◎90『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」など)

2018-01-22 21:38:12 | Weblog
◎90『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」など)

 1799年11月、「ブリュメール一八日」のクーデターで、統領(執政)政府が成立する。1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月、ナポレオンが皇帝となる。1806年11月、ナポレオンが大陸封鎖令で周辺国に圧力をかける。1812年、ナポレオンがロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退。 1814年、ナポレオンは退位し、エルバ島に流される。1814年5月、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を復活させ、1824年まで続く。1813年3月20日~6月29日、ナポレオンの百日天下がある。しかし、彼は1815年6月にはワーテルローの戦いで敗北を喫す。同月には、第二次の王政となる。
 1824年には、シャルル10世が即位し、1830年まで政治を行う。1830年7月27日から29日にかけて、パリで民衆が蜂起、これを「七月革命」と呼ぶ。しかし、オルレアン朝ルイ・フィリップが即位する、これが「七月王政」と呼ばれるもので、1848年まで続く。1848年2月22~24日、「二月革命」が起こり、共和制臨時政府が成立する。1848年6月22~26日、パリで民衆暴動が起こる、これを「六月事件」という。
 1848年12月、ルイ・ナポレオンが大統領選挙で圧勝する。権力を獲得した彼の次の手は、1848年憲法で大統領の任期を4年とし、また再戦を禁じているのを改めることであった。1850年になると、議会が普通選挙制を廃止する法案を可決するにいたる。パリその他の都市の民衆がそれに抗議すると、かれは今度は民衆に行為をもっているかのように振る舞い、時を稼ぐのであった。
 そして迎えた1851年12月12日、「機は熟した」と見たルイ・ナポレオンは、クーデターを起こし、成功させる。一部の議員はこれに対抗し、パリの労働者に蜂起を呼びかけるのだが。その後、彼は憲法改正を人民投票に問い、圧倒的多数の賛成を勝ち取り、憲法改正の権限を獲得する。これを基に、1852年1月には新憲法が布告される。1852年12月2日、人民投票で第二帝政が成立し、彼は皇帝に即位してナポレオン3世と称する。1870年までは、このままの体制が続く。
 これに至る一連のフランスの「ドタバタ」な動きにつき、マルクスはこう述べている。
 「ヘーゲルがどこかで述べている、すべての世界史的な事件や人物は二度あらわれるものだということを。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、かれはそう付け加えるのを忘れている。
 ダントンに代ってコーシディエールが、ロベスピエールに代ってルイ・ブランが、1793年から1795年の山岳党に代って1848年から1851年の山岳党が、伯父のナポレオンに代って甥のナポレオンが現われた。そして二度目の「ブリュメール18日」が行なわれた時、まさにこの茶番劇が演じられた。
 人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与えられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きている人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のように重くのしかかっている。
 だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかったものを作り出そうとする時など、まさに革命の危機の只中においてさえ、人は過去の亡霊を呼び寄せ、彼らの名前とスローガンと衣装を借用し、歴史の権威ある服装に着替え、借り物のせりふを使い、新しい世界史の場面を演じようとする。」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
 さらに、歴史はめくられていく。1854年3月には、クリミア戦争が起こる。フランスは、フランスなどとともに、南方政策によりバルカン半島や地中海沿岸で影響力を増しつつあったロシアと対戦する。この戦争は1856年まで続いた。1859~1860年、イタリア統一戦争がった。1860年1月、英仏自由通商条約が締結される。1860年にニース、サボアを併合、翌1861年12月~1867年にかけてはメキシコ遠征を行った。1870年5月の人民投票で議会主義帝制が成立する。
 1870年7月、プロイセンとの間で戦争を開始する。これより前、プロシア(ドイツ)が北ドイツを統一し、1866年その一帯の覇権を持っていたオーストリアとの争いに勝利した普墺戦争に勝利していた。ナポレオン三世のフランスがこれに反発。プロシャの宰相ビスマルクはフランスも引かず、空位となったスペイン国王の跡継ぎ問題にドイツとフランスがかかわるうちに戦争へと突入したのであった。9月2日、ルイ・ボナパルト率いるフランス軍は、フランス北東部の国境沿いの町スダンでドイツ軍に包囲され、自身が捕虜となってしまった。
 その二日後の9月4日、パリの民衆は立法議会になだれ込み、ナポレオン三世の廃位および共和制の宣言を要求した。この共和制革命でナポレオン3世の帝政は倒れ、共和国臨時政府(国防政府)が樹立される。しかし権力を握ったのは民衆の政府ではなく、パリの軍事総督トロシェ将軍を首班とするブルジョア政治家たちであった。1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定(別名「降伏協定」)に調印し、プロシアと休戦する。2月12日には、新たに選出された国民議会では、保守派のティエールを首班に指名し、臨時政府が発足する。この政府は、国民衛兵の俸給を打ち切ったり、家賃・負債の支払い猶予も撤廃する。さらに2月26日、政府はアルザスとロレーヌの多くの地域をプロイセンに割譲するとともに、50億フランの賠償金をプロイセンに支払う仮講和条約を同国と結ぶ。フランスの民衆が、これに憤慨したのはいうまでもない。

(続く)

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◎86の5『自然人間の歴史・世界篇』クリミア戦争

2018-01-22 20:35:08 | Weblog
◎86の5『自然人間の歴史・世界篇』クリミア戦争

 クリミア戦争(1853~1856)は、当時のヨーロッパの多くを巻き込んだ、複合的な構図の戦争である。黒海沿岸の覇権を巡って起きる。というのも、ロシアがオスマン・トルコの支配下にあった黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したのに対し、トルコと友好関係のあったフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国が支援する。
 当時のロシアは、オスマン・トルコの衰退に乗じて南下政策をとっていた。あわよくば中東、バルカン半島への進出をはかる。1828~9の同国との戦争で、ロシアはドナウ川沿岸の地を併合し、トルコの支配からギリシアを独立させたほか、バルカン半島ののセルビアやモルダヴィア、ワラキアに自治を獲得させていた。
 これらにより微妙な力関係になりつつあったところへ、ある契機が介在して起こる。その最初は、1853年のオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権(とりわけ聖地管理権)をフランスに認める。フランスのナポレオン3世はオスマン帝国相手に、自身の支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うことができたのだから、してやったりであったろう。
 この措置に対し、ロシアのニコライ1世は、1774年キュチュク=カイナルジャ条約で認められていたトルコでの「ロシア正教徒の保護権」を名目に、猛反発。ロシアは交渉で撤回を求めるのだが、交渉は決裂してしまう。トルコ領内のロシア正教徒を理由に、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィア、ワラキアをロシア軍が占領するのであった。
 イギリスがこの戦いに加わったのは、なぜだろうか。こちらは、イギリスが地中海までの交通路の確保を模索していたのに対し、このままロシアの南下をゆるしてしまえば、これらの地域でロシアとの拮抗関係が生まれることを危ぶむ。そして、自らの国益が損なわれると確信したのだろう、1854年3月にフランスとともにロシアに宣戦する。オーストリアは、モルダヴィアなどに隣接していることから、国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れ、プロイセンとともに、ロシアに対してドナウ地方からの撤兵を要求する。一方、イタリアのサルディニア公国は、分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせようと考え、1855年1月にいたり、トルコ側に加わる。
 1854年1月、クリミア半島に上陸したフランス・イギリス連合軍は、同半島にあるロシア海軍のセヴァストポリ要塞を方位するにいたる。そして迎えた1855年9月には、クリミア半島にあるロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落する。実に349日に亘る攻防戦であったがゆえに、双方で沢山の死傷者を出したことで知られる。この要塞の陥落によって、ロシアの敗北は決定的となる。1856年3月に結ばれたパリ条約によって、ロシアはベッサラビアを放棄する。セルビア、モルダヴィア、ワラキアの自治権を認めるとともに、黒海にロシアの艦隊と基地を維持することを禁じられる。
 なお、これにいたる1955年3月にニコライ1世は失意のうちに急死し、アレクサンドル2世が即位する。また、この戦いに26歳の砲兵少尉としてロシア側から参戦したトルストイに『セヴァストーポリ』という作品があるほか、イギリスから数十人の看護師を引き連れて、戦地であるスクタリに赴いたナイチンゲールが、そこで目にしたのは酷い衛生環境の下であったらしいのだが、自軍の傷病兵を助けるため奮闘したので広く知られる。

