(9)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の定住生活

2015-12-31 07:08:04 | Weblog
(9)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の定住生活

 定住というのは、他の特別な事情のないかぎり、なるべく自然条件の適した場所を選んで進んでいく。そのことが与える影響は実に大きい。不慮の事故や怪我を減らし、身体へのストレスを軽減することにもなっていく。日を重ねる毎に、それぞれの共同体の中で、構成員の病気の罹患率や死亡率を低下させる一方、母体の安全が増進されることなので出生率の上昇が期待できるであろう。それらの結果、人口は従来に比べ、安定的かつ着実に増加していくことが可能になっていったのではないか。その際、定住を可能とした最大の要因としては、、農耕や高度な狩猟採集への移行が働いたのではないか。
 人々がそれぞれの土地に暮らすことができ、かつ飢餓に苦しまないためには、毎日の食料が自然界から調達出来なければならぬ。そして食糧危機を打破したものこそ、農耕の始まりである。約1万年間前から約9000年前になると、中近東のメソポタミアで麦の栽培や牧畜が始まった。これと同時に使用されだしたであろう新しい石器になぞらえ、「新石器革命」と呼ぶ。これにより、生き残っていた人類の急激な人口増加が始まったであろう。
 約9000年前の中国南部、揚子江流域では、イネの栽培が開始された。また約7000年前から約4000年前にかけてのメキシコの南西地域では、野生種であるテオシントから改良種のトウモロコシが生み出される。近縁の野生種であるテオシントは丈が低く、実の数も十数粒と少なかったのを、改良種で多収穫名ものに改良したのである。他にも、約1万年以上も前から、東南アジアやアメリカ大陸で、イモ(ジャガイモ、タロイモ、キャッサバなど)類やトウモロコシ栽培に根ざした農耕が始まる。これらに支えられ、5500年前にかけては、この地球上に、自然発生的な共同体から脱皮したメソポタミア、エジプト、インダス、中国(揚子江、黄河)などの文明が相次いで出現するのである。
 もちろん、縄文期においては農耕に頼らない、定住生活がむしろ広範にあって、それが当時の一般的で支配的な姿であったことを否定するものではなかろう。正に、定住を通して人々がいかに暮らしてきたかが彷彿としてくるのであって、「古代は蘇る」の感じが濃く感じられる。それまでは孤立していたかに見える、温暖期に入ってからの日本列島の「縄文時代」においても、定住が広く行われていたことが1990年代からの遺跡発掘でわかってきた。列島全体への分布状況はまだわかっていないものの、三内丸山遺跡(現在の青森県)及びその周辺に限って云うと、栗などの栽培を通じての定住によって、少なくとも数百人を下らない規模での生活共同体が運営されていたことが判明しており、当時、この地の比較的温暖かつ湿潤な気候が彼らの定住生活の持続的展開を可能にしたと思われる。
 縄文自体中期の遺跡から、東北の山内丸山(さんないまるやま、現在の青森県)遺跡を令にとってみよう。そこで人々は、動物の狩りをしたり、川や沼、湖、海などにいる魚を捕ったり、栗とかの植物の実をとったりの多様な労働にあけくれ、竪穴式住居なりに持ち帰って食物にあてていた。このような生活様式を「狩猟採集社会」と呼んでいる。
 今日の考古学による発掘によると、縄文期は百花繚乱とまではいかないにしても、実に多彩な生活様式があったことがわかっている。とはいえ、縄文人が動植物を食べ尽くすのではなく、たぶん、これらにより狩猟、採集した魚を燻製にしたり、栗などの保存のきく食物は冬まで乾燥したところで貯蔵しておいたのではないか。
 なお、沖縄では現在まで古墳が見つかっていない。その訳は、そもそも古墳を作る文化がなく、そのため一切造られなかった。沖縄は明治時代になってから、日本と言う別の国に強制的に組み込まれた。それまでは「琉球王国」という独立国が統治しており、日本史のらち外にあった。その沖縄では、何万年もの間狩猟中心の生活をしていたのがわかっている。これは、世界史の上でも珍しいこととされている。そのためか、日本史の縄文時代、沖縄では「貝塚時代」とか「縄文弥生~平安平行期」の時代区分で語られる。喜納大作、上里隆史の両氏による解説に、こうある。
 「貝塚時代の沖縄の人々は農耕ではなく狩猟採集の生活を営んでいました。狩猟採集とは森に行って木の実を採ったり、動物を狩ったり、海で魚を捕らえたり、それを食料として生活をすることです。狩猟採集と言うと、何となく農耕より「遅れている」イメージがありますが、人類学の研究によると実はそうではなく、ヒトの優れた生き方なのだそうです。狩猟採集の生活が何らかの理由で成り立たなくなった時に、ヒトは農耕を受け入れると考えられています。つまり沖縄では、日本が平安時代となる頃まで、わざわざ面倒くさい農耕をしなくても暮らしていけたのです。・・・一方、これらの文化は宮古諸島や八重山(やえやま)諸島までは届いておらず、宮古・八重山は南(東南アジア)からの文化の影響を強く受けています。」(喜納大作・上里隆史「新装改訂版・琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015)
