(90)『自然と人間の歴史』室町幕府と守護大名

2016-12-26 22:03:42 | Weblog
(90)『自然と人間の歴史』室町幕府と守護大名

 1346年(貞和(じゅうわ)2年)に、守護の違法行為を取り締まるために、室町幕府により次の文書が発せられる。
 「諸国守護人非法の条々
一(第一条)大犯三箇条、付けたり刈田狼籍、使節遵行の外、所務以下に相綺(あいいろ)い、地頭御家人の煩(わずら)を成すの事
一(第○条)縁者の契約を成し、無理に方人を致すの事
一(第六条)請所(うけしょ)と号し、名字を他人に仮り、本所寺社領を知行せしむるの事
一(第七条)国司領家の年貢譴納(ねんぐけんのう)と称し、仏神用途の催促と号し、使者を所々に放ち入れ、民屋(みんおく)を追捕(ついおく)するの事
一(第八条)兵粮(ひょうろう)ならびに借用(しゃくよう)と号し、度民の財産を責め取る事
一(第一〇条)自身の所課を以て、一国の地頭御家人に分配せしむるの事
一(第一二条)新関を構え津料(つりょう)と号し、山手河手(やまてかわて)を取り、旅人の煩(わずら)いを成すの事
 以前の条々の非法張行(ちょうぎょう)の由、近年普(あまね)く風聞す。一事たりと雖ども、違犯の儀有らば、忽ち守護職を改易す可し。若し正員存知せず、代官の結構(けっこう)たるの条、蹤跡分明(しょうせきぶんみょう)たらば、即ち彼の所領を召し上ぐし。所帯無くば、遠流(おんる)の刑に処す可す」(『建武以来追加』)
 文中に「大犯三箇条」(だいぼんさんかじょう)とあるのは、御家人の大番役催促、謀反人や殺害人の追捕(ついぶ)の3ヵ条、その付けたりで苅田狼藉、使節遵行までをいう。これらのそもそもは、鎌倉時代のからの各国守護の主要な職権として、源頼朝の時代に定められた。また「刈田狼籍」とは、敵方の他の稲を収穫前に刈り取る行為をいい、「使節遵行」とは、幕府の命により守護が使節を派遣して押領による荘園支配を排除し、下地・所務を正当な所有人に戻してやることをいう。1232年に『御成敗式目』が成ると、これらに夜討・強盗・山賊・海賊の検断が追加されていた。室町時代に入ってからは、本文書における、さらなる追加事項も守護の権限に加えられた結果、各地の荘園所領も含め、自他の領地における紛争や経済に係る守護の政治的・経済的地位は、拡大の一途を辿って行き、ついには室町幕府をも脅かす程の、地方における公的な権力を代表する存在になっていった。
これに関連して、1402年(応永9年)に書かれた、「守護請(しゅごうけ)」と呼ばれる用向きについて書かれた文書を紹介しておこう。
 「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
 ここに、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。時は、南北朝の統一がなされて2年目のことであって、ようやく幕府の政治が落ち着いてきていた。
 ありていにいうと、これにより守護は、荘園・国衙領の年貢取立てを代行する、それぞれ年貢1000石を各領主に納入する役割を担う。その代わりに領主たちは荘園の現地支配から手を引く事になっていた。つまり、互いに中央政治と結びつくことによって、儲けなり権益なりを得ようとする。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのでしないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~92年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

(続く)

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『(13)』『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一後)

2016-12-26 20:20:02 | Weblog
『(13)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一後)

 室町時代における地方の土地の所有関係は、なかなかに複雑になってきていた。その一つとして、先に取り上げた新見荘のその後を語ろう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになったのである。
 しかしながら、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状のとっかかりには、こう記されてあった。
 「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候ハゝ御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくてハ一向御○○○やう歎入候事」
 その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
 そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見○(ならびに)納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、網野喜彦氏の紹介にはこうある。
 「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
 それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)
 なお後日談だが、やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。
 今ひとつの例として、室町幕府が一応の安定期に入った(南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。
 「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
 応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
 ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。ありていにいうと、守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
 こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~92年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。

(続く)

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新70『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展1

2016-12-24 20:59:11 | Weblog
新70『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展1

 中世になっても、科学はまだ相当には発達していない間は、人々はなおも宗教や因習などに大きく影響されていた。しかし近代になると、その中から変革の思想家が現れるに至るのであるから、世の中というものは棄てたものではない。
 ニコラウス・コペルニクスは16世紀の人、カトリック教会の司祭であった。当時の聖職者は、ある意味天体の運行についても責任を負っていたのだろうか。彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることを問題視していた。そもそもの学問の話では、古代ギリシアに生きたアリストテレス(紀元前384~紀元前322)は、地球の周りを星々が回っているという天動説を唱えた。同じギリシアの天文学者アリスタルコス(紀元前310~紀元前230年頃)は、少し違うやり方で天体運航の謎解きを試みる。月のちょうど半分が照らされているのを観察していて、月は球形だから今見える月の姿は太陽光が真横から当たっているからにちがいないと考えた。アリスタルコスは幾何学を使い、太陽Sと半月M、地球Eとし、これらでつくる三角形SMEを描き、角SMEを直角とする直角三角形となるから、角SEMを測れば、角MSEも求められると考えたらしい。地球から観る月と太陽はほぼ同じ大きさに見える。だから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍大きく見える。だから太陽が地球の何倍か見当がつくというのであった。
 アリストテレスの唱えた天動説だが、欠点を抱えていた。夜空に見える惑星は通常、1年をかけて空を西から東へと移動していくのだが、あるときを境にその惑星が東から西へと動いて見える、この「惑い」というか、「逆行」を天動説では説明出来なかった。こんな不規則な現象がなぜ起こるのかを説明しようとした人の中に、クラウディオス・プトレマイオス(100~170年頃、古代ローマ時代のギリシアの天文学者)がいた。彼は、地球の直ぐ外側を回っている火星に着目し、これに二つの円を設定した。まず、火星はある点を中心とする円の上を回っている。その円がさらに地球を中心とする円の上を回っていると考えた。これだと、地球から火星の軌道を追ううちに、普段は夜空を右から左(西から東)へと動いているように燃えるが、あるところから別のあるところまでの空間においては、その逆方向に動いているように見える。
 こうして辻褄あわせで当座を乗りきってきた天動説であったが、2千年以上経ってから研究の道に入った者にニコラウス・コペルニクス(1473~1543)がいた。彼は、かつてのアリスタルコスの研究を知っていたに違いない。彼は、太陽を中心に置き、地球がその周りをほぼ1年をかけて公転するものと考えると、全ての観測結果と辻褄が合うとし、思索を勧め田結果、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した(ここで1年の値が2つあるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる)。
 コペルニクスは1543年に没する直前までこの研究を続け、その思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。その際、天動説を真正面から批判するというよりは、地球が太陽の周りを回ると考えるという説を紹介するという体裁をとった。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。事実、この本の目次は極めて丁寧なものとなっている。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定できるようにしたのであった。これが、当時の先進的な人々に特別の高揚感を与えたことは、疑いあるまい。
 このコペルニクスが唱えた天動説は画期的であったが、世の中に賛意が広がるまでには紆余曲折があった。最初に地動説に賛成した人物の一人に、ジョルダーノ・ブルーノ(1548 ~1600)がいる。彼はイタリア出身でドミニコ会の修道士であった。彼は、行動の人でもあった。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、これに沿うとみられるコペルニクスの地動説を擁護した。ブルーノの人となりはよくは知られていないものの、大層意志の強い人であったのだろう、当時の地上と天上における精神的権威であったローマ教会から異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、記録によると火刑に処せられた。彼が死刑となったことが、天動説の第一の受難だったと言える。
 第二の受難は、1610年にやってきた。それが、ローマ・カトリック教会によるガリレオ・ガリレイ(15641~642)の宗教裁判である。この年、、『星界の報告』の発表の時に最初のシグナルが起こった。彼が自前の望遠鏡で観た「月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、そこは起伏に富んでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地球となんの変わりもない」(岩波文庫、山田慶児・谷泰訳)ものであった。
 当時の人々がとりわけ驚いたのは、彼が木星の衛星に望遠鏡を向けた時の報告であった。ガリレオが木星に望遠鏡を向けると、はじめ3つの衛星が見え、その後さらにもう一つの衛星がみえて、全部で4つが木星の回りを回っている。彼は、それらの毎日の位置の変化を観測し、それらの位置が木星を中心に日々変わり、時には木星の背後に隠れ、また現れることを突き止め、これらは恒星ではなく、木星の衛星であると結論づけた。あたかも、太陽のまわりを地球が回っているようなものだと考えられる。
 ところが、人々は、木星にも地球における月と同じように衛星が回っており、しかもそれが4個も見つかったというガリレオの報告に驚くとともに、戸惑った。というのは、天動説では地球が天体の運行の中心にあるのだと教えている。それなのに、ガリレオの説を敷延してゆくと、その先にあるのは木星と衛星の関係を地球と太陽の間に適用するとどう
なるかの命題なのである。それまではコペルニクスの地動説で説明するしかなく、そこでは地球の自転と公転の両方がごっちゃになって区別できていなかった。ガリレオは、その命題についての正解は、地球が自転や公転をするということだけではなくて、宏大な宇宙の中心に地球があるのではなくて、太陽系においては太陽こそがその中心の位置にあるのであって、地球は太陽の周りを回る一惑星に過ぎないことになってしまう。
 ガリレオの望遠鏡が捉えていたのはそれだけではなかった。観測ノートに記入していた時の彼は、太陽系の惑星の海王星が八等星の明るさで写っていたの目にしていたのではないか、おそらく、それを惑星ではなく、「恒星」として記録している(1612年(慶長17年)12月28日及び1613年(慶長18年)1月28日の観測日誌)。その延長で、肉眼では土星までしか観測できない太陽系の惑星に、7番目の惑星が存在することを発見したのは1781年、イギリスのウィリアム・ハーシエルの仕事によるものであって、その星は「天王星」と名付けられた。
 後日談として、1846年(弘化3年)9月23日、ドイツのベルリン天文台のヨハン・ゴットフィールド・ガレが、フランスのユルバン・ルヴエリエとイギリスのジョン・クーチ・アダムズによる天体力学による計算での予言のとおりの位置に、天王星の外側を回る未発見の第8惑星を観測した。そして、この星は「海王星」と命名された。この惑星の位置は、先の2人がその摂動が天王星によっての運動が乱されていると考え、そこに未知の惑星が存在する可能性を指摘した予報位置から、僅か52度しか離れていなかった。
 海王星は、そのさらに前のガリレオの「望遠鏡がとらえる木星付近の視野に収まる位置にあり、観測日誌に記されたのと同じ方向に来ていた」(小山慶太「科学の歴史を旅してみようーコペルニクスから現代まで」NHK出版、2012)ことをもって、先にガリレオが観測したのと同一のものなのではなかったか、とも考えられている。ちなみに、太陽を「りんご大」に例えると、4メートル離れて水星(ケシップ)が、7メートルに金星(丸薬)、10メートルに地球(丸薬)、15メートルに火星(丸薬)、52メートルに木星(パチンコ玉)、96メートルに土星(パチンコ玉)、192メートルに天王星(5ミリの錠剤)、そして300メートルのところに海王星(5ミリくらいの玉)がある例えになっている(草下英明『図説、宇宙と天体』立風書房、1987)。
 なお、これに関連して、2015年7月14日午前(日本時間では同日夜)、米航空宇宙局(NASA)の無人探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に再接近した。ここで冥王星とは、1930年に米国の天文学者トンボーが「9番目の惑星」として発見を発表したものの、国際天文学会連合による定義見直しで「準惑星」に格下げされた。表面温度は摂氏零下220度を下回り、表面は窒素やメタンなどの氷で覆われている。それでも、この星は、約248年かけて太陽の周りを公転しているのだと言われる。こういう形での探査機による冥王星の観測は史上はじめてとのことであり、同探査機は2006年の打ち上げ後、9年半かけて48億キロの旅をしてきて、いまこの時、太陽系の端に近い、この冥王星のところをまでやってきているということなので、大いなる驚きだ。
 加うるに、1613年(慶長18年)に出版されたガリレオの『太陽黒点の研究』という論文には、当時太陽の黒点は地球と太陽との間にある小さな星と考えられていた。それをガリレオは、太陽を観察して、黒点の位置や大きさが絶えず変わることを知った。黒点は太陽の表面で起きているのであって、太陽が自転することで変化しているのだと彼は記した。イタリアで出版されたこの本の考えを敷延していけば、宇宙は普遍ではなく、変化しているのであって、地球も不動のものではありえないことを言いたかったに違いない。彼の説は天動説に敵対したとみなされ、本が出版された3年後にバチカン法王庁による世俗権力によって宗教裁判にかけられ、あれよあれよと言う間に有罪にされてしまうのだった。
 それでも、真理への道は突き進んでいく。1727年(年)、「年周光行差」の存在が確認された。ここに年周光行差とは、地球の上にいる観測者が地球の公転によって光速で動いていることを考えると、光りの速度と観測者の動く速度の合成によって、光がやってくる方向が変化して見えることをいい、地動説を裏付ける証拠の一つとなる。地球の自転を確認する方法は、さしあたりもう一つ、「年周視差」からも確認できるだろう。ここに年周視差とは、地球が太陽の周りを1公転する間に、地球の地殻にある星は1年周期でわずかに動いて見える、その角度のことをいう。その角度は微小であるから、なかなかに検出できなかった。こちらは、1838年(年)、はくちょう座六一番星の年周視差が検出されたことで確認されるに至る。続いて1851年(年)、レオン・フーコー(1819~1868)が振り子の原理を使って、地球の自転によって、振れる向きが徐々にずれていくことを発見した。

