(32)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥への道

2015-09-28 23:27:40 | Weblog
(32)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥への道

 中国大陸では、589年に隋(スイ)により南北朝が統一された。さらに、618年、武川鎮軍閥の李淵(りえん)が、隋王朝の煬帝亡き後の最後の皇帝、恭帝に帝位の禅譲を迫った。これには、彼の息子李世民(りせいみん)の後押しがあった。こうして高祖として唐の帝位にのぼった李淵は、三人の子のうちの長兄を太子にしていた。ところが、626年の玄人武門の変で他の二人を李世民が討伐してしまう。李淵は仕方なく李世民に後を譲ることとし、李世民は唐の第二代太宗として即位する。それから249年に太宗が死ぬまでは、唐の躍進期であって、「貞観の治」として広く知られる。
 中国大陸が隋による支配の間、日本から遣隋使が派遣されていた。607年には、小野妹子が派遣される。翌608年には隋からの答礼使が倭に来て返礼を行った。唐王朝になってからは、630年(舒明2年)に第一次の遣唐使が派遣される。大使を犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、副使を薬師恵日(くすしのえにち)といい、日本側としては並々ならぬ意気込みで始まった。その目的としては、当時の先進国であった唐のすべてから、日本の治世に役立つものを選り分けて、日本に携えて帰ろうとしたものであろう。
 660年(大化16年)には、新羅が積年の的である百済をついに攻め滅ぼす。668年になると、新羅は唐と連合して、内部闘争で自壊傾向のあった高句麗も滅んでしまい、新羅は676年には唐の勢力を大同江以南から追い出し、ここに新羅による朝鮮半島の統一が成ったのである。このあたりの歴史スペクタルというか、虚々実々の駆け引きや、愛憎劇なども含めて、韓国のテレビドラマがインターネットなどで沢山放映されている。そこでは、百済と友好関係を結んでいた大和朝廷が「任那日本府」というものがあって、それを植民地のように経営していたかのように思われがちである。だが、そんな事実はなかったというのが2014年現在の両国の歴史研究者の一致した見解なのだ、とも言われているところだ。
 『日本書記』によると、527年、倭国に筑紫の豪族「磐井の乱(いわいのらん)」があった。その年代及び大王名は、後代の「正史」とされる『古事記』にも書かれている。それがどの程度史実に基づいているかについては、今でもはっきりしていない。同書によると、この乱が起きたのには、当時の中国、朝鮮との関係が横たわっており、筑紫の磐井氏が新羅と組んで、大和の勢力の朝鮮征伐の動きに反応したことになっている。ともあれ、大和の勢力は磐井のこの動きに神経をとがらせ、次にあるように、九州「筑紫御井郡」に攻め込み、磐井方と激戦の上、ようやく乱を鎮圧できたことになっている。
 「天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。
(中略)大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。(中略)「大將軍物部大連麁鹿火、親興賊帥磐井交戦於筑紫御井郡。旗鼓相望、埃塵相接、決機両陣之間、不避萬死之地、遂斬磐井」(『日本書記』巻第十七、「男大迹天皇 繼體天皇」より抜粋)
 当時の倭国は、高句麗、新羅の勢力に推されて、朝鮮半島での政治的地位と経済権益が衰退しつつあったことがある。587年、蘇我氏と物部氏との争いで、蘇我氏が勝利した。このとき、厩の皇子(うまやのおうじ、のちの聖徳太子)は574年に生まれ、長じては大陸からの帰化勢力の代表である蘇我氏側の指揮官となっていた。

(続く)

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(25)『自然と人間の歴史・日本篇』3、4世紀の大陸と倭

2015-09-20 21:50:06 | Weblog
(25)『自然と人間の歴史・日本篇』3、4世紀の大陸と倭

 倭の3、4世紀がどのようであったかを覗わせる具体的な資料としては、その倭国が中国の南朝と交渉をもった記録が遺されている。そこで3世紀半ばからの中国とのやりとりを振り返ると、241年、倭が魏の帯方郡に使者を遣わす。その6年後の247年(魏の正始8年)、「女王国」の卑弥呼は、帯方郡の唐の拠点に人を使わした。用向きの件は、魏に対し、狗奴国との戦争の援軍を差し向けてほしい、との要請であったのではないか。その時は既に両者の間で戦(いくさ)が熾烈に戦われ、味方の勝利がおぼつかなくなっていたからではないかと推測されよう。というのも、『魏志倭人伝』は、両国の関係をこう述べているからだ。
 「倭王卑弥呼興狗奴国王卑弥弓呼素不和、遺倭載斯鳥越等、詣郡説相攻撃状。」(倭王の卑弥呼と、狗奴国の男子の王である卑弥弓呼は、もとから不和であった。倭は、載斯鳥越などを郡都に遣わして、互いに攻撃し合っている状(さま)を説明した。)
 その後に、『中国・二十四史』」の一つ『晋書』(しんじょ)が編纂された。晋(ジン)王朝には、西晋(シージン)と東晋は(317~420年)がある。249年、司馬懿仲達(スーマーイー)は、クーデターで魏の国政の実権を握る。司馬懿仲達は、あの有名な蜀の諸葛亮孔明(ヂューコリャンゴンミン)と互角に渡り合った人物だ。
 250年、彼は呉(ウー)の軍を江陵で撃破した。263年、司馬懿仲達の子、司馬昭が彼の後を継ぎ、魏は蜀に大軍を差し向け、蜀を併合した。この戦功で、司馬昭はこの年に「晋王」を名乗るようになる。265年、司馬昭(しばしょう)の次に晋王となっていた司馬炎(しばえん)は、名目だけであった魏に代わって晋王朝を開くに至り、自らは武帝を名乗る。これに伴い、彼の-祖父に当たる司馬懿仲達は、西晋の初代宣帝と諡(おくりな)された。280年、晋の武帝は呉に大軍を送って、呉を滅ぼし、三国鼎立の時代は終わった。これと相俟って、長らく極東地方を巻き込んだ魏・晋と呉の争いに終止符が打たれたのである。
 それでは、4世紀に入ってからの倭国の状況はどうなっていたのだろうか。4世紀に入ると、中国では西晋が316年に滅んでしまう。それからは、複数の国が興ったり、また分裂したりで、複雑な勢力図に変遷してゆく。例えば、「前秦」への倭からの朝貢があったのは、西晋が滅びた後の、いわゆる「十六国時代」(シーリウグオ、304~439年)中のことであるようだ。そのため、倭についても確かな事績が後世に伝えられていない。
 「前秦」の存続期間は「351年~394年」なので、「前秦の初め」とあるのは351年以降しばらくの間のことだと推察できる。「前秦」は、中国大陸の長江(揚子江、チャンヂャン)以北の全域を支配していた。ただし、「公孫氏を平定した後、朝貢したのは卑弥呼」とあるが、「前秦の初めに朝貢したのは卑弥呼」とは書いてない。というのも、『梁書』に従えば、おそらく240~249年にかけて卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與(とよ)又は台與(とよ)」を新たな邪馬台国の王として立てた。その後、また男の王が立ったが、いずれも「中国の爵命を拝受した」ものと読める。

(続く)

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