『(72)』『岡山の今昔』倉敷美観地区

2017-03-30 08:53:48 | Weblog
『(72)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区

 JR倉敷駅から歩いて10分位で行けるところに、およそ江戸時代までの往時をしのばせているのが、倉敷川畔の「美観地区」や鶴形山南麓から東西にのびる「本町・東町」といった町並みである。このあたりは、古来より交通の要衝であった。高梁川の支流としての倉敷川は人造の堀川であり、児島湾に注ぐ。いつの頃からか運河として利用され、その河港には多くの商人が集まり、蔵が建ち、やがて備中地方の物資が集積していた。江戸時代ともなると、このあたりは備中の商業の中心地となった。
 このあたりの町屋や蔵を歩きながらつらつら眺め歩いてみる。すると、なかなかの風情がある。建物の見どころは、実に多彩だと教わる。識者の案内により箇条書きに並べ立てれば、大きなものでは塗り屋造りと土蔵造りが主なもの。前者は、町屋に多く見られる構造で、防火対策として隣家と接する両側面と正面2階部分の 外壁全体を白漆喰に仕上げている。また後者は、全体に土塗り白漆喰仕上げがされている構造物である。それから各々の建物にくっつけて観賞できるものがある。まずは倉敷格子で、上下に通る親竪子(たてご)の間に細く短い子が3本入っているらしい。続いて倉敷窓といって、建物2階の正面に窓が開かれていたり、虫籠窓(むしこまど)といって窓格子が塗り込めになっていたりする。聖窓(ひじりまど)と名付けられる、塀に取り付けられた格子の入った小さな出窓もある。犬矢来(いぬやらい)とは、円弧状の反りついた割竹や細い桟木を並べた柵のことで、 矢来の語源には「入るを防ぐ」という意味があるらしい。
 さらに、なまこ壁(海鼠目地瓦張)と呼ばれる紋様が見てとれる。これは、正方形の平瓦を外壁に張り付け、目地を漆喰で盛り上げて埋める手法だとのこと。この盛り上がりの断面が半円形のナマコ形に似ているのだという。奉行窓というのは、土蔵造りの蔵の窓形式として使い、長方形の開口部に太い塗り込めの竪子を入れている。他にも、鉢巻といって軒裏や軒、出入口土戸が、防火のため漆喰で厚く塗り込められているのが見られる。およそ、これらを全部視野に収めようとすると、それなりの時間と体力、気力がなくてはかなわないようである。
 この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方はこれからどうして暮らしていったらいいだろうかなどど、不安な毎日を送っていた。その時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。この建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけに満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929年)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだう。日本最初の西洋美術館となる。会館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。
 主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
 むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
 倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再生たものである。三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
 この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」

(続く)

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□11『自然と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(新生代)

2017-03-29 21:41:04 | Weblog
11『自然と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(新生代)

