(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の仏教建築と仏像(1)

2016-04-26 21:12:41 | Weblog
(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の仏教建築と仏像(1)

 大化の改新によって国政が一新(中央集権化)の過程に入った後、飛鳥から白鳳そして天平へと、文化が流れて行った。それらの先駆けとされる飛鳥文化は、ほぼ推古朝に位置する。仏教伝来の頃からの我が国文化の発展を含める。この時期の文化の多くは、仏教をはじめ、多くのものが外国との関わりの中で、多くを採り入れ、あるいは吸収しつつ、発展していったことが窺える。そこで外国からの技術がどのように伝わっているか、そこへこの国の人々の創作がどのように加えられているか、これらを垣間見たい。だが、自前の文化形成の一貫した流れをそこに見出し、眺めるのは、かなり難しい。興味深いことに、この時期には、絵画の面では、かなりの独自性へ繋がる展開が見られる。
 これを寺社の造営でいうと、聖徳太子が四天王寺と法隆寺(斑鳩寺(いかるがじ))、蘇我氏(蘇我馬子)が法興寺(飛鳥寺)、平城京に移ってから元興寺を、朝鮮系氏族の秦氏(秦河勝)が広隆寺を、和気氏が神護寺(高雄寺とも呼ばれ、元は和気清麻呂が建立したと伝わる神願寺とも)を、大化の改新後に政権の中枢に取り入り力を伸ばしていくことになる藤原氏が興福寺(創建時は山階寺・厩坂寺として、平城京への遷都後は興福寺と改称)を、それぞれ造営したことで伝わる。なお、聖徳太子は実在がはっきりしていない人物なので、彼が四天王寺と法隆寺の造営を命じたとの断定は差し控えておきたい。
 これらの中での代表格は、法興寺(飛鳥寺)と法隆寺なのであろうか。飛鳥寺は、日本最古の寺とされる。今日に残っているのは、本堂ばかりだ。その中に鎮座する飛鳥仏はといえば、1940年に「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」として国重要文化財に指定されている。この像高は275.2センチメートルという。鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であると伝わる。製作(完成)年代には2説があり、『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年であるが、後者が有力のようだ。画集でこの像を観賞していると、どうやら日本人を写したたものとは考えにくい。当初部分とみられる頭部は、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。とにかく鼻が大きくて、盛り上がっている。顔全体の印象はやや「強面」(こわもて)であって、厳格な人柄なのだろうか。
 7世紀中頃の飛鳥仏のうち変わったところでは、正眼寺(現在の愛知県小牧市)に伝わり、現在は奈良国立博物館なら仏像館に展示され、「誕生釈迦仏立像」と題される銅造りの仏像がある。全身の鍍金(ときん)がかなり残っていて、地味な金色を醸し出す。大きさは、8.2センチメートルという小ぶりながら、不自然に頭が大きい。顔は面長で、目はなんだかなにかんでいるようでもあり、眩しそうでもある。口元には微笑があり、まだ10歳に満たない位の少年のあどけなさと覚える。裳(も)に刻まれた左右対称の襞が、中国の北魏彫刻の様式を採り入れているとか。しかも、立ち姿のポーズが変わっていて、右手で天、左手で地を指さしているのは、誕生時に「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えたという、作り話を物語っているようだ。
 寺自体が国宝の法隆寺において柱群が有名なのは、これら柱が「エンタシス」という中央が太くなっている特徴を備え、遠く西洋のヘレニズム文明にも通じる様式となっている点だとされる。ここにある五重塔は、インドでストゥーパで呼ばれたもので、日本では「卒塔婆」(そとうば)と訳される。心柱(しんばしら)と屋根などが独立している構造で耐震性に優れ、この巻の地震でもくずれなかった。塔の先端から相輪(そうりん)を下りていった処のふっくら、丸くなっている部分・伏鉢(ふくばち)にブッダその人の舎利(しゃり)が納められているかどうかは、分からない。この法隆寺金堂の本尊は、「釈迦三尊像」であり、623年鞍作鳥の作とされる。この作者がわかるのは、同三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されていることから来る。
 およそこの時期に造営された他の寺に安置される仏像の類でいうと、例えば、2016年6月、日本と朝鮮に伝わる二つの半跏思惟像(はんかしいぞう)が、東京の上野美術館で並んだ。日本のものは、奈良県の中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)に伝わり、木造の国宝に指定されている。また、韓国の国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像は、国宝78号像としてある。
 伝承によると、この像が日本で造られたのは聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の発願によるとの伝承もあるものの、事実かどうかはわからない。中宮寺蔵のものは、『日本書紀』(巻第廿渟中倉太珠敷天皇敏達天皇)に「十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子使於新羅、遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。」となっていることから、その類推で百済から倭に持ち込まれたとする説も否定できない。ともあれ、この日本国宝の像の安置された中宮寺は、同太子の宮居である斑鳩宮(いかるがのみや)を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に合わせる等のけじめをつけて創建されたのではないか。

