◻️8『岡山の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

2019-06-25 16:40:54 | Weblog

 8『岡山(備前・備中、美作)の今昔』倭の時代の吉備(吉備の大古墳)

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 これらのうち初期のものは、2世紀後半から3世紀前半の弥生時代晩期、「楯築墳丘墓」が知られるものの、その築造年代の確かな証拠は見つかっていない。被葬者が誰なのかも、はっきりしていない。

 その後の、いわゆる古墳時代に入ってからの前方後円墳の中では、浦間茶臼山古墳と備前車塚古墳は最も古い時期(古墳時代1・2期)の建造とみられている。
 やがては、吉備地方の古墳の中でも、後期の造立と考えられるものに入ってくる。ざっと西の方から当時の海沿いに来て、高梁川、足守川、笹ヶ瀬川、旭川、砂川、そして吉井川が海に流れ込む、瀬戸内の名だたる沖積平野に、実に十数基もの古墳が築造された。

 すなわち、西の方から東にいくと、高梁川河口部には作山(古墳時代5・6期)と小造山、足守川河口部には造山(つくりやま、古墳時代5・6期)、佐古田及び小盛山、笹ヶ瀬川の河口には丸山と尾上、旭川の河口部には神宮寺山と金蔵山、砂川の河口部には雨宮山、西もり山、及び浦間茶臼山(岡山市浦間)、備前車塚古墳(岡山市中区湯迫・四御神)、そして吉井川河口には新庄天神山と花光寺山の古墳がそれぞれ発掘されている。

 これらのうち、最も大きいものとしては、5世紀初めの造立だと推定される造山古墳だが、全国第4位の規模だというから驚きだ。その被葬者が誰なのかは皆目見当がつかないようなのだが、盗掘か破壊された可能性が高いという。ある一説には、雄略大王との関係を取りざたする向きもあるものの、憶測の域を出ないのではないか。

 ここでは参考までに、当時のを振り返り書かれたという「日本書記」吉備に関わる、当該の部分を、しばし紹介するにとどめよう。

 「八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不罄竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂。不謂、遘疾彌留至於大漸。此乃人生常分、何足言及、但朝野衣冠、未得鮮麗、教化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨。今年踰若干、不復稱夭、筋力精神、一時勞竭、如此之事、本非爲身、止欲安養百姓、所以致此、人生子孫、誰不屬念。

 既爲天下、事須割情、今星川王、心懷悖惡、行闕友于。古人有言『知臣莫若君、知子莫若父。』縱使星川得志、共治國家、必當戮辱、遍於臣連、酷毒流於民庶。夫惡子孫、已爲百姓所憚、好子孫、足堪負荷大業、此雖朕家事、理不容隱、大連等、民部廣大、充盈於國。皇太子、地居儲君上嗣、仁孝著聞、以其行業、堪成朕志。以此、共治天下、朕雖瞑目、何所復恨。」一本云「星川王、腹惡心麁、天下著聞。不幸朕崩之後、當害皇太子。汝等民部甚多、努力相助、勿令侮慢也。」

 是時、征新羅將軍吉備臣尾代、行至吉備國過家、後所率五百蝦夷等聞天皇崩、乃相謂之曰「領制吾國天皇、既崩。時不可失也。」乃相聚結、侵冦傍郡。於是尾代、從家來、會蝦夷於娑婆水門、合戰而射、蝦夷等或踊或伏、能避脱箭、終不可射。是以、尾代、空彈弓弦、於海濱上、射死踊伏者二隊、二櫜之箭既盡、卽喚船人索箭、船人恐而自退。尾代、乃立弓執末而歌曰、(以下、略)

 要は、雄略大王の死後直ぐこと、星川皇子(ほしかわのみこ)が母である吉備稚媛(きびわかひめ)の言によりそそのかされて反乱を起こす。そして、これに吉備上道臣(きびかみつみちのおみ)が加勢しようとの動きがあった、というのだが。

 また、備前茶臼山古墳(びぜんちゃうすやまこふん)は、備前平野の東の端(旧上道郡)、吉井川を少しさかのぼったところの西岸、砂川の西岸にあって、その規模は全長138メートルというから、これらの川の中州から眺めるとさぞかし壮観だったのではないか。4世紀前半に築造されたといわれるのがもし本当なら、当時の個の列島、倭国レベルでもかなり大きかったのではないか。

