『(33の2)』『岡山の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉2)

2017-08-31 09:26:50 | Weblog
『(33の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉2)

 さらに明治新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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『(33の1)』『岡山の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉1)

2017-08-31 09:24:31 | Weblog
『(33の1)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(封建制の終焉1)

 そして迎えた1868年8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。
 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)ら
ざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす。・・・・・」
 この措置により、例えば備中松山藩を例にとると、新政府から蔵米2万5千石を受けて6万1千石に復された。
 1871年(明治4年)には、備後福山県を含め、深津県が成立する。その深津県は小田県となり、1873年(明治6年)には岡山県と合併させられる。岡山県は、さらに1876年(明治9年)になると備後を分割して西隣の広島県に譲り渡す。それとともに、とともに、美作の津山・鶴田・真島の3県を合併した北條県を吸収し、ここに「備前・備中・美作」の三国で成り立つ新生「岡山県」が誕生した。
 それから時が流れてての1890年(明治23年)には、市町村制の実施があった。この措置は、その2年前に発布された市町村制の第2条で、「町村は法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ義務ヲ負担シ凡町村公共ノ事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ処理スルモノトス」と定められたことに基くので、自然人としてではなく、法律の上で、権利義務の主体であるという資格、つまり法人格を与えられたものである。これにより岡山県下の旧来の町村々は分合されて一つの新しい町村となり、その村に個人の人格と同一の、法律上の人格を与え、町村は個人とひとしく、権利義務の主体となったのである。
 例えば、美作の中心地・津山においては、宮川を挟んで西側が苫田郡津山町、東側が苫田郡津山東町にそれぞれ区画割りされる。これに関連するところでは、例えば院庄では、院庄(いんのしょう)、神戸(じんご)及び戸島(としま)の三か村が合併して、院庄村(現在の津山市院庄)となる。続く1900年(明治33年)、今度はその津山町と津山東町が合併して、津山町ができ、山下に市庁舎(現在・郷土資料館)が置かれる。なお後日談だが、これら津山近辺の区割りは、後の1929年(昭和4年)に、苫田郡の津山、津山東両町と、苫田郡の院庄、西苫田、二宮村及び久米郡福岡村が合併して津山市となるまで続く。また勝北、勝南の両郡については、北吉野村、豊田村、豊並村(以上は現在の奈義町)、植月村、古吉野村(以上は現在の勝央町)、吉野村(現在の勝央町及び美作市)、勝田村、梶並村(以上は現在の美作市)、新野村、広戸村(以上は勝北町を経て、現在の津山市)、広野村、滝野村(以上は現在の津山市)の13か村となる。これらのうち新野村は、新野郷の中心地域であった山形村、西上村、西中村、西下村、東村(東上村、東村)として編成替えされた。

(続く)

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◎213の1の3『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1993~2017)

2017-08-28 10:30:27 | Weblog
213の1の3『自然と人間の歴史・世界篇』朝鮮半島(1993~2017)