(続く)

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『(22)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(新本義民騒動など)

2016-12-23 19:54:26 | Weblog
『(22)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(新本義民騒動など)

 それは、江戸中期の備中での事件であった。岡田藩(今の倉敷市真備町に陣屋があった)が領していた同国下道郡新庄村・本庄村(現在の総社市新本(しんぽん)地区)を舞台に、1717年(享保2年)、第5代藩主・長救の時代、この地の領民による一揆が勃発する。そのあらましだが、年貢の中心である米の税納を巡ってのものではなく、入会地である山を管理を巡っての領主と農民との争いであったところに、その特徴がある。これを「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)と呼ぶ。
 このあたりの土地柄については、中世の頃、備中のこのあたりには下道郡と賀夜郡があった。このうち下道郡の方は、現在の総社市の北西の山岳地帯を含んだ地域に当たり、上代末期から中世にかけては、田上荘(たがみそう)と呼ばれる荘園であった。より細かくは、高梁川の支流である新本川を間に挟んで南側に本荘(本庄)、北側に新荘(新庄)とがあり、この二つをあわせて「新本村」と呼ばれた。戦国時代から安土桃山時代にかけては、毛利氏の所領となっていた(豊臣秀吉の高松城水攻め後の高梁川西岸は毛利領、東岸は宇喜多領に仕分けられる)。1615年(元和元年)、伊東長次がこの地に入封して来た。その伊東氏は、同年の大阪の陣まで豊臣方に属していたことで知られる。その夏の陣では、大阪城から出陣し、城に帰るも徳川方の兵に包囲されていて近づけず、入城を諦め、高野山にのぼって謹慎していたのが、同年中に、徳川家康に罪を許され、石高1万343石を与えられ、立藩する。入封した岡田藩の領地として、真備町の旧矢田村(岡山領)を除く全てと 玉島の旧陶・服部村、総社市の旧新本・水内村で十ヶ村と美濃国・河内国・摂津国に五ヶ村があてがわれた。
 さて、この一揆に至るまでの過去を顧みると、そもそもこの地域においては、新庄村と本庄村の村人の暮らしにとって大事な、大平山と春山という山がある。ここに代々住む人々は、このあたりの山野で昔から計画的に草や木を採ってきていた。草は、田や畑の肥料にしたり、牛や馬の餌にすることができる。雑木を伐採しての薪(まき)や落ち葉の類は、日常生活(ごはんやふろたきなど)の燃料に有用であった。領主側の岡田藩は、こうした周辺の村による「入会地」を、少なくとも黙認してきていたのではなかったのか。ところが、1661年(万治4年/寛文元年)頃より、この岡田藩の領内で大いなる変化、すなわち一方的な入会山(いりあいやま)の藩有化・「留山」(とめやま)といって、同藩は村民の入山をだんだんに厳しく禁じていく。この留山は、元はといえば、樹木や森林の福利作用を保全する目的から一定の山林の樹木の伐採を禁じるものであり、奈良時代に始っている。藩は、あえてこの制度に該当地域を組み込もうとした背景には、何があったのだろうか。同藩の藩士とその家族が使用する燃料等の調達等の必要だけでは、説明がつかないではないか。
 村人の受難はそればかりではなかった。それ約50年後の1717年(正徳6年/享保元年)の春先になると、藩当局は突然、残されていた共有山であった新庄村の大平山そして本庄村の春山の大部分をも取り上げるに至った。あわせて、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。しかも、それに支払われる労賃たるや、1駄(約42貫)当たり4分5厘という低額なのであった。
 これら一連の措置による生活圧迫に困った村人たち(その頭数は新庄・本庄両村民で約2百名とされるか)は、会合を開き、対策について話し合ったのはいうまでもない。ついに、留山とされた山の返還と、割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意する。それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、これを岡田藩の役人に提出し、抵抗するのであった。これに対して藩は、抵抗する者は岡田藩の百姓とは認めないなどと脅しを掛け、良心的な庄屋と組頭についても牢につなぐ暴政ぶりであった。その後事態が膠着していたところへ、川辺村(今の真備町川辺)の蔵鏡寺などの住職たちの斡旋があった。話し合いで、新庄村の殿砂から本村にいたる山野を開放し、下草などを採ってもよい、という案をまとめてくれた。同年旧暦3月15日、村人たちはこの案を受け入れの是非を決めるため総集会を開き、この案を受け入れることにし、直ちに誓約書が作られた。
 ところが、これで一件落着とはならなかった。1718年(享保3年)に入るや、藩当局は、村の持ち山に開放された山林での木の伐採についても、「たとえ村の持ち山であっても、許し無く入って木を切ってはいけない。そのことは盗みになる」といいがかりをつけてきた。そこで窮した村人たちが、このまま黙って死を待つよりも、江戸に出向いて同藩の江戸屋敷に直訴して事態を切り開こうということで、衆議一決する。なにしろ江戸は遠くにある。その江戸行きには、松森六蔵、甚右衛門、川村仁右衛門、森脇喜惣次の4名が選ばれた。
 この4人は、同年旧暦3月1日に新本を出発して18日目に無事江戸に着いた。そして岡田藩主伊藤播磨守長救(いとうはりまのかみながひら)に直訴を果たした。その後、かれらは罪人としてとらえられ、旧暦5月25日に岡田に到着。享保3年旧暦6月7日、4人は新本飯田屋河原で処刑された。また5名が追放処分となったという。その後、彼らの命の代償に、村の持ち山のほとんどの山野に自由に出入りできることになったと言われる。この一揆の仔細について、なぜ幕府に訴え出なかったのかなどわからない点がなお多いものの、当時の同藩の政治向き中枢に農民達の心を某かでも受け取ることのできる人物がいたならと、口惜しく感じる人も多かろう。
 それから二百余年を経た明治維新後、同藩は他の藩同様になくなり、「岡山県下道郡」に衣替えしていたのが、1900年(明治33年)4月に隣の賀陽郡と合併して吉備郡(きびぐん)となる。1954年(昭和29年)3月には、吉備郡の中の総社町、新本村、山田村、久代村、池田村、阿曽村、都窪郡常盤村の1町6か村が合併し総社市とな理根現在に至る。なお、上代以来江戸時代までと、明治以降との間では、入会についての位置づけが替わっていることがあり、例えば次のような整理が為されているところだ。
 「(中略)これに対し江戸時代の村はその村民の人格と全然分離独立した抽象的な人格者ではなく、各村民によって組織され各村民の人格によって支持された村民全体の総合体であり、村の人格とその成員である住民の人格が不即不離の関係にあった総合人であったということになる。「村」「村役人及惣百姓」「百姓総体」であった。ここに今の村有林と昔の村持の山との性格の相違がある。」(埼玉県比企郡嵐山町編『嵐山町誌』第6巻)

(続く)

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(155)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における民衆史編纂の試み

2016-12-23 09:27:25 | Weblog
(155)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代における民衆史編纂の試み