 それにしても、この弥生時代に続くのがどのような社会であったのかは、今日どのくらいまで明らかになっているのだろうか。事実というのは、その時々もしくは後代の政権(権力者)によってその内容が惑わされて述べられるものであってはなるまい。

 事実とされるのは、事実でないことを事実とするような権力の所産であってはならないのである。解き明かすべきは、その国家なり共同体の上部構造のみでない、下部構造の基本的理解が肝要となろう。
 5世紀になると、高梁川の支流小田川の形成した沖積平野を眼下に、天狗山古墳が造営された。こちらは、岡山大学によって発掘がなされ、その調査報告書がまとめられているという。

 6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、大王家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。

(続く)

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◻️7『岡山の今昔』古墳時代の吉備(楯築墳丘墓から前方後円墳へ)

2019-06-25 08:27:07 | Weblog

7『岡山の今昔』古墳時代の吉備(楯築墳丘墓から前方後円墳へ)


 弥生時代の終了年代については、弥生時代後期の楯築古墳から発展したと考えられる前方後円墳が、日本列島の各地で築造されるようになってからと考えて差し支えないだろう。そしてこの列島での古墳時代とは、概ね3世紀末もしくは4世紀初頭から、7世紀までをいう。

 因みに、古墳時代は、普通には次の3つの時代に区分されてきた。前期とあるのは、2世紀後半以後、特に3世紀後半から4世紀後半とされる場合が多い。中期とは、4世紀後半から5世紀後半というところか。そして後期とされるのが5世紀後半から6世紀末頃(7世紀早早も含む)である。

 ただし、例えば畿内にある箸墓古墳(纏向(まきむく)遺跡の中にある)など古墳時代初期の前方後円墳については、3世紀中葉から後半等々に至るまで諸説紛々、説が割れている。被葬者が誰(卑弥呼か、その跡を継いだ台与(とよ)か、はたまた後続の男王などか)かが明らかでなく、そのゆえに築造年代が特定できない状態が続いている。
 果たして、この時代における古墳の造営は、ここ「吉備国」(きびのくに)では、他の地域に先駆けて始まった。この地方国は、おそらく3世紀前後から6世紀頃までは、かなりの勢威を誇ったと見える。したがって、大和政権がまだ成立していない時期から、この地域では首長国家であった。

 それというのも、この地域においては、今日「楯築弥生墳丘墓」と呼ばれる、前方後円墳の前の形態の墳丘墓が存在するのだ。

 現在の倉敷市にある弥生時代後期の墳丘墓の大きさは、高さ約5メートル、直径43メートルの円形の墳丘だ。その両側に小さな突出部があるため、全長は80m弱にも及ぶという。頂上と斜面に立石が並ぶ。

 墳丘の中央部には榁(むろ)と呼ばれる囲いを設け、木棺を納める体裁だ。1976年から1986年にかけて、岡山大学により数次にわたり調査された。ここからは、埴輪の祖形である特殊器台が出土していることで有名だ。のみならず、この墳丘墓の突出部を一方に拡大すると、なんと前方後円墳の体裁になるのではないか。

 それはさておき、大和政権が成立してからの関係は、吉備の初めはほぼ同じような規模の国家の一つであったのかもしれない。そもそも、初期の大和政権は畿内に影響を持つ幾つかの首長などによる連立政権であった、との説もある。これに連なる地方政権として、大和の統一政権に取り込まれるまでのある時期までは、吉備は、かれらともっと拮抗する形での政治的連合の相手方であったのではなかろうか。

 ちなみに、古墳時代を通して代表的な墳丘形態は前方後円墳といい、これは中国にも朝鮮(現在の韓国)にも原型の類例がほぼ見られない。朝鮮に前方後円墳としてあるのは、倭(わ)の文化圏との何らかのつながりの中で築造されたのであって、独自の背景を持っていたのは異なるのではな

 中国においても、また朝鮮に於いても、王や皇帝、豪族の墳墓の形に多く見られるのは、円墳(天の神を祀る)と方墳(地の神を祀る)の異なる祭祀(さいし)の組み合わせというものから、壺とその中から天に向かう姿を仙人世界に模した造型なのではないかかという迄、諸説紛々といえようか。

 いずれにせよ、当時の首長達が一般住民・大衆を動員して造ったものだ。畿内を中心に列島各地の有力な首長層が競って、またこぞって採用したのは、疑いのない歴史的事実である。その数は、実に多い。分布も広範囲にわたっている。

