♦️934『自然と人間の歴史・世界篇』インドのコロナ景気対策の概要(2020)

2020-10-25 22:31:58 | Weblog
934『自然と人間の歴史・世界篇』インドのコロナ景気対策の概要(2020)


 インドの対コロナの景気対策としては、これまでに、3月26日と、5月13日から17日までが財務省から、並びにRBI(インド準備銀行)からの、2月以降の信用の供与を中心に、総額で2兆970億3000万ルピーが発表されている。この額は、発展途上にあるインドとしては、かなり大きな額に違いない。

 ここでは、冒頭に、♦️全体の構成を述べ、ついで♦️♦️それぞれの主な項目内容及び若干のコメント、さらに♦️♦️♦️全体評価へと進んでいこう。
 ♦️「1」~「4」の(5/13~17)の財政措置主体の総額としては、11兆265億ルピーで、その内訳は、5/13分の594,550 crore、5/14分の310,000 crore、5/15分の150,000 crore、5/16~17分の48,100 crore、それらの小計は11兆265億ルピーとなっている。。
 また、「5」の「Earlier Measures incl PMGKP (earlier slide)」、つまり5月に発表された一連の措置以前の措置の総額としては、1兆9280億ルピーとされている。
 さらに、「6」の金融面からの措置の総額としては、8兆160億3000万ルピーがある。
 そこてこれら「1」から「6」を合計すると、前述の「GRAND TOTAL」たる20兆9705億3000万ルピーとなっている訳だ。


 そのなかでの1番目(5月13日発表分)としてあるのは、主に次のとおり。
◎Tranche 1: Rs 5,94,550 crore(5兆9455億ルピー、なお、croreは1,000の接頭語)

○Emergency working capital facility for businesses: Rs 3 lakh crore(3兆ルピー)
 MSME(中小零細企業)の救済に充てるべく、総額3兆ルピーの無担保融資を行う。

○Subordinate debt for stressed MSMEs: Rs 20,000 crore(2000億ルピー)
 ここに持ち出される劣後債(劣後ローン)というのは、「不良債権を持つ銀行が某かの企業なりに提供するもの」であって、かつその相手方が「MSME」(「Micro, Small & Medium Enterprises」)
と呼ばれる中小零細企業に対してのものであり、この提供につき2000億ルピー分支援しようというものだ。


○Fund of fund for MSMEs: Rs 50,000 crore(5000億ルピー)
 こちらは、SIDBI(インド企業開発銀行)の下にあるファンド・オブ・ファンズを通じ、NBFC(いわゆる「ノンバンク」) 向けて支援を行う。

○EPF support for businesses and workers: Rs 2,800 crore(280億ルピー)
 こちらは、EPF(被用者退職積立基金)に対する形での、企業及びその従業員(従業員100名以下の企業に勤務する給与月額15,000ルピー以下の場合に限る)の支払いを、今後3か月支払い料率を軽減するのに充てる。

○Reduction in EPF rates: Rs 6,750 crore(675億ルピー)
 こちらは、EPF(被用者退職積立基金)に対する形での、企業の支払いを、今後3か月支払い料率を軽減するのに充てる

○Special liquidity scheme for NBFCs, HFCs & MGIS: Rs 30,000 crore(3000億ルピー)
 新型コロナで経営危機に瀕しているNBFC(ノンバンク)に3000億ルピーを充てる

○「Extending  the  Employees  Provident  Fund  Support  for  business  and  organised  workers  for  another  3  months  for  salary  months  of  June ,  July,  and  August  2020.」
 これにより、合計2500 crore(250億ルピー)の流動性を見込む。

○Partial   credit  gurantee  scheme  2.0  for  liabilities  of  NEFCs  and  MFIs:Rs
45,000  crore(4500億ルピー)

○DISCOM:Rs90,000  crore(9000億ルピー)
 地方の送配電会社への資本投入に9000億ルピーを充てる。

○reduction  in  TDS/TCS rates:Rs50,000  crore(5000億ルピー)
 2020~2021年度の残りの期間について、居住者の非給与支払いに対する源泉所得税(TDS)と源泉徴収税(TCS)の適用税率を25%減税することにより、5000億ルピー分の流動性を供与する。

○ほかにも、所得税申告期限の延長や、総額20億ルピー以下のプロジェクトで外国企業の応札を禁止。



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 その中で2番目(5月14日発表分)としてあるのは、主に次のとおり。
◎Tranche 2: Rs 3,10,000 crore(3兆1000億ルピー)

○Free food grain supply for migrant workers for 2 months: Rs 3,500 crore(350億ルピー)
 貧困層や出稼ぎ者(約8000万人とも)に2か月分の穀物を無償援助する。


○Interest subvention for MUDRA Shishu loans: Rs 1,500 crore(150億ルピー)

 ここにMUDRAというのは、2015年にモディ首相が立ち上げたスキームにして、これの「Shishu categorie」(上限は5万ルピー)について、12か月の間、2%の利息を助成するものであり、150億ルピーを充てる。

○Special credit facility for street vendors: Rs 5,000 crore(500億ルピー)
 露天商向けに、1か月以内にクレジット・ファシリティ・スキームを立ち上げ、これにより500億ルピーを充てる。

○Housing CLSS-MIG: Rs 70,000 crore(7000億ルピー)
 PMAYスキームの下、中間所得者層に向けたCLSS(信用連携助成金スキーム)を2021年3月まで延長することで、2020年度についていうと、住宅部門での7000億ルピー以上の投資につなげようとするもの。

○Additional emergency WCF through NABARD: Rs 30,000 crore(3000億ルピー)

 NABARD(公営農業農村開発銀行)を通じての、農家のために3000億ルピー規模の追加緊急運転資金を供給する仕組みを導入する。

○Additional credit through Kisan Credit Credit: Rs 2 lakh crore(2兆ルピー)

 こちらは、「キサン・クレジット・スキーム」(「首相農民敬意プログラム」とも)と呼ばれる、農家への財政支援のために国営農業・農村開発銀行により設計された仕組みにして、約2500万人の漁民及び畜産業者を含むこの下での「キサンカード」と呼ばれるクレジットカードによる貸付を実施し、これにより合計2兆ルピーの流動性を供給しようというもの。

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 その中で3番目(5月15日発表分)としてあるのは、主に次のとおり。
◎Tranche 3: Rs 1,50,000 crore


○Agri  infrastructure  Fund  for  farm gate  infrastructure:1  lakh  crore
 農業生産者を支援する「農地ゲート・インフラストラクチャー」向けに、1兆ルピーの「Agri インフラストラクチャー」を立ち上げる。


○Micro food enterprises (MFEs): Rs 10,000 crore(1000億ルピー)
 MFE(小規模食糧事業、小規模な食品業者をいう)の取り組みを正規なものにするための、1000億ルピーのスキームを充てる。

○PM Matsya Sampada Yojana: Rs 20,000 crore(2000億ルピー)
 PMMSY(漁業のための首相による富裕化計画)の立ち上げに、2000億ルピーを充てる。

○TOP to TOTAL: Rs 500 crore(50億ルピー)
 この名前の訳だが、「TOP」はトマト、玉ねぎ、ジャガイモを、「TOTAL」は全ての野菜を意味する。

○Animal husbandry infra development fund: Rs 15,000 crore(1500億ルピー)
 「畜産インフラ開発基金」の設立に1500億ルピーを充てることにより、酪農加工などの民間投資を促す。


○Promotion of herbal cultivation: Rs 4,000 crore(400億ルピー)
 ハーブ栽培の促進に400億ルピーを充てるというのだが、今命をなんとか繋いでいる人々を救うのが先ではないか。

○Beekeeping initiative: Rs 500 crore(50億ルピー)
 養蜂関係イニシアチブに50億ルピーを充てる。


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 その中で4番目(5月16、17日発表分)としてあるのは、主に次のとおり。
◎Tranche 4+5: Rs 48,100 crore(4810億ルピー)

○Boosting  private  sector  investment  through  revamped
Viability Gap Funding Scheme in Social Sector:Rs 8,100 crore
 社会インフラ投資(病院や学校などの社会インフラ)に810億ルピーを充てる。

○「Rs  40,000  crore  increase  in  allocation  for  MGNREGS  to
 provide  employment  boost」とあって、4000億ルピーの同予算の増額となっている。
 ここにMGNREGS (Mahatma  Gandhi  National  Rural  Employment  Guarantee  
Schme)とは、「マハトマガンジー全国農村雇用保障スキーム」のことだ。財務省としては、「これにより、モンスーン季に農村に帰郷する出稼ぎ労働者向けを含む仕事のニーズに対応し、合計30億人日の仕事量をうみだす」というのだが、給付を希望する人々にすべからく行き渡るには、少なすぎはしないか。 


○今回は特段の財政措置を伴わない項目としては、石炭、鉱業、国防、電力、(社会インフラは上記により財政支出あり)、宇宙、原子力、保健、教育などを挙げ、支援を行う。
 これらのうち、「Diversified Oppotunities in Coal Sector」については、「石炭ガス化・液化」に過度の期待を向けており「脱炭素社会」への展望というのはおかしいのではないか。


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 その中で5番目としてあるのは、冒頭に記したように、「5」の「Earlier  Measures  incl   PMGKP (earlier  sllide」、つまり5月に発表された一連の措置以前の措置の総額としては、1兆9280億ルピーとされている。

 かかるEarlier Measure incl PMGKP(earlier slide)のうち主なものとしては、こうある

○Revenue lost due to tax concessions announced since March 22: Rs 7,800 crore.(780億ルピー)


○「As  part  of  the  Rs  1.70  lakh  crore Garib  Kalyan  Packge  (PMGKP)
、すなわちPM Garib Kalyan Package: Rs 1,70,000 crore.(1兆7000億ルピー)。
 このフルネームは、「プラダンマントリ・ガリブカリヤン・パッケージ」であって、
 これの使い道としては、こんな説明がなされている。
「The  Government  announced  distribution  of free  food  grains  , cash, payment  to  wemen  and  poor  senior citizens  and  farmers  ,etc.」

 そこでの主な項目としては、こう紹介されている。
(1)5キログラムの米または小麦を3か月の間無償支給する。
(2)貧困層の女性2億人に一人当たり500ルピーを3か月間、計1,500ルピーを給付する。
(3)(全国農村雇用保証法)対象者の日給を182ルピーから202ルピーに引き上げる。
(4)貧困層の年配者、未亡人、障害者向けの補助金を増額する。
(5)「PM Kisan 」といって、零細農家に年間で6000ルピーの所得補助を提供する政策において、2000ルピーを前倒しで支給する。
(6)建設労働者が福祉基金を利用できるように、各州政府に要請を行う。
(7)8000万の世帯の貧困家庭に、ガスシリンダーを無償で支給する。
(8)女性の自助組織に対し、無担保での融資上限額を100万ルピーから200万ルピーへ引き上げる。
(9)新型コロナウイルス対応に当たる医療従事者などが感染した場合などに、一人当たり500万ルピーの医療保険を提供する。
(10)中小企業に向けて、政府が従業員積立基金の従業員の月賃金の24%を、今後3か月の間負担する。