 江戸時代における農民の状態については、幕府や藩当局の息掛かりの文献も幾分か受けられる。そのあたりの事情をまとめた例として、美作の『東作誌』がある。これが書かれたのは18世紀の後半、主に文化年間(1804~1818年)にして、軍学師役として津山藩の禄を食んでいた正木兵馬(まさきひょうま)が、個人の調査・見解として折に触れ書き足していた。この人物は、妻子を連れて諸国浪々のあげく、運良く1791年(寛政3年)、津山城主の松平越後守康哉(やすちか、1752~1794年)に、四十五俵で召抱えられた、とされる。この書物の目的とするところは、美作(「作州」は別名)の地誌であった。それまでの美作には、1691年(元禄4年)成稿の『作陽誌』があった。ところがこれは作州西六郡のみで、吉野郡を含む作州東部六郡を含んでいなかった。ここに東部六郡には、津山城の北方あたりから時計回りに、東南条郡、東北条郡、勝北郡とその南に勝南郡、さらに東外側に吉野郡とその南に英田郡(あいだぐん)が含まれる。ちなみに、文化年間東作六郡所領別村数としては、幕府領(天領)が217か村、津山藩領が45か村、その他藩領が88か村の合計350か村であった、と伝えられる。
東半分の地誌が欠落している理由は、当時の森藩での事情があったのだとされる。1689年(元禄二年)、執政・家老級の重臣・長尾隼人勝明を中心にして地誌作成の企画がもちあがった。同藩は、この事業の予算人員を確保し、作州西部六郡について江村宗普(春軒)に、東部六郡について川越玄三(玄俊)に担当させた。国の歴史として。ところが、何らかの理由により東の六郡の作業が遅れたままに、1697年(元禄10年)森藩が改易でなくなってしまう。そこで正木が思い立ったのが、百数十年前の森家時代に編纂された『作陽誌』が、美作東分を欠くゆえに、それを追補するこどてあった。あくまでも、編著者正木の個人的な著作であったのだ。文の特徴は、和漢の入り交じった文で書かれていたことであって、そうだというのなら民間で読まれることを期待していたのであろうか。正木が存命の間は個人の手元にあったのだろうが、彼の死後にはその家人が保存しておいたものだろうか。
 これが出版されるに至る事情は複雑だったらしい。本人が直に書いたのではない、写本として伝わったらしい。これを後に江戸藩邸で儒官・昌谷精谿(さかやせいけい)が発見して、1851年(嘉永4年)、彼による編修で三十一巻にまとめた上「追補作陽誌」という名で紹介した。この写本の刊本は1884年(明治17年)であって、長尾勝明編とした『校正作陽誌』上中下三巻本が刊行される。明治末には作陽古書刊行会が、郷土史家の矢吹金一郎に校訂を依嘱して、大正元年に『校訂作陽誌』刊行、1913年(大正2年)に至ってようやく『東作誌』の名称を付けて出版されたのだ、と言われる。
 しかしながら、こうしたものは当時の支配階級である藩なりが主体的に関わったものであるため、ほとんどが上から目線で書かれている。そのため、当時の庶民の暮らしをシルには、主に民間の有志の筆によるものの方が、より多くの、そして良質な情報が得られるのではないか。まず『西域物語』という書物は、江戸後期の蘭学者にして経世学者の本多利明(としあき)が著した。1798年(寛政10年)の作で、世界的視点で色々と調べてある。国内に向かっては、農民の暮らし向きに多くの観察が見られ、こうある。
 「神尾氏が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞る程出る物なりと云り。不忠不貞云べきなし。日本へ漫る程の罪人共云べし。此の如きの奸曲成邪事は消失がたきものにて、渠が時の尹たる享保度の御取箇辻を以て、当時の規鑑となるは歎敷に非ずや。故に猶農民の詰りと成り、猶間引子するを恥辱とせず。次第に農民減少する故、租税も又減少するなり。租税減少する故、庶子も又貧窮するなり。ここに於て間引子の悪癖萌して次第に迷とせんとす。是又悪騒の萌と成なり。是、治乱・存亡・興廃の因てでる境界なり」(『西域物語』の「年貢増徴」の項)
 「田畑に際限あり、出産の米穀に亦際限あり、年貢租税に亦際限あり、其残りの米穀も亦際限あり、其際限ある米穀を以て、下万民の食用を達するを、士・工・商・僧・遊民、日を追、月を追、増殖するゆへ国用不足となる。是に於て是非無くも猾吏を選挙して農民を責め虐るより外の所業なし。終に過租税を取り、課役を掛るに至るなり。是に於て農民堪えかね、手余地と名け良田畑としれど亡処と為て、租税の減納を謀るなり。…斯なり行く勢ゆへに、出生の子を間引ことは扨置き、餓死人も出来する筈なり。斯の如く理道明白なるものを、神尾氏が日く、胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり、といへり。不忠・不貞いふべき様なし」(『西域物語』の『苛税』の項
 上段引用文中に「神尾氏」とあるのは、当時の勘定奉行・神尾若狭守(1737~53在任)の言にことかけたもので、農民から搾取・収奪で富を搾り取ることに汲々としている施政者強欲を問題視している。下段引用文中においては、そのことが農村をスパイラル的な疲弊に追い込んでいく様の一端を説明している。
 次に、『世事見聞録』というのがあって、こちらは江戸時代後期における庶民の暮らしに詳しい。著者は武陽隠士とあるが本名は未詳とのこと、1816年(文化13年)の自序がある。
 「都て村内にても、上田といえるよき地所は、皆福有等が所持となり、貧農は下田にして実入あしき地所のみ所持いたし、・・・・・又その悪田をも取失ひし族は小作のみを致し、高持百姓の下に付て稼尽し、作りたる米は皆地主へ納むれば、其身は粃籾、糟糠、藁のみ得て、年中頭の上る瀬なく、息を継ぐ間さへ得ざるなり。依て盛なるものは次第に栄へて追々田地を取込み、次男三男をも分家致し、何れも大造に構へ、又衰へたるは次第に衰へて田地を離れ、居屋敷を売り、或は老若男女散々になりて困窮に沈みはつるなり。当世、かくの如く貧福かたより勝劣甚しく出来て、有徳人一人あれば、其辺に困窮の百姓二十人も三十人も出来、譬へば大木の傍に草木も生立兼る如く、大家の傍には百姓も野立兼ね、 自然と福有の威に吸取れ困窮のもの余多出来るなり。福有は其の大勢の徳分を吸取て一人の結構と成し、右の如く栄花を尽くし、或ひは他所迄も財宝を費る程の猶予出来るなり。扨又其の盛衰の懸隔なる体を爰に言ふ。
 まづ右体過分の田畑を持余したるものあれば、耕作すべき地所もなきもの出来、又年貢纔斗納めて有余米沢山成ものあれば、年貢米出来ず領主地頭の咎に逢ふもの出来、又米五十俵百俵乃至二百俵三百俵とも売払ふものあれば、節句に米の飯も給へ兼ね、正月餅も舂兼るものも出来、或ひは子供を寵愛に余るものあれば、子を売る親も出来、或ひは前にいふ如く家蔵結構座敷をも襖唐紙を立て、畳を敷き、絹布を着たるものあれば、屋根漏り、壁破れ、竹の簀子落ち、古き莚切れ、身に覆ふ衣敝れて、飢寒に堪兼るもの出来るなり。百姓の一揆徒党など発る場所は、極めて右の福有人と困窮人と偏りたるなり。百姓の騒動するは、領主地頭の責誣(しいたぐ)る事のみにはあるべからず。必ず其の土地に有余のものあって大勢の小前を貧るゆへ、苦痛に迫りて一揆など企るなり。前にいふ如く昔百人のて共に稼来し村方をも、今は五十人程は遊び暮すのみならず、小前を犯すゆへ、小前の五十人は難儀の四重にも五重にも覆ひ懸るゆへ、中々食料たらず、耕作の間に或ひは駄賃を取り、或ひは日雇に出で或ひは手業その外の業を成せども、遠国の事なれば左のみ助成にも成り兼て、身も心も落付べき所なし」(『世事見聞録』の「農村の分解」の項)
 この文中、「都て村内にても、上田といえるよき地所は、皆福有等が所持となり、貧農は下田にして実入あしき地所のみ所持いたし」、それに「百姓の一揆徒党など発る場所は、極めて右の福有人と困窮人と偏りたるなり。百姓の騒動するは、領主地頭の責誣(しいたぐ)る事のみにはあるべからず。」とあって、貧富の差の大きいこと(今日の言葉で言うと、「経済格差」といったところか)が最大要因だと評した。
 3番目は、『古事記』の研究で広く知られる本居宣長(もとおりのりなが)の著した『秘本玉くしげ』であって、1787年(天明7年)の彼が紀州藩主徳川治貞の求めに応じて政治向きの意見書を提出した。その時の本巻が、この名で呼ばれる。
 「百姓町人、大勢徒党して、強訴濫放する事は、昔は治平の世には、おさおさ承り及ばぬ事也。近世に成りても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は所々にこれ有て、めずらしからぬ事になれり。これ武士にあづからず、畢竟百姓町人の事なれば、何程の事にもあらず。 小事なるには、似たれども、小事にあらず、甚大切の事也。いづれも困窮に迫りて、せんかたなきより起るとはいへ共、詮ずる所、上を恐れざるより起れり。下民の上を恐れざるは、乱の本にて、甚容易ならざる事にて、先づ第一、その領主の耻辱、是に過らるはなし。されば、仮令聊の事にもせよ、此筋あらば、其のおこる所の本を、委細に能々吟味して、是非を糺し、下の非あらば、其の張本の僕を、重く刑し給ふべきは、勿論の事、又上の非あらば、其の非を行へる役人を、おもく罰し給ふべき也。
 抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず。・・・・・然るに近年此事の所々に多きは、他国は例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取りはからひもいよいよ非なることも多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。・・・・・近年たやすく一致し、固まりて此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず、上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也。然りとて、いか程おこらぬようのかねての防ぎ、工夫をなすとも、末をふせぐ計にては止がたかるべし。兎角その因て起る本を直さずばあるべからず。基本を直すといふは、非理の計ひをやめて、民をいたはる是也。仮令いか程困窮はしても、上の計ひだによろしければ、この事は起るものにあらず」(『秘本玉くしげ』)
 この文中にて、「抑々此事の起るを考るに、いづれ下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしく成りたりとはいへども、能々堪へがたきに至らざれば此事はおこる物にあらず」とあるのは、一揆の原因を政治を行う領主側の視点から見ている。

(続く)

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『(31)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾)

2016-12-22 18:37:49 | Weblog
『(31)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾)