 

(続く)

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◻️258『岡山の今昔』岡山人(20世紀、正宗白鳥)

2019-06-22 21:52:06 | Weblog

258『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、正宗白鳥)

 正宗白鳥(まさむねはくちょう、1879~1962)は、小説家であるとともに文学評論家。和気郡伊里村穂浪(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は忠夫という。
 当地は、海に面した土地柄であり、彼の家は代々網元をしていた。かなり、羽振りが効いたようなのだ。やがて、閑谷学校に学ぶのだが、早々に退学してしまう。

 1896年(明治29年)の17歳の時には、東京専門学校(早稲田大学)に入学する。その在学中には、植村正久・内村鑑三の影響を受け、キリスト教に入信する。

 しかし、1901年(明治34年)の卒業にあっては、これを棄教している。その前から、次第に教会から遠ざかっていたらしい。後の評論「内村鑑三」においては、何事も疑わしいの類いにて、やがて教義に馴染めなくなっていったようだ。

 早稲田大学の出版部から、読売新聞社へと移る。やがて、島村抱月の指導で評論を書き始める。また、同新聞の文芸記者生活のかたわら小説の筆にも取り組む。1904年(明治37年)には、処女作の「寂莫」を発表する。

 1907年(明治40年)には、退社して、文学関係で食べていく決意をする。1908年(明治41年)には、代表作「何処へ」という短編を発表する。その主人公の健次は、友人の箕浦に「妻君でも情婦でも拵え玉えな」と勧めるのだが、こんなやり取りをしている。

「君は故意に不真面目なことを云う。悪い癖だ。」と、箕浦は少し顔を赤らめ、「婦人に対しても、恋愛に関しても、もっと真面目に深い意味を見なくちゃならんよ。」
「そうかねえ。」と健次は冷やかに云って「併し僕自身がそう信ずれば仕方がない、人間は寄生虫、女は肉の塊、昔から聖人がそう云ってる。」
「まさかそんな聖人もあるまい、君は己れを欺いて趣味や情熱を蔑視してるんだ。」と、空を仰いで、「見玉え、空は冴えて、月も鮮やかに出かかってる、虫でも秋の気」云々。

 1935年(昭和10年)には、島崎藤村らと、日本ペンクラブを設立する。戦争に協力するのを避けたかったようだが、なんとか官憲ににらまれることなく過ごしたようだ。戦後は、文学界で世話役として活躍する。芸術院会員を一度は辞退するが、のちには受諾する。文化勲章も受章したというから、根っからの虚無感にひたっていなかったらしい。

(続く)

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◻️260『岡山の今昔』岡山人(20世紀、布上喜代免)

2019-06-22 21:26:23 | Weblog

260『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、布上喜代免)

 今の中国縦貫道の津山インターのあるところといったら、おわかりだろうか。河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ここに女医、布上喜代免は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って医院を開業した。

 それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。

 その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。

 ちなみに、1959年時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

(続く)

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◻️188『岡山の今昔』岡山人(19世紀、橋本いね)

2019-06-17 07:37:47 | Weblog

188『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、橋本いね)

 橋本いね(1827~1903)は、長崎の生まれにしてドイツ人医師のシーボルトの娘、彼女は。いねは、長崎の出島にやってきていたオランダ人医師のシーボルトと長崎の遊女「お瀧」との間の娘であった。父は、オランダ商館所属の医師をしていた。

 ところが、彼女が2歳の時、父親のシーボルトはシーボルト事件を起こして国外追放になってしまう。一時帰国の際に日本の地図を持ち出そうとしたのを咎められたのだ。その後の彼女は、シーボルトの門下生達によって養育され成人する。

 そのシーボルトの門下生の一人、岡山勝山藩の石井宗謙に岡山の地(現在の岡山市下之町界隈)について医学を学ぶ。1845年(弘化2年)から1861年(嘉永4年)まで6年間学んだ。いねは、師の石井宗謙との間に娘一人を設けたが、結婚はしなかった。

 宗謙と分別れてからは、宇和島藩主伊達宗城が後見人となっていた。いね本人にとっても、父の門下生であったことから、自分を引き立ててくれている宗城を頼って、足場を固めていく。その後、長崎に遊学する。

