新19◻️◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓と上相遺跡、鍛冶屋さこ遺跡

2021-06-29 21:39:43 | Weblog
新19◻️◻️10の2『岡山の今昔』楯築墳丘墓と宮山墳丘墓と上相遺跡、鍛冶屋さこ遺跡

 まずは、前提として、墳丘墓の埴輪との関係に、少し触れておこう。
そこで埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。
 ちなみに、楯築(たてつき)遺跡(現在の倉敷市、足守川を越えたあたりで南に見える弥生時代の墓)から出土している「楯築」は、ここでいう埴輪の先祖だと考えられている。

 この辺りで出土している、最も古い時代の埴輪は、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。
  元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。 

 だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。

 というのは、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。

 「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)

 それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
 とはいえ、これは、あくまで伝説で、4世紀には人物埴輪はつくられなくなったという。
 

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 さて、本題に入って、楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。

 「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)

 この指摘にもあるように、弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。
 これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。
 そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。


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(補足)

 楯築墳丘墓

 楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ、倉敷市矢坂)については、日本でこの地が特に有名だ。はじめに、考古学者による大まかな説明から、ここでは一例を紹介してしたい。
 「出雲市西谷(にしだに)の巨大な四隅突出型の墳丘墓が出雲の王で、それに対してライバルの吉備の王の墓が、楯築(たてつき)墳丘墓だというわけです。楯築墳丘墓測量図のように、日本最大の墳丘墓です。形は円形ですが、北東と南西にそれぞれ突出部が取りついています。(中略)出土する遺物は、特殊器台で、その上に壺が載りますが、先ほどの都月坂(とつきざか)第二号墳丘墓と同じような弥生時代終末期の土器です。とくに墳墓に埋葬した祭り用の器台と壺のセットということです。」(西谷正「魏志倭人伝の考古学」2009)

 これにもあるように、弥生時代も後期になると、墳丘墓と呼ばれる一般の墓とは隔絶した形の、「墳丘墓」と呼ばれるものが現れる。
 これの特徴としては、中央が円丘で、両サイドに突出部を持つ。墳丘上には、5個の巨石が配置され、まるで「ストーンサークル」を構成しているかのよう。それに、円丘と突出部には、整然とした石の配置がみられる。なお、両サイドの突出部の片方を取り除くと、前方後円墳の形に近くなろう。
 そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。

 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。


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 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
 「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」
 ここに「宮山墳墓群」というのは、指定史跡の名前であって、宮山弥生墳丘墓と三輪山古墳群から成る。


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 それから、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
 こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
 これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。


(続く)

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💗○○○(日本史・目次1/5~5/5)『自然と人間の歴史・日本篇』(2021.10.6)、1~673)

2021-06-29 17:51:42 | Weblog
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○○(日本史・目次1/5~5/5)『自然と人間の歴史・日本篇』(2021.10.6)、1~673)
 
 
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○○(日本史・目次1/5)『日本の歴史と日本人』(2021.6.28)、1~164)
 
 読者の皆様へ。項目・題名だけで、まだ中身のないもの、工事中のものが沢山あります。全てが、未完成です。項目・題名は、これからさらに追加していきます。
 書き直しや加筆は予告なく、随時行います。その都度、本目次に記していきます。皆様には、色々とご不便をおかけしますが何卒、よろしくお願いいたします。
 なお、誤字や脱字なども沢山あって、ご迷惑をおかけしております。誤りに気がついた時は、直すようにしておりますが、分量が多いので間に合いません。鋭意、修正などに取り組んでいきますので、よろしくお願いいたします。
 
 
(1)日本列島の形成と変化(土台の形成)
(2)日本列島の形成と変化(陸化)
(3)日本列島の形成と変化(~中生代白亜紀)
(4)日本列島の形成と変化(新生代へ)
(5)日本列島の形成と変化(大陸からの分離、2000~1700万年前)
(6)新生代の日本列島(1700~1500万年前)
(7)新生代の日本列島(1500万~533.3万年前)
(8)新生代の日本列島(533.3~258万年前)
(8)258~150万年前
(10)150万年前~3万8000年前(日本海拡大)
(11)3万8000年前~3万年前
(12)3万年前~1万1700年前
(13)1万1700年前~
(14)神々の時代(列島創造伝説)
(15)アルプス、富士山の形成
(16)神々の時代(陸から海などへ)
(17)石器時代(概要)
(18)石器時代(最初の石器使用)
(19)石器時代(石器の発達)
(20)石器時代
(21)縄文時代
(22)縄文人のDNA(ミトコンドリアと核)
(23)縄文人のDNA(富山、福島、鳥取)
(24)稲作の伝搬
(25)縄文式土器
(26)縄文式土器から見る縄文人の生活
(27)検討中
(28)検討中
(29)弥生人と国
(30)縄文時代の定住生活
(31)縄文時代の文化
(32)弥生時代(定住生活と農耕)
(33)弥生人のルーツを巡って
(34)日本語の成立
(35)古代日本語と漢字の伝来
(36)弥生時代の文化
(37)弥生人と住居
(38)古墳時代(4世紀後半頃~6世紀半ば頃)
(39)弥生時代の農業遺跡
(40)縄文・弥生時代の人口
(41)『魏志倭人伝』に見る倭(初期国家の形)
(42)『魏志倭人伝』に見る倭(倭の大乱)
(43)『魏志倭人伝』に見る倭(政治と外交)
(44)『魏志倭人伝』に見る倭(風俗と習慣)
(45)漢からの印
(46)邪馬台国の所在を巡って
(47)考古学から見る3世紀の倭
(48)3、4世紀の大陸と倭
(49)倭の五王の時代
(50)遺跡から見る倭の五王
(51)倭の五王をめぐる諸説
(52)倭と中国と朝鮮(好太王など)
(53)倭と中国と朝鮮(七支刀など)
(54)倭の疾風怒濤
(55)吉備国と出雲国の併呑(出雲)
(56)吉備国と出雲国の併呑(吉備)
(57)飛鳥への道
(58)世界遺産登録古墳の謎
(59).検討中
(60)検討中
(61)聖徳太子とその政策
(62)暦の伝来
(63)仏教の伝来
(64)大和朝廷をめぐって(政治体制の確立)
(65)大和朝廷をめぐって(仏教による国造り)
(66)大和朝廷をめぐって(外交政策の確立)
(67)飛鳥へ(乙巳の変)
(68)飛鳥へ(大化改新)
(69)白村江の戦い
(70)律令政治への道
(71)律令制の成立
(72)古墳に見る飛鳥の文化
(73)土地所有の解禁
(74)「日本」の登場
(75)海外からの日本への視点
(76)ササン朝ベルシャからのガラス器(東大寺と正倉院)
(77)東大寺二月堂の修業二会(752~)
(78)飛鳥寺
(79)法隆寺
(80)東西文化の交流
(81)貨幣の鋳造と流通(奈良時代人)
(82)天平のパンデミック(8世紀)
(83)自然災害
(84)集落の発展と都市の勃興
(85)奈良の都
(86)大仏造営
(87)奈良時代の地方(九州、中国)
(88)奈良時代の地方(近畿、関東など)
(89)神話・伝承による国家形成の過程(天孫降臨への道)
(90)神話・伝承による国家形成の過程(天孫降臨とその後)
(91)奈良天平の政治(相次ぐ争乱)
(92)奈良天平の政治(対外政策)
(93)古代村落と出挙
(94).鎮護国家(大仏の造営)
(95)鎮護国家と地方(国分寺・国分尼寺の建立)
(96)鎮護国家(行基と土木事業)
(97)風土記の編纂
(98)遣唐使(その使命)
(99)遣唐使(吉備真備)
(100)遣唐使(鑑真の来日)
(101)飛鳥・白鳳・天平の仏教建築・仏像(1)
(102)飛鳥・白鳳・天平の仏教建築・仏像(2)
(103)飛鳥・白鳳・天平の民衆文化(万葉集1)
(104)飛鳥・白鳳・天平の民衆文化(万葉集2)
(105)奴隷制社会は実在したか
(106)地方政治の状況(9~10世紀)
(107)中央政治の状況(9~10世紀)
(108)奈良から平安へ
(109)承平・天慶の乱(939)
★★★
(110)天文への関心
(111)武士の登場
(112)平氏と源氏(その系譜)
(113)心の平安を求めて(天台宗)
(114)心の平安を求めて(真言宗)
(115)平安文化の中の民衆(絵巻など)
(116)平安文化の中の民衆(文学など)
(117)荘園整理令(902~1069)
(118)荘園の寄進(東寺百合文書)
(119)武家の荘園(新田荘など)
(120)中世へ(12世紀)
(121)荘園の拡大で中世へ(~10世紀、荘園整理令の結末)
(122)院政(11世紀~✴️)
(123)荘園の拡大で中世へ(~12世紀)
(124)寺社と荘園と僧兵と(10~12世紀)
(125)源氏と平氏(両雄ならび立たず)
(126)鎌倉幕府の成立(1185~1192)
(127)承久の変(1221)
(128)承久の変後の政策
(129)寛喜の飢饉など
(130)大内氏(山口)
(131)大友氏(北九州)
(132)金岡荘など
(133)割府(14世紀~)
(134)鎌倉幕府の地方支配
(135)鎌倉時代の諸産業
(136)鎌倉仏教(浄土宗、浄土真宗)
(137)鎌倉仏教(日蓮宗など)
(138)鎌倉仏教(禅宗など)
(139)鎌倉時代にかけての民衆文化(文学など)
(140)鎌倉時代にかけての民衆文化(絵画、陶芸、舞踊など)
(141)鎌倉時代にかけての民衆文化(仏教芸術)
(142)鎌倉倒幕への道
(143)元の襲来と幕府の疲弊
(144)鎌倉倒幕の崩壊
(145)建武新政
(146)室町幕府による初期政治
(147)室町幕府と守護大名
(148)室町時代の経済(産業の発達、農業、座、市、移動販売)
(149)室町時代の経済(流通と金融、問丸、土倉、選銭令)
(150)室町時代前期の内乱
(151)南北朝の統一
(152)室町時代の一揆(正長の土一揆)
(153)室町時代の一揆(播磨土一揆、加賀一向一揆)
(154)室町時代の一揆(山城の国一揆)
(155)室町期の精神風土(室町文化、猿楽から狂言へ)
(156)室町期の精神風土(2)
(157)キリスト教の伝来
(158)鉄砲の伝来
(159)室町・安土桃山の文化、日本独自の文化の形成
(160)対明、朝鮮貿易
(161)戦国大名の分国法
(162)能と連歌、足利学校
(163)一向宗(鎌倉時代~戦国時代)
(164)惣の掟(室町時代)
 
