◻️141の6『岡山の今昔』鏡野町(苫田郡)

2019-11-29 19:02:37 | Weblog
141の6『岡山の今昔』鏡野町(苫田郡)

 鏡野町(かがみのちょう)は岡山県の北部中央にあり、かなり広めだ。現在の町域は、2005年3月1日に奥津町、上齋原村、富村と合併する。北は鳥取県に、東南は津山市、西は真庭市に接していて、袋が立っているかのような形ではないか。また、南北ということでは山陽地方と山陰地方の半ばにあり、東西ということでは津山盆地と真庭市に挟まれている。
 地勢なり地形としては、鳥取県との県境をなす中国山地南面傾斜地からだんだんに平坦肥沃な準平原地に移りゆくというのであろうか。聞けば、香々美川沿いの竹田地区を通りすがるうちには、「大野の整合」と呼ばれる、まるで煉瓦を積み重ねたような珍しい地層が立ち上がっているのを見ることができるとのこと。
 交通の便利は、かなりよくなってきた。町の中心部は、中国自動車道の院庄IC(インターチェンジ)に近い。国道179号バイパスが南北に、大規模農道が東西に通過しているのも心強い。
 気候としては、盆地というのとは異なってはいるものの、雪が比較的少ない上に、夏と冬の寒暖差が大きいのではないか。
 産業としては、まずは米・果樹・野菜などの栽培があろう。林業も盛んだと聞く。商工業は、地場産業や誘致企業が立地・操業しているものの、人口減少が気になろう。圧巻なのは、広い意味での観光産業であり、温泉をはじめキャンプ場・スキー場が揃いぶみで、観光客らを優しげに迎えてくれる。
 2019年のニュース中、清々しいところでは、10月13日付けの地元紙が、同町で県境トレッキングコースが来月全線開通を伝えた。それによると、三朝町と隣接する岡山県鏡野町上斎原地区の高清水高原で、「高清水トレイル」と銘打ったトレッキングコースの整備が進んでいるとのこと。人形峠から高清水高原を経て県境を尾根に沿って歩く全長8・132キロメートルにして、一部には歩き易いように木質チップが敷き詰められているという丁寧さだ。その通り、11月には全線開通し、休日ともなればトレッキング愛好家たちが思い思いのぺースで紅葉を含め楽しんでいるという。
 次には、この町の大いなるものとして、美術館などの文化施設が十指では足らぬ程に多く、かつ充実しているのを伝えたい。それらのうち、木造2階建ての築100年以上の古民家を改装して2018年4月に開設したのが「 奥津の古民家、かがみの近代美術館 」(岡山県鏡野町奥津川西)であって、中の黒光りのする柱など独特の雰囲気を醸し出していて、なんとも珍しい。
 この美術館へは、奥津温泉街の中心地から車で3分ほど北に位置することから、津山市街から友達の車に乗せてもらって着いてみると、周りには某かの冷気が漂い、相当に森が迫っているではないか。
 中に入ると、穏やかな、そして温かい照明がありがたい。まるで、訪れる者の体を優しく包んでくれるかのようであった。ここの館長の、3月に奈良県から移住した辻本髙廣さんが案内してくれたのが幸いで、主に友とのやり取りを二人のそばで拝聴していたのだが、サラリーマン時代に収集したコレクションを中心に展示してあるとのこと。絵画のほかに、備前焼の人間国宝・藤原雄らの作品も、小品ながらもさりげなく陳列してある。
 いずれの作品も、ふさわしい場所を与えられているかのようで、館長の解説付きで、絵にも詳しい友達を持つことの幸運にも思いいたった次第だ。1階から2階へ、それから元の階に戻り、落ち着きどころで温かい飲み物を頂戴する頃には、えもいわれぬいい気分になっていた。

(続く)

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◻️138の2『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)

2019-11-28 23:13:51 | Weblog
138の2『岡山の今昔』吉備中央町(加賀郡)
 