 それからは、新生代(6550万年前~現在)に入っていく。新生代は三つの紀に分かれている。その最初の第三期は、古第三期(6550万~2300万年前)と新第三期(2300万~260万年前)の二つに分かれる。その新生代の始まりに近い、今からおよそ6550万年前頃の中生代白亜紀末期とその後新生代古第三期との境目には、生物の大量絶滅があった。そのことがわかる地層の境界線は、「K-Pg境界」(Kはドイツ語の白亜紀(Kreide)の頭文字。またPgとは英語の古第三期(Paleogene)の略。最近まで古第三期の旧名である「第三期」(Tertiary)を取って「K-T境界」と呼ばれていた)と呼ばれ、デンマーク・スティーブンスクリント地区、イタリア・グッビオ地区など、世界で350か所以上の地層から露頭(ろとう)が発見されている。
 これらの地層形成の原因としては、「隕石衝突説」で説明するのが定説であり、1980年、物理学者のルイス・アルバレズと、その息子で地質学者のウォルター・アルバレズが、「中生代白亜紀/第三紀境界での生物大量絶滅は巨大隕石衝突によって引き起こされた」とする論文を発表したのを嚆矢(こうし)としている。これより前のイタリアで、ウォルター・アルバレズはK-Pg境界に当たる薄い地層を発見していた。二人は協力してその地層から採取した微量元素の分析を行い、粘土層に通常ではあり得ないイリジウムの異常濃集のデータを検出するに至る。イリジウムとは、通常の地表ではほとんど見つかっていない、地球の奥深くあるだろう、もしくは隕石に多く含まれる元素である。
 彼らの試算によると、この時、宇宙から飛来した隕石の大きさは、地下約1キロメートルのところに埋まっていて、直径約180キロメートルの円形構造をしていた。この巨大隕石の衝突で、地上ではマグニチュード11以上の烈しい揺れが起こる。メキシコ湾沿岸には巨大津波が押し寄せたことであろう。生物への影響も甚大であった。衝突で海面が沸き立ち、海水が陸地に押し寄せ、植物が死滅していった。その時、地上に巻き上げられたチリやガスは空中に漂って日光を遮り、温度がさらに低まり、植物たちは光合成ができなくなって死滅していった。植物の死はこれを食する動物の死、さらにそれを食べる肉食動物を絶滅へと追いやる。数年にわたる長い冬が地上を覆い、生物たちにとっての死の世界が地球上に大きく広がった。
 そして今から約6500万年間前になると、アメリカのコロラド高原が隆起を始める。その隆起にともなって、原生代前期のおよそ18億年前の変成岩の上に、古生代、中生代、そして新生代の地層がほぼ水平に重なっているのが、地表に現れてきたのである。およそ1000万年間前になると、「世界の屋根」としてのヒマラヤ山脈の形成が始まる。ユーラシア大陸にインド亞大陸が衝突して、上昇を始めたものである。
 古第三期の次の新第三期(2300万~260万年前)になると、ほ乳類の活動がさらに盛んになり、全地球に広がって、さらには、類人猿から原人への分岐があった。新生代の第三期の次は第四紀(260万年前~現在)に入る。この紀の最初の世は更新世ということであるが、およそ30万年前にはその頃まだ海に浮かぶ大陸の一つであったインドに、またもや小惑星が衝突したのではないかと言われている。そしておよそ20万年前、いよいよ現代の私たちに直接繋がる人類、ホモ・サピエンスが登場してくる。
 なお、以上の絶対年代の紹介にあっては、金子隆一さんの監修・小沼洋一さんのまんがによる「恐竜化石のひみつ」、学研、2015、それからNHK「地球大進化」プロジェクト編「NHKスペシャル地球大進化、46億年・人類への旅」NHK出版、2004、荒俣宏・の責任編集「このすばらしき生きものたちーカンブリア大爆発から人工生命の世紀へ」角川書店、1993、白尾元理「」岩波書店、2013、(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)などを参させていただきながら、なるべく共通な年代表記を見出そうと努めた。

(続く)

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『(74)』『岡山の今昔』吉備高原

2017-03-13 21:50:42 | Weblog
『(74)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』吉備高原

