◻️79の2『岡山の今昔』山陽道(須恵器から備前焼へ、その製造技術の発展)

2019-08-31 23:51:01 | Weblog

79の2『岡山の今昔』山陽道(須恵器から備前焼へその製造技術の発展)

 私たちが今日知るところの備前焼(びぜんやき)は、古代からの「須恵器(すえき)」の発展としてある。前者での製造技術が、日本で変化を遂げて初めて作り上げられてきた。それが、今から約800年前の鎌倉期にいたり、開花期を迎える。
 この須恵器(すえき)だが、同時代に作られていた土師器(はじき)に比べると、堅ろうで割れにくい。そのため、平安時代末期になると庶民の日用品として人気を集めていく。こうして備前の伊部(いんべ)の南方の地方(現在の牛窓町や邑久町あたり)で発展した須恵器は、鎌倉時代中期には完成の度合いをつよめていく。

 しかも、室町期に入ると、この須恵器が、各地で備前焼、越前焼、信楽焼、瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などに発展していくのであった。顧みるに、室町の文化の一つの特徴は、生活様式の侘(わ)びとか寂(さ)びの境地に相通じるものであったろう。備前焼については、その素焼きの美しさ、飾り気のない渋みを楽しみたい、風雅人に好まれ茶の湯の席にて頻繁に使われたのだという。 
 やがて安土桃山時代に入ると、備前焼きの愛好は黄金期を迎えるのだった。さらに江戸期に入ると、備前岡山藩主の池田光政が郷土の特産品として備前焼きを奨励するに至るうち、朝廷や将軍家などへの献上品としても名を成していく。従来の甕や鉢、壺に加え、置物としての唐獅子や七福神、干支の動物へと広がる。高級品ばかりでなく、庶民を対象にした酒徳利や水瓶、擂鉢などにも用途が及んでいくのであった。

 それでは、備前焼の製造の仕方は、どのように発展してきたのだろうか。備前焼は、その昔古墳時代に朝鮮から伝わって生産されていた「須恵器(すえき)」が発展し、変化を遂げて作り上げられたものといわれているものの、確かな由来は突き止められていない。焼き物というと、まずは土であり、これをどのように調達するかが大事だろう。これを供給するのは、「伊部の田圃の底に眠る、黒っぽい陶土」((株)ナック映像センター・田邊雅章編著『ふるさとの匠と技~中国地方の伝統工芸』第一部、中国電力(株)広報部、1993より)とのことであって、「手間ひまかけて慈しむように仕込み、焼物として使いやすいように充分に練り上げ」(同)る。
 こうして土が出来たら、今度はそれを大量に焼かねばならない。製造設備の要となるのは、やはり窯であろう。室町時代の終わり頃から安土桃山時代を経、さらに江戸時代にかけて備前焼が焼かれていた窯(かま)の跡ということでは、伊部(いんべ)南大窯跡(現在の備前市伊部)が有名だ。
 東側窯跡・中央窯跡・西側窯跡の三基からなり、一番大きな東側窯跡は長さが約54メートル、最大幅が5メートルもあり、窯の中に仕切りのない窯としては国内最大級の窯であった。これまでの市の発掘調査で、東窯跡の中央には40本近くの柱が並んでおり、窯の天井がそれらにより支えられていた。また、窯の側面には焼き物を出し入れする入り口があったこと、江戸時代前半にやや小さな窯につくりかえられていたことなどがわかっている。

 備前焼を他の地域の焼物に対し特徴付けるものとして、前述のように釉薬(ゆうやく、「釉」(うわぐすり))を一切使用しないことがあるのだが、摂氏1200度から1300度の高温で焼成する焼締めるとのこと。その素朴な中にも深い味わいというか、古からの趣を感じさせるというか、それらは全体として土の性質や、窯への詰め方や窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出されるものだろう。人によって描かれる紋様はないらしい。それでいて、備前焼は、一つとして同じ色、同じ模様にはならないといわれる。茶褐色の地肌は、備前焼に使われる粘土の鉄分によるものだという。
 2015年2月9日に放映された「日曜美術館」においても、「銀行頭取を務めた陶芸の巨人!川喜田半泥子、▽桃山に学んだ自由奔放な傑作」の中で、その類稀なる伝統ならではの陶器のあれこれが紹介されていた。その放送によると、彼が備前焼の赤紋様を醸し出す技術に習い、作品に新境地を拓いた。
 それから、備前焼は,釉薬を用いなくても赤とか、橙とか、オレンジなどの色を出せるとのことで、成形後乾燥された作品は登窯に入れてる際、作品を置く棚板や他の作品との接触を避けるため作品に稲藁を巻くと、稲藁との接触部分にこれらの特徴ある赤色模様が現れるのだとか、テレビに写し出されたのは思いを込めた赤味がかった朱色であった。