 倉敷浅尾騒動(くらしきあさおそうどう)というのは、1866年5月24日(慶応2年4月10日)、長州藩第二奇兵隊幹部の立石孫一郎に率いられた兵が備中に入って起こした事件のことである。これより前の同年旧暦4月5日夜、周防国(すおうのくに)熊毛郡大和町(2003年4月21日に徳山市、新南陽市、鹿野町と合併し、新たに周南市に組み入れられている)の石城山を本拠地とする第二奇兵隊(南奇兵隊)が突如動いた。立石孫一郎をリーダーとしたかれらは、同隊参謀楢崎剛十郎を殺害し一気に山を駆け下った。この部隊は、翌朝遠崎(山口県大畠町)より船で出帆、備中倉敷に入った。そこには、当時幕府代官所があった。これにおよそ100人で攻め入って代官所を焼払った。ここに倉敷代官所は、江戸幕府直轄の代官所であった。
 具体的には、この日の早暁に強雨の中襲撃が決行された。代官所襲撃の主目標は、代官の誅殺であった。しかし、代官の桜井久之介は、広島に出張中で不在であった。幕府側の上級武士はいち早く逃亡し、代官所に踏みとどまった9名が死亡した。襲撃後、立石ら襲撃部隊は総社に向い、宝福寺に宿営した。
 同4月13日暁、彼らは今度は浅尾藩陣屋に現れる。ここに浅尾藩というのは、1864年、禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに御門直近の警護をしていた藩である。襲撃部隊は、まず郡会所と観蔵寺に放火する。さらに藩士宅などに火をかけた。これで浅尾藩陣屋内は大混乱に陥り、浅尾藩は大砲3発を発射したものの、生存者の全員が陣屋から命からがら逃げ去った。
 この二つの陣屋を襲撃した後の彼らは、高梁川河口付近において休憩中に、広島から派遣された幕府軍の銃撃を受けて潰走していった。彼らの多くは、長州藩領へ逃げ帰っていった。立石孫一郎は隊士の助命嘆願工作中に潜伏先で殺害され、脱走隊士の多くが陣営から許可なく離脱したかどで、藩政府により捕縛、処刑された。
 1867年(慶応3年)11月から1870年(明治3年)8月にかけて、当時の美作五郡の一部(竜野・鶴田藩領となっていた)で、一風変わった騒動が起きた。これを「鶴田騒動」(だづたそうどう)と呼ぶ。両藩のうち、鶴田藩がなぜ美作の地に突如出現したかについては、幕末ならではの事情があった。その前年の1866年(慶応2年)のこと、幕府による第二次長州征伐が行われていた。その時、大村益次郎(おおむらますじろう)が率いる長州軍は、徳川家門(親藩)としての松平氏(甲府徳川綱重の子・松平清武が藩祖)の居城浜田城(現在の鳥取県)へと進攻した。藩主・松平武聰(第15代将軍・慶喜の実弟であり、水戸徳川家から養子に入った親藩の4代目、石見国浜田で6万1千石を領していた)は、浜田口を担当していた。しかし、長州軍に攻め立てられて、ほとんど戦わずして居城を放棄して出雲国杵築、その後松江城に逃れた。この際に、浜田の街は焼き払われ浜田城も同時に灰燼に帰した。もはや浜田に戻れないということであり、同年暮、幕府から浜田に復帰するまでということで、蔵米2万石を給される。翌1867年(慶応3年)、元からの飛地領である美作国久米北条郡鶴田領のうち里公文中村に入り、立藩した。その後、美作五郡のうちから二万石を割いて与えられ、つごう2万8千石となる。和田南村鶴田と里公文中村に役所を置いたことから、「鶴田藩」と呼ばれる。
 1868年(明治元年)1月に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まった。このうち鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは幕府軍に属して参戦したものの、もはや幕府に勝ち目はなかった。この戦いの前から、いち早く朝廷側に付いていた備前藩が美作の幕領(いわゆる天領)と、佐幕側に付いている津山藩などの鎮撫の命を受け、この地に進駐した。このおり、美作及び旧竜野藩領にやってきた備前藩の部隊は、旧竜野藩預かり所において「王政復古」を土地の人に告げる。これで、維新政府側に立った岡山藩が鎮撫したことになる。かかる出来事に直面した農民たちは「当年之処御年貢半免、未歳末納之分も其儘にて御用捨」、つまり慶応3年分の年貢未納分は切り捨て、翌慶応4年分は半分免除と理解し、大いに喜んだという。
 ところが、同年2月に入ると、この地は再び竜野藩預かり所への支配替えになって、当該年貢の減免はご無沙汰となってしまうのだが。さらに追い打ちをかけるかのように、河岸積みの年貢米を舟に積み込んで川を下らせるとの触れを出したものだから、美作五郡の村々は憤怒に包まれる。同年4月に入ると、村々で、当初の備前藩の触れのとおり、年貢の減免がなるように「出訴」しようという相談が進んでいく。そして6日、同様の主旨にて備前藩への強訴が行われた。ところが、こうした農民の団結ぶりに対し、当地村々の庄屋(村役人層)の態度は大きく異なっていた。彼らは、「小前」(平百姓層・一般農民)が自分達の批判もしていることに心外の念を強く持っていた。このまま進んでいくと、村々の勘定帳面の公開改算を目止めるようにもなっていくかも知れない、などと危ぶんだ。そこで庄屋たちは、小前たちが徒党を組んで年貢減免を要求しているとして非難するとともに、竜野藩にこの動きを取り締まるよう訴えに行く。
 もう一方の当事者である鶴田藩の成り行きは、朝廷に対して藩地回復の哀願をしたたげでは足らずに、家老小関隼人の自刃謝罪により、同年閏4月、なんとか藩主の謹慎が解け、領地も返還される旨の内意をもらうまでに漕ぎ着けた。王政復古後の1868年(明治元年)5月には、元々の6万1千石に加増される。この騒動のその後については、双方による争いの決着はつかないままに、同年末鶴田藩は、維新政府から鎮圧を命じられて農民弾圧に転じた。やがて明治の3年目に至って、明治新政府による差配へと移って行く。1871年(明治4年)の廃藩置県により鶴田県となるのであったが、当時のめまぐるしく移り変わる国家変革の状況下で、新しい秩序ができていない間での、地方における主導権を巡る争いが現出していたことを、現代に伝えている。
 それからもう一つ、1866年(慶応2年)旧暦11月24日夜、冬の寒さが増しつつある時、全国の「世直し一揆」に呼応した一揆が、美作の地でも起きた。この美作全域を巻き込んだ大規模な一揆のことを、「美作改政一揆」と呼ぶ。もしくは、これが勃発した東北条郡行重村(現在の津山市加茂)の地名をとって、「行重村一揆」(ゆきしげむらいっき)とも呼ばれる。この一揆の最初ののろしは、同日、東北条郡行重村(ゆきしげむら、現在の津山市加茂)において、はじめは「真福寺の鐘」を鳴らすのを合図に、同村野猶吉、政之○、光次郎ら10人くらいの規模であったのが、翌25日朝から津山城下城下に向かって道を進むにつれ、沿の村落を煽動するのであるから、一揆勢はどんどん増えていく。
 京都大学の黒正巌の筆による「作州の農民騒動」には、その時の模様がこう描かれている。
 「勝南郡川邊村に至り、光次郎等は一千余人を分かって英田倉敷村に向かはしめ、自分は他の農民を率いて津山城下に侵入した。藩士佐藤嘉吉等は懇諭して津山に入らないように力めたが、勢いにはやる農民達は之を聴かない。藩士は大橋門を鎖して侵入を防いだ。農民は津山町の東端林田町に入るや、手当たり次第に酒肴を掠めて飲食し、銃卒を罵詈して止まぬ。甚しきは宗を露はして「撃てるならうってみろ」などと叫び、石を門に投じて破壊せんとし、天地も響けと喊声(かんせい)を挙げる。銃卒は切歯して憤慨し、発砲して遂に光次郎等数人を○した。古市左近、大島兵蔵等は救恤(きゅうじゅつ)すべき事を述べて退散せんことを諭した。之で農民の勢も多少阻められたのであるが、其夜暮らし木村より来たりたる農民と合するに及びて再び勢を得、付近の富商七十余戸を破壊した。藩政府も遂に武力を以て之を鎮圧した。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 彼らが立ち上がったのは、なぜであろうか。その理由の主な一つは、この時の百姓総代、直吉(なおきち)が津山に出向き、津山御役所宛てに差し出した嘆願書に窺える。それには、低姿勢の文体ながらもこうはっきりと記されてあった。
 「恐れ乍ら書附けを以て嘆願奉り候事
一、御領内村々総百姓中嘆願奉り候其の意趣者
一、御年貢御蔵納三斗五升計切之事附り、御刎俵直シ人足御差留之事
一、當寅御年貢引下ケ之事附り、関門入用御断之事
一、以後御出馬これ有りし候共、若党槍持ニ百姓ヲ御連被りし成候儀御断之事
一、当寅献納金難渋人之分年延之事
一、御検見之節壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似セ俵゛川下之毛御免之事附り、御登米之外津留之事
一、近来新規之御運上御免之事
一、諸役人依怙(えこ)之沙汰御吟味之事
右拾壱ケ条之御趣御取調之上、格別之御仁知を御許容成下為被候ハバ莫大之御慈悲、百姓一同有難き仕合ニ存知奉り候。此の段宜敷様仰上下被ル可キ候。以上。
慶応二年丙寅十一月。東北条郡行重村西分百姓総代・直吉、印。津山御役所」
 これにあるのは、年貢の減免の願いばかりでないことであって、4項にあるのは藩主出馬に当たり、百姓を「槍持ち」に連れて行くことにつき、そのような事はやめてほしいとの要求なのである。具体的には、「長州征伐」(第一次は1864年(元治元年)、第二次のものは1866年(慶応2年))への出兵に人夫(にんぷ)をかり出さないことを狙っているのだろうか。そのほかにも、新規の運上は御免被りたいし、年貢米の検査に当たる役人の不正があると思われるので、諸役人による依怙贔屓(えこひいき)を吟味してもらいたいことも盛り込まれている。『津山領民騒擾見聞録(つやまりょうみんそうじょうけんぶんろく)』によると、この「加茂谷強訴」の発起人の代表格である直吉は、この後神妙に立ち居振る舞い、「郷預け」を経て、牢獄に投じられたことになっている。
 そればかりではなかった。まるで乾いた薪に火を点けたときのように、短期間のうちに美作全域に農民一揆が広がり、また加速していくのはよくあることで、この東北条郡から津山への一揆勢の行軍につられたのか、津山城下の西からも一揆勢が押し寄せてきた。同じく黒正巌の筆を借りると、同氏はこう述べておられる。
 「然るに26日には美作西部に於いても農民が暴動した。即ち大庭郡古見村の農民は先ず久世村を襲ふて商家を破壊し、さらに津山城下を襲はんとして中北村(久米法条郡)に至る。農民の数三千に及ぶ。中北村の中庄屋久山直助は農民を迎へて曰く、若し之より津山城下に逼らんとならば、先ず自分の家を破壊せよ、自分の家を破しない以上は、断じてこの地を通過せしめないと叫び、先ず酒○薪炭を備へて之に興えた。然るに農民達は一揆の数が多いからお前の薪炭で足るものかといふ。直助は既炭がなくなれば門舎、倉庫、家屋順次にたいてしまえ、心配には及ばぬと答へたので、流石の農民達もその意気に感じて敢えて前進しなかった。内藤氏の代官柴田順平、大庄屋安藤善右衛門(坪井下村人)等直助を助けて退散を諭したので、遂に十二月朔日に至って農民は退去し、事平ぐ。
 この外にも土岐氏の領邑(りょうゆう)たる英田郡の農民も亦騒動したのであるが、間もなく鎮圧せられた。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 翌1867年(慶応3年)の正月には、当時津山藩の所領であった小豆島の土庄町(とのしょうちょう)と池田町(いけだちょう)でも農民一揆が起きた。美作では、これらを過去の一揆と区別して「改政一揆」(それゆえ、美作でのものは「美作改政一揆」、小豆島でのものは「小豆島改政治一揆」など)と呼び慣らしている。