 我が国初の女性産婦人科医であって、将来の勉強家であったと伝えられる。1856年(安政3年)には日蘭修好条約が締結され、その翌年、禁が解かれて来日していた父シーボルトと再会を果たしたことになっている。

(続く)

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◻️261の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、薄田泣菫)

2019-06-11 07:41:56 | Weblog

261の1『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、薄田泣菫)

 薄田泣菫(すすきだきゅうきん、1877~1945)は、浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町)の生まれ。幼い頃から、人文に長けた家庭での文学熱の影響もあってか、文学に親しむ。連島高等小学校の当時から雑誌に詩文を投稿していく。

 岡山中学校へ進むも、中退する。随分と思い切りがよいではないか。そして、1897年(明治27年)には、17歳で上京し、漢学塾などに学ぶ。幸い、家族の理解と支援があったのだろう。そのすがら、上野図書館で和漢洋の書物を読んでいたというから、大したものだ。
 1897年(明治30年)には、文芸雑誌「新著月刊」に「花密蔵難見〈はなみつにしてみえがたし〉」とのタイトルで、詩を発表する。この時から泣菫の号を用いる。
 22歳にして、最初の詩集「暮笛集」を出版する。以来、1901年(明治34年)に「ゆく春」を、1905年(明治38年)に「志ら玉姫」から「公孫樹下に立ちて」までの詩篇を収めた「二十五絃」を著す。随所に、古語や漢語をちりばめた。
 1905年(明治38年)には、「ああ大和にしあらましかば」を、その翌年には詩集「白羊宮」を発表する。円熟期を迎え、古典的な中にもロマンたっぷりの詩でファンを集める。
 ところが、1912年(大正元年)には、大阪毎日新聞社に入社を果たす。その前には、国民新聞社、帝国新聞社にも勤めていたというから、驚く。やがて、毎日新聞に詩を連載していく。願ったりかなったりであったろうか。1916年(大正5年)からは、これらをまとめ、随想集「茶話」「後の茶話」そして、「新茶話」を出版していく。

 時は移っての1945年(昭和20年)には、故郷の連島に疎開していた。往年の元気はなく、病気の療養をしていて、同じ年の10月、この地で生涯を終えるのであったが、いかにも、戦後の自由な雰囲気がやってくるのを待ちわびていたのではないか。

(続く)

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◻️211『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、逸見東洋)

2019-06-09 20:11:01 | Weblog

211『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19~20世紀、逸見東洋)

 逸見東洋(へんみとうよう、1846~1920)は、超絶技巧の木工家だ。岡山城下の下之町(現在の岡山市表町)の生まれ。本名は、大吉という。

 やがて、刀工に入り、修行していく。腕を上げると、竹貫斎義隆となのる。1862年(文久2年)には、京都に出て、刀工の天龍子正隆に弟子入りする。ここでも、熱心に技術を学ぶ。1864年(元治元年)になり、郷里岡山に帰り、竹貫斎義隆の名で刀工の旗を上げる。25歳の時には、羽黒神社(現在の倉敷市玉島)に太刀を奉納して、名を上げる。

 ところが、1876年(明治5年)の廃刀令で廃業を余儀なくされる。この商売、せっかく技術を身につけたのに、なかなかうまくいかないものだ。その後は、木彫や竹彫・漆芸・堆朱・堆黒なども手がけていく。食べていかねばならないからだとも。

 腕には、自信があったらしい。鋭い切れ味を持った彫りが、言い知れぬ緊張感を誘う、とでも言おうか。

 1898年(明治28年)には、奮起して、ツゲ材の蟹の置物をつくる。これを、第4回内国勧業博覧会に出して、一等賞金牌を獲得する。また、1910年(明治43年には、堆朱食籠を明治天皇に、続いて1915年(大正4年)には、太刀を大正天皇に差し上げる。太刀の方は、兄との合作であったらしい。

 他にも柔術・弓術・書道・謡曲・茶道などもたしなんだというから、驚きだ。それらの中心となるのは、やはり、彫りの技であったに違いなかろうが、それだけに満足しなかったところが、じつに興味深い。

(続く)

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◻️189『岡山の今昔』岡山人(19世紀、正阿弥勝義)

2019-06-09 18:45:09 | Weblog

189『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、正阿弥勝義)

 正阿弥勝義(しょうあみかつよし、1832~1908)は、超絶技巧の金工家で有名だ。津山城下の二階町(現在の津山市二階町)の生まれ。彫金師の中川家8代目勝継の三男として、多感な少年時代を過ごす。