(続く)

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◻️14の1『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執、雄略)

2019-08-31 22:58:42 | Weblog

14の1『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執、雄略)

 おそらくはこの列島にまだ「日本」などという統一国家はなく、もちろん天皇という称号もなかった時代のことだが、「日本書記」巻第十四の「大泊瀬幼武天皇、雄略天皇」には、こう述べてある。

 「雄略七年(463年か)「八月、官者吉備弓削部虛空、取急歸家。吉備下道臣前津屋或本云、國造吉備臣山留使虛空、經月不肯聽上京都。天皇、遣身毛君大夫召焉、虛空被召來言「前津屋、以小女爲天皇人・以大女爲己人、競令相鬪、見幼女勝、卽拔刀而殺。復、以小雄鶏呼爲天皇鶏、拔毛剪翼、以大雄鶏呼爲己鶏、著鈴・金距、競令鬪之、見禿鶏勝、亦拔刀而殺。」天皇聞是語、遣物部兵士卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」

 これによると、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が雄略大王を呪詛していたとのことで、官者(とねり)の吉備弓削部虛空(きびのゆげのべのおおぞら)がこれを目撃し、告発した。雄略は、兵を派遣し、吉備下道臣前津屋ら七十人を殺したというから、驚きだ。

 同じ年の続いては、こうある。

 「是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

 こちらは、吉備の実力者の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)が、畿内有力豪族の葛城氏(かつらぎし)と結んで、毛姫(けひめ)という妻を娶るということで、たいそう羽振りがよかったらしい。一説には、雄略はこれを嫌ってかかる婚姻を無効にするばかりか、田狭を殺したのだと伝わる。

 

(続く)


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◻️49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

2019-08-30 21:45:09 | Weblog

49の3『岡山の今昔』神戸事件(1868)

 時代の変わり目には、よく予想もつかないことが起こるものだ。ここに神戸事件とは、1868年(慶応4年)1月10日、兵庫県明石に宿泊していた岡山藩の軍勢約450名及び大砲方を率いた一軍がいた。同藩の家老日置氏が率いて、11日午後2時ごろ、一行が神戸の三宮神社前に差しかかった。と、その時、備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったのだという。すると、これに驚いた藩兵が、彼らに向けて発砲し、相手方に負傷者が出る、フランス側も応戦したことで銃撃戦になっていく。
 そのうちに、「居留地(神戸旧居留地)を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた」として、外国軍が組織され、彼らが神戸中心部を占拠する動きにまで発展する。
 かかる列国で組織する公使団(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、プロシア、オランダ)は、日本の政権交代と幕府が彼らと締結
した継続、発砲を号令した士官の処刑を明治新政府に対し要求してくる。
 この国際間での紛争に驚いたのは明治政府で、なんとか大事にならないように、岡山藩に厳しい処置をもとめる。いわく、「天朝の為、皇国のため、備前一国のため、日置一家のため」、発砲を命じた者の死を望むと。
 結局、岡山藩は「非」を認める。その隊列の隊長であった備前藩士滝瀧善三郎(1837~1868)を切腹させ、これによってなんとか解決を見た。

(続く)

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◻️14の2『岡山の今昔』ヤマト朝廷との確執(雄略~継体)

2019-08-30 21:07:40 | Weblog

14の2『岡山の今昔』ヤマト朝廷との確執(雄略~継体)


 「日本書記」の「第22代清寧大王」(この時代に「天皇」は存在していない)の初めの部分に、吉備がややこしい関係で登場してくる。
 「廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。

是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救賜他命。」漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。

是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太」
 これにあるのは、雄略大王の後の跡目争いに、吉備雅媛(きびのわかひめ)の息子の星川王子とともに挑んだ形なのだが、反対勢力に殺されてしまう。
 そして、急報に接した吉備上道臣(きびのかみつみちのかみ)等が救援のため反撃に出るものの、間に合わなかった、というもの。これに窺えるように、ヤマト朝廷にとって、容易ならざる相手であったことだろう。
 さて、清寧のあとは顕宗、仁賢、武烈とつないで、そこで立ち止まってしまうのだが、やがて、それまでの大王とは別の系統の継体が大王に立ち上がる。
 とは言っても、反対勢力も強く、19年も畿内に入れなかったというから、驚きだ。その彼、継体王朝の成り立ちについては諸説があり、例えば、こう説明されている。

