『(73)』『岡山の今昔』倉敷から浅口、笠岡へ

2017-06-15 23:26:41 | Weblog
『(73)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷から浅口、笠岡へ

 岡山から現在の山陽道に沿って西へは、ごく大雑把に現在の山陽本線に乗って、庭瀬(にわせ、岡山市北区)に着く。その少し先から倉敷市に入って中庄(なかしょう)に至るが、ここはもう田園地帯といったところか。直ぐ南に位置するのは、同市の早島町(はやしまちょう)である。かつて上代の頃、今の岡山県南部に広がっていたであろう「吉備の穴海」があって、「早島」という名の島はその只中にあった、とされる。その後近代に至って、宇喜多氏(うきたし)が干拓を手掛けたのを嚆矢(こうし)として、以来明治期までにこのあたりはことごとく陸地に組み入れられてゆく。そしていまでは、「ここがかつて海であったのか」と、上代の面影すら見つけ難いようだ。
 さて、中庄を過ぎて西へ辿って行くと、倉敷駅に到着するであろう。そこから西進して西阿知(にしあち)の駅へと到る。現在の西阿知は倉敷市倉敷地域にある地区となっているが、かつての浅口郡西阿知町にあたる。さらに同方向へ進んで鉄橋の上て高梁川を渡るのだ。このあたり川幅は、河原を入れると300メートルを超えているのであろうか。直ぐ南には、国道2号線の高梁川大橋が架けられており、こちらは大動脈ゆえ、多くの車がせわしなく行き来している筈だ。鉄路に戻って、同市船穂(ふなお)地区に入る。ここは高梁川の東岸だ。この地だが、21世紀に入ってからの合併で吉備郡真備町と共に倉敷市に編入され、同市船穂や町となった。地勢としては、大きく高い山は見あたらない。町の南部と北部は標高30~150メートル位の丘陵地帯、これと対照的に南部地区は概ね平野が広がっており。そこでの標高はわずか1~3メートル位でしかないとのこと。このあたりの多くは、埋め立て地で陸地になった経緯をもつ。
 この地区での人々の暮らしの概要だが、人口は7千人台(2017年)でしかない。市街地の郊外といったところか。どちらかというと農村で、農家のある程度が施設園芸、その中でも葡萄栽培が生業(なりわい)であるらしい。そもそも岡山で葡萄の栽培が始まったのは、前世紀後半にまで遡る。現在、この地区での代表品種のマスカット・オブ・アレキサンドリア(略称は「アレキ」)についていえば、エメラルド色をした大粒の実にして、「女王」の異名をもつ。日本では、1886年に岡山県岡山市津島の地で温室による栽培が試みられたのに始まる。
 それから相当な年月が経過していった。埋め立てた農地であるがゆえの塩害もあって、農家の収入は安定しなかったのではないか。やがて第二次大戦後となって、温暖で雨の少ない自然を活用して、この新しい品種の葡萄の栽培に取り組んでみよう、との気概をもつ人々が出てきた。1947年には、当地でアレキの栽培が始まる。1956年になると、アレキの温室栽培が始まる。
 それからはとんとん拍子で栽培農家が増え、生産が伸びていく。1998年には、ピークに近い、アレキ生産農家数は102戸、栽培面積30ヘクタール、出荷額は約9億円にもなる。その後はだんだんに減っていき、2010年には同102戸、11ヘクタール、約4億円(JA岡山西調べ)と、ピーク時に比べほぼ半減しているとのこと。とはいえ、丘陵の斜面に沿って建てられた温室の群れが見える。栽培期、1~10アールのハウス(温室)の中では3000以上の房がぶら下がっていると伝わる。アレキの房がそして反対側に目を向けると、向こうに海を臨む。これらが車窓からの視界にある間、「ああ、ここで130年にもわたってきたアレキの生産が行われてきたんだなあ」との感慨さえもがこみ上げてくるのではないだろうか。
 さて、船穂を通り過ぎた列車は、ほどなく新倉敷の駅に列車は滑り込むのだが、ここで、トンネルを含め南西へ下ってきた山陽新幹線と出会う訳だ。新倉敷を出たら、ほどなく浅口市(あさくちし)に入って、そこの金光(こんこう)に来たる。そこを過ぎて尚も西へ進むと、鴨方(かもがた)に至る。
 江戸時代、この地には新田藩(にったはん)と呼ばれる小さな藩があった。これとなるには、岡山藩の分藩としてではなく、1672年(寛12年)に本藩の内高2万5千石を与えられる。事の成り行きは、前岡山藩主(初代)池田光政は、隠居するにあたって、二男の池田政言(まさとき)宛てに同石分の新田を分知することで、別家(本藩本知の外高を持った上での分家待遇)を立てようと思い立つ。この願い出は、大方幕府(将軍は徳川家綱)の認めるところとなる。以来、岡山本家の支藩扱いにて、特に領内に陣屋は置かれることなく、日常の政務は本藩が面倒を看ていた形だ。そのまま推移して幕末に至ると、鴨方藩と称した。これら政務に関連して、本藩との間を結ぶ連絡道「鴨方往来」(かもがたおうらい)が設けられていた。この道は、当時の岡山城下、栄町の千阿弥橋を起点として、西に向かって当時の庭瀬(にわせ、備中国都宇郡賀夜郷)、撫川(なしかわ、上代のこのあたりは備中国都宇郡撫川郷)、浜ノ茶屋、長尾、占見、地頭下などを通って鴨方に通じていた。瀬戸内の海岸線に近いところから、「浜街道」(はまかいどう)とも呼ばれたらしい。