 
 
(続く)
 
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(日本史・目次2/5)『日本の歴史と日本人』(2021.10.6.28)
165~355)
 
(165)室町政治の混乱
(166)応仁の乱(1467~1478)
(167)156の2.戦国の世へ(中国地方)
(168)156の3.戦国の世へ(全国)
(169)156の4.石見銀山(16世紀)
(170)157.戦国時代(北条氏など)
(171)158.戦国時代(毛利など)
(172)159.戦国時代(薩摩など)
(173)160.織田・豊臣政権下の政治経済(織田)
(174)161.織田・豊臣政権下の政治経済(豊臣)
(175)162の1.織田政権の宗教政策
(176)162の2.豊臣政権の宗教政策
(177)163.安土桃山時代から江戸時代初期の地方(関ヶ原前)
(178)164.安土桃山時代から江戸時代初期の地方(関ヶ原後)
(179)165.江戸時代初期の武家・禁中の統制
(180)166.江戸時代初期の寺社の統制
(181)167の1.延暦寺焼き討ち(1571)
(182)167の2.伊勢長島の一向一揆(1571~1574)と石山本願寺合戦(1570~1580)
(183)168.ポルトガル船の種子島漂着と鉄砲伝来(1543)
(184)169の1.自由都市・堺
(185)169の2.ポルトガル船の長崎来航(1567)と南蛮貿易
(186)170.本能寺の変(1582)
(187)171の1の1の1.山崎の戦(1582)、清洲会議と賤ヶ岳の戦(1583)、小牧長久手の戦い(1584)
(188)171の1の1の2.豊臣政権の成立(~1590)
(189)171の2.文禄の役(1592~1596)、慶長の役(1597~1598)
(190)172.安土桃山時代の文化の妙(絵画)
(191)173.安土桃山時代の文化の妙(茶陶)
(192)174の1.関ヶ原(1600)
(193)174の2.江戸時代初期の農民政策(~1673)
(194)175.江戸時代初期~中期の対外政策(交易、糸割り府制度と朱印船貿易、海船互市新令)
(195)176.江戸期の対外政策(キリスト教の弾圧1)
(196)177.江戸期の対外政策(キリスト教の弾圧2)
(197)178.江戸期の資本家(大商人の成長)
(198)179.江戸期の資本家(2)
(199)180.江戸時代初期の民衆の生活(1)
(200)181.江戸時代初期の民衆の生活(2)
(201)182.外国人が見た江戸時代初期の日本(1)
(202)183.外国人が見た江戸時代初期の日本(2)
(203)184.江戸時代初期の諸藩(中国地方)
(204)185.天下の台所、大坂
(205)✳️186.地方都市の繁栄(博多など)
(206)187の1.島原の乱(1637~1638)
(207)187の2.天草の農民一揆
(208)187の3.佐渡金山(17世紀~)
 
(209)187の4.石見銀山(17世紀~)
(210)188.蝦夷地など(シャクシャインの戦いなど)
(211)189.琉球王朝
(212)190.江戸時代前半期の農村・農民一揆1(美作での元禄一揆など)
(213)191.江戸時代前半期の農民一揆(山陰・坪内一揆など)
(214)192の1. 江戸初期の文化人(貝原益軒)
(215)192の2の1. 赤穂事件(1701~1703、~円山会議)
(216)192の2の2. 赤穂事件(1701~1703、円山会議~)
(217)192の2の2. 井原西鶴の世相評論
 
(218)192の3.江戸初期の文化
(219)192の4.江戸初期の文化
(220)192の5.生類あわれみの令(1687~)
(221)193.江戸時代前半期の農村・農民
(222)194.江戸時代の産業(前半期1)
(223)195.江戸時代の産業(前半期2)
(224)196.江戸の発展
(225)197.大坂の発展
(226)198.江戸時代の財政金融政策(前半期1)
(227)199.江戸時代の財政金融政策(前半期2)
(228)200の1.享保の改革(1716~1745)
(229)200の2.享保の改革の群像(大岡忠相、青木昆陽)
(230)200の3.享保の分地令()と質屋禁止令(1712)
(231)200の4.江戸時代の貨幣(初期~中期)
(232)201.18世紀の藩政改革2(米沢藩、長州藩)
(233)202.山中一揆に見る農民思想
(234)203の1.マウンダー極小期の日本
(235)203の2.享保の飢饉
(236)203の3.心学
(237)203の4.陽明学
(238)204.宝暦の飢饉
(239)205.美作元文一揆、作州農民騒動
(240)206.会津寛延一揆、播州寛延一揆
(241)207.磐城元文一揆、美濃郡上一揆(1754~1759)
(242)208.18世紀の藩政改革1(熊本藩、岡山藩)
(243)209.18世紀の藩政改革2(米沢藩、長州藩)
(244)210.18世紀の藩政改革3(備前・備中・美作)
(245)211.18世紀前半の全国で頻発する天災・飢饉
(246)212.18世紀前半の全国で頻発する天災・飢饉
(247)213.18世紀前半の全国で頻発する天災・飢饉
(248)214.田沼政治(1767~1786)
(249)215.寛政の改革
(250)216.18世紀後半の飢饉(天明の飢饉など)
(251)217.18世紀後半の諸藩の状況(福島藩天明一揆)
(252)218.19世紀後半の飢饉(天保の飢饉など)
(253)219.天保の改革
(254)220.江戸時代における民衆誌の編纂
(255)221.諸藩の全体状況(長州藩)
(256)222.諸藩の全体状況(薩摩藩)
(257)223.諸藩の状況(岡山藩、備中松山藩、佐賀藩)
(258)224.江戸中期の地方経済(備前、備中、美作)
(259)225.19世紀の諸藩の改革(佐賀藩)
(260)226の1.18世紀の諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)
(261)226の2.19世紀の諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩、佐賀藩)
(262)226の3.庄内藩の義民
(263)227.北前船、富山の薬
(264)228.江戸時代の民間宗教
(265)229.江戸時代の民間娯楽など(伊勢参り、金比羅参りなど)
(266)230.江戸時代の社会思想(1)
(267)231.江戸時代の社会思想(2)
(268)232.江戸時代の大衆文化(文学など1)
(269)233.江戸時代の大衆文化(文学など2)
(270)234の1.江戸時代の大衆文化(文学など3)
(271)234の2.江戸時代の大衆文化(短歌、俳句)
(272)234の3.江戸時代の大衆文化(文学など3)
(273)234の4.江戸奉行からの諭告(天保)
(274)234の5.江戸庶民の暮らし(天保山、弘化)
(275)234の2.江戸時代の大衆文化(彫刻、絵画など1)
(276)236の1.外国船の寄港(1750~1849)
(277)236の2.蘭学者の系譜(1750~1849)
(278)236の3.日本地図など
(279)237.海外の目に晒されて2(1750~1849、日本地図など)
(280)238.海外の目に晒されて2(1850~1867)
(281)239.種痘
(282)240.二宮金次郎
(283)241の1.最上徳内
(284)241の2川島聖あきら
 