(続く)

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『(37)』『岡山の今昔』明治時代の岡山(地租改正)

2016-12-22 18:24:02 | Weblog
『(37)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(地租改正)

 さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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『(29)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(中期の経済)

2016-12-21 09:36:51 | Weblog
『(29)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(中期の経済)

 では、田沼期から寛政改革期にかけての諸藩では、どのような治政が行われていたのであろうか。
 備前については、岡山藩がどっしりとその地理の大方を占めていた。その岡山藩では、1741年(寛保元年)には、鴻池が蔵屋敷で蔵物の売却出納の事務を扱う「蔵元(くらもと)」に就任している。そればかりか、1747年(延享4年)になると、売却代銀の出納と管理にあたる「銀掛屋(ぎんかけや)」までも鴻池(こうのいけ、鴻池善右衛門)が担っている。鴻池は、1676年(延宝4年)から岡山からの米穀輸送も請け負っていたので、まさしく藩の財政丸抱えになっている感がある。これら生産にたいしては寄生的なといえる高利貸資本(こうりがししほん)などは、また鉱山や農村に進出して、農民の階層分化を促進させていく。もちろん、改革についていけた一部の農民にとっては、生活向上に役立った面もある。けれども全体的には、商品経済の浸透に伴い、農村の疲弊はむしろ進んでいった。とりわけ深刻なのが、農村の人口減であった。松平定信により1786年の全国規模での戸口調査の結果が紹介されており、「(天明)午(うま)のとし、諸国人別改られしに、まへの子(ね)のとし(1780年(安永8年))よりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死(しに)うせしにはあらず」(松平定信の自叙伝『宇下人言』)とある。
 ところが、その西隣の備中は、新見、松山(高梁)、成羽、足守、浅尾、生坂、岡田、庭瀬、鴨方の各藩があった。同地域には天領や藩外大名の飛地などもあって、互いに境界が入り組んでいた。ここでは、その中から倉敷を取り上げたい。この地は、1600年(慶長5年)の幕府発足のおり、幕府直轄の、いわゆる「天領」に組み入れられた。備中代官所が幕府支配の出先として置かれた。その翌年、代官、小堀正次(こぼりまさつぐ)による検地が行われる。1617年(元和3年)からは、天領から備中松山藩所領に配置換えとなる。ところが、1642年(寛永19年)に再び天領に戻る。領地を巡る紆余曲折、有為転変とはこのことなのであろうか。彼の地は、その後も一時大名領となったこともあるものの、以後明治までの大方の期間は幕府の天領として過ごすことになる。
 倉敷では、江戸初期以来の「門閥商人」にかわって、「新禄商人」が歴史の表舞台に登場してくる。2015年夏を迎えた現在では、倉敷川に沿って白漆喰になまこ壁の土蔵や商家など蔵屋敷が建ち並んでいることから、倉敷市の「美観地区」に指定されている。この辺りは、かつては海に浮かぶ小島と漁村であった、といわれる。地質年代的には、高梁川の土砂沖積作用による陸地化作用がある。そこに加え、江戸時代になってからの新田開発の干拓事業によって埋め立ての陸地はどんどん拡大してきた。南は現在の下津井(しもつい)にいたるまで、かなり大きな半島状の陸地が形成されている。
 ここに商業は、商品生産物を生産者から得て販売する機能をいう。商人たちが扱う品目について領主などによる封建的搾取がなければ、本来その販売は生産者なのである。したがって、そこでは生産者に属していた販売機能が彼らの権能から分離して、商業(商人)資本によって独立して営まれることになっている。それは、中世の経済構造の中でしだいに成長してきた、「前期的な資本形態」(カール・マルクス)だと言える。そのかぎりでは、商業資本が得る所得は商品の購入者の所得からの控除ではなく、その源泉は生産者の所得から直接的に再分配されるべきものだ。ところが、農業生産物に封建的搾取が行われている社会においては、搾取者である武士階級などがこの関係に介在している。そのため、この仕組み本来の機能が見えなくなってしまっている。そこで、独立生産者(イギリスではかれらを「独立自営農民」と呼んだ)としての本来の機能行使からは、年貢や専売の対象になっている生産物を除いた、生産者の裁量で自由に処分できることになっている。
 そこで商業が成り立つためには、売買差益(商業マージン)が確保できなければならず、そのためには、いまその商品が価値どおりに販売されることを前提すると、商人は当該の生産物を生産者からその価値より安い価値で仕入れ、それを価値どおりに消費者に販売することで某かの利益を得ることができる。これを生産者視点からみると、自ら生産した付加価値のうちの費用を差し引いた部分を削って価値以下で商人に販売していると考えられてよいだろう。とはいえ、その農業生産者は自分が市場で買い手を探して販売するのに比べ、その販売を商人に委ねる見返りに自らの取り分を削った以上の利益が見込まれることになるのだ。
 16世紀頃までには、宇喜多による埋め立てにより、倉敷の村には陸地が広がっていく。高梁川の流す土砂の沖積作用によっても、鶴形山の周辺は急速に陸地化していく。それまでの鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ小島であったらしい。この山の南麓に漁師や水夫の住む集落ができていた。干潟に残された水脈は干拓地を貫く水路となって海へと流れていた。この水路というのが、現在倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる倉敷川なのである。
 それからほぼ一世紀余りが流れて行く。この間にも、岡山藩などにより埋め立ては続いていく。高梁川からの土砂も下流へ、下流へと沖積していくのであった。1768年(明和5年)の頃には、ここは、備中における物流の動脈である高梁川があり、そこから引き込まれた倉敷川をはじめとする水路や運河に囲まれていた。また、1746年からは、それまで笠岡にあった代官所が倉敷の地に移された。備中、美作、讃岐の三国に散在する天領約60万石を支配する幕府の代官所が置かれ、年貢米などの物資の一大集地として今に残る蔵が建ち並ぶようになっていた。
 この間、倉敷村の村高としては、1601年(慶長6年)が619石であったのが、1630年(寛永7年)には1385石になっていた。それからまた年が経過して1772年(安永元年)に1834石になっていた。江戸初期の干拓によって石高が飛躍的に増えたのであろう。ところが、人口は1601年(慶長6年)に800人程度と推定される。それが1672年(寛文12年)になると2536人、1733年(享保18年)には5392人、さらに1770年(明和7年)にf6835人、それからも1838年(天保9年)に7989人^と増加していったと観られている。この人口増加こそが、倉敷への商業資本の蓄積、商人たちの集積を意味していた。
 このような環境変化に見舞われるくらい倉敷(村)であったのだが、この町の江戸初期から中期までは「古禄」と呼ばれる、13軒の地主的な性格ももつ、「門閥商人」たちが幅を効かせていた。しかも、この特権商人たちはその地位を世襲していた。13軒の中では豪農から転じた者が多かったのではないか。主な商人としては、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などの名が伝わる。彼らは、その古くからの土着で培われた集団の力によって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲したのはもちろん、木綿問屋、米穀問屋、質屋などから始めた商売の網を此の地にめぐらしていく。
 そこへ、江戸期も中期、後半に入る頃になると、今度は、新たに干拓による農地の拡大、人口増加によって「新禄商人」と呼ばれる別の流れの商人たちが台頭してくる。彼らは、はじめは「綿仲買」で綿つくりの農民と結び付いたり、干鰯(ほしか)、干鰊(ほしにしん)売り、油売りなどの商いを賄いながら経済力を蓄えていく。いまも残る、美観地区に立ち並ぶ白壁の蔵屋敷群は、そうした新興商人らの富と権力(金によるものであって、武力によるものではなかったが)の象徴なのである。その具体的な姿の例としては、江戸中期頃より、綿作の発展によって新たに財を蓄積していく者が出てくる。これらの人たちは児島などの近郊から倉敷にやって来た者が多かったのではないか、とも言われる。彼ら25軒くらいは、彼らなりの団結を固めていく。そんな中、中心となったのは、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家)、日野屋(木山家)などの面々であった。やがて彼ら新興の勢力は、村役なども含め、あれやこれやで名実を要求するようになっていく。つごう、1790年(寛政2年)から1828(文政11年)にかけて勢力争いを繰り広げた結果、大方ことでは新録派の勝利に終わったのだとされる。
 念のため、かくも急速な発展を助けたのは、倉敷村の置かれていた土地の利便さなのであった。ここに「倉敷」というのは、当初から小さな運河があって、これがだんだんに発展させられてゆくに従い、運河による運送の便が整えられていくのであった。では、品物としては、どこから運んできたものが、ここを経由してどこへと運ばれていったのだろうか。これの全体の流れについては、ここに集積された品々は舟運でもって瀬戸内海に面した下津井などの湊へと運ばれ、そこから大坂や江戸などの大消費地に搬出させていた。
 果たして、その湊の一つであった下津井には、早くから備前や備中の産物、それに加えて北国産の金肥(干鰯や干鰊)を扱う大問屋の蔵や倉庫(「鰊倉」(にしんぐら)とか呼ばれていた)がずらりとを並んでいるのであった。ここに「北国産の金肥(干鰯や干鰊)」とあるのは、当時の北前船のブームにのって、北海道や東北の海産物が日本海を南下し、下関を回って大坂方面へ盛んに運ばれていたことがある。これには次、城山三郎の論考「銭屋五兵衛」にみられるように「巨利」がついていた。いわく、「北前船業者は、ただ物資を運ぶだけの海運業者ではない。運賃のもうけも大きいが、それ以上に、商品の価格差でもうけることが大きい。北海道の海産物などを関西に持ってくると、仕入値の三倍から五倍に熟れることも珍しくなかった」(「幕藩制の動揺」日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970)とある。
 それが、1790年(寛政2年)の村方騒動では、このあたりの農民たちと新興商人とが結び付いて、従来の経費の村割りに村民が参加することを要求するに至り、村役人の罷免と選挙制の実施へと動いていく。それに応じて、古い制度と結び付いていた特権商人の問屋の経済力を削いでいくことが目指された。ついには、「新禄派」と呼ばれた25軒の振興商人たちが「古禄派」による独占支配の撤廃を幕府へ訴え、長い闘争の末に勝利していくことにもなっていく。

(続く)

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『(26)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(渋染一揆など)

2016-12-20 20:20:01 | Weblog
『(26)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(渋染一揆など)