(続く)

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(50)『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使

2016-04-25 21:37:14 | Weblog
(50)『自然と人間の歴史・日本篇』遣唐使

 遣唐使になってから、日本に様々な文物などが持ち帰られることになったのは、唐という国に日本が認知されたからであろう。ところが、これが対外的に認められた最初は何年であるかが長い間分からなかった。日本という国号が法的に確立したのは701年に完成の「大宝律令」なので、それからの両国の関係の中で、その時がわかる事績があれば良いのだが。それに対する手掛かりが今世紀に入って判明した。その報は中国からやって来た。彼の地で発見されたのは、遣唐使で唐に行った先で死んだ井真成(いのまなり、699年生まれと推定される)の墓であった。彼の墓誌が発見された場所は、中国・西安の郊外(郭家灘(かっかたん)付近と推定)の工事現場だという。墓誌は蓋と本文の2つの石からなっており、それが同地の西北大学に持ち込まれ、調査が為される。その結果、日本人遣唐使の墓誌であることが判明し、そのことを西北大学が内外に発表したのが2004年である。実際にどの工事現場でいつ、発見されたのかは不明のままである。というのは、本文(16字づつ12行)には発見されたときの工事の時に何らかのミスがあったためか、傷があるために各行の冒頭などが読めなくなっている。その原文は、次のような構成となっている。
 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序、公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能、○命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶、○朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終、○遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月、○日乃終于官弟春秋卅六○○○皇上、○傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官、○卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水、○原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠、○兮頹暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰、乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶歸于故鄕」
 ここで「開元廿二年」、つまり734年をもって「日本」という国号が記されているからには、唐の方でそれまでに「倭」を改めたものと見える。井が唐に渡ったのは西暦717年、その時19歳であったという。阿倍仲麻呂らと一緒に唐に渡ったことになっている。その彼が日本に帰国を果たせないままに、734年に唐の都・長安(現在の中国・西安)で亡くなった後は、多くの遣唐使員と同様に脚光を浴びることなく、長い沈黙を余儀なくされていたもののようである。
 遣唐使には、小さな船に大勢が乗り込んでいた。はじめの頃は1~2隻であったらしい。それが8世紀に入ると4隻に増える。船を漕いで行くのだから船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らはもちろんのことだが、乗手としての人の数がとにかく多いのだ。大使の下に副使、判官、録事若、知乗船事、造舶都匠、訳語(おさ)、医師、陰陽師、画師、史生、射手、船師、新羅語や奄美(あまみ)語の通訳、卜部(うらべ)、様々な工人らがいて、さらに留学生・留学僧らが加わるのだから、一説には多いときには1隻に120人ほど乗っていたのだとか。そうだとすると、4隻ともなれば一行全員で数百人にもなっていたとも考えられているところだ。