 この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのであろうか。
 さらに鴨方を出て少し西に行くと、そこは里庄である。明治初期の道でみると、里庄からは、川手・本町・西町から里庄町高岡を経て笠岡の小田県庁(現在の笠岡小学校のある場所)に達していた。一方、里庄町から南へ向けては、南隣には寄島町(よりしまちょう)がある。ちなみに、以前の浅口郡内のうち、2006年3月に金光、鴨方、寄島の三つの町が合併して浅口市となっている。今地図を広げ、この寄島町へ倉敷方面から行くには、主に二つのルートがあるようだ。一つは、里庄町から県道矢掛寄島線を南に暫く下って行くと、そこはもう寄島の海である。今ひとつは、現在の倉敷市の南端から海岸沿いを辿って行けば、程なくしてこの温暖勝風光明媚な町に至ることができるだろう。
 現在の浅口市寄島町南部の沖合いには、小さな三つの島(寄島とも三郎島とも)があるとのことだし、その南側には、特に瀬戸内海では今やほとんど見ることができない自然が広がっていて、さらに南方沖合(水島灘、備後灘の寄り合うあたり)には、いわゆる「笠岡諸島」があって、人々の生活がここでも営営と続いているのである。このあたりでは、大まかでの『古事記』に見える神功皇后(じんぐうこうごう、『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯 比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめ))とは、仲哀大王の皇后であるとされる人物で、応神大王を産んだとされる人物とされるものの、現在では、文中での脈絡のままに実在していた可能性は極めて薄いと考えられている。けれども、各地にこの種の伝説が数多く残されている中での一つとして、この地ならではの伝説が生み出されてきたことは、それはそれとして、郷土にとって未来に向かっての意義あることとして受け取って良いのではあるまいか。
 さらに寄島の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。
 この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
 かつての富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月完成した。笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年5月)に関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年(平成2年)3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
 これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。顧みれば、地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』においては神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしんだりの人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。こうして現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したのはプラス面とされる。
 なお、笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々の大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島、北木島、飛島、真鍋島、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。

(続く)

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(14)『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

2017-06-12 21:22:56 | Weblog
(14)『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

