□165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

2019-01-29 21:22:01 | Weblog

165『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)

 江戸時代の享保年間には、西日本でも凶作による飢饉が相次いでいたという。そうした中で、大森代官として現地に赴任していた井戸平左衛門(いどへいざえもん、1672~1733)をまつった「井戸神社」(島根県太田市)内に建立されている顕彰碑(1872年設立)には、平左衛門の功績が刻銘され、その事績についての次の説明文が刻まれているとのこと。
 「時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。

 ここに「甘藷」(かんしょ)というのはサツマイモのことで、当時薩摩藩領内で栽培されていたのを伝え聞いた平左衛門が幕府に頼み込んで、種芋(100斤=約90キログラム)を手に入れたという。これより前の1731年(享保16年)に、彼は60歳にして石見国大森の代官(第19代石見銀山領代官職)に就任していた。翌年には、備中国笠岡代官を兼務するのであった。

 そして迎えた春以降において、西日本を襲ったのがウンカ発生などによる未曽有の稲など穀物の凶作に連なっていく。この時、代官の平左衛門がとったのは、様々な農民救済策であったが、その極めつけとされるのが、甘藷栽培の奨励・導入と、豊かな者から募った資金で米を買って配給し、また陣屋の蔵を開く、年貢の減免などでの緊急救済であったと伝わる。その効果がいかばかりであったかは、彼の支配地内での餓死者がいなかったことで広く地域の人々に伝わる。

 ところが、翌1733年(享保18年)には、仕事先の備中笠岡の地で死んだという。これには、幕府の許可を得ないで蔵を開いたことで責任を取らされての自刃説と、病死の説とが拮抗しているようだが、確かなところは今日までわかっていないようなのだ。

 その彼は武蔵野国の下級武士の家に生まれ、それから後に生家の事情によるのであろうか、井戸正和の養子に入る。1692年(元禄5年)には21歳で井戸家の家督を引き継ぎ、小普請組に属する。1697年(元禄10年)になると、表火番といって、江戸城内において火災の防御に当たる役職となる。その5年後には、一転、勘定役に昇進する。

 以来、30年ほどはその職に在ったという。この間の1721年(享保6年)には、日ごろの勤勉をたたえられ黄金2枚を贈られたとのこと。と、ここまでは、「まずは、めでたし」ということであったのだろう。

 その実直な仕事ぶりから、今度は60歳という、当時としては高齢にもかかわらず、石見代官に任命され、政務に励む毎日に没頭するのであった。まさに、第二の人生ともいうべき大仕事がここに始まった。

 「井戸平左衛門は幕臣である。享保16年(1731)、60歳で石見国大森代官となった。翌年、備中国笠岡代官が病没したため、笠岡代官も兼務することになる。
 このころ、西日本一帯は雨やイナゴの大発生によって大飢饉となっていた。


 およそ彼の生涯はこのような次第にて、相当に異色の経歴であったのだが、特段の書き物などを残していない分、一人その赴任地での代官にとどまらず、それを起点に稀代の名代官として、方々の地にて額に汗して働く人々の方々に顕著な影響を及ぼしたことでは、日本歴代の「大人物」の列に悠々加えない訳にはゆかないであろう。

(続く)

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◻️116『岡山の今昔』江戸初期の農政(岡山藩)

2019-01-28 22:49:51 | Weblog

116『岡山(備前・備中・美作)の今昔』江戸初期の農政(岡山藩)

 さて、江戸初期の岡山藩の財政状況を物語るものとして、1654年(承応3年でのものが、こう伝わる。

 まずは、収入として、米88,200石。これに対する支出としては、二つの小計が紹介されている。その一つには、家臣への知行・扶持(ふち)方および国元賄費用として米87,299石。場内への詰米が10,000石。その他諸費用米として6,718石。これらの小計は、104,017石となっている。

   その二つ目には、切米扶持方不足として銀867貫匁(かんもんめ)。江戸在府・参勤入用として銀900貫匁。国中飢人扶持方のために銀400貫匁。惣侍への足し米として銀1,350貫匁。その他諸費用として銀800貫匁。こちらの小計は、銀4,317貫匁。

 これにあるのは、ネット(当年)の藩としての大幅赤字ということなのだが、それはかなり前から始まっていたらしい。そこで、岡山藩はかかる著しい財政難から逃れるべく、いろいろと策をめぐらすのであった。

 一つは、1654年(承応3年)の売り田地買もどし令。次いで、その効果がなかったということになって出したのが売り田地取もどし令であった。後者の含意するところは、「入国以後、借物方に取り候田地、買い主久々作り候て元利共に徳取り返し候義に候間、売主へ只今返し申すべく候事」といって、それぞれの土地を獲得してからもう年月も久しい。

だから、その土地を元の売り主に戻せというのである。さらに、今後は、田地は3年季売りとせよ。そして、3年たって田地を売った者が買い戻せなかった場合は、さらに3年間買った者が耕作をなすことで、6年後には売り主に戻すべしというのだ。

(続く)

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□164『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、熊沢蕃山)

2019-01-28 11:32:57 | Weblog

164『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(17~18世紀、熊沢蕃山)

 熊沢蕃山(くまざわばんざん、1619~1691)は、京都の生まれ。のちには、陽明学の大家となる。その中でも、実社会の営みを重視することで、実学をよくした。自ら付けた名が伯継、字を了介という。今に伝わる蕃山の名は、彼が備前国蕃山(しげやま)村(現在の備前市)に隠退した時に、「蕃山了介」と号したのに由来しよう。

 1634年(寛永12年)には、岡山藩主の池田光政に仕える。その後の1641年(寛永18年)、20歳の時には同藩を離れ、当時の陽明学の長、中江藤樹に弟子入りして、陽明学(ようめいがく)を学ぶ。「遊学の志」といったところか。