 加賀郡の吉備中央町は、2004年10月に、加茂川町、賀陽町が合併して発足した。
 南部は、有名な吉備高原に含まれる。楓や漆、紅葉などが生えている、「宇甘渓自然公園」(うかんけいしぜんこうえん)もある。交通の便は、岡山自動車道賀陽ICから岡山県吉備中央町の宇甘渓自然公園まで、車で約25分にて、赤い橋がシンボルの「宇甘渓自然公園」には着くという。
 そこでは、宇甘川が極度に狭まり、激流が岩を削って奇岩・音岩のそそり立つ山肌が見える。宇甘川に面した斜面は非常に急峡であり、またツガやモツを主とする天然林でもあることから、吉備清流県立自然公園にも指定されている。そういうことから、「春の桜や冬の雪景色と四季を通じて景観が美しい」という。殊に、秋ともなれば、大勢のウォーカーが訪れるという。
 さて、このあたりの町起こしということでは、昔も今も、人を呼び込むのが近道であろうか。ここで幾つか紹介したい。それというのも、町内の上野地区に、会話は「英語オンリー」を掲げる古民家宿が2013年からあり、世界を旅しながら日本の田舎暮らしを求めて訪れる外国人と、彼らとのふれあいを求める日本人とが泊まり込みで交流する場となっているという。
 その場所は、町のほぼ中心の小高い山を登った先にある「岡山英語村ナノビレッジ」という施設で、ある新聞記者が訪ねると、宿の軒先で外国人ら8人が出来立ての餅をほおばっていたという。聞こえてくる言葉はすべて英語だというのは、なんとも敷居が高い。
 それでも、アメリカやオランダ、フランスなど様々な国から外国人がやってくるらしく、その人たちは、京都や奈良、東京などでの名所旧跡や賑やかな観光地では「お好み」ではないらしい。そんなことよりも、日本人の生活そのものを知りたい、ざっくばらんに国際交流したいというのであろうか。そんな外国人や日本人たちが長い人では2週間~1カ月ほど滞在することが多いというから、驚きだ。
 二つ目に紹介したいのは、山陽新聞デジタル版(2019年11月6日付け)で見つけた、自然を頼みに人を呼び込むにはどうしたらいいのだろうか、その回答らしき一つが、こうある。
 「秋の深まりとともに、岡山県吉備中央町の吉備高原にも雲海の季節が到来した。「雲海の里」として知られる長丸(ちょうがん)集落(同町高谷)では6日早朝も、真っ白い大海原が出現。合間から山々の頂がぽっかりと浮かび、幻想的な情景を描き出している。
 雲海は、放射冷却で地表付近の気温が下がり、空気中の水分が霧になる現象。気温が低く快晴となった山間部や盆地で発生しやすく、明け方の数時間だけ観察できる。
 同町のほぼ中央に位置する長丸集落の標高は約300メートルで、眼下に広がる景観は刻一刻と変化。灰色だった雲海は日の出とともにオレンジ色に輝き、徐々に明るさを増して白色に。山々も黒から緑へと表情を変えていった。
 町観光協会は「見ごろは来年2月ぐらいまで。早起きして、素晴らしい光景を目に焼き付けて」としている。」
 これなどは、今時のテクノロジーを駆使しても、なかなかに得難いのではないだろうか、自然現象にはひとの心を洗ったり、癒したり、あるいは「励起」したりもする。ネットに出てくる写真には泣けるようだし、早朝のトレッキングにはもってこいの場所ではないだろうか。ついでに、景色を眺めながら、持参のおにぎりを食べるのも、良い思い出ができるのではないだろうか。

(続く)

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◻️232の12『岡山の今昔』岡山人(20世紀、林原一郎)

2019-11-27 18:38:43 | Weblog
232の12『岡山の今昔』岡山人(20世紀、林原一郎)

 林原一郎 (はやしばらいちろう、1908~1961) は、実業家である。しかも、美術品な収集家の顔を併せ持つ、個性派であった。大阪商大を卒業する。
 林原家は、1632年(寛永9年)から 岡山で米を扱う御用商人として羽振りがよかった。 1883年(明治16年)には、その財を元に初代の林原克太郎が林原商店を創業する。 水飴製造を始める。
 やがての1934年(昭和9年)、一郎は、家業の林原商店をつぐ。戦後は、カバヤキャラメルなどの菓子や牛乳の製造販売で林原グループの基礎をきずく。やかて、食品以外にも、ホテルや製紙、印刷から運輸、さらに観光、不動産なども手掛けるという複合経営を行う。 
 1959年(34年)には、酵素によるブドウ糖製造法を開発する。あれやこれやで、巨万の富を築く。その彼が52歳をもって他界し、息子の健氏が四代目となってからの1961年(昭和36年)に財団を設立する。続く1963年にコルビジェの弟子・前川国男の設計で工事に着手する。
 そして迎えた1964年(昭和39年)に施設が完成。同年10月、旧藩主池田家当主宣政の協力を得て、岡山市丸の内に岡山美術館として開館する。
 所蔵するのは、刀剣や武具を中心に、絵画、書跡、能装束、工芸品、それに陶磁器など約 4000点であり、一郎が事業の傍ら集めたものだという。なかでも、卓越した審美眼で、藩主池田家の蒐集品以外にも優れた作品を精力的に手に入れていったという。
 それにしても、儲けを目的とする事業の他に、かれを駆り立てたものは、何であったのだろうか。その後の岡山県立美術館設立があり、1986年9月に林原美術館と改称し、今日に至る。

(続く)

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◻️211の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、信野友春)

2019-11-26 22:53:05 | Weblog
211の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、信野友春)

