新72『美作の野は晴れて』、学舎の仲間に見送られて

2016-07-25 21:00:52 | Weblog
72『美作の野は晴れて』第一部、学舎の仲間に見送られて

 新野小学校の課程を終了し、その卒業式に参加した時の有様は半ば覚えている。講堂の向かって左前の方には、有元画伯の作と聞いている絵が架かっていた。力があふれていそうな若い男の人の厚い胸、太い腕が描かれていたのではないか。1年生の頃から、その絵を見る度に、なにかしら力が湧いてくる。あのような素朴な雰囲気の労働者の姿は、その後はなかなかお目にかかれない。
 来賓の方の挨拶の中で、年配の、70歳代とおぼしき人からお話があった。その中では、「なにくそ、なにくそという気持ちでやりなさい」いう下りである。たぶん、これか中学校に進んで、それからまた大きくなるにつれて、君たちにはつらいこと、悲しいときがたくさんあるだろう。そんなときは、「なにくそ、負けるもんか」という気概でそれらの逆境を乗り越えていきなさい、という励ましの言葉であったのではないか。その言葉は、今も私の脳裏に刻まれていて、この弱い私を支えてくれている。
 たしか卒業生の挨拶を男女一名ずつで読み上げる役どころであったようにも思われるのだが、はっきりとは思い出せない。どなたからであったろうか、在校生からの「送辞」があったのはちゃんと覚えている。卒業式の締めくくりには、「仰げば尊し」であったろうか、みんなでその歌をうたった。
 式のたけなわは、校長先生による卒業証書の児童への手渡しであった。一人ひとりが順番に進み出て、4、5段くらいの小さな階段を昇って壇上の演壇に至る。そして前の番の人と一緒に「ぺこん」お辞儀をする。前の番の人は退いていく。証書をもらう番の当人は、さっと両手を差し上げ校長先生に近づき、その手に恭しく証書を戴く。それからは、前の番の人がそうであったように、てきぱきと退く。
 その時にもらった卒業証書はいまも手元にあって、1970年(昭和40年)3月23日の日付である。いつからの番号なのかはわからないものの、第4397号となっている。
 広い講堂から出て、いったんは教室に戻ったような気がしている。担任の先生から何を言われたのかは全く記憶に残っていない。教室を出た後は、下校となる。下駄箱のあるところに出て、そこで上履きを脱ぎ、自分の下駄箱の中にあるものを残さずにランドセルや手持ちの鞄に入れ、外履きの靴に履き替えたのだろう。
「きょうは下履きを持って帰るんじゃ」
「そうじゃ、そうじゃ」
「ここへはもう終わりなんじゃなあ」
「うん・・・・・・・」
誰やらも傍かで頷いているようだった。
 私たちは、校舎のそばをくぐり抜けるようにして、長らく遊んだ校庭のとっかかり部分にまかり出る。校庭には、在校生たちが校庭で2列のアーチを作ってくれていた。既に、抑制の効いた『蛍の光』のメロディーが流されている。
 「蛍の光まどのゆき、書(ふみ)よむつき日かさねつつ、いつしか年もすぎのとを、あけてぞけさはわかれゆく。とまるもゆくもかぎりとて、かたみにおもうちよろずの、こころのはしをひとことに、さきくとばかりうたうなり」(スコットランド民謡、その由来は同地に伝わるメロディーに詩人のロバート・ハーンズが作詞したもの。日本語の訳は稲垣千◎)
 そんな中を柿の、かなり大きめの苗を1本もらって、それを手にして歩いた。ランドセルも背負っていたのであろうか、とにかくいろいろ荷物が合わさって重たかった。対角線のところをどのくらいかかって歩いたことだろう。校舎の脇で待機していた時間を除き、いよいよ校門出口に向かって歩き出したら、わずか20秒くらいの間であったろう。在校生たちはずっと手をたたいていてくれた。
「ありがとう、ありがとう。みんな。」
「先生、みなさん、大変お世話になりました。」
 あんなに大勢の人たちに見送ってもらった思い出は、今も脳裏に焼き付いて離れないでいる。
 6年間通った学校の校門を出るときは、道は右と左に分かれる。私自身は左に道を折れたグループで、その刹那少しだけ振り返った。すると、「ここまでこれて(くることができて)、本当によかった」という安堵の気持ちもこみ上げてきた。
 立ち止まって振り返ることはなかった。万感にあったのは、とにもかくにも私の小学校生活はこれで幕を閉じた、ということであった。さらに岐路を進めていくうちに連れだって下校していた仲間とも「さよなら」と簡単な挨拶を交わして別れ、自分だけの家への帰り道、田圃の中を西へ、西北へと細く伸びてゆく道を行く。その自分の足取りは何故だったのだろうか、スタスタといった具合で軽ろやかであったのを覚えている。
 「ひとりの小さな手なにもできないけど、それでもみんなの手と手を合わせれば、何かできる 何かできる・・・・・」(本田律子訳詞、ピート・シーガー作曲)とは、1962年(昭和37年)にできた大好きな歌である。ここには、この国の戦後を築いた人々の夢が刻まれているのだ。いつも口づさんでいた数歌の中から、おそらくこの歌を選んで3番まで小声で歌いながら、歩いて帰ったように思い出されるのだが・・・・・。
 まだ3月というのに、めずらしく明るい陽には暖かさが宿り、みまさかの野は晴れて、清爽、その空はどこまでも青かった。

(続く)
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新6『美作の野は晴れて』第一部、農暦の始まり

2016-07-25 10:57:16 | Weblog
6・六九の一『美作の野は晴れて』第一部、農暦の始まり

 農家の田んぼや畑は厳しい冬の間は凍てつくように冷たく、なかなかに人を寄せ付けない。太陽の光は乏しく、白と黒の世界がとめどもなくあたりをおおい尽くしているように感じていた。2月ともなれば、雪解けの季節である。同時に、3月といえども、太陽が上がっても昼近くまで踏みしめる土は霜柱の砕ける音がしたり、雪も多いときは夜が明けて底冷えがしたなと思って家の外に出てみれば、40センチメートルくらい積もっていることがくあった。そんな中にも、美作に春は刻々と近づいてきていた。
 前の年の晩秋に麦を作付してから、2ヶ月もすると、青く芽を吹いた麦に試練の冬がやってくる。そうなると、古今東西を問わずやられてきた「麦踏み」(踏圧)の作業がやってくる。麦踏みを行うのは、1月から2月にかけての頃である。効能としては、霜柱から根を守ることと、踏むことによる圧力で茎数の増加が期待できるのだといわれる。とはいえ、いいことばかりではない。冬にみぞれ混じりの雨や雪が多い裏日本では根の発育を阻害することがあり、かえって逆効果になることから、暖冬で霜の害があるときにのみ行う作業だ、と言われる。
 当時は年端もゆかぬ子供だったこともあるが、当時はそんな理屈についてはうっすら聞かされているだけで、自分で納得してやっていたわけではない。手伝うときはみんなに従って黙々と作業に没頭をしていたものだ。我が家の麦踏みは、1月、2月の霜の降りた日を選んで行う。乾燥した冬晴れの日を見計らって、家族で麦を植えてある畑や田圃に向かう。その畑や田圃には麦の小さいのが列をなして植わっている。人の足で畝に向かって交わるように達、畝を潰さないように茎葉のみをゆっくりゆっくり踏んでいく。畝の列に対して靴の長いところが交わるように踏むこと数時間、そのうちに体が白い息に包まれている。それは子供にとっては得意の農作業であった。そうとも、「子どもは風の子」。寒さ対策をきちんとしていけば、しんどくないのだ。年が明けて芽を伸ばしてきた麦達に「活力を与えるのだ」と思っていた。
 そんな麦が育って、茎をすっくと立たせるのは3月の後半になってからだ。それから何事も起こらなければ、麦たちは徐々に茎を太くし丈を伸ばして麦らしくなっていくのは4月以降のことである。途中、赤カビの付着防止のための薬剤散布があったりするものの、4月中には上の方から産毛の生えたような麦穂が芽生えてくる。その様は、かわいいことこの上ない。稀に、眺めていて感極まることもあると、どこかの大人のひとから聞いた気がする。色も、始めは薄い緑というか若草色、それからだんだんに濃くなっていく、そして段々に黄金色に色づくゆくのだ。そのたくましく育っていく姿を夢見ながら、それを励みにしながら農民たちは今日の労働に精を出す。そして、5月の麦としての成長期がやって来る。学校帰りに我が家の麦畑に入り、一房の実入り具合を調べ、まだ柔らかい実を故知に入れて噛んでみると、うっすら甘くておいしい。その月の下旬、稲の種撒き(苗代造り)の時期が来ると収穫期(「麦秋」)を迎えていく。稲に比べると、少し生育期間がはやいのかもしれない。
 コメの裏作としての麦が形を整えて育ってくる頃、3月には、一面白く霜が降ったような天気とか、まさかの大雪に遭遇したこともある。しかし、氷やつららを穿って湖面に水面が現れたり、小川のせせらぎがところどころ復活したりする。森はまだなりを潜めてい
るが、田んぼの畦(あぜ)や丘陵のよう傾斜の緩い辺りでは、緑の「牧場」が少しずつ顔を覗かしてくるように見えるから不思議だ。きっと、人間も含めて動物たちは、それらの自然の微妙な変化にもうすぐやって来る春の息吹を感じとるのだろう。
 「おおまきばは みどり
草の海 風が吹く
おおまきばは みどり
よく茂ったものだ ホイ
ゆきが溶けて 川となって
山を下り 谷を走る
野を横切り はたを潤し 
呼びかけるよ わたしに」(チェコスロバキア民謡、中田羽後の訳詞)
 いまあの頃を顧みると、厳しい農作業の中にも、農民にはさりげないが、小さな勤労の喜びをもたらしてくれる日々があることを僕らは知っていたに違いない。そして、作家モメンゴリが『赤毛のアン』(日本では村上花子が初めて翻訳)でそうした日々の祈りを演出してみせたように、そうした平穏な日々が続いていってくれることを、当時の僕も農家に生まれた子供として思わず知らず願っていたのではないか。

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(169)『自然と人間の歴史・日本篇』ペリー来航と日米和親条約(経緯)

2016-07-24 07:45:35 | Weblog
(169)『自然と人間の歴史・日本篇』ペリー来航と日米和親条約(経緯)