 「このように古代史全体を考えても、六世紀における継体勢力の問題はきわめて大きな意味がある。簡単に考える人は、大王家の本流が一度切れたので、ずっと昔に分かれた大王家の遠い縁者を見つけ出して皇位に就かせたと考えています。それに対して、大王(応神、引用者)の五代の子孫だというのはあとから付け加えたことで、滋賀県の湖西地方と越前あたりの北陸勢力が新たに勢力を得て、新しい王朝をつくったのではないかという見方もできます。さらに一歩進めて、日本海沿岸に来た渡来集団が勢力をもって王位に就いたのではないかという考えもある。私は二番目が有力とみています。」(森浩一「古代史津々浦々ー列島の地域文化と考古学」小学館、1997)


(続く)

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◻️259「岡山の今昔」岡山人(20世紀、坪田譲治)  

2019-08-29 23:20:56 | Weblog

259「岡山の今昔」岡山人(20世紀、坪田譲治)
 
 坪田譲治(つぼたじょうじ、1890~1982)は、小説家にして児童文学者。岡山県御野郡石井村の生れ。家業は、島田製織所といって、ランプ芯の工場を経営していた。
 6歳の時に、石井尋常小学校(現在の石井小学校)に上がる。10歳で御野高等小学校に入学する頃には、読書好きになっていたという。「すくすく育った」といえようか。12歳にて、養忠学校に入学するも、金川中学校(現在の岡山県立御津高等学校)に移転する。そのため、汽車(現在のJR津山線)に乗って金川に通うことになる。
 17歳で、金川中学校を卒業する。18歳で東京へ。小川未明を訪ねて、文学を志す。1915年(大正4年)には、早稲田大学の英文科を卒業。
 翌年には、結婚する。岡山に戻るも、夢を諦め切れない。再び東京て暮らし、小説「正太の馬」などを発表する。
 また、「赤い鳥」に童話を寄稿。その中でのヒット作「河童の話」の一節には、想像力豊かな河童像が載る。
 「その足は、人間の足じゃないんだ。ツメが鋭くのびていてね。またね、おじいさんに見るともなく見えるその顔が、人間の顔でないらしいんだ。はすの葉っぱをかぶっている頭から、長い毛がのぞいているし、ままるい目もその間からのぞいている。おじいさんはもうどうにもできなくなってしまった。」(「坪田譲治童話全集」第一巻、岩波書店)

 1935年(昭和35年)に、短編小説「お化けの世界」を雑誌「改造」に発表する。続いて「風の中の子供」や「子供の四季」を新聞に連載する。同年には、最初の童話集「魔法」を刊行する。1963年からは、自宅の敷地内において家庭文庫として、童話雑誌「びわの実学校」を刊行する。


(続く)

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◻️49の2『岡山の今昔』玉島事変(1868)

2019-08-29 22:54:41 | Weblog
49の2『岡山の今昔』玉島事変(1868)
 
 備中松山藩は、徳川の譜代の小代名にして、戊辰戦争において幕府軍に所属していたため、朝敵の汚名を受けた。幕府軍の戦況が悪くなると、藩から帰国命令が下る。「まずいことになった」というのが、かかる藩兵を率いていた家老の熊田恰は、帰路につく。恰は、部下150人を率いて海路、玉島にまで帰着した。
 しかし、そこからは、国元からは足留めをくらう。そのうちに、待ち受けていた朝廷派備前軍により包囲され、柚木亭(西爽亭)に謹慎させられ、切腹して謝罪するよう勧告された。
 こうなると、犠牲なくして事態を穏便に運ぶことはできないということになったのであろう、恰は川田甕江の助言を得て、部下の助命を嘆願し、1868年(慶応4年)1月22日、柚木亭にて自刃した。一説には、炎禍が玉島に及ぶことを憂えたことでもあるようだ。

(続く)

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◻️46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

2019-08-29 08:15:40 | Weblog

46の1『岡山の今昔』廃藩置県(1871)