(285)242.江戸時代の大衆文化(概略)
(286)243. 江戸時代の大衆文化(絵画、久隅守景)
(287)244. 江戸時代の大衆文化(伊藤若冲、与謝蕪村、池大雅、鈴木春信)
(288)245. 江戸時代の大衆文化(絵画、彫刻、円空、浦上玉堂)
(289)246.ペリー来航と日米和親条約(経緯)
(290)247.ペリー来航と日米和親条約(内容)
(291)248.国防論の展開
(292)249.備前の渋染一揆など
(293)250.世直し一揆
(294)251の1.備中・備前・美作の農民一揆
(295)251の2.天保の大騒動(甲斐国)
(296)251の3.三閉一揆(1847)
(297)251の4.安政大地震
(298)251の5.屋台郷騒動(米沢藩、1863)
(299)252.日米修好通商条約(経緯)
(300)253.日米修好通商条約(内容)
(301)254.通商の開始
(302)255の1.攘夷か討幕か
(303)255の2.吉田松陰
(304)255の3.薩長同盟
(305)256.幕末の攻防と封建体制の終焉
(306)258の1の1.大政奉還
(307)258の1の2.坂本竜馬の「船中八策」
(308)258の2.鳥羽伏見の戦い、江戸開城、上野の戦い
(309)258の3.江戸開城
(310)258の4.奥州と五稜郭の戦い
(311)258の5.版籍奉還(1869)
(322)259の1.廃藩置県(1871)
(323)259の2.地租改正
(324)259の3.解放令、四民平等の告諭
(325)259の4.幕末の群像
(326)260.秩禄処分
(327)261.琉球の併合
(328)262.暦の改新
(329)263の1.高まる民衆の不満(岡山の血税一揆など)
(330)263の2.佐賀の乱(1874)、萩の乱(1876)
(331)263の3.征韓論
(332)263の4.西南戦争
(333)263の5.政商と西南戦争
(334)263の6.文明開化
(335)264.秩父困民党一揆
(336)265.産業創生への道(1)
(337)266.産業創生への道(2)
(338)267.自由民権運動(1874~1884)
(339)268.自由民権運動とその評価
(340)269.学制の施行
(341)270.明治維新をどう見るか(1)
(342)271.明治維新をどう見るか(2)
(343)272.日本の第一次産業革命
(344)273.近代的金融制度へ(1)
(345)274.近代的金融制度へ(2)
(346)275の1.富国強兵へ
(347)275の1.徴兵告諭(1872)と血税一揆(1873~1874)
(348)276.財政からの梃子入れ(~1897)
(349)277.金本位制へ
(350)278.コレラの流行
(351)279.レーニンと日本
(352)280.衛生政策
(353)281.商社
(354)282.建築
(355)283.横浜港と神戸港
 
(続く)
 
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★
 
(日本史・目次3/5)『日本の歴史と日本人』(2021.6.28)、356~487)
 
(356)284.大日本帝国憲法の発布と国会開設(経緯)
(357)285の1.大日本帝国憲法の発布と国会開設(田中正造、直訴へ)
(358)285の2. 大日本帝国憲法の発布と国会開設(田中正造、直訴後)
(359)286.学制の施行
(360)287.日本の第三次産業革命
(361)288.帝国主義の扉(~日清戦争)
(362)289.帝国主義の扉(三国干渉)
(363)290.帝国主義の扉(日清戦争後)
(364)291.帝国主義の扉(日露戦争)
(365)292.帝国主義の扉(ロシア革命とシベリア派兵)
(366)293.帝国主義の扉(日韓併合へ)
(367)294.日清・日露戦争に抗した人々(自由主義者1)
(368)295.日清・日露戦争に抗した人々(自由主義者2)
(369)296.日清・日露戦争に抗した人々(社会主義者)
(370)297.第一次世界大戦前後の政治経済
(371)298.検討中
(372)299.第一次世界大戦前後の労働者の状態
(373)300.第一次世界大戦前後の農民などの状態
(374)301.第九初演(徳島)
(375)302.日本画
(376)303.「スペイン風邪」
(377)304.明治から大正へ1(1924年まで)
(378)305.明治から大正へ2(1924年まで)
(379)306の1.明治から大正へかけての文化(文学、石川啄木)
(380)306の1.明治から大正へかけての文化(文学、芥川龍之介)
(381)307.明治から大正へかけての文化(文学2)
(382)308.明治から大正へかけての文化(絵画1)
(383)309.明治から大正へかけての文化(絵画2)
(384)310.明治から大正へかけての文化(絵画3)
(385)311.陶芸、音楽など(1)
(386)312.陶芸、音楽など(2)
(387)✳️313.検討中
(388)✳️314.検討中
(389)✳️315.検討中
(390)✳️316.検討中
(391)317.大正テモクラシーとその終焉(普通選挙法)
(392)318.大正テモクラシーとその終焉(治安維持法)
(393)319.1927年金融恐慌へ
(394)320.1929年世界恐慌へ
(395)321.昭和・戦前の文化(文学、小林多喜二)
(396)322.昭和・戦前の文化(文学、宮沢賢治)
(397)323.昭和・戦前の文化(文学、絵画)
(398)324. 昭和・戦前の文化(文学、絵画)
(399)325. 昭和・戦前の文化(文学、絵画)
(400)326.昭和恐慌前後(1)
(401)327.昭和恐慌前後(2)
(402)328.放漫な金融財政への転換(高橋財政)
(403)329.1930年代の日本経済
(404)330.中国侵略へ
(405)331の1.満州事変、5.15事件と満州傀儡政権
(406)331の2.国際連盟からの脱退(1933)
(407)332.日本型ファシズムへの道(2.26事件(1936)など)
(408)333.ファシズムと戦争前夜の全国各地(都市)
(409)334.ファシズムと戦争前夜の全国各地(農村)
(410)335.ファシズムと戦争前夜の文化()
(411)336.ファシズム下の社会(滝川事件、1933)
(412)337の1.ファシズムと戦争(南京占領)
(413)337の2.徐州作戦(1938)、漢口作戦(1938)と広東占領(1938)
(414)337の3.東亜新秩序(1938)と近衛声明(第1~3次)
(415)337の4.列強の権益をめぐる対立と日本(1937~1939)
(416)338.ファシズムと戦争への突入(国家総動員へ、1938)
(417)339の1.ファシズムと戦争への突入(帝国議会での抵抗、斎藤演説)
(418)339の2.ファシズムと戦争への突入(南方への進出、1940)
(419)339の3.長沙会戦(1941)と中条山会戦(1941)
(420)340.ファシズムと戦争への突入(対米英戦争へ)
(421)341の2.対米英戦争へ(~1941)
(422)341の2.対米開戦(真珠湾攻撃、1941)
(423)342.財政金融などの総動員へ
(424)343.戦況は日本の劣勢へ(1)
(425)344.戦況は日本の劣勢へ(2)
(426)345.戦況は日本の劣勢へ(沖縄、広島、長崎)
(427)346.各地への空襲、中国大陸での日本の731部隊(細菌兵器)の活動など
(428)347の1.日本の敗戦(1945)
(429)348.戦いに命を捧げた人びと
(430)349の1.占領統治される中での積極的平和主義
(431)349の2.GHQによる人権指令(1945)
(432)350.日本国憲法第9条の制定過程(国際的枠組み)
(433)351.日本国憲法第9条の制定過程(その経緯)
(434)352.日本国憲法第9条制定時の政府解釈
(435)353.戦後の国際金融体制と日本
(436)354の1.戦後の復興に向けて(戦後インフレ)
(437)354の2.経済安定10原則
(438)355.戦後の復興に向けて(ドッジ・ライン)
(439)356.復金融資の顛末
(440)✳️357.検討中
(441)✳️358.検討中
(442)✳️359.検討中
(443)✳️360.検討中
(444)361.信教の自由
(445)✳️362.検討中
(446)363.農地改革
(447)364.財閥解体、独占禁止と過度集中力排除の政策
(448)365.朝鮮特需からの生産拡大
(449)366.平和と民主主義と基本的人権
(450)367の1.片面講和
(451)367の2.日韓基本条約
(452)368.砂川事件
(453)369.生存の権利
(454)370.高度経済成長へ(全体)
(455)371.高度経済成長へ(農業)
(456)372.高度経済成長へ(外国貿易)
(457)373.第二の黒船(電算機)
(458)374.第二の黒船(鉄鋼)
(459)375.第二の黒船(石油・石油化学)
(460)376.第二の黒船(電気機械、輸送機械)
(461)377.第二の黒船(繊維)
(462)378.第二の黒船(その他)
(463)379.戦後の民衆文化の出発(文学1)
(464)380.戦後の民衆文化の出発(文学2)
(465)381.戦後の民衆文化の出発(彫刻、絵画、書、マンガ、写真1)
(466)382.戦後の民衆文化の出発(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(467)383.戦後の民衆文化の出発(陶芸など1)
(468)384.戦後の民衆文化の出発(陶芸など2)
(469)385.戦後の民衆文化の出発(音楽、スポーツ2)
(470)386.戦後の民衆文化の出発(その他)
(471)387.所得倍増計画
(472)388.日本の第三次産業革命
(473)389.総資本対総労働(安保と三池1)
(474)390.総資本対総労働(安保と三池2)
(475)391.公害列島(大気汚染)
(476)392.公害列島(水質・土壌など)
(477)393.天然痘
(478)✳️394.検討中
(479)✳️395.検討中
(480)396.公害列島(水質土壌汚染)
(481)397.石油メジャーと日本
(482)398.教科書検定裁判
(483)399.日韓国交正常化
(484)400.検討中
(485)401.いざなぎ景気の終焉
(486)402.沖縄返還と70年安保改定
(487)403.ニクソン・ショックの衝撃
 