 現在の岡山県には、吉備高原(きびこうげん)と呼ばれる、海抜200~600メートル位のなだらかな傾斜を上がったところに、平坦な高原がある。東西南北にして、瀬戸内海沿岸低地と中国山地間に、東西は岡山県から広島県にかけて広がる。その面積だが、ざっと岡山県域の3分の2を占めている。この高原面には、約1600年前の海侵によって堆積した砂岩や泥岩の地層が今も侵食をまぬがれ局地的に残っているとのこと。気候としては、「やや内陸性」といっていいのかどうかはわからないものの、県南部と比較してかなり冷涼な地域となっていると聞く。
 その中を、旭川と高梁川が100~200メートルもの深い谷を刻み込んで流れている。この高原はこうしてできた訳だが、全体に、谷に隔てられた台地状の形をしていて、これを「隆起準平原」と呼ぶ。そうはいっても、この場合の平原とは、全体として緩やかに波状に起伏する小起伏の山地の略なのであって、平野というには、隆起がある上、でこぼこも存在するということであろうか。地質学者の宗田克己氏の『高梁川』に、こうある。
 「吉備高原の準平原面が、ほぼととのったころ、すなわちいまから五〇〇万年前、第二の瀬戸内海が誕生した。瀬戸内海はこれより先、二五〇〇万年前に、岡山県全域をおおうものほどのものとして誕生している。そしていまの瀬戸内海が第三の瀬戸内海として誕生したもので、高梁川誕生と発達は主として、この第三のいまの瀬戸内海にかかわるものである。
 さて県南の低地や丘陵、少なくとも数十メートルくらいまでの微高地は、この第二瀬戸内海の先例を受けたものといってよい。いま見る県南の大地のような丘陵は、みんなこのことによって、その頭を削られたものである。そしてこの瀬戸内海も、徐々に海退し、これにともなって、河流や潮流は、いまは埋没している低地帯の基盤を、掘りこんで、いま一般の河川の河口付近で見られる、分流による微地形のような地形をつくることになった。なお一方では、徐々の地盤隆起にともない、各地に沼沢地で、大きいものは、高松ー総社地区のものをあげられるであろう。」(岡山文庫59)
 この吉備高原だが、地図でざっと見ると、さしあたり加賀郡吉備中央町なり、上房郡賀陽町あたりが、ほぼ中心に位置しているようである。この地は、東から南は岡山市、総社市、西は高梁市、北は真庭市、美咲町に隣接している。この地形の変化がよく分かる所としては、川上郡川上町の西部、もう広島県に程近い場所にある弥高山が名高い。この山の海抜は654メートルと比較的高い。晴れた日には、頂上から吉備高原はもちろん、北は中国山地、南は瀬戸内海の島々、さらに四国の山並みまで眺望できるらしく、関東で言えば飯能山麓の関八州展望台あたりといったところだろうか。この山の麓には、キャンプ施設が整い、運がよければ古歌にも詠まれた雲海を目の当たりにできるらしい。
 この山の頂上に立って、西の方角を辿ると、眼下の川上郡川上町、から道郡の成羽町(なるわちょう)、高梁市総社市北部並びに総社市北部の山間地を経て、吉備高原の中心(上房郡賀陽町あたりか)がはるかに眺望できるのであろうか。気候面では、やや内陸性で県南部と比較して幾分冷涼な地域だとされることから、水稲に加え、ここならではの高原野菜、果物に花木、動物相手では酪農、肉牛の肥育などと、実に多彩だ。また、岡山空港に隣接し、中国横断自動車道岡山米子線賀陽インターチェンジからのアクセスが確保されているとのことだ。
 あるいは、この高原に流れる川に宇甘川(うかいがわ)があって、旭川の支流の一つである。金川(現在の岡山市金川)まで流れて旭川に合流する。その宇甘川を県道31号線に沿って遡ること暫くして、谷間が極度に狭まるところにさしかかる。号して「宇甘渓」(現在の岡山市加茂川町、その前は御津郡加茂川町)という。全長は約5キロメートルである。急流に浸食され、岩肌がそそり立つ。かなりの絶壁となっているらしい。奇岩・音岩も見られるとか。そんなこんなの岩肌を飾るように赤松やケヤキ、イロハカエデなどの紅葉が見られる、親しみやすい景勝地となっている。

(続く)

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『(87)』『岡山の今昔』21世紀現代の岡山人

2017-03-07 21:00:13 | Weblog
『(87)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』21世紀現代の岡山人