 朝鮮半島は、朝鮮戦争での休戦ラインを挟んで北と南とで対峙する様になって以来、同じ朝鮮民族同士で軍事的ににらみあってきている。朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」という)は、南の大韓民国(「韓国」という)に長距離砲の軍門を並べでいる。南の方も、北に向かっての戦争に備えている。そして韓国軍の後には、在韓米軍が控えている。米韓は、自分達が取り組んでいるのは北の脅威に対抗しての共同防衛の陣を敷いているのだという。
 1993年、北朝鮮はNPT(核不拡散条約)からの脱退の意思を明らかにし、国連の安全保障理事会(「安保理」と通称)では、NPTへの復帰を要請する。1994年には、アメリカと北朝鮮の間で、核兵器開発の凍結と原子力発電所・軽水炉の提供についての合意が成ったものの、その後に話は破綻になってしまった。1998年には、北朝鮮が長距離弾道ミサイルのテポドンを発射した。
 21世紀に入ってからは、この両者の力関係に大いなる変化が認められる。一つは、北朝鮮の核武装化の動きが進展中だ。今ひとつは、米軍と韓国軍との戦闘能力の一体化が進みつつある。北朝鮮側は、このところの米韓軍事演習や新型のミサイル配備が軍事緊張を高めているという。アメリカと韓国とは、それは防御のためやむを得ずやっている、そちらこそ大陸間弾道ミサイル((ICBM:intercontinental ballistic missile)の開発を進めているという。こうなると、互いの非難合戦が果てしなく続くことになろう。互いにか、どちらかからか、この動きをとめないと事態はエスカレートしていくばかりであろうに。双方とも、一触即発の事態となることを望んでいるのであろうか、そこにあるのは戦争であろうに。戦争というものは、偶発的に起きることがあることから、互いの自制が求められる。
 参考までに、この間の北朝鮮に対する安保理による制裁決議の採択は度々にわたっており、その理由とされる北朝鮮の軍事行動はだんだんと高度化している。2000年には、アメリカのクリントン大統領が予定していた北朝鮮への訪問を諦めるにいたる。2002年には、アメリカのブッシュ大統領が、北朝鮮などを「悪の枢軸」と発言した。2003年、北朝鮮がNPTからの脱退を再度宣言したことで、米朝の協議か暗礁に乗り上げた形になると、北朝鮮のさらなる暴走をくいとめるべく6か国(中国が議長で米韓日ロが参加)による協議が開始となる。2005年、北朝鮮が「自営のための核兵器製造」を表明した。これに対し、6か国協議による共同声明が出される、その中で核兵器の放棄と北朝鮮の不侵略で求めた。
 2006年7月中、北朝鮮は弾道ミサイル7発を撃ち、10月には1回目の核実験を行った。これを受けての安保理だが、加盟国に北朝鮮への大型兵器や贅沢品の輸出禁止を求めることを決めた。これが、安保理による北朝鮮への最初の制裁措置に踏み切った時であった。2009年6月、安保理において北朝鮮への制裁の拡大があった。具体的には、すべての武器の禁輸、制裁履行の監視強化の決定が行われた。こちらの制裁の原因となったのは、2006年10月の1回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定0.8キロ・トン、ちなみに広島に投下された原爆の規模は同15キロ・トン)、2009年5月の2回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定3~4キロ・トン)などであった模様だ。
 2012年4月には、安保理において、北朝鮮の核・ミサイル開発への議長声明があった。2013年1月、ミサイル発射に関与した4個人6団体の資産凍結が行われた。制裁の原因となったのは、2012年12月には、弾道ミサイル・テポドン2改良型が発射された。そして2013年2月に北朝鮮が3回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6~7キロ・トン)を行うと、安保理は3月にこれの制裁に核ミサイル関連貨物の検査を義務化した。
 2016年3月、北朝鮮からの鉱物始原の禁輸・制限。制裁の原因となったのは、2016年1月の4回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定6キロ・トンで、北朝鮮は「水爆」と主張)と弾道ミサイルの発射であった。続いて、2016年9月には北朝鮮による5回目の核実験(TNT火薬換算の規模は推定10キロ・トン)があった。2016年11月、これらに反応した安保理が、それまで民生用に限り認めてきた北朝鮮からの石炭輸出に上限を設定した。
 2017年2月12日、北朝鮮は新型中距離ミサイル「北極星2」を発射した。3月6日、中距離「スカッドER」4発が発射された。5月14日、中距離「火星12」を発射した。21日には「北極星2」を発射、29日にもミサイルを発射した。6月、ミサイル開発に関与した14個人4団体の資産を凍結した。こちらは、5月に2回目の弾道ミサイルの連続発射があったことへの制裁措置となっている。
 さらに、7月4日と28日に大陸間弾道ミサイル(ICBM、「火星14」)発射があった。これに対し、8月の国連安保理で石炭や鉄鉱石それに海産物の同国からの輸出を例外なく禁止する措置(禁輸)を発表した。新規の北朝鮮労働者の受け入れ禁止も決めたのだといわれる。この場では、米国などが当初求めた軍事目的の石油の取引制限を主張したのであったが、これに穏健派の中国とロシアが反対したため、同決議には盛り込まれたなかった。
 8月21日からは、米韓による共同軍事演習「乙支(ウルチ)フリーダム・ガーディアン」が始まった。この軍事演習においては、グアム島にいる米軍のB1戦略爆撃機が参加することも含まれるという。8月26日、短距離弾道ミサイル3発が発射された。続いて29日、弾道ミサイルが発射され、日本上空を通過し太平洋上に落ちた。グアム島のアメリカ軍基地に届く飛距離をねらっての発射だとみられる。これに対し、安保理の議長名で北朝鮮を非難する決議を行った。背景には、アメリカや日本が北朝鮮に対し石油禁輸も含めた最大限の対抗措置をとるよう働きかけ、中国とロシアは北朝鮮を挑発している米韓軍事演習の中止についても求めていることがある。
 そして9月3日、北朝鮮は6回目の核実験(TNT火薬換算の規模は日本政府の推定で70キロ・トンとも、北朝鮮はこれを「水爆」と主張している)を行った。
 21世紀に入っての国対国での局地戦の特徴は、核兵器の使用が絡んでくることであろう。これには、通常兵器で武装した勢力が、原発など原子力施設の攻撃を計画する場合を含む。朝鮮半島の有事とて、その例外ではない。ちなみに、北朝鮮の核兵器の保有能力については、韓国経由での現状認識としては、例えば次の紹介記事がある。
 「韓国国防白書(2016年版)によれば、北朝鮮は兵器用プルトニウムを50キロ以上保有。北朝鮮の技術力があれば、プルトニウム4~6キロで核兵器1個を製造可能だとされる。高濃度ウラン型と合わせ、20年までに計50個の核弾頭を保有するとの指摘もある。化学兵器や生物兵器も保有する。」(朝日新聞、2017年4月16日付け)
 ついては、自国に飛来してくるICBMを撃墜できるかどうかであるが、現段階で確実なことは何も言えないという。迎撃をとる場合の技術面で最も難しいのは、当該弾道ミサイルの終末局面(ターミナルフェイズ・大気圏再突入から着弾期)なのだという。音速の20倍からの速度でほぼ垂直に落下してくる核弾頭を迎撃ミサイルでもって撃ち落とす実験は、アメリカ度々行っているものの、成功率はそう高くない。しかも、演習では、某かの情報が前もって知れている上、単独弾頭に対応して行うものであり、いわば「模擬実験」のようなものである。それなので、これまでの迎撃システム・技術が、実戦で発射される場合の核弾頭の迎撃にどれほど役立つかは技術的に未知数であると言わねばならないだろう。

(続く)

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◎213の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』中東1(2009~2017)

2017-08-26 09:30:59 | Weblog
213の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』中東1(2009~2017)

 2014年6月、イラク第二の都市モスルなどを拠点に、イスラム原理主義者の武装集団がカリフ(予言者ムハンマドの後継者とされる)制「国家」の樹立を宣言した。一般には、これを「過激派組織「イスラム国」(IS)」と呼ぶ。以後のISは、世界の過激派と互いに連絡し合うことで各地で事件や紛争を引き起こし、現在に至っている。
 主な事件なり戦闘をざっと数えると、次のとおり。2015年1月、フランスの週刊新聞社「シャルリー・エブド」などが銃撃に遭い、17人が死亡した。同1月、ISが日本人2人を人質にした後、殺害した。5月には、ISがシリア北部のパルミラを選挙するとともに、世界遺産を破壊した。9月、ロシアがシリアで空爆を行う。11月には、フランスのパリのコンサートホールやカフェ、サッカー場で民衆が銃撃されたり、自爆テロの巻き添えとなり、130人が死亡した。
 2016年3月、ベルギーのブリュッセルの空港と地下鉄駅にて、爆発が起こり、32人が死亡した。同3月には、シリアのアサド政権が世界遺産の地パルミラを奪還した。6月には、イラク軍などが中部ファルージャを奪還した。7月、フランスのニースで花火の見物客の列にトラックが突っ込んで、86人の死者が出た。10月、イラク軍などが北部モスルの奪還作戦を開始する。12月になると、ドイツのベルリンでトラックがクリスマスで賑わう市(いち)に突っ込んで、12人が死亡した。
 2017年3月、イギリスのロンドン中心部の国会議事堂とその周辺で、乗用車や刃物を使った襲撃で5人が死亡した。4月、スウェーデンのトラックが暴走して外をはね、5人が死亡した。5月、イギリスのマンチェスターのコンサート会場で爆発があり、22人が死亡した。6月には、イギリスのロンドン中心部のロンドン橋などでバンと刃物を使っての襲撃があり、8人が死亡した。同月、少数民族クルド人の部隊などが、ISが「首都」と称するシリア北部のラッカ中心部に向けて進攻を開始する。7月、イラク軍などがモスルの奪還に成功する。そして8月、スペイン北部のバルセロナで、バンが歩行者に突っ込み、13人が死亡した。

(続く)

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◎212『自然と人間の歴史・世界篇』アフガニスタンなど紛争地域(1993~2017)