 さて、私が今の比企丘陵(埼玉県西部)に来る前、横浜市金沢区の南隣に位置する夏島(なつしま、横須賀市)には、一万年近く前に貝塚遺跡が展開していたという。貝塚というのは、当時の人びとが食べた貝などのごみ捨て場のことだ。今から50年ばかり前の「放射性炭素14」による年代測定によると、夏島カキ貝殻は9450年プラスマイナス400年BP(当時の暫定値、BPというのは「ビフォア・プレゼント」ということで、1950年から何年経っているかの指標である、以下同じ)であった。また、カキの煮炊きに用いたであろう木炭の推定年代は9240年プラスマイナス500年BPであった(大塚初重「歴史を塗り替えた日本列島発掘し」による)。
 今でも、その夏島の近くの野島(横浜市金沢区)の海面から12~3メートルくらいの高台に登ると、少なくとも鎌倉期から天下の名勝地として関東一円に知れ渡っていたであろう「金沢八景」の美しい景色が己の視界に一望できることから、当時の人々の往時の姿がなんとなく彷彿としてくるではないか。私の故郷である西日本においても、瀬戸内海の黄島(きしま)貝塚からも縄文時代早期の押型文土器が発見されており、こちらの推定年代は8400年プラスマイナス350年BP(Before Present)とされていることから、その当時、日本列島のかなりの広い地域にそうした生活様式が広がっていたことが覗える。
 縄文期の東日本の遺跡の多くで複雑な紋様の入ったあの独特の風貌の縄文式土器が沢山見つかっている。その中には、新潟県篠山遺跡(十日町)出土の深鉢形土器や国分寺出土の俵形甕(かめ)、それに亀ヶ岡式土器に代表されるような芸術的作品に近いものもある。それらは写実的なというよりも、情念の赴くままに隆起をつくったり(隆起紋)、穴やくぼみをこしらえたりで、まさに空想の所産と見え、どちらかといえば「爬虫類の脳」より前頭葉のなせる技であるとでもいっておきたい。
 とりわけ新潟の信濃川中流域出土のもの(国宝)は、「縄文雪炎」の愛称で知られ、約5000年前の縄文時代中期作陶と推定される。この遺跡からは、これを含む928点が出土しているそうで、中には煮炊きに使った材料の「おこげ」が付着しているものもあるとのこと。人々は火を使っており、土器に食材を水とともに放り込んで煮炊きすることにより、アクやエグさや苦み、さらには毒抜きをして食べることをしていた。縄文雪炎の写真を観ると、この期特有の四方にせり出した鶏頭冠(けいとうかん)状把起や、複雑に波打った縁に鋸状の突起がせり出している。この土器などは、さながら「俺はここんいるんだぞ」と何かを訴えているのであろうか。
 この列島には他にも多種な縄文土器が伝わっており、これらの写真をじっと眺めていると、縄文時代とは、私たちが普通に考えているような貧しく、厳しい日常かぎりであったのではなく、人々が感覚で感じる時間は比較的緩やかに流れていたことが覗える。生物学者の福岡伸一氏も、縄文時代の人々は、案外、ロマンに綾取られた豊かな精神世界に生きていたのではないかと推測しておられる。
 「しかし、時間がとうとうと流れていた縄文期にはー縄文時代は1万数千年も続いたー今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々ともつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのです。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があったのです。
 狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の我々ほど長時間、労働に身を捧げていたわけでもありません。縄文の民の実労働時間を正確に知ることはできませんが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2~3時間ほどの労働によって、集団は社会生活を営んでいるそうです。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていたのでしょうか。鼻を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは子どもと遊んだりして楽しく暮らしていたのではないでしょうか。」(福岡伸一「生命の逆襲」河出書房新社、2013より)
 とはいえ、当時の人々の暮らし向きは、現代とは様変わりの原始的生活に近いものであったろうし、寿命も一般には、精々30台くらいものでしかなかったのではないかと考えられる。この時期の日本列島人なるものは、本格的な農耕は行わないものの、単なる採取や狩猟の経済に留まらず、某かの食料栽培や家畜の飼育を行いつつ、それらにまつわり縄文式土器を多用するという、世界にほとんど類例のない「縄文文化」を築いていった。そのユニークさを評価しつつも、大局的に見た縄文人の生活の自由さとは、あくまでこの時代の限られた時空の中での一コマとして考えられるべきだと思う。