(続く)

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◎29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

2018-01-21 21:58:10 | Weblog
◎29の2の1『自然と人間の歴史・世界篇』ローマの文化(浴場)

 さて、古代ローマといえば、一日にならずして、長い統治の間に、「偉大なる歴史像」というか、輪郭が徐々につくられていく。それまでの世界にない文明、文化をつくっていった。みなさん、世界地図を広げてみよう。まるで足長靴のような狭い半島から始まって、周辺に力をじわじわと伸ばしていく。地中海世界をほぼ支配したばかりでなく、文化の点でも、今日のヨーロッパ、北アフリカ、中東へと大いなる影響を与えた。ここでは、それまでの文明の歴史になかったローマ独特のものから、幾つか紹介したい。
まずは、浴場の利用である。ここで紹介したいのは、個人の家の内に設けられた私的な風呂で湯につかることではない。この風習というか、文化が社会に定着したのは共和制の時代というより、帝政時代に入ってからだ。歴代皇帝の命で領土や属国のいたるところに巨大な公共建築が建設されていった。
 その都ローマの最盛期においては、数百もの公衆浴場があったという、公衆浴場をつくって市民に安価で提供するのは、政府や皇帝の役目と見なされた時代。巨大建築のコロッセウム(円形闘技場)で剣闘士の試合を見せることがある。
 だが、それよりもっと、心地よく、生きる力に直結し、日々の暮らしに役立つものがあったのではないか。もっとも、日本のヤマザキマリ氏のマンガ作品『テルマエ・ロマエ』(ラテン語で「ローマの浴場」の意味)を読んでも感じるのだが。そんな頃、ひとたびローマ市民になると、特段のことがなければその社会的地位を保持することが可能であった。家父長制の下で、市民たる者の家族は守られたことであろう。
 その当時、市民の権利の中には、色々なものがあった。取り立てては、それらの公共建築や、これを使用しての娯楽や健康づくり、社交や図書館利用、スポーツなど、数え上げたらきりがない程の恩恵が得られることになっていたらしい。大理石の玄関や列柱、ローマン・コンクリートで固められ、所々に色彩豊かなモザイクタイルが施してある床面は、まるで別世界であるかのよう。
 ここに立ち入る者の身分を問うかのような、特段のことはない。皆が、刺しゅうの入った壁などをくぐり抜けたところに、大広間があり、そこからは様々な湯房に分かれていたのではないか。これを利用できるのは、市民の特権であった。一説には、一部の奴隷も、カネさえ払えば利用できていた。いずれにせよ、ここを訪れた市民たちは、くつろいだ、彼らが、「気持ちがよい」「幸せです」などといえる何時間なりかを過ごしたであろうことは、いうまでもなかろう。
 例えば、80年。帝政期のティトゥス帝が命令して、ティトゥス浴場を建設させたことになっている。この浴場がいかなる使われ方をしていたものであったかは、ローマ人自身がこう紹介している。
「公共浴場には、垢すり、マッサージ、詩の朗読会、散歩に最適な心地よい庭園、図書館、食べ物の屋台などほしいものが何でもそろっている。(中略)浴場には筋肉質の女もいる。(中略)それから温浴場へ向かい、騒がしい男の集団にまみれて気持ちよさそうに汗を流す。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
 もう一つの浴場の事例を紹介しよう。こちらには、現地解説が見つからないのだが。その浴場は、イタリアの首都ローマにある。古代ローマ時代の大浴場の遺跡として現代に伝わるのだが、1980、1990の両年に、ローマ歴史地区、教皇領とサンパオロフォーリ・レ・ムーラ大聖堂」の名称で世界遺産に登録されている。
 こちらの浴場のいわれだが、帝政時代の中期(212~216)、ローマ皇帝のカラカラが造営を命じる。そして完成した公衆浴場は、当初は「アントニヌス浴場」、後に「カラカラ浴場」と呼ばれ、市民の間で人気を博す。というのも、アッピア旧街道は、当初、ローマのセルウィウス城壁出口の一つカペーナ門、つまりこのカラカラ浴場付近を起点としていた。その先は、モンドラゴーネ(シヌエッサ)、カープアまでをつなぐ。それが紀元前19年、ベネウェントゥム(現在のベネヴェント)やウェヌシア(現在のヴェノーザ)までさらに延長され、さらにタレントゥム(現ターラント)とブルンディシウム(現在のブリンディジ)まで延長される。
 この浴場の広さだが、遺構の調査から11万平方メートルもあったことがわかっている。かかる広大な敷地に、一度に約1600人もの市民客を収容できのではないかという。冷水浴室、高温浴室、サウナのほかに、図書室や体育室なども備えていた。ほかにも、ミトラス教の神殿が敷地内に附属していたというから、驚きだ。そんな中でも、特筆されるべきは、この種の施設の運営には奴隷の労働力が寸刻たりとも欠かせななかった。というのは、施設の地下は3階構造となっており、床の下には湯を沸かす炉と大釜がじつにたくさんあり、それらの炉にくべる木材を奴隷たちが運んでいた。その現場の下には、水道が導かれていて水を供給、さらに園下には下水道という具合に、全体が階層構造をなしていたと伝わる。これらを推し量るに、かかる地下・地階での労働は日光が満足にとどかない場所での、苦役に近いものであったであろうことは、想像するに難くない。
 こんなすごい例は今時の日本でも、ほとんど類例のあるのを聞かない。入浴料はどの位であったのだろうか、その情報がほしい。もし安価であったのなら、ローマ市民のための十分に機能していたのではないか。現代の美術館に展示されている数多くの作品が、これらの公衆浴場から発掘されていることから見ても、れっきとした総合娯楽施設であったのではないか。
 そういうことなら、ローマの市民たちが、これらの傑作で飾られていた浴場を、「われら貧乏人のための宮殿」と呼び、日々の生活を潤していたというのも、頷ける。奴隷を含め庶民が集うのであったが、市民の中には単独で来るよりも、家内奴隷の数人を従えてやって来て、施設内で「アカスリ」やら「ひげそり」、「ひげぬき」などを彼らにやらせていたといわれる。このようにローマ市民にとってなくてはならない施設であったのだろうが、6世紀に入っての「ゲルマン民族の大移動」で肝心の水を引き入れる水道が破壊されてしまう。他の建築物と同様に、ローマ市内にたくさんあった浴場も、相次いで失われていったようだ。その間に、人びとの入浴習慣も失われていき、やがてローマの滅亡とともに、浴場文化は姿を消していった。今日に残されたタワー状の遺構や水道(上下水道)施設などにより、かつてここに市民の憩いの場、そして社交場としての賑わいの場のあったことがの偲ばれる。

(続く)

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◎31の2『自然と人間の歴史・世界篇』古代社会における奴隷制(古代ローマ)

2018-01-21 21:30:59 | Weblog
◎31の2『自然と人間の歴史・世界篇』古代社会における奴隷制(古代ローマ)