2017-08-25 19:01:24 | Weblog
◎212『自然と人間の歴史・世界篇』アフガニスタンなど紛争地域(1993~2017)

アフガニスタンは、20世紀の70年代から国際紛争の場となっていった。まずは、1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権に対して、ムジャーヒディーンの蜂起があった。当時のアフガニスタンの同政権は社会主義をめざしており、ソ連と政治同盟の関係にあった。内乱が政府側に傾く中で、同政府の要請によりついに1979年12月、ソ連がアフガニスタンに軍事進出する。これ以後、1789年2月にソ連軍が撤退を完了するまでの間、攻防戦が続き、泥沼化の状況になっていった。
 1994年夏頃になると、内戦下でタリバン(「タリバーン」とも)が誕生する。1996年9月、タリバンが首都カブールを制圧し、政権を樹立する。ここに、タリバンとは何かが問題となるが、アメリカの支援を受けた反政府ゲリラの1派がタリバンだった。アメリカのタリバンへの支援の目的は、ソ連への対抗であったとされ、資金の提供から兵器の供与、兵士の訓練など多岐に亘っていた。
 2001年9月、米国で同時多発テロが起きる。10月、アメリカがアフガン攻撃を開始。この年の12月には、米軍主導の空爆でタリバン政権が崩壊、国際治安部隊が展開を開始する。カルザイが暫定行政機構の議長に就任する。2004年11月には、大統領選が行われ、カルザイが大統領に就任する。2005年頃からタリバンが自爆テロを戦術に採り入れる、そのことを武器に2006年春頃からタリバンが各地で攻勢を強める。
 2009年1月には、アメリカでオバマ大統領が就任する。3月、アメリカは米軍2万1000人の増派を発表した。12月、米軍3万人の追加増派と2011年7月の撤退開始目標を発表した。2010年11月、NATOが2014年末までの治安権限委譲に合意した。2011年5月、米軍がパキスタンで国際テロ組織アルカイダの最高指導者ウサマティン・ラディンを殺害したと発表した。6月、オバマが駐留米軍10万人のうち3万3000人を2012年夏までに撤退させる計画を発表した。2014年9月、オバマ大統領が米軍の2016年末までの完全撤退を発表した。9月、アフガン政府ではガニ大統領が就任した。12月末、国際治安部隊ことアフガン駐留外国軍が戦闘任務を終了し、アフガン軍の訓練任務に移行することになる。その大半の部隊が撤退すると、タリバンが勢いづく。
 2015年1月、アフガン軍が治安の全権を担うことになった。同月頃からは、過激化組織「イスラム国」(IS)の支部が活動を開始する。2015年7月、パキスタンでアフガン政府とタリバンが和平交渉に向けた会合を持った。しかし、直後にタリバンの最高指導者オマル氏の死亡が公表され、交渉が頓挫する。そして10月、オバマがそれまでの予定であった2016年末までの完全撤退を断念するにいたる。米軍の駐留を延長し、当面部隊1万人弱が残ることにし、2017年は5500人規模で駐留させると発表した。2016年5月、オマルの後継者マンスールを米軍が無人機による攻撃で殺害したと発表した。2106年7月、オバマが米軍の撤退ペースを遅らせ、17年も8400人規模を維持すると発表した。
 2017年1月にトランプ大統領が就任すると、米軍増派の検討が始まる。3月にはISがカブール病院を襲撃、50人以上が死亡した。4月、米軍がISの拠点に通称「大規模爆風爆弾兵器」(MOAB)を投下した。5月、カブール大使館エリアで爆弾テロが起き、150人以上が死亡した。6月、NATO(北大西洋条約機構)の国防相会議で増派の方針を決定した。現地治安状況の悪化に直面して、8月21日のトランプ米大統領は、米南部バージニア州で演説し、アフガニスタンの米軍駐留を継続する方針を表明した。昨年の大統領選で撤退を求めていたこれまでの主張を転換するもので、増派の規模や時期には言及しなかったものの、米議会に、現在の約8400人に約3900人を追加する方針を発表した。この米国のアフガン新戦略と呼応して、NATOも増派を検討している。
 こうして紛争が長引く中で、避難生活を送る人の数は、2017年に入って急増している。8月のこれまでに、アフガン政府軍兵士 、桂冠が6700人以上死亡、政府の支配
地域は全土の約6割にとどまる。タリバンがなお一定の支持を保っている背景には、経済の低迷で生活が苦しいのに加え、汚職がはびこる行政への国民の不満のあることが指摘されている。

(続く)

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(407の2)『自然と人間の歴史・日本篇』日本とロシアとの経済協力を巡って2

2017-08-25 08:54:42 | Weblog
(407の2)『自然と人間の歴史・日本篇』日本とロシアとの経済協力を巡って2

 この『日ソ共同宣言』の後、この領土問題の解決に向けた両国の足取りについては、遅々として進んでこなかった。それが、2016年12月になって、ロシアのプーチン大統領が来日しての日ロ首脳会談で、日ソ経済協力の活動(共同経済活動)に向けて協議することで合意した。それまでの交渉の仕切り直し、もしくは新たな目標設定ということであろうか、新たな出発だといえよう。
 ところが、2017年に入ってはやくも今後の見通しに修正を迫る動きが出できている。いずれも、ロシア発のもので、次のような動きである。
 2017年2月22日、ロシアのショイグ国防相が、わが国の呼称でいう北方4島と千島列島に、2017年中にロシア軍を配置する新しい師団をもうける考えを、ロシア下院での報告で発表した。また、ロシアのプーチン大統領は2017年6月1日、わが国の呼称でいう北方4島につき、「日本の主権下に入れば、これらの島に米軍の基地置かれる可能性がある」などと述べ、日米安保条約が適用される現状では日本への返還(条約でいうと2島となる)は難しいとの認識を示した。この背景には、2017年に入り、日本の政府(自民と公明の連立)が安全保障問題でアメリカに盲従を強めている中で、ロシアが危惧を抱いていることがあろう。ロシアが、自国の安全保障にとってこの島々を確保しておくことが有益だと考えるのは、現在の世界の政治・軍事バランスの上では大方自然な流れでもあろう。それから2017年8月23日には、メドベージェフ首相が色丹島での水産加工業を対象に、ロシアの法律での経済特区(先行発展地域)を創設する決定に署名したと、現地ノーボス地通信などが伝えた。
 こうなると、話は「ぎくしゃくしてくる」のが、これまでの歴史の常(つね)であって、せっかく定めた日ソ経済協力においても、ロシア領土、ロシアの法律の影響下の前提に立っての協力を求めるロシアに対して、それを望まない日本との間で引っ張り合いが強まる、そのことで全体がうまく行かなくなっていく可能性があるだろう。
 それでは、経済協力の項目としてはどのようなものが考えられるだろうか。これについて、双方にとって利益が見込め、将来性のある道が示されるべきであろう。その一つに、LNG(液化天然ガス)の共同開発・輸入が考えられるのではないか。LNGは、マイナス摂氏162度で液体(体積は約600分の1)になり、船に積んで日本に運べる。おりしも、2017年1月6日、東京電力ホールディングス子会社の東電フュエル&パワーと中部電力sの共同出資会社「JERA(ジェラ)」が、米国産シェールガス由来のLNG(液化天然ガス)を国内で初めて輸入した。積載船が同日、中電上越火力発電所(新潟県上越市)に到着した。
 2015年度のLNGの国別輸入比率は豪州(22.9%)が最多で、マレーシア(18.7%)、カタール(15.8%)、ロシア(8.5%)(財務省の貿易統計)。アメリカの東海岸ないし南海岸からの輸入ルートで考えれば、先頃拡張されたパナマ運河を通って大平洋に出る輸送ルートがコスト安の要因となっている。一方、ロシアからLNGを調達する場合は、今のところ船だが、ロシアとはパイプラインで繋がりうる。そういう意味では、ロシアLNG、米国産LNGを調達する動きは加速していく可能性を秘めているのではないか。