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その中で6番目としてあるのは、次のとおり。
◎RBI measures: Rs 8,01,603 crore(8兆160億3000千万ルピー)

 これについてごく大まかには、次のとおり。まずは2月6日には、RBIのメジャーを通じ2兆8千億ルピー規模の「流動性供給」を発表する。
 
 3月27日に発表したのは、「4兆ルピー規模の量的緩和や元利支払いの3か月猶予」(日経新聞、4月17日付け)といった経済対策。具体的には、(1)銀行の現金準備率(CRR)の4%から3への%引き下げ、(2)社債やCP(コマーシャルペーパー)やNCD(譲渡性預金)を購入した銀行への標的型レポ・オペ(TLTRO)の実施、(3)金利コリドー(MSF)による貸出上限の引き上げ(銀行の預金債務NDTLの2%から3%への引き上げ)という三つの措置を通じて、合計3兆7400億ルピーの流動性を市場に供与する。

 4月17日には、合計で1兆ルピー分の追加金融支援を打ち出す。一つは、ノンバンクの救済に救済に向けて、5000億ルピーを充てる。その仕組みとしては、長期資金オペレーションにより調達した資金を、ノンバンクの社債やコマーシャルペーパーの購入に充てるよう銀行に指示するというもの。残る5000億ルピーは、全国農業農村開発銀行に2500億ルピー、小規模産業開発銀行に1500億ルピー、全国住宅銀行に1000億ルピーを融資する。

 4月27日には、投資信託(以下、「投信」と略す)に向けて5000億ルピーを資金供給する枠組みを設ける。その理由付けとしては、「米大手運用会社がインドで債券ファンドなどの投信を閉鎖した影響で、ほかの投信にも償還圧力がかかり、流動性リスクが高まっている」(日経新聞、2020年4月27日付け)ことが言われる。

 それに、3月27日と4月17日にとられた措置のうち「Measures to Ease Financial Stress」としては、次の様に説明されている。
「(C)Measures to Ease Financial Stress
23. The RBI had earlier, on two separate occasions (March 27 and April 17, 2020), announced certain regulatory measures pertaining to (a) granting of 3 months moratorium on term loan installments; (b) deferment of interest for 3 months on working capital facilities; (c) easing of working capital financing requirements by reducing margins or reassessment of working capital cycle; (d) exemption from being classified as ‘defaulter’ in supervisory reporting and reporting to credit information companies; (e) extension of resolution timelines for stressed assets; and (f) asset classification standstill by excluding the moratorium.」(RBIのホームページ、新型コロナ関連ページより引用。導出は、全体画面から「COVID-19 related Measures」→「Governor’s Statement – May 22, 2020」を2020.10.26に選択して参照した。)
 

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 すべからく全体の印象でいうと、盛りだくさんの項目の割には、総額のうち相当分が、先行する期日での対策との込みであって、5月の13日から17日までの間に相次いで追加されたものは、約11兆ルピーとなっている。

(続く)


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♦️933『自然と人間の歴史・世界篇』止まらない新型コロナの感染拡大と最大規模の経済悪化(インドでの経緯)

2020-10-24 08:54:24 | Weblog
933『自然と人間の歴史・世界篇』止まらない新型コロナの感染拡大と最大規模の経済悪化(インドでの経緯)



一、感染拡大の第一波(一~五月)


 インドでは、一月三〇日に国内で初の感染者を発見する。二月五日には、中国からのビザを無効化する。三月三には、デリーで初の感染者が発見される。三月上旬には、外交、公用、国連、就労、プロジェクトビザ以外の全てのビザの効力を停止した。その措置の中には、日本、イタリア、韓国、イランへ発行しているビザを無効化する。

 それが三月一二日になると、外交官ビザ・就労ビザを除く全てのビザを無効化する。これを平たくという、段階的な水際対策から一変して、隣接する国との国境を封鎖するのであった。

 三月一九日には、モディ首相が国民に向けて演説を行う。三月二二日午前七時から同九時まで外出を自発的に制限するよう国民に求める。

 まずは、この演説の冒頭、これは世界中で起きている事態であることを、国民に言い含めている。

 「My dear fellow citizens, 
The whole world is currently passing through a period of very serious crisis. Normally, when a natural crisis strikes, it is limited to a few countries or states. However, this time the calamity is such that it has it has put all of mankind in crisis. World Wars 1 and 2 did not impact as many countries, as have been affected by Corona today.
Friends,
This global pandemic is also going to have a wide-ranging impact on the economy. Keeping in mind the economic challenges arising from the Corona virus, the government has decided to set up a COVID-19 Economic Response Task Force under the leadership of the Finance Minister. This Task Force will take decisions in the near future, based on regular interactions and feedback from all stakeholders, and analysis of all situations and dimensions. This Task Force will also ensure that all steps taken to reduce the economic difficulties are effectively implemented.」

 ここに「This Task Force will also ensure that all steps taken to reduce the economic difficulties are effectively implemented.」と言って、感染対策と経済との兼ね合いに触れることで、国民に安心感を与えたいようだ。
 
 
 ところが、首相は、やがての下りで、こんな奇妙な言い回しをしている。

 「It is clear that this pandemic is deeply hurting the economic interests and well-being of our nation’s middle class, lower-middle class, and poor segments. 
In such a time of crisis, I request the business world and high income segments of society to as much as possible, look after the economic interests of all the people who provide them services. 
In the coming few days it is possible these people may not be able to come to office or your homes. 
In such a case, do treat them with empathy and humanity and not deduct their salaries. Always keep in mind that they too need to run their homes, protect their families from illness.」


 要は、今回の新型コロナのパンデミックにより、中間層や下位の中間層、そして貧困層の経済的利益と「よりよく暮らすこと」がひどく傷ついているのは明らか」だとし、したがって、次にどういうのかといえば、「このような危機において、経済界と高所得層」の皆さんには、あなた方のところで働いてくれているすべての人たちの経済的利益に可能な限り配慮するようお願いしたいと思います」というのだ。
 さらに続けて、「これからの数日は、こうした人たちは職場やあなた方の自宅に来ることができないかもしれません。ですが、そのような場合でも、共感と慈悲をもって彼らに接することで、給料を減らしたりはしないでほしい。彼らにも家庭があり、病気から家族を守らなければならないことを常に心に留め置きしておいてください。」とある。
 
 この下りがあるがゆえに、首相や政権与党のインド人民党(BJP)、さらにその支持母体としての民族奉仕団(RSS)の、今回の新型コロナ感染対策の基本精神が見えるのではないだろうか。ここにあるのは、すべての国民が人としての尊厳を維持する権利があるがゆえに国民の政府はその維持、充実に努めなければならないということを忘れているか、無視しているのではないか。何より重要なのは、すべての国民が享受すべき、この権利を「善意」や「思いやり」の問題にすり替え、矮小化しているように感じられる。

 そして迎えた同三月二二日には、デリー首都圏政府が、州境の閉鎖を含むロックダウン(外出禁止を伴う)を三月二一日から三一日にかけて実施すると発表する。三月二四日には、国家災害管理法に基づき、三月三一日までのロックダウンを発表する。

 四月に入ると、ムンバイ市などで、公共の場でのマスク着用を義務化し、違反者には罰則を適用。同一四日には、ロックダウンを五月三日まで延長する一方、同一五日には、感染拡大リスクの低い地域で一部業種(商業、生産活動)再開を承認する。同五月一五日、政府発表の感染者数は約八万人、死者数は三千人弱となる。

 五月一日、ロックダウンを五月一七日まで延長すると発表。同時に、全土を三つの地域分けし、感染リスクが低い地域では条件付きで一部の経済活動の再開を認可する。五月一七日、ロックダウンを五月三一日まで延長すると発表する。車両で州をまたぐ移動を許可するとともに特に感染リスクの高い地区を除き、三つゾーン全ての経済活動の制限を緩和する。五月二五日には、平常時の三分の一の国内旅客機のむ運航を再開する。五月三〇日には、ロックダウンを五月末まで延長するとしながらも、「封じ込め」の感染リスクの高い地区を除いて、三つのフェーズに分け、ロックダウンの段階的解除を視野にガイドラインを提示する。 

 一方、株価(代表的なSENSEX指数)は、三月の月初めの三万八〇〇〇ポイントが一八日には二万九〇〇〇ポイントに二〇%を上回って低下、とりわけ海外投資家のインド株式の売り越しが目立った。通貨ルピーも、同月二〇日に、一ドルが七五ルピーと史上最安値を記録した。景気の落ち込み懸念から、海外投資家によるリスク回避の資金流出が発生した模様だ。

 企業活動面では、三月に入り、感染拡大の影響で新規受注が落ち込み企業活動の低下が続く。四月末の製造業PMI(購買担当者)は二七・四を記録、それが五月末には三〇・八にやや持ち直す。


二、感染拡大の第一波(六~十月)


 五月末に、政権は、感染者の多い「封じ込め地区」は六月まで封鎖を継続するものの、三月二五日からの全国的なロックダウンを解除した。そして迎えた六月からは、経済活動の再開に本腰を入れていく。チャーター便利用でのビジネス目的による入国ができることとした。六月二九日には、封じ込めゾーンのロックダウン七月三一まで延長、それ以外の地域では活動制限を緩和する。

 九月上旬から、地下鉄を再開した。なお、2020年9月2日時点での「COVID 19 Incidence」としては、こうなっている。

 以下、P、C、Dの順で、Population (Mn)、Cases (Mn)、Death (‘000)を、ついでC/P(感染者数/人口)、D/C(死者数/感染者数)、D/P(死者数/人口)の値を記す。
Indiaは、1380、3.7、65、0.27%、1.757%、0.0047%。
USAは、331、6.1、185、1.84%、 3.033%、0.0590%。
Brazilは、212、3.95、123、1.86%、3.114%、0.0580%。
Source: COVID 19 cases, John Hopkins University Dashboard, Sept 2, 2020(ジョンホプキンス大学のホームページと、Source: Population, Wordometers.info
から原数字を引用し、計算した。

 そして迎えた同月一四日、タミル・ナドゥ州政府が、六月一九~三〇日の間、州都と周辺都市を封鎖すると発表。同月二九日には、政府は、感染者が集中するゾーンのロックダウンを七月末に延長、その一方でそうでないゾーンの規制を緩和する。こうなっては、全土封鎖による経済的打撃がこれ以上大きくなるのを避けるための同措置の緩和への転換が図られた模様だ。

