□183『岡山の今昔』岡山人(19世紀、伊東万喜、江戸での暮らし)

2019-02-28 10:01:34 | Weblog

□183『岡山の今昔』岡山人(19世紀、伊東万喜、江戸での暮らし)

 さて、伊東万喜の手紙の中には、家計のやりくりや子供の教育、世情などが丁寧に記されていることから、その史料価値はかなり高いとみられる。それらのうち、特に開国で揺れる中での物価の動き、そして暮らし向きにつき、次のものがある。

 「当地の米の値段は、二月・五月は下値四〇余両でした。これは玄米一〇〇俵の値段です。すべて当地(江戸)は、一〇〇俵の値段を申します。当十月の玉落(たまおち)の節は、五七両二分の高値になりました。

 これは夏中雨が降り続いたためでしょうか。そちらも雨が降り続いた年で、登り年は二月の玉に二五俵、五月は一〇〇俵、みな米で支給を受けました。その節は下値で、当十月の玉は、前文の通り三分の二はお金でくださり、三分の一は米で支給されました。 

 そのうち、飯米として一三俵を請け取り、残りの分は少しです。御張紙(おはりがみ)は四一両なので、よほど心して暮らしていかなければ、なかなか収支が合いません。」(1849年(嘉永2年の筆、前掲書たる妻鹿淳子「武家に嫁いだ女性の手紙ー貧乏旗本の江戸暮らし」吉川弘文館、2011の、著者による現代語訳より引用)

 また、武士の家人ながらも、農民のことを気にかけているようなものもあって、こういう。

 「近年日照り続きで畑田ともに不作、村内の者は困窮している由、さてさて良いことはないものであろうか。」(1857年(安政4年の筆、同)

 もう一つ、今度はあわただしい世情につき、紹介されているものの中から転載させていただく。

 「当地(江戸)にも、唐人(アメリカ人)が四、五年前から来て、いろいろ難題ばかり申し、とかく難しく交易交易と言って、日本の米やそのほか入用の品々と取り替えることばかり申し出て、拒否すれば、軍船を率いて戦をすると脅し掛ける。

 いままでは、なんとか色々と言い訳をしてときを過ごしていたが、昨年より「おも立候唐人」(アメリカ総領事はハリス)が下々の者も連れて江戸へ出てきて将軍に謁見し、交易の要求を申し出ているようです。(以下、略)」(1857年(安政4年)の筆、同)

(続く)

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