(続く)

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◎206の2『自然と人間の歴史・世界篇』『21世紀の資本』でみる欧米の所得格差の推移

2017-08-23 22:06:18 | Weblog
206の2『自然と人間の歴史・世界篇』『21世紀の資本』でみる欧米の所得格差の推移

 2014年に発刊されたトマ・ピケティの『21世紀の資本』により、経済格差の拡大を示す、この数百年の歴史的データ(推計)が明らかにされた。まずは、結論部分から述べよう。そこで、データからいえる「資本主義の基本法則」とは何であるか、つぎの二つがあるという。
(1)第一法則としては、次のとおり。
α(資本分配率)=r(資本収益率)×β(資本所得比率)
 ここでα(アルファ)は資本収益(資産ストックから得られる利益)の国民所得に対する比率であって、通常これは「利潤シェア」ないし「資本分配率」と呼ばれるものに近い。しかし、ピケティのいう資本(資産ー負債)とは、「企業や政府機関の使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許など)を指す」ものの合計額から、当該主体の負債を差し引いたもので積算した。これは、経済学の通常の資産、資本の概念と異なる。ついては、資本をそうした幅広の概念としてデータ処理するが故に、この資本収益としては、そうした資本から得られる様々な利得や家賃収入なども含め集計することになっていることに、留意しておこう。
 一方、r(ガンマ)は資本収益の資本ストックに対する割合をいう。β(ベータ)は資本ストックの国民所得に対する割合をいう。
 この法則によって、β(資本所得比率)が一定の場合、r(資本収益率)が上昇するとα(資本分配率)が上昇する反面、労働分配率(労働所得の割合)が低下するという資産家優位の構造を統計的に明らかにした。
(2)第二法則としては、次のとおり。
β(資本所得比率)=s(貯蓄率)/g(経済成長率)
 ここでg(ジー)は経済成長率をいう。s(エス)は貯蓄率)をいう。
 この法則により、g(経済成長率)が低下し、s(貯蓄率)が増大するにつれ、β(資本所得比率)が上昇する、その分資産家優位の構図を統計的に明らかにした。
 第二には、経済格差拡大の要因は何かを考える。
 次に、以上で得られた2法則を前提に、ピケティは不平等をもたらす根本的な要因を、r(資本収益率)>g(経済成長率)にあると捉えた。r(資本収益率)がg(経済成長率)より高ければ、資産保有者は資産からの所得を投資に回すだけで経済成長率を上回る所得を手にすることができる、というわけだ。
 そこで、ピケティがこれら二つの法則を導くにいたった諸国別のデータの分析結果の中から、その結論部分のみを紹介してみたい。提供のあったのは、主として税務データであって、これに様々な統計なり、諸家による研究なりが付加された。

(続く)

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(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の建築、彫刻、絵画、工芸など1

2017-08-21 22:08:36 | Weblog
(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の建築、彫刻、絵画、工芸など(1)