 折しも、七月二七日時点でのWHO(世界保健機関)発表の感染者数は累計一四三万であり、アメリカ、ブラジルに次いで世界で三番目の感染者数に拡大。これ以後のインドでの新型コロナの対策は、後手に回り続けていく、とりわけ全土封鎖の実施に関しては迷走を繰り返す一方、五月の経済対策の実行が現場に行き渡っているようには見受けられず、政府の対応に対する国民の不満足が浮き彫りになりつつあるのではないだろうか。

 これらを映して、八月の株価(代表的なSENSEX指数) は、前月末の三万七六〇六ポイントから三万八〇〇〇ポイントへと上昇した(くわしくは、七月二三日には企業業績が好感されて三万八一四〇ポイントと、約四カ月半ぶりの高値を記録)。その後は一進一退が続く展開。通貨ルピーも、八月一七日に、一ドルが七四・八九ルピーと史上最安値からの回復は見られない。景気の落ち込み懸念から、海外投資家によるリスク回避の資金流出からの回復は見られない

 企業活動面では、感染拡大の影響で新規受注が低迷してきた製造業PMI(購買担当者)が五二・〇と、景気拡大を示す五〇・〇水準をわずかに超えた、これは二月以来の伸びである。

 九月下旬になると、一〇〇人までの集会を許可するとともに、タージマハルなどの施設公開を再開する。ただし、学校、映画館などの施設については閉鎖を継続する。

 九月二二〇日現在までの判明している感染者数は約五五六万人にして、死亡者は約九〇万人というのが公式発表だ。ところが、ICMR(インド医学研究評議会)が九月下旬に行った抗体検査によると、一〇歳以上の住民の一五人に一人が陽性反応を示していて、これを二〇一一年の国勢調査での同全土人口に当てはめると六三七八万人となり、公表されている感染者数の約一〇倍に上ることになる。
 それと、地区別では都市部のスラム地区では、一五・六%もの感染率であったという。

 いずれにせよ、感染防止の態勢を整えることなくして、六月からの経済再開により感染は急拡大し、三か月の全土封鎖は大方失敗したと言わざるを得ない。

 
(続く)

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○203の1『自然と人間の歴史・日本篇』「マウンダー極小期」の日本

2020-10-17 22:19:41 | Weblog
203の1『自然と人間の歴史・日本篇』「マウンダー極小期」の日本

 そもそも現在の間氷期にいたる氷期と間氷期のサイクルは、ごく大まかに地球の公転軌道と自転軸の傾きの変化(これには、一説には、木星などの重力の影響も考えられるという)、火山活動などにより太陽からの日射の分布が変化して引き起こされているというべきであろう。
 そのことを自然要因とするならば、例えば次の氷期の到来がいつのことになるかという話は、かかる要因が基(もとい)となり、現代では人間活動の影響も加わり、おおよそ何万年周期という地質年代レベルのスパンで微妙に変化することによってもたらされる、と考えるのが自然な成り行きなのだろう。
 それでは、この間の人類の歴史においては、どうだったのだろうか。例えば、1600年代中頃から1700年代前半にかけて太陽活動が低調な時期があって、この影響を受けた当時の北半球では「マウンダー極小期」と呼んでいて、氷期とまでは行かないという意味であろうか、「小氷期」の一部と説明されている。
 おりしも日本では、1600年頃に約1400万人~1600万人だったと推定される人口は、1721年には人口3128万人(実数調査による)まで膨らんだ。この100年間に日本列島の人口がほぼ倍増したことになっている。これを支えたのが、おもに全国的な田畑の開墾・干拓や、東北地方などで行われた灌漑などによる米をはじめ穀物の生産増だった。

 ここで振り返っての、マウンダー極小期においての平均気温は、その前後と比較して、一説には、「摂氏約0.1度から0.2度、最大で0.3度低かった」と考えられているという。

 また、別の専門家により、こうも言われる。
 「300年前に寒い時期があって、グラフにはそれが示されています。注目したいのは300年前です。太陽活動が非常に弱い「マウンダー極小期」と呼ばれていた時代です。太陽の黒点が現れないことが70年くらい続いたといわれています。それで地球も非常に寒かったのではないかということで、やはり太陽は大事だという一つの根拠になっています。
 その頃どれくらい寒かったかというと、産業革命前の平均気温より摂氏0.5度、どんなに大きく見積もっても摂氏1度くらい低い気温です。太陽だけが原因ではなく、火山の原因も入っていますので、太陽活動が弱まったとしてもその影響は摂氏1度未満だろうというのがこのデータからいえることです。」(地球環境研究センター、江守正多「本当に二酸化炭素濃度の増加が地球温暖化の原因なのか」、同氏の論考が掲載されている、国立環境研究所発行の「地球環境研究センターニュース」2018年6月号、インターネット配信より引用)

 ついては、この時期の日本農業は、これによりどれくらいの影響をうけたのだろうか。



(続く)

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○159『自然と人間の歴史・日本篇』戦国時代(中国地方での攻防)

2020-10-16 12:51:54 | Weblog
159『自然と人間の歴史・日本篇』戦国時代(中国地方での攻防)

 さて、1496年(明応5年)、播磨、備前及び美作の三国守護・赤松政則が死去し、一族の義村が家督を継いだ。ところが、播磨の国揖保郡浦上荘(現在の兵庫県龍野市揖保町)の地頭から身を起こし、赤松氏の補佐をしていた浦上氏が、しだいに主家を凌ぐ力を誇示するようになる。

 1520年(永正17年)、赤松義村の軍勢は村上方の岩屋城を包囲するも、救援に向かった村上村宗の軍勢の攻撃を受けて大敗を喫す。
 村上氏は、その後、備前と美作の大半及び西播磨地方を支配下に置いていたが、傾き加減も甚だしい室町幕府管領(かんれい)の細川高国に与して中央政界に進出するものの、その高国は一族の内紛で細川晴元に敗れ、その目的を果たせなかった。

 浦上宗景が天神山城に移って間もない1532年(天文元年)になると、北の出雲国の守護代にあって、同国の能義郡富田(現在の島根県広瀬町)に本拠をおく尼子氏(あまこし)が美作に食指を動かし始めた。以後、美作の国衆の中に、尼子に与する豪族が増えていく。

 尼子氏は、金川城主の松田氏とも組んで、備前北部から備中、そして美作東部に勢力を伸長させつつ、浦上氏、赤松氏ともども互いに覇を争ってゆく。

 その後の戦国期の1552年(天文21年)において、尼子晴久(あまこはるひさ)が足利幕府の将軍足利義藤(のち義輝)に出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)に加え、美作、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)の守護に任じられた。

1554年(天文23年)、尼子氏はその余勢をかって、安芸(あき、現在の広島県東部)に積極果敢に進入して毛利勢と戦ったものの、かえって大敗を喫してしまう。続く1558年(永禄元年)頃になると、備中、さらに美作へと広がってゆく。


 はたして、その頃の美作国との境の辺りはというと、山陰の尼子氏、備前の浦上氏、備中の三村氏など隣国の強力な支配者により、たびたび侵攻を受けていたのが、1561年(永禄3年)、三星城を本拠にしていた後藤勝基は、下剋上で主家の浦上氏を破る。これにいう後藤氏の歴史は古く、南北朝時代の1336年に、この地に地頭として入封した後藤氏が当時の妙見城を改修し、三星城と名を変え代々の居城として、その一円を治めてきていた。
 しかし、その後藤氏単独では、この乱世を切り抜けられないとしてのだろうか、今や備前の支配者で野心家の宇喜多直家の息女、千代を妻に迎えて宇喜多氏との関係を深める。しかし、1578年(天正5年)頃になると、美作、備前の領域争いが起き、宇喜多氏との姻戚関係もギクシャクしてくる。
 さらに1580年(天正7年)となっては、宇喜多氏は美作南部の諸城を落としながら三星城に迫る事態となる。宇喜田直家は、権謀術数の武将であったから、早くから食指を動かしていてのかもしれず、やがて対岸の林野城(倉敷城)が陥落すると、ほどなく宇喜多氏が三星城の総攻撃開始。奮戦するも、三星城は落城し、城主の後藤勝基は自害し、名門後藤氏は滅亡してしまう。

 ところで、この頃、津山盆地のやや北部に位置するところに中山神社という神社があった。この社は、707年の創建とされる。大和の朝廷から、備前国から北部6郡が『美作国』として分国の命令が下った。その時に、備中国の吉備中山のふもとに鎮座する吉備の総鎮守である吉備津神社より勧請したのが始まりといわれる。 中山神社という社名は、吉備中山に由来しているとのことだ。

 地の人々から久しく篤い信仰を受けていた神社であったが、1533年(天文2年)、尼子氏の美作攻略のとき兵火により社殿が焼失してしまう。
 天文年間(1532年から1555年)にかけて、尼子一族の支配に不満な百姓たちの土一揆が起きる。これを鎮圧すべく、尼子勢が百姓たちが根城にしていた社殿をめがけて攻撃した。その時、火の手が上がったものかもしれない。尼子氏が意図的に燃やしたとは断定できない。気がついたら燃えていたということも考えられなくもない。
    1559年(永禄2年)、出雲の富田城主の尼子晴久が「戦捷報賽」と称し、社殿を復興する。かねてから、尼子は先の火災の後味悪くして、再建の機会を狙っていたのかもしれない。
 建物の形式は、世に「中山造」(なかやまづくり)と称せられ、これが現在に至っている。棟梁は、伯耆の国の中尾藤左右衛門といい、完成までし18年かかったらしい。出雲大社を造った頃からの大工魂といおうか、その出雲からやってきた頭領たちが指揮して建てた本殿が奮っている。「入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪」というから、どっしりと威厳がある。ゆえに、1914年(大正3年)には国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財となっている。
 話は合戦に戻って、毛利氏(もうりし)と尼子氏の日常茶飯の勢力争いを繰り広げる。1566年(永禄8年)頃には、毛利氏が尼子義久の本拠である富田月山城に攻め寄せ、ついに降伏を勝ち取り、かくて毛利氏は山陰、備後、備中を手中に収めることになった。

この影響から、備前の一部、美作地域への毛利氏の影響力も高まり、浦上宗景の勢力と踵を接するまでになっていた。やがて安土・桃山期に入る頃には、東からの織田氏の勢力範囲が姫路から西へと伸長してきたことから、西からの毛利勢と、織田氏と結んだ南の岡山からの宇喜多勢との間のせめぎ合いがこれらの地で激烈に繰り広げられてゆく。

