♦️346の2「自然と人間の歴史・世界篇」レマルク「西部戦線異常なし」

2018-12-30 22:36:45 | Weblog

346の2「自然と人間の歴史・世界篇」レマルク「西部戦線異常なし」

 エーリヒ・パウル・レマルク(1898~1970)は、ドイツの作家で、第一次世界大戦に従軍し、負傷した経験をもつ。そのかれが、戦後ナチスに追われ、スイスに逃れる前のワイマール時代に、一躍有名になったのが、この作品のためである。 

 その一節には、登場人物による次のやりとりがある。

 「だがまったく滑稽だなあ、ようく考えてみると」とクロップは言葉をつづけて、「おれたちはここにこうしているだろう、おれたちの国を護ろうってんで。ところがあっちじゃあ、またフランス人が、自分たちの国を護ろうってやってるんだ。一たいどっちが正しいんだ」

「大がい何だな、一つの国が、よその国をうんと侮辱した場合だな」(中略)

「そんならおれたちはここで何にも用がねえじゃねえか」とチャアデンは答えて、「おれはちっとも侮辱されたような気がしてねえものな」

 「憲兵のよ、警察のよ、税金のよ、それが貴様たちのいう国家だ。そんなことの学科なら、真っ平だ」
「そりゃあ、うまいことを言ったぞ」とカチンスキイは言って、「貴様初めて本当のことを言ったぞ。国家というものと故郷というものは、こりゃ同じもんじゃねえ。確かにそのとおりだ」

 「そんなら一たい、どうして戦争なんてものがあるんだ」
と訊いたのはチャアデンだ。


 カチンスキーは肩をそびやかした。
「なんでもこれは、戦争で得をする奴らがいるに違えねえな」
「はばかりながら、おれはそんな人間じゃねえぞ」
と歯をむき出したのは、チャアデンだ。
「貴様じゃねえとも。ここにゃ誰もそんな奴あいねえよ」
「そうしてみると誰だ」(秦豊吉訳『西部戦線異常なし』新潮文庫、1950)

 ここには、誇張もなければ、臆することもない、生身の人間の、戦争というものに対する考えが表明されている。。

   それからも行きつ戻りつでの戦闘の模様とか、自軍の塹壕の中の様子とかが繰り返し描写されるのだが、それらも終わりにさしかかり、この物語の独白者こと「僕」は、負傷で死にそうになっていたのを若い生命力で何とか持ち直し、病院を出て休暇をもらい、故郷に帰る。そして、「僕の心はすっかり落ち着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎてゆくがよい。月も年も、この僕には、何も持ってきてはくれない」と、慨嘆する。しかし、その後また戦線に駆り出され、命を削るような修羅場に身をおくのであった。レマルクは、エピローグで、こう書いている。

 「ここまで書いてきた志願兵パウル・ボイメル君も、ついに1918年の10月に戦死した。その日は全戦線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」という文句に尽きているくらいであった。」(同)

(続く)

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□163「岡山の今昔」17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

2018-12-30 21:57:22 | Weblog

163「岡山(備前、備中、美作)の今昔」 17世紀の岡山・兵庫人(宮本武蔵)

  宮本武蔵(?~1645、生年は一説には1584)といえば、剣豪のみならず、墨で描いた絵画をはじめ、書・彫刻・工芸・連歌、果ては晩年の都市計画や庭園設計までもが現代に伝わるという。

 その謎を解く手掛かりとしては、彼自身による次の言葉が挙げられる。

 いわく、「兵法の理をもってすれば、諸芸諸能もみな一道にして通さざるなし。」(『五輪書』)と。

  とはいえ、これが慢心から出たものでないことは、はっきりしている。それというのは、また、こうあるからだ。

 「千日の稽古(けいこ)を鍛(たん)とし、万日の稽古を練(れん)とす。」(同)

 その絵からいうと、重要文化財の「枯木鳴鵙図」(こぼくめいげきず)をはじめ、「鵜図」(うず)、「布袋観闘鶏図」(ほていとうけいをみるのず)などがある。「枯木鳴鵙図」からは、ピンと張りつめた緊張感が伝わる。木の枝の上の方に一羽の鵙(もず)がいて、その枝を下にたどっていくうちに、へばりついた芋虫が見つかる。木の両側には、大いなる空間があって、遠くからでも眺めることができたのではないか。

 

(続く)

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□158『岡山の今昔』~13世紀の岡山人(栄西)

2018-12-26 23:26:58 | Weblog

158『岡山(備前・備中・美作)の今昔』~13世紀の岡山人(栄西)

   臨済禅は、栄西(えいさい、1141~1215)が中国の宋から持ち帰る。武士にも参禅する者が相次いでいく。栄西その人は、備中国の吉備津神社の神主、賀陽(かや)氏の出身と聞く。19歳の時比叡山へ上り、天台宗徒になる。

 伯耆(ほうき)の国の大山寺にも学んだものの、中国留学の志が抑えがたく、伝手(つて)を求めて1168年(仁安3年)に中国大陸に行く。次いで1187年(文治3年)にもう一度、宋(いわゆる南宋(なんそう)のことで、1127~1279年に栄えた)を訪れる。二回目に行った時には明確に禅の一派を学ぶ意思があり、中国大陸の天台山の萬年禅寺で虚○懐○(こあんえじょう)の下で禅を学んで帰国した。