 1825年(文政8年)、幕府の「天領」であるところの勝北郡植月北村で一揆が起こりつつあった。津山藩領内の勝南郡金井村などにおいても、近くの村々を誘っての一揆が隠されつつあった。これらは、暴動となっていきつつあったところを、幕府の意を得た、津山と龍野の両藩が差し向けた兵によって鎮圧された。
 1856年7月10日(安政3年6月9日)には、神下村の万作が子位庄村を訪ね、3日後の強訴(ごうそ)に参加するよう要請した。そして迎えた1856年7月15日(安政3年6月14日)、今度は岡山藩内の被差別部落民による一揆が起きた。彼らは、前日の夜からこの日の早朝にかけて、吉井川左岸の下流域である八日市河原(ようかいちがわら、現在の瀬戸内市長船町)に二十数村から約1500人が集まった。藩が被差別部落民に課した差別政策の撤回を求め、家老の一人伊木(いぎ)氏の陣屋のある虫明(むしあけ、現在の同市邑久町内)へ嘆願するためであった。その日の夜から16日朝にかけて双方の代表者が交渉し、午後になって嘆願書を主の伊木若狭守に提出することができた。
 これより先の1855年(安政2年)、岡山藩は領内に倹約令(全24条)を出していた。さらに翌1856年(安政3年)、「別段御触」として、被差別部落民に対し一般農民とは別に、次の5か条を追加していた。
「一、(25条(別段1条))
 穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候、乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付、是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦、持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用、素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事。
一、(26条(別段2条))
 目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申、尤絹類相用候義ハ一切不相成事。
一、(27条(別段3条))
 雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申、尤見知候御百姓ニ行逢候ハ、下駄ぬき時宜いたし可申、他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事。
一、(28条(別段4条))
 身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ、格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事。
一、(29条(別段5条))
 番役等相勤候もの共、他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申、勿論絹類一切弥以無用之事。」(なお、全29か条は、例えば大森久雄『概説・渋染一揆』岡山部落問題研究所、1992に収録されている)
 この追加5か条の骨子としては、一番目で、今後新たにつくって着る衣類を「無紋渋染・藍染」に限ることにした。この渋染というのは、柿の渋でもって染めた衣類のことである。また、紋付は着てはならないことにした。その3番目で、雨の時には、土足では迷惑をかけるので「くり」(栗)の下駄をはいてもよいが、知り合いのお百姓に出会ったときは、下駄をぬいでおじぎをしなさい。しかし、他の村に行くときには、下駄を用いてはならないというのであるから、要は「おまえたちは最低の身分だから、何をするにもどこへ行くにも心してそのように振る舞へ」といいたかったのであろうか。
 そのため、同藩内53か村の被差別部落の判頭(はんがしら)たちが談合し取りまとめた惣連判の嘆願書を藩に提出したところ、藩はこれを差し戻してきていて、この閉塞状況を打ち破るために、このような強訴をしてでも、藩の法令のうち追加5箇条の分を撤回させることが必要であったのである。この一揆は、争点になった衣類の名を取って、「渋染一揆」(しぶぞめいっき)と呼ばれる。
 その彼らの一揆嘆願書には、こうあった。
 「穢多(えた)ども、衣類有合之品、其儘当分着用致すべし、尤も新(あらた)ニ調(ととの)候儀は、無紋(むもん)渋染(しぶぞめ)・藍染(あいぞめ)之他、決て着用相ならず候様仰せつけなされ、恐れ入り奉り、下賤成ルる穢多共に候得共、御田地御高所持仕、御年貢(おねんぐ)上納致、殊ニ非常ニ御備(そな)ニも相成居(あいなりおり)申者候得(そうらえ)ば、右体之衣類仰せ付けなされ候ては、老若男女至迄、情気落、農業守も打捨て申すべき程之義、心外歎歎(なげ)かしく存じ奉(たてまつ)り候。(著者不明『禁服訟歎難訟記』より)
ここに「穢多」とは、我が国中世・近世における賤民身分の一つ。「御田地御高」云々とあるのは、検地帳に定める石高の登録された田畑に見合う年貢をちゃんと払ってきてきているとの自己主張であった。また「非常ニ御備」とあるのは、非常の際に人馬などの動員にも応じた来たことを述べた。それなのに、この仕打ちを受けるとは何事でしょうか、との抗議なのであった。
 この一揆においては、結局、藩の法令を撤回させることはかなわなかった。この闘いの帰結は、形の上では双方の痛み分けであったのかもしれない。とはいえ、藩側にそれを厳格な形で強制することを許さなかった、つまり実際には当該部分を空文化させた点で、被差別部落民側はかつてない運動の成果を挙げることができた。強訴の指導者の12名が囚われの身となり、うち7名が牢死に追い込まれた。残りの5名は獄中でなんとか生き延び、1859年(安政6年)釈放処分となった。ともあれ、当時の被差別部落民たちの人間の尊厳をかけての勇気と、緻密な戦略があわさったことで切り開いた意義は大きく、備前における「部落解放運動」の輝かしい一里塚といえる。

(続く)

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『(27)』『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革)

2016-12-20 20:04:35 | Weblog
『(27)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革)

 ところで、1764年(明和元年)、1697年の森氏改易後に幕府天領(ばくふてんりょう)となっていた勝山の地に、三浦明次(みうらあきつぐ)の三浦氏が三河国(みかわのくに)西尾藩からこの地に転封(国替え)して立藩した。
 この間に、備前藩では、やや異なった展開をたどっていた。1672年(寛文12年)、才人で知られる池田光政が隠居すると、嫡子綱政が二代藩主になった。彼は父と違って目立ったところはなく、凡庸な人であったと伝えられる。ところが、これが幸いしたのが、家老の日置猪右右衛門や、郡代の服部図書と津田永忠、学校奉行の市浦毅斎といった有能な家臣に多くを任せた。特に、津田永忠らが中心となって手掛けた新田では、米と麦の伝統的産物だけでなく、木綿や藺草(いぐさ)の栽培を行うようになる。
 そうした逸材達による藩政への参画、藩主の補佐の御陰で、藩の財政運営、新田開発、百間川の整備、そして後楽園(当時は「御茶屋敷」とか「後園」)の造営など、治世の実を上げたことになっている(「柴田一「岡山の歴史」岡山文庫57、1974」など)。
 1714年(正徳4年)にその綱政が死ぬと継政がこのあとを継ぎ、さらに宗政へと受け継がれる。この間、藩内では引き続き、温暖な山陽道の気候にも助けられてか、比較的穏やかな治世が続く。それを物語るのが、次の珍しい文章といえる。なぜなら、1729年(享保14年)といえば、諸国、とりわけ隣国では百姓一揆が頻発していた。そのとき、岡山藩でも、そうした一揆が起きたらどうしようか、どう鎮めるべきかを、郡代の加世八兵衛、長谷川九郎太に諮問した、といわれる。その二人が差し出した答申の内容がふるっている。
 「近年御近国の御大名様方は、藩の財政が収支相つぐわぬところから、御知行所の百姓ども騒動仕り候、(中略)総じて御無理なる義を下方へ仰付けられ候ては、兼々申しあげ候通り百姓どもうけつけ申さず候、御領内百姓の儀は何の御気遣いなることは御座なく候。」(池田家文書法令集)」
 さらに、治世が継政の孫、治政の代になってからも、郡代が大庄屋に申し渡した、いわゆる「お達し」に、こう書いてあったという。
 「この節、所々他領がた百姓騒しく、右につき御郡代より各方へ仰せ聞かされ候は、御領分の儀式は兼て厳重に仰せつけられ置き候ゆえ、申し出し候儀もこれ無きことには候えども、大庄屋、名主ども兼々御取締り念入れ取り向け宜しき所より、何の不埒も相聞き申さず、御満足に思召し候、此後も随分御締り念入れ、名主どもより下方へも得と相移り申すべき旨仰せ渡され候。」(岡山大学「荻野家文書ー諸御用留帳」)。
 当時の岡山藩内の様子がこれらにあるような静謐さを保っていたとすれば、それは藩当局による農民への封建的搾取の体制が滞りなく行われていることを意味するのであって、治世を行う側から見ると「概ね結構」ということになるのであろう。そのことを下の方から支えていたものとしては、1704年(宝永元年)に、「在方下役人」がおかれたり、1707年(宝永4年)に大庄屋制が復活して、藩の農民支配が強められていたことも見逃すべきでない。その備前藩の農村においては、階層分化が進んでいた。谷口澄夫氏による引用に、こうある。
 「和気郡北方村出身の学舎である武元君立(たけもとくんりつ、1770~1820)は、その著『勧農策』のなかで、寛政前後において農民の階層分化が行われた必然性をとらえて、その実情をつぎのようにのべている。
 すなわち、「いまはとかく商人の世の中であり、田地の年貢が高くて百姓は耕作のみでは生活してゆくことができない」と前置きして、「百姓のなかには生活に困って借銀をするものが多くなっているがこれほどあわれなものはない。もともと不足がちであるから借銀をするのであるが、そのような者が、一割半から二割の利息をつけて返済することができるだあろうか。だからどうしても、所持している家財・山林または年貢の安い田畑などは、この借銀の元利としてみんな銀主へ取りあげられるようになる。したがって豪富の者の手には、年貢が安くて加徳のある田畑が集中するようになるわけである。しかしこの豪富の者というのは、十カ村に一人か二人ぐらいなものである。それについで、借銀もなく一人前に暮らしている百姓は、百家の村に十人以下である。そこで、残りの九十人はみな困窮している小百姓ということになる。この小百姓は弱体で田地に肥(こや)しをほどこすこともほとんどできず、牛を借用して耕すようなことも思うままにはできないので、地味はやせおとろえて取実(とりみ)もすくなく、有米をのこらずはたき出しても年貢や高掛りの支払い足りないので、またその不足分を借銀が年年累増して首がまわらなくなるのである」と。」(谷口澄夫「備前藩」:児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965に所収)
 そればかりではない。同藩においては、18世紀に入った1705年(宝永2年)、「ざるふり商人」に販売を公認する31品目をきめた。1707年(宝永4年)頃の岡山城下の賑わいを示すものとして、城下の町人総数はおよそ3万人であった、と言われている。
 備中と隣あわせの備中の南部においても、この時期、農業の多角化と、それに触発されての商業の発達があったことが知られる。柴田一氏の論考には、こう記されている。
 「備中南部でも、水谷勝隆・勝宗のころ開発された新田地帯を中心に木綿・藺草の栽培が盛んになった。とくに浅口郡玉島湊は、背後の新田地帯の木綿(繰綿・綿実)を大漁に扱う著名な集散地であり、また、都宇郡連島村は多くの藺草問屋・廻船問屋があって、集荷し藺草を大坂に運んだ。自給的な農業から商業的な農業に脱皮すると、百姓たちは肥料問屋・仲買から、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)を買い入れ、また、鋤、鍬、鎌のほか、役牛・すきを購入し、唐箕の・唐臼・千歯扱ぎ(せんばこぎ)などをもとめ、農業収益を高めていった。」(柴田一氏の論考には「岡山の歴史」(岡山文庫、1974)。

