものとしてやはり遊びであったろう。よきに付け、悪しきに付け、私たちは自然に抱かれて生きていた。その中でいの一番の遊びとしては、やっぱり魚とりであったのかもしれない。そうはいっても、真冬の間は、水面に氷が張っている場合が多いので、出掛けるのもけだるく感じられる。そんな寒中においても、「柴付け漁」といって、主に池に行って、笹付きの小竹を切って担いでいって沈めたり、川藻のぎっしり生えたところに竹そうきを立てに入れて腕で支え、足で水面からドスドスと踏み込むこともあった。そうすることで、水中や泥の中にいるどょうの類をそうきの中に追い込んだりしていた。しかし、意気込みとは逆に少ししか採れなかった。多分、かれらは半分は小沼の土中に潜んでいたのだろう。
 それが3月の啓蟄の頃(3月6日)ともなると、朝晩はまだ冷えるものの、日中太陽が上がるとかなり暖かい。水面から立ち上る冷たい霧も、いささか目立たなくなる。池の端の氷もつららだれしていたのが、薄氷となっていく。これが小川となると、氷や雪で覆われていた川底が上からのぞき込むまでもなく、1メートルくらいの深さなら底がよく見える。それでも、まだ時には、水の流れるところに「つらら」が垂れ下がっていた。さすがに水温が低いので、魚はなかなかに数えられるほどに水面に姿を現していない。けれども、深くなった川の淵(ふち)とか川底の岩下には、彼らがきっと潜んでいて、春になるのを待っているはずだ。
 「春になれば 氷(すがこ)もとけて、どしょっこだの、ふなっこだの、よるこあけたと おもうべな」(岡本敏明作詞・日本古謡「どじょっこふなっこ」)
 「よおーし、今日はええ日じゃけえ、ひっかけづり(あんまづり)をしちゃろう」と考えて、学校から急いで帰ると、さっそく準備にとりかかる。私たち子供が、釣りをするのによく使ったのは、縞模様のある小ぶりのミミズで、「シマミミズ」と呼んでいた。これが、農家の庭の一角に、牛糞が積み上げられた中に住んでいる。その中は適度に湿っており、たぶん発酵熱であったかいので、ミミズにとってはさぞかし心地がよかったのではないか。
 これを釣針にさして、餌(えさ)にして川に行き、魚を釣るのだ。魚からすれば、ミミズが水中でくねくねと動くので、何だろうということになり、近づく。すると、食べられるものだとわかり、食べようということになる。ぱくっと口を開けることになると、その餌には釣針が仕掛けられている。そうとは知らずに魚が針が仕込まれている「餌」をここぞと呑み込んだ途端、ぐいと引っ張られるのだから、飛びついた魚はたまらない、という寸法だ。水面から眺めると、食いついた途端に魚がびっくりして、逃れようとして潜ったりして動くので、縦長に水中に立っている釣り糸の途中に結んでいるウキがビックンと沈む。そこで、「よっしゃあ、かかった」となるわけだ。
 釣りに行くときには、祖父に声を掛けてから出掛ける。さっそく、祖父からしわがれ声が返ってくる。
「泰司、どこへ行くんなら」
 漕ぎ出したペダルを止めて、片脚をつき、振り返ると、祖父の「ニッ」とした笑い顔が目に入る。
「おじいちゃん、ちょっと釣りに行ってくる。友達と一緒じゃ」
「おう、そうか。じゃあ、気をつけて行けえよ」
「うん、わかった。じゃあ、ちょっと行ってくる」
 自転車の前のかごと後ろの台に、釣道具や「びく」、餌などを積んで出掛ける。びくとは、入れ口がとっくりのようにくびれていている、竹で編んだ携帯用のかごのことである。自宅の前の坂道をゆっくり下っていると、車輪がゆっくりと駆け出しているとその後ろで、背中越しに祖母の声がした。
 「はよお、帰ってこいよ。日が暮れんうちにな」
 「うーん、わかっとるう」
 今でも、関東平野に至ってからの多摩川や、四国の四万十川とかでは、オイカワとかウグイさえかかるらしい。私の家から近くでは、吉井川支流の加茂川しか大川といえる流れはない。その川は、子供の脚で歩いて2キロメートルばかりのところに流れる。自転車に乗ると、部落最北端の我が家から裏手に出ると、西へ10分ばかり町道を進んだところにある。ところが、加茂川までは人の往来もほとんどなくて、しかも流れの急な本流に足を入れることになっている。安全に陸釣りできる所を知らない。そもそも、漁業の鑑札を持っていないので、そんなことをしていて見つかったりしたら、大変なことになってしまいかねない。それから、家の直ぐ近くに狐尾池がある。そこに行って釣糸をたれれば、某かの魚が上がることは目に見えていた。しかし、これも、普段は部落の許可がないかぎり魚をとってはならないと聞いていた。したがって、そこには当然自分で行いをセーブする力が働くのであった。