 渡辺和子(1927~2016)は、北海道旭川市の生まれ。父親は、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎である。1936年(昭和11年)の2・26事件の時の父親は、陸軍教育総監の要職にあった。自宅で軽機関銃を据え付けられての銃弾をうけ、6、7人が寝間に入ってきて「突いたり、切ったり、最後とどめを刺されて」(「NHK映像ファイル・あの人に会いたい」での本人の述懐)、死亡している。その父親の死場を、9歳で目の当たりにした経験を持つ。18歳でキリスト教のカトリックの洗礼を受けた。戦後も宗教者としての道を歩いて、1963年(昭和38年)に36歳という若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任する。英語に堪能で、1984年(昭和59年)にマザー・テレサ(死後にローマ・カトリック教会から「聖人」に認定されたらしい)が来日した際には通訳を務めた。
 後にノートルダム清心学園の理事長・名誉学長に就任した彼女の著書に『置かれた場所で咲きなさい』があり、その柔和な人となりとともに、静かなるブームを呼ぶ。それにしても、「置かれた場所で咲きなさい」とは、どういうことであろうか。人生、堪えて堪えて、受け身で終始するうちに、花が咲くことにつながるのであろうか。。
 「時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。」
 ここまで読んで、なるほどと思われる面もあろうが、大抵の読者は納得までには至らないのではないか・・・・・、続けて、こうある。
 「今という瞬間は、今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。人生は点のつながりとして一つの線であって、遊離した今というものはなく、過去とつながり、そして未来とつながっているわけです。お気に入り詳細を見る 神様は私たちの「願ったもの」よりも、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。しかしすべて必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることが大切です。」
 ここには、マザー・テレサとの違いは、あまり感じられない。というのも、テレサは、「私たちは世界を変えようとは思いません」(DVD『マザーテレサの世界』)といい、私たちの目の前で苦しんでいる人を出来うる限り救いたいのだと。渡辺の到達した境地も、そのような世界なのかもしれない。
それにしても、この世界においては、植物はなかなかに動けないが、動物は動く。動物たちは、土に生きているのではないので、動き続けていないと生きていけない、とも読み取れる。それからに、意識とは何か。それは、自分の周りの環境を評価する機能の集合体だ。だとしたら、人間を人間たらしめるものとは何であろうか。物理学者によれば、それは、時間の概念がわかることだと言われる。動物は今だけを生きている。人間の脳は、未来のことまで考えられる。自分が死んだ後のことまで考えられる。
 矢山有作(ややま ゆうさく、1924~2017)は、津山市に生まれる。中央大学法学部を卒業してから、会計検査院事務官となる。20代のうちに退職し、津山市議、岡山県議を経て、1962年に参議院議員となる。その後衆議院議員になったりした。日本社会党に属し、中央執行委員教宣局長を歴任する。公職では、参議院社会労働委員長や衆議院石炭政策特別委員長などの要職も務めた。1986年の選挙に落選し、そのまま引退したのであったが、矢山の政治活動が真価を発揮し出すのはむしろそれからであった。
 おりしも、戦後の平和勢力の有力な橋頭堡の役割を果たしていた日本社会党は、憲法第9条に定める絶対平和主義からの決別を検討しつつあった。とりわけ、市民運動との乖離が広がりつつあった。その後は市民運動家として、政党の場に囚われないように心がけたのであろうか、主な活動の場をそこに移したようである。戦後直ぐからのライフワークでもある日本原駐屯地問題をはじめ、国鉄労働問題や苫田(とまた)ダム反対運動などに取り組んだ。日本社会党が「専守防衛」に転換すると、これに同調することなく、それからは第9条を守る市民活動など護憲派として活躍した。
 そんな矢山の活動スタイルの一貫した特徴としては、地域の人々とともに歩んだ、しかも世界に向けて開かれた視点をもって、ということではないだろうか。晩年に入ってからの政治活動では、例えば朝日新聞に「自衛隊イラク派遣岡山訴訟、憲法判断せず原告敗訴」なる記事との関連が見える。
 「イラクへの自衛隊派遣は憲法9条に違反するとして、岡山県内に住む約40人が国を相手に派遣差し止めや違憲確認などを求めた集団訴訟で、岡山地裁(近下秀明裁判長)は24日、派遣についての憲法判断に踏み込まず、原告側の訴えを全面的に退ける判決を言い渡した。