 大化の改新によって国政が一新(中央集権化)の過程に入った後、飛鳥から白鳳そして天平へと、文化が流れて行った。それらの先駆けとされる飛鳥文化は、ほぼ推古朝に位置する。仏教伝来の頃からの我が国文化の発展を含める。この時期の文化の多くは、仏教をはじめ、多くのものが外国との関わりの中で、多くを採り入れ、あるいは吸収しつつ、発展していったことが窺える。そこで外国からの技術がどのように伝わっているか、そこへこの国の人々の創作がどのように加えられているか、これらを垣間見たい。だが、自前の文化形成の一貫した流れをそこに見出し、眺めるのは、かなり難しい。興味深いことに、この時期には、絵画の面では、かなりの独自性へ繋がる展開が見られる。
 これを寺社の造営でいうと、聖徳太子が四天王寺と法隆寺(斑鳩寺(いかるがじ))、蘇我氏(蘇我馬子)が法興寺(飛鳥寺)、平城京に移ってから元興寺を、朝鮮系氏族の秦氏(秦河勝)が広隆寺を、和気氏が神護寺(高雄寺とも呼ばれ、元は和気清麻呂が建立したと伝わる神願寺とも)を、大化の改新後に政権の中枢に取り入り力を伸ばしていくことになる藤原氏が興福寺(創建時は山階寺・厩坂寺として、平城京への遷都後は興福寺と改称)を、それぞれ造営したことで伝わる。なお、聖徳太子は実在がはっきりしていない人物なので、彼が四天王寺と法隆寺の造営を命じたとの断定は差し控えておきたい。
 これらの中での代表格は、法興寺(飛鳥寺)と法隆寺なのであろうか。飛鳥寺は、日本最古の寺とされる。今日に残っているのは、本堂ばかりだ。その中に鎮座する飛鳥仏はといえば、1940年に「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」として国重要文化財に指定されている。この像高は275.2センチメートルという。鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であると伝わる。製作(完成)年代には2説があり、『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年であるが、後者が有力のようだ。画集でこの像を観賞していると、どうやら日本人を写したたものとは考えにくい。当初部分とみられる頭部は、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。とにかく鼻が大きくて、盛り上がっている。顔全体の印象はやや「強面」(こわもて)であって、厳格な人柄なのだろうか。
 7世紀中頃の飛鳥仏のうち変わったところでは、正眼寺(現在の愛知県小牧市)に伝わり、現在は奈良国立博物館なら仏像館に展示され、「誕生釈迦仏立像」と題される銅造りの仏像がある。全身の鍍金(ときん)がかなり残っていて、地味な金色を醸し出す。大きさは、8.2センチメートルという小ぶりながら、不自然に頭が大きい。顔は面長で、目はなんだかなにかんでいるようでもあり、眩しそうでもある。口元には微笑があり、まだ10歳に満たない位の少年のあどけなさと覚える。裳(も)に刻まれた左右対称の襞が、中国の北魏彫刻の様式を採り入れているとか。しかも、立ち姿のポーズが変わっていて、右手で天、左手で地を指さしているのは、誕生時に「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えたという、作り話を物語っているようだ。
 寺自体が国宝の法隆寺において柱群が有名なのは、これら柱が「エンタシス」という中央が太くなっている特徴を備え、遠く西洋のヘレニズム文明にも通じる様式となっている点だとされる。ここにある五重塔は、インドでストゥーパで呼ばれたもので、日本では「卒塔婆」(そとうば)と訳される。心柱(しんばしら)と屋根などが独立している構造で耐震性に優れ、この巻の地震でもくずれなかった。塔の先端から相輪(そうりん)を下りていった処のふっくら、丸くなっている部分・伏鉢(ふくばち)にブッダその人の舎利(しゃり)が納められているかどうかは、分からない。この法隆寺金堂の本尊は、「釈迦三尊像」であり、623年鞍作鳥の作とされる。この作者がわかるのは、同三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されていることから来る。
 およそこの時期に造営された他の寺に安置される仏像の類でいうと、例えば、2016年6月、日本と朝鮮に伝わる二つの半跏思惟像(はんかしいぞう)が、東京の上野美術館で並んだ。日本のものは、奈良県の中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)に伝わり、木造の国宝に指定されている。また、韓国の国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像は、国宝78号像としてある。
 伝承によると、この像が日本で造られたのは聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の発願によるとの伝承もあるものの、事実かどうかはわからない。中宮寺蔵のものは、『日本書紀』(巻第廿渟中倉太珠敷天皇敏達天皇)に「十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子使於新羅、遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一?、佐伯連闕名字、有佛像一?。」となっていることから、その類推で百済から倭に持ち込まれたとする説も否定できない。ともあれ、この日本国宝の像の安置された中宮寺は、同太子の宮居である斑鳩宮(いかるがのみや)を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に合わせる等のけじめをつけて創建されたのではないか。

(続く)

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◎86の3『自然人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

2017-08-21 09:10:42 | Weblog
◎86の3『自然人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

 はじめに、アメリカの南北戦争が開始された当時の奴隷制の実体について、大まかに掴んでいただきたい。1860年の国政調査の結果があって、それにはこうある。
 「1.サウスカロライナ州、自由人301,271人、奴隷402,541人、総人口703,812人、奴隷人口比率57.2%。
2.ミシシッピ州、自由人354,700人、奴隷436,696人、総人口791,396人、奴隷人口比率55.1%。
3.ルイジアナ州、自由人229,164人、奴隷435,132人、総人口964,296人、奴隷人口比率45.1%。
8.バージニア州、自由人1,105,192人、奴隷490,887人、総人口1,596,079人、奴隷人口比率30.7%。
9.テキサス州、自由人421,750人、奴隷180,682人、総人口602,432人、奴隷人口比率30.0%。
合計(15州)、自由人8,289,953人、奴隷3,950,343人、総人口12,240,296人、奴隷人口比率32.2%。
(出典:エドウィン・ハーグ・シャイマー「奴隷人口地図ーアメリカ合衆国南部諸州(Slave Population kf the Southern States of the US )」リトグラフ(66cm×84cm)、1889を紹介し引用しているのは、ジェリー・ブロットン著、斎藤公太他訳『新世界地図』河出書房新社、2015です。なお、原データは“Census of 1860”。)
 このジェリー・ブロットンの著によれば、「南部諸州では平均して人口の30%以上が奴隷だった」とされる。

(続く)