 話言葉(はなしことば)としての古代日本語は、そのまま文字を具備することにはならなかった。つまりは、生まれたばかりの日本語(古代日本語)は、固有の文字を持っていなかった。「日本民族」と呼べるものはまだ存在していなかった時代、日本列島に暮らしていた人々は、その日暮らしで文字を編み出すまでの生活の余裕がなかったのかもしれないし、或いは、考えあぐねていたのかもしれない。これまでの古代遺跡の調査で、記号のようなものは見つかっているらしいのだがそれでも、ある程度の信頼性をもった、真相に近いところはわかっていない。では、外部から何をもらったのかといえば、それよりはるか以前の時代に中国で成立していた漢字なのであった。それでは、日本列島に漢字という文字が伝わったのは、いつのことであったのだろうか。
 まずは、伝説をまとめた『古事記』」に漢字と漢文表記の書名が、倭(大和)朝廷編纂の歴史書の『日本書紀』に年代が、それぞれ記されている。この二つの記述を関連していると見なしてドッキングさせてみると、中国から伝わったのは、『論語』と『千字文』であり、時代としては第15代応神大王(おうじんだいおう、当時「天皇」の称号はまだ存在していない)の「十六年春二月16年であったというシナリオが導かれる。『日本書紀』の記述の前後の関係から、大王の在位は西暦に直して270~310年とも計算でき、これをたどって漢字の輸入はその内の286年(西暦)の出来事であったのではないかと考える。
 では、どのような伝わり方をしたのであろうか。『日本書紀』の該当部分を参照すると、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始?也」のくだりが見つかる。この文中に王仁(わに)とあるのが書物を伝えた人物なのであろうか。当時、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)から倭に来て滞在していた。ところが、『古事記』」に述べてある『論語』はそれまでに成立しているのでよしとして、もう一つの『千字文』については、中国の南朝・梁(リアン、502~557)の武帝((464~549)が、文官・周興嗣に命じて字の学習用にと文章を作らせたものだ。これでは、数十年どころか、それ以上の開きがあり、漢字伝来の時期の点で辻褄(つじつま)が合わない。したがって、これらの『訓紀』の記載は、歴史的事実ではなく、言い伝えに過ぎないとも考えられる。
 そこで別の面から考えてみたい。それに関する情報は、地中からやってきた。わが列島素人々に文字が伝来したのは、弥生時代のことであったというものだ。これまでの発掘なりで見つかっている最古の漢字としては、「貨泉」の二文字が刻まれた硬貨が見つかっている。これは、中国の前漢が倒れた後の「新」(しん、中国語読みでシン(第1声))の時代(9~25年)に皇帝を語っていた王○(おうもう)が14年(中国の暦で天鳳元年)に鋳造させたものだ。これと並ぶものとして、江戸時代に博多(はかた)沖の志賀島(しかのしま)で発見された後漢の光武帝時代(25~57年)の金印、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)がある。更に時代が下ると、1994年、京都府竹野郡の大田南五号古墳から、中国・魏の年号「青龍三年」(235年)の銘文が入った銅鏡が発見されている。それには漢文で、「顔氏」という鏡作りの工人の名前が長寿や出世を祈る吉祥句(きっしょうく)とともに記されている。ほかにも、「景初三年」(239年)や「正始元年」(240年)の銘の読み取れる三角縁神獣鏡などが見つかっていて、これらの鏡は当時の中国の王朝から当時の倭の某かの勢力(蓋然性としては古代の国)に「下賜」として渡されたものなのだろう。
 これに加えて傍証になれるのかどうなのかはわからないものの、その頃の社会において、骨をもって占う「骨卜」の習慣があった。そのことが、『魏志倭人伝』にこう記されている。
 「其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火?占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當脆拝」
この前半部分は、「其の俗、事を挙げ行来するに、云為する所有れば、輒ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占う」と書き下される。これに、○末之(はいしょうし)の注に、『魏略』に曰わく・・・・・其の俗、正歳四時を知らず」とあるのを重ねると、「中国の亀卜とは似て非なる獣骨卜を行い、暦も持たない弥生人の姿が見える」(湯浅邦弘編「テーマで読み解く中国の文化」ミネルヴァ書房、2016)と結論づけようとも、あながち誇張ではあるまい。これから推し量っても、当時の倭人にはまだ文字を使う社会的習慣は育っていなかったのではないだろうか。
 もちろん、書物にせよ、物的なものであるにせよ、刻印が残っているとしても、そのことが漢字が遣われていたということには、そのままでは繋がらない。実際に、日本人が日本語の表記にも使用し始めたのは、6世紀に入ってからのことであったのではないかと見られている。その後には、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名(まんようがな)が作られ、やがて、漢字の草書体を元に平安時代初期に平仮名(ひらがな)が、漢字の一部を元に片仮名(カタカナ)がつくられていったというのだ。