 京都において大いに布教しようとして果たせなかった。そこで鎌倉に赴き、そこで北条政子をはじめ、武士社会への浸透を図っていく。その試みは、無駄ではなかった。当初の想像以上に、うまく行ったものと見える。日頃から死と向かい合わせにいる武士の精神世界に、彼の持ち込んだ禅の思想が合ったのではないか。

 それから、栄西が中国から他に持ち帰ったものに茶の苗があったらしく、佐賀の山村(現在の佐賀県神埼郡脊振村(かんざきぐんせふりむら))に植えたとのこと。現在では、この過疎の村は、日本茶の発祥の地の一つとして知られる。なお、大陸から日本への茶の伝来は、一説には、奈良時代の終わりから平安時代の初期にかけてのことだった、とされる。

(続く)

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□156の2『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、早川八郎左衛門)

2018-12-24 22:16:22 | Weblog

156の2『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(18~19世紀、早川八郎左衛門) 

 

 早川八郎左衛門(1739~1804)は、江戸生まれの幕府の役人であった。全国各地の代官を務める。その早川が、羽州尾花沢から作州久世に転任したのは、1787年(天明7年)のことであった。それからの14年間というもの、代官の職にあった。この間、備中の笠岡代官と倉敷代官を兼務したというから、驚きだ。1801(享和元年)に武州久喜に転出した。

 そんな彼の久世時代の事績としては、『久世条教』を著したのを含め農民の教化に努めたという。この啓蒙書は次のような七箇条から成る。

 いわく、「勧農桑(のうそうをすすむ)」、「敦孝弟(こうていをあつくす)」、「息争訟(そうしょうをやむ)」、「尚節倹(せっけんをたっとぶ)」、「完賦税(ふぜいをまっとうす)」、「禁洗子(せんしをきんず)」、「厚風俗(ふうぞくをあつくす)」とある。

 このうち「禁洗子」には、こうある。

 「天と地と人とを合せて三才といふ。天は父、地は母、人は子也。人は天地の子なる故、その子たる人の為に、日月星の三光日夜行道怠るなく、地は天にしたがひて、陰陽寒暑の往来少しもたがはずして、五穀草木禽獣その外ありとあらゆるものを成育し給ふ事、みな人の為に無窮に勤給ふなり。

 此故に天地は人の父母といふ。父母は我ための天地なれば、我子をあはれむは天の道也。罪なき人を殺事は天の悪(にく)み給ふがゆゑ、天にかはりて上様より賞罰を行給ふ也。然るを此美作の人はむかしより習はしとて、間引と唱へ我子を殺す事いかなる心ぞや。天地の道に背たる仕業なり。」

 「三子を産よし御聞に達すれば、貧富御糺の上貧なるものなれば、時刻を不移鳥目(ちょうもく)五十貫文被下事外の儀にはあらず。いかなる貧ものにても、二子までは母の乳房二ツにて養育すべけれども、三ツ子に至りては一人だけの乳房不足する故、其一人の養育手当として被下儀にて、上には赤子一人といへども如斯大切に被為遊ほどの儀なるを、親の身として子を殺す事言語道断の悪事也。」

(続く)

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◎798の2『自然と人間の歴史・世界篇』中国の天安門事件(1988、その原因をめぐって)

2018-12-24 10:52:50 | Weblog

7982『自然と人間の歴史・世界篇』中国の天安門事件(1988、その原因をめぐって)

  まずは、天安門事件に至ったのはなぜかについて、あまたある諸説の中から、ユニークなものを紹介してみよう。

 「天安門事件は、不幸な事件である。人民に銃火を浴びせた権力として、断罪する人がほとんどである。自分もそれはそうだと思う。だが、自分は、それは一つの失敗だと思う。中国の「社会主義」が、実質的に封建的などの専制権力に演変し終わったとはまだ考えない。

 だが、多くの日本人は、あたかもそうであるように見る。今、日本の多くの人は、中国を冷たくみる。かつて中国を神のごとく崇めた人に限って、今の中国評価は実に厳しい。

 賛美していた国家が、人民に銃口を突き付けるのだから、そのショックの大きいのはわかる。だが、私は、そうした理解の仕方は、冷厳な現実から眼を背けるロマンティックな見方だと思う。

 昨日まで、専制国家だった国が、革命をやった翌日から神のごとき理想の国となるなどということは、おとぎ話だ。」(岩間一雄・岡山大学教授「杭州の七日」、岡山問題研究所「問題―調査と研究」一九九四年二月号)
 これで言いたいのは、中国革命によって古い封建的な人民支配が完全に終わりを告げ、社会主義志向にもとづく法治国家として歩んできているというのは、正しい理解ではないことにあろう。そうなると、歴史というものは、前向きにとらえたい。例えるに、国家の指導層はマルクスの思想で武装していたとしても、その彼らの頭の中は、マルクス主義の中国的理解であったのではないか、そうとすると、そこに革命により社会の指導層になった彼らの思想的限界があったのではないか、そういう考えにも発展しうる。

 

(続く)

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□10『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

