○〇255の2『自然と人間の歴史・日本篇』吉田松陰と松下村塾、その選択

2019-02-09 19:11:45 | Weblog

255の2『自然と人間の歴史・日本篇』吉田松陰と松下村塾、その選択

 吉田松陰(よしだしょういん、1830~1859)といえば、幕末の思想家にして教育者として、日本国中広く知られる。その彼は、後代の私たちからすれば成り行き任せで、きわどいところにて、ズバリというか、なかなかに思い切った行動を起こすことがあった。換言すれば、大胆ながらも繊細な頭使い、妙を得た作戦というべきか。

 その一つは、1854年(安政元年)3月27日の黒船艦上での渡米交渉であって、友達の金子重之輔と下田に上陸していたアメリカ人将校に前もって「投夷書」を渡す。それを起点として、翌28日の午前2時頃、二人して下田の柿崎海岸で盗んだ漁舟に乗り、沖に停泊するペリー艦隊に向かう。

 夜陰に紛れてであったろうか、旗艦のポータハン号になんとかとりつき、乗せてもらう。何か一つのことに集中していると、大変な中でも「十二分の力」を発揮できる場合があるのかもしれない、いやそんなはずはないとも考えるのだが、実際は秘密裏での乗船をねらうのではなく、向こうの見張りに声をかけ拾い上げてもらったのかもしれない。かくして艦上にたどりついた松陰なのであったが、通訳のウィリアムが出てきて、昼間に渡しておいた「投夷書」を読んでくれていたという。

 こうして交渉の舞台が整ったことから、松陰は俄然「学問がしたいのでアメリカに連れて行ってほしい」と頼み込む。とはいえ、ペリーの艦隊としては、密航者をそのまま乗せていくわけにはゆかない。約45分後には、松陰らの願いはかなわず、送還の扱いにされたという(詳しくは、例えば、桐原健真「吉田松陰ー「日本」を発見した思想家」ちくま新書、2014)。

 陸に送られると、そのうち夜が明けてくる。もはや、何事もなかったということで、隠しおおせることではないと悩んだ。そして、もはや逃げおおせないと悟った二人は、柿崎村の名主宅にまかり出て自首する。それから下田の奉行所に捕らわれの身となるのであったが、元々わるいことをしたという反省心は持ち合わせていない。奉行の黒川嘉兵衛(くろかわかへい) らの取り調べを受けながらも、獄中を我が亭(てい)とするかのような気概でもって、「世の人はよしあし事もいはばいへ、賤(とず)が誠は神ぞ知るらん」などと心情を発露する始末であった。

 なお、ここで「攘夷」を唱える松陰がなぜアメリカに助けを求めるのかが問題になろうが、彼の頭の中では、アメリカが日本を見下す内容で開国を迫ってきた、その非礼な態度が許せないのであって、教条的な「外夷」の思想に浸っているが故のことではなかったのではないか。

 一応の取り調べののちは、江戸へ護送される。その旅途中ならぬ囚われ道中の4月15日のことであったという。駕籠が赤穂浪士で知られる高輪泉岳寺の門前を通るすがら、松陰は次の歌を発したという。それにいわく、「かくすればかくなるものとしりながら、やむにやまれぬ大和魂」と。これが、義士たちの心との共通性をもって、自らの行為を大義あるものとして天下にしらしめようとしたと、観ていた人たちの多くは驚き、そして痛く感動させられたのかもしれない。

 次の話に移ろう。結論からいうと、時節が移っての二度目の裁きにおいては、松陰の思い通りにはゆかなかったようだ。1859年(安政6年)に幕府の評定所に呼び出され、江戸へと護送されてゆくのだが、世事の変化があわただしくなっていく中での心の持ちようが影響したのかもしれない。嫌疑は二つあって、「安政の大獄」でさきにとらえられていた梅田雲浜との関係が取り沙汰された。もう一つは、御所内で見つかった落とし文が松陰のものではないかとなっていた。どちらも、たちまち疑いは晴れた。と、これまでなら、「無罪放免」ということであったろうが、松陰は取り調べの過程で問われてもいないことをつい触れてしまう。

 その最初のものは、「大原三位下向下校策」(おおはらさんみげこうさく)と称して、大原重徳を長州にくだらせ、幕府に対し兵をあげるというもの。次のものは、もっと怪しげな話で、間部老中を襲撃する計画があるというものであった。こうなると、取り調べに当たっている側は、なんとか話の扉をこじ開け、全貌を明らかにしようと必死になろう。食らいついたら離さないのが、彼らの真骨頂なのであるから。こちらが「かかわりない」と立証できなければ、疑いは晴れないのが道理とされよう。松陰ほどの知恵者が、そのことを口の端に出す事前に気づかなかったのであろうか、それとも瞬時に何かしらの雑念なり、不安なりが脳裏によぎったのであろうか。そのあとでは、取り返しはつかなかったようだ。実に痛恨の一事であったに違いあるまい。ともあれ、もはや賽(さい)は下された。彼は従容として死の途についたのであった。

(続く)

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