 はたして遣唐使が身につけて帰った諸々の知識(思想的及び制度的なものを含む)や技術など、そして彼らが彼の地で収集し持ち帰った文物は、形成途上にあった日本の政治(制度を含む)や文化の発達に大きく貢献したのは疑いなかろう。それどころか、現在まで伝えられている日本文化の基底は、この遣唐使船に乗っていった人々や、その人々がもたらした文物によって築かれたといっても、過言ではないのではないか。現在に生きる私たちは、いたずらに中国とは異なる、独自の道を歩んだことを強調し過ぎる嫌いがありはしないか。私たちの文化が造られてきた中に、中国からの諸要素が紛れもなく、しっかりと入り込んでいる、このことの意味をよくよく考えてみる必要がありはしないか。
 それらの中でも、唐から遣唐使が持ち帰った中には暦が含まれていた。その暦は大衍暦(ダーイェンリー、だいえんれき)といい、ちょうど唐に留学していた吉備真備が735年(天平7年)に帰国した時、楽器、武器などとともに、日本に伝えられた。この暦は、764年(天平宝字8年)から858年(天安2年)まで94年間にわたって使われる。ここに大衍暦 とは、僧の一行(いちぎよう)らが唐王朝の玄宗皇帝の命によって編んだ太陰太陽暦のことである。それまでの李淳風の麟徳暦(儀鳳暦)では、日食や月食がしばしば合わないことから、より正確な暦をつくることを志すに至る。一行や南宮説(なんぐうえつ)らは、標準点を陽城(河南省登封県告成鎮付近)に置いてから、子午線を実地に測定していく。様々な課題について粘り強く思索し、新暦の編成のために全土に及ぶ大規模な天文測量を実行した。この暦は、729年(開元17年)から33年間使用されたのであるが、一行はそれを見ることなく、727年(開元15年)に45歳で死んだ。
 734年、第九次の遣唐使が入唐した。この年は、唐の開元22年に相当し、玄宗皇帝の頭がまだ顕在で、「開元の治」を行っていた。その頃の唐に渡った人物の中に、今で言えば官僚の吉備真備(きびのまきび)がいた。彼の出身は、吉備氏の下道氏(しもつみちし)である。高梁川(現在の岡山県西部を流れる)の支流である小田川流域が、彼の故郷、下道(しもつみち)のあったところだと伝わる。古代の山陽道は、この辺りでは小田川に沿って都と北九州の太宰府とを結んでいた。684年(天武13年)に朝臣姓を賜ったというから、大和朝廷の寵臣として既に頭角を現しつつあったのだろう。朝廷に出仕し、「大學寮」を優秀な成績で出た真備は、717年(霊亀3年)、第8次遣唐使留学生に選ばれ、4隻船団の一つに乗って唐に向かう。時に、真備23歳のときのことである。この時の留学生として唐に渡ったのは、他に阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、留学僧には玄昉(げんぼう)らがいた。18年もの間唐に留まり、その間、多方面の学問に精出したことが伝わる。735年(天平7年)、日本に戻る。さっそく、「唐礼130巻、暦書、音階調律器・武器各種」を献上した。
 真備は、藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄に見出されるとともに、位も上がって「正六位下」に昇叙され大学助となる。以後、玄昉と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねていくことになる。740年(天平12年)、藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱が鎮圧されると、諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)によって吉備真備は疎んじられていく。
 そんな政治に嫌気がさしたのか、翌751年(天平勝宝3年)、遣唐副使として再度入唐した。それから又彼の地で勉強に励んで754年(天平勝宝6年)、唐より鑑真(がんじん)を伴って帰国する。遣唐使の帰り船で、日本にやってきた戒律の高僧であった。中国の唐の時代の人で、上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身だといわれる。701年、13歳にして大雲寺に入り、出家したらしい。律宗や天台宗をよく学び、揚州・大明寺の住職となった。