 宇喜多氏は、もともと、邑久郡豊原荘(現在の邑久郡邑久町)のあたりを本拠地とする豪族であったのが、1543年(天文12年)頃の宇喜多直家は一時は毛利氏との戦略的提携をはかり、1568年(永禄10年)には毛利方の先方隊となって5千の兵で、備前にに攻め入った三村元親の2万の軍勢を蹴散らした、

この戦いは「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ばれる激戦であったが、その勝利によって独立勢力としての力を持つに至った宇喜多氏は、その翌年の1569年(永禄11年)には松田氏が本拠地とする金川城の攻略に成功し、この地を橋頭堡に美作と備中をうかがうことで、今度は毛利氏と対抗するようになっていく。

 1571年(元亀2年)、宇喜多の将である荒神山城主の花房職秀は、毛利の将である杉山為国と戦う。宇喜多直家が片山左馬助を院庄城におく。
 そうした流れから、宇喜多直家は姫路の黒田官兵衛の調略で織田方に与することになり、本拠の岡山から美作へ北上してきた。その時、その地域の侍たちの多くも、宇喜多氏による支配を好まず、むしろ毛利の方に組み込まれるのを望んでいた。

 特に、平安期から美作の東部全体(本拠は現在の勝田郡奈義町)にかなりの影響力を持っていた「みまさか菅(すが)党」の大方は、宇喜多の勢力に圧迫を受けた形となっていたのではないか。
 このような宇喜多嫌いの風潮が根強くあったのには、宇喜多の宗教政策が強引なものであったことにも依るのではないか。『作陽誌』は、浄土宗誕生寺の受難につきこう述べている。

 「備前太守に宇喜多直家なる者あり。大いに日蓮宗にこり、諸宗をてん滅しおおいに日蓮宗を興さんと欲す。天正六年五月二五日、宗徒三百余人を率いてこの寺に寇(こう)し、仏像を切り僧徒を追い、寺をこわし経巻をもやすなど凶暴無状をこうむれり。
 まさに法然上人の肖像砕かんとしたとき、寺辺に匠あり潜んでこれを負い山中に逃れ隠す。」

(続く)

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◻️54の2『岡山の今昔』草創期の岡山県政

2020-10-15 10:44:26 | Weblog
54の2『岡山の今昔』草創期の岡山県政

 1871年(明治4年)、政府は廃藩置県を行う。藩は県へと名前を変える。同年、岡山県・北条県・深津県(のち小田県)の3県が設置される。1875年(明治8年)には、岡山県・北条県の2県に、さらにその翌年には岡山県に集約される。
 初代岡山県権令には、岡山の士族、新庄厚信が任命され、その後、元長州藩士の石部誠中が権令を務める。
 しかし、石部は、政府による地租改正の強行と農民の反対闘争との板挟みとなってしまう。1875年(明治8年)、石部としては万策尽きてだろうか、内務卿の大久保利通に辞職願を提出して、その職を退く。
 代わって送り込まれてきたのが、大久保の肝いりの薩摩出身の高崎五六である。高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。
 高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物にして、豪放磊落(ごうほうらいらく)とでもいおうか、着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行う。新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。
 その後も新しい官員を増やして県政をまるで「我が物」としていく。運営の体制を作り上げていく。中でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。

 それにしても、当時はまだ、旧士族の生活困難が県政の最重要課題の一つであり続けていた。それというのも、1873年(明治6年)の大政官布告第425号により旧藩時代の家禄を奉還というか、普通クラスの士族にとっては「没収」というのが実感であったというべきであろう。
 当該県政の始め頃にあっては、そのようにして家禄を失った旧藩武士の内勧奨により「帰農」した者は、県北でも、県中央部、そして県南部において相当数にのぼっていた。
 しかし、土地を耕作すべき土地を特段を含め所有していなかった武士たちは、この仲間入りはできない、彼らは比較的地位の低い「軽輩」と呼ばれてきた者が多数の案配にて、かれらを見捨てないためには、一体どうしたらよいのだろうか。
 そこで当局側で考えられた試みの一つが、県南部においては「授産事業としての干拓による農地造成であり、その事業地域として選ばれたのが、興除新田先の附寄洲」であった。
 とはいえ、これを実行するには新政府の許可が必要だった。ついては、県がまとめ役となって、色々な組み合わせで出資を算段していたようなのだが、ようやくにして「五か条」の約定書を作り、1884年(明治17年)に民間人主体の開発プラン「児島湾開墾」を出願するに至る。
 おりしも、県令の高崎は東京へ移動となるなど、数ヶ月を空費、その後の合議で三菱資本が新たに加わるなどしてついに政府の承認を得るも、本決まりとなるのは1894年(明治28年)という話の成り行きなのであった。


(続く)


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◻️201『岡山の今昔』新庄厚信、石部誠中、高崎五六

2020-10-15 10:43:00 | Weblog
201『岡山の今昔』新庄厚信、石部誠中、高崎五六

 新庄厚信(しんじようあつのぶ、1834~1903)は、岡山藩士奥坊主・友野久悦の二男として生まる。跡取りでないことから、同藩士新庄直虎の養子に入る。やがて、尊王攘夷に感銘を受け、諸藩の志士とも交わる。1864年(元治元年)に禁門の変が起きると、藩命を奉じて長州藩に赴く。藩主の毛利敬親(もうりたかちか)が京都に行って弁明しようとするのを思いとどまらせる。
 その後、幕府による長州征伐の号令に際しては、岡山藩は、これをサボタージュするなり、事実上は無視するなりしていく。そういう中で、新庄は藩の外交掛として働く。
 1869年(明治2年)には、柏崎県権知事に昇進したというから、岡山藩時代の仕事ぶりが効いたのであろう。
 1871年(明治4年)に岡山県参事、1873年(明治6年)には岡山県権令となる。
 同年職を辞すが、1874年(明治7年)に置賜県権令に転任する。1876年(明治9年)に同県が廃止されると、官を辞す。
 それからは、民間人として志を立てたようだ。同年、国立銀行条例が制定されると、士族の生活安定のためと称し、岡山に第二十二国立銀行を創設し、頭取となる。岡山紡績所設立にも動く。
 その後、1889年、市町村制が施行されると、岡山市会議員となる。1890年(明治23年)には岡山市長に選出され、水害対策や教育事業に尽力する。何かと、仕事をするのが生き甲斐であったようだ。


 石部誠中(いしべ せいちゅう、生年不詳 ~1879年)は、長州藩士の家に生まれ。やがて藩では諸検使を務める。戊辰戦争に参加する。そのおりは、捕らえていた敵の命をむやみに奪うことのないように、陣内に目を配るのを忘れなかったという。
 明治新政府になると、盛岡県大参事、飾磨県権参事などを務めて後の1872年(明治5年)には、岡山県権参事に就く。そして迎えた1875年7月19日に権令に昇進してからというものは。中央政府からの命令て地租改正に当たる。
 地主・豪農層の意見を取り入れて減租計画を立て大蔵省と交渉するも、中央は、この案を拒否する。そのうちに、県下全域で地租改正反対闘争が広まって止まない形勢の中、石部は病気を理由に辞職願を出し、追って依願免官も願い出る。
 それからは家で塾を開くなりして平穏に暮らしたという。


 高崎五六(たかさきごろく、1836~1896)は、1871年(明治4年)には置賜県参事、1875~1884年まで岡山県令に抜擢される。高崎は、元薩摩藩士で、幕末のさまざまな動乱にかかわって人物てあったから、とにかく肝いりの人事であったに違いあるまい。
 そのせいか着任早々、辞令書き一人を残し、県庁官員百余名の首切りを行ったというのだが、にわかには信じにくい。
 新たに東京から17名を着任させるという独断ぶりを地でいく。その豪腕により、地租改正を有無を言わさぬ弾圧ぶりですすめる。
 その他でも、事務処理の効率化を図り、県庁内に面会所(総合受付、相談所)を設けたのは、時流に乗ることも忘れなかったと見える。
 岡山を去ってからの高崎は、栄達を重ねていく。1884年(明治17年)には参議院議官、1885年(明治18年)には元老院議官、1886年(明治19年)になると東京府知事等を歴任、その翌年2に華族に列し男爵となる。



(続く)


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♦️904『自然と人間の歴史・世界篇』バリ協定(2015、地球温暖化)とその後

2020-10-14 22:31:36 | Weblog
904『自然と人間の歴史・世界篇』バリ協定(2015、地球温暖化)とその後

 2015年の国連の気候変動枠組条約締結国会議(COP21)においては、参加各国によりパリ条約が採択された。その中では、まず全体目標が掲げられた。これは、「産業革命前からの世界の平均気温の上昇を二度より十分低く抑(おさ)える」という、野心的なものだ。 

 こうなった背景には、1950年代後半から始まった大気中の二酸化炭素の観測がある。それには、氷床のボーリング試料に記録された、過去の温室効果ガス濃度の測定も含まれよう。観測によると、1850年頃の産業革命の前は、数百年にわたり280PPM(PPMは百万分の一)であったと推定されている。ところが、2015年には400PPMに達した、差し引き43%も増加したという(鬼頭昭雄「異常気象と地球温暖化の解明に挑む」:日本銀行「にちぎん」2018春、第53号)。

 ならば、産業革命よりもう少し時代を遡るとどうなるだろうか。例えば、中川毅(たけし)氏による説明には、こうある。

 「だが実際のデータを見ると、メタンは5000年前、二酸化炭素は8000年前頃から、ミランコビッチ理論で予測される傾向を大きく外れて増加していた(図6・3)。ラジマン教授はこの原因を、アジアにおける水田農耕の普及、およびヨーロッパ人による大規模な森林破壊にあると主張して学会に衝撃を与えた。」(中川毅「人類と気候の10万年史」講談社ブルーバックス、2017)

 そもそも、温度を引き上げているのはガス、その中でも二酸化炭素ばかりではあるまい。太陽活動が盛んか否かを始として、様々な要因があろう。

 とはいえ、人間活動が盛んになってからの気温上昇に、温室効果ガスが某か寄与しているであろうことは、それなりにわかる。例えば、1988年に設立されたIPCC(国連の「気候変動に関する政府間パネル」は、温暖化は人間活動が原因なのかと問い続けてきた。それぞれの時点での評価としては、1990年の「気温上昇を生じさせるだろう」から1995年の「影響が全地球の気候に表れている」へ、2001年には「可能性が高い」(66%以上)へ。それからも、2007年の「可能性が非常に高い」(90%以上)を経て、2013~2014年には「可能性が極めて高い」(95%以上)へと変わってきている。
 太陽が放射する可視光線を吸収しにくい反面、地表から放射される赤外線は吸収する性質をもつ。そうなると、差し引きの勘定がどうなっているかだが、地球が吸収している光のエネルギーの方が、宇宙への放出よりも僅かに小さいのだという。要するに、これが積もり積もって気温の上昇を招いているとの話が組み立てられている。