(続く)
 
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆
 
(日本史・目次4/5)『日本の歴史と日本人』(2021.6.28)、404~530)
 
(488)404.ニクソン・ショックと日本
(489)405.検討中
(490)406.第一次石油ショックと日本
(491)407.日中国交正常化
(492)408.1960年代の文化(文学1)
(493)409.1960年代の文化(文学2)
(494)410.1960年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真1)
(495)411.1960年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(496)412.1970年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど)
(497)413.検討中
(498)414.原発の非経済性
(499)✳️414.検討中
(500)✳️416.検討中
(501)✳️417.検討中
(502)✳️418.検討中
(503)419.ロッキード事件(1)
(504)420.ロッキード事件(2)
(505)421.1960年代の文化(文学1)
(506)422.1960年代の文化(文学2)
(507)423.1970年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真の部、田中一村)
(508)424.1970年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(509)425.1970年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど)
(510)426.第二次石油ショックと日本(1)
(511)427.第二次石油ショックと日本(2)
(512)428.新保守主義と日本
(513)429.1970年代からのコンピュータ産業の発展
(514)430.薬害エイズ
(515)431.1980年代前半の日米貿易摩擦(産業連関を含む)
(516)432.金融改革
(517)433.農業開国へ
(518)434.低成長下での公企業の民営化(1)
(519)435.低成長下での公企業の民営化(2)
(520)436.プラザ合意と日本
(521)437.プラザ合意後の円高の高進
(522)438.プラザ合意後の国際通貨調整
(523)439.ブラックマンデー(1987年10月19日)
(524)440.リクルート事件
(525)441.大型景気下でのマネーゲーム
(526)442.1980年代の日本企業の海外進出
(527)443.日米半導体摩擦
(528)444.1980年代の文化(文学1)
(529)445.1980年代の文化(文学2)
(530)446.1980年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真1)
(531)447.1980年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(532)448.1980年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど)
(533)449.対中国プロジェクト(宝山製鉄)への協力
(534)450.中国残留孤児
(535)✳️451.検討中
(536)✳️452.検討中
(537)✳️453.検討中
(538)454.~1980年代の人物往来(神谷美恵子の生きがい)
(539)455の1.非自民の連立政権へ
(540)455の2.福祉目的税
(541)456.日本社会党の変質
(542)457.小選挙区制
(543)458.所得税
(544)459.相続税
(545)460.法人税
(546)461.1990年代前半の投資過熱
(547)462.1990年代前半の経済
(548)463.1990年代前半の景気対策
(549)464.1990年代前半の証券不詳事
(550)465.1990年代の政界再編
(551)466.1990年代半ばの政治(その流れ)
(552)467.1990年代半ばの政治(社会党の平和政策の転換)
(553)468.1990年代半ばの政治(小選挙制)
(554)469.1990年代半ばの政治(植民地支配と侵略への謝罪)
(555)470.アイヌ新法
(556)471.1990年代半ばの経済
(557)472.1990年代後半の景気対策
(558)473.1990年代前半の金融破綻と金融制度改革(1)
(559)474.1990年代前半の金融破綻と金融制度改革(2)
(560)475.土地神話の崩壊
(561)476.住専処理をめぐって
(562)✳️477.検討中
(563)✳️478.検討中
(564)✳️479.検討中
(565)✳️480.検討中
(566)481.持株会社の解禁
(567)482.外為法の内外無差別化と株式手数料の自由化など
(568)483.1990年代後半の日米貿易摩擦と世界金融
(569)484.1990年代経済摩擦の構図
(570)485.1990年代後半の金融制度改革(全体的枠組み)
(571)486.1990年代後半の金融制度改革(金融再生法による処理)
(572)487.1990年代後半の金融制度改革(早期健全化法による処理)
(573)488.1980~90年代の文化(文学1)
(574)489.1980年代の文化(文学2)
(575)490.1980~90年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真1)
(576)491.1980~90年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(577)492.1980~90年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど)
(578)493.大来三郎
(579)494.大原総一郎
(580)✳️495.検討中
(581)✳️496.検討中
(582)✳️497.阪神淡路大震災
(583)498.1998年の経済
(584)499.2000~2005年の政治
(585)500.2000~2005年の経済
(586)501.郵政民営化
(587)502.日本国憲法と天皇制
(588)503.2000~2005年の金融制度改革
(589)504.元号と国歌と日本文化
(590)505.「税と社会保障の一体改革」をめぐって
(591)506.2009年度税制改革
(592)507.福島原発の経緯
(593)508.常任理事国への道はるか(1)
(594)509.常任理事国への道はるか(2)
(595)510.2000~2010年代の文化(文学1)
(596)511.2000~2010年代の文化(文学2)
(597)512.2000~2010年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真1)
(598)513.2000~2010年代の文化(彫刻、絵画、書、マンガ、写真2)
(599)514.2000~2010年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど1)
(600)515.2000~2010年代の文化(陶芸、音楽、スポーツなど2)
(601)516.特定機密保護法
(602)517.東日本大震災と福島原発(経過と現状)
(603)518.東日本大震災と福島原発(核廃棄物の処理)
(604)519の1.東日本大震災と福島原発(原発の経済性)
(605)519の2.汚染水の処理(~2018)
(606)519の3.東日本大震災とエネルギー源
(607)519の4.地球温暖化と日本
(608)519の5.使用済み核燃料の再処理をめぐって
(609)520.あおられる領土問題
(610)521.日本に徴兵制はあるか
(611)522.安保法制の舞台裏
(612)523.安保法制と日本周辺国との緊張激化
(613)524.安保法制と自衛隊
(614)525.防衛費と献金
(615)526.核軍縮の光と闇
(616)527.金融緩和
(617)528.金融緩和の修正
(618)529.経済指標(2013~2014)
(619)530.経済指標(2015~2018)
 
