□『美作の野は晴れて』第二部16、時の過ぎゆくままに

2009-01-12 17:59:37 | Weblog

□『美作の野は晴れて』第二部16、時の過ぎゆくままに

 学業の方は、1学年は留年にならずになんとか乗り切った。2学年になると、科目履修がさらに厳しくなる。大学一般教養の物理を習うようになった。数学も級数、微分、積分と進んでいくうちに、またもや理解不足が目立ってきた。「わかっていない」ことが重なると、累積効果でなおさらわからなくなっていく。それが怖いし、「何とかせにゃあいけん。何とかしよう」という気持ちになる。その癖、同じところをぐるぐる回るばかりで、気ばかり焦って、前進していかない。
 授業にはきちんと出席を心がけ、ノートも丁寧にとっていた。それなのに、ついて行けないのは「やはり適性が違うのではないだろうか」と自問自答する日々が続いた。そんな日々が続いたせいか、2年の途中で病気を患った。はじめは、食欲が異常に増進してきた。そのうちに、空腹時におなかが「チリチリ」焼けるように痛くなった。津山市内のN病院に行き、先生に診察を受け胃のレントゲンを撮ってもらった結果、胃潰瘍である
ことが判明した。それは沢山撮られた写真の一つを先生から見せられ、そこに穴のようなくぼみが写っていることでわかった。先生から薬を渡され、気を楽に持つように言われたのではないか。3ヶ月位通院したり、母に柔らかめのご飯を作ってもらったりして、うまく直ったようだ。
 その後は、勉強の方も少開き直りができたようで、気も落ち着いてきた。友人関係もよく、M君などはよくノートを見せてくれた。数学にしても、定型的な問題は解き方にパターンがあり、それを覚えることで半分の点を取ることを心がけた。優良可の不可は60点未満なので、その作戦はたぶん当たっていた。
 もう一つ心がけたのは、苦手な科目でも、興味を持てることが見つかれば、思い切って前へ出てわかろうと努力することだった。そうすると、前向きの心が出てくる。その試みは、半ばはうまくいき、後の半ばはうまく行かなかった。はっきり言って、高専に入ったのを公開する暇はなかった。自分の学力では授業とみんなについていくことで精一杯の日々が続いた。
 そんな2年次の中でも、新しい楽しみは幾つも見つけた。放課後、一人で駅に向けて帰るとき、途中で専門店街の方に曲がったりした。裁判所前の通りを下ってきて、銀天街を入り、そのまますすんで行くと、当時は富士銀行とか中央郵便局がある。その銀行の通り向かい、郵便局の隣には柿木書店があった。書店には1階と2階があり、1階がふつうの本、2階が学習参考書などの専門書が並べられていた。自転車は郵便局に置いて、おもむろに店に入っていく。僕が真っ先に向かうのは、1階の奥まったところにあるレジのさらに壁際にある文庫コーナーだった。
 

(つづく)


□ 『美作の野は晴れて』第二部2、居場所を求めて

2009-01-02 19:08:26 | Weblog
□『美作の野は晴れて』第二部2、居場所を求めて 


 高専に入った初めの頃は少しは希望を抱いていた。それが一学期が進むに従い、徐々に絶望との狭間で揺れるようになっていったようである。高専の授業は3つのジャンルに分かれていた。一つは、基礎科目で、数学や物理、化学など。二つは、専門科目で工作実習、製図など。そして三つ目は、一般教養科目でほぼ高校と同じで現代国語、古文、英語、地理など。僕はと言えば、中学の時文化系を志望していたので、高専に行ったのは家庭の経済的理由からであった。だから、一般教養科目はやる気があったが、専門基礎科目や実習系の科目にどうしても身が入らなかった。
 その結果が夏休み前の期末試験で、そのとき数学の点がことのほかよくなく、学年担任のN先生の研究室に呼ばれた。呼ばれたのは僕一人ではなく、S君も一緒だった。S君は県南のたぶん岡山かどこかの出身で、一風変わっていた。自分からはあまり喋らないのだ。僕の顔が黒っぽいとすれば、彼の顔は白っぽかった。僕が先生の部屋を訪れると、彼が先客でいた。先生は、「どうぞ」とS君のとなりに僕を促した。
 我々二人は、やや細長い部屋の窓に向かって、奥に座っている先生と相対した。そして、たぶん神妙な面持ちで先生の口から発せられる言葉を待っていたのだろう。
 二人そろったところで先生がややにこやかに口を開かれた。
「お2人に今日来てもらったのは、この間のテストの結果について伝えることがあったからです。」
 だいたいは予想していたものの、それを聞いて心の中で「やっぱりか」の思いにとりつかれた。方がすぼんでいく気持ちがして眼を伏せやや横にもっていくと、これまた青白い顔をしたS君の顔に行き当たった。
 二人のうち、まず口の端に上ったのは、僕だった。
「ええと、丸尾君、これですが」
 先生はそう言って、機械工学科1年生の成績を科目別にまとめた大きな表をめくられた。たぶん、2クラス80人分のものだろう、「何やらびっしり点数が書き込まれている」のが窺えた。
「うーん、数学(すうがく)が少し危ないみたいですね。」
 先生はあくまで柔和を装って話される。
「ああ、やはりな。」
 記憶で一番できなかったと認めている科目を指摘されたからには、もう逃げ場はないようだ。先生の話はさらに進んだ。
「代数は27点、幾何が35点となっていますね。うーむ。」
そのまま神妙に息を殺していると、少し間があって、僕の目が上がった。すると、先生の視線と合った。そのとき、つぎの言葉が発せられた。
「まあ、次の学期試験ではがんばってみてください。」
 そして、向かい合っている僕の意思を確かめるかのようにもう一瞥された。
「このまま行くと、留年になりますから。ではもうよろしいですよ。」との言葉が付け加えられた。
「はい、失礼します。」
 私は、たぶんそう言ってから、先生に一礼して研究室のドアを開き、自分の教室に戻っていった。