 ともあれ、このパリ会議での合意により、温室効果ガス削減の地球全体での目標にかなうように、各国はそれなりの努力をしなければならないことになった。各国の現状と力量がともに問われよう。すなわち、各国は、全体の目標を念頭におきながら、自分のところでの排出量を段階的に削減するプランを立てねばならない。その上での、今度はたゆまぬ努力が欠かせない。
 アメリカだが、トランプ政権になってからパリ協定から外れる姿勢を露わにしている。顧みると、1992年に「気候変動枠組条約」を採択、1997年には「京都議定書」が採択されたものの、2001年そのアメリカが「京都議定書」から離脱したことがある。
 2009年にデンマークのコペンハーゲンで開かれたCOP15においては、米国などの先進国と発展途上国の対立があり、妥結に至らなかった。一方、経済発展の著しい中国は、現時点でみるかぎりよくわからないところが見受けられるものの、パリ協定の遵守を表明するに至っている。かたや日本においては、「2030年までに、温室効果ガス排出量を2013年と比べ26%削減する」というものだ。


 ここで参考にしたいのは、もしかしたら人類がこれまでに成してきた、そして今行っている活動により、次の氷河期が来るのを遅らせている(遅らせる)のではないか、というドイツの研究結果が、2016年の雑誌「ネイチャー」(2016.1.13)に発表されている。その「おおよそ」には、こんな文章が寄せてある。

 「The past rapid growth of Northern Hemisphere continental ice sheets, which terminated warm and stable climate periods, is generally attributed to reduced summer insolation in boreal latitudes.

Yet such summer insolation is near to its minimum at present and there are no signs of a new ice age.

This challenges our understanding of the mechanisms driving glacial cycles and our ability to predict the next glacial inception.

Here we propose a critical functional relationship between boreal summer insolation and global carbon dioxide (CO2) concentration, which explains the beginning of the past eight glacial cycles and might anticipate future periods of glacial inception.

Using an ensemble of simulations generated by an Earth system model of intermediate complexity constrained by palaeoclimatic data, we suggest that glacial inception was narrowly missed before the beginning of the Industrial Revolution(産業革命前).

The missed inception can be accounted for by the combined effect of relatively high late-Holocene CO2 concentrations and the low orbital eccentricity of the Earth.

(✳️1)
Additionally, our analysis suggests that even in the absence of human perturbations no substantial build-up of ice sheets would occur within the next several thousand years and that the current interglacial would probably last for another 50,000 years. (この文節の大意としては、「おそらく今後5万年の流れでいうと、氷河期が訪れることはない」という。

(✳️2)
However, moderate anthropogenic cumulative CO2 emissions of 1,000 to 1,500 gigatonnes of carbon will postpone the next glacial inception by at least 100,000 years.(今後の二酸化炭素排出量(1000~1500ギガトン、ギガとは基礎となる単位の10の9乗、つまり10億の量であることを示す)次第では、「次の氷河期が始まるのは最長で約10万年先」とも結論づけているところだ。

Our simulations demonstrate that under natural conditions alone the Earth system would be expected to remain in the present delicately balanced interglacial climate state, steering clear of both large-scale glaciation of the Northern Hemisphere and its complete deglaciation, for an unusually long .」(要は、以上のごとき「デリケートなバランスの上に立った間氷期の気候」をもって、「私たちのシミュレーションの表明」とする訳だ。
 なお、ここに言われるのは、あくまでも研究サイドの話ながらも、「現在の地球は次の氷河期に突入している、もしくはその日の到来は近い」という説(「気候変動否定説」とも称される)への批判表明ともなっていることに、留意されたい。

(続く)

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新〇263の3『自然と人間の歴史・日本篇』征韓論  

2020-10-14 08:46:40 | Weblog
263の3『自然と人間の歴史・日本篇』征韓論 
 
 西郷隆盛は、明治維新の最大の立役者であろうが、その彼も維新後に大勢が固まりつつある中で孤立を深めていったようだ。岩倉具視や大久保利通らが欧州へ行っていろいろ見分を広めている間、留守組の彼は板垣退助らと「征韓論」を喧伝していた。
 それというのも、維新後は武士という階級が経済的になり立たなくなっていく。禄をはんでくらしていたものが、今度は自前で生活の糧を得てゆかねばならない。上級ではない武士であったかれらは、維新の実現に大いに貢献した。彼らの国を思う志なくして、新しい時代の扉は開かれることはなかったであろう。
 それなのに、維新後は、旧藩主らが形を変えての特権を維持したのに対し、一般の武士たちは新しい国家からしかるべく、あたらしい役割を与えられない。急な変化にあっても、家族ともども霞を食って生きながらえていく訳にはゆかないのだ。
 西郷らは、このことを深く憂えたのであろう。そして、そこからの妙案が外国、しかも西洋ではなくて、日本以上に近代化の遅れている近隣国、とりわけ旧態依然の王朝を維持している朝鮮半島なのであった。
 なお、これをもって西郷らの意識の遅れ、植民地主義にかぶれた思想の立ち遅れを指摘する向きもあろうが、当時の人物だとみられていた多くが、ある種のアジア蔑視の政治思想に囚われていたのを忘れてはなるまい。
 さて、西欧から戻ってきた代表団の面々は、そんなことに係わるよりは、今は内を充実させるべきとの「正論」をいう。西欧列強に飲み込まれないだけの国内の体制を築くのを最優先にすべきと。結局、西郷らは、この政争に敗れる。
 1873年(明治6年)、西郷、江藤新平らは辞表を提出しての野に下る。西郷の場合で言うと、「陸軍大将近衛都督兼参議の辞職願」(10月23日付け)ということであった。維新までの難事を切り抜けてきた西郷としては、惜しむらくは、もう少し周囲の様子を見てからでも遅くはなかったであろうに、また国の行く末を憂えての事とはいえ、朝鮮半島への野心を燃やすのは間違いというべきであり、全体としてやや軽はずみな一挙であったのではないだろうか。

 そうは言っても、朝鮮王朝があくまでも日本との国交を拒んだ場合において、西郷が本気で朝鮮への出兵を本気で考えていたのかは、わからない。ちなみに、「明治六年八月十七日付ー板垣退助宛西郷隆盛書翰」には、こうある。

 「只今の行掛にても公法上より押詰め候へば、討つべきの道理はこれ有るべき事に候へ共、是は全く言訳のこれ有る迄にて天下の人は更に存知これ無く候へば、今日に至り候ては全く戦の意を持たず候て、隣交を薄する義を責め且つ是迄の不遜を相正し、往先、隣交を厚する厚意を示され候賦を以て使節を差し向けられ候へば、必ず彼が軽蔑の振舞相顕れ候のみならず、使節を暴殺に及び候義は決して相違これ無き事に候間、其の節は天下の人、皆挙て討つべきの罪を知り申すべく候間、是非、この処迄に持参らず候では相済まざる場合に候段、内乱を冀ふ心を外に移して国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て終に天下を失ふ所以の確証を取りて論じ候」(「大西郷全集」)
 そういうことであれば、当時の明治新政府の間での主導権争いも含めて、さらなる手掛かりを得るまでは、なお真相を探る努力を惜しんではなるまい。

 また、江藤新平の場合は、この論の急先鋒であったのかどうなのかは、わからない。これは穿った見方なのかもしれないが、江藤という人は、思索の人、また情義にあつい人物なのだった。そもそも彼は、明治政府にその気骨溢れるを見出だされ近代国家たるべく司法改革、民法編纂などに尽力してきたのであり、出身地の佐賀の「不平士族」の行く末を案じ、ひいてはそのことが国内の治安を乱すことにつながるのではないかと、人一倍以上も思案していたとも考えるのだが、いかがであろうか。

(続く)
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◻️176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山) 

2020-10-13 19:22:25 | Weblog
176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山) 

 広瀬臺山(ひろせたいざん、1751-1813)は南画家。津山藩士の三男、広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれる。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学ぶ。

 1775年(安永4年)、家族に従って津山に帰り、暮らす。初めての津山は、青年の目にどう映っていたのだろうか。

 1781年(安永8年)には、父の隠居に伴い家督を相続する。その翌年には、京都御留守居見習役となる。天明元年(1781)には、江戸定付となる。  

 それからは、江戸藩邸での職務をこなすとともに、谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏など、江戸市中の文化人と交流を深める。そして、すぐれた作品をつくる。  1803年(享和3年)には、家督を息子に譲り、江戸の麻布長坂に住む。やがての1811年(文化8年)には、津山に帰る。それからは、かなり自由気儘な人生であったのだろうか。

 画風は、さりげなく、自分の世界に誘うが如しか。その一つ、「蓬莱山水図」には、中空に浮かんでいるかのような、仙人が住むという山がさりげなく描かれている。  

 それに、「日金山頂望富嶽図」(ひがねやまさんちょうよりふがくをのぞむ、1799(寛政11年)とあるのは、日金山(十国峠)に登ったのであろうか、そこから望む富士山を中心に、駿河湾から相模湾までの東西ほぼ180度を俯瞰描写している。


 その画論については、格調豊かなタッチで記されていて、例えば、こんな具合だ。

 「書画家は当時、その弊、人を害するに至るほどの事はあらねども、これまた文雅の事なれば、またここに弁ずるなり。(中略)

 古え聞ゆる金岡(巨勢金岡のこと、引用者)の輩は、唐以前の画法による。北條氏(鎌倉時代を表す・引用者)の頃、僧徒多く元へ渡りて宗元の画法を学び、墨染の法(水墨画法のこと・引用者)をなす。如拙にいたりて、牧渓を法とし、雪舟は明の李在に学び、傍ら牧渓を加え摸せり。かくの如くみな唐土の筆意に法り、古図によりて描きしなり。(中略)

 就中(なかんずく)、長崎へ来る商唐人の書画を学びて、古法を専らとせずして、奇を好むものまたあり。これ多くは彼地の俗書画なるを、人また是を雅なりとするなり。」(広瀬台山「雅俗脛謂弁」)  

 要は、かの「胸中に楽あり」(野呂介石「介石画話」)に表現される、かなり思い入れのこもった下りとなっている。


(続く)

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新◻️220の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、三木行治)

2020-10-11 08:54:38 | Weblog
220の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、三木行治)


 三木行治(みきゆきはる、1903~1964)とは、なかなかにスケールの大きな人であった。関連して、岡山県が水島臨海工業地帯に企業を誘致し、工業立県化を推進したのには、この間知事をつとめたことでの積極姿勢があったことは、特記されてよい。