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(88)『自然と人間の歴史・日本篇』建武新政

2017-08-19 23:41:36 | Weblog
(88)『自然と人間の歴史・日本篇』建武新政

 鎌倉幕府滅亡の後には、朝廷による「建武新政」が始まる。1333年(元弘3年)旧暦6月には、後醍醐は京都に帰り、帝位に返り咲く。翌年1月には元号が建武に改められる。光厳天皇は、後鳥羽、花園の二人の上皇とともに六波羅に守られて京を脱出したが、後醍醐勢のために捕らえられ、他の二人とともに京へ護送され、幽閉の身となる。概ね後醍醐の天皇の専断で事が運び、記録所やぞ雑訴決断所などが活発化するとともに、公家中心の人事が矢継ぎ早に放たれていく。しかし、新たな息吹を政治に吹き込むものでなかった。その実体は、旧態依然の天皇と上層貴族による専制政治となる。そういうとき、様々な職能に携わる人々が住処としていた京都の二条河原に、88の句からなる落書(らくしょ)立て看板が立てられる。
 「口遊去年八月二日条河原落書云々、元年○(か)。比都ニハヤル物。夜討(ようち)強盗謀綸旨(にせりんじ)。召人(めしゅうど)早馬虚騒動(そらさわぎ)。生頸還俗(なまくびげんぞく)自由出家。俄大名(にわかだいみょう)迷者。安堵恩賞虚軍(そらいくさ)。本領ハナルヽ訴訟人。文書入タル細葛(つづら)。追従讒人(つしょうざんじん)禅律僧。下克上スル成出者(なりづもの)。器用ノ堪否(かんぴ)沙汰モナク。 モルヽ人ナキ決断所。キツケヌ冠(かんむり)上ノキヌ。持モナラハヌ笏持テ。内裏(だいり)マジハリ珍シヤ。賢者ガホナル伝奏(てんそう)ハ。我モヽヽトミユレドモ。巧ナリケル詐(いつわり)ハ。ヲロカナルニヤヲトルラン。為中美物ニアキミチテ。マナ板烏帽子ユガメツヽ。気色メキタル京侍。タソガレ市時ニ成タレバ。ウカレテアリク色好。イクソバクゾヤ数不知。内裏ヲガミト名付タル。人ノ妻鞆ノウカレメハ。ヨソノミルメモ心地アシ。尾羽ヲレユガムエセ小鷹。手ゴトニ誰モスヱタレド。鳥トル事ハ更ニナシ。鉛作ノオホ刀。太刀ヨリ大ニコシラヘテ。
 前サガリニゾ指ホラス。バサラ扇ノ五骨。ヒロコシヤセ馬薄小袖。日銭ノ質ノ古具足。関東武士ノカゴ出仕。下衆上﨟ノキハモナク。大口ニキル美精好。鎧直垂猶不捨。弓モ引キエズ犬逐物。落馬矢数ニマサリタリ。誰ヲ師匠トナケレドモ。遍ハヤル小笠懸。事新シキ風情ナク。京鎌倉ヲコキマゼテ。一座ソロハヌエセ連歌。在々所々ノ歌連歌。点者ニナラヌ人ゾナキ。譜代非成ノ差別ナク。自由狼藉世界也。
 犬田楽ハ関東ノ。ホロブル物ト云ナガラ。田楽ハナホハヤルナリ。茶香十火主ノ寄合モ。鎌倉釣ニ有鹿ト。都ハイトヾ倍増ス。町ゴトニ立篝屋ハ。荒涼五間板三枚。幕引マハス役所鞆。其数シラズ満ニタリ。諸人ノ敷地不定。半作ノ家是多シ。去年火災ノ空地共。クワ福ニコソナリニケレ。適ノコル家々ハ。点定セラレテ置去ヌ。非職ノ兵仗ハヤリツヽ。路次ノ礼儀辻々ハナシ。花山桃林サビシクテ。牛馬華洛ニ遍満ス。四夷ヲシズメシ鎌倉ノ。右大将家ノ掟ヨリ。只品有シ武士モミナ。ナメンダウニゾ今ハナル。朝ニ牛馬ヲ飼ナガラ。 夕ニ変アル功臣ハ。左右ニオヨバヌ事ゾカシ。サセル忠功ナケレドモ。過分ノ昇進スルモアリ。定メテ損ゾアルラント。仰デ信ヲトルバカリ。天下一統メヅラシヤ。御代(みよ)ニ生デテサマヾヽノ。事ヲミキクゾ不思義トモ。京童(きょうわらべ)ノ口ズサミ。十分一ヲモラスナリ。」(『建武年間記』・『二条河原落書』国立公文書館内閣文庫)
ここからは、民衆に対しては苛斂誅求の連続で、急速に政権としての支持を失っていく様が読み取れる。建武の功臣の一人である足利氏に対しても、朝廷の専断による冷遇策がまかり通っていく。
 美作の地でも、それまで足利氏や、建武の新政に批判的な豪族が勢力を浸透させつつあった。それが建武新政によって、大いなる変化が訪れる。建武新政での論功表彰だが、例えば六波羅探題の陥落に功のあった赤松則村だが、かえって挙兵前の領地を縮小の憂き目に遭ってしまう。1335年(建武2年)、足利尊氏が政府に離反すると、その赤松もこれに応じるのであった。そして同年の冬、後醍醐天皇は、美作国の田邑荘(たのむらのしょう)の地頭職を足利尊氏から没収したのにとどまらず、紀伊の国の熊野速玉大社(現在の和歌山県)に寄付し、そこを「御祈祷所」とした。足利尊氏が鎌倉で新田義貞の軍勢を破り、西上の途についた時期をねらった措置であり、建武の朝廷と足利氏との決裂が決定的になったことを知らせる出来事であった。
 この事件を契機に、武家方につく軍勢の流れが起こってくる。興味深いことに、その中で足利方について戦ったのは、鎌倉期に隠岐・出雲両国の守護に任じられていた佐々木氏の一族ばかりでなく、広範な武士が建武政権を見限った動きを見せ始めた。これを不満に足利尊氏の挙兵があり、鎌倉から京都をめがけて攻め上がった。京都周辺での戦いは熾烈であったが、1336年に足利尊氏が北畠顕家らの軍勢に敗れて、九州に落ち延びていく。新田義貞の弟脇屋義助は、足利勢を追って、播磨から備前へと進出してくる。
 ところで、備前、備中、美作の武士の中には、児島高徳らのように論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝えている。
 「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、
美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
 奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
 この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
 新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
 そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
 足利氏らの軍勢はそれからは難なく京都に入り、自らが中心となって京都において新政府を造る挙に出た。彼は、京の都の室町(むろまち)に館を定める。後醍醐帝は吉野に逃れて「南朝」となる。代わりの天皇には、尊氏は再び前の光厳天皇を再び帝位につけたかった。だが、光厳前天皇は固辞した。その彼は誠に権力とは縁遠き、温かな心の持ち主であって、この後、実に数奇な運命を辿り、最後はいわば隠遁の身となって暮らしすことになっていく。そこで尊氏は、1336年(延元2年)、光厳前天皇の弟豊仁を口説いて光明天皇として即位させる、これを「北朝」という。「南北朝時代」の到来である。
 征夷大将軍となった尊氏は、反対勢力を一層する挙に出る。1338年(延元3年)の石津の戦いで、南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直(こうもろなお)と戦い、戦死する。藤島の戦いにおいては、南朝方の新田義貞が北朝方の斯波高経らと戦い、戦死を遂げる。1338年(延元3年)、足利勢が北畠顕家を石津の戦いで討ち取る。1339年(暦応2年)の吉野での後醍醐天皇の死を南朝勢力の衰退が始まる。後醍醐帝のあとを継いだ南朝の後村上帝は、1347年(貞和3年)に畿内各地に残る南朝勢力に一斉蜂起を命じる。南朝方は緒戦で足利方を破る。しかし、1348年(正平3年、貞和4年正月の)の四條畷(しじょうなわて)の戦いで、足利軍は楠木正行を自決に追い込む。この余勢を駆って吉野まで攻め寄せた師直は、吉野宮を焼き払い、吉野に依っている南朝方に引導を渡した。

(続く)

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『(66の2)』『岡山の今昔』水島工業地帯2

2017-08-19 23:02:16 | Weblog
『(66の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』水島工業地帯2