 信野友春(しなのともはる、1890~1970)は、教育家にして歴史研究家だ。広島県世羅郡広定村の生まれ。1908年(明治41年)に、広島県私立日彰館教員養成所を卒業する。広島県内での尋常高等小学校本科正免許状を取得していて、大まかな人生航路はもう定めていたようだ。
 1912年(明治45年)には、今度は私立日彰館中学校を卒業する。同年3月には、広島県豊田郡椹梨(しんり)尋常小学校訓導にあたる。その間に、さらに公立実業補習学校教員資格を取得したというから、後々での「二足のわらじ」にも通じるかのような、なかなかの意気込みが感じられる。
 その後、広島県下各地の小学校・補習学校に勤務し、15年間を過ごす。1924年(大正13年)7月には、中等教員免許状「歴史科の内、日本・東洋」を取得する。10月宮崎県立宮崎中学校に転勤する。長らく温めてきた希望がかなったのであろうか。
 1927年(昭和2年)には、岡山県立高梁中学校の教員として備中高梁にやってくる。赴任後、この地の松山城に非常に興味を持ち、研究していく。
 思い起こせば、1873年(明治6年)には、廃城令が公布され、備中松山城は新政府によって商家に売却された。まるで、「使い道がないので、どうにでもしてくれ」と言わんばかりに。それでも、険しい山の上という、あまりにも不便な場所にあることから、建物は解体されることなく放置される。
 それからかなりの時が流れての、彼が見た城は、崩れ落ちるかのよう、かつては衣装を凝らしたかのような壁であったのが、もはや失われていたという。
 息子の友文や、友人の高見彰らに測量を手伝ってもらい、現状を伝える作図と注釈などに取り組む。それらに貫かれていたのは、「ひたむきな精密さ」とでも形容しようか。そして迎えた2年後に『備中松山城及其城下』をまとめる。同年11月、これが高梁方谷会より「備中松山城及其城下」として発行された。
 この著によって、多くの人が松山城の真価を知り、市民の間に、再建の機運増していく。そして迎えた1940年(昭和15年)から、当時の高梁町により天守閣の解体大修理の事業がなされていく。

(続く)

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◻️101の4『岡山の今昔』早島町(都窪郡)

2019-11-26 20:21:51 | Weblog

101の4『岡山の今昔』早島町(都窪郡)

 早島町(はやしままち)は、都窪郡(つくぼぐん)の唯一の自治体だ。そもそもは、1889年(明治22年)、早島村と前潟村、矢尾村が合併して、早島村が生まれた。1896年(明治29年)には、それまで早島村であったのが、町制を敷く。現在は、岡山市と倉敷市に隣接している。岡山県内で、最も小さな自治体だ。

 交通の便利は、すこぶるよいのでは。東西を国道2号と山陽自動車道が、南北を瀬戸中央自動車道が通る。これを幸いに、大型団地や流通施設が進出、都市化が進展してきた。なかでも、町の北部岡山県総合展示場コンベックス岡山がある
 産業としては、かつては干拓地でも育つイグサ栽培が盛んであった。それに、伝統の早島表(おもて)など畳表・花筵(はなむしろ)の生産地として知られた。やや遡るが、1990年でみた特産物のい草の県生産量は1040トンで、全国でのシェアは1.2%だった。また畳表の県生産量は11億9300万円で、全国の12.5%のシェアを持っていた(岡山県「統計でみる岡山のすがた」1992年版)。
 さらに、今では電機・綿紡績・機械工場などがある。

 2005年には、現在の町づくりの基本となる「町づくり憲章」を定めた。その中には、こうあるという。

「1.豊かな未来をきずくために、『町民総参加のまちづくり』を進めます。

2.ふれあいの輪をひろげるために、『地域福祉のまちづくり』を進めます。

3.町民が未来に向けて誇れるために、『水と緑の美しいまちづくり』を進めます。

4.未来をひらく人づくりのために、『生涯学習のまちづくり』を進めます。

5.安全で快適な環境づくりのために、『生活優先のまちづくり』を進めます。」

 


(続く)

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◻️128の1『岡山の今昔』和気町(和気郡)

2019-11-24 18:49:59 | Weblog

128の1『岡山の今昔』和気町(和気郡)

 瀬戸内海に沿って備前を西に行くと、そこは和気(わけ、現在の和気郡和気町)、赤磐市(あかいわし)がある。山陽本線の上郡から西へは、兵庫県との県境を越えて岡山県の吉永、和気とたどっていく。
 現在の和気町は、2006年の合併によりできた。岡山県の南東部に位置し、面積は約144平方キロメートルと、広くない。地形は、中心部に小盆地があるものの、山や川、田畑が広がる。
 人口は1万450人を数える。
JR岡山駅より電車で約30分のところにあり、自然あふれることでの魅力がたっぷりだとつたわる。
 当地においても、悩みは人口減少なのだが、思いきった取り組みが進められている。
 同町がまとめた、住民基本台帳に基づく2017年人口動体態によると、この1年間で47人が増えたという。内訳は、転入が459人に比べ、転出が410人ということで、中でも、結婚や転勤によるのを除いた定住目的の移住者が106人てあった。
 この町の重要視するのは教育とのことで、かの閑谷学校からの伝統なのか、とにかく素晴らしい。目玉は、2016年度に小中学生に無料公営塾を開いたり、2017年度には中学校に英語特区を導入している。

(続く)