 鑑真の人となりについては、謹厳実直といったところか。この時期に唐から日本に向かった代表的な中国人としてあまねく知られる。真人元開が著した『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』(訓読文)には、こうある。
 「東大寺戒壇院『伝教大師全集』宝暦十二壬午年刊本を底本
 大和上、諱は鑑真、揚州江陽県の人なり。族姓は淳干、斉の弁士?が後なり。其の父、先に揚州の大雲寺智満禅師に就いて、戒を受け禅門を学す。大和尚年十四、父に随って寺に入り、仏像を見たてまつりて心を感動す。因て父に請て出家を求む。父、其の志を奇なりとして許す。是の時、大周則天長安元年、詔有て天下の諸州に於て僧を度す。便ち智満禅師に就て出家して沙弥と為り、大雲寺に配住す。後改て龍興寺とす。唐の中宗孝和皇帝神龍元年、道岸律師に従て菩薩戒を受く。景龍元年、錫を東都に杖て、因て長安に入る。其の二年三月廿八日、西京の実際寺に於て登壇して具足戒を受く。荊州南泉寺の弘景律師を和尚と為す。二京に巡遊して、三蔵を究学す。後ち淮南に帰て戒律を教授す。江淮の間、独り化主為り。是に於て仏事を興建して、群生を済化す。其の事繁多にして、具に載すべからず。」
 そんなある日、鑑真のもとへ2人の日本人僧侶が面会を求めてきた。彼らは、遣唐使で、朝廷から、中国から「戒律」の専門家を連れてきてほしいとの密命を帯びていた。「戒」というのは、仏教者が守べき行いを定めたもの。「五戒の戒」とは、不殺生(ふせっせい)、不偸盗(ちゅうとう)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふいんしゅかい)の五つであって、これを守った上で、仏教徒がもらえるのが、元々の「戒名(かいみょう)」の意味なのだ。「律」とは、僧たる者の集団生活に辺り規則が定められていた。これらが弛緩していた日本の仏教界に、喝を入れようとしたのであった。
 その鑑真は、6回目の挑戦で日本にやってくることができた。第1回は743年、55歳の時であった。第2回は744年、56歳の時であった。第3回も744年。態勢を立て直して再び出航しようとしたところ、鑑真の渡日を惜しむ何者かの密告で、栄叡が再び投獄され失敗した。栄叡は「病死扱い」で獄中から救出された。第4回も744年。福州(台湾の対岸)から渡航しようと南下する。しかし、またしても弟子が鑑真を引留める為に当局へ密告したために失敗した。第5回は748年、60歳のときであった。出航するまでは良かったが、暴風雨の直撃を受け、半月間も漂流し、遠く海南島(ベトナム沖)まで流されてしまう。揚州に引き返す途中で、栄叡が死ぬ。遣唐使船で大陸に来て15年のことであった。鑑真自身もまた眼病で失明してしまう。そして第6回の753年、時に鑑真65歳。日本から20年ぶりに第10回の遣唐使がやって来ていた。その日本への帰国便で、鑑真と弟子5人を非合法で連れ出そうということになる。帰りの船は4隻に約600人の大船団であって、鑑真らは別れて乗船した。ところが出航直前になって、遣唐大使、つまり正使が鑑真らを下船させてしまう。だがこの時、副大使が独断で自分の船に鑑真一行を乗せたことから、世紀の渡海が実現したのであった。待ちかねていた日本側は、さっそく鑑真の受け入れ準備に乗り出す。
 一方、唐においては、755年に安史の乱が起こる。節度使といって、募兵の長の一人が朝廷に対し反旗を翻し、都長安を攻めた。反乱軍は長安を占領し、玄宗皇帝らは四川に逃れる。唐は、安史の乱を鎮圧するため、遊牧民族のウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきたのであるが、他力を頼むようではもはや唐は衰退していくのみであった。894年(寛平6年)には、遣唐使が廃止された。それからおよそ200年の後の、平氏による日宋貿易まで、中国との関係はほとんど鎖国状態になっていく。日本側とすれば、もはや中国から学ぶべきものは何もなくなったと判断したのか、唐の側でも国勢衰退によりもはや受入れの態勢が整わなくなったのかもしれない。