(続く)
 
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★
 
(日本史・目次5/5)『日本の歴史と日本人』(2021.6.28)、620~673)
 
(620)531.日本のコンピュータ産業の黄昏
(621)532.広がる経済格差(2015)
(623)533.広がる経済格差(統計データから)
(624)534.広がる教育格差
(625)535の1.長時間労働
(626)535の2.低賃金
(627)535の3.過労死
(628)536.動き出した憲法改正
(629)537の1.日本とロシアの経済協力1
(630)537の2. 日本とロシアの経済協力2
(631)538.円キャリー取引など
(632)539の1.日本への強制連行と拉致
(633)539の2.今、なぜ消費税増税なのか  
(634)539の3.消費税増税(2019.10)のあらまし
(635)539の4の1.政府(自民党と公明党)の増税方針
(636)539の4の2.消費税増税(2019.10の問題点、派遣労働)
(637)539の5.消費税増税の賛否、諸説の紹介(条件付与論)
(638)539の6.消費税増税の賛否、諸説の紹介(反対論)
(639)539の7.非正規労働者など低所得者の消費税負担
(640)539の8.消費税増税の根拠が崩壊か(実質賃金なマイナス拡大)
(641)539の9.財政赤字の現状と見通し
(642)539の10の1.消費税増税への対案はあるか(予算均衡定理、前半)
(643)539の10の2.消費税増税への対案はあるか(予算均衡定理、後半)
(644)539の11.消費税増税と日本の対外資産
(645)539の12.消費税増税への各界の動き
(646)539の13.消費税増税と国民負担率
(647)539の14.消費税とインボイス
(648)539の15.消費税と所得税
(649)539の16.消費税と相続税
(650)539の17.消費税と法人税
(651)539の18.消費税と社会保障給付の現状(2018年度)
(652)539の19.消費税増税回避のための財源(防衛費用さ、公共事業費)
(653)539の20.消費税の特例としての輸出免税
(654)539の21.消費税の行方
(655)540.日朝平壌宣言
(656)541.日本から北朝鮮への拉致問題(2014)
(657)542.カジノ解禁法
(658)543.共謀罪
(659)544.南北共同宣言と日本
(660)545.対外純資産が世界一
(661)546.原発の経済性と環境性をめぐって
(662)547.消費税引き上げ論議
(663)548.雇用と賃金
(664)549.半導体産業
 
(665)550.日本学術会議6人に対する政府の任命拒否
 
(666)551の1の1.ベーシックインカム(そのあらまし)
(667)551の1の2.ベーシックインカム(その形態)
(668)551の2.ベーシックインカム(考えられるそのメリット) 
(669)551の3.ベーシックインカム(考えられるそのデメリット)
(670)551の4.ベーシックインカム(制度設計は可能か、社会保障給付を問う)
(671)551の5.ベーシックインカム(財源をめぐって)
 
(672)552.新型コロナ、日本のおける感染の経緯(2020.2~)
(673)553.介護保険制度(2021)
 
(続く)
 
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新243◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島・船穂エリア)

2021-06-27 21:17:19 | Weblog
新243◻️『岡山の今昔』倉敷(玉島・船穂エリア)

 その昔、玉島・船穂エリアの辺りの大方は、浅海であったろう。景観よろしく、かつて瀬戸内海に点在する小さな島々であったことが、各種史料などから読み取れよう。
 それが、江戸時代になると、備中松山藩が新田開発を繁く行う。ちなみに、このエリアには、干拓工事成功を祈願した羽黒神社がある。具体的には、この地に入った水谷氏(水谷勝隆、勝宗)の治世において、主なものだけでも合わせて約700町歩もの新田開発がなされた(詳しくは、森脇正之「玉島風土記」岡山文庫169、日本文教出版、1988)。


 ところで、元々この地は、海運の便利もあって、江戸時代、玉島は備中松山藩の港町として、千石クラスの船が出入りし活況を呈していた。特に元禄時代には北前船と高瀬舟の水運により、玉島は港町として大いに栄える。


 前述の羽黒神社の西側には、かつて問屋街として栄えた新町がある。かくて、瀬戸内海の浅瀬に面して、潮止堤防の上に築かれたこの町は、江戸時代の初期、この堤防上に西日本有数の港の賑わいを見せていたという。

 そんな玉島港も、元禄年間を最盛期として、衰退へ向かっていく。1702年(元禄15年)以後、天領の阿賀崎新田村の新町、備中松山藩の玉島港町、丹波亀山藩領の玉島村町分と三分割されてしまう。備中産綿花の品質にも陰りが出てくる。19世紀に入ると、西の浦、寄島の港も開かれ、綿花などの取り扱いの一部を奪われていく。

 それからはや300年余り、今では閑散ながらも、虫籠窓や格子、漆喰窓やなまこ壁を持つ本瓦葺きの商家や土蔵が数多く残されて、往時を偲ばせている。


 現在は、玉島ハーバーアイランドが建設されており、国際物流の重要拠点として整備されつつある。

 この近く、かつては酒造、醸造などの伝統の地場産業の場所柄であったところを、国際物流の重要拠点として、玉島港の沖合に造られた、その願いを込めて、総面積約245ヘクタールを誇る人口島だ。
 その後、水島国際コンテナターミナルが設けられ、ガントリークーレンが2基活躍する。また、特定重要港湾にも指定され、国際海上輸送網の拠点としても有望株だという。

🔺🔺🔺

 一方、船穂地区は、これまた、昔は海辺、もしくはその浅瀬に、多くの部分があった。それから幾歳月、この地域は、21世紀に入っての大合併の際に、倉敷市へ編入合併した。合併前の船穂町時代の大字には「船穂」それに「水江」と、水辺を思わせる地名が付いている。関連して、この辺りは元々、運河として賑わっていた地域で、現在でも水位を調整するための一ノ口水門、二ノ水門といった水門が、残る。
 近年になり、陸路による運送が発達していることで、人流も様変わりし、以降は果物の栽培などの農業で賑わうようになっている。

 通常の景色としては、丘陵の斜面にたくさんのビニールハウスが目に映る。明治時代の途中からは、ブドウが有名だ。全国の先駆けの一つでもある。最近では、スイートピーの生産でも、岡山県はスイートピーの出荷生産量全国第3位である。これには、船穂地区の生産量は県下の8割を占めて日中は温暖で、朝晩の温度差が預かって、大きい。

(続く)


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◻️574『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、木原光知子)

2021-06-27 10:13:14 | Weblog
◻️574『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、木原光知子)

 木原光知子(きはらみちこ、1948~2007)は、水泳選手、タレント、そして水泳教室(スイミングスクール)の経営者だ。
 兵庫県の生まれ。本名は美知子という。中学校在学時から活躍する。
 1964年(昭和39年)には、岡山の山陽女子高校1年生の時であって、オリンピック東京大会に出場する、400メートルメドレーリレーの最終泳者をつとめ、そのチームは自由形を泳ぎ4位入賞を果たす。
 日本大学在学中に現役を引退したのは、100メートル自由形日本記録保持者を出して一区切り、他にやりたいことがあったからなのかもしれない。あの爽やかスマイルでもって、モデルやタレント活動を行う。  
 1983年(昭和58年)になると、水泳教室「ミミスイミングクラブ」を始める。それにととまらず、2005年には、日本水泳連盟理事となる。2007年からは、同連盟のキッズ育成プロジェクトを担当する。この間も、何かと笑顔を忘れないのが、印象にあろう。
 同年10月、水泳指導中にくも膜下出血で倒れるまで、休みなく働いた結果であろうか、おりしも時代は、スポーツで人生を「健康で楽しく」の根付き始める頃であったろう。


(続く)

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267◻️144の2『岡山の今昔』湛井用水路、倉安川吉井水門(備前、備中)

2021-06-26 21:10:56 | Weblog
267◻️144の2『岡山の今昔』湛井用水路、倉安川吉井水門(備前、備中)

 治山治水のうち、灌漑というのは、古代メソポタミア以来、人類が生きていくための悲願ともなってきたのであろう。岡山の地で、それにかなう熱意には、やはり地域の人々の多年にわたる努力が受け継がれてきた、それらの中から幾つかを簡単に紹介してみたい。