 そういえば、初めての授業、初めてのクラス会から前途多難な気がしていた。教室は機械工学科の2クラスのうちの一つだった。クラス会で、たしかU君が「教室の南側と北側で知った者同士が座っている。このままだとよくないので、席替えしたらどうか」と、N先生の前で自説を述べた。
「さすが、岡山や県南の連中はちがうな。」
 ありがたいような、それでいて情けをかけられて気恥ずかしいようなとまどいの気持ちに包まれた。そのときは、いろいろ議論があって、結局席替えでまとまったようだ。
 それまでは、県南や岡山らしき人々となじみにくかったのが、そのときを境に「仲間」として扱ってもらえだしたようで、徐々にうち解けていった。県南からの仲間の多くは、構内に付設されている学生寮に入っていた。残りの人は津山市内に下宿していたようだ。中には、中学のとき、岡山学区でトップクラスの成績を収めていた人もいたようで、当初、教室でやることなすことにあっけにとられていたのも頷ける。
 ただ慰みというか、ほっとした時空というか、一般教科の多くは僕にとってなじみがあるようで、学ぶ楽しさがあった。国語は長船(おさふね)教授が教壇に立たれた。とても偉い先生で、「本来は高専などに来る人ではない」らしかった。教室におもむろに先生が入って来られる。厳粛な雰囲気に包まれる。
 U君が「起立」を唱え、皆が立ち上がって礼をすると、先生は僕らにきちんとした礼を返される。本来の規律は言われてそうなるものではなく、自然に出るものだということを初めて学んだ気がしている。
 O先生の講義はひたすら淡々と進んだ。現代国語では、先に僕らに読ませてから講釈をされた。記憶に間違いがなければ、たしか夏目漱石の「こころ」を読んだときのこと、「愛とは何か」を僕らに尋ねられた気がする。「こころ」では、主人公のKが一人称でひたすら自分の考え、自分の感性にしたがって、愛の遍歴を述べていたようだ。Kの話の内容は、今で言えば「失楽園」の主人公の生き様のようなもので、社会の仕組みやあり方とはさほどに関係を持たないところで進んでいく。その語り口は一方的な独白に近かったろう。それは現実の生活から出てくる愛というよりは、それから逃避して観念としての愛をつかもうとして苦しんでいる風であった。先生が皆に示した答えは、たしか、「相手と半分を分かち合うこと」だったようだ。つまり、相手と大切な何かを分かち合うことができればその愛は成就し、逆に分かち合うことができなければその愛は不完全であり、完成したものにならない。これだと、一方通行の「愛」は本物の愛ではないし、その関係において自分の半分を差し出して「相手の半分になろうとする」自己犠牲を伴う場合に初めて愛が成立することになるだろう。主人公のKは結局その困難な作業に疲れて死んでいったように感じた。
 同じ漱石の「わたしの個人主義」もテキストに入っていたようで、こちらは半ばわかって、あと半ばは分からなかった。当時の僕の気性には個人主義が憧れのようなものとして写っていて、かなり惹かれた。漠然と、知識人として生きるためにはかなり「わたし」というものを出していかないといけない。これだと、通俗なもの、世間の常識的なものと一線を画して生きていくことが求められる。しかし、現実ではさまざまの足かせがあって、明治も今も「私」というものを守って生きていくことの難しさは余り変わっていないようだ。漱石がこの講演で当時の世相に対し何を言いたかったのか、先生からそれなりの説明
があったはずなのに、今もって思い出しようがないのは残念なことだ。
 僕なりに先生の授業で記憶に残っているのは、現代文よりは古文の方だった。なかでも、万葉集は古風なようで、なんとなくなまめかしくて毎回が興味深かった。「春すぎて、夏来るらし 白衣(しらたえのころも)干したる 雨の香具山」という歌などは、当時ののどかな奈良丘陵の風景が彷彿としてくる。
