(24)『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

2016-07-09 09:32:25 | Weblog
(24)『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

 東アジアの3世紀後半からは激動の時代であった。中国大陸では、263年、魏が蜀を滅ぼす。263年になると、魏が亡び、これを滅ぼした西晋が当時の全中国を統一する。一方、倭の3世紀後半からしばらくの歴史については、中国の歴史書から姿がはっきりとした姿は見あたらなくなる。例えば、村山光一氏は「大和政権」の項の冒頭で、自説をこう述べておられる。
 「二六六年から百年間は、文献・金石文などの史料によって日本の動向を知ることはできないが、われわれは古墳の出現・波及という考古学上の知見にもとづいて、この空白の期間に、畿内を中心に西日本の各地域において多くの政治集団が形成されていたことを確認することができる。(中略)
 さらに、この前方後円墳の分布の中心が、巨大古墳の集中している大和盆地の東南部にあったという事実に着目するならば、右の政治的連合の盟主はこの地域の首長であったと推断することができるであろう。なお、西日本の政治連合体の盟主となった大和盆地東南部を中心とする地域の政治集団は、大和政権あるいは大和王権と呼ばれるが、この大和政権は、卑弥呼の死後再びシャーマン的女王を共立した倭国とは別個の政権であり、九州地域に存在したかつての倭国は大和政権を中心とする西日本の政治的連合体によって征服されてしまった、というふうに考えておきたい。」(村山光一・高橋正彦『国史概説1ー古代・中世ー』慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 ここで何故、中国流の「方墳」(ほうふん、四角い形)ではなく、前方後円墳なのであろうか。その答えとしては、諸説が提出されている。いまだに定説は見あたらないものの、同時期の中国(山東省○南(きなん)県の「○南(きなん)画像石墓」、2世紀)の豪族の墳墓の中に、壺(つぼ)の中に仙人(「東王父」(とうおうふ))の住む、「不老長寿の世界」を見立てる像が刻されていることから、この姿を平地に横たえて造形することにより、被葬者の死後の世界=理想郷(ユートピア)としての「東の海・ツボ形の島」を保障しようと考えたのではないか、との新説()が唱えられている。つまり、「ツボの中に、不老長生のユートピアがあるという思想が入ってきたとき」(元同志社大学教授(古代学)辰巳和弘氏)。国内の前方後円墳の墳墓の墓室中においても、「被葬者が徠正でも、現世と同じように暮らすことを願って、絵が描かれた」(同教授)と主張されているところだ。
 この国においては、現時点で4000基以上の前方後円墳が見つかっている。それらの中では、大和の地に最古級の前方後円墳がある。中でも纏向(まきむく)古墳は、畿内(現在の奈良県桜井市)にある。これの発掘を行った桜井市教育委員会によると、この遺跡の造営年代は、3世紀前半、もしくは2世紀後半から3世紀位と推定されている。この築造年代の推定が当たっているならということで、纏向は邪馬台国の拠点であったとする向きがにわかに増えた。纏向古墳の全長は約90メートルで、それまでの中では群を抜く長さである。その規模は、約3平方キロメートルであり、この時代のものとしてはやや広い部類に属する。
 続いて、纏向と同じ畿内(奈良県桜井市)から一つの古墳が見つかった。この箸墓(はしはか)古墳は、全長が276メートルもの巨大な前方後円墳となっている。こちらが築造されたのは、3世紀中葉以後(3世紀後半)と推測する人が多い。とはいえ、こちらの現況は纏向の場合とやや異なり築造年代がやや不明確だ。その理由として、仁藤敦史氏は、次のように言われる。
 「箸墓古墳の築造直後の布留○式土器の年代測定の年代を240年から260年と推定する見解が提起されて話題となったように、邪馬台国の時期は、従来のように弥生時代ではなく、古墳出現期に位置づけられるようになったことが重要である。」(仁藤敦史「「邪馬台国」論争の現状と課題」:歴史科学協議会編集「雑誌・歴史評論」2014年5月号、第769号に所収)
 こうした畿内での初期古墳の発見によって、邪馬台国ヤマト説が俄然勢いづいている。
2009年11月には、この遺跡内から大型建物跡が発見された。その場所は、大和の三輪山の麓にある。これをもって、卑弥呼(ひみこ)なり、台與(とよ)か、それとも『日本書紀』にいう天皇家初代の頃の「神功皇后」なのではないか、等々の話にも発展している。これらのうち一つ目の考えはかなり多くあり、例えば、岸本直文氏は次のように述べておられる。
 「卑弥呼の治世は三世紀前半の約半世紀、ヤマト国を盟主とする北部九州を含む瀬戸内沿岸諸勢力の政治連合が生まれた。ヤマトの本拠は纏向(まきむく)である。100メートル級の前方後円墳が築造され、その墳形の共有、公孫氏政権から入手した中国鏡の配布が始まる。
 238年に公孫氏は魏に滅ぼされ、翌景初三年、卑弥呼は帯方郡に使者を送り魏への朝貢を願い出る。魏は卑弥呼を「親魏倭王」として認め、「銅鏡百枚」などを与える。
 卑弥呼は二四七年頃に没し、初代の倭国王墓、巨大な前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳に葬られた。これが前方後円墳が列島規模で波及する起点であり、倭国統合の第三段階である。」(岸本直文「古墳の時代ー東アジアのなかで」:岸本直文編「史跡で読む日本の歴史2古墳の時代」吉川吉文館、2010所収)
 この三つめの可能性を指摘するものとしては、『日本書紀』の神功皇后の条において、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王二人のいずれかを神功皇后に見立てるなどの向きがある。いずれも、畿内での初期の前方後円墳と見られる墳墓の発見によって、邪馬台国=(イコール)倭(ヤマト)説が出て来た。その上で、邪馬台国がどうであったのか、及び3世紀後半からの倭はどうであったのかを推定している。この説に立つなら、畿内に興った邪馬台国が北九州の諸国についても影響力ほ及ぼして従えていったことらもなっていく。これに加えるに、この文献学上の根拠とされる向きもある『日本書記』の「神功皇后摂政」の三十九年から四十三年には、こうある。
 「三十九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。」
この部分の書き下し分は、次のとおりだとされる。
 「是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。
 「四十年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
この部分の書き下し分は、次のとおりとなっている。
 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。」
 「四十三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
この部分の書き下し分は、こうなっている。
 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人」
 ここに「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也」(「明帝景初三年」は西暦では238年)とあるのは、『魏志倭人伝』中の「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」と年号が異なっている。また、『日本書記』のどこを探しても、『魏志倭人伝』に載っている当時の邪馬台国に関する記述は一切出てこない。さらに、「神功皇后摂政」とはいうものの、当時の倭の勢威を盛んにならしめたといわれる彼女が、果たしてその通りの人物として実在していたかどうかは、分かっていない。このように、国家が編纂する史記の上では中国側と倭の側とで大きな食い違いが生じている。他にも、『魏志倭人伝』においては、「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」とある。つまり、「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、人がいて武器をもって守衛す」となっている。ここに「城柵」とは、土塁と柵を巡らせていたことが覗われる。けれども、両遺跡からは、そのような堅固な城柵の跡は見つかっていない。
 総じて、今日までの邪馬台国と大和朝廷の関係を論じる論説はあまたあるのではないか。それでも、いずれの説においても学会ならびに国民を納得させるにたる証拠は見つかっていない。つまり、この論争に決着はまだついておらず、先延ばしの感が強い。かつまた、これまで未発掘と目されている残りの天皇陵において、全国の主だった古墳を司る文化庁が近い将来、考古学者らによる発掘を許可する可能性は乏しいのではないか。それとも、やがて追々には、大和政権は追々、邪馬台国からの、何らかの連続性において捉えることができることになっていくのかもしれないし、それらとは断絶したところから新説が次々と浮かび上がってくるのかもしれない。さらには、単に邪馬台国のあった場所はどこであったのかという、その枠では史実を語れないことになってしまうかもしれない。いずれにしても、21世紀の現代においても、我が国の歴史の5世紀頃までの解明においては、近くは中国などと異なり、色々と決め手な欠けることが多すぎる感じがしてならない。