 1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)、アメリカの東インド艦隊の司令長官のマシュー・ガルブレイス・ペリー(1794~1858年)が、米国の大統領からの使節として黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れた。この艦隊は、戦闘態勢のまま入港したのであった。その彼は、1852年(嘉永5年)に東インド艦隊司令官に任命され、日本開国の命を負う。それまでは、米英戦争を経て、地中海の海賊征伐や奴隷のアフリカへの送還などの任務を負っていた。新たな任務に就いたペリーは、蒸気船ミシシッピー号でアメリカの東海岸を出発し、アフリカ南端の喜望峰(きぼうほう)、香港(ほんこん)、那覇を経て横須賀沖に来港したのであった。突然の黒船の来港につき、幕府側の浦賀奉行らの現地は、大変な混乱に陥る。
 「此度是非浦賀江引戻し、碇泊為致(ていはくいたさせ)候様御下知御座候而(て)は甚当惑仕り、早速応接掛江存念承り候所、是非為引戻との被大和渡之義ハ何分御受難仕(つかまつりがたく)、無余儀次第故、掛り御免相願候外無之(これなし)と申聞候(もうしきけそうろう)。其仔細は、此度之後趣意ニ相成候而は、(中略)、奉行所とハ四五里も海面掛離(かけはな)れ、如何共可致様無之(いかんともべくようこれなく)、引戻せ引戻せとの御命令、我国限り之船にても小船にて大船は引け不申(もうさず)、ただ応接掛りと通詞(つうじ)両人の舌弐枚にて掛合候事故、何分力つくニハ参り不申。・・・・・」(『南浦書信』1853年(嘉永6年)旧暦7月14日より)
 これを読むと、ちゃんとした対応をとれ、との幕府首脳の指示にもかかわらず、現場は慌てふためいているのであって、そんな余裕はないというのが出先の役人たちの本音であることがわかる。では、アメリカ側はどう考えていたのか。後年、ペリーが記した回顧録に、この時の模様が明らかにされている。
 「あくる朝(七月九日)サスクェンナ号にまず近づいてきたのは、日の出頃にやってきた一隻の小舟である。その中には見たところ、画家の一団が乗っていて、舷側近くまできたが乗船しようとはせず、いそがしげに異国船のスケッチをやっていた。だがその日の重大な訪問は七時に行われた。二隻の小舟が舷側にやってきた。その一隻は艫(とも)に三本筋の入った旗じるしをつけて、六人ばかりの役人をのせていた。前にオランダ語を話した男がいっしょにのっていて、町で一番偉い人がのっていること、乗船して協議したがっていることを告げた。それからケヤモンイエザモン〔香山栄左衛門〕という浦賀奉行〔当時の浦賀奉行は戸田伊豆守と水野筑後守で、香山栄左衛門は中島三郎介と同じ支配組与力だった。先日三郎介は、奉行(ガヴァナー)は国法で来艦できぬといっておきながら、奉行が来たと言っているのはおかしい。言葉の通じぬための聞違いか日本側の小策であったか分らぬ〕で、最高の役人と称する男が来たことが直ちに提督に報告された。ところがこれは、おととい支配組与力のいった事とはまるで矛盾しているのだ。提督は、ブキャナン、アダムス大佐およびコンテー大尉に命じて閣下を迎えさせ、自分はその政策通り、帝国の顧問(老中)以外のものには絶対に面会を拒絶した。
 奉行はその高い位にふさわしい第三級の貴族の服装をしていた。彼は金銀で縁(ふち)をとり孔雀の羽に似た模様をぬいとりした素晴らしい絹のきものを着ていた。前にいった士官が正式に彼を迎えて会談した。だが実際は、未だに引込んでいる提督と協議したことになるわけだ。奉行は、日本の国法によって大統領の親書は浦賀では受理できない。また、たとえそれを受理してもその回答は長崎へ回送されるなど、さんざん押し問答をしたあげく、艦隊はそっちへいかねばならぬとつけ加えた。これに対する答えとして、提督はそんな取りきめには絶対に同意できない。あくまでも現在いる所で親書を奉呈するときっぱりと申し渡した。さらに、万一、日本政府が彼の持参した皇帝宛ての文書を受理すべき、適当な人物を指名する用意がないなら、提督は、それを奉呈するのが義務であるから、充分な武力をもって上陸し、どんな結果になろうと自分で親書を渡すつもりであると申し渡した。
 これに対して、奉行は町へ帰って江戸へ使いを立て、更に指令をあおぎましょうとのべ、返事がくるのに四日かかるとつけたした。蒸気船で一時間もいけば江戸の見えるところにいくのだから、提督は三日間だけ(十二日の木曜日まで)待つから、はっきりした返事をしてもらいたいと伝えさせた。
 夜明けに艦隊の船から各々一隻ずつのボートが下されて浦賀港湾の測量に出かけた。奉行はこれを見て何をしているのかと尋ねたが、測量をしているのだと教えられると、そういう調査は御法度だといった。これに対して、アメリカの国法はそれを命じている。貴殿が日本の国法に従う義務があると同様、アメリカ人はアメリカの法律に服従せねばならないという返答をあたえた。これこそ「第二の非常に重要な成功だ」と提督はいっている。この問答の間、通詞は矢立を取り出して忙(せわ)しなく覚書(ノート)を取っていた。奉行のしつこい質問にいちいちわれわれが答えていたら、その報告者は全く、ひまがなかっただろう。
 その会見のとき、ワシントンで用意してきた素晴らしい箱に納めた大統領の親書と提督の信任状とが奉行にみせられたが、彼はその高価さと精巧な細工にあきらかにびっくりしていた。そしてはじめて、水と飲食物の補給を申し出たが艦隊は何もいらないと答えた。今や奉行は、日本政府の回答の通達が来る日までは何事も問答無用だということを了解しないわけにはいかなかった。そこで彼は充分これを肝に銘じて帰っていった。
 会談中、奉行とその通詞は合衆国の大統領の事を話すとき、日本皇帝と同様な尊称を使うことを要求された。前にはこの二人を異なった言葉で呼んでいたのだが、すぐにこの要求に同意した。日本のように何でもいろんな儀式が支配している国では、言葉づかいのようなものでもやかましく作法を守る必要があるのだ。そして、どんな些細なことでも、また、一向大事なことと思えないような言行にも、ぜいぜい注意してやることが、対日政策に思うような効果をあげるに大切なことがわかった。対日政策とはちょうど平面にぴったりと合わせるためには同様になめらかな平面を必要とするように、最も洗練された礼式を
非常に巧みに使うとき、はじめて達せられるのである。」(合衆国海軍省編・大羽綾子訳『ペリー提督日本遠征記』の「第六章 アメリカ艦隊、日本本土にせまる」より)
 ここにあるように碇をおろした4隻のうち旗艦のサスケハナ号に小舟を操って近づいたのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助と通詞の濠達之助らは、高官でないと面会しないというアメリカ側に対し、自分達は副浦賀奉行であると偽り、乗船することができた。ペリー側は、彼らにアメリカ大統領親書を求めた。中島は、長崎で長崎奉行が対応する旨主張し、これを断り、その日の会談は物別れに終わる。翌日、与力の香山栄左衛門が浦賀奉行だといって前日の国法に従ってほしいとの主張を繰り返す。これに対しペリー側は、横須賀沖に停泊した米艦隊は、測量艇を江戸湾深く侵入させて幕府に示威した。旧暦6月9日、困った幕府は、浦賀奉行(二人体制のうちの一人)の戸田氏栄(とだうじよし)を政府高官に仕立て、ついに久里浜(くりはま)において態度を軟化させざるを得なかった。ペリー側は、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して旧暦6月12日に退去した。日本を去ったペリーは香港へ戻り、翌年の1854年2月13日(旧暦1月16日)、軍艦7隻を率いて再渡来し、開国を迫った。これに恐れをなした幕府は、1854年3月31日(嘉永7年(安政元年)3月3日)、仕方なくアメリカとの間で日米和親条約を結んだ。

(続く)

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(95)『自然と人間の歴史』室町時代の一揆(1)

2016-07-23 22:00:17 | Weblog
(95)『自然と人間の歴史』室町時代の一揆(1)

 ところで、この室町期の日本に頻発したものに一揆があり、当時の代表的な社会風潮に「下克上」(げこくじょう)があった。まず一揆であるが、多様な形態が見られた。その中から幾つかを紹介したい。まず1428年(正長2年)に「正長の徳政一揆」(「正長の土一揆」とも呼ばれる)が勃発する。この一揆の模様は、『大乗院日記目録』という記録に、こう伝わる。
 「正長元年九月○日条
一、天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑 物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国 の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(尋尊(じんそん)『大乗院日記目録』)
 この一揆の中心地は、大和国添上郡柳生郷で、現在の奈良市柳生である。その場所に碑がしつらえてあって、奈良市指定史跡・「正長元年(しょうちょうがんねん)、「柳生(やぎゅう)徳政碑(とくせいひ)」という。これには、奈良市による説明書きが添えられていて、こうある。
 「昭和五十八年(1983年)五月十九日指定
 元応元年(1319)十一月の銘をもつ「ほうそう地蔵」の向かって右下、長方形の枠取りの中に「正長元年ヨリ、サキ者カンへ四カン、カウニヲヰメアル、ヘカラズ」と刻む。
 大正十四年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が正長元年(1428)の徳政を祈念する碑文とし、「正長元年より先は神戸四箇郷(かんべしかごう)(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ))に負目あるべからず」とその文意が現在解釈されている。
 石刻の時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高い。奈良市教育委員会」
この一揆には、近江坂本(おうみさかもと)の馬借(ばしゃく)などが中心となり、これに惣(そう、農民の自治組織)を構成していた農民たちが加わっていた。彼らは、「徳政だ」と叫びながら、酒屋や土倉、寺院などを襲って、質入れしていた物品などを略奪の上、借金証文を破り捨てて回った。管領(かんれい)職の畠山満家が鎮圧に成功したため、彼らが要求した徳政令は出なかったものの、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。
 正長の徳政一揆の翌年の1429年(正長2年)旧暦1月29日、播磨(はりま)の土一揆が起こる。『薩戒記』には、こうある。
 「・・・・・ある人いわく。播磨国の土民、旧冬の京辺のごとく蜂起す。国中の侍をことごとく攻むるの間、諸荘園代しかのみならず守護方の軍兵、彼らのためにあるいは命を失い、あるいは追い落さる。一国の騒動希代の法なりと云々(うんぬん)。
 およそ土民の申すところ、「侍をして国中に在らしむべからず」と云々。乱世の至(いたり)なり。よって赤松入道発向しおわんぬてえり。」(権大納言・中山貞親「薩戒記」)
 こちらは、「侍をして国中にあらしむべからざる所」ということでの、守護の赤松氏の退去を要求する。大胆不敵とも言えるこの一揆のスローガンではあるが、結局は播磨の守護の赤松満祐(あかまつのりすけ)によって鎮圧された。
 さらに1474年(文明6年) 、加賀で一向宗門徒による「一向一揆」が起こる。これを『大乗院寺社雑事記』が伝える。
 「文明六年十一月朔日、加賀国一向宗土民 無□光宗と号す、侍分と確執す。侍分悉く以て土民方より国中を払はる。守護代侍方に合力するの間、守護代 こすぎ 打たれ了んぬ。一向宗方二千人計り打たれ了んぬ。国中焼け失せ了んぬ。(中略)土民蜂起希有の事なり」
 こちらでは、一向宗(浄土真宗)の本願寺門徒が立ち上がった。加賀を支配していた守護、富樫政親と住民との対立が激化していく中での出来事であった。1488年(長享2年)、本願寺門徒がついに高尾城に富樫政親を攻め滅ぼす。加賀の国ではこの後百年余りの間、本願寺教団と国人(地侍)らの連合による「百姓の持ちたる国」が確立し、彼らによる領国支配が行われる。後日談ながら、1580年(天正8年)、北陸本願寺教団の平定が、織田信長配下の柴田勝家により行われる。そして1582年(天正10年)、最後に残っていた城主鈴木出羽守を中心とする、3度目の鳥越城攻めを行い、これを以て長い戦いを収束させる。

(続く)