(続く)

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(352)『自然と人間の歴史・日本篇』アイヌ新法

2017-06-04 22:33:16 | Weblog
(352)『自然と人間の歴史・日本篇』アイヌ新法

 1997年(平成9年)5月に成立し公布され、同年7月に施行されたものに、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法、アイヌ文化法、アイヌ新法)がある。この法律の附則2条により、北海道旧土人保護法(明治32年法律第27号)および旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年法律第9号)は廃止された。
 その目的については、1条にこうある。
 「この法律は、アイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化が置かれている状況にかんがみ、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する国民に対する知識の普及及び啓発を図るための施策を推進することにより、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする。」
 なぜ「アイヌ民族」といわないのかが不明であるものの、おそらくは世界の先住民族の先住権を認める流れに、日本政府が抗しえなくなった、何らかの対策を講じない訳にはいかなくなったものとみえる。その特徴は、あくまで国としてアイヌ文化の発展に向けて努力したいという目標を掲げるに留まっている。
 その後の展開だが、2016年5~6月の各紙による報道で、「政府、アイヌ新法に先住民族明記検討 理念先行に懸念も」などの見出しが連なった。そこでの最大の眼目は、政府が2020年までの制定を検討するアイヌ民族に関する新法の中に、「先住民族」を明記する方向での検討はあるものの、アイヌ民族への生活・教育支援については「盛り込むことは難しい」となっていることだ。
 これに対して、北海道アイヌ協会協会幹部らは「新法は理念をうたうだけで骨抜きの内容になりかねない」と怒りを露わにしたと伝わる。反発した。そもそも、同協会は昨年3月、生活・教育支援を政府に要請した。この時、菅義偉官房長官が「法的措置の必要性を総合的に検討する」と表明。昨年7月からアイヌ政策関係省庁連絡会議で、「生活の安定・向上」や「幼児教育の充実」など6項目の検討に着手していたものである。

(続く)

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二七八の四『138億年の日本史』20世紀の天文学(20世紀後半)

2017-06-02 08:56:47 | Weblog
278の4『138億年の日本史』20世紀の天文学(20世紀後半)