 三木は、1903年(明治36年)に岡山市畑鮎に生まれた。岡山市立内山下高等小学校から岡山中学校、第六高等学校へとすすむ。1925年(大正14)には、岡山医科大学に入学する。4年後に卒業して同学の副手となる。内科医として勤める。

 その後は、九州帝国大学法文学部に入り、政治学を学ぶ。1937年(昭和12年)には、医学博士となる。その2年後には、厚生省にはいる。  法学士と医学博士の経歴の上、官僚にもなって最後のポストは厚生省公衆衛生局長であった。
 
 1951年(昭和26年)に48歳で岡山県知事に初当選する。革新系ということになっていた。それから、連続当選4期で、1964年に急逝するまで三木は知事であり続けた。

 彼が推進した時代の工業化には後々の課題を残したものも多かったものの、彼の非凡なところは、いわゆるブルトーザー的な開発志向ではなくて、多方面に活動の領域を設けていたところにあった。

 ちなみに、三木は、「岡山県農業は一戸当たり七反弱という耕地面積で、全国平均所得の八割、農家が51%を占めていたので、農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」(1953年岡山県議会)とし、「そこで工業と商業の反映、いわゆる経済基盤の強化をやることになり、水島開発を決意」したと述べている。
 これの「農業振興に努力したが、所得を増加するためには過剰人口問題が生じた」との下りにはどれ程の意味が込められているのか不明ながら、三木なりに切羽詰まった気持ちでいたのだろう。


 写真で三木の顔を見ると、ごつい感じなのだが、そればかりではない。豪放なところと繊細さをあわせ滲ませる。古代で言うと、英雄の相といったところか。つまり、なんだか人なつっこい風貌なのである。

 その柔らかな表情さながらに、「岡山県福祉計画」を樹立することで、子どもや老人、社会的弱者の福祉に積極的に取り組んだ。

 かの孔子に「剛毅木訥仁に近し」という、戦後先駆けの政治家だといえる。また開眼運動を提唱し、アイバンクを設置した。東洋のノーベル賞といわれるマグサイ賞を受賞したことでも知られる、日本レベルで見ても類の少ない、爽やかな政治家であったのではないか。

 ところで、かの孔子の言に、次のようにあるのをご存じであろうか。すなわち、「子曰く、利に放(よ)りて行えば、怨(うら)み多し」(『論語』巻二第四里仁篇12)。

 これらを踏まえつつも、三木の後からの県政については、かなりの程度、大方住民不在でしゃにむな工業化が推進されたことで、岡山、倉敷といえば、公害を連想させるような時期が続いていく、そして、ひょっとしたら、それらの大元には三木の時代からの「ボタン」の掛け違いも多数あったのではないかと、推察されるのである。

(続く)  

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◻️48『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)(1866)

2020-10-09 07:59:41 | Weblog
48『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)(1866)

 それからもう一つ、1866年(慶応2年)旧暦11月24日夜、冬の寒さが増しつつある時、全国の「世直し一揆」に呼応した一揆が、美作の地でも起きた。

 思い起こせば、美作(津山)の歌人、中村延子は、「改政一揆」として、こんな連作を詠んでいる、これを最初に紹介しておこう。

 「呵借なき藩政に起ちし幕末の改政一揆の加茂谷を訪ふ」「この寺の鐘かき鳴らし峠にて峠にて振る火を合図に起ちし一揆か」「自らを強訴の発起人と名乗り出し行重直吉の墓に詣でぬ」「過酷なる賦課に耐へかねし農民の慶応三年の一揆の跡追ふ」「三年続く不作に年貢の一割増賦課に起ちたる農民一揆」「つぎつぎに増えし一揆勢二千人三つに分れ津山を目ざせし」「百三十年前狼藉を受けし大庄屋門の坂戸の修理跡あり」「一揆勢三百人の炊出しをなして狼藉免れしを聞く」「十一か条の嘆願書認め直吉は一揆の首謀者と名乗り自首しぬ」「数人の死者の出でしも三日目に美作改一揆終りぬ」(心象短歌会「心象」2000年9月号より)


 しかして、この美作全域を巻き込んだ大規模な一揆のことを、「美作改政一揆」と呼ぶ。もしくは、これが勃発した東北条郡行重村(現在の津山市加茂)の地名をとって、「行重村一揆」(ゆきしげむらいっき)とも呼ばれる。この一揆の最初ののろしは、同日、東北条郡行重村(ゆきしげむら、現在の津山市加茂)において、はじめは「真福寺の鐘」を鳴らすのを合図に、同村野猶吉、政之○、光次郎ら10人くらいの規模であったのが、翌25日朝から津山城下城下に向かって道を進むにつれ、沿の村落を煽動するのであるから、一揆勢はどんどん増えていく。
 京都大学の黒正巌の筆による「作州の農民騒動」には、その時の模様がこう描かれている。
 「勝南郡川邊村に至り、光次郎等は一千余人を分かって英田倉敷村に向かはしめ、自分は他の農民を率いて津山城下に侵入した。藩士佐藤嘉吉等は懇諭して津山に入らないように力めたが、勢いにはやる農民達は之を聴かない。藩士は大橋門を鎖して侵入を防いだ。農民は津山町の東端林田町に入るや、手当たり次第に酒肴を掠めて飲食し、銃卒を罵詈して止まぬ。甚しきは宗を露はして「撃てるならうってみろ」などと叫び、石を門に投じて破壊せんとし、天地も響けと喊声(かんせい)を挙げる。銃卒は切歯して憤慨し、発砲して遂に光次郎等数人を○した。古市左近、大島兵蔵等は救恤(きゅうじゅつ)すべき事を述べて退散せんことを諭した。之で農民の勢も多少阻められたのであるが、其夜暮らし木村より来たりたる農民と合するに及びて再び勢を得、付近の富商七十余戸を破壊した。藩政府も遂に武力を以て之を鎮圧した。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 彼らが立ち上がったのは、なぜであろうか。その理由の主な一つは、この時の百姓総代、直吉(なおきち)が津山に出向き、津山御役所宛てに差し出した嘆願書に窺える。それには、低姿勢の文体ながらもこうはっきりと記されてあった。
 「恐れ乍ら書附けを以て嘆願奉り候事
一、御領内村々総百姓中嘆願奉り候其の意趣者
一、御年貢御蔵納三斗五升計切之事附り、御刎俵直シ人足御差留之事
一、當寅御年貢引下ケ之事附り、関門入用御断之事
一、以後御出馬これ有りし候共、若党槍持ニ百姓ヲ御連被りし成候儀御断之事
一、当寅献納金難渋人之分年延之事
一、御検見之節壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似セ俵゛川下之毛御免之事附り、御登米之外津留之事
一、近来新規之御運上御免之事
一、諸役人依怙(えこ)之沙汰御吟味之事
右拾壱ケ条之御趣御取調之上、格別之御仁知を御許容成下為被候ハバ莫大之御慈悲、百姓一同有難き仕合ニ存知奉り候。此の段宜敷様仰上下被ル可キ候。以上。
慶応二年丙寅十一月。東北条郡行重村西分百姓総代・直吉、印。津山御役所」
 これにあるのは、年貢の減免の願いばかりでないことであって、4項にあるのは藩主出馬に当たり、百姓を「槍持ち」に連れて行くことにつき、そのような事はやめてほしいとの要求なのである。具体的には、「長州征伐」(第一次は1864年(元治元年)、第二次のものは1866年(慶応2年))への出兵に人夫(にんぷ)をかり出さないことを狙っているのだろうか。そのほかにも、新規の運上は御免被りたいし、年貢米の検査に当たる役人の不正があると思われるので、諸役人による依怙贔屓(えこひいき)を吟味してもらいたいことも盛り込まれている。『津山領民騒擾見聞録(つやまりょうみんそうじょうけんぶんろく)』によると、この「加茂谷強訴」の発起人の代表格である直吉は、この後神妙に立ち居振る舞い、「郷預け」を経て、牢獄に投じられたことになっている。
 そればかりではなかった。まるで乾いた薪に火を点けたときのように、短期間のうちに美作全域に農民一揆が広がり、また加速していくのはよくあることで、この東北条郡から津山への一揆勢の行軍につられたのか、津山城下の西からも一揆勢が押し寄せてきた。同じく黒正巌の筆を借りると、同氏はこう述べておられる。
 「然るに26日には美作西部に於いても農民が暴動した。即ち大庭郡古見村の農民は先ず久世村を襲ふて商家を破壊し、さらに津山城下を襲はんとして中北村(久米法条郡)に至る。農民の数三千に及ぶ。中北村の中庄屋久山直助は農民を迎へて曰く、若し之より津山城下に逼らんとならば、先ず自分の家を破壊せよ、自分の家を破しない以上は、断じてこの地を通過せしめないと叫び、先ず酒○薪炭を備へて之に興えた。然るに農民達は一揆の数が多いからお前の薪炭で足るものかといふ。直助は既炭がなくなれば門舎、倉庫、家屋順次にたいてしまえ、心配には及ばぬと答へたので、流石の農民達もその意気に感じて敢えて前進しなかった。内藤氏の代官柴田順平、大庄屋安藤善右衛門(坪井下村人)等直助を助けて退散を諭したので、遂に十二月朔日に至って農民は退去し、事平ぐ。
 この外にも土岐氏の領邑(りょうゆう)たる英田郡の農民も亦騒動したのであるが、間もなく鎮圧せられた。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 翌1867年(慶応3年)の正月には、当時津山藩の所領であった小豆島の土庄町(とのしょうちょう)と池田町(いけだちょう)でも農民一揆が起きた。美作では、これらを過去の一揆と区別して「改政一揆」(それゆえ、美作でのものは「美作改政一揆」、小豆島でのものは「小豆島改政治一揆」など)と呼び慣らしている。

(続く)

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♦️221『自然と人間の歴史・世界篇』気体の状態方程式の発見(1662~1802)

2020-10-08 16:34:19 | Weblog
221『自然と人間の歴史・世界篇』気体の状態方程式の発見(1662~1802)

 1662年、イギリスの化学者ロバート・ボイル(1627~1697)は、閉じ込められた気体の圧力Pと体積Vとの間にPV=一定との関係があることを発見する。これに続いての1787年、今度はフランスの学者ジャック・シャルル(1746~1823)が、「酸素、窒素、水素などの気体の体積は、摂氏0(ゼロ)度から80度の間で直線的に変化することを発見する。

 これを、前記のボイルの業績と連動させて、「ボイル・シャルルの法則」と呼ぶ向きがある。ところが、彼は学会とは距離を置いていて、この研究成果を学会で発表しなかったという。