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(44)『自然と人間の歴史・日本篇』奈良時代の都と地方

2016-07-23 19:10:39 | Weblog
(44)『自然と人間の歴史・日本篇』奈良時代の都と地方

 702年(大宝2年)、持統天皇の後の文武天皇は難波(なにわ)への遷都を思い立ち、「行幸」をしていたところ、急逝し、その母が元明天皇として即位すると、今度は藤原宮の北方の奈良の地に遷都する動きとなっていき、708年(和銅元年)に平城京への遷都の詔(みことのり)が発せられる。710年(和銅3年)、巨額の費用と全国の人民の労役が投入されることで、ついに平城京の建設がなされ、遷都が行われた。1959年(昭和34年)以降1998年まで発掘調査によって、平城京(平城宮)の全貌はかなり明らかになっている。その物理的範囲としては、東西約5.9キロメートル、南北が約4.8キロメートルに渡っていた。その北端には、周囲を5メートルくらいの高さの築地塀(つきじべい)で囲んだ中に、東西約1.3キロメートル、南北約1キロメートルの宮内があった。その宮内には天皇が暮らす内裏(だいり)や、大和政権の政治や儀式を行う大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)などが鎮座していた。「二官八省」と呼ばれる官庁の建物の大方もこの中にあって、1万人を下らないとも言われる役人が働いていたのだと推測されている。
 この大いなる都を建設するのに当時られた人的・物的資源はどのくらいであったのだろうか。エジプトの大ピラミッドに動員された程ではないにしても、当時の倭(「わ」あるいは「やまと」)の国力としては「空前絶後」の工事てあったことは、想像するに難くない。わけても、畿内や近江など、都の近郊域では、労役が租庸調(そようちょう)の中の労役に当たる庸(よう)として、いわば半ば強制労働としてかり出されたのではなかったか。この事業に動員された人民の苦しい様子は、少なく見積もっても、相当数の苦役からの逃亡者があったことからも窺える。それは、古代エジプトのピラミッドづくりが奴隷労働でなかったことと比べても、対照的だったと言える。
 我が故郷に関係するところでは、この令により、吉備の国が三分割された。吉備の「前つ国」と呼ばれていた東部の地域は「備前」、中央部を占めていた「中つ国」は「備中」に、そして西部に位置していた「後つ国」は「備後」となった。備後については、713年(和銅6年)、その北およそ半分が「美作」として分離された。いずれも、吉備の勢力の力を、ヤマトの勢力がそぎ落とそうとしていたことが窺える。これらを反映して、『吉備総鎮守』の位置づけの吉備津神社も、吉備の国が三つに分けられる際にそれぞれの国へ分霊されてしまう。分国後の神社の所在地は、まず「備中」国の神社本殿が元々の吉備津神社であって、現在の岡山市北区吉備津、交通では岡山駅からJR吉備線に乗り、吉備津駅で下車して徒歩約10分のところにある。その本殿と拝殿はともに国宝に指定されている。この備中の吉備津神社本殿は、いったん焼失していたのを、1390年(明徳元年)、室町幕府三代目の将軍足利義満により再興の命が出て、1401年(応永8年)に本殿が出来上がり、還宮の儀が行われ、これが現在に引き継がれている。本殿が国宝になっているのは、「比翼入母屋造り」と呼ばれる珍しい建築様式に由来するのだろうか。それに加えて、建坪が約260平方メートルもあって、現存する本殿としては京都にある八坂神社に次ぐ大きさである。。
 それから、「備前」国の神社の所在地は、現在の岡山市北区一宮に、そして「備後」の神社が現在の福山市新市町宮となっている。備前の方は、備中の社と、吉備の中山という標高170メートルばかりの小山を挟んで東西の関係にある。この両社は、元は一つの神社の二つの社であった可能性も指摘されているところだ(渋谷申博「諸国神社、一宮・二宮・三宮」山川出版社、2015)。さらに備後・吉備津神社については、備後国の一宮かどうかはわからないらしく、現在の広島県福山市にあるスサノオを祀る神社の方が一宮という説もあり、その文脈では、「備前国の場合と同じように備中国の吉備津神社が実質的な一宮であったとすると、当社はその出張所的な存在だったのかもしれない」(同)と言われる。
 なお、この3国のうち「備中」に相当するのは、岡山県西部の倉敷(現在の倉敷市、早島町)、吉備路(現在の総社市)、井笠(現在の井原市、笠岡市、浅口市、矢掛町、里庄町)、高梁(現在の高梁市)、新見(現在の新見市)の5つの地域となっている。これらのうち、水島灘に浮かぶ高島、白石島、北木島、真鍋島、大飛島(おおひしま)、六島などは「笠岡沖(備中)諸島」と呼ばれる島々であって、その多くが互いを気遣うように肩を寄せ合い、水墨絵にあるように畳重なるように浮かんで見えており、ここが瀬戸内海国立公園の名所の一つであることを覗わせている。加うるに、現在では「備後」の地域のみは、笠岡市用之江地区を残して大半が広島県(福山市周辺)へ移行しているが、この福山から西に芦田川を越えたところを南下していくと、奈良時代から歌に詠まれている景勝地・鞆の浦(とものうら)と、その周辺の仙酔島、つつじ島などがある。毎年のように新春にテレビ放送されるのは、宮城道雄の箏曲「春の海」の調べにのっての、この辺りの海であるのか、その番組を観る者は巧みに織りなす、瀬戸内ならではの絵図にいざなわれる。
 「鞆の浦の磯の室木見むごとに相見し妹は忘らえめやも」(『万葉集』、730年(天平2年)12月、大伴旅人が九州太宰府に赴任していたのであるが、奈良の都に帰る途中で立ち寄り、歌ったとされる。)
 これと同じ歌の書き下しなのだろうか、
 「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」(『万葉集』、730年(天平2年)12月。
 この首の現代訳は、「死んだ妻が見た、鞆の浦のむろの木は、変わりなく不老不死であるけれじ、見た人は最早いない。」(折口信夫『日本文学全集・口訳万葉集』など、河出書房新社、2015より引用)

(続く)

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(41)『自然と人間の歴史・日本篇』「日本」の登場

2016-07-23 19:07:35 | Weblog
(41)『自然と人間の歴史・日本篇』「日本」の登場

 672年(天武元年)の壬申の乱(じんしんのらん)で天武天皇の親政になってから、国名をそれまで使用されていた呼び名「倭」を改め「日本」とする方針は示されていた。
このことは、韓国の歴史教科書にも、「日本という国号は702年に唐に使者を派遣する時にはじめて使用されたと考えられている。『三国史』には、新羅(シルラ)の文武王10年(670年)に日本の倭国が国名を変更・・・・・」(徐毅植他著・君島和彦他訳「日韓でいっしょに臨みたい韓国史ー未来に開かれた共通認識に向けて」明石書店)と説明されている。当時は、何事も中国大陸の王朝の意向がものをいっていた時期なので、その王朝が認めたという意味が重要視されたのであった。
 なお、この「日本」の名のついた由来としては、同著によると、「太陽が昇る場所に近いことから、このように変更したと伝えている」(同)ところである。他にも、百済(ペクチェ)系倭国の別称である「日下(クサカ)」の「下」の字を「本」に替えた、という説がある。次に、この「日本」の読み方であるが、訓読みにすると「ひのもと」で、呉音による音読みでは「ニッポン」という説がある。また、「古代やまと言葉」による読みとしては、より古い形の「ラマト」から、ラ行音→ヤ行音韻変化による「ヤマト」であったとの説も唱えられている。
 この時期における今ひとつの変更は、それまでの「大王」の呼称を改め「天皇」と呼ぶことであった。この飛鳥浄御原令(あすかきよみがはられい)が出される以前、彼は自分のことを「天武天皇」と呼ばせていた可能性がある。そうだとすると、この天皇への名称変更によって、過去に遡った変更がなされた。それまでの歴代の大王や建国神話に登場する権力者たちの諡(おくりな)に「天皇」の尊号を用いることとなる。例えば、720年(養老4年)に編纂された国史『日本書紀』において、歴代の「大王」たちは、それぞれの治世の時には呼称されていなかった「天皇」として事績が伝えられる。それ以後は、これがこの国の発生以来の子々孫々、連綿たる家柄のその人への呼称として、少なくとも以後1945年(昭和20年)8月の第二次世界大戦での敗北までは、大方の日本人の心に深く沁み込み、その上代からの意識は濃い、薄いの違いはあれども、連綿とつながってきたのではないか。
 参考までに、網野善彦は、日本の歴史学者にしては珍しく、この国の古代から現代までを通暁した視点に立ち、「日本とは」の問に対しても、旧来の権威主義的な論調に抗して新風を吹き込んだ。
 「しかし「日本」という国号、国の名前がいつ定まり、「天皇」という王の称号がいつ公的にきまったかについては、後にものべるが、研究者の間では多少の意見の相違はあれ、大筋では一致している。大方の見解は七世紀末、六八九年に施行された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)とするが、それと異なる見解にしても七世紀半ばを遡らず、八世紀初頭を下らない。「日本」はこのときはじめて地球上に現われたのであり、それ以前には日本も日本人も存在しない(ここで「日本人」というのは「日本国」の国制の下にある人々で、それ以上でも以下でもない。私は日本人という言葉はそのような意味で使うべきで、これにさまざまな意義を加えるのは、問題を曖昧(あいまい)にすると考えている。」(網野善彦『「日本」とは何か、日本の歴史00』講談社学術文庫、2011、以下この引用の終了まで同じ、第一章「日本論」の現在2.日本人の自己認識ーその現状)
 「それゆえ、「日本国」の「建国」をもしも問題にするならば、この国号の定まった時点にするのが事実に即して当然であり、実際、七〇二年、中国大陸に渡ったヤマトの使者は周の則天武后(そくてんぶこう)(国名を唐から周に変えた)に対し、それまでの「倭国(わこく)」に変えて、はじめて「日本国」の使者といい、国名の変更を明言したのである。そこには大陸の大帝国に対し、小なりとも自立した帝国となろうとする列島のヤマトの支配者たちの強い意志がこめられていた。」(第一章日本論」の現在2.日本人の自己認識-その現状)
 「とすれば、この国号の確定された七世紀末が、日本国の歴史はもとより、日本列島の社会の歴史の中でも、きわめて重大な画期であり、日本人の自己認識の出発点となるべき最重要な事実であることはいうまでもない。」(第一章「日本論」の現在2.日本人の自己認識-その現状)
 「にもかかわらず、国旗の掲揚と国歌の斉唱を求め、日の丸・君が代を教育現場で生徒に教えることを強く求めている文部省の学習指導要領には、「日本」という国号がいつ定まったかについて一言の言及もない。おのずと、ごく最近、本文あるいは注でこのことにふれた高校教科書が現われたのをわずかな例外として、小・中・高の教科書には国名に関わる記述はまったくなく、逆に「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」のように、あたかも縄文・弥生時代から日本が存在し、日本人がいたかのような記述が広く見出される。ときには「旧石器時代に日本人がいた」などという新聞記事も現われているが、これらは「神代(かみよ)」から日本が始まったという、戦前の教育と大同小異といわざるをえない。」(第一章「日本論」の現在2.日本人の自己認識-その現状)
 「この多様な列島諸地域の中で、最初の本格的な国家、「日本国」が七世紀末に確立するが、それが列島全域をおおった国家ではなかったことも、案外、意識されていない。ちょっと考えればすぐにわかるように、この国家は列島西部--北部九州、四国、本州西部を基盤とし、ヤマトに中心を置き、異質な地域と意識されていた中部以東、関東、東北南部をその国制の下にいれたのみであり、南九州以南、東北北部以北はその中には入っていなかった。日本国は軍事力によってこの地域を侵略、征服しようと試みたが、百年以上にわたる断続的な侵略に対して東北人は頑強に抵抗し、東北最北部にはついに十一世紀後半から十二世紀半ばまで、日本国の国制は及ばなかったのである。もとより北海道・沖縄は十九世紀半ばまで日本国の外にあり、沖縄には十五世紀以降、日本国とは別の国家、琉球王国が成立していた。明治以後の近代の日本国は、やはり軍事力を背景にこれを併合し、アイヌを強制的に日本人にしたのである。また日本国内部にも、東国と西国の社会の異質さを背景に、別個の王権が並立したこともあったのであり、日本国の分裂する可能性もありえた。」(第一章「日本論」の現在 2.日本人の自己認識-その現状)
 「それゆえ、「日本は単一民族、単一国家」などというのは、まったく事実に反する”神話”といっても過言ではないのであり、この点を事実に即して考えることも、本書の重要な課題の一つである。」(第一章「日本論」の現在2.日本人の自己認識-その現状)
 私見では、一般に民族とは、ある時代を通して、体質(血脈など)・言語・宗教・道徳・生活慣習(風俗・習慣)など、文化的な観点から見て、同質性を有し、かつ共通認識としての民族意識をいだいている一とまとまりの人びとのことをいう。ところが、近年のグローハリゼーションの進展につれ、その共通認識なるものがばらけたり、弱まったりすることにより、民族概念がとみに曖昧になりつつあるのは否めない。現在、ある国の国民が同一民族というのは一国もなく、精々、多数派の民族が少数の民族とともにある。この場合には、多かれ少なかれ、少数民族問題を抱えるのが必然だ。諸民族の複合(民族のるつぼ)としての国家もあるし、これこれといった民族性が希薄な、あるには希薄になりつつある人間集団が国をつくっているところもある。一般に国民というのは、ある国家に国籍を有する人々の集団をいう。しかし人文地理学でいう国民は、国籍が同じというだけにとどまらず、民族的な要素と地理的な要素(日本語では、あわせて「風土」と呼ぶことがある)とが加わってくるように思われる。だから、国民と民族は一致するとは限らない。
 この日本がまだ「倭」と喚ばれていた頃、大和の大王家では、東北の蝦夷と南九州の隼人を一括して「夷○」(いてき)と呼んで、公民とは異なる概念で区別していた。その当時の蝦夷の範囲としては、鈴木拓也氏が次のように概括しておられる。
 「蝦夷論の現在の到達点は、熊谷公男の著作に示されているので、ここではそれに拠りつつ、ごく簡単に述べておく。まず蝦夷の居住範囲は、日本海側は新潟市、内陸部は米沢盆地、太平洋側は仙台平野を南限とし、それより北の東北・北海道と考えられる。その根拠は城柵と国造(くにのみやつこ)の分布である。城柵は蝦夷支配の拠点で、その南限は、新潟市内に推定される○足柵(ぬたりのさく)、米沢盆地に推定される陸奥国優○曇評(うきたむのこおり)(後の出羽国置賜(おきたま)郡)の柵、そして仙台市太白(たいはく)区に所在する郡山遺跡(多賀城(たがじょう)以前の城柵・陸奥国府)である。(中略)国造制(こうぞうせい)の成立は六世紀前半から半ばにかけてとみられ、『日本書記』敏達一〇年(五八一)閏二月条には令制下とは異なる内容を持つ蝦夷綾糟(あやかす)の服属儀礼がみえることから、蝦夷観念の成立は六世紀半ば頃と推定されている。」(鈴木拓也『律令国家と夷○』:岩波講座『日本歴史』第5巻古代5、2015に所収)
 また蝦夷地域で使われていた言語・文化の特色としては、引き続いてこうある。
 「蝦夷は北海道的な文化要素と、畿内的な文化要素の両方を持っており、前者を強調したのが江戸時代以来一般的な蝦夷アイヌ説、後者を強調したのが第二次大戦後に有力になる非アイヌ説である。北海道的な文化要素とは、まず蝦夷の言語がアイヌ語であったことである。東北北部には、「・・・ナイ(沢・川)」「・・・ベツ(川)」などアイヌ語で解釈できる地名が分布し、文献史料にもアイヌ語的な地名・人名や「蝦夷訳語(通訳)」が見えることから、蝦夷の言語はアイヌ語であったと考えられる。また東北北部から北海道系の続縄文土器・擦文(さつもん)土器が出土すること、蝦夷の狩猟に関する文献史料の記述には実録的で文飾とはいえないものがあることが挙げられる。一方、畿内的な文化要素とは、蝦夷が稲作を受け入れ、土師器(はじき)・須惠器(すえき)を使用していたことである。」(同) 