 そして迎えた8月29日(旧暦7月14日)、まずは長州、薩摩、肥前、土佐の知藩事四人(土佐は代理の板垣退助)に対し天皇から廃藩置県が伝えらる。ついでかねてから廃藩を建白していた名古屋、熊本、鳥取及び徳島の四藩の知藩事が呼び出される。同様に天皇から通達があった。午後2時には、在京知藩事の島津忠義・毛利定広ら五六名が皇居大広間に集められ、明治天皇の前で右大臣三条実美(直後に太政大臣)が廃藩置県の詔書を読み上げる。それには、こうあった。

 「廃藩置県の詔
 朕(ちん)惟(おも)うに、更始の時に際し、内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙(たいじ=交際)せんと欲せば、よろしく名実相副(そ)い、政令一に帰せしむべし。朕曩(さき)に諸藩版籍奉還の議を聴納(ちょうのう)し、新に知藩事を命じ、おのおのその職を奉ぜしむ、しかるに数百年因襲の久き、あるいはその名ありてその実挙(あが)ら
ざる者あり。何を以って億兆を保安し万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よりて今更に藩を廃し県となす。・・・・・」
 この措置により、備中美作、備前及び備中の諸藩などは、次に掲げる段階をたどり、編成換えされていく。まずは、1871年(明治4年)の廃藩置県から述べよう。美作においては、津山藩(10万石)は津山県へ、鶴田藩(6.1万石)は鶴田県へ、真嶋藩(2.3万石)は勝山県へ。また、備前を領する岡山藩(31.5万石)は岡山県へ。それから、備中についていうと、鴨方藩(2.5万石)は鴨方県へ、生坂藩(1.5万石)は生坂県へ、庭瀬藩(2万石)は庭瀬県へ、足守藩(25万石)は足守県へ、浅尾藩(1万石)は浅尾県へ、岡田藩(1.03万石)は岡田県へ、松山藩(2万石)は松山県へ、成羽藩(1.27万石)は成羽県へ、新見藩(1.8万石)は新見県へ。さらに、幕府直轄の倉敷は倉敷県へと変更。
 これが、そのあとの同年第一次統合においては、美作地区の3県が北条県へ。また、備中の10県が、備後の一部と統合して深津県となっていたのが翌年小田県と改称する。
 さらに、1875年(明治8年)には、小田県を岡山県に合併、翌年北条県も廃止して岡山県と合併することにより新生の岡山県が成るのであるが、このとき旧備後国6郡が広島県に編入されることで、県域が確定する。

(続く)

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◻️46の3『岡山の今昔』地租改正(1873)

2019-08-28 20:28:33 | Weblog

46の3『岡山の今昔』地租改正(1873)

 さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
 これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
 この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
 「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
 『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
 それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
 地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。

(続く)

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◻️64の2『岡山の今昔』岡山空襲(1945)

2019-08-28 13:36:39 | Weblog

64の2『岡山の今昔』岡山空襲(1945)

 では、地方の空襲はどうであったのだろうか、ここでは、1945年6月の岡山大空襲を伝える、当時、教師であった片山嘉女子の回想を紹介させていただく。
 「昭和二〇年六月二十九日午前二時頃の大空襲で岡山はひとなめであった。当時私は玉井宮の近くに住んでいた。玉井宮の上空よりB29の襲来、次から次へとくりひろげられた爆撃、住民はおののきながら大ぶとんを頭からかぶり、右往左往し逃げ続けたものだ。逃げ遅れた人達は地蔵川のほとりに、ぬれぶとんをかぶって身を守った。東山の電車筋あたりから南へ南へと火は勢を加えて燃えさかる。
 家主の奥さんと身のまわり品を持ち出し、おふとんをぬらして持ち出したものにかけ、二人でバケツで水を運び火勢を少しでも弱めようと努力しつづける。然し火勢は少しも劣えを見せず煙が目に入り思うような効果は上がらず、懸命な消火もなく隣家がやけおちやがてわが家も、見る見るうちに焼け落ちた。