 そして迎えた1802年、フランスのゲイ・リュサックは、シャルルが見出していた気体と温度との関係を、自前の実験装置を用いて定量的に示すのに成功する。具体的には、空気、水素などを用いた気体の体積の増減を繰り返すことで、その「気体の体積は一定圧力のもとでは摂氏1度の温度上昇によって、摂氏0度の体積の273分の1度ずつ増加する」といい、これを「リューサックの第一法則」と呼ぶ。

 これに触発されたのがイギリスの物理学者のトムソン(のちのケルビン卿(きょう)、1824~1907)であって、1848年、かかる温度をゼロとする新しい温度目盛り(絶対温度T)を提唱する。さらにオランダの化学者ファント・ホッフ(1812~1911)は、1モルの気体に対する一定量をR(気体定数)とし、n(エヌ)モルの気体に当てはめたときの関係式PV=nR0T(エヌアールゼロティー)を提案する。現代化学ではこれを「理想気体の状態方程式」と呼ぶ。


 なお、この「モル数」で表現した気体の状態方程式、PV = nR0T の導出としては、まずは、1モルの気体は、標準状態、すなわち0℃、1気圧( 1.013×105Pa)において、22.4リットルを占めており、この事実の説明から始めよう。

 言い換えると、このアボガドロの法則によると、同一温度、同一圧力、同一体積のすべての種類の気体には同じ個数の分子が含まれる、

 これは、イタリアの化学者アボガドロ(1776~1856)が発見したもの。その名前は、アボガドロの死後の1860年に開催された世界初の化学者国際会議で、彼の功績を記念して付与された。ちなみに、アボガドロは、「酸素や水素などは原子で存在するのではなく、二つの原子から成り立つ分子として存在する」ことも提唱した。

 それでは、その個数はいったい幾らなのたというと、くどくなるが、0℃、1atm、22.4リットルの中に 約602000000000000000000000個 というのだから、いかに多いかおわかりいただけよう。短く書くと、 6.02×10の23乗個 だ。

 さらに便利な表現で、短く書くと 、上記の関係を用いて1mol(いちもる)と表現でき、この個数をアボガドロ定数といい、記号で表すときは 「NA 」が便利。しかして、A = 6.02×10の23乗 /mol 。
 そこで、これを状態方程式に代入すると、こうなる。
R0 = PV/nT = (1.013×105×22.4) /( 1×273)
  = 8.31*103 [(Pa・L)/(K・mol)]
  = 8.31 [J/(K・mol)]
 なお、R0 は一般気体定数と呼ばれ、気体の種類に依存しない定数となっている。


(続く)
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♦️931『自然と人間の歴史・世界篇』中国産出の半導体(2020)

2020-10-06 19:15:11 | Weblog
931『自然と人間の歴史・世界篇』中国産出の半導体(2020)


 2020年のはや半ば、中国企業が独自開発した初のDRAMチップが市場に登場した、という。そのニュースが世界を駆け巡ったのか、どうか。それというのは、長鑫(ちょうきん)存儲技術(ChangXin Memory Technologies(CXMT)、合肥市、
以下、「CXMT」という)製のDRAM(ダイナミックラム、(注))チップを搭載したパソコン向けのメモリー・モジュールを、江波龍電子(以下、「ロングシス」という)や嘉合勁威(POWEV)などの大手モジュール・メーカーが発売した、というのだ。

(注)ここに「DRAM」とは「Dynamic Random Access Memory(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリー)」の略で、記憶内容を定期的に書き直すことが求められる揮発性メモリのこと。

 ロングシスが出したのは、CXMTのチップを採用した容量8ギガバイトと16ギガバイトのDDR4型DRAMモジュール3種類にして、その際、「製造技術は国際的な水準に達している」と胸を張ったようだ。

 そこで、、CXMTについて、少しなりとも触れておこう。そのパフォーマンスとしては、「第四代高速模组」として、「DDR4 模组是第四代高速模组,相较于DDR3 模组,性能和带宽显著提升,最高速率可达3200Mbps。 DDR4 模组是目前内存市场主流产品,可服务于个人电脑和服务器等传统市场,以及人工智能和物联网等新兴市场。」と「模组」ながらも、その後に「是目前内存市场主流产品」が付いていることからも、同社はこれに力を入れているように読めよう。

 ちなみに、同社の「产品特点」としては、「高容量、高带宽、种类齐全、自主开发设、原厂内存颗粒」(2020.9.22アクセス時点の同社ホームページより)との文字が並ぶ。
 これにいう「DDR4 SDRAM 」とは、半導体集積回路で構成されるDRAMの規格の一種であって、「 DDR3 SDRAM 」の次の次世代のものだ。 パソコンやサーバーでは2014年から、携帯電話では2015年から使われているという。


 これがなぜ驚くべきことかというと、世界のDRAM市場は現在、かなりいびつな寡占市場となっている。韓国のサムスン電子とSKハイニックス、それにアメリカのマイクロン・テクノロジーの3社が、それぞれ大いなる部分を握る。


 そんな中、国の威信をかけてであろうか、中国の半導体メーカーがかねてからDRAM参入の機会をうかがう。挑戦してはアメリカ政府の対中政策に阻まれるなどして、彼らは何度も失敗を繰返してきたという。

 それというのも、アメリカ政府はこの話に早くから目を尖らせていたようであり、これの例を一つ拾うとしよう。中国のDRAMメーカーである福建省晋華集成電路(Jinhua Integrated Circuit Company:JHICC)か、アメリカのマイクロンテクノロジー(Micron Technology(の台湾子会社Micron Memory Taiwan(旧Inotera)からDRAM製造技術情報を不正に入手したとして、アメリカ政府からやり玉にあげられた。

 そして迎えた2019年10月29日、アメリカ商務省は、国家安全上の理由からJHICCを輸出規制対象リストに加え、米系企業に対し同社との取引禁止を行う。それのみならず、これを仲介したとされる台湾のUMCおよび両社の従業員とともに、米国司法省から同年11月に起訴されるという、ダブルパンチを受ける。

 かくして、JHICCが、この矢継ぎ早の措置に驚いたのは、この時すでに、製造設備の工場搬入の段階に入っていたことかある。しかして、その設備の中心は、多様な半導体製造設を繋いだラインならびに高度に気密性などを制御された施設をいう。
 そういうことだから、逆にいえば、アメリカ側はその時を狙って事を起こしたのかもしれない。ともあれ、Applied Materials、Lam Research、KLAなど米国装置メーカーは、同商務省の措置を受けて、技術者をすぐに引き上げてしまう。

 UMCも、アメリカの制裁を恐れてJHICCとの協力関係を解消し、こちらも技術者らを台湾に引き上げてしまう。こうなると、同社は第1期工事だけでも約6,000億円を投資していたことから、事業継続は困難と判断し、装置立ち上げ途中のクリーンルームの電源を落とし、稼働中止に追い込まれた。


 ここで話をCXMTに戻して、そんなこんなでいみじくも、業界関係者によれば、「CXMTのチップの性能はまだサムスンなどの敵ではない」という話のようだ。

 しかして、CXMTのチップは19nm(ナノメートル、ここに「ナノ」というのは、10のマイナス9乗)のプロセス技術で製造されているが、海外勢はすでに14~16nmのプロセス技術という。

 いずれにしても、その差で結局のどころどのくらいの利益の差が出るのかが、かれらの間での国際競争力の優劣を最終的に決めるのだろう。

 なお、日本にも、最近までDRAMメーカーは存在していた。しかして、2012年2月末に、日本唯一のDRAMメーカーで、DRAM世界市場3位のエルピーダメモリが会社更生法の申請に追い込まれる、製造業としては戦後最大の負債総額4480億円がかさんでいたことで、経済産業省も「お手上げ」であったろう。

 そんな同社には前歴があって、なにしろこの事業には、莫大なカネがかかる、それなので、2009年6月末に産業活力再生特別措置法の認定を同省から受ける。それにより、日本政策投資銀行(政投銀)の増資引き受け(300億円)や、政投銀と民間銀行団の融資(約1000億円)によって梃子(てこ)入れされていた、それが約3年後にはあえなく白旗を上げるのであった。


(続く)


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◻️54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

2020-10-06 08:54:21 | Weblog
54『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・美作など北部、1873)

 ほぼ同時期の岡山、とりわけ美作ではどうであったのか。

 こちらの農民を主体とする一揆の主な原因は、徴兵や土地の地券作成から学校や公共施設の建設など、農民を中心に度重なるさまざまな負担(税や賦役など)が課せられたことにある。
 因みに、ここに「血税」というのは、兵役の義務との関わりでそう呼ばれるに至る。1872年(明治5年)、太政官告諭の「西人之を称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂なり」によるという。
 この血税一揆は、1873年(明治6年)5月25日、西西条郡貞永村(にしにしじょうぐんてえじむら、現在の苫田郡鏡野町)から起った。
 この一揆は、農民たちの明治政府への日頃の不満に火がついた格好で、2、3日のうちに美作全域に広がっていった。津山市街地においては、禄を失った旧津山藩士104人も、かれらの要求を携えて一揆に参加した。この「美作血税一揆」の参加者の数は、全体で2万人を超えていた。
 その地理的な拡がりを物語るのものに、1975年(昭和50年)に郷土の史家(井汲清と安藤靖雄)によって「明治6年北条県血税一揆略図」がある。これによると、まさしく燎原の火の如く広がった一揆だったことが読み取れる。
 この一揆の目標は、北条県当局に突き出された形であったが、その多くは県庁の権限では及ばないものが多かった。主な要求項目としては、10項目があった。
 「一、五ヶ年間、年貢米を免除すること。
一、断髪令を廃止して従前通りとすること。
一、屠牛を止めさすこと。
一、田畑へ桑、草木の植付を止めさすこと。
一、地券作成の費用は政府でもつこと。
一、耕地絵図面の費用も右に同じ。
一、徴兵制度を廃止すること。
一、「」は従前通りとすること。
一、課税金も従前通りにもどすこと。」
 とりわけ西部の一揆勢は、5月27日には津山市の西寺町の愛染寺に到達したし、東部の一揆勢は30日、川辺から兼田橋(旧)を渡った。そこから出雲街道沿いを、津山城下の西の玄関口として城西(じょうさい)地区のうねうね、かくかくした狭い通りを見据えつつ、津山市街に入ろうとしていた。明治政府の方からは、大阪鎮台から政府軍が出兵して、大砲や鉄砲で一揆を鎮圧しようとした。双方の武力の差は歴然としており、明けて6月2日には、さしもの激しい一揆も武力で鎮圧された。
 この事件で処罰された者の数は、美作ではそれまでにない大規模なものだった。死刑に書せられた者15人、牢につながれた者28人、むちたたきにされた者553人、罰金刑になった者は2万6千余人に及ぶ。なお、士族の参加者については、記録にありながら、その責任は問われなかった。
 これらのうち罰金については、つぎのように説明されている。
 「罰金は参加者全員に、一人あたり2円25銭でした。この金額は米一石のねだんです。当時の百姓の日当(賃金)が米一升の時代でしたから、百日分の日当は農民にとってそれはそれは大変な大金でした。 金策に困りはて、田畑を抵当に入れて高利貸から借金する者など、貧しい農民のくらしをさらに苦しめました。集めた罰金は6万5千円、いまのお金にすれば十数億円という莫大なものでした。」(美作の歴史を知る会編「おかいこさまと自由民権」みまさかの歴史絵物語(9)、1993年3月刊)
 この北條県一帯の一揆には、勝北郡(しょうぼくぐん)からもかなりの人数が参加していた。而(しか)して、彼らは、新野東、新野西、山形、広戸からの一揆勢の大方は妙原(みょうばら)・津川原(つがわはら)方面へと進出した。一方、勝北郡への一揆勢の進出としては、梶並川周辺(勝田郡勝田町、勝田郡勝央町及び英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡間町)からのものと、吉野川周辺(英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡作東町及び英田郡大原町(現在は美作市))からのものと、大まかに二つの流れがあった。
 ここで梶並川とは、吉井川水系に属する吉野川の支流である。その源流は、鳥取県境の勝田郡勝田町右手峠(標高633メートル)辺りで、そこから南に30.8キロメートルを下って、英田郡美作町林野付近で吉野川に合流している。それでも、年を重ねるうち、新野西下の世帯数と村人は増加した。
 「東作誌」によると、江戸末期には「村高のうち新田191石余、毛付高444石(1石は0.18キロリットル)余、家数47・人数199、山林27か所で2町の運上金1匁(もんめ、現在1匁は3.75グラム)余、井堰は広戸川筋3、田柄川筋7、溜池3」であった。それが、1889年(明治24年)になると、「戸数63、人口は男168・女148」になった(角川書店『全国地名辞典』)。