 この工業地帯に起きた二つ目の出来事を紹介しておこう。2016年になって、三菱自動車の燃費データ偽装が明らかになった。燃費とは、燃料1リットル当たりで走れる距離をいう。同社は、国が定める方法とは異なるやり方で燃費データをとったり、実際には車を走らせずに一部データを作りあげていたと伝わる。同社の一番の売れ筋といえば、軽自動車であって、最初は4車種に不正が見つかっていた。それが調査が進むにつれて、ほかの8車種でもデータ偽装していたのが、国土交通省による同社への立入検査で明るみに出た。なぜそんなことをしたのかということでは、やはりライバル社に負けたくなかった。同社幹部が、データを測る子会社に向かって、「目標を必ず達成せよ」とか「一番でなくてはならない」などと、単なるハッパ掛けを超えるプレッシャーを掛けていたとのこと。これが、不正に繋がったと観られている。
 この事件での同社顧客の動揺、不信感は大きかった。経営再建に向けた取組の中で、10月20日には日産自動車が同社の発行済み株式の34%を買収して占め筆頭株主となり、経営再建に取り組むことになった。買収額は、2370億円だと伝わる。これにより、岡山県下では、同社の下請け工場への発注が今後どうなっていくのだろうか、と不安を隠せない。西隣の倉敷市と並んで三菱の企業城下町の感がある岡山市の関連企業が受ける影響については、次の記事がある。
 「三菱自動車の燃費データ不正問題を受けて、岡山市は市内の関連企業に行った聞き取り調査の結果を発表した。「影響がある」と答えた企業は51・2%に上り、過半数を占めたことがわかった。
 同市は5月6~13日に電話などで市内の関連企業約50社を調査し、うち43社が回答した。従業員数は100人以上が8社、50~99人が8社、49人以下が27社。自宅待機の有無については「自宅待機有」は3社、社内で別の仕事をさせるなどの「勤務内容などで対応(予定を含む)」が4社、「今のところ影響はない」が36社だった。
 現在の影響について、売上額の減少が20%以上の「大いに影響がある」が7社、減少が20%未満の「多少影響がある」が15社に上り、回答企業の過半数が「影響あり」と回答した。
 同市は「これから影響が大きくなるかもしれないので、できるかぎりの支援をしていきたい」と話した。」(サンケイ新聞西日本版、2016年6月17日付け)
 それからおよそ半年が過ぎた12月14日、三菱自動車の水島製作所がある岡山県倉敷市の伊東香織市長ら(水島製作所の取引先企業が多く所在する岡山県内9市町の首長らが同行)が、日産のカルロス・ゴーン会長(兼社長)を訪ね、安定操業や関連企業の生産拡大に配慮を要請した。これに対してゴーン氏は、下請け企業との取引については「技術力と競争力がある企業は、三菱自だけでなく日産、ルノーとも(取引の)可能性が広がっていく」と話す一方、「技術力が低いところは厳しい」と応じ、これからのからの同社に対する扱いに含みのある発言をした。

(続く)

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『(36の2)』『岡山の今昔』明治時代の岡山(学制)

2017-08-19 22:21:18 | Weblog
『(36の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(学制)

近代国家としての学制が動き出したのは、1873年(6年)か1874年(明治7年)くらいになってからのことで、この時期に全国で学校の開設が相次ぐようになっていく。新設というよりは、従来の寺院や町の名士か庄屋などの家屋を借用してのものが多かったのではないか。そして1887年(明治19年)には、小学校令が出され、尋常小学校と高等小学校の2種類となり、尋常小学校については義務教育となる。1891年(明治33年)になると、尋常小学校の授業料が廃止され、家庭や地域が貧乏をしていても、子どもたちを学校に送ることができるようになって、就学率が飛躍的に向上してくる。1899年(明治41年)に又学制改革があり、義務教育が6年に延長され、尋常小学校に高等科の併設が決定される。ついでに後のことに触れると、1941年(昭和41年)になってから、各尋常小学校は国民学校と改称され、日本の初当教育全般が「皇国史観」に染められることになっていく。

(続く)

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◎413『自然と人間の歴史・世界篇』対外純資産が世界一

2017-08-19 20:57:54 | Weblog
◎413『自然と人間の歴史・世界篇』対外純資産が世界一

 「金満大国日本」と言われると、なぜか違和感があるものの、統計の上ではまちがっていない。それを教えてくれるものが、対外資産の積み上がりである。詳細な統計が明らかになっている2015年実績(単位は10万円)でみると、ざっと、次の通りとなっている。
まずは資産の部
 1.外貨準備高は148,503.6、その内訳は(1)貨幣用金が3,147.2(2)2,173.3(3)1,148.6(4)142,034.6、2.現金・預金3.011.7、3.貸出は126,614.0、4.金融派生商品は30,688.6、5.預け金は6,060.8、6.貿易信用は7,329.0、7.未収金は11,137.6、8.直接投資は151,615.0、9.対外証券投資は423,218.1、10.その地対外債権は68,316.3、○対外資産は976,539
次は負債の部。
11.SDR2,050.4、12.現金・預金9,106.2、13.借入158,218.0、14.債務証券133,631.0、(1)その内国債等108,419.3、15.持分投資信託受益証券245,604.8,604.8、16.、金融派生商品37,313.9、17.預金3,307.8、18.貿易信用3,493.0、19.未払金7,102.3、20.直接投資8,920.0、21.その他対外債務28,529.3、○対外負債637,276.7、◎対外純資産339,263.0 
(注意として、「国債等」には、国庫短期証券と国債・財投債を含む。海外に対する「持ち分」負債はすべて15.に計上されるため、20.には計上されない)(資料は、『2017年度国民経済計算年報』内閣府)
 それにしても、何故、どのようにしてここまで資産が積み上がったのだろうか。

(続く)

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◎412『自然と人間の歴史・世界篇』21世紀の天文学(現在まで)

2017-08-19 20:56:38 | Weblog
◎412『自然と人間の歴史・世界篇』21世紀の天文学(現在まで)