 古代ローマの社会には、どれくらいの奴隷がいたのであろうか。およそ定説らしきものはないようなのだが、ここではローマ人自身に語ってもらおう。橋明美氏のラテン語からの訳にて登場するのは、マルクス・シドニウス・ファルクス、彼は2世紀頃に生きていた。貴族にして元元老院議員、執政官(コンスル)の経験もある大立て者であるからして、述べるところには、なかなかに説得力がある。
 「帝国全体を見れば、わが国の総人口は優に6000万、あるいは7000万にも達するだろうか。その8人に1人程度が奴隷ではないだろうか。しかも奴隷は農村地帯だけにいるわけではない。首都ローマにも奴隷があふれ、あるいは活動を担っている。この都の人口は100万人ほどになるようだが、少なくともその3分の1は奴隷だといわれている。(中略)すなわち、奴隷なくしてローマは成り立たない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、橋明美訳『奴隷のしつけ方』太田出版、2015)
 また、彼はこうもいう。
 「どうすれば奴隷がよく働くか、奴隷をどう扱うのが最適か、奴隷という資産から最大の喜びを得るにはどうすべきかがわかっているだろう。奴隷に自由への道を歩ませ、あなたのよきワリエンテス(被護者)とするのはいつがいいかもわかっているだろう。」(同)
 たしかに、ここでの奴隷というのは、ローマという広い空間のいたるところ、農村や鉱山、都市の工房やあらゆる作業所、貴族や宮廷の現場のどこにおいても、日常不断に、広く見られたことであろう。
 そういえば、古代ローマでは奴隷の反乱が絶えなかった。大きなものでは3度あり、一度目は紀元前135年に発生し、同132年まで続いた。当時のローマは共和制であったが、この体制にシキリア属州(現在のシチリア)のエンナの奴隷の反乱をきっかけに、全土に広がる。元奴隷で自身を預言者と称したエウヌスとキリキア出身で軍事指揮官としてエウヌスを支えたクレオンを指導者とし、戦う。
 二度目のものは、紀元前104年から同100年にかけての共和政ローマ期に、これまたシチリアで起きた奴隷による反乱であったのだが。いずれも、奴隷に対する搾取を強めつつあった貴族らの大土地所有の進展に対し、反旗を翻したものとしてあったのだが、この両方にローマから大軍が送り込まれて鎮圧された。
 そして3度目のものがやってくるのだが、時は紀元前73~同71年、同じく共和制下でのものだった。今度は、剣闘士奴隷が持ち場を脱走し、主力をつくってのものであり、それまでとは異なる展開を辿る。ここに剣闘士奴隷というのは、数ある奴隷の種類中でも、異色の出身者で大方占められていたといわれるのだが。前述のマルクス・シドニウス・ファルクスは、別のところでこう語る。
 「剣闘士の多くは奴隷や死刑囚など、もともといちばん卑しい身分の者たちである。(中略)死刑囚が死に値することはいうまでもない。つまるところ彼らは盗人や殺人者なのだから。だが、野獣と人間を戦わせるからには、死の恐怖に耐えながら機転と技能と創造性を示すものでなければならない。」(マルクス・シドニウス・ファルクス著、ジェリー・トナー解説、北綾子訳、『ローマ貴族9つの習慣』太田出版、2017)
 もう一度、先ほどの3度目の大規模奴隷反乱の話を進めよう、その概略はこうだ。脱走者仲間の中心人物のスパルタクスは、仲間とともに南イタリアのカプアの剣闘士養成所を脱走する。その足で向かったのはヴェスヴィウス山で、ここに立て籠もり、討伐隊を撃退したのである。
 その後、近隣の奴隷たちが反乱に加わって、軍勢は数万から十数万人の軍衆に膨れ上がる。その隊列の中には、剣闘士たちの家族もあったのではないか。紀元前72年には、ローマの執政官(コンスル)の率いるローマ軍団を数度にわたって打ち破って、アルプスを越えて解散帰郷の方針を立てる。しかし、仲間の意見はまちまちであり、一本化することはついにできなかった。 そこで、当面イタリアにとどまることとし、一時はローマに迫ったという。
 ひとまず体制を立て直したローマ元老院が切り札として送ったローマの正規軍団であり、それが迫ると、反戦軍はじりじりと後退を余儀なくされていく。一説には、スパルタクスらは向こうの正規軍との激突は不利とみてこれを避け、南進してシチリアに向かい、そこからアフリカへ逃れようとする。
 イタリア半島の南進を続ける。彼らの脳裏には、そろそろ新天地をどうしたらよいかが浮かんでは泡となって消えていく、それを繰り返していたことだろう。そして迎えた紀元前71年、元老院が兵の増派に動く中、反乱軍は反転してクラッススの率いる軍団との決戦を決意するに至る。そして激戦の到来により、さしもの奴隷反乱も鎮圧される。
 この「スパルタクスの蜂起」と称される奴隷反乱の掲げたものは、世直しというよりは
かなり違っていたのかもしれない。

(続く)

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◎30の5の3『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(アーリア人の進出と古代インドの諸国家)

2018-01-21 19:13:19 | Weblog
◎30の5の3『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(アーリア人の進出と古代インドの諸国家)

 インダス文明の後の紀元前1500年頃から同1200年頃にかけては、アーリア人の
インドへの流入があった。彼らは、イラン人から分岐した、インド・ヨーロッパ語属に属す民族であって、一説には紀元前2000年頃には故郷を出発していたとも。ヒンドゥークシ山脈、カイバル峠を越えて、インダス川中流域のパンジャブ地方に進出してくる。この進出の動機ははっきりしないものの、チュウオウアジアを中心に遊牧生活をしていた彼らが、何かの契機に恵まれ、肥沃なインダス川流域に目をつけたのであろうか。武術に長けるアーリア人たちは、部族毎に、おそらくドラヴィダ人やムンダ語諸族などの先住民を蹴散らし、あるいは支配下に置いていく。
 そして彼らがインダス川流域からガンジス川流域へと進出してくるに及んで、父系制社会の進出族と母系制社会の先住民との間では相当数の混血が行われたのではないか。両者の持つ文化についても融合化が進み、ヒンドゥー(ヒンズー)文化が形成されていく。その際の精神の結び目としては、紀元前1000年頃までには、インドの神々にちなんだ歌集「ヴェーダ」(知識の意味)がつくられる。
 かかるヴェーダは4つからなり、各々はリグ・ヴェーダ(神々への賛歌集)、サーマ・ヴェーダ(泳法集)、ヤジュル・ヴェーダ(呪法集)、アタルヴァ・ヴェーダ(祭式集)というものであり、後に成立することになるバラモン教の根本聖典へと研磨・研鑽されていく。参考までに、現在のヒンドゥー教というのは、「バラモン教の継続変形」(蔵原惟人(くらはらこれひと)「宗教ーその紀元と役割」新日本新書、1978)だといって、差し支えなかろう。
 一方、アーリア人主導の部族国家がインド域内につくられていく過程で、紀元前10世紀から紀元前7世紀にかけて、「ヴァルナ」と呼ばれる身分制度が形成されていく。このヴァルナは、後に、来航したポルトガル人によって「カースト」と呼ばれるか、生まれを意味する「ジャーティ」という語に纏われ、社会の階層化を厳格に定めることになっていく。具体的には、上から順に、バラモンは司祭階層で、宗教儀式を行う。クシャトリヤは武士とか貴族といった特権をもつ階層で政治や軍事に携わる。ヴァイシャ(バイシャ)は農民や商人などの一般庶民階層をいい、大多数がこの身分に属する。シュードラ(スードラ)は最下層の隷属民とも訳されるが、ダーサと呼ばれる奴隷のような売買の対象となる存在ではなく、上層の三つの身分に奉仕する宿命を背負わされた身分を指す。
 アーリア人たちの率いる部族単位の小国家は、そればかりに留まっているばかりではなない。このあたりは気候が湿潤で、地味も肥えていて、稲作を中心とした農耕にはもってこいの土地柄であった。このことが原動力となり、それらの国家がしだいに都市国家のようなものへ発展し、その対立連合の裡(うち)にさらに統合されていった。とりわけ、ガンジス川中流域を中心に16もの国が現れる。これらを総称して、「古代十六」と呼ぶ(それらの位置関係については、(伊藤清司「インドの古代文明」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976))。
 そんな中でも強かったのは、コーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの4国であった。因みに、仏教の創始者ゴータマ・シッダールタ(シャカ、釈尊)が王子として生まれた、現在のネパールのアーリア系南部シャカ族の国としてのカピラヴァストウは、コーサラの属国の一つであった。

(続く)

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◎30の5の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

2018-01-21 19:11:11 | Weblog
◎30の5の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(魏の屯田制へ)