 灰と化していくわが家を家主さんと共に放心して眺めていた。あたりには誰一人姿はなく、付属小学校側はまだ燃え続けている。やがて火力が弱まった頃にやっとここにある自分に気がついた」(片山嘉女子「戦前戦中戦後の教師として」:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収、当時の筆者は、岡山市立勲小学校に勤務)。
 同じく教師をしていた小島幸枝は、焼け出された民衆が身を危険にさらしてまでも、大挙して旭川に向かったことを、次のような手記に綴っている。
 「・・・午前二時、燈火管制の薄い光りの中で用を足しに起きた私の耳に、低いうなるような音が響きました。南の空が赤いのです。とっさに私は「空襲だ。空襲だ。」と叫びました。B29の来襲です。
 私は二歳の次男を背負い五ケ月の身重に、モンペをはき、用意の袋を持ち、夏蒲団を被り逃げました。夫と共に防空壕に入りましたが、危険と云う隣り組の班長の報せで、旭川に出ました。河原の窪地の水につかって避難しました。空から、ばらばらと間断なく落下する火の雨、油脂焼夷弾は、水面に落ちても、燃え乍ら流れて行きます。次々に爆音を立てて飛来するB29は、市の中心部を焼き、炎々とあがる火の海と化しました。蒲団から頭を出して、天満屋が焼け落ちるのを見ているうちに、鳥城が火を吹いて燃え出しました。
 河原は、避難の民衆でごった返しています。突然後方に悲鳴があがりました。直撃弾で全身炎に包まれた人が見えました。私は深く蒲団を被り祈りました。火に追われて、河へ河へと旭川は人の渦です。降りかかってくる火の弾を避けて、泣き叫び、阿鼻叫喚の地獄です。
 夜が明けて鼠色の雨が降り出しましたが火は消えません。ぶすぶすと燻り続けます。
 ずぶ濡れの身体をひきずり家の方向に歩を運びました。家がある、焼けないで、私は夫と家を捨て、焼けた街に出て身内の安否を確かめました。妹夫婦が居ません。この日以来二人は消え去ってしましいました。街には多くの焼死体が残っています。銭湯の湯舟に、各戸にある防火用水桶に、火に追われて、飛び込んだ水の中で焼け焦げていました。
 二、三日、探してもいない妹夫婦一週間も死体探しを続け、国清寺、正覚寺の境内の収容所ものぞきました。引き取り手のない焼死体が累々と集り、怖い物への無感覚でひたすら死体探しをしました。
 学校の教え子も死にました。防空壕で、道路で、家の中で、多くの子が死にました。・・・・・」(同著、小島幸枝「戦争を知らないあなたに:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収)


(続く)

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◻️261の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、朝日茂)

2019-08-28 09:27:08 | Weblog

261の4『岡山の今昔』岡山人(20世紀、朝日茂)

 朝日茂(1913~1964)は、よく知られるとおり、「朝日訴訟」もしくは「人間裁判」の原告である。その彼の晩年の手記には、自らの思想形成を語った、こんな下りがある。 
 「私はいま五十年の生涯をふりかえってみて、いくたの思想の遍歴をつづけてきたものだと思う。
 若い三十歳のころまでは、仏教の無情観に心をひかれ、親鸞の「超日月光」とか、高神覚昇の「般若心経講義」などを読んだものだった。つづいて新興宗教の「生長の家」に心の安らぎを求めたこともあった。しかし、病気はながびき、ベッドの生活から離れられないようになってからは、しだいに観念的な考えから唯物論へと思想が変化していった。」(朝日訴訟記念事業実行委員会編「人間裁判」大月書店)、2004)

 そんな過酷な人生を生き抜いた、彼の死から五十余年を経て、「朝日茂はもう一度死ぬのか」と題する草川八重子氏(無職、京都府、84歳)の次の投稿が、新聞に掲載された。
 「「朝日訴訟」の記録を東京地検が廃棄していたという。私はあぜんとした。憲法25条が保障する生存権、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは何かを問うた朝日訴訟は「人間裁判」と呼ばれた。私の文学の師がかつて「小説、朝日茂」を書いたこともあり、関心をもってきた。(中略)
 60年の東京地裁判決で全面勝訴したが控訴審で敗訴。最高裁で争う。その途上、彼は逝った。享年50歳。朝日さんの死亡で最高裁は訴訟に幕を引いた。昨年の国の発表では、生活保護受給者は約210万人もいる。朝日さん勝利の裁判記録さえ廃棄され、この国の貧富の格差はますます固定化してゆくのだろう。朝日茂はもう一度死ぬのか。」(「朝日新聞」2019年2月21日付け)
 もって現代に生きる人々にとっては、肝に銘じるべき言葉であろう。

(続く)

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◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

2019-08-28 07:03:59 | Weblog

107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。

 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。
 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、乙島、柏島といった独立の島も含んでのことである。全体的として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

 江戸期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、備中松山藩をもって嚆矢としてよいのではないか。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。

 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。このほか岡山藩も七島新田、道越新田を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。