2018-12-23 22:51:55 | Weblog

10『岡山の今昔』吉備の埴輪の起源

    埴輪(はにわ)というのは、吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)では、弥生時代の墳丘墓に見られる、土を焼いて作られた造形物だ。ちなみに、楯築遺跡(現在の倉敷市、足守川を越えたあたりで南に見える弥生時代の墓)から出土している「楯築」は、ここでいう埴輪の先祖だと考えられている。

 話を戻して、最も古い時代の埴輪は、円筒埴輪、具体的には土器の台(特殊器台)と壺のセットであって、それが起源だと考えられている。

  元はといえば、死者に供えられたり、祭りに用いられたりしていたのであろうか。それが、畿内に大形の前方後円墳が形成されていくなかで取り入れられ、円筒埴輪として発展してきたものと考えられている。 

  だが、埴輪の元がそうだというには、それが殉死する人の代わりに作られたのに違いないという意見を退けることができるかどうか。因みに、『日本書紀』の垂仁大王32年7月の条において、野見宿禰(のみのすくね)が今までの殉死にかえて、埴土(粘土)をもって代わりとした旨、事細かに書かれている。

 それというのも、垂仁大王のおじの倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなったとき、そばに仕えている人達も生きたまま墓に埋めてしまった。その部分の口語訳には、こうある。

 「死んだ大王の弟を葬る折り、近くに仕えていた人を、生きたまま墓のぐるりに埋め立てた。数日たっても死なず、昼夜となく泣き叫んだが、ついに死んで腐った。犬や鳥が集まって歯肉を食った。」(なお、当時はまだ「天皇」位はないので、「大王」とした。)

 それを聞いた大王は、これを憂えた。その後、皇后の日葉酢姫命(すばすひめのみこと)が死んだ。その時、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰が粘土で人や馬をつくって、これをいけにえの代わりに並べたらどうかと彼に提案し、承認をえた。それ以降、埴輪を古墳に並べるようになったというのだ。
 とはいえ、これは、あくまで伝説で、4世紀には人物埴輪はつくられなくなったという。

 

(続く)

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ

2018-12-23 20:57:04 | Weblog

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『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』へようこそ
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訪問者のみなさま

 ようこそ、美作(みまさか)から小川町へ、わたしの故郷ページへ
 わたしのブログ『美作の野は晴れて』、『自然と人間の歴史・世界篇』、『自然と人間の歴史・日本篇』及び『岡山(美作・備前・備中)の今昔』(全てが未定稿)を訪れていただいてありがとうございます。
 一つは、「美作の野は晴れて」です。第一部は私の小学校まで、第二部は中学校から高専までです。そして第三部は、それから現在までの私の歩みです。
 二つ目は、『自然と人間の歴史・世界篇』です。これは、宇宙の開闢(かいびゃく)以来の自然と人間の歴史を世界的視野で通覧するものです。主立った史料の紹介を兼ねていることもあり、その分だけ分量がかさみます(現在の見積もりでは、1000項目程度)。珍しいところでは、「列伝」としての人物紹介や世界の国・地域での動向追跡を試みています(以下、同じ)。

 三つ目は、『自然と人間の歴史・日本篇』です。これは、日本列島ができて以来の日本の自然と倭人・日本人の歴史を通覧するものです(現在の見積もりでは、700項目程度)。

 四つめは、「岡山(美作・備前・備中)の今昔」です。こちらは、岡山の郷土史です。こちらは、だんだんに足で出向いてつくっていくつもりでおります。地域の人などに元気になってもらえるような話題を何某か提供できればというのが、切なる願いです。
 これから、全体として徐々になりますが、新しいものに改訂していく予定でおりますので、ご理解をお願いします。中でも、新訂のものは、見出しにそれなりの識別を付けます(現在の見積もりでは、200項目程度)。
 恐れ入りますがお時間をいただいてご一読の後、よろしかったら、ご感想をお寄せください。これからの紙面づくりに参考にさせて頂きます。
 なお、現在までのところ、内容の未熟さ、誤り、表現のまずさ、誤字脱字なども非常に沢山あって、お読み苦しいことと察します。でしょうが、だんだんに訂正していくつもりでおります。なにとぞよろしくお願いします。
 それから、このブログの記述が、何らかのことに利用されることから生まれる損害等につきましては、当管理者は責任を負いかねますので、念のため申し添えます。学習会などで使われたりする場合には、その旨を事前にお知らせ戴けるとありがたいです。
 以上
2018年12月22日更新、丸尾泰司(在・日本国埼玉県比企郡小川町)

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(参考)
『自然と人間の歴史』(世界と日本の2篇)を記入するに当たって留意したい事項(2018年11月10日時点でのもの、自身への覚書)