(続く)

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(80)『138億年の日本史』鎌倉仏教の勃興(日蓮宗など)

2015-12-21 12:04:31 | Weblog
(80)『138億年の日本史』鎌倉仏教の勃興(日蓮宗など)

 さらに、日蓮はこの国の「立正安国」を念じる立場から、日蓮宗を興した。彼は1222年(貞応元年)に今日の千葉県安房郡小湊で生まれた。自らは漁師の家であったともいい、生家の暮らしは楽でなく、11歳の頃には清浄寺に入山し、道善房に師事する。16歳にして出家し、是聖房と名乗る。その翌年からは、鎌倉や京都の叡山に学ぶ。1253年(建長5年)には、清浄寺の地元を取り仕切っていた地頭の東条景信に追われ、鎌倉にやって来る。1254年(建長6年)、33歳頃には、日蓮と改名した。おりしも世の中は、天災地変が相次ぐ、庶民には受難の連続の日々であったに違いない。これに触発されて、なんとかして人々の窮状を救おうとする中に、僧としての彼がいた。
 今日の日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)ほかの同宗諸派の源になる教えを作ったのは、1259年(正元元年)のことであった。その年には『守護国家論』、その翌年には『立正安国論』を著す。これには、浄土系や密教系への烈しい口調が覗く。特に浄土系に対する彼の批判は執拗であった。人々をして、自身の死後に浄土に迎えられることだけを有り難がる方向に導くのは現世利益を諦めることにつながり、釈尊の教えに背く言説であり、行為であるとする。さりとて、専修念仏の主唱者たちが切り開いた民衆に根ざした仏教構築へ動いていたことは疑いない。そのことは、口に「南無妙法蓮華経」を唱えれば極楽往生へ上れるとする彼の教義からも窺えよう。
 そんな彼は、仲介の人を頼んで、時の権力者である、前の執権の北条時頼に『立正安国論』を提出した。平安期までの日本の旧仏教が鎮護国家の枠組みの中で生きることをめざしていた、そのなごり、延長ともいえよう。だが、彼の立場は旧仏教のように国家に隷属してのものではなく、国家権力の上に法華信仰を置いたのに特徴がある。この著において、彼は『法華経』こそが最重要な教典であることを示したのみならず、危機感をもって政治に当たることを説いている点で、他の大乗仏教諸派の開祖たちに比べ、大いなる異彩を放っている。その末尾には、憂国の志がさらに進んで、自らが信奉する宗派をもって「国の体制護持」の心とすべきであることを高らかに宣言したのであった。
 「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ、速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ 然レバ則チ三界ハ仏国也、仏国其レ衰ヘンヤ、十方ハ悉ク宝土也 宝土何ゾ壊レンヤ、国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ、身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン、此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ。」(読みやすくするため、句点を追加させていただいた)
 この書に接した幕府は、記されている内容が一般に流布されていくのを恐れたことが窺える。危険を察して滞在先の鎌倉の草庵への夜襲から逃れたものの、1261年(弘長元年)には捉えられて伊豆流罪となる。その2年後に赦免される。彼の受難は、それからも続く。1271年(文永8年)には、ひでりに対する祈雨を巡って逮捕、尋問され、今度は佐渡島に流罪される。1274年(文永11年)になって赦免状が届いて、53歳にして鎌倉に帰る。幕府の質問を受け、蒙古の襲来が近いことを訴える。鈍い反応に、これでは埒(らち)があかないとその場を辞して見延(みのべ)に退き、この年の旧暦6月、草深いこの山に隠遁生活に入る。これには、甲斐の国波木井郷の領主、南部六郎実長の招きがあった。この山は、現在の山梨県南部巨摩郡見延町にあって、標高1153メートルというから、なかなか高い。その後も、自分の志が政治に伝わらない現状を憂う発言を続ける。見延山中に入って2年目にもなると、「報恩抄」を著し、55歳の円熟した筆跡でこう記した。
 「問て云く、天台、伝の弘通し給はざる正法ありや、答て云く、有り、求めて云く、何者ぞや。答て云く、三つ有り。末法のために仏、留め置き給ふ。迦葉(かしょう)、阿難
等、馬鳴(めみょう)、竜樹等、天台、伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く、其の形貌(ぎょうみょう)如何。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提(いちえんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦、多宝、外の諸仏、並に上行(じょうぎょう)等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土、月氏、一閻浮提に入ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。」
 これにあるのは、『法華経』の「十六無量寿」の冒頭にこと寄せて、まずは「教主釈尊を本尊とすべし」ことをいう。というのも、法華経に登場するのは、「自我得佛來 所經諸劫數 無量百千萬 憶載阿僧祇 (じがとくぶつらい しょうきょうしょうこつしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそぎ)、つまり「私が仏になってからというものは、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている」と回顧じみた言葉を口にする。そういう人物が、他ならぬ釈尊自身なのだという創作が施されている。二つ目には、戒壇と言って、仏道を進めていくときのプロセスなり、組織なり、守らねばならぬ戒律などを守っていく。さらに三つめに、ひたすらに「南無妙法蓮華経と唱ふべし」というのである。
 1280年(弘安3年)、日蓮は『諫暁八幡抄』を著す。その中では、「国王や国神」を含めて施錠の在り方に批判を加えている。これを現代にも通じるものとして、平たく言えば、天皇や幕府といった世俗の権威、そして日本古来の神すらも、聖なる天上界の前では語るに足らない、つまり劣位に置かれる。これは、「神の下では一切の者は同等である」との西洋近代思想にも一脈通じる。
 こう見ると、日蓮の思想というのは、後の「国家的な日蓮主義」と区別しておかねばなるまい。彼は、親鸞のように妻帯することもなく、それでいて夫婦一体の愛を説き、慰めの言葉ともしていた。今日の男女平等にも通じる、慈愛に満ちた手紙も記している。彼のこのようなきめ細かな布教の姿勢は、年来の迫害と受難の連続と相俟って彼の心身を相当に煩わせ、痛めたであろうことは否めない。
 そんな日蓮の純粋理念は、浄土宗僧侶ばかりでなく、旧仏教改革派の奈良西大寺の叡尊(えいそんと)に対しても向けられた。叡尊の「八幡信仰」と戒律受持に基づいた祈祷が元寇の時の神風を呼び起こしたという大方の見方に、激しく反発した。その延長であろうか、叡尊の弟子の良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう、1217~1303)に対しても、宗旨替えをして自分のところに修行に来るべしという風なことを言っている。忍性は、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をした社会行動派僧侶の典型であったのだが、特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話(『元亨釈書』等)も伝わっている。それでも、時の権力におもねるところもあったのか、後半生に活動の拠点を鎌倉に移してからの忍性は、より大規模に戒律復興と社会事業を展開していった。人々の救済に努めた忍性に、建武新政の時の後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈したことで、歴代の高僧の仲間入りをするのであった。
 1281年(弘安4年)の60歳の冬から翌年にかけて衰弱が著しく、常陸の湯に入れてもらうなど養生に努めていた。この後、見延を下山し池上宗仲の邸(今の池上本門寺)に移ってからも病状は回復せず、この年の秋、61歳にて弟子らに後事を託して死んだ。

(続く)

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『(58)』『岡山の今昔』高梁から総社、小田郡(矢掛町、美星町)へ

2015-12-17 09:56:28 | Weblog
『(58)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高梁から総社、小田郡(矢掛町、美星町)へ