(続く)

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(160)『138億年の日本史』江戸期の民衆社会思想家(1)

2016-04-09 20:10:26 | Weblog
(160)『138億年の日本史』江戸期の民衆社会思想家(1)

 江戸期の市井に身を置いた、民衆の中から出て活躍した社会思想家といえる人物というのは、何人いただろうか。なにしろ、今のような言論の自由がなかったのを初めとして、封建社会の厳しい現実に晒され生きねばならなかった時代のことである。一部でそのたがが緩んでいた地域なり、時期があったろう。とはいえ、相当に幸運な出会いなりに恵まれなければ、その才能なり能力を発露させるためには困難が伴ったのは否めない。一言でいうならば、そういう「与件」としての時代であったのだ。ゆえに、支配階級の武士や貴族、その周りにいた一部の僧侶や知識階級、文化人、技術者などを覗いた一般人の場合、総数としてはかなり少なくしか個人の事績として伝わっていない、と考えてもよいだろう。中でも、民衆の生活に分け入って、その継続的改善を志し、実践した人物としては、何人かが現代に生きる人々に伝えられており、ここでは其の中から何人かの事績を紹介したい。
 安藤昌益(あんどうしょうえき)は、1703年(元禄16年)に東北に生まれた。長じては八戸の医者になっていく。社会思想に関与しているものの、どちらかというと理論家であったのではないか。1762年(宝暦12年)に死ぬまで、多くの書物をものにしていた。その多くは、明治になってから世の中にあらわれる。奥羽地方では、18世紀の半ばに飢饉が相次いで起こる。主なものだけでも、1749年(寛延2年)、1755年(宝暦5年)、1757年(宝暦7年)の3度あった。関東より一帯にかけて間引きが広く行われるようになったのもこの頃である。おそらくは1755年(宝暦5年)頃書かれ、明治に入って見つかったものに『自然真営道』(しぜんしんえいどう)がある。
 これによると、「平土の人倫は十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪材十穀諸魚之を易へて山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海浜の人倫も家作り穀食し魚菜し、平土の人も相同うして平土に過余も無く、海浜に過不足無く、彼(かしこ)に富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く」云々と、当時の財の循環に言及している。
 その後に「上無ければ下を攻め取る奢欲(しゃよく)も無く、下無ければ上に諂(へつら)ひ巧(たく)むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く、・・・・・五常五倫四民等の利己の教無ければ、聖賢愚不肖の隔も無く、下民の慮外を刑(とが)めて其の頭を叩く士(さむらい)無く、考不孝の教無ければ父母に諂ひ親を悪み親を殺す者も無し。慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し」云々と、身分制批判が続いており、これで捕らえられないのかと心配にもなる。
 さらにその後に「是れ乃ち自然五行の自為にして天下一にして全く仁別無く、各々耕して子を育て壮んに能く耕して親を養ひ子を育て一人之を為れば万万人之を為して、貪り取る者無ければ貪り取らるる者も無く、天地も人倫も別つこと無く、天地生ずれば人倫耕し、此外一天の私事為し。是れ自然の世の有様なり」とあって、すべての人が自ら耕作する「自然の世」を理想視するに至っている。より根本思想としては、「五常五倫四民」を掲げるに至っていることから、「陰陽五道」によるものだろうか。しかし、いわゆる「自給的小農生産」の社会を理想社会とみなしている点では、次なる時代を見通せなかったことで限界があった。なお、以上の文言は、丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年に掲載されたものから引用させていただいた。
 山片蟠桃(やまがた ばんとう、1748~1821)は、商人でありながら懐徳堂で儒学や天文学、それに蘭学も修めた。天文、地理、歴史など広範囲な分野についての評論を、1820年(文政3年)に著した。自分の師である中井竹山、履軒の二人の教えをまとめた。風変わりな書名となっているのは、夢に託して述べることで幕府の弾圧を避ける狙いがあったらしい。
 「生熟するものは年数の長短あれども、大ていそれぞれの持前有りて死枯せざるはなし。生ずれば智あり、神あり、血気あり、四支心志臓腑皆働き、死すれば智なし、神なし、血気なく、四支心志臓腑みな働くことなし。然ればいかで鬼あらん。又神あらん。(中略)人の死したるを鬼と名づく。是れ又死したる後は性根なし、心志なし、この鬼の外に鬼なし」(『夢の代』)