 1970年代初頭、アメリカの天文学者ヴェラ・ルービン女史がアンドロメダ銀河を観測していた。この銀河は、私たちの銀河系と同じ渦巻銀河で、星たちは銀河の中心を軸に回転している。星たちは全体として平たい円盤状を形成しているのであるが、星の数は円盤の内側ほど多く、円盤の外側に行くにしたがってまばらになっていく。そのため、私たちの目に見えている星が銀河にある全ての物質だとすれば、星が多く集まる銀河の内側ほど星を内側に引っ張る引力が強くなると考えられ、これでは回転がとまってしまう。
 この前提で強い引力と釣り合うためには強い遠心力が必要であり、そのためには内側の星ほど回転の速度は速くならないといけない。ところがルービンは、銀河の回転速度が銀河の内側と外側でほぼ同じである、つまり中心から遠く離れても遅くならないことを発見した。これを説明するには、星が少ない銀河の外側にもたくさんの物質がなければならない。そこで、ここは目には何も見えない、つまり不可視の物質で満たされていると考え、これを「ダークマター」(暗黒物質)と名付けた。
 1979年3月、天文学者たちはクウェーサーと呼ばれる準星状天体の発する強い光を観測し、その中に地球との間に凸(とつ)レンズのような働きで像を結ばせる、強い重力が働いているときにあらわれるのを発見した。これは、観測されるべきクエーサーが発した光が、途中で銀河もしくは銀河団によって作られた重力空間を通過するとき、その光が重力の力によってあたかも水やガラスレンズ の中を通過するように屈折率が大きくなって、光が曲げられて地球と観察者に届くというもので、「フヴオリソン・アインシュタイン効果」、一般的には「重力レンズ効果」と呼ばれている。これをもって、「光は曲がった空間に沿って直進する」(NHK「宇宙を読み解く」シリーズの第14回「深まる謎:ダークマターとダークエネルギー」(2015年1月6日放映分)での放送大学の海部宣男客員教授(国立天文台・名誉教授)、放送大学の吉岡一男教授による、今日までの「考え方と観測事実」の系列の整理、その他より)とも言えるのだ。
 1994年に撮影されたNASA(アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡による写真を使って、このダークマターの3次元の解析が試みられた。ここでの重力源は、私たちから50億光年彼方の銀河にある。これらの星は太陽ができる前にこの光を放ったから、これらの星はいまや存在していないかもしれない。だが、写真の中で奇妙なことがあり、それは青い光が細い弧状になって見えていることだ。
 1989年、アメリカにより、宇宙背景放射探査衛星(COBE)が打ち上げられる。
これは2.2トンの極軌道衛星であり、軌道長半径900キロメートルの太陽同期軌道を回ることになる。これに搭載のFIRAS(遠赤外絶対分光測光計)によるスペクトル測定では、測った値と予言されていたプランク分布(ビッグバン理論から予測されるマイクロ波の2.728K)が完全一致した。これにより、宇宙には熱平衡状態の名残が残っていたことがわかる。測定された宇宙背景放射の温度は、これまた搭載のDMR(差分マイクロ波放射計による測定で、それぞれの方向によって10万分の1程度揺らいでいる、つまりほんの僅かだけ異なることが発見された。これは、宇宙がゆらぎから形成されてきたことの証拠なのだとされる。