 備中高梁以南の伯備線(はくびせん)であるが、この線は、現在は岡山で山陽本線や赤穂線に乗り入れており、米子では山陰本線に乗り入れている。伯備線で完結する列車としては、備中高梁駅発倉敷駅行きの1本がある。また新見から備中神代間は芸備線が乗り入れて、共用区間となっている。さらに、岡山県南部の清音(きよね)駅から総社(そうじゃ)駅までの間は、井原鉄道井原線との共用区間となっている。
 この伯備線と寄り添うようにして流れる高梁川は、このあたり迄来ると、せせらぎに耳を傾けながらというよりも、さらに大きな流れとなり、岩を穿ちながらさらに下っていく。駅で言うと、備中高梁を出て直ぐに高倉山(標高382.8メートル)の掘られたトンネルをくぐり抜けると、備中広瀬の駅に到達する。それからは、くねくねした川の進路にまるで翻弄されるかのように、半ば夢見心地で、美袋、日羽、そして大きく湾曲して豪渓(ごうけい)駅に滑り込む。
 広瀬からは、もうすでに現在の総社市に入っている。豪渓の駅を出てその程近く、豪渓と呼ばれる渓谷にさしかかる。これは総社市の槇谷から、加賀郡吉備中央町(2004年10月に上房郡賀陽町から変更)に跨る渓谷にして、槇谷川の上流にある。規模としては、奥津渓と同じくらいか。その特徴は、ほぼ直立にそびえ立つ約330メートルの天柱山、剣峰、雲梯峰(うんていほう)、盒子岩(ごうずいわ)などの個有名を得ている。いずれも、花崗岩を主体とする奇岩、いかつい絶壁の類であって、清流と相俟って四季折々の壮大な自然美を繰り広げる。景勝の地としては、もってこいの場所と言って良いだろう。このあたりには、アテツマンサク・ベニドウダンなど貴重な植物の自生地としても知られる。1923年(大正12年)にし、名勝地として国の指定を受けた。
 1876年(明治9年)頃に作成された「日本地誌略図会」に、「豪渓之図」の一筆がある。豪渓の天柱山の切り立った岩の辺りを描いたものであろうと推測されているところだ。絶壁の岩山があり、段々になって流れる槇谷川との間の石畳のような道を旅人が上流に向かって歩んでいる姿が印象的だ。画面に説明書きがあって、それには備中国の位置など略地誌が記されている。作者は、明治に入ってからの三代目の歌川広重(うたがわひろしげ)であり、初代歌川広重の門人だとされる。与謝野晶子は、その光景を「岩山は天の柱の文字あるも、のきもぬれゆくむら雨ふれば」と詠んで、今も自然の繰りなす美に驚嘆した歌として、今も語り継がれる。
 なおも流れに沿って、南へと下っていく。その中間点にある総社は、総社宮の門前町から発展したところだが、山陽道の北側直ぐ近くには、足守川が北西から東南方方向へ流れている。足守川の堤の北隣には、あの有名な造山(つくりやま)古墳が鎮座して、はるか古代の流域の姿はいかばかりであったのすかと、その時代に生きた人々の往時を偲ばせている。
 山陽道に沿っては、現在の総社から少し南へ下ったところに、総社から伯備線との線路の共用部分を経て西に折れてゆく地方線路が走っている。これを井原鉄道線と呼んで、第三セクターの経営となっている。その順路としては、清音(きよね)駅を出発しばらく過ぎたところで高梁川の中州を西へと渡る。ここは、井原鉄道で最も長い高梁川橋梁で、全長716.3メートルもあるらしい。赤茶色に錆びた鉄橋に見えるものの、そうではなく、橋の材料は無塗装耐候性鋼材という、保護性の錆(安定錆)を形成するように設計された特殊合金鋼で、防錆塗装をしていなくとも大丈夫なように出来ているらしい。また、橋梁上で大きくカーブを描く珍しい鉄橋で、さらに民営鉄道や第3セクターでは珍しい、「ロングレール」という継ぎ目のないレールが使用されているとのことで、驚きだ。
 高梁川を渡り終えると、今度はその支流の小田川と国道486号線に沿いつつ川辺宿から吉備真備、備中呉妹、三谷へと西進してから茶臼山(ちゃうすやま)トンネルをくぐり抜ける。このトンネルを滑り出るともう矢掛(やかけ)の駅である。この一帯は、小田郡矢掛町である。ここは、「矢掛本町」と総称され、江戸期に山陽道の宿場町として栄えたところである。町には、大名達が泊まった豪勢な建物が幾つも残っており、日本で唯一、国指定重要文化財に指定された本陣と脇本陣が残る。矢掛町内の大通寺という曹洞宗の寺は743年(天平15年)の開基とされる。その書院北側には、江戸末期に造られた石寿園という庭園が広がる。その形式は、池泉観賞式庭園と言われ、釈迦三尊石、座禅石、須弥山などという仏教にちなんだ名のついた奇岩が配されていて、さながら山水画のような景色がここにある。
 めずらしいところでは、小田郡の矢掛町上高末から北方美星町字宇に跨るところに、谷がある。谷が主体な地形なのに、全体としては「鬼ヶ岳」の名がついているのは、何かの理由があるのだろうか。この谷を流れるのが美山川であって、小田川の支流である。谷間には、鬼ヶ岳温泉があったり、上流に鬼ヶ岳ダムがあったりで、ダムでできた人造湖では淡水魚の養殖も行われて来た。この谷あいに支配的な岩石としては花崗岩とのことであるが、「それも谷をさらにさかのぼると、そこには青黒い石が散見する」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59、日本文教出版)とのこと。それが、矢掛石である。この石の本当の名(学術名)は、輝緑岩と斑糲岩(はんれいがん)であって、「岡山県の東北から、西南にかけて、対角線上に。時にはふくれ時にはしぼまり、散見している」(同著)ものである。写真で拝見すると、緑色の石目がなかなかに細かい。全体が引き締まった紋様を為しており、太古に繋がるかのような独特な風合いを醸し出しているようだ。この石の使い道は、一般には自然石様の石碑や庭石、デザイン墓石などによく使われるという。それ以外にも、実は変わった使い道があり、骨董になったり盆石に使われたりする。
 ここに盆石というのは、すなわち芸術であるとのこと。陶磁器の平たい盆の中に、小石や砂などを用いて小宇宙を創っていくのだそうな。例えば、川があれば、砂も生き生きとしてくるのであるらしい。そんな上にある月も描ける。近づいてみると彫刻、遠ざかっては絵画というところであろうか。盆栽とは、いささか異なるものの、盤上に精魂傾けて独特の世界を開陳することでは共通しているのだと思われる。
 あるいは、小田郡美星町(びせいまち)に国内最大級の美星天文台があって、肉眼の2万倍の集光力があるとのことだ。