(続く)

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(78)『自然と人間の歴史』鎌倉時代の諸産業

2016-07-21 21:35:55 | Weblog
(78)『自然と人間の歴史』鎌倉時代の諸産業

 鎌倉幕府の成立は、わが封建社会の一段の発展を示すものであった。それでも、「この時代にはいまだ朝廷の領地も貴族や社寺の荘園も相当広く残存しており、武家が完全に日本全土を支配したのではなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。この時期の経済の基礎にある田畑経営を巡っては、稲作とともに麦を加えた二毛作が始まった。刈敷や草木灰などで肥料を創り出し、これを田圃や畑に蒔いた。耕作には、鉄製の鍬を用いた。牛に鉄製の鋤きを引かせ、地面を深く耕すようになっていく。これらは生産力を高め、多くの地方では自給自足経済から徐々に抜け出していく。
 鎌倉時代も後半になると、生産力の上昇とともに遠隔地を結ぶ商品の輸送も増加していく。荘園からの年貢の保管・運送などに当たっていた者が、商業活動に従事することにもなっていく。
おりしも、都市や町では、社会の余剰生産物のやりとりを巡って定期市が立ち出す。三斎市は、月に3度の市で人々が集う場となった。地方でも、市が立つようになっていく。定期市の風景が13世紀末に描かれた『一遍上人絵伝』に見られる。この市は、当時の備前国東部を南北に流れる吉井川と山陽道が交わる場所に立っていたもので、「福岡の市」(現在の岡山県瀬戸内市)と呼ばれた。人々で賑わう市では、布や米、魚や履物などの日用品が取引されていた様子が見てとれる。常設の店舗である「見世棚」も出現した。都とその周辺、中央と地方を結んでの行商も現れる。京都とその周辺で活躍したのが「大原女」や「桂女」と呼ばれる女性の行商人、遠隔地まてで脚を伸ばして品物を売り歩く「連雀商人」も現れる。こうした職業女性につき、網野喜彦氏はこう伝えておられる。
 「鮎売りの商人であった桂女と同じような女性商人は、すでに平安後期にその姿を見出すことができる。さきにふれたように、『本朝無題詩』には「家郷」を大原山に持つ「炭売女」や「売物女」が現れるが、前者が『東北院職人歌合』では桂女と、『七十一番職人歌合』では炭焼と番いにされている大原女(小原女)であったことは、もとよりいうまでもない。この女商人たちは、平安後期依頼、大原刀禰(とね)に率いられ(『小右記』治安元年(1021)三月二十八日条)、朝廷の行事所に炭を貢進し、院の「下部」ともいわれた炭焼の集団の女性であった(『小右記』嘉保二年(1095)六月二十五日条)。」(「網野喜彦著作集」第十一巻、「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)
 農業の他にも、手工業が発達していく。鍛冶や窯業、大工などの「工人」といった。農業や日常生活に関わるものから、しだいに職種、範囲が広がっていく。手工業が繁盛するところに市が立ち、手工業者が集中して住む町、都市ができていく。その影響で生産物が増えると、これを消費地に運ぶ仕組みが必要となる。陸上輸送は、問丸(といまる)と呼ばれる業者が出現する。かれらは、畿内を中心に年貢米などの輸送(交通業者)や保管(倉庫業者)、卸売り(大方は委託販売としてのもの)担うようになっていく。
 こうして経済活動が活発化する中、売買の際に貨幣が平安期より広範に使われるに至る。年貢などの銭での納入も「代銭納」と呼ばれ、徐々に普及していく。当時の日本国内では政府による貨幣の鋳造が行われていなかったため、宋から輸入した銅銭(宋銭)が多く使われていた。日本で平安時代以前に作られたいわゆる皇朝十二銭も一緒に使われていた。宋以前の中国の銅銭も少し混ざっていた。
 貨幣経済の社会への浸透に伴い、金融業としての「借上」(かりあげ)が現れる。借上は、平安時代後期から南北朝時代の金融業者であって、高利、無担保で米銭を貸した。延暦寺(えんりゃくじ)の下級僧侶(そうりょ)である山僧の中にも、借上を業とする者が出てきた。彼らは、「山僧(さんそう)借上」と並び称せられた。また女性の借上もかなり現れる。信用経済ということでは、決済、為替、金銭の輸送を「割り符」と呼ばれる手形で代用する制度が社会に浸透していく。

(続く)
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(75)『138億年の日本史』承久の変後の政策(政策)

2016-07-19 22:23:47 | Weblog
(75)『138億年の日本史』承久の変後の政策

承久の変の乱後処理に伴い、全国でおよそ3千箇所もの朝廷の所領が幕府の財政に入った、とも言われる。幕府が行った朝廷側の財産処分などは、こう説明される。
 「後鳥羽上皇は膨大な所領の所有者であったが、幕府はそれらを没収した。すなわち庁分御領七十九か所、安楽寿院四十八か所をはじめ200か所を越える荘園がそれである。これらは上皇の兄、後高倉院(後堀川の父)に与えられたが院領の進止権(しんしけん)(自由に処分できる権利)は幕府が掌握した。上皇に近かった公卿はすべて遠ざけられ、あるいは解任され、かわってこれまで幕府と密接な関係にあり、承久の乱勃発時における情報提供者であった西園寺公経が朝廷の実権を握ることとなった。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 幕府はこうして手に入れた田畠を、新しい税法下で新たに補した地頭に管理させる。次に見える書置きは、幕府によるそのことの確認となっている。
 「去々年の兵乱以後、諸国の荘園郷保(しょうえんごうほ)に補せられるる所の地頭、沙汰の条々。
一、得分の事。
 右、宣旨の状の如くば、仮令(けりょう)、田畠(たはた)各(十一)町の内、(十)町は領家国司(りょうけこくし)の分、(一)丁は地頭の分、広博狭小を嫌はず、此の率法を以て免給の上、(加徴)は段別に(五)升を充(あ)て行はるべしと云々。・・・・・貞応二年(1223年)七月六日、前陸奥守(北条義時)判、相模殿(北条時房)」(『新編追加』)
 この新法を「新補率法」といい、その仕事を担う地頭のことを「新補地頭」と呼ぶ。また「加徴」というのは、いわゆる「兵糧米」とは異なる。それは、領主(国司)に納める年貢に加え地頭が徴収するもので、彼ら自身の取り分となる。それが1反当たり5升認められるというのだから、併せて、新たに獲得した幕府領地からの収益に係る新地頭の取り分全体としては、11町につき1町の免田、山や川からの収益の半分に、この1反当たり5升の加徴米が加わる仕組みとなっている。ちなみに、3代執権の北条泰時の婿、足利義氏は、この乱に寄与した功績により、美作国以下数カ所の領地を得ている。
 それでは、鎌倉初期の武家政治の仕組みはどうであったのか。1224年(元仁2年)に執権となった北条泰時が、連署(れんしょ)北条時房や評定衆(ひょうじょうしゅう)とともに編纂(へんさん)したものが、1232年(貞永元年)に制定された御成敗式目(貞永式目と通称される)である。武家政治の基本の約束事を述べたこの式目は、はじめは35条までが作られ、そのあと付け加えがあり、全部で51箇条になる。当時の社会の根本的な生産関係は、土地を巡るものであり、関係者に対し政治権力で土地を所有する権利を保障するものとなっている。
「第七条
一、右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事
右或募勳功之賞、或依宮仕之勞拜領之事、非無由緖、而稱先祖之本領於蒙裁許、一人縱雖開喜悅之眉、傍輩定難成安堵之思歟、濫訴之輩可被停止、但當時給人有罪科之時、本主守其次企訴訟事、不能禁制歟、次代々御成敗畢後擬申亂事、依無其理被弃置之輩、歴歳月之後企訴訟之條、存知之旨罪科不輕、自今以後不顧代々御成敗、猥致面々之濫訴者、須以不實之子細被書載所帶之證文
第八条
一、雖帶御下文不令知行、經年序所領事
右當知行之後過廿箇年者、任右大將家之例、不論理非、不能改替、而申知行之由、掠給御下文之輩、雖帶彼状不及敍用」
 又、諸国の領国支配と幕府財政などの基本的仕組みについても、全国に守護と地頭を億こととし、次のように言及している。
「第三条
一、諸國守護人奉行事
右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〈付、夜討強盜山賊海賊〉等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役并謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也
ー中略ー
第五条
一、諸國地頭令抑留年貢所當事
右抑留年貢之由、有本所之訴訟者、即遂結解可請勘定、犯用之條若無所遁者、任員數可辨償之、但於爲少分者早速可致沙汰、至過分者三箇年中可辨濟也、猶背此旨令難澁者、可被改所職也」