 18歳になると、岡山藩の禄(ろく)をはむ彫金師の正阿弥家の養子になる。そして、8代目の藤四郎の跡を継ぐ。この家は、藩主の用足しで生計を立てていたのだが、明治維新でその藩主との絆はぷっつり切れてしまう。

 しかも、1876年(明治9年)の廃刀令により、刀は不要になる。細工を頼みにやってくる客は、かなり減ったらしい。

 代表作の一つ、「群鶏図香炉」は、丸みがあり、左右対称だ。まさに金工 。高さ15センチメートルの香炉の本体は、銀地に金、銀、赤銅、素銅などの素材を象嵌(ぞうがん)して、鶏の群れを表しているという。蓋の文様にも、工夫が施してある。菊の花弁の1枚1枚が観てとれる。ドーム型の一枚の銀板を元に、鏨(たがね)で彫り出しているのだと言うのだが。解説なしには、なかなかに味わうのがむずかしいみたいだ。

(続く)

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◻️249『岡山の今昔』岡山人(20世紀、永瀬清子)

2019-06-09 08:30:09 | Weblog

249『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、永瀬清子)

 永瀬清子(ながせきよこ、1906~1995)は、詩人。岡山県赤磐郡豊田村松木(現在の赤磐市松木)の出身だ。幼年期の2歳から多感な16歳までは、父の赴任地であった石川県金沢市で過ごす。その後、父のまたの転勤で名古屋へ。愛知県立第一高等女学校(後の愛知県立明和高等学校)に入学する。
 在学中から、詩作をよくし、佐藤惣之助に師事し、「詩之家」同人にもなる。なにかと、積極的であったようなのだ。
 ここを卒業すると、結婚して、大阪に住む。そして迎えた1930年(昭和5年)には、第一詩集「グレンデルの母親」を刊行する。翌年の夫の転勤に伴い東京へ。それからは、ますますのめりこんでいく。

 1940年(昭和15年)には、第二詩集「諸国の天女」を著す。こちらには、高村光太郎が序文を書いていて、萩原朔太郎なども励ましの言葉を寄せる。1945年(昭和20年)には、夫の転勤で岡山に戻る。岡山市の生地で農業にも従事する。ここで、敗戦を迎える。

 戦後は、次々と詩作を重ねていく。1952年(昭和27年)には、同人誌「黄薔薇」を主宰し、後進の育成にも当たる。

 やがて、その作風が大きく展開していくのは、前々から温めていたものであろうか。なかでも、原水爆禁止や世界連邦と関わることで、社会性を色濃くしていく。

(続く)

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◻️250『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坪田譲治)

2019-06-08 22:10:06 | Weblog

250『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、坪田譲治)

 坪田譲治(つぼたじょうじ、1890~1982)は、御野郡石井村島田(現在の岡山市北区島田本町)の生まれ。生家は、島田製織所といって、ランプ芯を作っていた。

 少年時代に、父が亡くなり、兄が家業を継ぐ。譲治は、石井小学校から金川中学校へすすむ。やがての1908年(明治41年)には、早稲田大学大学に入学する。学費は、家で出してくれたようだ。

 早大在学中から小川未明に師事する。やがて、子供の登場する私小説を書くようになっていく。そして迎えた1926年(大正15年)には、小説「正太の馬」をあらわす。

 それから、鈴木三重吉にも師事して「赤い鳥」に童話を発表する。1935年(昭和10年)には、「お化けの世界」で世に認められる。つづいて「風の中の子供」や「子供の四季」を発表、こちらは、広く読まれる。
 大まかにいうと、純真で天真爛漫な子供の世界を描く。そこで詳しく描こうとするのは、無邪気に遊ぶ彼らの姿であろうか、そこはかとない世界なのであろうか。大人の現実世界と対照的に描いた。

 ふるさと岡山を愛し続け、その風物を反映させながら書いた、とも評される。とにもかくにも、「遊べや遊べ」というのなら、ありがたいではないか。

(続く)

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◻️251『岡山の今昔』岡山人(20世紀、木山捷平)

2019-06-08 21:19:58 | Weblog

251『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、木山捷平)

 木山捷平(きやましょうへい、1904~1968)は、小田郡新山村(現在の笠岡市)の生まれ。やがて、矢掛中学校(現在の県立矢掛高校)へとすすむ。その頃から、文学に目覚めたらしい。果たして、時間ゆっくりで、熟成していったのだろうか。