1.自然の辿ってきた「歴史」についても、人間の歴史の理解を助ける範囲で入れる。これをもって「歴史」といえるのかどうかは、未だに知らないが、あえて試みたい。
1.歴史的真実かどうかが確かめられない、神話や伝説の中にも、某か学ぶものがあると考えている。宗教は、今日まで文化の中の大いなる要素の一つとなってきたのに鑑み、なるべくわかりやすくその動きを記したい。
1.その時々の世界の動きと、日本を含む各国・各地域の動きを関連して理解するよう努めたい。世界篇においては、すべての国・地域の歴史を概観するものにしたい。
1.現代史は、21世紀現在までとして扱うことにする。ただし、歴史はイコール過去(人間自身でいうと、個体としての死の積重ね)であって勝手に変えることはできない。
1.史料の引用に当たっては、ある程度詳しく、丁寧、わかりやすい紹介を加えたい。
1.現在進行中の事象についての評価は、一日経つ毎に、改ざんすることのできない過去へと変化して止まない。この観点から、ぎりぎりの線まで紹介したい。
1.年の記述の中心を、西暦もしくは西暦中心のものにしたい。西暦を先ず入れ、必要ならその後にくる括弧内に、その国内の暦を入れておくのを基本としたい。
1.国語辞書や漢和辞書の類をほとんど引くことなしに読んでもらいたい。そのため、やや難しいと思われる漢字には、「現代かな」をふっておく。「旧かな」は、追々「現代かな」に改めたい。
1.歴史史料の紹介は、できるだけ、ある程度まとまった、一区切りとして行いたい。また、その出所をできるだけ記入すること。
1.特に、漢文での紹介は、おりにふれ、書き下し文や現代語訳を添付すること。
1.歴史上の人物がどのように生き、何をもたらしたかを簡単に紹介する記事を、織り込んでいくこと。人物紹介には、上から目線で人物を選択することはしたくない。
1.歴史事象をどう認識するかについて、説の分かれるところでは、なるべく2説くらいは紹介したい。その際は、筆者の立場がわかるようにしたい。
                     2018年11月10日現在でのもの、以上
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 早いもので、このブログを始めた2004年から数えて10余年になります。日本国内、岡山県内でまだ行っていないところが無数といっても良い程に、実に多く、(自分と家族の健康上のことや、こちらでの用事もかなりあるので当面は無理かもしれませんが)いつか機会を得て、愛用のリュックサックを背中に担ぎ、県内などを巡り歩いてみたいです。
 定年退職後の要諦は体を大事にしていくことにあるようで、「日々是好日」のつもりで気持ちはできるだけ明るく、いまの体で自分のできることを精一杯取り組んでいます。

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 世界の、この100年間から200年くらいの政治経済社会の歩みを、15本のホームページで概観しています。建設中です。こちらも、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

中国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo9

韓国の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo10

ソ連・ロシアの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo11

アメリカの政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo12

ヨーロッパ連合の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo13

日本の政治経済社会の歩み
http://ktmhp.com/hp/maruo14

ASEAN(アセアン)政治経済社会の歩み
http://www3.hp-ez.com/hp/maruo15/page1

インドの政治経済社会の歩み
http://www4.hp-ez.com/hp/india/page1

ブラジルと中南米諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo17/page1

アフリカ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo18/page1

中東・アラブ諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo19/page1

カナダ、オセアニア及び太平洋諸国の政治経済社会の歩み
(準備中)

東欧・北欧諸国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo20/page1

中央アジアとその周辺国の政治経済社会の歩み
http://www5.hp-ez.com/hp/maruo23/page1

世界の政治経済社会の歩み
(準備中)

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◻️104の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、岡山桃太郎伝説)

2018-12-23 18:58:55 | Weblog

104の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、岡山桃太郎伝説)

 さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
 ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。

 この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。履く備前のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。

 このあたりを舞台にしての作り話では、『桃太郎伝説』が名高い。これにまつわる話は、現在の山梨県の大月市をはじめ、全国にかなり多くあって、互いに「こちらが本家本元だ」ということなのかもしれぬが、以下は岡山に限っての話にさせてもらおう。

 この話の主人公の桃太郎は、桃から生まれたとされる。だから、そのような人間はいる筈がなかろう。それでも人として振る舞い、また大きくなってからは動物たちを家来に従えて旅する訳なので、そのことに例を借り、処世訓なり現世への戒めなりを印象深く人民大衆に訴えたものと考えられよう。

 いまこの話の原型ができたといわれる、室町時代の中盤から末期にかけて振り返ると、「戦国時代」や「下克上」(げこくじょう)とも形容される、油断ならない状況であった。この政治的混沌の時期には、『かちかちやま』や「舌きり雀」などの寓話も作られた。私たちの『桃太郎』伝説も、この時期に出来上がったと考えられている。前者の物語からは、同時代の殺伐たる空気が読み取れる。
 実は、2016年春から、吉備線の愛称というか、別名というか、それがJR西日本の提案で「桃太郎線」と呼ぶことになったそうだ。それにしても、「桃太郎線」が、なぜここに登場してくるのであろうか。それこそは、この寓話にまつわるミステリーなのだが、その出所については確かなところは分からない。ともあれ、話は現代の明治・大正のあたりから、この国の中世から近世までに遡る。

 大方の向きが唱えている結論から言うと、前に述べた吉備津彦命と鬼の戦いの伝説が、別にあるところの桃太郎の寓話(ぐうわ)と結びついて、その結果『桃太郎』伝説が生まれたのではないかという。