 それでは、先ほどの宇宙の膨脹速度が加速しているという観測結果を再現するためには、空間にどのくらいエネルギーが満ちていればよいのだろうか。2001年、NASA(アメリカ航空宇宙局)によりウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機(WMAP)が打ち上げられ、宇宙背景方射の温度分布を全天に渡り観測される。その計算の結果が2003年に発表されると、その「ゆらぎ」の量はちょうど見つかっていなかった、つまり、宇宙の曲率をゼロにするのに必要な残り約73%に相当していることがわかったのである。なお、このデータでは、「宇宙の晴れ上がり」を「宇宙創生後38万年」だとしている。
 2009年3月に公表されたWMAPの5年間のデータ解析によると、宇宙創生時の宇宙の組成としては、ダークマター(暗黒物質)、ニュートリノが10%、電磁波が15%、原子12%だったと推定される。それが現在の物理学者の間では、宇宙の約72~73%の部分を「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」なる名前を付けることによって何かの存在を想定し、その後も何とか観測する努力を進めている。残りは、ダークマター(暗黒物質)が23%、原子が5%の組成であると推定されている。
 ここに至って、この宇宙には「ダークマター」(暗黒物質)と並んでもう一つの「ダークエネルギー」がひろがっているといわれている訳だ。そして現在に至るまで、このダークエネルギーの存在を証明する程の観測はなされていない。その正体が何であるかはわかっていないので、これはまだ現代の物理学の最先端の、半ば仮説の段階の話といっていいのかもしれない。
 アリゾナ大学のクラウス教授は、こう述べている。
 「つまり、宇宙の物質の70%がダークエネルギー、残りの30%が未知の素粒子からなるダークマターだ、残りのほんのわずかな余計なものが君たちや私だ。だからすでにいったように、君たちはとてつもなく、どうでもいい存在なんだ。君たちは宇宙にとってはまったく重要ではない。目に見える全てのもの、夜空の星や美しい物に見えるすべてのものを取り去ったとしても、宇宙は本質的にはなんら変わらない」と。
 日系3世のミチオ・カク・ニューヨーク州立大学教授も、こう示唆の富む説明を学生に講義をしているところだ。すなわち、「講義の初めに宇宙は元素でできているといったね。あれは誤りだ。すまない。あらゆる高校の教科書もまちがっている。宇宙は原子でできているのではない。では何でできているのだろうか。これは最新の研究から導かれた宇宙の組成だ。宇宙のおよそ73%は暗黒エネルギーというものでできている。真空が持つエネルギーだ。宇宙の何もない空間にもエネルギーは存在し、そのエネルギーが銀河同士を遠ざけている。そのことで宇宙はいまも膨脹し続けているのだ。

(続く)

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□目次『岡山の今昔』(1~90)(20170820朝)

2017-08-18 21:42:33 | Weblog
□目次『岡山の今昔』(1~90)(20170820朝)

1.先史年代の吉備
2.旧石器・縄文時代の吉備
3.弥生時代の吉備
4.倭の時代の吉備(古墳からの視点)
5.倭の時代の吉備(ヤマト朝廷の支配下へ)
6.壬申の乱と吉備
7.律令国家の成立から平安時代初期の吉備
8.平安時代中期から晩期の吉備
9.鎌倉時代の三国(政治など)
10.鎌倉時代の三国(経済など)
11.鎌倉時代の三国(文化など)
12.建武新政・室町時代の三国(南北朝統一前)
13.建武新政・室町時代の三国(南北朝統一後)
14.建武新政・室町時代の三国(文化)
15.戦国時代の三国
16.安土桃山時代の三国
17.江戸時代初期の三国
18.江戸時代の三国(交通など)
19.江戸時代の三国(美作森藩など)
20.江戸時代の三国(元禄一揆など)
21.江戸時代の三国(山中一揆など)
22.江戸時代の三国(新本義民騒動など)
23.江戸時代の三国(検討中)
24.江戸時代の三国(美作元文一揆など)
25.江戸時代の三国(美作寛政の国訴など)
26.江戸時代の三国(渋染一揆など)
27.江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革)
28.江戸時代の三国(19世紀の藩政改革)
29.江戸時代の三国(中期の経済)
30.幕末の攻防
31.幕末の騒擾(倉敷騒動、美作改政一揆、鶴田騒動など)
32.幕末の文化など
33の1.明治時代の岡山(封建制の終焉1)
33の2.明治時代の岡山(封建制の終焉2)
34.明治時代の岡山(血税一揆など)
35.明治時代の岡山(産業の発展)
36の1.明治時代の岡山(自由民権運動)
36の2.明治時代の岡山(学制)
37.明治時代の岡山(地租改正)
38.明治時代の岡山(文化など)
39.大正・昭和(戦前)の岡山(政治、米騒動など)
40の1.大正・昭和(戦前)の岡山(経済)
40の2.大正・昭和(戦前)の岡山(民衆の生活)
40の3.昭和(戦中)の岡山
41.敗戦時の岡山
42の1.戦後の高度成長期
42の2.1970年代の岡山
42の3.1980年代の岡山
42の4.1990年代の岡山
42の3.2000年代の岡山
42の4.2010年代の岡山
43.出雲街道1(姫路~津山)
44.出雲街道2(津山~出雲方面へ)
45.備前往来1(岡山道)
46.備前往来2(西大寺道)
47.山陽道(播磨から備前へ)
48.出雲から勝山へ
49.勝山、久世から津山へ
50.津山市街西部
51.新見から津山へ
52.高梁川源流域から新見へ
53.新見市街とその周辺
54.新見から広島との県境へ
55.新見から高梁へ
56.備中高梁
57.阿哲郡
58.高梁から総社、小田郡(矢掛町、美星町)
59.井原市、後月郡(芳井町)
60.岡山から総社、倉敷へ(古代から鎌倉時代)
61.岡山から総社、倉敷へ(室町時代)
62.岡山から総社、倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代)
63.岡山から総社、倉敷へ(近世から現代へ)
64.岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓)
65の1.岡山から総社、倉敷へ(備中の干拓)
65の2.岡山から総社、倉敷へ(近世から現代へ)
66の1.水島工業地帯1
66の2.水島工業地帯2
67.備前岡山(江戸時代以前)
68.備前岡山(江戸時代)
69の1.岡山(明治・大正時代)
69の2.岡山(昭和時代・戦前と戦中)
69の3.岡山(~戦後の高度成長期)
69の4.岡山(低成長期へ)
69の5.岡山(21世紀)
70.和気郡、赤磐市、久米郡(柵原町など)
71.瀬戸内市
72.倉敷美観地区
73.倉敷から浅口、笠岡へ
74.吉備高原
75.智頭急行線沿線
76.高野、勝北、日本原から奈義、鳥取へ
77.高野、勝北、日本原から奈義、鳥取へ(風景)
78.伯耆街道、倉吉街道
79.瀬戸大橋線沿線
80の1.瀬戸内の幸多し1
80の2.瀬戸内の幸多し1
81の1.岡山のうまいもの、あれこれ1
81の2.岡山のうまいもの、あれこれ2
81の3.岡山のうまいもの、あれこれ3
82.岡山人(~13世紀)
83.岡山人(14~16世紀)
84.岡山人(17~18世紀)
85.岡山人(19世紀)
86.岡山人(20世紀)
87.岡山人(21世紀)
88.(検討中)
89.(検討中)
90.(検討中)

(作成中)

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