 その後、姫路師範学校(現在の神戸大学)へ行く。さらに1923年(大正12年)、ここを卒業し、小学校の教員となる。ところが、その2年後の1925年(大正14年)には、それをやめて東洋大学文化学科に入学する。けれども、ここもやがて中退するのだが。

 1929年(昭和4年)には、詩集「野」を出版する。1933年(昭和8年)には、同人誌「海豹(かいひょう)」を太宰治(だざいおさむ)らと創刊する。飄逸(ひょういつ)な作風の文を書いて、読者を獲得していく。

 1939年(昭和14年)には、処女小説「抑制の日々」を発表する。以後、短編を書いていく。私小説のためか、弾圧されなかったようだ。 

 1944年(1944年)には、「満州」へ開拓を目指す。中国の長春では、日本の農地開発公社の嘱託するよ社員として働く。1945年(昭和20年)には、現地で召集され、兵役に就くのだが、ほどなく日本敗戦となり、命拾いしたようなのだ。

 日本に帰国してからは、東京に住み、まずは1949年(昭和24年)、「耳学問」を発表する。また、戦争体験をもとにした長編小説「大陸の細道」を書き、これを1962年(昭和37年)に発表する。一躍、戦後の人気作家の仲間入りした。

(続く)

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◻️210『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、綱島梁川)

2019-06-08 20:10:57 | Weblog

210『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、綱島梁川)

 綱島梁川(つなしまりようせん、1873~1907)は、上房郡有漢村市場(現在の高梁市有漢町)の生まれ。宗教思想家、倫理学者で知られる。本名は、綱島栄一郎。

 1886年(明治19年)に、地元の知新小学校を卒業、同校の代用教員となる。ところが、父が死んで、ショックをうけたようだ。1890年(明治23年)には、高梁教会でキリスト教に入信する。

 1892年(明治25年)の19歳の時には、一念発起であろうか、上京する。東京専門学校(現在の早稲田大学)に進学する。母の勧めであったという。専修英語科であった。後、文科に転じる。

 その在学時から文学に傾倒する事甚だしく、「早稲田文学」に関わる。それにあきたらずか、哲学へも傾倒していく。文学は坪内逍遙の家に下宿したり、哲学は岡山県出身の西祝(にしはじめ)から教えてもらう。

 卒業後間もなく肺病となり、以後、闘病生活を続ける。当時は、よくあることであった。そんな中でも、ひるまず、宗教的思索を深めていく。神戸での療養中に、「空想的に神を考えず、人格的神の自覚」に思い至ったのだという。

 1905年(明治38年)には、自身の宗教的体験を綴った「予が見神の実験」を発表する。また、「病閒録」を著す。厳しい中なのに、その情熱は冷めることがなかった。1907年(明治40年)には、「回光録」を刊行する。類いなき、努力が必要であったろう。日露戦争が終わって、つとに時代がかわる節目、かれの文は大いに読まれる。いまも読み継がれているところでは、他に、「病間録」「労働と人生」が有名だ。

 故郷は、いまも、この思想家を忘れていない。高梁市有漢町に梁川記念碑(有漢社会教育センター:旧有漢高校内)と生誕地碑が立ち、また有漢生涯学習センターの一室には梁川記念室が設けられていて、往時の日記や原稿などを展示している。いずれも、ひたむきな精神の源流がここにあることを告げているかのようだ。

(続く)

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◻️252『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾上松之助)  

2019-06-07 21:37:02 | Weblog

252『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、尾上松之助)

 尾上松之助(おのえまつのすけ、1875~1921)は、「日本映画最初のスター」とも言われる。岡山市中区中島町の生まれ。本名は、中村鶴三。

 尋常小学校(現在の旭東小学校)を出て、上野町の呉服屋に働くが、たまたま子役で芝居の子役で出演、のめりこんでいく。1904年(明治37年)には、改名を果たす。最初は、歌舞伎俳優の頭であったらしい。

 そんな彼は、1907年(明治40年)、京都の活動写真製作者の牧野省三監督に見出され、映画俳優を志す。1909年「碁盤忠信」で映画界入り。以来 、多くの剣劇映画に出演する。