(続く)

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『(46)』『岡山の今昔』備前との往来(西大寺道)

2015-12-15 21:49:03 | Weblog
『(46)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前との往来(西大寺道)

 美作と繋がる三つめの往来は、備前から吉井川沿いを北へたどり、又は美作からこの吉井川を南下りする。江戸期までは、これを「西大寺道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』においては、「『西大寺道』は、河原町で川を渡り、横山・八出(やいで)・小桁(おげた)、金屋(かなや)、押渕の諸村を川沿いに南下し、勝田郡木知ヶ原駅(今久米郡柵原町(やなはらまち))から、備前の周匝(すさい)駅に着き、南下して西大寺に達する」とある。
 さて、吉井川は、西を流れる旭川と高梁川(たかはしがわ)と並んで、岡山県の「三大河川」とされている。古来、これらの三つの河川を運航することで内陸部と瀬戸内とを結ぶ経済動脈となってきた。吉井川の水運の歴史は、日本の古代に遡る。1604年(慶長9年)、角倉了以(すみのくらりょうい)がこの川の高瀬舟を観て舟路開発の妙を会得したといい、1829年(文政11年)に倉敷で刊行された『みまさか地図』にも、「中川-此川尻備前国西大寺流金?湊ニ出ル」とある。この川とその周辺を辿るルートは当時の高瀬舟が通っていたもので、1815年(文化15年)頃の「津山舟」は、「舟長6間2尺、最大舟幅7尺2寸」(1間は約1.8メートル、1尺は約0.3メートル、)で54隻を数えていた。明治になってからは「飛脚舟」と呼ばれる客船を明辰社が営み、「隔日に船を出す・午前五時津山出帆、薄暮れ西大寺へ着港・乗客上等五拾銭、下等三拾銭、ただし昼食付・西大寺出帆、三日間を以て津山へ帰着・登り船乗客壱人前壱円とす。ただし、まかない付」の営業書きが残されている。それは、荷役の他にも、陽光あふれる美作の夢追い人の辿る道でもあったのかもしれない。
 このルートの前置きはこの位にして、この吉井川の上流から瀬戸内海の方へと、河の流れとともに下ってみよう。東津山から吉井川添いに南下していくと、最初に行き当たるのが久米郡美咲(みさき)町である。この町は、2005年3月、久米郡内の中央町、旭町、柵原町の3つの町が合併して、発足した。この美咲町に、「柵原(やなはら)ふれあい鉱山公園」という、柵原鉱山の歴史と文化を学ぶことが出来る施設がある。その中に1991年(平成3年)6月に廃止された、同和鉱業片上鉄道の車両と駅舎を保存している。
 この鉄道は、硫化鉄鉱の海上輸送を目的に建設された。硫化鉄鉱をコンビナートに運んで、化学肥料などに加工するためであった。鉄道の敷設は、1931年6年に柵原から山陽本線の和気駅(当時の和気町)を経由し、さらに南下して備前市片上(現在は山陽新幹線がその直ぐ北を走る。片上を南に下るとそこは現在の瀬戸内市である)までの約34キロメートルが開通した。この線路を通って、1991年の同和鉱業の鉱業所の廃坑までせっせと運んだ。鉱山のためだけでなくて、この地域の人々の脚となり、交流の結節点となってきた鉄道なのであった。
 珍しいことに、この旧鉱山町に、町興しのための旧片上鉄道を毎月第1日曜日に定期的な展示運転を実施し、約300mの路線と一部の施設(旧吉が原駅の駅舎など)を保存、そして保存車両たちが走行するという事業が出来ている。日本でも数少ない鉄道文化の保存と継承を目的に、1992年に愛好者有志によって設立された旧片上鉄道保存会が、美咲町の委託を受けて、1998年からこの運営「展示運転」に当たっている。加えるに、2016年には線路を延ばし、幸福柵原駅という新駅も開業させ、落ち込みかねない地域経済を少しでも活性化する力になれば、日々努力していると伝え聞く。
 美咲町から赤磐市吉井町を通って南へ吉井川沿いを走る国道374号線を行くと、畝山にさしかかるあたりで国道484号線との分岐があり、前者の道はやがて和気市内を佐伯町から和気町へと一路南下していく。こもう一方の後者の道は山間部を横断する形で、ぐんぐんのぼって行く。なかなかに景色がよい。長い坂を上りきったところで、下りに移る。だんだんに視界が開けていき、平坦部の岡山市建部町へと入って国道53号線と合流していく。そこには、旭川が滔々と流れ下っている。
 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。
 また、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)というように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。
 津田はこのほか、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)を、1692年(元禄5年)に沖新田(上道郡)の干拓工事も手掛けたことが知られている。この河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生(ひなせ)である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。