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◻️211の21『岡山の今昔(19~20世紀、児島虎次郎)

2019-11-24 08:44:19 | Weblog

211の21『岡山の今昔(19~20世紀、児島虎次郎)

   児島虎次郎(こじまとらじろう、1881~1929)は、現在の高梁市成羽の出身、日本における印象派の代表的な画家の一人だ。

 1902年(明治35年)には、上京して、東京美術学校西洋科に入る。1904年(明治37年)に東京美術学校西洋科を卒業する。成績優秀で、飛び級したという。1906年の作品に、「登校」というのがあって、母と娘が連れだって、平ら地の林間をゆったりあるいている。研究科に進み、1907年(明治37年)には、東京府主催の勧業博覧会美術展にて一等を受賞する。
    1908~1912年には、ヨーロッパに留学する。大原家の援助があった。それからは、色彩豊かにして温かい雰囲気を醸し出す作品が多い。風景画では、「ベゴニヤの畠」や「酒津の秋」などが有名だ。花や木に包まれた人がたのしげにいたりしていて、こちらは観ていて心地よい。日本の風景というよりも、どことなく、パリ郊外の野や原っぱのような気がしないでもない。
 人物画は、こちらをちゃんと見ているものが多いようだ。女性の落ち着いた、静かな表情に、こちらもゆったりした気分に浸れる。また、自画像らしきものもあり、こちらは控え目ながらも、少し気難しい性質が表れているようなのだが。

 児島には、20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫三郎という友達がいた。大原は、紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。大原は、野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島に、西洋風の美術館をつくる夢を託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国や朝鮮、エジプト美術なども加え収集に精を出す。

 実にたくさんの西洋絵画などを現地で探し、大原に送り、それらが基礎となり、今日の大原美術館の所蔵ができていく。この二人の友情なくして、倉敷文化の一大快挙は望めなかった。彼こそは、文化・芸術の地方都市・倉敷の草創期を現出した恩人の一人だといえよう。

(続く)

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◻️129の2『岡山の今昔』久米南町(久米郡)

2019-11-24 08:25:31 | Weblog

129の2『岡山の今昔』久米南町(久米郡)

 久米南町は、北から東を三咲町、南を赤磐市と岡山市、西を吉備中央町に囲まれる。
 悩みは、県内1位の高齢化率41.9%(2015年10月時点、岡山県「岡山県の高齢者(65歳以上)の市町村別状況」より)だという。

 そんなところに、2016年、株式会社パソナ岡山(本社は岡山県岡山市)が、岡山県久米南町で独立就農や地域活性化に取り組む人材を育成する『くめなんガールズファーム』を立ち上げる。
 このファーム』では、パソナ岡山がメンバーを最長3年間雇用し、「日本の棚田百選(農林水産省)」にも選ばれた上籾地区の棚田等において、栽培管理・収穫・出荷などの農業実習を行うとのこと。
 また、町内農家と連携した研修や「道の駅くめなん」でのレストランやカフェ、アンテナショップを開く。町が、それらを支える役割を担う。
 この場合、パソナ岡山の収益は、「ガールズファームの野菜の売り上げと、籾(もみ)庵の収益のみ。町から委託金が出たのは初年度だけで、給料も支払わなくてはならない。しかも、3年間の契約期間が終われば、彼女たちは巣立っていく」(取材・小田礼子「企業の就農支援で誕生した農業女子」、「でぽらDePOLA」51号)のだという。
 人が命をつないでいくのには、それなりの環境が保たれておらねばならない、そのことを今さらながら、気づかせてくれる。 

 二つ目には、ハスの花にちなんだニュースから、地元紙にこうある。

 「岡山県久米南町宮地の「宮地やすらぎの里」でハスが見頃を迎えた。濃い緑の葉の間から、ピンクや白色の花がふっくらと顔をのぞかせ、訪れた人の目を楽しませている。14日は「はすの花まつり」が開かれる。
 地元住民が1997年、休耕田に水を引いてハス園(約60アール)を整備した。現在は、赤系の八重咲き種「誠蓮(まことばす)」や白い花弁の先がほんのりと紅色がかった「酔妃蓮(すいひれん)」、一重咲きの古代種「大賀ハス」などが咲き競う。
 早朝から午前10時頃までが見頃。葉にたまった朝露や雨粒がこぼれ落ちる様子がしっとりとした風情を醸している。7月いっぱいは楽しめるという。(中略)
 まつりは午前10時スタート。川柳傘踊りや久米南中学吹奏楽部、蓮花太鼓などのステージがある。ハスの実が入ったおこわなどが販売され、ハスの葉を煎じたお茶も振る舞われる。
 国道53号沿いの「道の駅くめなん」(久米南町下二ケ)周辺に道案内ののぼりを立てている。」(2019年7月13日 、山陽新聞テジタル)

 それにしても、三種類のハス競演とは珍しい。それから、「ハスの実が入ったおこわ」とはどんなであろうか。さらに、「ハスの葉を煎じたお茶」とは、さぞかし苦いのではなかろうか。