 196年、中国の地では、大きな時代の移行期の時期にさしかかっていた。後漢の献帝を戴いた曹操は、尚も力を伸ばしていく。208年、華北をほぼ平定した曹操は、さらに南進しようと遠征軍を発し、呉(ご、中国読みはウー、222~280)の孫権(そんけん)と、これに合流していた劉備(りゅうび)の連合軍と揚子江(ようすこう)の赤壁 (せきへき、現在の湖北省嘉魚県) で対峙する。そのときの戦いを「赤壁の戦い」という。
 この戦いにおいては、呉の総督である周瑜(しゅうゆ)の部将黄蓋が曹操の水軍を全滅させる。曹操の軍が大船団を構えているところへ「火攻めの計」を用いて火矢を放つ。折からの強風でその火勢が煽られたので、さしもの曹操軍は大混乱に陥った。多くの船が戦うどころはなくなる所へ、呉軍がここぞとばかりに押し寄せ、陸でも劉備の軍に攻め立てられ、全面敗退を喫し、魏軍は命からがら華北へ逃れたという。
 曹操は、赤壁での大敗北から色々と学んだ。その一つが、呉の都の建業を目指し復讐(ふくしゅう)の遠征軍を送る時に補給線が絶たれ、戦力が減殺されるのを如何にして防ぐかであった。そこで、同じ196年、参謀の韓浩らの提言に従う形で、この補給線に沿って兵隊を募って駐屯させることにする。具体的には、、「黄河と准水間の河川沿ぞいと、さらに前線の揚子江北岸等の灌漑(かんがい)工事にあたるため軍民を派遣し屯田を行わせた」(貝塚茂樹「中国の歴史・上」岩波新書、1964)という。
 後漢末の治世では、「黄巾の乱」(こうきんのらん、184年に太平道(黄巾賊)を率いる張角(ちょうかく)が起こした反乱)を契機に荒れ果てた土地がかなりあり、また流民も発生していたので、営農が止まっていた。そのことで、それまでの後漢王朝の「人頭税」という方法で税をかけていたのが、「戸籍台帳」に登録されていない住民が激増したため、その徴収額は激減していた。
 ここにいう屯田制だが、前例がなかった訳ではない。秦(しん、中国読みでチン、統一王朝としては紀元前221~206)の時代には、兵士に田地を与えて自給自足させ(兵戸)、同時に辺境の防備に充てようとするのを軍屯(ぐんとん)といっていた。新しいやり方では、入植させた農民に農具や牛を貸与するとともに、その見返りとして収穫の半分以上(一説には6割とも)を上納させるという一種の小作方式(これを民屯という)をとる。
 この制度の導入当初、かかる屯田を耕作する住民は戸籍登録されることなくして、特別に「屯田民」と呼ばれていた、ともいう。これにより、税収は、だんだんに上向いていくのであった。歴史学者の貝塚茂樹氏の言葉を借りるなら、「この屯田制は魏(ぎ、中国読みはウェイ、220~265)の南方進撃作戦の基礎となったばかりでなく、荒廃していた華北の農業を復興する原動力となり、次に来る晋(しん、中国読みでジン、西晋は265~316、東晋は317~420)の占田制(せんでんせい)に始まる中国中世独特の国家的農地所有制の先駆をなした」(同)ということだ。やがて、中国は魏・呉・(しょく、中国読みでシュー、221~263)蜀の三国鼎立時代を経て晋の時代に入っていく。
 そこで、晋の時代に入ってからのこの制度のありようなのだが、尾崎康氏はこうまとめている。
 「魏の屯田策は呉・蜀と闘う兵士の食糧確保のために戦乱で荒廃した土地に兵士や流民を入植させたものであるが、晋代には豪族化・貴族化が進んで荘園が激増していたから、土地の所有制限がいよいよ必要になって占田・課田法を行った。この制にはわからないことが多いが、官位によって土地と佃客(でんきゃく)との所有量を制限しようとしたことは明らかで、また戸籍を整えて人民に土地を給付し、一戸ごとに課税するようにして、農民の土地所有面積を平均化し、国家の租税収入の安定化を図るものでもあった。これは隋唐の均田制の先駆をなすが、大土地所有制限の効果のほどは疑わしい。」(尾崎康「貴族社会の形成ー魏晋南朝の政治と社会」:伊藤清司・尾崎康「東洋史概説Ⅰ」慶應義塾大学通信教育教材、1976)

(続く)

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『47の1』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

2018-01-21 09:12:00 | Weblog
『47の1』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(播磨から備前へ)

 古くからの天下の大道としての山陽道を播磨方面からやって来て、岡山に向けてさらに進んでいく。相生(あいおい)からの山陽本線は、赤穂線を分岐させる。後者は、瀬戸内海の沿岸沿いを南へ西へうねうね辿りながら、岡山へと繋げていく。昔の山陽道からはずれるということで山陽脇街道というか、作家の井伏鱒二は、持ち前の紀行文の中でこれを「備前街道」と呼んだ。赤穂は、いうまでもなく、南に塩田を抱えて江戸時代に商業で栄えた、千種川(ちぐさがわ)の三角州(デルタ)の遠浅の地に発展したところだ。そのこともさることながら、この地は「忠臣蔵」の赤穂浪士の町でもある。
 赤穂の西は寒河そして日生(ひなせ)だが、後者の有り余る日光を浴びているかのような土地名は、どこから来るのであろうか。その次に伊里、それから備前片上、西片上を経て伊部(いんべ)へと鉄路が続く。このうち伊里のすぐ南の海に面したところが穂波(ほなみ)といって、このあたりでは瀬戸内海が深い入り江をなし、平地にいるかぎりは水平線は見えないといわれる。
 さらに岡山へ向かっての先に進もう。現在の岡山と相生を1時間20分ほどで結ぶJR赤穂線(あこうせん)のほぼ中程に伊部(いんべ)駅がある。この駅には、東西の大動脈としての国道2号線が駅前間近に通っているので、交通の便は鉄路、車道ともに良い。国道2号線を渡ると南北に「伊部通り」という名の大通りがあり、それを来た道へ向かって歩いてゆくうち約100メートルにて、T字形にて旧山陽道に出くわすことになっているとのこと。而(しか)して、この伊部という地域には、上代から脈々と伝えられし備前焼きの故郷がある。
 一方、山陽本線の方だが、山間部にしばらく分け入って進む。

(続く)

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『47の4』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前の海)

2018-01-20 22:45:42 | Weblog
『47の4』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前の海)