(続く)

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『(20)』『岡山の今昔』江戸時代の国(元禄一揆など)

2016-12-20 18:56:31 | Weblog
『(20)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆など)

 1699年(元禄12年)、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 この一揆では、大庄屋の責任で百姓たちが藩に嘆願する形式をとる。百姓の代表格の
東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代の畑(?)田次郎右衛門、山田仙右衛門に、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。
 これはてごわいとみた藩は、同旧暦11月12日、一旦(いったん)、農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年(元禄12年)旧暦3月27日、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束を見た。彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。
 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。


(続く)

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『(40の1)』『岡山の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(経済)

2016-12-19 21:27:22 | Weblog
『(40の1)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(経済)

 昭和の恐慌と不況の中での商品価格は、貿易の花形であった生糸相場を中心に大暴落となってゆく。また、世界恐慌の影響を受けて、同年をピークに生糸の輸出が減り出した。輸出に大きく依存する繊維産業については、地方の組合や中小の製糸業は減産を余儀なくされていく。
 この間の生糸及び繭をみると、1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする生糸の輸出価格指数は、1929年(昭和4年)222.3であったのが、1930(昭和5年)には145.1、1931年(昭和6年)に104.6に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)11.5、1933年(昭和8年)132.3となっている(「長期経済統計・物価」より)。1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする繭(j8)価格指数についても、1929年(昭和4年)170.6であったのが、1930(昭和5年)には76.0、1931年(昭和6年)に75.5に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)88.1、1933年(昭和8年)131.5となっている(「長期経済統計・物価」より)。
 年平均の農家所得も、1929年(昭和4年)には1326円であったものが、2年後の1931年(昭和6年)になると650円に半減した(中村隆英「昭和経済史」岩波セミナーブックス)。
 美作においても、真庭製糸は休業で従業員を大量解雇、井原町中備製糸は経営困難となって工場設備を競売に付された。勝間田製糸は鐘紡に、備作製糸は片倉へと吸収合併される。これで、岡山県下の製糸業は、郡是(京都府が本拠)、片倉、そして鐘紡の傘下に入ることで、資本の集中が進んだ。ここで郡是について説明しておくと、この会社は1916年(大正5年)には郡是(グンゼ、京都府何鹿郡(いるかぐん)で、現在の綾部市が本拠、操業開始は1886年(明治19年)、創業者は波多野鶴吉)の津山工場が営業を始めた。
 この新たな生産体制の下で、個々の養蚕農家など小生産者は、大企業相手の従属的特約取引に入らざるをえなくなっていく。そのことによって、農家からの納入価格は抑制されてゆく。また、輸出価格を下げて国際競争力を高めるべく、大企業が種蚕を原料価格の安い沖縄、台湾、中国などからの輸入、交配させた新品種を特約農家に生産させるようになったのである。
 1930年(昭和5年)、倉敷紡績万寿工場で女工621人が参加してのストライキが始まった。寄宿舎に住む女子労働者たちを中心に、賃金の2割の引上げと8時間労働の要求をはじめ、体の弱い者をねらっての解雇に反対するとともに、生理休暇が取得できるような保障や、寄宿舎の食費の値下げなどの要求も掲げていた。その後の成り行きについては、「ただちにスト参加者のたてこもる寄宿舎と外部の連絡は遮断され、倉敷警察署と県特高課が出勤してきた。結成後間もない倉敷一般労働組合がビラまきやビラ張りなどを行って支援した。10日間にわたる全工場のストライキも、会社側が切り崩しの一方で要求の一部をのみ、退職手当を支給するとの回答を引き出したが、警察の弾圧もあって、ついに争議を集結した」(岡山女性史研究会編「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中」の歩み」山陽新聞社、2000)とある。
 1930年(昭和5年)、農業では、農産物価格が下がるということになった。日本市場には満州米、朝鮮米、台湾米といった外米が沢山入ってきていて、供給過剰を起こした。これを「農業恐慌」と呼んでいる。国内の農家の生産する米が不作になると、米は穫れない、売り渡しの値段は下がるで、農家の採算は悪化した。その後、東北地方の例外などによる不作、凶作が続いて、1938年(昭和13年)には、主食である米の国家管理を目的とする食糧管理法が制定された。
 日本からブラジルへの移民は、日本政府の渡航費補助の開始により、1932年(昭和8年)に2万3389人のピークを記録した。これは同年の日本からの移民総数の85%に当たっていた。2014年秋現在、106年前に始まった日本人のブラジル移民により、今では同国の日系ブラジル人の総数は一切で約160万人だと言われる。これより先の1930年(昭和5年)、ブラジルではジェトゥリオ・ヴァルガスらによる革命が起き、臨時政府は同年12月「外国移民入国制限及失業者救済法」を制定して、農業移民を除く移民の入国を制限した。日本は、農業移民としてブラジルに行くということで、この措置の適用を免れる形で引き続き移民を奨励した。
 それからは、年間移民数を、過去50年間の移民実積総数の2%までに制限したり、日本人医師の開業を禁止したり、国籍取得も制限するなど、厳しい移民政策になっていった。岡山県からのブラジル移民は1910年(明治43年)の31家族、119名が最初であった。それから1934年(昭和3年)まで移民はしだいに大きな流れとなってゆく。県内で移民の多い地域は、吉備郡、都窪郡、児島郡、御津郡、浅口郡などであり、吉備郡阿曽村にある民間団体、海外興業株式会社出張所などが移住の斡旋を行ったことになっている。

(続く)

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『(36の1)』『岡山の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

2016-12-18 21:24:10 | Weblog
『(36の1)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)

 その頃までの明治政府の主要ポストは、薩長土肥の出身者がほぼ独占していた。そこでこれによる専制政治を批判するとともに、早期の国会開設、地租軽減、政治的自由の拡張
などを求めて国民的政治運動が持ち上がった。
 ゆえに、1874年(明治7年)1月12日、板垣退助ら民選議員が、当時の左院(当時の立法機関)民選議員設立建白書を提出した。これに始まる国会開設を初めとする民主化要求を掲げた運動が全国的にひろがっていく。1880年(明治13年)には、国会期成同盟が成立した。当時の板垣(1881年には自由党を組織)らの念頭にあったのは、いわゆる豪農や豪商、元士族の富裕層を中心に構成される議会であった。元士族においては、1877年(明治10年)の西南戦争の敗北以来、その没落が決定的になっていった。この運動は、時を経るに従い、新興ブルジュアジー(産業資本家階級)や一般農民の一部を巻き込んで、大隈重信(1882年に立憲改進党を組織)らの自由主義的な運動にも発展していく。やがて1890年の国会開設に繋がるこうした一連の運動の流れを、「自由民権運動」と呼ぶ。
 1876年(明治9年)、北条県は合併で岡山県となったものの、県知事の権限が強く、政府の法律や規則などに縛られ、国への政治参加も限られていた。全国の自由民権運動の高揚に伴って、人民の政治的権利と人々の生活向上の願いが聞き入れられない状況が露わとなるに従い、岡山でも早期国会開設請願の署名運動などが進められていく。その岡山での自由民権運動の盛り上がりを伝えるものに、大衆演説会があった。1880年(明治13)11月22日付け『岡山新聞』に、こうある。
 「作州津山辺では、市中を巡航せらるる一本筋の巡査のうちに、(中略)市中にて国会開設のことや、新聞雑誌の話などをしている者があると、これこれ其の方共は今何を話していたか、けしからぬ。隠さずと申し上げよ、とて、其の話していた事柄を聞糾(ききただ)し、住所姓名までたづねて手帳にひかえらるる」(『津山市史』第六巻)。
 続く1882年(15年)4月27日、津山の二階町で開かれた自由大親睦会という名目での集会が、時の集会条例に抵触するとして即刻解散の憂き目にあう。のみならず、これに参加していた自由党美作部の党員が警察に連行されたとある(4月30日付け『山陽新聞』)。
 ともあれ、こうして岡山の地では自由を求める運動が、官憲の望外に遭いながらも続けられていった。そして迎えた1890年(明治23年)7月の第1回の衆議院選挙で、岡山は7つの選挙区に分かれていた。美作でいうと、第六区からは立石岐(たていしちまた)、第七区からは加藤平四郎が当選した。同選挙後の1890年9月、立憲自由党が結成された。その旗印としては、皇室尊栄・民権拡張・内政簡略・対等条約・政党内閣実現などであった。翌1891年(明治24年)、立憲自由党は、岐阜で運動中に狙撃された、あの「板垣死すとも自由は死なず」で有名な板垣退助を総理とし、自由党と改称するに至る。
 1878年(明治11年)には、府県会規則が制定された。同時に、郡区町村編成法、地方税規則が制定された。これらにより選挙による地方議会が発足したのである。選挙のやり方は、記名投票にして、選挙権は満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者に与えられた。県議会議員選挙規則も定められ、その翌年に県議会の選挙が実施された。とはいえ、ここに女性の参政権はおろか、男性も一定以上の地租を定める者でなければ、政治に預かれない、次の仕組みとなっていた。
 「一、議員は郡区ごとに選挙で決める。
一、選挙人は、満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上を納めている者
一 被選挙人は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上を納めている者」(出所は、津山市史編さん委員会「津山市史」第六巻、明治時代)
 1900年(明治33年)、衆議院議員の選挙権はその後、1900年(明治33年)に「直接国税10円以上の納税者」に改正され、有権者数はそれまでのほぼ2倍の98万人(2.2%)に拡大されたのだ。

(続く)

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『(34)』『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆など)

2016-12-18 21:21:38 | Weblog
『(34)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆など)