 訴えの根拠にできるかどうかが争点となった「平和的生存権」については、具体的な権利だとして原告の主張を認めた。この判断をめぐっては専門家から、過去の判決よりも踏み込んだとして評価する声も上がっている。一方で判決は「それによって保護されるべき権利侵害はいまだ生じていない」と述べ、1人1万円の慰謝料請求を退けた。
 判決はまず、憲法前文に「平和のうちに生存する権利」とある平和的生存権の性格を検討。「憲法上の基本的人権であり、裁判規範性を有する」と述べ、裁判所が直接、審査の基準として適用できると判断した。
 さらに、判決は「徴兵拒絶権、良心的兵役拒絶権、軍需労働拒絶権など」を例に挙げ、これらの権利が具体的に侵害された場合は、個人が国に損害賠償を求めることも認められるべきだとした。
 一方で、今回の原告らの主張については「結局のところ、派遣によって、自己の憲法上の見解、平和的生存権に基づく平和、非戦の心情や感情を害されたとして慰謝料を求めるに過ぎない」と指摘。「派遣は原告らに向けられたものではなく、原告らが直接に参戦を迫られ、現実に生命、身体の安全などが侵害される危険にさらされたわけでもない」として退けた。
 派遣の違憲性については「仮に違憲、違法であったとしても、原告らの法益を侵害し、損害賠償を要することはないことになるから、判断しないのが相当」と述べた。
 また、派遣差し止めと違憲確認については、イラクでの自衛隊の活動がすでに終了していることなどを踏まえ、「訴えそのものが不適法だ」として却下した。
 同様の訴訟は全国11地裁で争われ、岡山より前に判決のあった10地裁では原告側がすべて敗訴。しかし、昨年4月の名古屋高裁判決はバグダッドを「戦闘地域」としたうえで「多国籍軍の武装兵員を空輸するのは、他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、憲法9条1項に違反する活動を含むと認定した。原告側の訴え自体は棄却したため国側は上告できず、判決は確定している。(北上田剛)」(2009年2月27日付け朝日新聞) この時、岡山弁護団の清水善朗弁護士は、良心的兵役拒絶権などを認めた判決について、「自衛隊員が戦闘行為を拒否することも、平和的生存権として行使できることを認めたもの」と語り、河原昭文弁護団長は「平和的生存権では一歩も、二歩も前進した判決」と述べたとのこと。また、矢山有作原告団長は「一歩前進。しかし、国の行為が憲法違反だと、はっきりすべきだ」と語ったのが伝わる。
 矢山のこのような幅広の活動がなぜ可能になったのか、その思想的源流なるものは何なのか、それをたずねてみることは、興味深い。筆者は、矢山がマルクスの徒であったかどうかは、不明にして知らない。けれども、矢山には、21世紀に入ってからの、次なる文章がある。
 「(中略)日本国憲法は押しつけ憲法か?
 自主憲法制定論者の根っこにあるのは押しつけ憲法論です。
 日本国憲法の制定過程をみると、GHQが日本政府に憲法草案を示し、これを最大限考慮して憲法草案をつくることを求めたのは事実です。しかし、これをとらえて日本国憲法は押しつけ憲法と言ってしまうのは、余りにも皮相的な見方です。
 ポツダム宣言は日本の自由主義化、民主主義化、平和主義化、基本的人権の尊重を要求していました。従って、ポツダム宣言に即して新しい憲法を制定することは、ポツダム宣言の受諾から出てくる日本の国際的約束であり法的義務です。しかし、当時の為政者は、それを全く無視して天皇主権の明治憲法と基本的にほとんど変わらぬ憲法案しか作成しなかったのです。このことがGHQの憲法案提示という事態を引き起こしたのであり、而も最終的には、政治目的のために天皇制の温存を意図するGHQ側の当時の国際情勢(天皇の戦争責任追及と天皇制廃止を求める)を背景にした説得に、国体護持、天皇制存続の立場から、自らこれを受け入れ、明治憲法の定める改憲手続きに従って日本国憲法を制定したのですから、押しつけ憲法というのは的はずれの言い分です。当時の世論調査によれば、憲法草案についても、九条についても、国民は非常に高い支持を示しています。一般国民にとっては、日本国憲法は押しつけ憲法ではなかったのです。(以下略)」(矢山有作(元衆議院議員)「憲法雑感」:「岡山部落問題研究所「部落問題ー調査と研究」2000年12月号、第149号」)
 憲法制定過程についてのこの矢山の説明は、GHQの憲法案提示や、天皇制の存続に至った経緯についても遠慮会釈無く、事実を述べてあり、歯に衣を着せることの無い、透明性の高い視座を明らかにしている点で、稀に見る一文といえるのではないか。 


(続く)

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