(続く)

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◻️269『岡山の今昔』西日本集中豪雨(2018.7)

2019-11-21 21:11:17 | Weblog

269『岡山の今昔』西日本集中豪雨(2018.7)

 1893年(明治26年)の10月には、岡山県下全域で前年に続き洪水が発生し、甚大な被害があったという。仔細には、死者が415戸、全壊家屋が6,105戸、床上浸水が5,0100戸に、山崩れ12,675か所などであったという。その中でも一際厳しい状況であったのは、県南にさしかかるあたりからの高梁川流域の西、成羽川(なりわがわ)より下流の高梁川(たかはしがわ)沿い、小田川(おだがわ)沿い、それに成羽川沿いなどであった。

 それから百年以上が経過しての、2018年7月には、広島、愛媛そして岡山の3つの県に跨がる大きな被害が出た。その中でも、年間を通じて雨が少なく、自然災害の少ないことで言い習わされてきた岡山の県南地区が、その場所となった。

 この年の梅雨前線の停滞は、オホーツク海高気圧と太平洋高気圧に挟まれた形で起きた。その活発化は、台風7号から変った温帯低気圧が影響したという。また、暖かく湿った空気の流入は、太平洋高気圧の勢力が強まって南風が流れ込んだうえ、東シナ海付近の水蒸気を多く含む空気が南西風に乗ったためだ。

 これによる最も大きな被害を受けた地区が、倉敷市真備町であって、まずは地理的な状況を簡単に説明しよう。高梁川の下流域西岸には、平野が広がる。そこを西から東へ小田川という高梁川に流れ込む支流が流れる。その小田川の支流に高馬川(たかまがわ、ほぼ北側から流れ込む)、末政川(すえまさがわ、南西の方角から流れ込む)などがあって、北から西から水が集まってくる。そこに、今回高梁川の上中流で大量の雨が降ったこと。それは生き物のようで、時々刻々と変化していく。
 多くの人びとが異常に気づく頃には、小田川から水が注ぎ込む地点での高梁川の水位はかなりの高さになっていた。そのことで、小田川からの水の流れが高梁川本流に合流できないばかりか、ついには小田川へと逆流を始めたという。そうなったことで、小田川の北岸に広がる真備の平野は水浸しの脅威に晒されて行くのであった。
 7月6日の午前11時30分には、倉敷市全域の山沿いに避難準備・高齢者等避難開始の発令があった。午後7時30分には、市全域の山沿いに避難勧告が出される。

 そして迎えた午後10時になると、真備町全体に避難勧告が出る。続いての午後10時には、気象庁が市に大雨特別警報を出す。午後11時半前、小田川に達する少し前の地点で高馬川の堤防を水が乗り越え、あふれ出した。一気に増水したという。午後11時45分には、小田川南方の真備町に避難指示が出される。

 日が改まっての7月7日の午前0時頃、西側の堤防が決壊した。濁流が地域に流れ込み出す。0時47分には、市が国土交通省岡山河川事務所からの小田川右岸で越水との緊急連絡メールを確認した。

 午前1時30分には、小田川北側の真備町に避難指示があった。1時34分になると、「高馬川が異常出水」との連絡が倉敷市災害対策本部に入った。これにより、市が小田川の支流・高馬川の堤防決壊を確認した。

 午前2時には、地域への本格的な浸水が始まった。それより東を流れる末政川でも、7日の午前0時頃に決壊が始まったようだ。3か所の決壊が発生した。
 その後、浸水域は周辺ばかりでなく、東部へと拡大していった。水位も変化し、住宅に濁流が流れ込んで行く。7日の午前3時40分には、倉敷市真備支所から災害対策本部に「浸水のため停電」の連絡が入る。7日の午前6時52分には、国土交通省が小田川北岸の小田側と高馬川の合流地点付近で、小田川の堤防が約100メートルにわたって決壊しているのを確認した、

 さらに、10日に国交省が発表した調査報告によると、高馬川の上流から南に延びる真谷川(まだにがわ)でも決壊しているのが見つかったという。

 以上はまだ混乱にある中での情報の一端であったのが、発生から1週間後の真備の状況については、こう伝わる。

 「国管理で決壊したのは岡山県倉敷市を流れる小田川。都道府県管理では岡山、広島両県で各十河川が決壊、最も多かった。その他は山口県の一河川だった。

 小田川は左岸の二カ所で堤防が決壊、それぞれ五十メートルと百メートルにわたって切れた。近くの高馬川も決壊し、流域の倉敷市真備町地区(人口約二万二千人、約八千九百世帯)では最大約五千世帯が浸水。地区の約三割の約千二百ヘクタールが水に漬かり、死者は五十人に上った。

 小田川は同地区を流れる高梁川の支流。水位が高まった川が支流の流れをせき止める「バックウオーター(背水)現象」が起こり、決壊したとみられている。倉敷市では小田川以外の三支流でも決壊が確認され、支流の一つである末政川では計三カ所で堤防が切れた。」(中日新聞、2018714日付け)