 当時、廃藩置県後の岡山県南部の磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡の四郡と、北條県だった美作の地でもいわゆる「血税一揆」が頻発したことは、そのことを物語っている。「血税一揆」の「血税」たる所以は、遠くローマ時代に遡る。彼の地では、市民の義務として兵役を課せられることを「血税」と呼んでいた。岡山県南の騒動が起こったのは、1871年(明治4年)のことで、大方は旧岡山藩の所領であったところである。騒動の発端は、同年11月25日(旧暦)、磐梨郡(その後大部分の地域は赤磐郡となり、現在の赤磐市に繋がる)であった。すなわち、同郡の国木宮(阿保田神社)に同郡内十か村の農民約5百人が結集し、集団強訴の気勢を上げた。農民達は何時や掛かりで、県当局への嘆願書をまとめる。この年に施行された「悪田畑改正」により従来より年貢負担が重くなるケースが生まれていた。夏の水害の影響で収穫減が懸念されるなどもあったようだ。そこで、生活不安から、今年暮れに予定される年貢米の納入を3分の1に減らしてくれるか、またはこれに相応する助成の措置を講じてくれるように要求したのであった。
 その三日後の11月28日(旧暦)になると、騒動は赤坂郡に拡大していく。こちらでも群衆は磐梨郡でのような嘆願書を提出する。彼らの一部は、打ちこわしへと暴徒化していき、同日の夕方になっても収まる様子はなかった。元山陽新聞社勤務の清野忠昭さんによると、29日(旧暦)の「このころ農民勢はおよそ三千人と報告されており、騒動は頂点を迎える」(清野忠昭「忘れられた農民一揆(2)ー明治四年県南四郡(磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡)騒動始末記ー」)というから、まさに燎原の火が広がるが如く、というべきか。その頃になると、岡山県当局も騒動が容易ならざる事態が進行しているとの認識に達したのか、説得を試みたり、捕縛に乗り出したり始めている。さらに、騒動は津高郡、上道の両郡にも広がっていき、先の二郡と同じような嘆願書が県当局に提出される。拡大を続けていた騒動が収束に向かうのは、津高郡の県当局との攻防において、「鎮圧隊の発砲で死者五人、負傷者四人(または五人)」(同)出てからである。官憲の圧力が俄然増してきたことにより、12月1日(旧暦)になると、赤坂郡を中心に3日間続いてきた未曾有の騒動も下火に向かうのであった。
 ほぼ同時期の美作ではどうであったのか。こちらの農民を主体とする一揆の主な原因は、徴兵や土地の地券作成から学校や公共施設の建設など、農民を中心に度重なるさまざまな負担(税や賦役など)が課せられたことにある。その日、1873年(明治6年)5月25日、西西条郡貞永村(にしにしじょうぐんてえじむら、現在の苫田郡鏡野町)から起った。この一揆は、農民たちの明治政府への日頃の不満に火がついた格好で、2、3日のうちに美作全域に広がっていった。津山市街地においては、禄を失った旧津山藩士百四人も、かれらの要求を携えて一揆に参加した。この「美作血税一揆」の参加者の数は、全体で2万人を超えていた。その地理的な拡がりを物語るのは、1975年(昭50年)に郷土の史家(井汲清と安藤靖雄)によって「明治6年北条県血税一揆略図」として伝えられる。それによると、まさしく燎原の火の如く広がった一揆だったことが読み取れる。
 この一揆の目標は、北条県当局に突き出された形であったが、その多くは県庁の権限では及ばないものが多かった。主な要求項目としては、「一、五ヶ年間、年貢米を免除すること。一、断髪令を廃止して従前通りとすること。一、屠牛を止めさすこと。一、田畑へ桑、草木の植付を止めさすこと。一、地券作成の費用は政府でもつこと。一、耕地絵図面の費用も右に同じ。一、徴兵制度を廃止すること。一、「部落」は従前通りとすること。
一、課税金も従前通りにもどすこと。」の10項目にも及んでいた。
 とりわけ西部の一揆勢は、5月27日には津山市の西寺町の愛染寺に到達したし、東部の一揆勢は30日、川辺から兼田橋(旧)を渡った。そこから出雲街道沿いを、津山城下の西の玄関口として城西(じょうさい)地区のうねうね、かくかくした狭い通りを見据えつつ、その津山市街に入ろうとしていた。明治政府の方からは、大阪鎮台から政府軍が出兵して、大砲や鉄砲で一揆を鎮圧しようとした。双方の武力の差は歴然としており、明けて6月2日にはさしもの激しい一揆も武力で鎮圧された。
 この事件で処罰された者の数は、美作ではそれまでにない大規模なものだった。死刑に書せられた者15人、牢につながれた者28人、むちたたきにされた者553人、罰金刑になった者2万6千余人であった。罰金については、つぎのように説明されている。
「罰金は参加者全員に、一人あたり2円25銭でした。この金額は米一石のねだんです。当時の百姓の日当(賃金)が米一升の時代でしたから、百日分の日当は農民にとってそれはそれは大変な大金でした。 金策に困りはて、田畑を抵当に入れて高利貸から借金する者など、貧しい農民のくらしをさらに苦しめました。集めた罰金は6万5千円、いまのお金にすれば十数億円という莫大なものでした。」(美作の歴史を知る会編「おかいこさまと自由民権」みまさかの歴史絵物語(9)、1993年3月刊)
 この北條県一帯の一揆には、勝北郡(しょうぼくぐん)からもかなりの人数が参加していて、新野東、新野西、山形、広戸からの一揆勢の大方は妙原(みょうばら)・津川原(つがわはら)方面へと進出した。一方、勝北郡への一揆勢の進出としては、梶並川周辺(勝田郡勝田町、勝田郡勝央町及び英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡間町)からのものと、吉野川周辺(英田郡美作町(現在は美作市)、英田郡作東町及び英田郡大原町(現在は美作市))からのものと、大まかに二つの流れがあった。なお、ここで梶並川とは、吉井川水系に属する吉野川の支流である。源流は、鳥取県境の勝田郡勝田町右手峠(標高633メートル)辺りで、そこから南に30.8キロメートルを下って、英田郡美作町林野付近で吉野川に合流している。それでも、年を重ねるうち、新野西下の世帯数と村人は増加した。「東作誌」による江戸末期は「村高のうち新田19石余、毛付高444石(1石は0.18キロリットル)余、家数47・人数199、山林27か所で2町の運上金10匁(現在の1匁は3.75グラム)余、井堰は広戸川筋3・田柄川筋7、溜池3」となっていた。それが1889年(明治24年)になると、「戸数63、人口は男168・女148」(いずれも角川書店『全国地名辞典』)。
 この一揆の性格については、なかなかにして捉えることが難しい、と言われてきた。それというのも、当時の農民たちは様々な抑圧の中におかれていた。ところが、その農民一揆のそもそもの旗印である要求項目の中に、様々な抑圧からの解放ばかりでなく、封建制の残滓への執着、わけても部落民への敵愾心(てきがいしん)が見え隠れしているではないか。やがて一揆が広がるにつれて、明治政府による人民への差別と分断への反撃というよりは、被差別部落に対する集中攻撃など、立ち上がった民衆のエネルギーの一部が旧体制の温存志向となって噴出していったことにある。美作に生まれ、その生涯を部落解放に捧げた岡映は、そんな一揆の傾向を次のようにまとめている。
 「・・・・・だから、この一揆が起きたときに、やはり「エタが来る、エタが押し寄せて来る。先手を打とう。」というようなことはあり得ただろう。最初の和田村の襲撃などはそこからきていて、あとはもう、彼等自身がとどめようがなくなったくらい暴れ回った、といってもさしつかえないんじゃないか、ということを思うのであります。しかし、いずれにしても幕府のとった分断政策というものがこうして悲劇を残すに至ったということは、残念ながら、私ども美作の部落解放運動史、あるいは農民一揆史を考える場合、これを避けてとおるわけにはいかないんじゃないか、否、むしろそれにまともにぶつかるなかで、差別という思想がどこから出ているのかということを考えてみる必要がある。」(岡映「美作血税一揆から何を学ぶか」:美作部落問題研究会「美作血税一揆〈資料・研究〉上」1975より引用)

(続く)

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『(6)』『岡山の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

2016-12-18 19:28:32 | Weblog
『(6)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倭の時代の吉備(壬申の乱と吉備)

 このように大和朝廷との対抗関係についての推測が重ねられつつある出雲国と吉備国とであるが、両者は、おそらく6世紀までには、他の政権によってだんだんにか、急に押さえつけられるようになっていったのではないか。その政権とは、邪馬台国の卑弥呼の時代を含む前々からその地にあったか、その後の過渡期を経てこの地に台頭してきたのであろう、つまり畿内に根拠をおく、後の「大和朝廷」と呼ばれるものに他らない。その政権から吉備国に対する最初の働きかけの記録としては、『日本書紀』の「欽明天皇6年7月4日条」に、吉備国5郡に白猪屯倉が置かれたことになっている。また、「敏達天皇12年是歳条においては、「日羅(にちら)等、吉備海部直羽島(きびのあまのあたいはしま)児島屯倉(こしまのみやけ)に行き到る」(小島憲之ほか校注『日本書紀』小学館、親日本古典文学全集3の第2巻、1996、441ページ)とあることから、この頃(年代表記に従えば、同大王の治世は遅くとも585年までは)、半島ではなく島であった児島が、吉備に属していたことが推察される。
 さて、「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)が起きる。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)を倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が天下人にとって代わる。なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、これは戦に勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとためとの考えも出ている。
 ところで、この権力闘争において、吉備氏(きびし)が、どちらに側に属し、又は加担、もしくは中立を通したのかは、実ははっきりしていない。近江(大和)朝廷側(弘文大王)が放った東国への使者は、大海人皇子側に阻まれたのではないか。「倭京」(やまとのみやこ)にも使者を遣わした。さらに西国の吉備と筑紫にも使者を遣わし、「これらの国々すべてに兵を起こさせた」(『日本書記』の「元年六月条」の訳文より。新編日本古典文学全集4の同著、小学館、1998、317ページに記載)とある。
 当時の近江朝廷側にとって、これらの豪族の中では吉備と筑紫の軍事力が特に目ざわりであった。どうやらその上、敵対する大海人王子と親密な関係にあるという疑いをもっていたらしい。そこで両方への使者に対し、吉備国守(きびのくにのかみ)の当麻公広島(たぎまのきみひろしま)と筑紫大宰(つくしのおほみこともち)の栗隈王(くるくまのおほきみ)が「もし背反する表情が見えたら殺せ」(同)と命令し、現地へ行かせた。その後の顛末だが、筑紫では怪しまれて事を成し遂げることができなかったものの、吉備に言って面会に臨んだ当麻公広島については「欺いて広島に刀を解かせた。盤手はすぐさま刀を抜いて広島を殺した」(同)とあることから、少なくとも吉備の大海人王子側への加勢を阻むことには成功したようである。併せて『日本書紀』の「天武十一年7月条」に「戌午(ぼご)に、隼人等(はやひとら)に、飛鳥寺の西に饗(あ)へたまひ、種々の楽(うたまひ)を発す。仍(よ)りて禄賜ふこと各差有り。道俗悉く見る。是の日に、信濃国・吉備国・並に言(まを)さく、「霜降り、亦大風ふきて五穀登(みの)らず」とまをす」(同、421ページ)とある見ても、この頃の頃吉備地方は吉備国として支配されていたとみて差し支えあるまい。およそ以上のことが歴史的事実であったのなら、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見て良いのではないか。

(続く)

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