(続く)

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『(78)』『岡山の今昔』北への道(伯耆道・倉吉街道)

2015-12-15 21:21:14 | Weblog
『(78)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』北への道(伯耆道・倉吉街道)

 これらのほか、津山城下町からそのまま北上してゆく道が通っている。こちらは、津山市街城北山北の八子町、小原から西一宮に向かって北上していく。これを伯耆道又は倉吉街道と呼ぶ。一宮は、山間に近くなりつつあるとはいえ、昔から開けていた場所で、ここに「美作一宮」(みまさかいちのみや)の中山神社(なかやまじんじゃ)が孤高のたたずまいにて鎮座している。この神社の由来は、707年(慶雲4年)に創建と伝えられ、『延喜式』にも載せられている。『今昔物語』にも「今昔、美作国ニ中参(中山)、高野ト申神在マス」とある。
 国宝に指定されている『一遍上人絵伝』にも、この神社の境内が描かれており、1286年(弘安九年)の春うららかな頃大勢の人々がこの社に集う。殊に興味深いことには、この絵の詞書(ことばがき)に、こうある。
 「美作国一宮に詣給けるに、けがれたる者も侍(はべ)るらむとて、楼門の外におどり座をつくりておきたてまつりけり。・・・・・彼社(かのやしろ)の一の禰宜(ねぎ)夢に見るよう、一遍房(いっぺんぼう)を今一度請(しょう)ぜよ、聴聞(ちょうもん)せんとしめし給う。・・・・・今度(このたび)は非人をば門外に置き、聖・時衆(じしょう)等をば拝殿に入れ奉る。」(巻八・第三段)
 「非人」たちは、一遍房に付き従ってこの地にやってきた人々で、彼らも神社による供養の一端に侍ることができたのであった。彼らはこの神社に在の間、門外両側の乞食小屋において寝泊まりすることを許されていたのではないか。
 時代が下って江戸時代に入ってから編纂される『作陽誌』などによると、現在の本殿は、戦国時代に兵火に遭い焼失していたのを、その当本人である尼子晴久が再建したのだと言われる。境内にある案内板には、本殿は「入母屋造、妻入で向唐破風の向背を有する」ことが記される。
 2015年10月、久方ぶりにこの社を訪れてみると、妻入部に唐破風を有する巾2.5間の向拝が付き、弊殿を介して拝殿へ連なっていくラインがなんとも簡素であり、妙な出っ張りや飾り付けのないのが実に心地よい。本殿の側面から後方に出でる。そこから、建物をややはすがいに下から見上げてみる。大屋根のせり出しは直線的であって、そりは感じられないし、大屋根の裏側を形造る添え木が実に細やかにしつらえてあって、床はあくまでも高い。仔細を語る知識は持ち合わせていないものの、「いいものをみせてもらった」思いがしてくる。しかし、風雪に晒されて幾歳月かをくぐり抜けるうちに、桧皮葺(ひはだふ)きの屋根の全体ががかなり痛んできているようであった。
 そこからさらに東一宮、東西田辺から香我美中村を経て、百(もも)だわ(百谷峠)から奥津へ、さらに下斎原、上斎原(かみさいばら、現在の岡山県苫田郡鏡野町)とひたすら北上してゆく。このあたりは、蒜山高原(ひるせんこうげん、現在の真庭市)近くにある。現在は、国道179号線の道筋となっている。上斎原を過ぎると、左手に標高1004メートルの人形仙を仰ぎ見つつ、進路を西に変えて人形峠を越える。国道の方は、現在は人形トンネルをくぐり抜けて進む。トンネルを抜けるとそこはもう鳥取県(東伯郡三朝町)である。両側が山のところをしばらく行ってから、下西谷で西から来た国道482号線と交差して、今度は北へと向かう。穴鴨を越え、さらに竹田川河谷を北上して倉吉に至る道もあった。こちらの路は小道で続きであって、どうやら難所が多かったようである。
 この上斎原には、恩原高原(おんばら)がある。津山駅からバスが出ていて、奥津を越えてゆくので、90分くらいかかるらしい。ここは、標高700mに位置する。恩原高原は、氷ノ山後山那岐国定公園指定の自然豊かな中にある。この高原にある恩原湖は、周囲4.5キロメートルながらも、これを前にたたずむと安らぎを覚えるようだ。周辺には、白樺林やカラマツ林が茂る。夏は高原を渡る風と白樺林とその木漏れ日が涼を呼び、秋は紅葉する三国山が湖面に映る。晩秋ともなれば、旅人の目や足が向かうところには、黄色に染まったカラマツなどの木々の葉っぱが絨毯のようにして敷きつめられているとか。ここには恩原湖という湖もあって、ことに冬には、霧が湖面に現れるらしい。また珍現象で話題の「氷紋」も時として現れ、四季を通じて様々な表情を魅せてくれる県北の風光明媚な処の一つとされている。
 この高原は、中国山地が近場に迫っており、昼と夜との寒暖差が大きい。この気候の特色を活かした生業が色々あって、その一つが養蜂である。養蜂には、花を咲かせる植物ひと花の華蜜領が豊富なことがキーワードとなっている。蓮華蜜とかアカシアの蜜などは広く知られているものだが、美作産蜜のめずらしいところでは、あるちらしに、こう説明されている。
「恩原特産、とち蜜
 とちの木は、座卓や衝立等に使用される巨木で、その実は、とちもちの原料として使われています。
 この木から採取したとち蜜は、大変まろやかで、蜜独特の芳香もほとんどなく、蜂蜜ぎらいの方にも喜んでいただけるやさしい味の蜂蜜です。
 少し赤味がかっているのは、花粉の色です。当養蜂場は、蒜山と恩原地方に蜂場をもち採蜜しております。」(2015年10月現在のもの)
 ちなみに、美作の養蜂を手掛けているのは、鈴木養蜂場、山田養蜂場と美甘(みかも)養蜂場の三つの事業者があるのことである。なお、我が家では今、香りの強い「そよご蜜」をおいしくいただいているところだ。