 湛井(たたい)の用水路というのは、現在の総社市にある。そのあらましは、湛井(たたい)付近で高梁(たかはし)川から取水する。それからは、いわゆる児島湾干拓地の興除(こうじょ)、すなわち、あの江戸期取り組まれた新田に至るのだという。灌漑面積は約5000ヘクタールの規模だというから、実に多くの耕地が水の恩恵に浴していることになろう。

 この用水路が最初につくられたのは、平安初期にさかのぼる説もあるというから、驚きだ。また寿永(じゅえい)年間(1182~1184)に豪族で平氏の家人である妹尾兼康(かねやす)が大改修を行い、取水口を現在地に移築したとする伝承がある。


 江戸時代においては、刑部(おさかべ)、真壁、八田部(やたべ)、三輪、三須(みす)、服部(はっとり)、生石(おいし)、加茂、庭瀬(にわせ)、撫川(なつかわ)、庄(しょう)、妹尾(せのお)の12郷68村を灌漑したことから、この名があるという。
 それからかなり後になっての1965年(昭和40)湛井堰(せき)は高梁川下流域の合同堰として、重力式コンクリート固定堰に改修され、関係市町村による湛井十二ヶ郷組合が運営している。


🔺🔺🔺

 さて、倉安川吉井水門といえば、吉井川中流と旭川下流をつなぐ運河である倉安川の吉井川側の起点に設けられた取水口である。通過地にちなんで倉安川と名付ける。
 とともに、船通しの閘門(こうもん)施設だ。その運河たるや、総延長約20キロメートルというから、驚きだ。
 では、いつだれがなんのために造らせたのか。ごく大まかには、1679年(延宝7年)、岡山藩主の池田光政が、津田永忠に命じて掘削こ設計と指揮に当たらせ、技術者と工夫を動員して1年間位で完成させている、
 その目的としては、岡山藩が17世紀後半に干拓した倉田・倉富・倉益の三新田への灌漑用水の供給、和気・赤磐・上道3郡の年貢米の輸送、岡山城下へ出入りする高瀬舟の水路整備などがあったろう。
 倉安川の掘削は、井堰(いぜき)造り・水門造り・水路造りの三つの工事を配し、自然の岩盤を利用したところも。高瀬舟の往復運行には、それなりの幅が必要だ。特に水門造りは、水位の異なる吉井川と倉安川に船を通すべく、水門を2か所に造らないといけない。
 そのため、吉井川堤防に「一の水門」を、倉安川側に「二の水門」を造り、その間は水路を広くとって、「高瀬廻(まわ)し」と呼ばれる船だまりを設ける。それに、閘門設備。こちらは、水路の間で船を上下さ装置だ。仕掛けとは、二つの水門によって水位の調節を行いつつ、水位差のある二つの川の間の船の行き来を可能にする。船だまりでは、船の待避と検問を行う。


(続く)


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新333◻️『岡山の今昔』岡山人(19世紀、関藤藤陰)

2021-06-26 15:21:20 | Weblog
新333◻️『岡山の今昔』岡山人(19世紀、関藤藤陰)


 関藤藤陰(せきとうとういん、1807~1876、名は成章、字(あざな)は君達。通称は和助)は、幕末の武士にして儒者だ。

 菅原道真を祭る神社の神主、関藤政信(せきとうまさのぶ)の子。関政方(せきまさみち)の弟。一時石川姓を称す。というのは、幼い頃、両親が死亡し、隣町(現在の岡山県井原市)の石川家の養子となったのだ。
 養親が彼の才能を評価し、儒学者の小寺清先(現在の笠岡市)のところで学ぶ。

 やがて、頼山陽(らいさんよう、1780~1832、当代一流の文化人にして、保守政論家)に、21歳で弟子入りする。ところが、頼山陽は、彼を弟子としてではなく同輩として待遇し、「日本政記」の校閲を託されるなど、信頼されたようだ。

 1843年(天保14年)には、備後(びんご)の国(現在の広島県福山市)福山藩の儒官となる。のち家老に就任する、そして30代の若さで幕府老中となった藩主阿部正弘(あべまさひろ)を補佐する。

 やがて老中筆頭・阿部正弘の腹心として、日米・日露の和親条約締結交渉から水戸藩・島津藩内訌の決着、蝦夷地の踏査・探索など日本の針路確定に至るまで、あれやこれやで奔走する。

 幕末、官軍が福山藩と戦火を交えかねない時、執政として藩論を新政府支持でまとめたのは、大きい。これをもって、戦争を避け福山を戦火から逃れられるよう尽力したのも、彼の功績だという。 

 著作には、「観国録」「蝦夷(えぞ)紀行」などがある。

(続く)


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新93◻️46の1の5『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と水平社運動

2021-06-26 14:16:20 | Weblog
新93◻️◻️46の1の5『岡山の今昔』解放令~四民平等の告諭(1871)と運動

 まずは、1871年10月12日(明治4年8月28日)には、太政官布告ということで、等の称や身分の廃止などの旨を記す。それには、こうある。
 「等ノ稱被廢候條、自今身分職業共平民同様タルヘキ事。
辛未(かのとひつじ)八月、太政官
 ノ稱被廢候條 一般平民ニ編入シ身分職業共都テ同一ニ相成候様可取扱 尤地祖其外除◻️ノ仕来モ有之候ハ丶引直方見込取調大蔵省ヘ可伺出事。
辛未八月 太政官」
(ただし、本文中の◻️は「溢」の旧字の傍に「蜀」)

 ここに、「・等の称、廃せられ候条、自今、身分・職業とも平民同様たるべきこと」というのであるから、従来用いていた「」「」等の身分の名称が廃止となったので、これ以後は、かかる範疇での、いずれの身分や職業も平民と同様とすべきである、ということになるという。
 このあと、具体的な廃止の手順などが簡単に書かれ、各府県へよろしく通達するように、となっている。

 次に移ろう。それから約2か月が経っての「四民平等に関する告諭」(1871年12月26日(明治4年11月15日)付け)を紹介しよう。こちらは、かなりの復古調の文言にて、こうある。

 「夫れ天地の間草木生し禽獣居り、虫魚育す。日月之を照し、雨露之を瀑し、生生育育運行流通して更に息む時なし。人天地の正気を稟け其の間に生し霊昭不昧の良知を具足す。故に之を万物の霊と言う。

 夫草木禽獣虫魚人物生育處を五大州と言う。五大州中に区々の国を別つ文字を知り、義理を明らかにし、人情を弁へ風俗美にして知識技能を研究し勉強刻苦心を同うしか殲せ。(中略)

 老少男女の差別なく人々報国の志を懐く之を名けて文明開化の国と言う。(中略)

 古へは士農工商を別ちて文字を知り、義理を明にせし者を士と言う。今や士農工商の別なく、万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。
 人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり。(中略)

 真に其子を愛するなら学校に入れ、人間の道を学はしめ、刻苦勉強して開化安楽の境に至らしむ可し。是天地無用に報ひ、朝旨に答ふる所以なり。」(出所は、池田藩市政提要を元資料とした、岡山平野研究会「藩政資料抜粋一」1959)
 
 これにあるのは、要は、「万物の霊たる人間に教を設け義理を明かにして、風俗を正し知識技能を研究し勉強刻苦心を同うし、力を戮せ。人々をして国に報るの誠を懐き開化の域に進ましむるにあり」とあるように、これからは「朝旨に答ふる」べく、分け隔てのない、「臣民」(この文面にはないが)の立場で一生懸命がんばりなさい、というのであろう。 
 このように、上の方から諭す体裁をとっているのは、天皇並びに朝廷は旧体制下にも増して雲の上の存在であり、その意を体しての政府の指示、命令には率先して従うように、という論理構成に他ならない。


 ちなみに、明治時代となっての族籍別での人口構成は、どういう構成だったのだろうか。これを1873年(明治6年)ということでいうと、次の通りとされる(平野義太郎「日本資本主義社会の機構」)。
 すなわち、総人口は、3329万8286人。このうち華族が2829人、旧士族が154万8568人、それに旧足軽以下が34万3881人であり、これらを合わせての総人口にしめる割合は5.7%であった。