 この二つの話を結びつけた立役者としては、岡山市の彫塑(ちょうそ)・鋳金(ちゅうきん)家の難波金之助(1897~1973)であって、彼は先の大戦前から「桃太郎会」を結成して吉備津神社を参拝し、両者の結びつきを大いに宣伝したとのこと。戦後になると、「桃太郎知事」と呼ばれる三木行治が岡山国体(1962)のシンボルに採用、そのあたりから行政も入っての「おらが国の桃太郎話」が喧伝されるようになる(詳しくは、例えば2016年6月4日付け朝日新聞、「みちものがたり・吉備路(岡山県)」)。

 要は、先の大戦前までの日本の各地で、人々は苦しいことも多々あったであろう、それらを吹き飛ばして何とか明るく生きていきたいものだというのが、たまたま室町頃からの桃太郎話に飛びつき、全国各地でその土地、土地にふさわしい話に脚色され、再出発をしたのであったようなのだ。ひょっとしたら、この話の原形にあるのは、その時代に生きた人間の息遣いであって、作者の心情はもっと切なく、例えば平和な世を希うものであったのかもしれない。

 

(続く)

 

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□218『岡山の今昔』20世紀の岡山人(安倍磯雄)

2018-12-23 10:35:04 | Weblog

218『岡山(美作・備前・備中)の今昔』20世紀の岡山人(安倍磯雄)

 

 安倍磯雄(あべいそお、1865~1947)は、幕末の福岡藩士の家に生まれた。

 この人の岡山とのかかわりは、彼が岡山キリスト教会の牧師を務めていた時のことであった。具体的には、1887年以降、91年から95年に帰国するまでのアメリカ留学の時期を挟んで、1997年まで続いた。

 牧師というからには、信者や教会を訪れた人々への対応があったであろう。日曜礼拝には、参加者に説教をしていたのであろうし、地域の人々ともかかわりが生まれていた。

これらのうち、地域へのかかわりも重要であったらしく、彼の自叙伝「社会主義者となるまで」の一説には、こうある。

 「然し一方には特殊の中から教会員になった人があった。岡山の隣接地に竹田村という特殊があった。其処から中塚(なかづか)という一家族が率先して岡山教会員となった。其家には多少の資産があったのみでなく、主人には相当の教養があった。毎日曜の午前には教会堂で日曜学校が開かれ、幾組にも分れてバイブルの講義を聴くことになって居た。教師は教会員中の元老が務めるのであって、中塚も其一人であった。(中略)

 私は赴任後此光景を見て感激に堪えなかった。キリスト教の精神が博愛主義であり、平等主義であり、平民主義であることは同志社時代に充分に会得していた。私がキリスト教に引き付けられたのも全くこの精神のためであったと言い得る。」(改造社版と光善社版がある)
 なるほど、その時の出会いにより、何がそこまで自分の心をつかんだのかということが、ここに記してある。その心のあるところへ、何かしらの形なりで迫って来た、特別の思いが込められているようで、面白い。

 後に早稲田大学の教授となった安倍は、キリスト教社会主義者の一人として、また日本における「野球の父」としても名を馳せていく。その多感な青年時代、教会活動で接したかかる情景が生涯を通じて支えの一つになったであろうことは、想像するに難くなかろう。

 

(続く)


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□104の1の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎話2)

2018-12-23 10:34:19 | Weblog

104の1の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎話2)

 それが何であれ、郷土のよい話として人々によって受け継がれていくためには、何があればよいのだろうか。それにしても、物事、馴れないところで具体的な選択肢を伝えるには、先ず話の筋道を整えることが大切であって、その何よりもこの寓話に「凄惨さ、残忍さ」が感じられる場合には、それをぬぐい去る仕掛けが必要であった。

 案の定、岡山人がこの寓話を導入する時には、そうはうまくならなかった経緯があるようだ。そのためか、吉備線のみならず、宇野線の名称についても、また地元の人たちに提案があった模様。提案を受けての地元の反応は、前向きのものではなかった、とも言われる。その理由としては、桃太郎寓話と地元の利益とが容易に結びつくのではなく、「唐突感」があったからではないかと、勝手に想像するのだが。
 それでは桃太郎話の未来を切り開くには、どうしたらよいのであろうか。そのためには、例えば、あの勇ましく、軍隊調の歌をなんとかしてほしい。全部をご存知でない方もおられるかと、歌詞には、こうある。
 「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな。
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう。
3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう。
4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島。
5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや。
6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや。」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)
 この歌については、あたかも、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った「鬼退治」として、前向きの印象を持たれる人が多いのかもしれない。ところが、中身は相当に異なっている。1~3番目は、違和感はあるものの、まあ、普通の範囲内だろう。だが、それの歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、なんだか様子が怪しくなっていく。最後では、主観としては、何というか、ガチガチという位に固くなだ。だから、おしまいまで歌う気がなくなってしまうのだ。なにしろ、岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない。それでも、なんだか寂しい気がしてならない。
 この作り話の由来は、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説と関わりがあるのかもしれない。江戸期までには、今日に知られる全体の構成が出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立て、力をもって征伐を加える構成になっているのは、室町以来の伝統をっているのかもしれない。

 しかも、桃太郎一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬に黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一部には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、元々はそうでなかった。その種の話は、日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。あわせて、全国で新規まき直しの話の伝わっていた愛知・犬山や高松・女木島(めぎじま)の『鬼ヶ島』洞窟話とも連携するなどして、今世紀を見据えた平和を愛する桃太郎話の構築に努めたが良いのだろう。