(続く)

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『(49)』『岡山の今昔』勝山、久世から津山へ

2015-12-14 21:40:20 | Weblog
『(49)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』勝山、久世から津山へ

 出雲街道を勝山から東に向かうと、やがて久世(くせ、現在の真庭市久世)へと到達する。江戸期の久世は、宿場町にして、物資を高瀬舟で備前や京都・大坂へ送り出すための中継地となっていた。ここに高瀬舟というのは、現代では走っていない。備中高梁の博物館で見つけ、「ああ、これか、これなら確かに相当の人や荷物が運搬できそうだな」と頷いた、往年の船体は、ざっと8メートル位はあっただろうか。幅も太いところで2メートル弱位に肉付けされていたように記憶する。使い込む程に、利便さが増すような外観をしていた。ここに集まってくる物資には、年貢米やたばこ(山中地方で栽培されたもの)、鉄、山陰からの木綿などの多彩な品目があった。珍しいところでは、江戸期に入ってからここで牛の市が開かれていたことでも知られる。この地が、昔から交通の要衝であったからである。なお、江戸期の久世から南へは、落合を経由して旭川沿いを南に下っていく道であり、「落合往来」(おちあいおうらい)とも呼ばれていた。
 この久世については、この地を中心に、民衆重視の政治を行った人物に早川正紀(はやかわまさとし、早川八郎左衛門正紀、1739(元文4年)~1808年(文化5年))がいた。彼は、井上河内守(笠間藩主)の家臣、和田市右衛門(わだいちうえもん)の次男に生まれ、のちに徳川御三卿の一つである田安(たやす)徳川家の家臣、早川正諶(まさのぶ)の養子となる。その後、1766年(明和3年)に宗家の早川正与(まさとも)の死後、早川宗家(そうけ)の早川正與(まさとも)の跡を継ぎ、幕臣となる。1769年には、さらに勘定役(かんじょうやく)となる。それからは関東の各地の河川普請などの地味な仕事に従事していく。1781年(天明元年)、初めて幕府の代官として出羽国尾花沢(でわのくにおばなざわ)陣屋(現在の山形県)に赴く。そして1787年、美作国の久世に転任、翌年になると備中国笠岡及び倉敷代官を兼任する。これら3つの地域兼ね合わせて、一時はつごう7万石分を経営していたことになる。
 それだけでも大変な筈なのだが、在任中に子間引(こまびき)の禁止、教諭所や「久世典学館(てんがくかん)」、「敬業館(けいぎょうかん)」の創設など多方面に行動したことがある。また、治水工事や備中吉岡銅山の復興に努めた。その間に著した書物に、教諭書「久世条教(くせじょうきょう)」がある。これらにより民衆教化に務める姿が認められるところとなり、1997年(寛政9年)には幕府から褒賞を授かる。
 そして1798年(寛政10年)、久喜を治める米津(よねきつ)氏の久喜藩が出羽国(でわのくに)村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根市)に領地替えとなるに至る。そこで彼が、1801年(享和元年)には関東代官となって、美作を離れる。武蔵国久喜(くき)陣屋(現在の埼玉県久喜市)に移って幕領10万石を経営することになる。この地でも小児養育、河川改修、学問所の遷善館(せんぜんかん)を開設するなど、民生充実の策を採っていく。各地の代官に在職すること28年にして、1808年(文化5年)に江戸で病没する。その間の事績をたたえ、武蔵国八条(現在の埼玉県八潮(やしお)市)や美作国久世に「遺愛碑」、笠岡に「思徳之碑」などの記念碑が遺る。なお、竹垣三右衛門直温、岡田清助恕とともに民生充実に尽くした「寛政三代官」と称される。
 その久世から美作の中心地、津山に至るには、出雲街道をそのまま東に向かっていく。その久世(くせ)からは、坪井(つぼい、現在の久米郡久米町)を通り、中須賀(なかすか、同)から院庄(いんのしょう、現在の津山市院庄)へと歩を進めていく。現在でいうと、国道181号線の道筋を通って東へ進んでいく。院庄には、慶長年間(1596年~1614年)に真言宗の清願寺が開創される。1603年(慶長6年)には森忠政が美作に入府する。やがて藩が記した『作陽誌』の中では、院庄のへ森藩から家老の長尾勝明から、1688年「元禄元年十一月朔日」付けで寄進状が出されたことになっている。現在の清願寺にはその古文書が残っていて、こうある。
 「当寺敷地三石、五斗余藪共任先規御寄附之条、全不可有相違者也、仍って如件。元禄元、長尾隼人、勝明、花押。十一月朔日、清眼寺」(読みは、とうじしきちさんこく、ごとよやぶとも、せんきにまかせごきふのじょう、まったくそういあるべからざるものなり、よってくだんのごとし)、引用させていただいたのは、小澤嘉隆・中村勝男「極楽山清眼寺」極楽山清眼寺、1999より。

(続く)

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(4)『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(2万年前~現在)

2015-12-12 21:59:13 | Weblog
(4)『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(2万年前~現在)