(続く)

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2 コメント

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Unknown (RW)
2016-10-08 09:12:46
3世紀の倭国は小生も最も興味ある時代です。巨大古墳の連合政権が抹殺した卑弥呼の歴史は謎に包まれており興味深々です。先日「邪馬台国を旅する」という本を購入しましたが、将来はこのテーマで全国を廻って見たいです。
私も邪馬台国を旅したいです (丸尾)
2016-10-11 21:28:01
お便り、ありがとうございます。
邪馬台国の本、わたしもいつか読みたいです。
私は今健康作りで、近くの図書館までの1時間
の道のりをよく散歩しています。
図書館に着いたら、ちらちら書棚をみたりして、
その日読みたい本を選びます。
選んだ後は、椅子に座って少し読んだりしていま
すが、大抵はウツラウツラ、そしてまた少し読みま
す。その繰り返しです。
平均で2時間くらい過ごすのでしょうか。
たまに、ビデオなんかも鑑賞しますし、2週に1度
位は映画会もあるので、無料で観せてもらいます。
読むのは、歴史があったり、化学とか地学とか天
文や考古学とか、色々です。
眺めて楽しいのは、画集とか、焼き物の写真とか
でしょうか。
中でも、歴史の本は、やっぱり凄く好きですね。ま
だ小さい時からです。
邪馬台国をテーマに旅してみられたいとのこと、同
感です。私も、いつか愛用のリュックとともに・・・。
このブログ、これからも少しずつ書き足したり、直した
りしていきます。
またお時間がよろしいときがおありでしたら、立ち寄っ
てみてくださると、うれしいです。
間違いも色々あると思います。御気づきのことなどあ
りましたら、コメント投稿くださいませ。
2016年10月11日夜、記

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