 ところで、備前の人々の南の目の前には、昔も今も、普段はたおやかなる海が広がっている。ここには、この国の上代の昔から暮らす漁師達の生活の場が広がっていた。最初に、大正期の短編小説の中から。正宗白鳥の小作品「入江のほとり」の舞台は、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市伊里地区穂浪)にある、このあたりは「風光る入江の村」といったところか。「赤穂線に沿う備前町、日生町のあたりでは瀬戸内海は細長い入り江をつくる。というのも、前方には日生諸島が連なるし、邑久の岬が突き出していることから、この景色を眺めている自分は波静かな瀬戸内の懐に入っているのではないかと感じられる。その一節には、さして大きくない船を操る人びとが描かれる。
 「西風の凪(な)いだ後の入江は鏡のようで、漁船や肥舟は眠りを促すような艪(ろ)の音を立てた。海向いの村へ通う渡船は、四五人の客を乗せていたが、四角な荷物を背負(せお)うた草鞋脚絆(わらじきゃはん)の商人が駈けてきて飛乗ると、頬被(ほおかぶ)りした船頭は水棹(みさお)で岸を突いて船を辷(すべ)らせた。」(五)
また、このあたりの自然の造形の様を俯瞰すれば、暖かな空気ばかりではなく、寒さに震える暮らしもある。この作品が雑誌「太陽」に発表された1915年(大正4年)頃には、陰と陽の二つの顔がそれとなく移り代わっていたのであろうか。
 「瀬戸通いの汽船が島々のかなたにはっきり見えて、春めいた麗(うらら)かな日光の讃岐(さぬき)の山々に煙っていることもあれば、西風が吹荒れて、海には漁船の影もなくって、北国のような暗澹(あんたん)たる色を現わしていることもたまにはあった。そんな風の強い日には、大きな家の中がさながら野原のようで、いくら襖(ふすま)や帯戸を閉めきっても、どこからか風が吹きこんで、寒さを防ぐ術(すべ)もなかった。」(八)
 かかる白鳥の三男、正宗得三郎(~1952)は洋画家が本職であるが、随筆『故郷』の中で、生家のあったところの景色に想いを馳せつつ、こう述べる。
 「郷里の家の二階の窓は、前に海が展開し後に山が控えている。瀬戸内海入江の一端なのである。入江の海面は五月の快風にも鎮まり返っている。湾口を小島が塞いでいるので、まるで沖が見えない。湖ともいえる位で、漁る舟は点々として数えられる位である。」 
 このあたりの3つ目の情景描写としては、「岡山県の瀬戸内海の入江で、生まれて育った」といわれる作家の柴田錬三郎(しばたれんさざぶろう)の随筆から、しばし紹介させていただく。
 「ー前略ー瀬戸内海の鯛は、水深十メートルから五十メートルの間を、泳いでいる。上り鯛と下り鯛がある。産卵のため大平洋からやって来るのを、上り鯛という。
 八十八夜あたりから、上って来るもので、漁師は、鯛漁をはじめる。
 しばり網、天保網、五知網の三方法があった。現代は、五知網だけが残っているらしい。ローラー五知、というやつで、ロープを曳いて、船を叩くと、鯛があわてて集結する習性を利用して、引きあげる方法である。但し、これは、雷がとどろいたり、ジェット機などが飛ぶと、駄目らしい。
 私が知っているのは、しばり網である。桂(短冊状の物をつけたロープ)で、広い海面を円形にとりまき、これに鯛を追い込んで、せばめて、引きあげる漁獲法である。
 上り鯛は、旧暦の六月二十三日頃まで、大平洋から瀬戸内海に入って来る。そして、夏をすごして、再び大平洋へ去って行く。麦刈りの時期が、最もたくさん穫れるが、しかし、もうこの頃は、産卵を終わっているから味が落ちているのである。
 おもしろいことに、鯛の群れは、ちゃんと海路をきめていて、決してその路線をはずれるようなことはしない。その海路を、網代という。この網代を、満月の夜あけに、しばり網でやると、豊漁であった。
 さて、漁師は、網元と網子の上下関係を、三百年間、保って来た。一人の網元に、七、八十人の網子がついていた。
 網元と網子の関係は、ひとしろ(一人前)の漁獲高の歩合(合と称する)で、成り立っている。
 「ひとしろ一万円だから、お前は、七合(七千円)でよかろう」
 といった契約になるわけである。ー後略ー」(柴田錬三郎「鯛について」)
 ちなみに、作家の故郷は岡山県邑久郡鶴山村鶴海(現・備前市鶴海)らしいのだが、彼が1917年に生まれ、東京の大学に入るまでの少年期まで過ごしたであろうか、そこに広がる海は、彼の日常生活の間近にあったらしい。   

(続く)

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『47の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(閑谷学校)

2018-01-20 22:44:22 | Weblog
『47の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(閑谷学校)

 ここで趣向のいささか変わったところでは、備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したもので、現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、国宝指定の講堂を始め、重要文化財の五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)で江戸時代の風をたたえるというか、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。

(続く)

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『47の2』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前焼)

2018-01-20 22:43:12 | Weblog
『47の2』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(備前焼)

 この地は、備前焼発生の地として全国に知られる。この焼き物は、「釉薬を掛けない焼き締め陶」として名高い。そもそも古代の焼き物といえば、あの怪しげな形と縄を巻き付けたような文様をした縄文土器が思い浮かんでくるではないか。たとえば、北海道南茅部町垣ノ島B遺跡より出土した漆塗り土器の製作年代は、約九千年前にも遡るとも言われる。幾つかの本をめくってみるのだが、備前焼の発祥は、その流れとは異なるらしい。こちらの大方には、古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展したものが最初と推定されている。それならば、初めて窯がで焼かれてから千年の時が経っていることになるではないか。
 意外にも、この地域の焼物が有名になるのは、私たちの頭の中にイメージが出来上がっているあの「備前焼」としてというよりは、「瓦」(かわら)であった。1180年(治承4年)に遡る。その頃瓦づくりを行っていた地域としては、備前にとどまらず、そこから岡山にかけての地域に点在していたようである。この年、平清盛の子・平重衡(たいらのしげひら)の軍勢による「南都焼き討ち」によって焼かれた。この事態に、黒谷の源空(法然上人)に後白河法王より東大寺再興の院宣が下る。法然は、老齢を理由に門下の僧の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を推挙して、重源が再建費用を集める大勧進職(だいかんじんしき)に任命される。やがて東大寺の再建を始める。その造営費用に当てるため、備前と周防の2国を「造東大寺領」とした。その国税を再建費用にあてる「造営料国」(ぞうえいりょうごく)の一つとされたのだ。周防から材木を、備前と遠江から瓦を焼いて送った。屋根瓦は、東大寺領であった備前国の万富で9割以上が焼かれ、備前焼の近くや、吉井川河口の福岡を経由して舟で奈良へと運ばれた。残りの数パーセントが渥美の伊良湖で焼かれた。そして、9年後の1193年(建久4年)から東大寺再建が成った。
 この時の窯跡が遺跡に指定されていて、その中の代表的なものが万富(まんとみ、現在の岡山市東区瀬戸町万富)の東大寺瓦窯跡(とうだいじがようせき)とされる。この遺跡は、南北方向に延びた丘陵の西側斜面にあった。遺跡そのもののあった場所は現在、高さ2メートルほどの段差をもつ2面の平坦地(へいたんち)になっている。万富地域は、良質の粘土を産するほか、吉井川の水運を利用して資材や出来上がった製品の運搬にも便利であったろう。1979年(昭和54年)と2001年(平成13年)~2002(平成14年)、2005年(平成17年)に磁気探査(じきたんさ)と発掘調査(はっくつちょうさ)が行われた。上の平坦地で14基の瓦窯が見つかっている。
 このほかに、工房(こうぼう)や管理棟(かんりとう)の可能性がある竪穴遺構(たてあないこう)、礎石建物跡、暗渠排水施設なども見つかっている(この発掘の報告は、岡山県教育委員会編『泉瓦窯跡・万富東大寺瓦窯跡』『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告三七、1980による。また当時の瓦窯模式図が、高橋慎一朗編『史跡で読む日本の歴史』第6巻「鎌倉の世界」吉川弘文館、2009、87ページに復元されている。)。
 私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられていた。それが、今から約800年の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。須恵器(すえき)は、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)地方で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には備前焼として完成の度合いをつよめていく。
 しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。
 備前焼の製造は、これの黎明期、どのようなものであったのだろうか。備前焼は、その昔古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展し、変化を遂げて作り上げられたものといわれているものの、確かな由来は突き止められていない。焼き物というと、まずは土であり、これをどのように調達するかが大事だろう。これを供給するのは、「伊部の田圃の底に眠る、黒っぽい陶土」((株)ナック映像センター・田邊雅章編著『ふるさとの匠と技~中国地方の伝統工芸』第一部、中国電力(株)広報部、1993より)とのことであって、「手間ひまかけて慈しむように仕込み、焼物として使いやすいように充分に練り上げ」(同)る。
 こうして土が出来たら、今度はそれを大量に焼かねばならない。製造設備の要となるのは、やはり窯であろう。室町時代の終わり頃から安土桃山時代を経、さらに江戸時代にかけて備前焼が焼かれていた窯(かま)の跡ということでは、伊部(いんべ)南大窯跡(現在の備前市伊部)が有名だ。東側窯跡・中央窯跡・西側窯跡の三基からなり、一番大きな東側窯跡は長さが約54メートル、最大幅が5メートルもあり、窯の中に仕切りのない窯としては国内最大級の窯であった。これまでの市の発掘調査で、東窯跡の中央には40本近くの柱が並んでおり、窯の天井がそれらにより支えられていた。また、窯の側面には焼き物を出し入れする入り口があったこと、江戸時代前半にやや小さな窯につくりかえられていたことなどがわかっている。
 備前焼を他の地域の焼物に対し特徴付けるものとして、前述のように釉薬(ゆうやく、「釉」(うわぐすり))を一切使用しないことがあるのだが、摂氏1200度から1300度の高温で焼成する焼締めるとのこと。その素朴な中にも深い味わいというか、古からの趣を感じさせるというか、それらは全体として土の性質や、窯への詰め方や窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出されるものだろう。人によって描かれる紋様はないらしい。それでいて、備前焼は、一つとして同じ色、同じ模様にはならないといわれる。茶褐色の地肌は、備前焼に使われる粘土の鉄分によるものだという。
 2015年2月9日に放映された「日曜美術館」においても、「銀行頭取を務めた陶芸の巨人!川喜田半泥子、▽桃山に学んだ自由奔放な傑作」の中で、その類稀なる伝統ならではの陶器のあれこれが紹介されていた。その放送によると、彼が備前焼の赤紋様を醸し出す技術に習い、作品に新境地を拓いた。それから、備前焼は,釉薬を用いなくても赤とか、橙とか、オレンジなどの色を出せるとのことで、成形後乾燥された作品は登窯に入れてる際、作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため作品に稲藁を巻くと、稲藁との接触部分にこれらの特徴ある赤色模様が現れるのだとか、テレビに写し出されたのは思いを込めた赤味がかった朱色であった。