 次に、平民を見ると3110万6514人で、総人口の大部分、93.41%を占めていた。なお、1872年に、「旧足軽」については、その一部を士族、残りを平民に編入して廃止された。
 それから、僧尼(そうに)が6万6995人、旧神官が7万9499人、最後に、不詳(推計)としてちょうど15万人を充てている。 


(続く)


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新322◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、関鳧翁)

2021-06-26 14:08:01 | Weblog
新322◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、関鳧翁)

 関鳧翁(せきふおう、本名は関藤政方(まさみち)、還暦を迎えた頃に鴨の鳥毛入りの服を着るようになったことにちなんで鳧翁と号す、1786~1861)は、医者であり漢学者、歌人でもある。


 笠岡(現在の笠岡市)の吉浜村の生まれ。やがて京都へ出て、医学と漢学を学ぶ。その後に笠岡村に帰り、敬業館教授の小寺清先に国学を学ぶ。


 文政年間には、笠岡村で小児科を開業しながら、国学の研究や、歌人として活動する。


 評論としては、「傭字列」「声調篇」「言葉のかけはし」「春風消息」などがある。これらのうち「傭字例」は、日本語の音の韻尾「ン」と「ム」との区分を明らかにし、漢字の和音の誤りを正す役割を担う。
 と、今日でいうところの音韻学の先駆者でもあるというから、驚きだ。


 それから、歌集としては、「安左豆久比」「嘉平田舎詠草」、「梅歌千首集録」は菅原神社に奉納してあるという。
 時世の歌には、「わが魂の行へはいづくしら雲のたたむ山への松のした陰」とあり、風雅と市井の人々への慈愛を感じさせる。
果たせるかな、多様な才能を持ち、それでいて静かな佇(たたず)まいの人であるようだ
 福山藩で活躍した関藤藤陰は彼の弟にあたり、互いに尊敬する間柄であったのではないだろうか。

(続く)

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新◻️88『岡山の今昔』天保の飢饉(1836)

2021-06-26 09:46:58 | Weblog
新88『岡山の今昔』天保の飢饉(1836)

 天保の飢饉というのは、そのおよそ50年前の天明年間(1781~1789)の大飢饉の陰に隠されてというか、諸家による研究も多くないように散見されるものの、こちらも日本史上に残る名高い大飢饉なのであった。
 それもその筈、岡山の地でも、美作を中心にこの時、尋常ならざる光景が広がっていたことがあるようで、その中から幾つか紹介しておこう。
 「天保の飢饉は確録の徴すべきもの無しといえども、今これを聞くだにしょう悚然(しょうぜん)として肌に栗を生ぜしむるの感あり。」(明治時代に入っての上村行業による調査報告、「苫田郡歴」に引用)
 「樫村西谷字長守(現在の真庭市久世)と申す所に行き倒れ相果てまかりおり候。乞食躰(こじきてい)の男の死骸見分吟味、怪しき義之無く、死骸は仮埋め申し付け置き候、大庄屋より届出来(以下略)」(「津山藩郡代日記」天保8年(1837年)4月)


 これについて、より詳しい記録の紹介をされている、日高一氏にしたがうと、こう記されている。

 「「国元日記」によると、天保8年4月現在、津山藩領内で粥(かゆ)の給付を受けた人は領民のほぼ5分の1に当たる1万2千人を数えたという。
 津山藩の「人別増減改」のうち天保8年の項をみると、死者は農村で2943人、町方で787人、寺社方で33人、合わせて3763人に達し、前年の1345人、翌年の1376人に比べると3倍近い死者を出している。死者の大半は飢饉のためとみられ、出生や転出入を合わせた人口動態でも3169人の減で、この年の飢饉のすさまじさを物語っている。」(日高一「津山城物語」山陽新聞社、1987)

(続く)

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新259◻️◻️『岡山の今昔』鏡野町(苫田郡)

2021-06-25 21:05:25 | Weblog
新259◻️◻️『岡山の今昔』鏡野町(苫田郡)

 鏡野町(苫田郡)は、県の北中部にある静かなたたずまいの町だ。
 その位置は、北は鳥取県(鳥取市と三朝町)との境、東側から南側にかけては津山市、津山盆地の西端地域といったところか。そして西側は、真庭市と隣接している。
 全体として、山が迫っている感じを覚える。中ほどから北部にかけては、花知ヶ仙、泉山、角ヶ仙といった、1000メートル級友の山が並ぶ。水の便も豊かであり、ほぼ中央を、南北方向に吉井川が流れる。
 交通の便は、昔は「からくも」つながっているみたいな感じなのが、この頃ではかなり良くなっているのではないだろうか。鉄道や高速道路へのアクセスは、この辺りの拠点津山市とのつながりがあろう。それでも、国道179号線が南北を縦断し、北部を国道482号線が通る。
 自然から育まれ、美しい森の恩恵を受けられる場所にて、鏡野・奥津・上齋原・富の4つのエリアからなる。
県の北中部にある。
 産業としては、自然環境を利用しての林業や農業があろう。養蜂の加工場もあるという。

(続く)

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新268◻️◻️『岡山の今昔』内陸部での用水と溜め池、山あがりした村(美作)

2021-06-24 22:36:05 | Weblog
新268◻️◻️『岡山の今昔』内陸部での用水と溜め池、山あがりした村(美作)

 あれやこれやの手段、方法を使っての農地の拡大は、江戸時代に入ってから急拡大してきていたのだが、それらを支援するための用水や溜め池、変わったところでは、当該の藩の「山あがりした村」政策までが、動員された。
 用水とは、単独で開削されることがあれば、溜め池をつくって、そこから用水路を引いて、田畑の灌漑用にあてがうこともある。
 それらの造られ方も、大別して民間が主体で資金を集める場合、藩や幕府の肝いりで造られる場合とがあり、それぞれの思惑が働いていたのが、相当程度読み取れるという。
 これらのうち例えば美作地域でいうと、溜め池としては、王子池(綾部)、揚船(あげふね)池・蓮池(高倉)、耳掛池(沼)、大沢池(田邑(たのむら))などは、森藩の時造られたものだという。


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 近平用水(ちかひらようすい)というのは、それまで長い間、水不足、かんばつにあっていた、高倉村や草加部、野村など12村の人々が、用水路工事を企画する。それというのも、溜め池の水が枯れ、村人の飲料水にも事欠く事態が、起こったからだ。
 時は、江戸時代も、おわりに差し掛かった頃、彼らの代表が加茂川(吉井川の支流)の川上に当たる綾部(あやべ)や吉見(よしみ)の村へ、何度も行って、なんとか水を分けてくれるようにと頼んだという。 
 それなのに、加茂川の水を使う権利(水利権)を持つこれらの村の衆は、首を縦にふらなかったのだと。そのうちに、川下の籾山、勝部、志戸部、野け代、押入(おしいれ)、高野山西の村々も、この話に加わる、
 交渉団は、「吉見で使うておりんさる、細岩(ほそいわ)いでを掘りつがせてくれんさい」(美作の歴史を知る会「近平用水物語」みまさかの歴史絵物語(8)、1988)と言ったのかどうか、とにかく、井出(水路)を付けされてくれるよう頼み、ようやく話がまとまる。

 かくて、造ろうとする用水の設計としては、「ちょうちん水盛り」といって、夜に、ちょうちんを灯して並べ、遠くから高さを測っては地面に杭を打っていく。
 これでもって、水路を今でいう12キロメートルも離れた高倉の台地へ送れるようにせねばならぬことから、その分を、繰り返し測量していく。その度に、なれない作業でおおいに疲れては繰り返す作業の連続であったのだろう。
 やがての翌1854年の正月、12か村、約600戸の代表たちは、計画書を携えて、藩当局へ願い出る。役人からは、年貢が増える話として、これを是認の上、資金調達のために村々が背負う、商人への借金の便宜を橋渡し(口きき)してやるとのこと。
 こうして藩の許しをとった上で、河内村の多右衛門(たえもん)と栗原村の竹太郎、それに備中の秀蔵が、請け負って工事を担うことになる。
 そこで、工人たちは、石工や大工、工夫を整え、動員して、4月から工事に入る。そのうちに、新たな課題が持ち上がる。なにしろ、大きな岩をくりぬいたり、石がきをつんだりしなければならならない。のみ・つるはし・くわなどの道具しかないのに、戦国時代に合戦の舞台てあった、名高い祝山(いおうやまじょう)の中腹で、1000メートルもの岩場が立ちはだかったのだ。