 かかる「血税一揆(騒動)」に関して、当時の記録「美作騒擾記」の記述には、こうある。
 「群衆は、これ(捕らえた民)を加茂川の辺なる火葬場の傍なる一陣の内に押し入れ、最初に半之丞(被害者の名前)を引き出し、これを水溜の中に突き落とし、悲鳴を挙ぐるを用捨なく、槍にて芋刺しに串貫ぬき、かつ石を投げつけてこれを殺したり。
 それにより順次に同一方法を用いて5人を殺し、最後の6人目なる松田治三郎に至るや、隙を見て逃亡せんとし、今一歩にて加茂川に飛びいらんとするところを、後より石を擶(う)ち、これを惨殺せり。
    猛り切ったる群衆は、猶これにあきたらず、同民の家に火を放ち、半之丞の居宅ならびに土蔵三棟、納屋一棟を焼き払いたるを手初めに、火はしだいに次から次へ焼き移り、遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ、また悲鳴を挙げて逃げ迷う老少婦女を捕へて、背に藁束(わらたば)を縛し、これに火を放ちて焼死せしむるなど、すこぶる残惨を極めたり。」(「美作騒擾記)
 また、より身近に身をおいて、かかる騒動を垣間見ていた片山潜は、現在の久米郡久米南町にも一揆勢が及んでいたことを、次のように紹介している。
 「この暴動について記憶に残っていることを書いてみよう。家の真向かいにある高札場に農民の一群が現れたのは朝まだはやくであった。手に斧か鍬、竹槍をもち、ひじょうに不穏なようすであった。「ほかのものはどこだ?」と彼らはさけんだ。「みなもう弓削(ゆげ)に行った。」と曾祖父が大声でこたえた。農民たちはまたたくまに高札場を打ちこわし、武器をふり回し、どなりながら、私の家のそばを走っていった。明け方、すべての健康な男は村から姿を消した。子供と老人だけがのこった。近くの家でも一揆のものたちの食糧をつくっていた。しばらくすると、南の山の上が赤くなった。巨大な焔(はのお)が空にたちのぼった。ときどき、群衆の叫びがきこえた。「金持の鏡の家を焼いているのだ。」と村ではいっていた。(中略)
 一揆の要求は、新法令の撤廃、兵役義務の廃止、新暦の廃止、学校の閉鎖などであった。暴動に大きな役割を演じたのは、その年の凶作であった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)
 
 かくて、この一揆の参加者の総数は数万人と言われ、焼いた家は277戸、破壊した家は155戸、殺したのは20人という有り様であって、前代未聞の規模であった。

 元々、この一揆の性格については、なかなかにして捉えることが難しい、と言われてきた。それというのも、当時の農民たちは様々な抑圧の中におかれていた。ところが、その農民一揆のそもそもの旗印である要求項目の中には、驚いたことに、様々な抑圧からの解放ばかりでなく、封建制の残滓への執着、わけても民への敵愾心(てきがいしん)が見え隠れしているではないか。
 やがて一揆が広がるにつれて、明治政府による人民への差別と分断への反撃というよりは、被差別に対する集中攻撃など、立ち上がった民衆のエネルギーの一部が旧体制の温存志向となって噴出していったことにある。美作に生まれ、その生涯を解放に捧げた岡映(おかあきら)は、そんな一揆の傾向を次のようにまとめている。
 「(前略)だから、この一揆が起きたときに、やはり「エタが来る、エタが押し寄せて来る。先手を打とう。」というようなことはあり得ただろう。最初の和田村の襲撃などはそこからきていて、あとはもう、彼等自身がとどめようがなくなったくらい暴れ回った、といってもさしつかえないんじゃないか、ということを思うのであります。
 しかし、いずれにしても幕府のとった分断政策というものがこうして悲劇を残すに至ったということは、残念ながら、私ども美作の解放運動史、あるいは農民一揆史を考える場合、これを避けてとおるわけにはいかないんじゃないか、否、むしろそれにまともにぶつかるなかで、差別という思想がどこから出ているのかということを考えてみる必要がある。」(岡映「美作血税一揆から何を学ぶか」:美作問題研究会「美作血税一揆〈資料・研究〉上」1975より引用)

 かくも激しい騒動であったのだが、近隣の地域もほぼ同じ問題を抱えていたのであろうか、有名なところでは、1873年6月19日から23日にかけて伯耆国(ほうきのくに)会見(あいみ)郡の一揆においては、終身刑1人を含む約1万2000人が処罰される。
 また、同月27日から7月6日にかけて名東(みょうどう)県(讃岐国(さぬきのくに)、現在の香川県)、豊田(とよた)内の、三野(みの)、多度(たど)、那珂(なか)、阿野(あの)、鵜足(うたり)、香川7郡において農民による一揆が起き、死刑7人を含む約2万人が処罰されたと伝わる。

(続く)

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○新923『世界の歴史と世界市民』新型コロナとの闘い(韓国、フィリピン、インド)

2020-10-05 22:11:18 | Weblog
新923『世界の歴史と世界市民』新型コロナとの闘い(韓国、フィリピン、インド)

【韓国】

○2020年4月までに、韓国では、新型コロナウイルスの第一波を封じ込めた。しかし、5月、その韓国で感染がぶり返している。これを封じ込めるため、当局は約2週間で約4万6千件という徹底した検査とIT(情報技術)を駆使した防疫を行っている。
 難しいのは、気の緩みの一方、感染の舞台が性的少数者(LGBT)が集うクラブだったことで、人権への配慮という課題も浮き彫りになった。ITを駆使した韓国の対策は、プライバシー保護という面では、中国や台湾などの取組みに似て、人権への配慮が課題だとされる。


○5月15には、新型コロナウイルスに感染したソウル拘置所の刑務官が、同僚や被告などおよそ280人と接触していたことが判明した。このため、ソウルの裁判所の一部が消毒作業のため閉鎖され、公判が中止される事態となった。
 
○5月22日での話として、インドの農村部では、流通が滞り、農産物を廃棄する事態が起きている。
 
○5月22日での話として、故郷を目指せす出稼ぎ労働者がムンバイなどの駅に押し寄せ、混乱がおきている。若者が多い。
 


(続く)


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【フィリピン】

○4月1日のフィリピンのドゥテルテ大統領の発言として、こうある。
 「警察と軍への指示は、もし彼らが反撃してきて命の危険があるなら、射殺しても構わないということだ。」
 この日には、マニラ首都圏で生活困窮者らが食料援助を求めて抗議集会を開催していたことから、21人が逮捕された模様だ。


○5月12日、国営テレビで放送された新型コロナ対策会議で、ロックダウン措置の延長に言及したが、具体的にどの地域が対象になるかや延長の期間については触れなかった。
 その後、ローク報道官が、延長期間と地域を確認した。そのなかでは、低リスクと認定された国内の大半の地域では規制が緩和される。


(続く)


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【インド】

○5月15日午後4時時点での米ジョンズ・ポプキンズ大学のデータによると、インドの確認感染者数は8万2103人、死者数は2649人だという。


○5月17日、インドについての世界保健機関(WHO)の集計が発表された。それによると、同国の確認感染者数は都市封鎖を始めた3月25日に562人だったが、17日には9万人を超えたという。感染者数で中国を超え、中東を除くアジアで最多となった。最近の新規確認の感染者数は1日あたり4千人前後に増えており、感染拡大の勢いは止まっていない。



○10月1日には、インド医学研究評議会(ICMR)が9月29日に行った新型コロナウイルスの抗体検査の結果が発表された。この検査は、全国700以上の村落や行政区に住む2万9000人余りを対象に、先月中旬から今月中旬にかけて実施されたもので、10歳以上の住民の約15人に1人が陽性反応を示したという。
 これを、インド政府が最新の国勢調査(2011)の結果である同国10歳以上は9億6600万人余を引き合いに、このグループの15人に1人がすでに感染しているとすれば、感染者の累計は6378万人に達する計算だ。
 一方、米ジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、9月30日の時点でインド当局が発表している新型ウイルス感染者は約610万人、死者は約9万6000人ということなので、実際の感染者は公式発表の約10倍に上ることになる。
 また、この抗体検査での陽性率を地区別にみると、都市部のスラム街に住む人が15.6%、スラム以外の都市部では8.2%、農村部では4.4%とされており、これには、密集の度合いが強い都市部、その中でもスラムが感染の中心になっているのが窺えよう。


○「南部のケララ州では、新型ウイルスの感染者が爆発的に増えているのを受け、次の措置について話し合う討論会が行われました。
 州首相は、「完全なシャットダウン、封鎖をしたくないと言った上で、結婚式や葬式などの措置の規制強化、マスクの着用やソーシャルディスタンスなどの指針に対する監視を、より効率的に実現する」と述べました。」(10月1日のNHKのBS放送「国際ニュース」から)

続く)


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