(続く)

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『(1の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』先史年代の吉備(三大河川)

2018-01-20 22:34:00 | Weblog
『(1の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』先史年代の吉備(三大河川)

 そういえば、瀬戸内を西へと進んできた人びとが、そのまま播磨へと通り抜けずに、内陸部へ向かっていったことがあろう。その際には、さしあたり高梁川、旭川、そして吉井川の3大河川に沿って北上していったのではないかと想像される。)(中略)
 もう一つ、人々が吉井川が瀬戸内海に注ぐ地点、岡山の九蟠(くばん、合併まえの西大寺(さいだいじ))から出発し、児島湾の東端河口からほぼ北上することもあったろう。現在の和気郡和気町(わけぐんわけちょう)の辺りで金剛川などの支流と別れ、赤磐市(あかいわし)の辺りで吉野川と分かれる。それからは、吉備高原(きびこうげん)の谷底平野に向かって北上する。この辺りまでの、吉井川は、旭川の東10キロメートルほどのところを流れている。
 それから、また北上していく。1960年(昭和35年)から1997年(平成9年)に倉敷に移転するまで、津山作陽音楽大学のあった津山市横山(よこやま)まで遡ったところで、北東から流れてきた吉井川と合流する。その後はU字形の蛇行(北から西へ)を描いて、進路を西にとる。このU字形をとっているところは昔から河畔を含め50メートルを超すくらいの川幅となっていて、その深い淵の底には「ごんご」という魔物が棲みついている、と言われてきた。
 今度は津山盆地から吉井川に沿って西にたどって行こう。これは、出雲街道を西へと辿ることでもある。すると、院庄(いんのしょう)と到達する。吉井川は、このあたりから北へと遡る。そこから10キロメートルばかり西には旭川が流れており、この二つの川に挟まれた地域(現在の久米郡久米町、その南に久米郡旭町がある)に古代の人々は到達し、そこかしこに定住していったのではないか。
 そこからの吉井川は、津山盆地を横切って、しだいに美作の地を離れていく。西への行程で香我美川(かがみがわ)や加茂川といった支流とたもとを分かち、なおも西流してから再び北へと遡る。現在で言うと、国道179号線沿いといったところか。やがて奥津渓谷(おくつけいこく)を抜けたあと、英田郡上斎原村(あいだぐんかみさいばらむら)に至り、鳥取県との県境に近くの三国山(みくにやま)あたりの山間が源流とされている。あるいは、人形峠の方に源流があるともいわれているので、私の素人判断での断定は控えておきたい。

(続く)

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『(1の1)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』先史年代の吉備

2018-01-20 22:32:41 | Weblog
『(1の1)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』先史年代の吉備

 地球上の氷河時代は、氷期(極に氷が存在することで、こう呼ばれる)と間氷期とに分かれる。両者は、近くでは10万年単位で入れ替わってきている。現在から数えて一番近い氷期(最終間氷期)は、「エーム間氷期」と呼ばれる。13万年前頃~11万5千年前頃のことであった。北グリーンランドでの土壌調査によると、最終間氷期が始まったばかりの12万6千年前頃が最も温暖で、気温が現在よりも約8℃±4℃高かったことが分かっている。その後約10万年が経過した、
 今から約2万1000年前には、地球は氷期(一番最近のものなので、「最終氷期」と呼ぶ)のピーク(最盛期)にあった。この時期には、数十万立方キロメートルとも推測される大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なった。海水を構成していた水分が蒸発して降雪し陸上の氷となったためだと推測される。地球上の海水量が減少した結果、海面変化が著しいところでは約120メートルも低下したところもあり、その影響で海岸線は現在よりも相当分沖合に移動していた。
 この海水準がもっとも低下した時代、アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成された。南半球の東南アジアにおいては、現在の浅い海が低い陸地になっていた。そして日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続きとなっていた。また、現在の瀬戸内海や東京湾もほとんどが陸地となっていたことがわかっている。
 それからであるが、この最終氷期が終わり温暖化が始まった状態から、今から1万2800年頃から1万1500年前頃にかけて、北半球の高緯度地方のイングランドなどを中心に寒冷化の揺り戻しが起こった。これをヤンガードリアス期と呼ぶ。その影響は、軽微ながら日本列島にも及んだと考えられている。
 それでは、今から約数万~2万年前の日本列島、その中の瀬戸内海は、どのようであったのだろうか。例えば、瀬戸内海に南に鋭く出っ張っている鷲羽山、その登山道に設けられている案内板の一つ「瀬戸内海のおいたち」には、こううある。
 「瀬戸内海は、一つの大きな地溝帯で、全体が大きなブロックに分かれています。そしてブロック別にうきあがったり沈んだりしてその凹凸に海が入りこみ、いわゆる多島海になったり、ぜんぜん島のない灘になったりしています。」
 これからも概略が窺えるように、当時は、現在に一番近いというという意味から、「最終氷河期」と呼ばれる、その末期にあたる。世界規模の寒冷化の影響で海水面が低くなり、瀬戸内一帯は広大な草原であった訳だ。これが真実であるなら、当時は対岸の四国まで海を隔てて指呼の距離というどころか、浅瀬を歩いてわたれるほどであったのかもしれない。この通りだとすれば、現在の倉敷あたりは、つまるところ起伏と変化に富んだ陸地であって、沼あり、川あり、小高い台地ありで、海生や陸生の生き物が住み着いていたのではないか。古代の人々はその台地や洞窟に住居を構えられ、住み着いたりして、主にそれらを狩って食料としていたことが窺えるのである。
 では、このあたりに人類の足跡が認められるのであろうか。答えは、「是」である。そのことを覗わせるものに、倉敷周辺の小高いところ、つまり海面下でなかったところに散らばる遺跡がある。人々が住みはじめた痕跡が明らかに認められるのは、旧石器時代までさかのぼる。代表的なところで拾うと、例えば、児島の鷲羽山遺跡などの遺跡がそれである。この当たりには、当時の人々が使っていた石器が数多くみつかっている。同じく鷲羽山への登山道にしつられてある案内石版には、こうある。
 「鷲羽山には、数万年の昔から人類が住みついていました。彼等は香川の五色台付近に産出するサヌカイトをいう岩石を加工してつくった石器をつかい、魚や野獣を捕らえて生活していました。」
 それが終わった後には、再び地球温暖化が進み出していく。少なくとも6000年前くらいからは、温暖化による海水面の上昇がみられるようになっていく。日本列島周辺では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)と呼び慣わしている、その最盛期には,日本列島の津々浦々、海外線の至るところで、現在の平野部の奥深くまで海水が入り込んだ。現在の瀬戸内海周辺も、その例外ではなかった。
 当時、倉敷市の市域の北半を中心とする付近には、瀬戸内海とつながる細長い内海が東西に広がっており、その南の先の海の中に「児島」という島が浮かんでいた。当時の瀬戸内海は豊かな海であったことだろう。そして、このあたりは魚貝類の繁殖する海域でもあり、かつ温かかったことから、人々が住みやすい環境であったであろうことは想像に難くない。これらの相乗効果で、瀬戸内海の沿岸は、やがて西日本有数の縄文貝塚遺跡の密集地となって、次代へと受け継がれていったのではないかと推測される。

(続く)

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◎94の7『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスの宗教観