(続く)

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(91)『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達)

2016-07-19 22:21:49 | Weblog
(91)『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の経済(産業の発達)

 室町時代に入ってからの政治状況では、全般に「14世紀末から15世紀にかけて、諸国の守護はほぼ特定の大名に固定してくる。」(網野善彦「日本の歴史・下」岩波新書、42ページ)。このことは、「この時代(鎌倉時代)から南北朝時代、室町時代を通じて荘園は武家によってしだいに併呑せられ、貴族は実勢力の小さい一小階級として残存したにすぎなかった」(土屋喬雄「日本経済史概説」東京大学出版会、1968)と言われる。この間に武家相互のあいだにしばしば戦争が行われ、さまざまな場所で弱小なものが強大なものによってしだいに併呑されていく過程で、地方の権力が確立されてゆき、中央の幕府権力は名目だけのものとなっていったことが窺える。
 それでは、室町の幕府を初めとした諸権力を支える下部構造、経済はどのようであったのだろうか。農業面では、鎌倉期の二毛作が普及していく。二毛作で米、麦、そばの栽培開始が広くあった。従来からの肥料に代わって下肥の使用が開始された。灌漑も、戦国大名たちの地方制覇に従って、ますます組織的に行われるようになっていく。稲の品種改良として、早稲、中稲、晩稲の栽培が見られる。一部には、外来米の普及もあったらしい。どの栽培がさらに発展していく。殊に冬作に、豆作が普及していく。食料以外も、生糸や「からむし」と呼ばれる衣服の原料、染料そして荏胡麻(えごま)といったところか。
 これから述べる座とは、「英国中世のクラフト・ギルドあるいはドイツのツンフトに類似するもの」(土屋前掲書)としてあった。商品の製造、小売から、品物の運送や建築を手掛けるものまで、広範な業態を示した。畿内が中心で、淵源は鎌倉時代末の1323年(元享3年)に京都の綾小路町に紺座、七条町には干魚座があったことで知られる。
 やがて室町期になると、座が本格的な発展の時期を迎える。公家や寺社を本所(ほんじょ)と仰いで、彼らに労役や年貢(一種の営業税か(座役))を納入し、庇護を求め、商売の向きは独占的な特権を手にすることでの仕入れ、販売を行うことで収益拡大を目指した。大山崎油座(もしくは、荏胡麻油座ともいう、石清水八幡宮を本所とする)、酒麹座(北野神社を本所と仰ぐ)、綿座(祇園社を本所に戴く)といった、より大規模な座が繁盛の時を迎える。これらの民間の座に、公家を本所とする座、寺社の経営する座を加えると、あわせて数十もの座のあったことが史料にみうけられる。同様に奈良の地でも、寺社を中心にその展開が見られる。この組合は、はじめは商工業者の活動を促進する方向に展開したが、商品経済の発達につれ、やがてその閉鎖的なあり方が桎梏(しっこく)と化していく。やがて公家や寺社の統制力が失われてくると、かような性格を持つ座に加わらない新興商人たちの台頭を食い止めることができなくなってゆく。
 高梁正彦氏も、こう説明しておられる。
 「生糸は公家、寺社、武家などの支配者階級の要求によって生産され流通した。遠隔地から年貢米の京上が困難な時は生糸が代わって大都市へ納入された。十四世紀末には京都に綾座、錦座などが成立している。○(からむし)は当時の庶民から支配者階級までの日常衣服の原料である。全国的に生産されていたが、特に越後産が優れていた。京都、奈良
には十五世紀に白布座、布座が成立して商品経済化が進んだ。荏胡麻は灯油の原料で、前述の通り、離宮八幡宮の神人らが取り扱ったことで有名であるが、奈良では興福寺の大乗院を本所とする符坂油座があって、吉野地方生産の原料を独占して大和国中での油の専売権を強めていった。染料には茜、藍、紫などがある。」(村山光一・高橋正彦「国史概説Ⅰー古代・中世」慶応義塾大学通信教育課程教材、1968)
 この時代には、流通もさらに発展した。定期市として六齋市が立つようになっていく。鎌倉期の月に三度の市開催であったのが室町の世になると六度の開催に増えたわけだ。京都では、「淀の朝市」や「三条・七条の米市」が繁盛した。地方での市はこの時代、さらに発展していった。さらに、鎌倉期に続いて、小売業の増加も見られた。例えば、鎌倉期からの「桂女(かつらめ)」による売り歩きについては、次のように言われる。
 「戦国期に入る頃から、桂女は「勝浦女」「勝浦」と書かれるようになる。摂津の石山本願寺の証如のもとには、天文五年(1536)以降、連年、都市の始めに「佳例の鮒」「鰹一編・樽一荷」を持参して、「勝浦女」が訪れ、証如から毎年の祝儀・小袖などを与えられた(『証如上人日記』)。桂女はときには七月にも姿を見せ、小袖や鮎鮨を持参しており、そこには、かつての鵜飼の女性、鮎売の女商人の面影をうかがうことができるが、注目すべきは、天文五年正月一〇日に来た桂女が「和睦珍重」としてさきの鰹を持参しており、天文一二年(一五四三)には、「誕生の儀につき」として、昆布を持ってきている点である。」(「網野善彦著作集」第十一巻「芸能・身分・女性」岩波書店、2008)

(続く)

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(68)『自然と人間の歴史・日本篇』荘園の拡大(10世紀まで)

2016-07-12 09:13:29 | Weblog
(68)『自然と人間の歴史・日本篇』荘園の拡大(10世紀まで)

 律令的な人民の支配(公地公民の制)も、10世紀に入るとだんだんに崩れていった。例えば、988年の尾張国からの訴えの解文(げぶみ)には、こうある。
 「尾張国の郡司(ぐんじ)百姓等(ひゃくせいら)解(げ)し申す。官裁を請うの事。
 裁断せられんことを請う、当国守(とうこくのかみ)藤原朝臣元命(あそんもとなが)、三箇年内非法の官物を責め取り、并(なら)びに横法(おうほう)を濫行(らんぎょう)すること三十一箇条の愁状(しゅうじょう)。
一(1)、裁断せられんことを請う、例挙(れいこ)の外(ほか)に三箇年の収納、暗に加徴(かちょう)せる正税四十三万千二百四十八束の息利(そくり)十二万九千万百七十四束四把(わ)一分(ぶ)の事。(中略)
一(3)、裁断せられんことを請う、官法の外意に任せて租穀段別三斗六升を過徴するの事。(中略)
一(4)、裁断せられんことを請う、進る所の調絹の減直、并びに精好の生糸の事。(中略)
一(7)、裁断せられんことを請う、交易(きょうやく)と号して誣(し)ひ取る絹・手作布・麻布・漆(うるし)・油・○(からむし)・茜(あかね)・綿等の事。
一(13)、裁断せられんことを請う、三箇年池溝并びに救急料稲万二千余束を充て行 わざるの事。(中略)
一()、裁断せられんことを請う、旧年用残の稲穀を以て京宅に春運せしむるの事。 (中略)
一(27)、裁断せられんことを請う、守(かみ)元命朝臣京より下向するに、毎度有官散位の 従類、同じく不善の輩を引率する事。(中略)
一(30)、裁断せられんことを請う、元命朝臣の子弟郎等、郡司百姓の手より雑物を 乞い取るの事。(中略)
一(31)、裁糺せられんことを請う、去ぬる寛和三年二月七日諸国に下し給わるる九 箇条の官符の内、三箇条を放ち知らしめ、六箇条を下知せしめざるの事。 (中略)
 以前の条の事、憲法の貴きを知らんがために言上すること件の如し。(中略)望み請ふらくは、件の元命朝臣を停止せられ、改めて良使を任じ、以て将(まさ)に他国の牧宰(ぼくさい)をして治国優民の褒賞を知らしめんことを。(中略)仍(よ)りて具(つぶさ)さに三十一箇条の事状を勒(ろく)し、謹みて解す。
  永延(えいえん)二年(988年)十一月八日、郡司百姓等」(『尾張国解文』)
ここに守(かみ)某とあるのは、受領(ずりょう)と略称される地方の国司(こくし)をいい、「郡司百姓等」は地方の有力農民を指す。これらの項目について、調べの上、「官裁」(太政官における裁定)をお願いするとの「解」(上申文書)なのだ。例えば7条目に「交易」云々とあるのは、正税で地方の産物を買い、中央に送る制度によるのだといって、生産者から作物を騙し取っていたことを告発したもの。これらからは、律令制の下、上級貴族なり寺社なりの土地・人民の私的支配に対する、地方の富裕農民層の抵抗が読み取れる。
 荘園領主の中には、朝廷に「不輸租田」を申請し、税を免除してもらう者も現れる。そりが認められると、官省符荘(かんしょうふしょう)、具体的には「太政官符」と「民部官符」と呼ばれる免状が発布されることになっている。しかし、当該の例の如く、それが発布されていなかったことから、現地の国司との間にしばしば紛争が引き起こされていた。
 「太政官符す。伊勢国司。
 応に醍醐寺所領曾○(ね)庄を不輸租田と為し、ならびに庄司・寄人等の臨時雑役を免ずべき事。
 壱市郡に在り。
 右、彼の寺の去る七月七日の解状(げじょう)を得るにいわく、「件(くだん)の庄は租税・雑役を免除せらるべきの由、具に事状を注し、言上先におわんぬ。而るに未だ裁下を承らず。而る間彼の庄司の今月九日解状にいわく、『件の庄は未だ租税を徴するの例有らず。而るに当任藤原朝臣国風(くにかぜ)俄に前例に乖(そむ)き、庄田を収公して、雑役を付科す。望み請ふらくは早く言上せられて、官符を給はり。全く地子を運納せん』者、望み請ふらくは先の解状に任せ、早く官符(かんぷ)を給はり、租税・雑役を免除せられ、将て庄務を済さん」者(てへれば)、左大臣宣す、「勅を奉わるに請ふに依れ」者、国宜しく承知し、宣に依りて之を行ふべし。符到らば奉行せよ。
 従五位下守右少弁藤原朝臣国光。右大史正六位上兼行春宮坊大属。
天暦五年(951年)九月十五日」(『醍醐寺雑事記』)
この文中に「寄人」とは、この地の荘民として醍醐寺に所属している農民を指し、また「地子」とあるのは、領主から荘田の耕作を請け負った田堵(たと)らが、領主におさめる負担をいう。要は、この地の民(庄司・寄人等)に対し国司は民部省符が出されていないのを口実に諸々課税しているので、 この地を早く「不輸租田と為し」てもらい、ならびに「件の庄は租税・雑役を免除せらるべきの由」ということで臨時雑役を免除する早く官符(かんぷ、裁可)を給はりたいことになっている。

(続く)

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(27)『自然と人間の歴史・日本篇』遺跡から見た倭の五王の時代