 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。

 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」

 これにもあるように、北前船の寄港地であった玉島そして下津井には、北海道や東北、北陸地方から様々な商品が持ち込まれた。中でも、肥料として綿などの栽培に欠かせない干鰯やニシン粕などをもたらし、このあたりの経済を支え続けた。そんな北前船の帰り荷としては、綿・菜種・塩などが主な積み荷であったことから、盛んに商売が行われ町が大きく発展したのだ。

 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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◻️107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

2019-08-28 06:58:48 | Weblog

107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

 それからさらに大いなる時間が経過していった。1907(明治40年)から1925年(大正14年)にかけては、政府により高梁川の大規模な河川改修事業が行なわれた。その時は、酒津から南西に水路を開削して東高梁川と西高梁川を結んだ。そして八幡山の西流路を閉め切る工事を行った。

 また、酒津以南の東高梁川を廃川とする。これによって、高梁川は一本の大河となって、現在の倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘・瀬戸内海に流れ込む。その河川跡地には、454ヘクタールの新たな土地が生まれた。これにより、広大な新田ができたことも大きいが、それよりも第二次世界大戦後の高度成長期からは、水島工業地帯による工業用地となって現在に至っている。
 あわせて現在、玉島に乙島(おとしま)地区が広がるが、ここは元は海があって、島があった。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)を中心に。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。
 これらのうち、元は海の中の島であった「乙島地区」(おとしまちく)には、作家・徳冨蘆花(とくとみろか)が訪ねたことがあり、その歌碑が建てられていて、こう刻んである。
 「ここ養父ヶ鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。また遠浅で,潮干狩、海水浴釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は人々の目を楽しませた。たまたま明治大正期の文豪徳富蘆花(1868~1927)が訪れたのは大正七年の夏で、滞在数十日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。
 「人の子の貝堀りあらす砂原を平になして海の寄せ来る」
 この一首は当時の景観をえがいた名歌で、一読、今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に浮かんでくる。碑は地元の人々によって、昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次にわたって養父が鼻沖は干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。かえりみてまことに今昔の感にたえない。蘆花には「不如帰」「自然と人生」「思い出の記」などの代表作がある。玉島文化協会」

(続く)

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◻️107の2の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、江戸時代から明治時代へ)

2019-08-28 06:57:26 | Weblog

107の2の2『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、江戸時代から明治時代へ)

 さて、この松山藩の玉島、阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。

 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」

 これにもあるように、北前船の寄港地であった玉島そして下津井には、北海道や東北、北陸地方から様々な商品が持ち込まれた。中でも、肥料として綿などの栽培に欠かせない干鰯やニシン粕などをもたらし、このあたりの経済を支え続けた。そんな北前船の帰り荷としては、綿・菜種・塩などが主な積み荷であったことから、盛んに商売が行われ町が大きく発展したのだ。

 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。

(続く)

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◻️204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、磯崎眠亀 )

2019-08-27 21:51:16 | Weblog

204の3『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、磯崎眠亀 )

 磯崎眠亀 (いそざきみんき、1834~1908)は、備中の都宇郡(つうぐん)帯江沖新田村(現在の倉敷市茶屋町)の小倉織の織り元、屋号は「児島屋」の次男として生まれる。その家は、江戸中期に児島郡からこの地に移住してきていた。
 大人になっては、このあたりの領主、戸川氏の江戸藩邸に奉公に上がる。1863年(文久3年)には、故郷に帰る。
 それからは、小倉帯地を商っていたのが、やがてイグサを扱うかたわら、い草製むしろの改良に取り組む。
 そんな中でも、精巧緻密な製織を考案しようと、工夫を重ねる。1878年(明治11年)5月には、花むしろ「錦莞莚(きんかんえん)」を完成する。
 この織物は、染色したイ草と麻や木綿を編み込み、様々な文様を織り上げた花ござをいい、畳の約4倍の縦糸を使用したり、図案にも華やな絵柄を施すなどしてあって、高価で知られる。
 1885年(明治18年)の「専売特許条例の施行とともに、そのための織機の特許を申請し、取得する。
 ところが、高価なため、国内での販売は、はかばかしくなかった。そこて、輸出産業にまでもっていきたい。1881年(明治14年)には、神戸の貿易商がイギリスに輸出して好評を博したのをきっかけに、外国への販路が開ける。

(続く)

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◻️3の2『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備社会の構造

2019-08-27 20:43:41 | Weblog

3の2『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備社会の構造

 そもそも、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)までは、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。
 ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされているのだが、かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。
 それでは、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来にはいたっていない頃は、どのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
 このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、集長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。


(続く)

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