 およそ2万年前頃から後になるに従い、それまで広く地表上を覆っていた氷河が徐々に溶け出していく。それでも、約1万8000年前の平均気温は今より摂氏6~7度低かったのではないかと見積もられている。これをもって、ヴュルム氷期が終了し、その後、「ヤンガードリアス期(新ドリアス期)」と呼ばれる時代が1000年程度続いた。その時は、北半球の高緯度地方を中心にやや寒気が戻った。さらに時が経過して、現在からみて最終の氷期が終わって海面が上がってきたのが、今から約1万3000年前のことだとされる。これらの自然条件の変化により、それまで唯一陸続きであった、今の宗谷海峡に当たる場所の陸地が海に沈み込んだことで、列島全体が大陸から完全に離れたのだと推測されている。
 それから約1万年程前頃になると、最終氷期とともに新生代第四紀「更新世」が終わり、その後には、「後氷期」とともに新生代第四紀「完新世(かんしんせい)」に入っていく。それからの日本列島は、氷床に蔽われる寒冷な「氷期」と、比較的温暖な気候の「間氷期」とが交互に現れていくうち、気温は緩やかに上昇し、日本列島周辺の海面はだんだんと現在と大差のないの水準に近づいていく。この最後の氷河期の終了で氷が溶け、日本列島は大陸から完全に切り離された。大陸からは、引き続いて人々がこの地に移り住んで、そこに集団が維持できるだけの自然環境が備わっていた。日本列島は、モンスーンの温帯に属する地方の一つの小島にすぎない。その後、日本列島に長い年月が経過して、およそ1万年くらい前にはその最後の氷河期が終わり、地球は徐々に温暖になっていったとされる。
 今では、日本列島と朝鮮半島の間に大いなる海が広がっている、この海は、大陸からこの列島を隔絶するに至るや、新天地を目指す人々はこの海を船なり筏(いかだ)で渡ってこなければならなくなった。なお、この海の名を巡っては、こちらでは「日本海」といい、対岸の朝鮮からは半島の東側にあるということで「トンヘ」と、それぞれの立場で呼ばれる。双方で呼び名が異なるのはいかがなものか。宇宙から見ると国境などはない、航空写真には一つの海に写ることなのだから、そろそろ双方が話し合って納得のいく名前を定め、共に使用することにしたらよいのではないか。
 さらに時間が経過して、今から6000~5000年前頃からの日本列島周辺では、後氷期(完新世)の海面が現在より一端3~5メートル海面が高くなった、これを「縄文海進」と呼んでいる。関東を中心とする全国各地で、陸地の奥の方まで縄文時代の貝塚の分布が見られるのはこのためである。全国各地の海岸で,現海面より2~5メートル高く海食の跡が多く見られるのは、これのせいと見られる。もっとも、地震の多い日本であるから、この列島を支える地殻そのものの上昇によるものもある。したがって、海面上昇若しくは下降の原因のすべてをこの海面変化によるものと断定することはできない。とはいえ、瀬戸内海が現在の景観をとるようになったのも,北欧のフィヨルドも後氷期の海進によるものである。それゆえ、現在の河口付近にある日本の平野のかなりは,縄文海進で海が侵入してできた湾が土砂に埋められてできたところが多くあるのではないか。

(続く)
 
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◆目次1『美作の野は晴れて』第一部(工事中)

2015-12-04 19:41:03 | Weblog
◆工事中『美作の野は晴れて』(2016年12月25日現在)


1.序・ある日、再び
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2.早春1

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3.早春2

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4.テレビがやって来た
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5.渡海への憧れ
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6.農暦の始まり

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7.冬場の狩り

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8.故郷の人々1
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9.故郷の人々2
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10.父と戦争1
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11.父と戦争2
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12.幼年期の思い出1

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13.幼年期の思い出2
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14.春一番1
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15.春一番2
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16.春爛漫1
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17.春爛漫2
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18.春の学舎1

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19.春の学舎2
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20.春の課外活動と城下町津山

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21.初夏の輝き1


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22.初夏の輝き2
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23.修学旅行など1
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24.修学旅行など2

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25.田植えの頃
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
26.夏の自然の中で1
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27.夏の自然の中で2
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28.夏の自然の中で3

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29.七夕の空
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30.自然の猛威

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31.夏の子供たち1(夏休みへ)

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32.夏の子供たち2(夏の自然と風物)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
33.共同社会としての村落
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34.夏の野菜、果物と子供たち
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
35.夏の子供たち3(手伝い)

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36.夏の子供たち4(遊び)
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37.夏の子供たち5(勉強など)
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38.津山へ鳥取へ奈義へ1

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39.津山へ鳥取へ奈義へ2

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40.津山へ鳥取へ奈義へ3
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
41.初秋の風1

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42.初秋の風2
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43.初秋の風3
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44.初秋の風4

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45.月にまつわる話あれこれ

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46.運動会と学芸会
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47.実りの秋(稲刈りと脱穀)
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48.実りの秋(籾すりと麦植え)


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49.秋の風物詩1(鮒とり)

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50.秋の風物詩1(多様な食べ物)

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51.秋の風物詩1(畑や野や山の幸)

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52.晩秋の輝き
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53.村祭り1
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54.村祭り2
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55.母の青春1
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56.母の青春2

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57.冬の備え1

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58.冬の備え2
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59.冬の暮らし1

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60.冬の暮らし2
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61.そして新しき年へ1

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62.そして新しき年へ2

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63.そして新しき年へ3


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64.私は学校で何を学んだのか1

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65.私は学校で何を学んだのか2

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66.新たな出発1の1

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67.新たな出発1の2

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68.新たな出発2
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69.新たな出発3
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70.近代からの天文学の発展1

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71.近代からの天文学の発展2

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72.学舎の仲間に見送られた日のこと

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(続く)
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