2016-07-10 10:32:11 | Weblog
(27)『自然と人間の歴史・日本篇』遺跡から見た倭の五王の時代

 それにしても、ここに上表文を出した当人の倭王の「武」とは、一体誰かを決める証拠らしいものが、国内には見つかっていないのだろうか。そこで先の一文の中段以降に「済死。世子興、遣使貢献。世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王」とある中の「武」とあるのを、戦後日本における考古学資料と比べ合わせてみる作業が行われてきた。
 5世紀、おそらくはヤマトの王権が日本列島のどのくらいにまで浸透していたかを覗わせる遺跡が幾つか発掘されている。稲荷山古墳(いなりやまこふん)は、埼玉古墳群の一つであり、武蔵国北部(現在の埼玉県行田市)にある。ここから出土した鉄剣は、国宝とされている。1978年(昭和53年)に鉄剣をエックス線調査が行われた。すると、剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表裏の合計で115文字が金象嵌(きんぞうがん)で刻まれていたことがわかった。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最も長い。
 具体的には、表に「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比」の57文字が書かれている。また裏には、「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也」の58文字が記されている。
 表、裏の書き下し文を掲げると、次の通りであるとされる(人名は、漢字をカタカナに直してあり、句読点はこちらで付けた)。
 (表)「辛亥の年七月中、記す。ヨワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ、其の児、名はタサヒワケ。其の児、名はハテヒ。」
 (裏)其の児、名はカサヒ(ハ)コ、其の児、名はヨワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王。寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也。」(なお、X線写真は井上・大野・岸・斎藤・直木・西嶋「シンポジウム鉄剣の謎と古代日本」新潮社、1978に収められている)
 現代訳は、識者による試みにより「辛亥(しんがい)の年の7月、次のことを記す。オホヒコの8代後のヲワケ臣(おみ)の家系では、代々、杖刀人(じょとうじん)の首(おびと)として仕えてきた。ワカタケル大王の斯鬼宮(しきのみや、現奈良県桜井市)にもヲワケ臣は杖刀人の首として仕え、天下を左治している。そこで祖先以来の功績を記念してこの刀を作った」と解読されているところだ。
 この文の意味するところは、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜が述べてある。この鉄剣とともに稲荷山に葬られたのは、「オワケ」こと「乎獲居臣」(おわけのおみ)だというのが大方の見方だ。その通りなら、この人物こそは、代々受け継いでいる「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」の政治の補佐役を務めていたと推測できることになるのだろう。
 では、この鉄剣が作られた年代はいつのことであったのか。同鉄剣銘文の最初の「辛亥年七月中、記す」とあるのは隻暦何年のことであったのか。干支は60年ごとに繰り返されるので、辛亥年だけではいつの時代かは特定できない。そこで、銘文中にワカタケルと読めるのを『宋書』(倭国伝)にいう倭の「武」、我が国の雄略大王と考えると、この鉄剣は5世紀後半の西暦471年に製作されたのが推測できるというのだ。
 なお、ほぼ同時代の国宝級の鉄剣ではないかということでは、国内でもう一つ見つかっている。1873年(明治6年)、肥後(現在の熊本県和水町)の江田船山古墳の発掘が行われ、5世紀後半の推定築造にして、長さ約62メートルある前方後円墳の後円部から、石棺式石室(横口式家形石棺とも呼ばれる)が発見された。この石室からは、鉄剣や、金製、金銅製の装身具が出てきた。鉄剣には、金象嵌銘で「獲□□□鹵大王」と記されていた。これから、記されるのはワカタケ(キ)ル大王=雄略天皇ではないかという説もなされているものの、読めないところが含まれるので、説得力には欠ける。いずれにしても、この鉄剣を帯びて埋葬されていた人物が、「典曹人」と呼び慣わされる、大王家に仕える役職に就いていたことが窺えるのである。なお、この人物がの装身具については、朝鮮半島からの輸入であるとの推測もなされている。
 関連して、後の大和朝廷になってからの最初の公定歴史書『古事記』中の「大長谷若武命」(おおはつせわかたけるのみこと)、さらに中国の漢時代に編纂された『礼記』(らいき)と関連づける説も提出されていることから、ここでは、笹生衛(さそうまもる)氏の論考から紹介させていただこう。
 「ワカタケル大王=雄略天皇は、478年、中国南朝の宋へと上表文を送った倭王「武」にあたる。宋書に残る彼の上表文は、漢文の修辞を駆使しており、五世紀代の大和王権内には漢籍に通じた人物がいたと考えられる。そうすると、鉄剣の銘文と『礼記』との関係を考えてもあながち無理な推定ではないだろう。
 この『礼記』祭法代二十三には、神と祭祀(さいし)のあり方、それと「天下」との関係を説明する次の一節がある。
 王宮に日を祭り、夜明(やめい)に月を祭り、幽榮(ゆうえい)に星を祭り、○榮(うえい)に水旱を祭り四○壇(しかんだん)に四方を祭る。山林川谷丘陵の能く雲を出し 風雨を為し怪物を見(あら)わすを皆、神と曰う。天下を有(たも)つ者は百神を祭る。 諸侯は其の地に在れば則ち之を祭り、其の地を亡(うしな)えば則ち祭らず。
 王宮で日神を祭ることにつづき、月神、星神、水旱の神を祭ることを述べ、「神」とは何かについて説明する。曰く、山林や川・谷、丘陵で雲を出し風雨を起こして不思議な働きをしめすもの全てが神であると。これは自然環境の働きに神を見るもので、『延喜式』祝詞(のりと)や祭祀(さいし)遺跡の立地状況から推測できる神観と基本的に一致する。」(笹生衛「神と死者の考古学ー古代のまつりと信仰」吉川弘文館、2016)
 なお、以上の二ところの考古学資料の発見からは、5世紀の中ごろまでには、大和王権による、当時の倭国を支配する動きが、その端緒としてであれ、すでに始まっていたとする向きも、かなりの数の歴史学者から出されているところだ。

(続く)
 
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(24)『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

2016-07-09 09:32:25 | Weblog
(24)『自然と人間の歴史・日本篇』考古学から見る3世紀からの倭国

 東アジアの3世紀後半からは激動の時代であった。中国大陸では、263年、魏が蜀を滅ぼす。263年になると、魏が亡び、これを滅ぼした西晋が当時の全中国を統一する。一方、倭の3世紀後半からしばらくの歴史については、中国の歴史書から姿がはっきりとした姿は見あたらなくなる。例えば、村山光一氏は「大和政権」の項の冒頭で、自説をこう述べておられる。
 「二六六年から百年間は、文献・金石文などの史料によって日本の動向を知ることはできないが、われわれは古墳の出現・波及という考古学上の知見にもとづいて、この空白の期間に、畿内を中心に西日本の各地域において多くの政治集団が形成されていたことを確認することができる。(中略)
 さらに、この前方後円墳の分布の中心が、巨大古墳の集中している大和盆地の東南部にあったという事実に着目するならば、右の政治的連合の盟主はこの地域の首長であったと推断することができるであろう。なお、西日本の政治連合体の盟主となった大和盆地東南部を中心とする地域の政治集団は、大和政権あるいは大和王権と呼ばれるが、この大和政権は、卑弥呼の死後再びシャーマン的女王を共立した倭国とは別個の政権であり、九州地域に存在したかつての倭国は大和政権を中心とする西日本の政治的連合体によって征服されてしまった、というふうに考えておきたい。」(村山光一・高橋正彦『国史概説1ー古代・中世ー』慶応義塾大学通信教育教材、1988)
 ここで何故、中国流の「方墳」(ほうふん、四角い形)ではなく、前方後円墳なのであろうか。その答えとしては、諸説が提出されている。いまだに定説は見あたらないものの、同時期の中国(山東省○南(きなん)県の「○南(きなん)画像石墓」、2世紀)の豪族の墳墓の中に、壺(つぼ)の中に仙人(「東王父」(とうおうふ))の住む、「不老長寿の世界」を見立てる像が刻されていることから、この姿を平地に横たえて造形することにより、被葬者の死後の世界=理想郷(ユートピア)としての「東の海・ツボ形の島」を保障しようと考えたのではないか、との新説()が唱えられている。つまり、「ツボの中に、不老長生のユートピアがあるという思想が入ってきたとき」(元同志社大学教授(古代学)辰巳和弘氏)。国内の前方後円墳の墳墓の墓室中においても、「被葬者が徠正でも、現世と同じように暮らすことを願って、絵が描かれた」(同教授)と主張されているところだ。
 この国においては、現時点で4000基以上の前方後円墳が見つかっている。それらの中では、大和の地に最古級の前方後円墳がある。中でも纏向(まきむく)古墳は、畿内(現在の奈良県桜井市)にある。これの発掘を行った桜井市教育委員会によると、この遺跡の造営年代は、3世紀前半、もしくは2世紀後半から3世紀位と推定されている。この築造年代の推定が当たっているならということで、纏向は邪馬台国の拠点であったとする向きがにわかに増えた。纏向古墳の全長は約90メートルで、それまでの中では群を抜く長さである。その規模は、約3平方キロメートルであり、この時代のものとしてはやや広い部類に属する。
 続いて、纏向と同じ畿内(奈良県桜井市)から一つの古墳が見つかった。この箸墓(はしはか)古墳は、全長が276メートルもの巨大な前方後円墳となっている。こちらが築造されたのは、3世紀中葉以後(3世紀後半)と推測する人が多い。とはいえ、こちらの現況は纏向の場合とやや異なり築造年代がやや不明確だ。その理由として、仁藤敦史氏は、次のように言われる。
 「箸墓古墳の築造直後の布留○式土器の年代測定の年代を240年から260年と推定する見解が提起されて話題となったように、邪馬台国の時期は、従来のように弥生時代ではなく、古墳出現期に位置づけられるようになったことが重要である。」(仁藤敦史「「邪馬台国」論争の現状と課題」:歴史科学協議会編集「雑誌・歴史評論」2014年5月号、第769号に所収)
 こうした畿内での初期古墳の発見によって、邪馬台国ヤマト説が俄然勢いづいている。
2009年11月には、この遺跡内から大型建物跡が発見された。その場所は、大和の三輪山の麓にある。これをもって、卑弥呼(ひみこ)なり、台與(とよ)か、それとも『日本書紀』にいう天皇家初代の頃の「神功皇后」なのではないか、等々の話にも発展している。これらのうち一つ目の考えはかなり多くあり、例えば、岸本直文氏は次のように述べておられる。
 「卑弥呼の治世は三世紀前半の約半世紀、ヤマト国を盟主とする北部九州を含む瀬戸内沿岸諸勢力の政治連合が生まれた。ヤマトの本拠は纏向(まきむく)である。100メートル級の前方後円墳が築造され、その墳形の共有、公孫氏政権から入手した中国鏡の配布が始まる。
 238年に公孫氏は魏に滅ぼされ、翌景初三年、卑弥呼は帯方郡に使者を送り魏への朝貢を願い出る。魏は卑弥呼を「親魏倭王」として認め、「銅鏡百枚」などを与える。
 卑弥呼は二四七年頃に没し、初代の倭国王墓、巨大な前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳に葬られた。これが前方後円墳が列島規模で波及する起点であり、倭国統合の第三段階である。」(岸本直文「古墳の時代ー東アジアのなかで」:岸本直文編「史跡で読む日本の歴史2古墳の時代」吉川吉文館、2010所収)
 この三つめの可能性を指摘するものとしては、『日本書紀』の神功皇后の条において、『三国志』の「魏志倭人伝」や『晋書』の記事を引用して、邪馬台国の女王二人のいずれかを神功皇后に見立てるなどの向きがある。いずれも、畿内での初期の前方後円墳と見られる墳墓の発見によって、邪馬台国=(イコール)倭(ヤマト)説が出て来た。その上で、邪馬台国がどうであったのか、及び3世紀後半からの倭はどうであったのかを推定している。この説に立つなら、畿内に興った邪馬台国が北九州の諸国についても影響力ほ及ぼして従えていったことらもなっていく。これに加えるに、この文献学上の根拠とされる向きもある『日本書記』の「神功皇后摂政」の三十九年から四十三年には、こうある。
 「三十九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。」
この部分の書き下し分は、次のとおりだとされる。
 「是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。
 「四十年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
この部分の書き下し分は、次のとおりとなっている。
 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。」
 「四十三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
この部分の書き下し分は、こうなっている。
 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人」
 ここに「明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也」(「明帝景初三年」は西暦では238年)とあるのは、『魏志倭人伝』中の「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都」と年号が異なっている。また、『日本書記』のどこを探しても、『魏志倭人伝』に載っている当時の邪馬台国に関する記述は一切出てこない。さらに、「神功皇后摂政」とはいうものの、当時の倭の勢威を盛んにならしめたといわれる彼女が、果たしてその通りの人物として実在していたかどうかは、分かっていない。このように、国家が編纂する史記の上では中国側と倭の側とで大きな食い違いが生じている。他にも、『魏志倭人伝』においては、「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」とある。つまり、「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、人がいて武器をもって守衛す」となっている。ここに「城柵」とは、土塁と柵を巡らせていたことが覗われる。けれども、両遺跡からは、そのような堅固な城柵の跡は見つかっていない。
 総じて、今日までの邪馬台国と大和朝廷の関係を論じる論説はあまたあるのではないか。それでも、いずれの説においても学会ならびに国民を納得させるにたる証拠は見つかっていない。つまり、この論争に決着はまだついておらず、先延ばしの感が強い。かつまた、これまで未発掘と目されている残りの天皇陵において、全国の主だった古墳を司る文化庁が近い将来、考古学者らによる発掘を許可する可能性は乏しいのではないか。それとも、やがて追々には、大和政権は追々、邪馬台国からの、何らかの連続性において捉えることができることになっていくのかもしれないし、それらとは断絶したところから新説が次々と浮かび上がってくるのかもしれない。さらには、単に邪馬台国のあった場所はどこであったのかという、その枠では史実を語れないことになってしまうかもしれない。いずれにしても、21世紀の現代においても、我が国の歴史の5世紀頃までの解明においては、近くは中国などと異なり、色々と決め手な欠けることが多すぎる感じがしてならない。