 参考までに、この地域を含む、かかる豪雨による岡山県内の被害は、どれ程であったのだろうか。まず人的な被害としては、死亡者が79人、うち災害関連死が18人。行方不明者は3人、重傷は16人、軽傷は161人。住家被害としては、全壊が4830棟、半壊が3365棟、床上浸水が1541棟、床下浸水が5517棟であった。事業所などでの商工被害は、約210億円。農産物・農地などでの農林被害は、約267億円。それから土木施設の被害は、約346億円であったという(以上、岡山県危機管理課「平成30年7月豪雨災害の検証とその対応」、日本防火・防災協会「地域防災」2019年8月号に所収)。


(続く)

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154の1『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ(餅など)

2019-11-20 10:45:26 | Weblog

154の1『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ(餅など)

 岡山の地での餅の食べ方は、どんなであろうか。まずは、雑煮からいうと、有名なのは、鰤(ぶり)の入ったものだという。主に岡山市をはじめ県南にみられるものの、内陸部の高梁市のあたりでも、こんな「ぶり雑煮」の紹介が寄せられている。
 「高梁のお雑煮といえば、丸いもちにハマグリ、だいこん、ユリ根などを入れますが、忘れてはいけないのが、大きめに切った「ブリ」です。うま味豊かで、あっさりとしたお味はお正月から幸せな気分にさせてくれます。」(高梁市産業観光課「高梁市スーパーガイドブック」2018に取得)
 一方、津山市のあたりでの雑煮としては、丸い餅に、長ネギ、ほうれん草、鶏肉、スルメが入るという。汁は、味噌(白、普通どちらでも)ベース、醤油ベースのどちらでも。昔は、鯨肉も入れてあった。汁の味としては、かなり濃いめであろうか。

 これが美作市のあたりになると、だしには昆布とスルメ、はまぐり、いりぼしを加えるらしい。これなら、ずいぶん贅沢な味になるのではなかろうか。野菜には水菜、かまぼこも入れたりで、カラフルだ。鍋が湯だってきたら、予めゆでておいた餅を入れる。食べる時には、花かつおをたっぷりのせるとのこと。

(続く)

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161『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小堀遠州)

2019-11-20 09:47:45 | Weblog

161『岡山の今昔』岡山人(17世紀、小堀遠州)

 小堀遠州(こぼりえんしゅう、名前は小堀政一、1579~1647)は、武将、大名にして、「遠州上流茶道の祖」たどとして、あまねく知られる。

 近江国(おうみのくに)小堀村(現在の滋賀県長浜市)の生まれ。父の、備中国幕府領の奉行を務めていた小堀正次が1604年(慶長9年)に死ぬと、あとを継いで同領の奉行となる。父から1600年に一万石の遺領を受け継いだという。

 彼は、駿府城、禁裏、二条城などの作事にも携わる。高梁に来てからは、江戸幕府の権威を高めるべく、備中高梁の小松山の中世山城の遺構(「御根小屋跡」)の上に、新たな陣屋を建設する。これは、小松山の山城に対して「下屋敷」と言い慣わされる。

 1604年(慶長9年)から1619年(元和5年)までの備中国奉行(松山城代)を務めるうちに、数々の創作をものにしていく。名門の武家ながらも、当時すでに茶の湯や作陶(将軍家茶道指南)、はては庭園づくりなどの大家になっており、多芸多才といおうか、武人としての本業よりも、むしろこの方面での活躍で、当地でも名をはせていく。

 下屋敷には、茶室と庭園をつくった。それも、部下に命じ「つくらせた」というのではなくて、設計などに関与して「つくった」ということになろうか。その気風としては、「綺麗さび」とも評される。こちらの彼のつくった庭は、今は高梁高等学校の校庭に残っているようだ。

 遠州が備中で策定したもので有名なのが、忙中閑ありでつくったらしい、市内頼久寺(らいきゅうじ)の庭園である。こちらは、枯山水で、規模も小さいものの、彼岸と此岸を石の配置に見たてて表現したり、部屋の中の窓から覗き見る類の演出とか、植え込みの妙、さらには背景の山との一体性の協調とか、いくつもの工夫が指摘されているようだ。

 これを訪れた人が庭に出てみると、後ろに借景の愛宕山(あたごやま)があって、「天地の縮景はまた、永久の生命を空間の一点に凝縮させた」(宮崎修二郎「吉備路」保育社)とも評される。それでいて、小ぶりな庭園ならではの、何かしら安らぎを感じさせる雰囲気も兼ね備えているかのようで、ならばありがたい、ぜひ拝観してみたい。

(続く)

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◻️261の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、苅田アサノ)

2019-11-20 09:32:27 | Weblog

261の3『岡山の今昔』岡山人(20世紀、苅田アサノ)
 