文中に「鬼」とあるのは、「霊魂」のことで、中国流の「人の死したるを鬼と名づく」の用法と見える。「死すれば智なし、神なし」とあるので、唯物論を採用しているのがわかる。ただし、ほぼ同時代にカール・マルクスによって主導された弁証法的唯物論との
関わりは見あたらない、素朴な人間物質論の類であろうか。
大塩平八郎(大塩中斎、おおしおへいはちろう、1792~1837)は、世直しの乱を起こしたものの失敗し、息子ともに自殺した。幕府の「御政道」を正すための直接行動が失敗し、追手から逃れることができないと悟ったのであった。その彼が蹶起のため用意していた檄文(げきぶん)に、こうある。
 「徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、・・・・・」(本文とその口語訳は先進社内同刊行会「大日本思想全集」第十六巻、昭和6年)
 大塩がこの檄文を書いた動機としては、日本では中江藤樹(なかえとうじゅ、1608~1648年)が中国の王陽明の思想「陽明学(ようめいがく)」を日本に移植したことがある。中江ならではの思想が窺える著『翁問答』によると、道徳の根源とされる「孝」による徳行とは、生みの親に対する孝に止まらず, 人間の生みの親である天(皇上帝) に対する孝にまで拡げられなければならない。したがってこれを紐解くと、制度としての身分秩序は認めながらも,「万民は皆ことごとく天地の子なれば、われも人も人間の形ある程のものは、みな兄弟なり」と万人平等を主張したのは、紛れもない事実なのである。
 この事件の顛末については、誠にあっけなく決着したという他はなかろう。仔細については、後代の人々が様々に紹介し、講釈も加えているのだが、我が国最初のマルクス主義者と目される堺利彦は、講釈「大塩騒動」の中で、蹶起当日の朝から昼過ぎまでの有様を、今観てきたような巧みなタッチででこう述べている。
 「さて、大塩勢の出で立ちを見てあれば、大将平八郎および副将格之助は差込野ばかまにて白の鉢巻きをしめ、・・・・・、ゆくゆく市民の屈強なる者を味方に付け、総勢数百人、殺気天を貫くという勢いであった。それから彼らは浪速橋を渡り、左に折れて二手に分かれ、今橋筋と高麗橋とを東に向かい、かねて目指したこの富豪町に片端から炮烙玉(ほうろくだま)を投げ込み、あるいは火具鉄砲を打ち込み、さんざんに焼き建てた。家具も道具も米も金も千両箱もみな一緒くたになってそこら一パイにころがっていた。付き従った何百人の群衆は宝の山に入った思いで、我先にと略奪をほしいままにした。鴻池庄右衛門方では四万両も取られたという話が残っている。・・・・・」(川口武彦編集「堺利彦全集」第五巻、法律文化社、1971)
一とおり、当日の有様を描写した堺としては、「音に名高い大塩騒動はかくのとおり、たった一日間の騒ぎに過ぎなかった。そして天下は再び太平に帰した」と堺は慨嘆している。それにしても、大塩その人は、役人生活を隠居の後は自慢の蔵書に埋もれるようにして読書三昧にふけったり、寺子屋の教師として界隈の子供らに学問して余勢を過ごしてもよかったであろうに、目の前に広がる民衆の窮状を目視するに忍びず、「救民」に文字通り一命を捧げた。そればかりではなく、家族もろとも命も捧げた。これに同意するか否かは別として、このようなことは並の人間にできることではあるまい。
 中江の弟子で知られる学者に熊沢蕃山(1619~1691年)がいる。長じて岡山藩の番頭格となった熊沢は、同士を集めて相互に錬磨しあう「花畠教場」を主宰するに至る。これには「花園盟約」というものがあって、武士の職分は人民の守護育成にありと人民本位の政治を掲げる。また、「致良知」に基づく慈愛と勇強の涵養が学問の目的だとした。しかし、このような奇抜な彼の一派の動きをキリシタン思想に関係ありと幕府に疑われ、岡山藩を離れざるを得なくなるのであった。熊沢は、時・処・位に応じて身を処することの大切を説いた。つまり、何時でも、何処にいても、そして誰に対しても説くをもって対応することを重視し、これらを弁えていなければ道徳的に評価されない、というのである。
 大塩も、平たくいうと、その系統に属する者であったことは疑いなかろう。長じての彼は大坂町奉行所の与力であったが、38歳で辞職して家塾「洗心洞」を開いて陽明学でもって子弟の教育にあたっていた。ところが、当時打ち続く飢饉で農民や都市貧民が飢えているのに、奉行所や豪商たちは自分の利得や我が身の安全ばかりを考えて行動していた。しかも、彼の信じる陽明学は「知行合一」を教えているのに, これを傍観することはできないと考えているうち、ついに我慢がならなくなって、仲間を募って腐敗堕落した世の中を正そうと蹶起したものと思われる。

(続く)

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