 その小川は、家から自転車で5分くらいの、東の田んぼを流れていた。その小川の名前は、さしあたり「東田圃の小川」とでもしておこう。釣果としては、大して期待できないことはわかっている。それでも釣りに出かけるのは、そこに釣り仲間も来てくれて話ができるし、新しい仲間との出会いもある。例え僅かでも魚が獲れると、それを母に頼んで夕ご飯の食卓に載せてもらうことにもなっている。そんな訳で、どちらかというと、楽しみ半分といったところだったろうか。
 私を含めた部落の子供達が釣りをするのは、そんな小川の一番推進のある、流れが蛇行して、よどみにさしかかる場所であったのではないか。そこに着いたら、自転車の荷台をほどいて、釣具を取り出したり、丈の長い柄のついた小さな網を一つ用意する。釣竿は、自前で毛を削ってこしらえたものである。その竿の先端からは、釣糸を延ばしてある。その糸を通じて浮き、釣針、おもりと結んでいる。おもりには、板状の鉛を折り曲げて糸に密着させて用いていた。そこまでは、家でこしらえて来ている。
 餌には、ミミズではなく、うどん粉なんかの練りものでもよいのだが、私の部落の子供の間では、大方釣りをやるとき餌にはミミズを使っていた。他に、アカムシといって、ボウフラの一種の、真っ赤な体をした小動物を用いる手もある。私の場合は、家に牛糞を積んでいるところにシマミミズ(縞模様のある細いミミズ)がいる。それらを何匹か捕まえて、空のさば缶に牛糞とともに入れて持参していた。その中から一匹を選んで針を通し、外見からはその針が見えないようにしておく。ミミズは生きているのでかわいそうだが、小魚たちの、それが一番の好物となるので仕方がない。
 これだけの準備が整うと、釣竿を前へと繰り出して釣り具の先端を、目標の場所へと着水させる。といっても、なにしろ川が小さいので、ゆっくり竿を振りかぶり、まるで弧を描くようにやる訳にはゆかない。岸から1メートルくらのところに、釣糸をそっと置く、吊すといったところか。一度仕掛けを水中に放り込んだら、後は友達のとひっかけないように注意しながら、じっと息を殺して5分から10分くらいは待っている。疲れてくると、しゃがみこんで待つのもよい。
 目の前2メートルくらい先には、ひょつしたらやや大振りな魚も隠れているかも知れない、期待が胸を膨らます。針の先には鉛のおもりが付けられており、糸の具合は安定している。餌の付いた針は自然にそこから少し上のところの水の中に沈んでいて、水面には鮮やかな色をした「浮き」がひょいひょいと浮んでくる。これは、魚が入れ食いをする全長と言って良い。その様子を目を凝らして見る。すると、なんだか普段と違う世界にいるようで、なんとなく楽しい。色は赤、緑、黄色の中でも黄色主体のものを好んだ。浮きは赤と白のカラフルなものに、釣針は、みまさかの東となりの兵庫県に釣針の産地があるとのことだが、やや大きめのものを釣糸に結わえていた。
 水深の調節は、まず力を抜いて、おもりを水底に触れさせる。それから、少しずつ持ち上げていく。たかだか1メートルくらいしか推進が何度か腕で竿を引き上げたり、その糸を緩めたりを繰り返すうちに適当な位置にまで調節する。針を落とした場所が近すぎる場合には、いったん釣竿を水の中から引き上げる。もう一回、肩をやや後ろ、斜めに振りかぶり、それから心の中で「よいしょ」と振り下ろす。後は、針をゆっくり前後に動かして間合いをはかっていく。その間、眼は注意深く「うき」の沈み加減を見ているしかない。
 技術的には、竿を引くときは、竿を繰り出すときよりもやや早めに引いたらよい。釣り人としては、そうすると、水の中にいる魚は獲物が遠ざかるような動きをするので思わずパクついてくるのでは、と考える訳だ。だが、早春の湖底や川底では魚はまだ深みにひっそりしているのが多いと見えて、なかなか「浮き」にビクン、またビックンとした引きがこない。たまに引きがきて、勇んで竿を引き上げると、アメリカザリガニとか子亀がかかって「残念でした」となる。幸運がやってきて、そこそこの魚が釣れると、「また、やろうな」と言って友達と別れ、自転車に乗って、胸爽やかに家路に向かっものだ。

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