(続く)

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◻️104の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、高松城水攻め)

2018-12-23 10:33:05 | Weblog

104の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、高松城水攻め)

 さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治(しみずむねはる)であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
 ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。

この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。伯備線のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。

現在のおよその行路はざっとこのようなのだが、総社に入って最初に現れる川こそが、この戦国末期の戦いに際し、攻防に大きな影響を与えたとされる足守川(あしもりがわ)なのである。
 この地この時、秀吉が黒田勘兵衛の入れ智慧でとったとされる戦術の名は、「水攻め」なのであった。この周りの線に従っては、当時毛利方の援軍四万がぐるりと楕円陣を北向きに構えていた。そのあたりから北に向かっては、丁度すり鉢のような地形になっていて、それをぐるりと鳴谷川、長良川、血吸川などの小さい川がその周りを取り囲むように経由して、やがて合流する足守川の方へと向かって流れている。地質学者の宗田克己氏による推理(「私考」)には、こうある。
 「高松城は当時沼の城として、低湿地の城として、中央に築城されその要害を誇っていたのであるが、これが近くに足守川という天井川があってのもので、もしも堤防が決壊でもすれば、簡単に浸水することに気がつかなんだらしい。

これは私考であるが、このあたりは50ミリの雨で水田が冠水するほどのところであるので、秀吉の攻め込んだ時ももう一帯が冠水していて、それに長雨をたたられ、秀吉にしてみれば手も足もでなくなっていたところ、ふと思いついたのがいっそのこと、もっと浸水させて城に水が乗るまでにしてやろうと、足守川の堤防を決壊して見ずを仕掛けたまでのことで、歴史に伝わるほど秀吉は大したことをしでかしたとは考えていなかったのであろうと思う。」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59)
 たしかに、梅雨時ともなればこれらの川らかは水かさが増し、ただでさえ湿地帯になるというのがふさわしい地形ではある。その湿地帯の中心部にある城に向かって、北西方面から下ってきて、そこからは西から東へと流れているのが立田川であって、この川の丁度、現在の吉備津駅と備中高松駅とに位置する「蛭ケ鼻」を羽柴軍が堰き止めた。高いところでは「7メートル」とも言われる土塁でぐるり囲んだという。そうなると、降りしきる五月雨は湿地帯の真ん中につくられていたこの城の周囲に溜まるばかりであった。人が自由に身動きできない状況をつくり出したことにより、毛利の軍勢は孤立無援と化した高松城の援軍に駆けつけることができなくなってしまった。
 その両軍にらみ合いの最中の本能寺の変により、主君の信長が殺されたのを知った秀吉は、急遽毛利と和睦した。その停戦協定には、「高梁川より西は毛利、東は宇喜多」の支配下に入ることが記されていた。美作ではその後も、宇喜多の支配を拒む勢力が反旗を翻したものの、すでに態勢は決まった。そして迎えた1584年(天正12年)秋までには、美作全域が宇喜多に帰したという。
 

 

(続く)

 

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♦️350の2『自然と人間の歴史・世界篇』レーニンの「国家と革命」など

2018-12-17 22:03:16 | Weblog

350の2『自然と人間の歴史・世界篇』レーニンの「国家と革命」など

 果たして、世界中の色々な歴史と向き合って何が得られるのであろうか。そして、通常の場合、歴史の教科書にてロシアのヴェ・イ・レーニン(1870~1924)が描かれるのは、特殊な状況においての政治、それも革命に生きた姿が大抵のものであって、かれの学問的な業績についてはほとんど触れられていないのではないか。

 世に政争の書なりその類の演説が大半であるとはいえ、その彼にして、経済学や哲学そして政治学の分野に珠玉の著作や言及があるのを、見逃すべきであるまい。その代表的な一つは、「ロシアにおける資本主義の発展」であろうか。

 二つ目に紹介するのは、「資本主義の最高段階としての帝国主義」ということにしたい。こちらは、ドイツのヒルファーディングの「金融資本論」におけるような株式会社の分析にはとどまらない。それよりもっと綜合的な、生産の集積・集中と金融のそれとの総合的な解説を目指しているのが、特徴的だ。

 そして三つ目には、「国家と革命」ということで、それまでのアカデミズムにおいては見たこともないタイプの論考であった。彼はこの書において、資本主義後の社会主義で国家はどのようになるかを論じた。主として、先達としてのマルクスやエンゲルスの言説に依拠しながら、それに飽き足らない論点を追加している。20世紀初めの政治経済的要素を取り込んで、人類の歴史上おそらく初めて、国家の死滅への道を理論的に述べた。

 むろん、これは彼の死後約百年後の21世紀・現代においても、一つの学問的な仮説であって、大方の理解なり、ましてや賛意を得ている訳ではあるまい。けれども、いや、だからこそ、マルクス主義に基づく国家論としては、まずもってこの彼の業績を挙げない訳にはゆかないだろう。