 そればかりではない、実は、もう一つ、綾部の辺りで、まるで切り裂いたかのような谷あいの難所があって、前述の物語において、こんな説明がされている。
 「綾部の工事場は、谷がぎようさんあるけん、等高線にそうて、谷が奥深うまで、なんどもなんども曲がっとるしなあ。
 谷川のところじゃあ、丸太や板で橋がけの水路をかけにゃあいけんし、トンネルもようけいあって、大ごとだったんじゃ。
 トンネル工事はな。あなをほっちゃあ、モッコで土や石をかつぎ出し、天井がくずれんように両がわのかべは石がきを積み、天井は長あがい切り石で組んでいったんじゃ。」(前掲書)


🔺🔺🔺

 さて、こうして検地を済ませた森藩が次にとった年貢の増収策は、「驚天動地」の沙汰なのだった。
 1664年(寛文4年)、森家の郡吏、川端勘左衛門は、河辺村(現在の津山市河辺)に住む農民たち57戸に対し、東側のシトト原(いまの津山市河辺上野町、天神原)へすみやかに移転するよう命じた。 
 ちなみに、後日の当該地域については、「シトト原は、野山、芝原にして作場へ遠く難儀の旨、嘆題するといえども許容なきため、地子(地租)を免ぜられ、山あがりの家数57軒、ことごとく無年貢地と定めらる。その反別9反5畝(せ)6歩(現在の面積に直すと約90アール)」(「新訂作陽誌」)とあり、要は、彼らが当時住んでいたところを追い出して、荒れ地に引っ越しさせることにより、住居のあった加茂川べりの湿地を農地に替えて年貢増収を図ろうとしたのである。
 話を戻して、これに驚いた農民たちは、さっそく庄屋を通じてこの話を取り止(や)めてくれるよう嘆願したというが、聞き入れられなかった。願いの儀は、引っ越しすると、自分の田んぼまでの道が遠くなる上、これまで草刈り山(牛馬の餌や肥料に欠かせない)として利用していたシトト原が使えなくなってしまう、それは「俺たちの入会地を差し出せ」ということでもあるとして、小高い台地への住居移転の撤回を求めたが、藩当局は頑として聞き入れなかったという。

 とはいえ、このままで従う訳にはゆかない、そこで、農民たちは、やむなく条件闘争に切り替えたようである。何回もの嘆願の結果、藩側からわずかながらも譲歩を引き出し、妥協が成立した。その内容とは、移転先の屋敷にきる税を免除するとともに、入会地の草がその分とれなくなったかわりに城周辺の草を刈ってもよいとの条件を呑んだ、これにより、1664年までに、かかる57戸の農家は、ことごとく「山あがり」させられてしまう。
 



(続く)

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新269◻️◻️『岡山の今昔』内陸部での新田開発など

2021-06-24 21:43:13 | Weblog
新269◻️◻️『岡山の今昔』内陸部での新田開発など

 内陸部での新田開発を巡っては、美作森藩が、積極的に挑んでいたようだ。
 そもそも山間部の多いこの地域においては、耕作しやすくて肥沃な平坦地は限られており、収穫を増やすために、新田開発、それに加えるに、荒れ地の開墾や用水、ため池、井堰(いせき)などが奨励された。
 これらのうちもっとも馴染みのあるのは、やはり新田開発なのだろう。美作の場合、江戸時代に入っては、吉井川とその支流の宮川、加茂川、佐良川(さらがわ)などの川沿いの低地に、新田開発がなされていく。山間部でも、ある程度の広さの山腹ないし谷間が見られる所では、斜面を削るなりもして、某かの耕地を作り出していく。

 特に、棚田(たなだ)ということでは、農家としては手っ取り早く耕地面積を拡大できよう、それは、美作にとどまらず、久米の辺りまで、江戸時代からの田畑もかなりの広範でそこそこに見られるのではないだろうか。


(続く)

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571◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎)

2021-06-23 22:07:59 | Weblog
571◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎)

 橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。


 東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。


 そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。


 それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
 さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。


 1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。


 1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。


 1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。


 それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。


 2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。

(続く)

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572◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、田渕節也)

2021-06-23 21:12:39 | Weblog
572◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、田渕節也)

 田渕節也(たぶちせつや、1937~2006)は、実業家だ。
 苫田郡神庭村(現在の津山市)とあるも、実は大邱生まれ。旧制中学まで大邱で育ち、旧制高校は松江、大学は京都のため岡山に住んだことはない(日本経済新聞、2007年11月4日、「私の履歴書」)という。

 その京都大学法学部を卒業して、1947年野村證券に入る。主に営業畑を歩む。

 1978年には、社長に就任するという、トントン拍子で出世の階段を上がっていく。

 それからは、国際部門を飛躍的に伸ばし、世界有数の証券会社に押し上げたというのだが、きれい事だけではなかった筈だ。


 それというのも、1985年に、社長の座を田淵義久に譲り会長になるも、その後も会長として「院政」のように経営に携わっていたようなのだ。


 1990年12月には、経団連副会長に就任する。日本資本主義を支える一角としての証券業界、そこを地盤にしたのはいうまでもあるまい。


 1991年には、損失補てん問題や暴力団との取引が発覚する。前者というのは、いわゆる「損して得とれ」というか、国会で証人喚問を受けた時に、その体質が露となる。つまるところ、責任を取って会長職を辞任し相談役に退く。経団連副会長も、解任される。


 それでも、粘りを発揮して、1995年には、再び取締役に就任し復権を果す。しかし、1997年総会屋への利益供与が発覚し、すべての役職から退く。
 その仕事人生についての評価では、「功罪相半ば」というのか多数なようだが、もう少し具体的に述べたらよいのではないか。

 つまるところ、証券業界の不祥事の根っこには、国民のための経済に欠けるところが多々あり、そのことを無視してかれらが自分たち本位に金儲けに突っ走ったところが、もっと明らかにされて然るべきであったろう。
 もちろん、彼だけが責められる話でないことは、当時の政財官の大方が、どこを向いて仕事なりをしていたのか、その流れの全体が歴史の中に正しく位置付けられるべきであろう。
 
(続く)

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575◻️◻️『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、星野仙一)

2021-06-23 19:34:57 | Weblog
575『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、星野仙一)

 星野仙一(ほしのせんいち、1947~2018)は、プロ野球選手・監督だ。そして、さながら、プロ野球のキラキラ「星」でもあるだろう。
 倉敷市の生まれ。いつの頃からか、野球を楽しみ、目指す。県立倉敷商業高等学校の時には、皆とともに甲子園を目指すが、出場は叶わなかったという。
 明治大学を経て 1968年のドラフト 1位で中日ドラゴンズに入団する。

 そのうちに、打者に向かっていく闘志あふれる姿が、「ケンカ投法」で有名となる。それでいて、変幻自在な、根性を見せるかのような投球が光る。強いて比較するなら、往年の阪神の、「ダイナミック投法」で知られる村山選手などと比べられるのではないだろうか。
 1974年には、「宿敵」巨人の 10連覇を阻み,セントラルリーグ(セ・リーグ)でチームを 20年ぶりの優勝に導く。個人としても、初代最多セーブ賞と沢村賞をダブル受賞する。

 1982年に現役を引退する。通算 500試合に登板し 146勝 121敗 34セーブにて、防御率 3.60という。

 1987年には、中日ドラゴンズ監督になる。選手のときに劣らず、判定に不服の時は、何やら叫んで、ベンチを飛び出す。いやあ、圧巻である。
 自分のチームの正統性を1988年と 1999年にセ・リーグで優勝する。その後に阪神タイガースの監督となり、2003年に優勝を果たす。史上初めてセ・リーグ 2球団を優勝へ導く。


 2008年には、北京オリンピック競技大会に日本代表監督として出場するも 、4位に終わる。 2011年には、東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めており、2年後の 2013年にパシフィックリーグで優勝、その後日本シリーズで巨人を破り、球団初かつ自身にとっても選手・監督を通じて初の日本一となる。

 未来を担う若い人達を、常になにがしか意識してのような立ち居振舞いがあり、また、熱血にしてどこか紳士的でもあり、不思議だ。生まれ故郷には「星野仙一記念館」が建てられるなど、兎に角、話題性に富んだ人物であろう。



(続く)

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