2018-01-20 10:03:11 | Weblog
◎94の7『自然と人間の歴史・世界篇』マルクス・エンゲルスの宗教観

 さてさて、19世紀も半ば近くになると、宗教の本質についての批判が激しさを増す。その一つには、こうある。
 「宗教は人間の本質が自己自身のなかへ反省反映したものである。(中略)感情もまたすでに、自己のなかへ反映反省し神のなかで自分自身の鏡をのぞくことができるような段階へ高まっているのである。神は人間の鏡である。(L.A.フォイエルバッハ著 (『キリスト教の本質』、1841の船山信一訳より)
 これと似た論評ながら、重点の沖か方が異なるものとして、社会主義者へと思索を深めつつあったカール・マルクスのものがある。
 「ドイツについて言えば、宗教の批判は実質的に終わっている。(中略)宗教とは人間的本質が真の現実性を得ていないがゆえになされている、その空想における現実化なのである。宗教に対する闘争はそれゆえ、間接的には、世界、つまりその精神的香りが宗教となっている倒錯した世界にたいする戦いでもある。
 宗教という悲惨は、一面では現実の悲惨の表現でもあり、同時にもう一面においては、現実の悲惨に対する抗議でもあるのだ。宗教とは、追いつめられた生き物の溜め息であり、心なき世界における心情、精神なき状態の精神なのである。宗教こそは民衆の阿片である。
  民衆に幻想の幸福を与える宗教を止揚ということは、彼らに現実の幸福を与えるよう要求するということだ。自己自身の状況についての幻想を民衆が放棄すべきであるとする要求は、幻想を必要とするような状況は放棄せよという要求なのである。宗教批判はそれゆえ、涙の谷(注:苦しみの多いこの世を意味する比喩)への批判の萌芽なのである。涙の谷に聖なる光背をかぶせたものが宗教なのだから。」(カール・マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』、1844の三島憲一訳より)
 より簡潔には彼によるメモ書きがあり、それには「哲学者たちは世界を多様に解釈してきただけであった。しかしながら、肝要なのは世界を変えることである。」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』第十一提題、1845、神代真砂実訳による)。
 これらで明瞭になっているのは、宗教そのものを、それはいけないといっている訳ではなく、その批判に甘んじていては何も始まらない、というのであろうか。
 その後、資本主義の運動法則の解明に進んだマルクスの経済学の構築の中では、さらに次のような書きぶりに変化している。
 「現実世界の宗教的反映は,一般に実践的な日常勤労生活の諸関係が人間にとって相互間および自然とのあいだの透明な合理的な関係をあらわすようになったときに、はじめて消滅しうるのである。社会的な生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたときに、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかしそのためには、社会の物質的基礎が、もしくは一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた、ひとつの長い苦悩に満ちた発展史の自然発生的な産物なのである。」(大月版『マルクス・オンゲルス全集』第23巻)

(続く)

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◆目次A『自然と人間の歴史・世界篇』(2018年1月20朝時点)、0~124の2の2/0~220)

2018-01-20 09:34:57 | Weblog
◆目次A『自然と人間の歴史・世界篇』(2018年1月20朝時点)、0~124の2の2/0~220)

 読者の皆様へ。項目・題名だけで、まだ中身のないもの、工事中のものが沢山あります。全てが、未完成です。項目・題名は、これからさらに追加していきます。ゆくゆくは、全部で600項~700目程度となっていく予定です。書き直しや加筆は予告なく、随時行います。その都度、本目次に記していきます。皆様には、色々とご不便をおかけしますが何卒、よろしくお願いいたします。
 なお、誤字や脱字なども沢山あって、ご迷惑をおかけしております。誤りに気がついた時は、直すようにしておりますが、分量が多いので間に合いません。鋭意、修正などに取り組んでいきますので、よろしくお願いいたします。