 苅田(かんだ)アサノ(1905-1973)は、津山町(現在の津山市)の生まれ。家は、代々、地主で造り酒屋というから、かなり恵まれていたことだろう。日本女子大学を卒業する。
 その頃からであろうか、ロシア文学とかに傾倒していたと聞く。稀代の作家たちの、お馴染みの長編にも、親しんでいたのではないか。そのうちに、社会運動に関心を持ち出したようだ。
 1931年(昭和6年)には、共産党に入党する。1933年(昭和8年)には、検挙される。のち郷里の岡山県にかえり、民間の仕事につく。戦後は、共産党の岡山県委員として働く。もはや、社会主義者に迷いはなかったらしい。
 1949年(昭和24年)には、旧岡山1区から衆議院議員に出馬し、当選を果たす。この選挙で、多くの女性が政界に出る。その後の1952年の選挙では再選ははたせなかったものの、党中央委員、新日本婦人の会代表委員、国際民主婦人連盟評議員といった要職をこなす。
 晩年は東京に住んでいたのであろうか、それでも郷土を気づかう心意気を持ち続けたという。それから彼女の端正な姿の写真では、何かしら、ひたむきさが連続して、止まるところが少なかったのではないか。凛々しいのみならず、その笑顔を撮ったものがあるなら、見てみたい。

(続く)

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◻️139の2『岡山の今昔』西粟倉村(英田郡)

2019-11-20 07:17:41 | Weblog

139の2『岡山の今昔』西粟倉村(英田郡)

 西粟倉村は、奥深い山間地に位置している。人口は、2019年春時点で1468人、高齢化率36%だという。1889年(明治22年)の町村制施行以来、他の自治体との合併はない。
 このあたりには、江戸時代から因幡街道(いなばかいどう)が通り、鳥取へと通じていた。山間地には違いないものの、現在は、吉野川沿いに国道373号、鳥取自動車道が通じている。国道から少し歩くと中国山地の深い森に出くわす。第三セクター鉄道の智頭急行で行くこともできる。
 さて、この村を全国的に有名にしているものは、約58平方キロの村面積のうち95%が森林、そのうち85%が人工林だという。これを管理しているのが2017年10月に設立された「百年の森構想」だ。移住者が起業し、村全体が支援を惜しまないのは、さすがだ。
 そんな村が計画した「百年の森林(もり)構想」というのは、地元の資源を有効活用することを基礎に、みんなして暮らしていこうとするものだ。
 具体的には、「なかなか手入れの行き届かない民有林を村が預かって所有者の代わりに手入れをする。そうして出た間伐材は、従来のように市場に流すのではなく、用途に応じて付加価値を付けて活用・販売し、山に経済の循環を生むというものです」(青木秀樹・西粟倉村村長「森林資源を活かす「百年の森林構想」ーローカルベンチャーが誕生し、雇用を創出ー」、「地域づくり」2019年3月号所収)とある。
 その一環として、取り組んでいるのが、地域資源エネルギーであって、森林から切り出される木材を、余すことなく活用したい。ついては、間伐でそのままだと切り捨てられる木材に目をつけ、森林バイオマスによる、再生可能エネルギーの自給率100%の地域づくりを目指すのだという。

 たとえば、化石燃料に代わる熱エネルギー利用を考える。それが、温泉加熱の「薪ボイラー化」という取り組みにして、年間約20万リットルの灯油を使って温泉を温めていたのを。そのエネルギー源を間伐材のバイオマスに変える。これだと、約千平方メートルの木材が生産的に消費できるばかりでなく、空気中への二酸化炭素の排出量を493トン削減ができると見込む。

 また、つぎのようにも紹介される。

 「百年の森林構想は、他にも多くの木材関連のローカルベンチャーを生み出している。2009年には、木工房「ようび」が起業した。岐阜で家具を作っていた代表の大島正幸氏は、ヒノキで家具作りに挑戦したいと考えていたところ百年の森林構想を知り、応援したいと村に移住した。(中略)2015年に起業した(株)SONRAKUは村のエネルギー事業会社。木材から薪を製造し、温泉施設の薪ボイラーを管理して熱エネルギーを供給している。」(上山隆浩「地域資本の価値を向上ーローカルベンチャーの起業支援戦略」、一般財団法人地域活性化センター「地域づくり」2019年10月号)

 なお、「2017年に森の学校から分社化したエーゼロは村と協働し、ローカルベンチャーの育成事業を実施している民間の中間支援事業者である」(同)旨。

 そうこうしているうちに、取り組みは進化していく。その甲斐あってであろう、ローカルベンチャー拡大について、こう言われる。「2009年に始まった百年の森林事業は10年が経過し、村内で起業したローカルベンチャーの数は34社に上っている。これにより創出された雇用は約180人となっており、その売上額は約13億円だ。村にリターンしたのは180人で、そのうち約140人が定住している。村の人口が1454人(2019年3月末)であることから、住民の約1割を占めるまでになっている。」(同)

 続けて、こうある。

 「村では雇用の場をつくるのではなく、起業家の育成を主目的としてじを推進してきた。このため、起業による経済効果だけでなく、移住した起業者が減少・高齢化するコミュニティの維持や消防団活動をはじめとする地域レジリエンス向上の主体となった。」(同)