(続く)

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(8)『自然と人間の歴史・日本篇』稲作の伝搬

2016-07-07 08:19:39 | Weblog
(8)『自然と人間の歴史・日本篇』稲作の伝搬

 さて、縄文期においては、その後の弥生期と時代区分を分かつメルクマールとして、採集経済から抜け出したかどうかを分水嶺と考えてきた。縄文末期には、西日本の一部の地域で原始的な水稲農耕も始まっていたのではないか、という研究が進められていたものの、決め手が見つからなかった。むしろその成果としては、縄文時代に、コメ以外の食料では、日本列島の様々な地域において、あまたの栽培の痕跡なりが発見された。備前の前池遺跡(現在の赤磐(おかいわ)郡山陽町)からは、ドングリなどの痕跡の残る貯蔵庫が発掘されているのも、その一つであろう。この辺りでは栗や粟(粟)や稗(ひえ)などの栽培も始まっていたことが知られる。縄文期の稲作は手掛かりが見つからない、そのことが長い間上代の歴史を語る上での「イロハ」になってきた。
 さらにこれらに付随して、水産資源利用の増大など、新石器時代と共通する技術も育ってきていた。そうなると、縄文文化とは、自然環境の相違とそれによる適応形態の相違によって、打製による「旧石器」と、磨製による「新石器」が中期以降は重なり合っている。そのところでは、「「新石器文化」と呼んで差し支えないのではないか」とも言われ始めた。その頃はまだ、農耕を中心にした文明社会らしいものが形成されていなかった。そこでの人々の暮しは、その日限りの原始的な生活が果てしなく続いていた時代であったのではないだろうか。その最終局面では、狩猟や採集を主な生業(なりわい)とする生活から、定住して穀物を栽培する方向へ歩み入れていく。現在までに、縄文期に入ってからとされる、最古の遺跡とされるのは、「太平山元1号遺跡(おおだいらやまもといちいせき)」(青森県外ヶ浜町、蟹田川左岸の河岸段丘上に立地する)であり、ここから出土した土器に付着した炭化物の年代測定を行ったところ、約1万6500万年前との結果を得たことになっている。これは、その時代に定住が始まっていたことの証になりうるのではないだろうか。
 ところが、20世紀後半からの発掘で、縄文期に稲の部分的な栽培が行われていたことがわかってきた。かつ、水田や乾田での作物栽培が始まっていたことが分かり始めた。これまでのところ、この南北に細長い列島にコメがどこから、いつ、どのような形で伝わったのかは、必ずしも明確となっていない。そこでまず「古代日本米」のルーツから尋ねることにしよう。約9000年前の中国南部、揚子江流域では、イネの栽培が開始された事実に思い至る。一方、東南アジアでは陸稲の栽培があるので、ここちらからも、栽培の流入が伝わっているかも知れないと考えられるのではないか。この稲という植物は日本列島に自生していたものではない。稲作のルーツがどこにあるのかについて、ルース・ドフリース氏はこう説明している。
 「今日、何十億人もの食生活を支える稲(米)はもともと、中国の揚子江流域の峡谷に自生しいた野草だった。稲の親戚にあたるこの野生種を、人間は時間をかけて遺伝的に種子が大きく、剛毛が少なく、収穫まで種子が茎から落ちない品種へと変えていった。黍(きび)や粟(あわ)などの雑穀類、大豆、モモも、遠い昔には中国の採集生活者たちが野生種を栽培化し、いまでは数多くの品種がそろっている。」(ルース・ドフリース著・小川敏子訳「食糧と人類ー飢餓を克服した大増産の文明史」日本経済新聞社、2016)
 こちら側の発掘史料によれば、早くも紀元前2世紀くらいには、早くも九州北部で部分的にであれ、稲作が始まっていたであろうと主張する発掘があり、その話で賑わうきっかけになった新聞記事に、次のものがある。
 「稲作の起源は東南アジアとする新説を、独立行政法人「農業生物資源研究所」(茨城県つくば市)のチームが発表した。人類がイネを改良してきた歴史を遺伝子で探り、最も原始的なイネを東南アジアに見つけだした。
 同研究所の井沢毅主任研究員らは、ジャポニカ米「日本晴」の遺伝子を分析。2006年,稲穂が実っても米粒が落ちない性質を生む変異を見つけた。今月には米粒が幅広になる遺伝子変異を発表した。モチモチした食感を生む変異も1998年に複数のチームが報告している。井沢さんらは今回、これら3つの変異がアジア各地で栽培されてきたジャポニカ107品種で起きているかどうかを調べ起源に迫った。その結果、3つとも変異がない最も原始的なタイプがインドネシアなどで見つかった。日本では、3遺伝子のうち2つかすべてが変異していた。
 ただ、こうした成果を支える遺跡は発見されていない。約1万年前の中国 ・長江流域の遺跡から大量の籾(もみ)が見つかり、稲作の起源として有力視されている。90年代初め、「ジャポニカ長江起源説」なるものを提唱した総合地球環境学研究所(京都市)の佐藤洋一郎教授は「東南アジアでは中国よりも古い稲作の遺跡はなく、考古学との整合性が今後の課題になる」と話している。」(2008年7月27日付け読売新聞、「稲作の起源 東南アジア説、農業生物資源研、選抜の歴史、遺伝子で追う)」より引用させていただいた)
次の関心事は、日本列島での稲作のルーツが主に中国で展開していた稲作であったとして、それがどのようにして伝わったである。こちらについては、中国大陸の北部、つまり華北の方から伝わったとする「北方説」が、華中方面から直接に伝わったとする「直接説」や、華南から伝わったとする「南方説」よりも伝わり方が自然である見られている。例えば、設楽博己氏の論考「縄文時代から弥生時代へ」岩波講座「日本歴史第1巻ー原始・古代1」は、この3説中の北方説においても、華北から朝鮮そして日本に至るルートと、山東半島から遼東半島(リヤオトンはんとう)を経て朝鮮半島そして日本に至るルートを採り上げ、後者が最も可能性が高いと推測した宮本一夫の所説を肯定し、次のように同説の根拠付けを試みておられる。
 「・・・・・山東省棲霞県揚家圏遺跡のボーリング調査によって紀元前2500年ころの龍山文化の地層からイネの組織であるプラントオパールを多量に検出した。ほぼ同時に山東省謬州市趙家荘遺跡からは水田跡も発掘され、この説の正しさが裏付けられた。
 重要なのは、もともと華北型のアワ・キビ農耕を主体とした多角的生業体系の地域に水田稲作が取り込まれていった点である。つまり、生業体系の華北・華中コンプレックスが山東半島南岸で形成され、それが朝鮮半島、さらに日本列島の農耕文化を規定していった可能性が考えられるのである。」(設楽博己氏の論考「縄文時代から弥生時代へ」岩波講座「日本歴史第1巻ー原始・古代1」)
 以上が積み出し側からの史料だとすれば、受け入れ側にはどんな形跡が遺っているだろうか。幾つか紹介することにしたいが、まず2005年の岡山からの報告にこうある。
 「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
 ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。
 もう一つ紹介しておこう。
 「熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(約5000~4000年前)の土器に稲もみの圧痕(あっこん)を確認したと19日、福岡市教委の山崎純男・文化財部長が明らかにした。全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料という。圧痕は、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみ。
 作物が栽培された時期を特定する有効な資料で稲もみとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(約4000~3000年前)の圧痕が最も古かった。
九州の縄文土器を調査していた山崎部長は、大矢遺跡の土器群を電子顕微鏡で解析した結果、縄文中期の土器から1点、縄文後期の土器から1点の圧痕を確認した。ともに長さ約3ミリ、幅約1ミリだった。 水田稲作は長く、弥生時代に朝鮮半島から伝わったとされてきた。しかし、近年は縄文時代に陸稲を含む農耕があったとする説が認められつつあり、稲作の起源に注目が集まっている。
山崎部長はこれまで、熊本市の石の本遺跡など約10遺跡の縄文後期以降の土器からも稲もみやコクゾウムシなどの圧痕を見つけており「縄文中期以降に稲作があったことは確実。今後も縄文農耕の解明に努めたい」と話している。
西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話
「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」 (2005年7月20日付け読売オンラインより引用)
 ここで発見された圧痕が、土器の製作中に稲もみなどが混ざって出来た小さなくぼみだと断定できるなら、稲もみとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(約4000~3000年前)の圧痕が最も古かったのを更新する発見ともいえ、これまたこれまでの縄文時代のイメージ(大まかに農耕は無かったとする)に何らかの変更を迫るものと
なっていくのかもしれない。いずれにしても、これらだけをもって、これまでの縄文時代の中期や前期に稲作が成立した、というまでには至っていないのではないか。ともあれ、これまでの理解が、考古学上の新たな発見によって全体的に混沌としてきているようである。

(続く)

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(55)『自然と人間の歴史・日本篇』奴隷制社会は実在したか