 1644年(正保元年)の27歳の時、再び岡山藩主池田光政に招かれ、彼に仕えて、政治全般にわたり相談役を務める。この二人の精神的な間柄については、大まかには儒者であったから、君臣互いに意気投合したのかもしれない。

 その中でも、治水・治山による農業政策に精通していたらしい。1655年(明暦元年)には光政に治山治水に励むべきことを進言し、了解をとりつける。その頃すでに多くはげ山になっていた岡山周辺にて、藩の費用で植林や砂防工事を指揮したので有名だ。その翌年には、藩内の地盤の緩いところに松を植える事業を指導したのだという。

 これらを含め米の増産などを進める傍ら、3千石の破格の待遇にて岡山藩の財政立て直しに寄与する。藩の宗教政策や教育についても、熱心に立ち回る。1657年(明暦3年)の39歳の時には、隠退して和気郡蕃山村に引っ込む。

 やがて京都に出向いてからは、主として広い世間を相手に著述や教育をよくしていく。権威や伝統にはばかることなく、事を論じる風があったみたいだ。そんな姿勢を権力側から咎められたのであろうか。1669年(寛文9年)には、幕府の命令で明石藩に預けられる。

 1686年(貞享3年)には「集義外書」を記した。この書は、山林の荒廃するのは、製塩 や製陶、仏教建築のラッシュによる森林資源の収奪などがあるといい、物議をかもしたようだ。また、「大学或問(だいがくわくもん)」を著わす。それには、こう語られる。

 「曰く、身よりして家、家よりして国、国よりして天下、均しく己を推して人に及ぼすの事爲り。而るに傳の之を釋く所以の者、一事おのずから一說と爲し、相通ずること能わざる者有るが若きは、何ぞや。

 曰く、此れ勢いの遠邇、事の先後を以て、施す所同じからざること有るのみ。實は異事有るに非ず。蓋し必ず物に接わるに審らかに、好惡偏ならずして、然して後に以て倫理を正し、恩義を篤くして、其の家を齊うること有り。其の家已に齊えり、事皆法るべくして、然して後に以て標準を立て胥[あ]い敎誨して、其の國を治むること有り。

 其の國已に治まり、民興起することを知りて、然して後に以て己を推して物を度り、此をあげて彼に加えて、天下を平らかにすべし。此れ其の遠近先後を以て施し同じからざること有る者なり。然るに國より以上は、則ち内に治むる者嚴密にして精詳、國より以下は、則ち外に治むる者廣博にして周徧、亦其の本末實に一物、首尾實に一身なることを見るべし。何ぞ名づけて異說とせんや。」

 そうして政治に当たる者の心得、参勤交代や兵農分離策、さらにかねてからの山林の重要性(主として治山治水の観点から)などについても論及したため、続いての1687年(貞享4年)には、下総国(しもうさのくに)の古河(ふるかわ)に移される。幕府の命によって古河藩にお預けの身となる。同城下に幽閉されたのちは、監視される身ということで制約があったものの、くじけなかった。幕府としては、歯に衣を着せない、毅然とした彼の物言いに、このような思想が世間に広まることに恐怖を覚えたのかもしれない。

 思い起こせば、人一倍、世間の有り様、行く末への思い入れがあったのであろうが、反面ではなしうることはなしたという思いであったのかもしれない。1719年(元禄4年)に没し、城外大堤の鮭延寺に葬られた。その治績の最たるものは、やはり、当時の武士階級が兵農分離したことで経済的な破綻をきたし、そのため農民や町人を大事にしなかった、そのことの不当性を喝破したことにあろう。

(続く)

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○○187の2『自然と人間の歴史・日本篇』天草の農民一揆(1637~1638)

2019-01-03 20:40:26 | Weblog

187の2『自然と人間の歴史・日本篇』天草の農民一揆(1637~1638)

 

 まずは、作家・小山勝清の宮本武蔵を取り扱った小説には、天草の地について、こんな注釈がもうけてある。

 「天草はキリシタンの島であった。もともと、この地は天草五家といって、天草、大矢野、志岐(しぎ)、上津浦、栖本(すもと)の五家が分割統治していたが、いずれもキリシタンの支持者だった。秀吉時代、宇土城主、小西行長が、熊本の加藤清正の援兵をうけて攻めほろぼしたが、小西も、熱心なキリシタンだった。

 と、いうわけで、天草には、早くから宣教師が入り込んで、各地に会堂をたて、学林を設け、少年のための学園などもつくって、長崎、島原とならんで、日本ようなのだが、ヤソ教の中心地となった。

 なお、天正年間、ポルトガルから活字印刷機が輸入され、天草学林にすえつけられるにおよんで、果然天草は日本におけるキリシタン文化移入の重要基地となったのである。

 けだし天草のヤソ教は、この間が黄金時代であって、小西行長がほろび、ヤソ教嫌いの清正の所領となり、ついで唐津の寺沢氏が支配するようになって、しだいに衰えはじめ、会堂も、上津浦の二か所に減じていた。この年、慶応17年3月、徳川幕府は、まず京都の天守会堂をこぼち、禁教の決意を固め、内意はすでに寺沢氏にも下っていたが、衰えたといっても、それは表面だけで、その実勢力は強大、番台の高畑忠兵衛も、うかつに手をつけることができなかった。」(小山勝清「それからの武蔵」集英社文庫)

 これに述べてあるのは、島原の乱がおこりし原因の一つが、かの地の住人のキリシタンとしての意思表示にあることを暗示しているように感じられてならない。しかし、ほかの要因に言及が見当たらないことからすると、かかる大乱が圧政に苦しむ農民の一揆として起こった側面は際立ってこないと思うのだが。

(続く)

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