0.最初は何であったのか
1.宇宙の誕生
2.銀河系
3.太陽系
4.月と地球
5.最初の生物(約46億~38億年前)
6.全球凍結
7.原核生物から真核生物へ(約38億~22億年前)
8.新たな全球凍結と生物(約22億~5億4000万年前)
9.生物の発展(カンブリア紀からの古生代)
10.生物の発展(中生代)
11の1.生物の発展(新生代)
11の2.新生代第4紀氷河時代
12.多様な生物種(検討中)
13.人類の歩み(800万~400万年前)
14.人類の歩み(400万~180万年前)
15.人類の歩み(180万~35万年前)
16の1.人類の歩み(35万~20万年前、幾つもの流れ)
16の2.人類の歩み(35万~20万年前、ネアンデルタール人)
17.人類の歩み(30万~5万年前、出アフリカ)
18の1.現世人類、出アフリカ1(5万年前~、出アフリカ)
18の2.現世人類、出アフリカ1(5万年前~、出アフリカ)
18の3.原始共産制はあったか
19の1の1.世界文明の曙(メソポタミア、採集から農耕社会へ)
19の1の2.世界文明の曙(メソポタミア、ウバイド人の社会)
19の2.世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の国家)
19の3.世界文明の曙(メソポタミア、シュメル人の文化)
20の1.世界文明の曙(メソポタミア:アッカド王朝)
20の2.世界文明の曙(メソポタミア:バビロニア王朝)
20の3.世界文明の曙(メソポタミア:アッカド王朝、バビロニア王朝時代の文化)
20の4.ヒッタイト王国
20の4.ヒッタイト王国の文化
21.世界文明の曙(中国の夏と殷と周)
22.世界文明の曙(中国の春秋戦国時代)
23.世界文明の曙(エジプト1:王朝の移り変わり)
24.世界文明の曙(エジプト1:ナイルの恵みとヒエログリフなど)
25.世界文明の曙(インダス1)
26.世界文明の曙(インダス2)
27の1.ギリシア(クレタ文明へ)
27の2.ギリシア(ミケーネ文明)
27の3.ギリシア(トロイア文明)
27の4.ギリシア(エーゲ文明の崩壊)
27の5.ギリシア(ペロポネソス戦争前)
28の1.ギリシア(ペロポネソス戦争以後)
28の2.ギリシアの文化(神話・伝承と科学精神の芽生え1)
28の3.ギリシアの文化(神話・伝承と科学精神の芽生え2)
29の1の1.ローマの共和制
29の1の2.ローマの建築
29の2の1.ローマの文化(浴場)
29の2の2.ローマの文化(水道)
29の2の3.ローマの文化(コロッセオと剣闘士)
29の3.フェニキア人と地中海世界
30の1.ローマの帝政
30の2.秦による中国統一
30の3.秦から前漢へ
30の4.歴史家・司馬遷が見た古代中国社会
30の5の1.前漢から後漢、さらに三国鼎立へ
30の5の2.魏の屯田制
30の5の3.インドの古代国家(アーリア人の進出から16国時代へ)
30の5の4.インドの古代国家(マウリア朝など)
30の6.アケメネス朝ペルシア
30の7.ササン朝ペルシア
31の1.古代の奴隷制(~ギリシア)
31の1.古代の奴隷制(ローマ~)
32.古代世界の天文学
33.マケドニアの覇権と最初の世界帝国
34.ヘレニズム文明
35.古代文明と宗教
36の1.世界宗教(仏教)
36の2.世界宗教(キリスト教)
37の1.世界宗教(イスラム教)
37の2.世界宗教(ヒンドゥー教)
38.世界宗教(ユダヤ教、儒教、道教など)
39の1.南北アメリカ(マヤ文明)
39の2.ローマ帝国の東西への分裂
39の3.五胡十六国と晋の南渡
39の4.中国の南北朝時代
39の5.中国の南北朝時代の文化
40.ヨーロッパ(フランク王国)
41の1の1.中国の隋と唐
41の1の2.北宋と南宋
41の2.東ローマ帝国
41の3.神聖ローマ帝国
42.東西文化の交流
43.十字軍への道
44の1.十字軍がたどった道
44の2の1.ヨーロッパは中世へ
44の2の2.中世における商工業圏の形成
44の3.ヴェネツィアなどの自治
44の4.ジェノバなどの自治
45.アラブ世界(ウマイア朝)
46.アラブ世界(アッバース朝)
47.モンゴル帝国の成立
48.モンゴル系4国の盛衰
49の1.元の盛衰
49の2.明の政治経済
49の3.明の対外政策
50.コンスタンチノープルの陥落
51.ルネサンス(フィレンツェなど)
52.ルネサンス(ローマ、北方など)
53.ルネサンスがもたらしたもの
54.宗教改革(ドイツなど)
55.宗教改革(フランスなど)
56.ヨーロッパの中世(その経緯)
57.ヨーロッパの中世(その仕組み)
58.ヨーロッパ中世の農民反乱(ワットタイラーの乱など)
59.ヨーロッパ中世の農民反乱(ドイツ農民戦争など)
60.百年戦争
61.大航海時代(ポルトガルとスペイン1)
62.大航海時代(ポルトガルとスペイン2)
63.大航海時代(オランダなど)
64の1の1.中米・南米へのスペイン進出(アステカ)
64の1の2.中米・南米へのスペイン進出(インカの征服)
64の2の1.重商主義の展開
64の2の2.重商主義の批判
64の3.重農主義
64の4.「国富論」
65の1.キリスト教(パスカルの選択)
65の2.キリスト教(パスカルとデカルト)
66.封建制下の天文学(ニュートン以前)
67の1.封建制下の天文学(ニュートン以後)
67の3.未定
67の4.イギリスの絶対王政
67の2.暦の改新
68.イギリスの清教徒革命
69の1.イギリスの名誉革命
69の2.フランスの絶対王制
70.第一次産業革命(~19世紀)
71.第一次産業革命(19世紀)
72.産業革命の伝搬
73.アメリカの独立への道
74の1.アメリカの独立
74の2.アメリカの独立(信教の自由)
75.フランス革命(1787~1792)
76.フランス革命(1793~1799)
77.芸術1(文学など)
78.芸術2(音楽など)
79.近代立憲思想の系譜(ルソーとロックなど)
80の1.近代立憲思想の系譜(モンテスキューなど)
80の2の1.17~18世紀のイギリスの三角貿易
80の2の2.パックス・ブリタニカ
81.アヘン戦争と三角貿易
82.アヘン戦争後の中国
83.19世紀の東南アジア
84.19世紀のインド
85.19世紀の朝鮮
86の1.アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで)
86の2.アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い後)
86の3.アメリカ南北戦争当時の奴隷制
86の4.奴隷貿易の系譜
87.アメリカの産業発展
88の1.ドイツなどの産業発展
88の2.ロシアにおける資本主義の発展
88の1.19世紀末のロシアの農村
89.共産党宣言
90.フランスの内乱(ブリュメール18日など)
91.フランスの内乱(パリコミューン)
92.パリコミューン後
93.マルクスの歴史観察(社会科学の方法)
94の1.マルクスの歴史観察(イギリスの工場法など)
94の2.マルクスの歴史観察(マルクスの基本定理)
94の3.マルクスの歴史観察(資本主義の次に来る社会)
94の4.マルクスの歴史観察(『資本論』)
94の5.エンゲルスの歴史観察(『家族・私有財産及び国家の起源』)
94の6.マルクス・エンゲルスらの国際労働者協会の活動
94の7.マルクス・エンゲルスの宗教観
95.ドイツの社会主義鎮圧法
96.帝国主義の始まり
97の1.帝国主義と南アフリカ
98.帝国主義とベルリン会議
99.ブラジルの独立
100の1.メキシコの独立
100の2.アルゼンチンの独立
100の3.パナマの独立とパナマ運河
100の4.その他の中南米諸国の独立
101.第二次産業革命1(19世紀~20世紀初頭)
102.第二次産業革命2(19世紀~20世紀初頭)
103.帝国主義と第一次世界大戦(勃発)
104の1.帝国主義と第一次世界大戦(泥沼から終結へ)
104の2.帝国主義と第一次世界大戦(イギリスによる平和の終焉)
105.ロシア革命(1917~1919)
106の1.ロシア革命(内戦)
106の2.ロシア革命(過渡期の経済政策・ネップ)
107.国際連盟
108.アメリカのモンロー主義
109.ドイツのワイマール体制
110.世界恐慌(その経緯と原因)
111.世界恐慌(金本位制からの離脱)
112.世界恐慌(回復過程)
113.有効需要の原理の発見(ケインズ1)
114.有効需要の原理の発見(ケインズ2)
115.有効需要の原理の発見(カレツキ)
116の1.所得分配の原理の発見(カルドア)
116の2.ケインズによる「古典派の第一公準」
116の3.ケインズによる「古典派の第二公準」
117.スペイン内戦(1923~1936)
118.スペイン内戦(1936)
119.ファシズムへの道(ドイツ、~1930)
120の1.ファシズムへの道(ドイツ、1931~)
120の2.反ファシズム統一戦線へ
121.第二次世界大戦への道(欧州1)
122.第二次世界大戦への道(欧州2)
123の1.第二次世界大戦への道(アジア・大平洋)
123の2.第二次世界大戦(欧州戦線・ポーランド)
123の3.第二次世界大戦(欧州戦線・デンマーク)
123の4.第二次世界大戦(欧州戦線・フィンランド)
123の5.第二次世界大戦(欧州戦線・ソ連)
123の6.第二次世界大戦(アジア戦線1)
123の7.第二次世界大戦(アジア戦線1)
123の8.第二次世界大戦(マンハッタン計画)
123の9.第二次世界大戦(日本への原爆投下)
123の10.第二次世界大戦(学者の良心)
123の11.第二次世界大戦(日本への原爆投下の本当の理由)
124の1.第二次世界大戦の終結
124の2の1.平和を夢み命を捧げた人びと
124の2の2.平和を夢み命をつないだ人びと

(続く)

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◎30の5の4『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

2018-01-19 19:37:09 | Weblog
◎30の5の4『自然と人間の歴史・世界篇』インド(マウリア朝など)

 紀元前321年のインドにおいては、チャンドラグプタがナンダ朝を滅ぼしてマウリア(マウリヤ)朝を建てる。王となった彼は、一説には、ウァイシャ制(カースト制)でいうところの「スードラ」出身の女性を母としていた。この国は、さしあたりガンジス川とインダス川流域を中心に支配する。つまり、肥沃な中原としての平野地帯に出張った訳だ。
 紀元前312年、彼は、インド侵入の動きを見せていたセレウコスのシリア軍を攻撃し、敗退させる。それでは満足せず、ベルチスタン地方を併合する。都をパータリプトラに定める。そして、東はベンガル湾、西はアフガニスタンの一部にも勢力を及ぼす、大国となる。
 その統治の仕組みについては、ペルシアのサトラップ制を参考に官僚制度を敷く。各部署に密偵を置いたほか、行政監察を巡回させ行政の監督に当たらせる。時の宰相カウテリアがチャンドラグプタ王に示したという『実利論』が、現在の形になったのは、紀元2~3世紀と言われるが、それには政治や軍事の全般に関する方策が記される。とはいえ、これらをもって強権政治一点ばりというのは似つかわしくなかったようで、より詳細には、伊藤清司氏による説明にこうある。
 「地方行政組織は要衝の地に王子またはこれに代わるべき重要人物を太守として派遣し、その下の行政官の任命権は太守にまかせるという封建的性格のつよいものであった。これに対し大都市と各郡には地方長官を任命し、その下に管財官・収税司法官・その他の行政官などの官僚を分属させたが、地方行政は一般的に分権的性格がつよく、貨幣も地方ごとに異なり、共通語もなく、氏族制社会の残存が根強くあり、サトラップ制を採用したとはいえ、強力な中央集権体制は確立されていなかった。」(伊藤清司「インドの古代帝国」:伊藤清司・尾崎康『東洋史概説Ⅰ』慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 3代目アショーカ王(在位は紀元前約268~同232頃)の時、このマウリア朝は、インドの東南海岸のカリンガ王国を征服する。これで最南端部を除く全インド世界の統一を果たすのだが、この時激しい戦いであったらしく、相手に対し大量虐殺を行ったのを悔いる。この王のそれからの心に去来していたものは何であったのか。そのことを物語るのが、石柱をはじめとする遺跡であって、中でも、中国の唐代の僧、玄奘三蔵がインドで学んでの帰国の後に著した『大唐西域記』の記述を元に、1896年、インド考古局のフューラーらがルンビニで発掘調査を行い、発見した石柱には、5行に渡って文字が刻まれ、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」とまずある。そして、「この土地の租税を軽減する」ことを謳う。 
 
(続く)

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