(続く)

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◻️192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴原宗助)

2019-11-20 06:37:32 | Weblog

192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19世紀、柴原宗助)

 柴原宗助(しばはらそうすけ、1847~1909)は、宗教家、地方政治家、教育者だ。後月郡井原村(現在の井原市井原) の柳本甚八郎の二男に生れる。

 幼少の時興譲館で阪谷郎廬に学ぶ。大阪で薬局に勤める。その4年後、京都で新島襄の同志社で学ぶ。
 帰郷後高梁本町の酒造業、柴原家の養子に入る。1868年(明治元年)には、酒造業のほか柴原文開堂を開店し、書籍・文具・小間物・薬の販売、書籍の出版、郵便引受などを扱う。
 1878年(明治11年)には、学習結社「開口社」を赤木蘇平等と設立し、自由民権をいう。翌年2月、上房郡(じょうぼうぐん)から初回の岡山県議会議員に推されて当選する。千葉県の桜井静の「国会開設懇請協議案」に刺激を受けたらしい。自由党に属し、板垣退助や後藤象次郎などと親しくなっていく。山陽諸県県議会議員連合会の設立や、国会開設運動や民選議員選出請願運動に取り組む。
 さらに同年10月には、中川横太郎と金森通倫(かなもりみちとも)を高梁の自宅に招き、キリスト教の宣教の講演会を開く。その後の1880年(明治13年)2月に高梁にやってきた新島襄(にいじまじょう)を、仲間とともにもてなす。
 ちなみに新島は、その時のことを妻にこう手紙にしている。

 「十九日にも矢張り多くの人々参り、中々少しの暇もなく候。十八日の朝には、宿より抜出し運動の為松山の城山に登り申し候。其登りは二十町余り、途も中々瞼岨にして登り難く、城も余程厳重に築き立、昔の弓矢ではトテモ落城には難及と存候。其所は四方皆山なり。地も殊に高くして水の流る事甚急なり。此所より底の平タキ船にて海迄運送之便利も能く、山の中とは申、至て繁華したる地なり。家数は千余も有之候。尚中々開化風にて夜も所々ランプも付き、暗夜といえども差支はなし。

 牛乳もあれば牛肉もあり、唐物見世も沢山にあり、書店もあり、何も格別不自由のなき所に御座候。例の開化と申して芸娼妓も随分多きよし、淫風盛んにして甚困りたる事なり。尤福音の種を播くには存分好所と存候。私山より帰り懸けに、昔大和にて中山殿に随ひ一揆を起し、敗軍に及ヒテ生捕となつし私の旧友原田亀太郎と申者の家を尋候に、老父煙草、屋市十郎存命にあられ、私に昔話をなし、袖に涙を絞りつつ、大和の軍より遂に亀太郎の京獄に入れられ、獄中より父にあてし文など示めし呉、私に逢ひしは伜に逢ひし同様と中され、大に喜び呉候。」

 1882年(明治15年)には、高梁でのキリスト教会設立の中心となり、働く。この年、金森通倫の導きによって福西志計子ら14人と共に洗礼を受ける。

 1898年(明治31年)には、郷里の人々に懇願され井原町長に就任する。それからの約8年間を、町制発展のために尽くす。


(続く)

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◻️232の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、近藤鶴代)  

2019-11-19 19:20:18 | Weblog

232の14『岡山の今昔』岡山人(20世紀、近藤鶴代)
 
 近藤鶴代(こんどうつるよ、1901~1970)は、政治家。 八束村(現在の真庭市)の生まれ。同村で4歳まで暮らす。岡山高等女学校(現在の操山高等学校)へと進んだのには、家庭が比較的裕福であったのだろうか。

 1904年(大正13年)に、東京の日本女子大学家政科を卒業する。岡山県山陽高等女学校、岡山第一高等女学校各教諭を務める。

 1946年(昭和21年)には、戦後第一回の衆院議員(岡山全県1区、定員10)に3位当選を果たす。国会議員への転身には、「衆議院議員の兄が公職追放された」(山陽新聞、2014年1月18日付け)のがきっかけとなったらしい。

 以降4回続く。のち参院議員に転じ当選2回という人気ぶり。その間第2、第3次吉田茂内閣の外務政務次官、1962年(昭和37年)には、第2次池田勇人内閣の科学技術庁長官、原子力委員会委員長となった。

 その間、寒冷地農業への助成や津山高専の開校にも力を注」(同紙)いだとつたわる。

 1968年(昭和43年)に国会議員を引退するまで、自由党、自民党といった保守派閥での女性議員の代表格として振る舞う。登院の際には、着物姿で、落ち着いた物腰であったという。
 その政治家としての初心は、「女性の地位向上」とのことで、苅田アサノとは立場は違ってはいたものの、互いに尊敬する間柄であったらしい。「政治は義理と人情だ」とか「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの気さくな言葉でも知られる。

(続く)

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