 さて、この宇宙背景放射を利用して、宇宙の曲率を直接測るために大規模な計測が行われた。2つの観測は、それぞれ「ブーメラン」、「マキシマ」と名付けられたグループによって実施された。ブーメランでの観測は,米国とイタリアの大学のチームが中心になった。1998年の12月から1999年の1月の約10日間、計測の場所には南極が選ばれる。こうすれば、南極大陸の上空を2週間かけてぐるりと回っても戻ってくれる。この地なら、こうやれば地球が自転しても、同じ方向からの電波が捉えられる。だから、付近の電波に邪魔されず、絶対温度で3度の電波を捉えることができると考えたのである。
 1998年、天文学者のグループ(ソール・パールマター、ブライアン・シュミット、アダム・リースの3人であるが、シュミットとリースは共同研究者なので、2チームであるとされる)が宇宙の物質がとのくらいあるかを調べるために、宇宙の膨張速度の微妙な減速度合い調べていた。遠い場所にあるおよそ50個の、「Ia型」(イチエー)と呼ばれる超新星を見つける。それらを観察して、どのくらいの割合で宇宙の膨張速度が減速しているかを調べるのだ。ここでの「Ia(イチエー)型」の超新星は、宇宙を測る時の尺度になる。ある超新星爆発で、その爆発の継続時間により最大の明るさがどれも同じ(一定)性質を持っている。これを使うと、非常に遠方の銀河での「Ia(イチエー)型」の超新星の爆発を捕らえ、その明るさを測る。その見かけの明るさから距離を知ることができる、つまりはその銀河の後退速度と比較することができるのだ。
 その観測データが発表されると、従来の宇宙論をひっくり返す程の大発見であった。その結果は、事前の予想をはるかに下回る速度でそれらの超新星が遠ざかっていることを突き止めた。というのは、横軸に超新星の赤方偏移(~地球からの距離)、縦軸に超新星の見掛けの明るさをとり、遠方銀河の超新星の明るさと後退速度(赤方偏移)を測ってゆく。宇宙の膨張の速さが一定なら、赤方偏移は距離に比例するというのが、ハッブルの法則である。宇宙膨張のスピードが昔もいまも変わらなければ、天体の明るさは、距離の2乗に比例して暗くなる。それはそれを体した黒い線の上にくる筈である。ところが、実際に観測された結果は違っていた。それは、それより上の赤い線に来た。つまり、「Ia型」の超新星の明るさは、ハッブルの法則の場合より遠くで暗くなっている。つまり、赤方偏移と距離の比例関係は、わずかだがずれている。遠方の宇宙では、膨脹の速さが今よりも遅かった。
 これから、遠くにある超新星は昔の宇宙の膨張速度で遠ざかっている訳だから、遠くの超新星の速度が遅いというという観測結果は、とりもなおさず昔の宇宙の膨張速度が遅かったことになる。言い換えると、宇宙が膨張する速度は、時間を経るごとに大きくなっている、つまり宇宙膨脹は減速しているのではなく、加速していることをあらわしてしている。
 そして、加速するためにはエネルギーが必要であって、この重力に対抗して加速するためのエネルギーを「ダークエネルギー」と名付けた。この加速を説明するに足るエネルギーである、ダークエネルギーは、ダークマターの3倍くらいあるはずだ(NHK「宇宙を読み解く」シリーズの第14回「深まる謎:ダークマターとダークエネルギー」(2015年1月6日放映分)での放送大学の海部宣男客員教授(国立天文台・名誉教授)、放送大学の吉岡一男教授による、今日までの「考え方と観測事実」の系列の整理、その他より)。
 このような宇宙の加速膨脹はいつから続いているかというと、大体60億年から70億年位前、そのあたりから始まったらしい、と言われている。宇宙が広がるにつれ、だんだんと重力が薄まって力が弱くなっているところへ、空間の不変エネルギーであるこのダークエネルギーがその弱まりつつある重力に打ち克って、その力の膨脹で宇宙膨張の加速が始まり、現在も続いているのではないか、というのだ。