2016-07-06 07:37:00 | Weblog
(55)『自然と人間の歴史・日本篇』奴隷制社会は実在したか

 これまでの倭及び日本の社会中、少なくとも奈良時代までにあっては、生産関係及び全社会構造において奴隷を最末端とする人民圧政の社会であったことは、この国のこれまでの歴史学の上では、特段の異論は認められないようである。とはいうものの、多くの歴史家は意識的にか(その幾らかは、天皇制の起源を議論するのとほぼ同様な、いわゆる「タブー視」によるものなのかもしれない)、無意識的にか、このような問いかけによる究明自体を避けてきたことが大いに覗えるのである。ここでは、まず瀧川政次郎氏の大著『「日本奴隷経済史」』からしばらく紹介させていただこう。
 「全国奴隷人口の実数は、全国総人口の実数に、前節に検出せる全人口と奴隷人口との比を乗じて、これを求めるより外に適当なる方法とてはない。故に奴隷人口の実数如何の
問題は、簡単に全国総人口の問題に置き換へられる。而してこの問題に就いては、先輩学者の研究が二三あるが、澤田吾一氏の『奈良朝時代民政経済の数的研究』は、それらの中で最も傑出したものであらうと思ふ。故に私は、この問題に就いては、氏の研究を紹介するに止める。
 即ち氏は、まづ前紀の著書の第一篇に於いて、正倉院所伝の帳面を材料として、年齢別と男女別及び男口課別の比例を求め、各その百分比例を作成して居られる。今その百分比例の要領を転載すれば、即ち次の如くである。
 次に氏は、第二篇に於いて、続日本紀、天平十九年五月戊寅の條に見える「・・・・・」なる官奏によって知られる」としているが、以下『続日本書紀』からの引用は、漢文のまま記されているので、ここでは別の同著注釈書により書き下し文を挿入させていただくと、こうある。
 「戌寅(いぬとら)、太政官、奏して曰さく、「封戸の人数の多き少き有るに縁りて、輸(いだ)せる雑物、その数等しからず。是を以(もち)て、官(つかさ)・位同等しきに、給(たま)ふ所は殊に差(たが)へり。法(のり)に准(なずら)へ量(はか)るに、理実(ことわりまことに)に○(かなはず。請(こ)はくは、一戸毎に正丁(しょうちょう)五六人、中男(ちゅうなん)一人を以て率(のり)として、郷別(ごうごと)に課口(くわく)二百八十、中男五十を用(もち)て、擬(なずら)へて定まれる数とし、その田租(でんそ)は一戸毎に○束を限として、加減すべからざらむことを」とまうす。奏するに可としたまふ。」」(青木・稲岡・篠山・白藤校注『続日本書記』(三)岩波書店、1992、43~44ページ)
 ここに「郷」とあるのは、「霊亀元年以後の郡の下の地方行政単位」(同著注)をいう。そこで再度、瀧川氏の論考から引用を続けさせていただく。
 「封戸の郷の課口三百三十人に、前期の課口男口の比を乗じて、この郷の男口六百三十七人を得、更にこれに男口女口の比を乗じて、この郷の女口七百三十七人を得、両者を併せて当時の一郷の平均人口を一千三百九十九人と見積もり、これに和名抄記載の郷数四千四十一を乗じて、全国の総人口を五百六十余万人と計算して居られる。又氏は別に弘仁延喜の主税式に見える諸国の出挙稲額が、その国々の人口と比例的関係にあることに着眼し、弘仁六年八月甘三日の官符に見える陸奥国解に、この国の課丁三万三二九十人、外に勲八等以上の健士一千五百人とあることによって、陸奥国の課口を三万四千七百九十人と算定し、弘仁主税式の陸奥国の出挙稲百二十八万万五千二百束によって、出挙稲一千束に対する課口数二十七人〇七厘を得、これを弘仁延喜の諸国出挙稲に乗じて、諸国の課口数と人口数とを得、これを合計することによって、全国の人口を五百五十八万六千二百人と計算して居られる。」(瀧川政次郎「日本奴隷経済史」刀江書院、1972再発行)
 続いて奴隷の地方的分布を見る場合においても、澤田氏の研究をそのまま引用する形で、次のように述べておられる。
 「即ち澤田氏は、前述の如く、弘仁六年八月二三日の官符に見える陸奥国の課口数と弘仁主税式の陸奥国の出挙稲額とによって、出挙稲一千束に対する課口数を算出し、これを弘仁延喜式の主税式に見える諸国の出挙稲数を乗じて、諸国の課口数とを次表の如く計算して居られる。」
 掲げられる表中の「美作」は、「弘仁苗」では7400、その課丁が2003、それに見合うであろう「人口」が1071人となる。また「延喜苗」が1万2210もしくは7640、その課丁が(2684)もしくは1679、それに見合うであろう「人口」が()1435人)もしくは898人となる。続いて「備前」は、「弘仁苗」が8033、その「課丁」が2175、それに見合うであろ「人口」が1163人となる。また「延喜苗」が9566、その課丁が2103、それに見合うであろう「人口」が1124人となっている。さらに「備中」としてあるのは、「弘仁苗」が6400、その課丁が1732、そに見合うであろう「人口」が926人となる。また「延喜苗」が7430、その課丁が1633、それに見合うであろう「人口」が873人ということになる。ただし、畿内諸国は「調」が半減されたり、「出挙稲」の配分額も半分に減額があることから、半減の表も掲げておられる)
 その上で瀧川氏は、澤田氏の業績をこうまとめておられる。
 「依って諸国の奴隷人口は、右の諸国全人口に一割乃至一割五分を乗ずることによって容易にこれを算出することができる。而してそのこれを算出した結果は、奴隷人口は東海、東山の二道に最も多く、西海、山陽の二道これに次ぎ、南海、北陸、畿内は最も少ないと云ふことになっているが、その面積によって奴隷分布の密度を計れば、畿内諸国は第一位を占め、西海、山陽の二道これに次ぎ、東海、東山の諸道は第三位以下に落ちる。」(同著) 

(続く)

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(26)『自然と人間の歴史・日本篇』倭の五王の時代

2016-07-01 09:38:29 | Weblog
(26)『自然と人間の歴史・日本篇』倭の五王の時代

 それからまた時代が下って、5世紀の中国と、その周辺の地域の出来事を記しているものに、『宋書』と言う書物がある。これがカバーする年代は、南朝の宋(ソン、420~479年)・斉(中国語には無い漢字のため代わりの文字で代用、チー、479~502年)・梁(リアン、502~557年)の3国に仕えた沈約(441~513年)が、487春に斉の武帝に命ぜられて編纂し始めた史書である。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体の正史であるが、本紀と列伝は翌年の2月に完成したが、その完成には10年以上の歳月がかかり、その時期は梁に入ってからの502年頃とされている。なお、「南朝の宋」ということでは、陳(557~589年)(日本語には無い漢字のため代わりの文字で代用、チェン)を加えた4つの王朝である。
 その『宋書』の倭国伝において、「倭の五王(わのごおう)」の名が出てくる。すなわち讃、 珍、済、興、武の5人が倭王として連続して宋に朝貢を重ねていた。それに至る中国大陸では、420年の禅譲により東晋から宋への王朝権力の移動があった。439年には北魏が華北を統一し、南の宋と南北朝時代へ入っていく。
 そんな時の倭から宋への話のとっかかりは、421年、倭王の讃(中国黄泉では倭讃、姓が倭で名が讃となる)が宋(420~479年)に使者を派遣、朝貢したのに始まる。南朝宋の武帝は倭讃の朝貢を喜んだものとみえ、彼を「新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」に任官した。所轄ということでは、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)の領分は除いてある。倭讃は、この後の425年にも使者を宋に派遣して、国書を奉った。『宋書倭国伝』には、こうある。
 「倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。」
倭国在高麗東南大海中、世修貢職。
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王。
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王。」(原文の難解な文章の訳と解説は、岩波文庫に紹介されている)
 この上表文を中国大陸の南半分を領していた宋王朝に提出した倭の王のねらいとするところは、何であったのだろうか。それはおそらく二つあって、一つは祖先の功績を強調し、それにふさわしい任官をしてもらうことであった。いま一つは、鉄資源や、大陸及び朝鮮半島のもろもろの高い技術を自分の国に導入したかったのではないか。その手始めとして、421年と425年に宋への朝貢を敢行した讃なる倭の王と見られるものの、邪馬台国の流れを汲む人物かどうかははっきりしていない。
 邪馬台国時代、倭の王権は二人から成り立っていたとされ、一つは神聖系統、もう一つは執政系統に分かれていた。この王の出目は不明ながらも、ともあれ、なかなかのやり手であったのではないか。讃(さん)が死ぬと、後には弟の珍(ちん)が立って倭珍となり、430年と438年に宋に朝貢に行く。珍が死ぬと、済(せい)が後を継ぎ、重ねて倭から宋に朝貢した(443年と451年)。済は、讃や珍とは別系統の王であり、5世紀中ごろに即位した允恭(いんぎょう)大王だと言われる。済の後は世子の興(こう)が継いで462年に宋への遣使を行い、宋への任官を果たす。そして興の後は弟の武(ぶ)が襲名し、倭武を名乗って478年に、上記の『宋書』にある上表を行い、またもや任官を果たすのだった。
 その武が使いを送った478年の3年前、475年には朝鮮半島にある高句麗の長寿王(好太王の後)が百済の漢城を落とした。百済と友好関係にあった倭は、勢いに乗って南下しつつある高句麗の「道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷」(上表文)との政治的圧力に対抗するために、宋に何とかしてほしい。具体的には「窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節」(「どうか私に高句麗王と同じ開府儀同三司(かいふぎどうさんし)の称号を与えてください、そうなればさらに忠勤を尽くします」)とかけあったのだ。それにしても、先の上表文には殊更に倭王武の勇猛果敢ぶりを宣言していることがある。「祖禰自ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五カ国、西は衆夷を服すること六十六カ国」という下りを推測するに、いかにも自分の代で倭の支配は盤石になったと強調している。畿内から中部、さらに東海へと支配を進めつつあったヤマト政権の面目新たにというところであろうか。もっとも、「北は海を渡り平らげること九十五国」(同)になると、はて日本列島にそんなところがあったのだろうかと、朝鮮半島の南の島々も入れての話ではないかと、首をかしげざるをえない。のみならず、自分の周りを「毛人」とか「衆夷」というのであれば、自らについては、その頃の日本列島における数ある部族同盟の一有力首長として力を蓄えていたのであって、九州辺りから畿内あたりに進出していく途上にある、つまり現在進行形で書かれた領土拡張を伝える文章なのかもしれない。
 その辺りの事情については、吉田晶氏は、「吉備氏の反乱」の可能性を述べながら、当時、既に「大王」(おおきみ)なるものが成立していたとの仮説に立ちつつ、その国内及び国外における位置について、次の一説を投じておられる。
 「さきに前方後円墳の全国的普及をもって、畿内勢力を中心とする全国的な部族同盟形式の第一歩であるとした。大王は畿内の有力首長たちの形成した部族同盟の最高首長であった。五世紀のいわゆる「倭の五王」は基本的には、以上のような歴史的な性格をもつ存在だったのである。
 大王は全国の首長勢力を代表して、中国の宋などと外交を行った。だが、大王は各地の大首長に対して隔絶した地位を占め、中央集権的に各地域を支配していたのではない。このことを象徴的に物語っているのは、宋から与えられた将軍号であろう。倭王にはつねに安東将軍の将軍号が与えられたが、438年に倭王珍(ちん)の使となった倭隋(わずい)らに、平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍号が与えられている。これらは宋の序列では、ともに三品下階に属し、倭王とそれ以外との序列差はきわめて少ない。ところが百済の場合、458年の時点においては、百済王は鎮東大将軍で二品にあり、王族に与えられた最高位が三品下階の下位の冠軍将軍であった。つまり百済では、王とそれ以外の間に明確な差があるのに対し、倭の場合、その差がきわめて少なく、将軍のあり方は、大王と大首長層の間に隔絶した政治上の上下関係があったことを示していないのである。」

(続く)

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