 その特徴としては、やはり、資本主義の後にくるのは、社会主義社会というものなのであって、他のものではない。それは、資本主義の否定の上に成り立ってこそ、外装・内実ともに意味あるものとなる。なかんずく、それまでのブルジョア的な常備軍と官僚制度を中核とするできあいの国家機構を「こなごなに打ち砕かなければならない」という。

 なお、この場合気を付けるべきは、次のような事柄であるという。

「第一に、マルクスは自分の結論を大陸に限定していること。このことは、当時のイギリスがまだ純粋の資本主義国家の典型としてとどまっており、軍閥もなければ官僚国家もそれほど大した存在ではなかった1871年の時点では、しごく当然のことだった。だからマルクスは、イギリスを除外したわけである。

だからマルクスは、イギリスでは、その当時、革命は、そして人民革命でさえも、「できあいの国家機構の破壊」という前提条件なしでも可能だと思われたし、じっさいまた可能でもあったのだ。」(レーニン著、江口朴郎責任編集「国家と革命」中央公論社の「世界の名著・52」、1966)

 

(続く)

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♦170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク)

2018-12-17 09:52:53 | Weblog

170の3『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453でのジャンヌ・ダルク) 

 もう一度、この間を振り返ろう。ブルゴーニュ派は、ここで策を巡らすにいたる。なんと、敵である筈のイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位するにいたる。これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させて対抗し、フランス王位はここに分裂の時を迎える。

 この祖国のフランスの「危機」の場でに、救世主であるかのように出てくるのがジャンヌ・ダルクその人である。フランスには国民的統合の気運が高まり、彼女自身は国民の愛国心の象徴になっていく。1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派と合流して、シャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を始める。イギリスにとって、敵の敵は味方ということであったろうか。

 そのことで、フランスのシャルル7世は包囲されるという危機に陥った。これを「オルレアンの戦い」といい、この時、彼女は17歳であった。1429年3月に、彼女はシノン城に向かい、シャルル7世にあって自分が神託により戦うことを命じられたという。自分の使命を明かし、フランスの窮地を救うのだという。

 そして、いよいよその時が始まる。ジャンヌは敵軍に包囲されたオルレアンの糧食補給隊約15名の隊長に任命され、4月末には味方への食糧搬入に成功する。そのかいあってか、フランス軍が反撃に転じ、イギリス軍はいったん撤退する。

 次いでの1430年5月、コンピエーニュに入った時の任務だが、300~400名を指揮する騎士隊長に昇格しており、「そのうち百名は騎士で、68名が弓兵ないし弩手(どしゅ)で、2名がラッパである」(近山金次「西洋史概説1」慶応義塾大学通信教育教材、1972)という。

 その活躍たるや、すさまじいとされるまでになっていた。オルレアンを解放、シャルル7世もフランスで戴冠式を行った。ついでジャンヌ・ダルクが加わってのフランス軍は、パリ攻略に向かう。

 その後のジャンヌについては、五月末のコンピエーニュでブルゴーニュ派と戦ってその兵士に捕らえられ、イギリス軍に引き渡される。つまりは、売り渡された。そして、1431年1月9日~3月26日での宗教裁判にかけられて、「魔女」の判決を受け、火あぶりの刑に処せられる。

 その時の調書においては、彼女は助かろうとは思っていなかったようだ。その一部には、こう記されている。

 「お前は旗と剣とどちらが大事か」(前掲書、以下この部分は同じ)

 「剣より旗の方がどんなにか、40倍も大事です。・・・・・人殺しをしないために、敵に立ち向かうときは私は自分で旗をもちました。だから私は誰も殺したことがありません。」 

 「お前の最終目的は何か」

 「声が私に命じます。何でもすすんでやれ、殉教にもしりごみしてはいけない。やがて天国に行くのです」

 ここに同時にあるのは、「偽らざること岩の如し」の感を覚えさせる、英雄的にふるまう、堅固な女性キリスト教者の姿であったろう。

 その後も戦いは続くのだが、シャルル7世は1435年にはブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス王国内のイギリス王領はカレーを残して消滅することで、百年戦争は終結の時を迎える。
 この時を境に、現在のイギリスとフランスとの国境線がほぼ定まり、それぞれの国民という概念がよりはっきりしてくるのであったろう。

(続く)


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♦️170の1『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1350まで)

2018-12-17 09:50:57 | Weblog

170の1『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1350まで)