 1912年(大正元年)には、日本活動写真株式会社(日活)が設立され、それまで所属の横田商会が吸収され、そちらに俳優として移る。

 その演じる姿が、どこか愛らしい。愛称「目玉の松ちゃん」でファンの人気を得ていく。日本映画初の「大スター」というには、諸説あろうが、一時代を築いた。

 出演作品は「自来也」 (1916) 、「落花の舞」 (1925) 、「荒木又右衛門」 (1925) など、千本を下らないようだ。時代は、その間に大きくうつろいゆくのだが、尾上はその現代への橋渡し役を爽やかに演じきったのではあるまいか。

(続く)

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◻️253『岡山の今昔』岡山人(20世紀、重森三玲)

2019-06-07 20:34:48 | Weblog

253『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、重森三玲)

 重森三玲(しげもりみれい、1896~1975)は、上房郡吉川村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。築庭などを生業とする父の下で、幼い頃から目が養われていったらしい。

 1914年(大正3年)には、その三玲の設計、父施工の茶室を自宅横に完成させる。翌年には、東京へ出て、日本美術学校に入学する。専攻したのは、日本画。

 1922年(大正11年)には、「文化大学院」を創立する。また、通信教育講座としての「現代文化思潮講義録」の刊行を果たす。だが、翌年の関東大震災で閉鎖を余儀なくされる。1925年(大正14年)には、自宅の庭園を改作し、絶賛される。この年、戸籍名を、計夫から画家ミレーにちなんだ三玲に改める。

 1929年(昭和4年)には、京都に移り、日本庭園の研究団体「京都林泉協会」を仲間とともにたち上げる。その翌年には、「日本新興いけはな協会」設立を唱える。抜群の行動力で、周囲を驚かせる。

 1936年(昭和11年)には、全国の庭園の実測調査を始める。胸を踊らせてであろうか、ハイスピードで取り組み、1939年(昭和14年)には、その成果を「日本庭園史図鑑」として刊行に至る。

 それらのかたわら、作庭を進めていく。43歳の時の東福寺方丈庭園や岸和田城庭園、大徳寺庭園など、大掛かりな築造に精をだす。ほかにも、漢陽寺庭園(周南市)、ちそう菰野(横山家庭園)(三重県菰野町)、龍吟庵(京都市東山区)、常栄寺 雪舟庭(山口市)、重森三玲庭園美術館、 無字庵庭園(京都市左京区)など、多数。いかにも、その場に臨む自分と自然が一体となり動いているかのような躍動感が伝わってくる。

(続く)

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254◻️『岡山の今昔』岡山人(20世紀、人見絹枝)

2019-06-07 09:24:19 | Weblog

254『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、人見絹枝)

 人見絹枝(ひとみきぬえ、1907~1931)は、御津郡福浜村(現在の岡山市南区福成り)の生まれ。農家の次女として、幼い頃から、元気な上、利発であったという。

 福浜尋常小学校、岡山高等女学校(現在の岡山操山高校)へとすすむ。体育面では、テニス選手であったのだが、教師の勧めで県の走り幅跳び女子体育大会に出場したところ、優勝する。その後、東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)へすすみ、その第3期生としての学生生活のなかで、ある出会いがある。陸上競技を始めたのだ。

 果たして、天性の才能というべきだろうか、めきめきと頭角を表していく。その後、京都で体育教師となっていたが、大阪毎日新聞の記者として勤務するようになり、そのかたわら、陸上競技にも精をだす。我が国初の女性スポーツ記者だ。

 そして迎えた1926年(大正15年)には、日本代表として、初の海外遠征となる国際大会の走り幅跳びで優勝する。総合成績では、5位であった。

 続く1928年(昭和3年)には、日本女性初のオリンピック第9回・アムステルダム大会)出場を果たす。陸上競技女子800メートルで、他の選手と「死の激走」を演じる。銀メダルを獲得する。日本女性初のオリンピックメダリストとなる。

 1930年(昭和5年)には、第3回万国女子オリンピックにおいて、走幅跳びで世界記録を樹立して優勝する。個人総合得点では、第2位となる。なにしろ、「太ももを露にして女が走る」と罵られた時代のことだ。偏見と戦いながら、日本女性の存在を世界に示した最初の女性であり、まさに金字塔である。

 人見は、「努める者はいつか恵まれる」という人生観でも卓越していたが、その24歳の激動の人生ながら、類い稀なひたむきさで、日本のスポーツ界を興隆へと導いた。

(続く)

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