(続く)

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◎二七八の三『138億年の日本史』20世紀の天文学(20世紀前半)

2017-06-01 22:33:55 | Weblog
278の3『138億年の日本史』20世紀の天文学(20世紀前半)

 1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
 {Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
 1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。ここまでは、1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
 その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
 そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。 この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
 ハッブルのこの発見は、人びとに大きな衝撃を与えた。この宇宙膨張の動きは、それまでの「宇宙が膨張しているはずはない」と考えられていたからである。つまり私たちのいる銀河から見て、遠方にある銀河ほど早いスピードで地球から遠ざかっていることなのである。そのイメージとしては、例えばボールをゴムひもで結んで引っ張ったとき、ゴムひも(宇宙)が広がるほど、一つひとつのボール(銀河)間の距離も広がる、つまりお互いが遠ざかっているのである。
 1931年(昭和6年)、アルバート・アインシュタインはウィルソン天文台にハッブルを訪問し、銀河が光のドップラー偏移を捉えたスペクトル写真を見せてもらった。すると、そこには彼の思惑とは異なって、宇宙がじっとしておらず、膨脹しているという事実が「赤色偏移」となって確認されたのである。それまで、膨脹なんてことはありえないとして、定常的な「止まった宇宙」を前提に話しをしていたアインシュタインがびっくり仰天したことは疑うべくもない。もっとも、アインシュタインがハッブルの発見まで考えていたのは、膨脹も収縮もしないという意味での定常的な宇宙に限られる。アインシュタインの、当初の理論では、星や銀河などの重力に引っ張られて、宇宙は最終的には収縮する。最終的には一点に戻って潰れてしまう。これを「ビッグクランチ」という。これでは宇宙を定常に保てないと思って、彼は宇宙をビッグクランチから救い、定常を保つための「宇宙項」を自分の方程式に追加していた(前掲)。
 ところが、ハッブルの宇宙膨張に接し、それが揺らぎのない真実だということになる。そこでアインシュタインは、この「宇宙項」を破棄したのである。彼はこれを「人生最大の不覚」とみなしたのだが、皮肉にもアインシュタインの死後21世紀になってからの、ダーク(暗黒)エネルギーの登場(2003年)によって、宇宙の加速膨張を説明するために、この項は再び必要となっていく。
 そこで、テレビ画面上のクラウス教授は、宇宙がこれから先もずっと膨張を続けるのか、それともある時点で収縮に転じるのかを問いかける。それは、宇宙に存在するこの二つのエネルギーの和がプラスなのか、マイナスなのかがわかれば、宇宙が永遠に膨脹するのか、収縮に転じるのかがわかるというのが、この議論のそもそもの出発点になっている。
 1933年、スイスの天文学者フリッツ・ツヴィッキーが論文を発表し、銀河の観測から後の「暗黒物質」の存在を予言した。彼は、かみのけ座にある「銀河団」(銀河が約100個から1000個程度重力を介して群れ集まっている集団をいう)を観測する。物質の発する光の量はその質量によって変わることを利用して、その総質量を、まず光の量から算出した。それぞれの銀河は重力によって動いている。ニュートンが発見した「重力の逆二乗法則」を使い速度を調べることで重力の大きさがわかり、重力がわかれば質量も求まる。そこで次にはこの法則を使って、銀河団に属する、つまりその銀河団の中に残っている銀河の動き(速度)から逆に、その銀河団が閉じ込めることのできる重力の大きさ、ひいてはその銀河団の総質量を算出した。
 ところが、これら二つの方法で算出した質量の間に、400倍もの開きがあった。後者の運動速度から求めた値の方が、前者の光の量から測った値の方、つまりその銀河団の明るさ(それは個々のメンバー銀河の明るさの単純な和とされる)から予想される質量値を大きく上回っていたのだ。すると、このかみのけ座銀河団にはそれだけの差分だけ、つまり光っている物質以外に、目には見えない(光を発していない)、けれども質量のある物質が大量に存在して銀河を動かしていることになるのではないかと考えた。
 1947年、宇宙の出発点が「ビッグバン」にあったとする「ビッグバン宇宙論」を、アメリカの理論物理学者のジョージ・ガモフが提唱した。これによると、宇宙がハッブルの法則に従って今もなや膨脹しているのであれば、過去に遡って考えると、宇宙の最初は超高密度の状態の一点に集約されるだろう。それを時間でいえば、宇宙は約137億年前に誕生したと見積もられることになる。つまり、宇宙の最初は超高温、超高密度のいわば「火の玉」が大爆発を起こして誕生した。その時の温度は、「10の27乗(10億の3乗)度」もの高温であったと言われる。これは、それまで主流であったアメリカの天文学者フレッド・ホイルの「定常宇宙論」、つまり、「ハッブルが発見した宇宙の膨張は認めつつも、次々に銀河が生まれることで、結局、宇宙の物質の密度は保たれ、永遠に不変だとする考え方」を打ち砕こうとするものであった。ホイルにとっての宇宙には、始まりもなければ終わりもない。この考えに凝り固まっていた彼にして、ガモフの理論を「あいつらは、宇宙がビッグバン(大爆発)で始まったといっている」と挑戦的な調子で述べたのは、科学の世界でもよくあることなのだろうか。

(続く)

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