 ヨーロッパ中世に名高い「百年戦争」とは何であったのか。先ずはじめに、1339年のイギリスによる宣戦布告から1353年のボルドー(現在はフランス領)陥落までの約100年間(その間断続はあるが)の、イギリスとフランスの戦いは、国と国との戦いということでは、必ずしも当てはまらない。フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦いというのが、しっくりする。
 そのきっかけは、フランス王シャルル4世が、跡継ぎのないまま世を去り、このままではカペー家は王位から退くことにならざるをえない。その際、ヴァロワ家のフィリップが次の王位にと立ったのに対し、カペー家出身の母をもつイギリス王エドワード3世が、この王位継承に異を唱える口実を得るにいたる。そして1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張してヴァロワ朝のフィリップ6世に挑戦状を発し、両国の戦争となる。要は、フランス王国内でのプランタジネット家とヴァロワ家のフランス王位をめぐる争いに、封建諸侯の領地争いが重なった。そして、これにイギリス王室が絡んで戦いを挑んでいったものである。
 当時のイギリスだが、フランス国内に領地をもち、そのイギリス領地に関するかぎりフランス国王から与えられたものであり、その限りにおいてフランス国王に臣従しなければならない立場であった。そのことは、1066年のイギリス側のノルマンディ公ウィリアムの軍がこの地にやってきて、いわば征服によってノルマン朝が成立したのに始まる。その後も、イギリス王はフランス内の自分の所領の拡張をめざすのを止めなかった。一方、フランス王はイギリス王領を駆逐してフランス全土の支配を目指した。この両王の対立は11~12世紀を通じてくすぶっていた。
 この「百年戦争」の経過については、はじめはイギリス側が優勢に展開していた。1339年9月末、エドワード3世く派遣した軍は北フランスに侵入する。イギリスがそのヨーマンを中核とした長弓隊の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めていく。1346年のクレシーの戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破るにいたる。一説には、「仏軍は敵の打撃に屈するまえに自ら崩壊して封建軍の弱点を暴露した。英軍は三門の大砲を使い、その弓兵は白い矢を雪のように降らせた」(近山金次「西洋史概説1」慶応義塾大学通信教育教材、1972)という。また、同年9月から翌年8月までにはカレーの地を包囲し、攻撃する。カレーの市民は勇敢に抵抗したが、衆寡敵せず、1347年には、イギリス軍がカレーの占領を勝ち取るにいたる。身を犠牲にして町を救う英雄たちの話(20世紀の彫刻家ロダンの「カレーの市民」は、これをとり上げている)を後世に残して降伏した。そのカレーは、1558年までイギリスの支配下のものとなる。

 1347~1350年にかけては、西ヨーロッパをペストが席巻する。1348年には、広範囲の地方に飢饉も起こって、実に多くの人々が死んでいった。1347年には、フランスとドイツの同盟が成立し、ドイツ騎士団がフランス王の軍隊に来援さんかするにいたる。そして1349年には、南フランスのモンペリエやドフィネ地方がフランス王に買い上げられる。

(続く)

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♦️170の2『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1351~1453まで)

2018-12-17 09:49:35 | Weblog

170の2『自然と人間の歴史・世界篇』百年戦争(1339~1453のうち1351~1453まで) 

  1356年のポワティエの戦いでもエドワード黒太子の活躍でイギリス軍が勝利する。まさに、破竹の勢いであったのだが、こうなるとフランス側も、そのまま負ける訳にはいかないことになっていく。

 それに加え、1358年のフランスではジャックリーの乱、1381年のイギリスではワット・タイラーの乱という農民の反封建闘争があったりで、両国とも内憂外患の時代でもあったから、戦争は長期化を余儀なくなされていく。
 戦争の中期には、一時フランスが盛り返すのだが、決め手に欠けていた。1400年代に入ると、フランス側の内憂は深刻さを加えていく。それに乗じる形で、再びイギリス軍の攻勢が強まった。このフランス側の不統一は、1407年、ブルゴーニュ派(東部・北部が基盤)とオルレアン・アルマニャック派(西部・南部が基盤)がぶつかり合っての内乱となっていく。これに乗じる形で、イギリスのランカスター家のヘンリ5世がノルマンディに侵入し、アザンクールの戦いで大勝した。

 ブルゴーニュ派は、ここで策を巡らすにいたる。なんと、敵である筈のイギリスと結び、シャルル6世を担いでその娘とヘンリ5世と結婚させ、その間に生まれたヘンリ6世が1422年に英仏両国の王として即位するにいたる。これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させて対抗し、フランス王位はここに分裂の時を迎える。
 この祖国のフランスの「危機」の場でに、救世主であるかのように出てくるのがジャンヌ・ダルクである。フランスには国民的統合の気運が高まり、彼女自身は国民の愛国心の象徴になっていく。1428年、イギリス軍がオルレアン・アルマニャック派と合流して、シャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を始める。イギリスにとって、敵の敵は味方ということであったろうか。

 そのことで、フランスのシャルル7世は包囲されるという危機に陥った。フランスの危機を救ったのはジャンヌ=ダルクであった。1429年、ジャンヌに鼓舞されたフランス軍が反撃に転じ、オルレアンを解放、シャルル7世もフランスで戴冠式を行った。ついでジャンヌ・ダルクが加わってのフランス軍は、パリ攻略に向かう。彼女については、はブルゴーニュ派の兵士に捕らえられ、イギリス軍に引き渡される。そして宗教裁判にかけられて、1430年、火あぶりの刑に処せられる。
 その後も戦いは続くのだが、シャルル7世は1435年にはブルゴーニュ派とアラスの和約で講和し、それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され百年戦争終結の前提となった。フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、1450年にはノルマンディを奪回し、1453年にはイギリス領のギエンヌ地方の中心地ボルドーを占領した。これによってカレーを除いてほぼフランス王国内のイギリス王領はカレーを残して消滅することで、百年戦争は終結の時を迎える。
 この時を境に、現在のイギリスとフランスとの国境線がほぼ定まり、それぞれの国民という概念がよりはっきりしてくるのであったろう。

(続く)


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