 歌の講釈のとき、先生の顔は教壇から正面に向けられ、背広の前をはだけられる。そこには白シャツが現れ、ズボンはサスペンダーにつり下げてある。そのズボンにはベルトが通されていて、そのズボンとベルトに両方の指が2本ずつ挟まっている。先生の眼鏡の奥にある眼は毘沙門天の如く「カッ」と見開かれている。そんなときは先生の話がなんとなく悦の境地にあるときだと感じていたのは僕だけか。
「この和歌が趣(おもむき)があるというのは、白衣が風を受けてたなびいているところにあり・・・・」
 とくに、話の途中で、「ゴックン」と生唾を呑み込まれるような仕草が出るときは、その話もいよいよいよ佳境に入ってくる前兆だった。
 もう一つ、今度は英語の授業だが、これはN先生の一般テキストを使ってのもの、たしかI先生の独自の教材「民主主義」を使ってのものと2つがあったのではないか。N先生の方は、高校英語のテキストを使った。LLの授業も週1回あって、LL教室で簡単な英語会話を学んだ。それぞれの仕切のついた机につくと、机の上にはテープレコーターのような仕掛けがある。ヘッドホンをし、それを操作して今日の第何課かを選び出す。先生が後ろ上方の監査室から皆にその課の主要な会話の説明をしてからは、各自が機会を操作して自由に繰り返し練習してよい。仕掛けは大きくて、随分とカネがかかっていただろう。
 しかし、機械相手なので、自分がやる気にならないと、どうにも気が進まない。あるとき、途中で先生が声を荒げ、「歌を吹き込んで聴いている」とのことだった。さもありらん、と多くの人が思ったに違いあるまい。
 もう一つの民主主義のテキストは、薄くて、難しい単語は少しで、助かった。京都大学から週に一回、僕ら1年生から上級生まで教えておられた。先生の授業は静かで、一区切りずつ学生に読ませて、訳させる。その後、先生が正しい訳と解説をされる。「民主主義とは、責任を受け入れることである」と言うとき、テキストはそのことを野球を例にして説明していた。1年の授業が済んだところで、京都大学からの出張授業は終わり、ある日上級生の音頭で在校生一同による先生を囲んでの送別会を告げるちらしが掲示板に貼られていた。
 高専の授業は中学とは異なり、長丁場のものだった。午前の学科が終わると、昼飯は別棟にある食堂に行って、食べるのが日課だった。その時間前になると、どうも落ち着かない。「そろそろ時間ですが」という気持ちで、そのときを待っていた。終了すると、初めはおもむろに、廊下に出ると積極果敢に走って食堂のある方へ向かう。寮の諸君は寮の食堂で食べていたようだ。一般食堂の方はすでに人が詰めかけていて、すばやく行列に並び、いつもの食券を買って、配膳口で「おねがいしまーす」と厨房内のおばさん達に声をかけて注文する。僕が頼むのは時々カレーライス、大抵は「素うどん」。素うどんは当時100円以下だったのではないか。もかく安い、それでいて、ボリュームがあって、うまいと来ている。うまさの訳は、もちもちの食感のするうどんに薄口のつゆ。ネギに天かすが載っていて、時間が経つと教職員が来られて混雑するので、少し急いで食べていた。ほんの少しだが、やや酢のような臭いがしていたのは気のせいなのか、しまいは汁ごと全部飲み干していた。椀の底に最後の麺とつゆが残ったら、その椀を両手の掌におし頂いて、「ググーッ」と飲み干していく。
 それで、また昼からの長い授業に向かう元気が出てくるような一品だった。1年生の昼からの授業で一番大変だったのは、工作実習であった。実習の服に着替えて、工作室の前に整列する。それぞれの班ごとに、今日の実習内容が決まっており、それぞれの教官に従って、部屋の中に入る。中は広く、工作機械、鋳造、溶接などの現場に分かれている。これらのうち鋳造は一番の大仕事だった。まず、砂場に入り、教官の前で車座になる。簡単な今日のメニューが示され、鋳型を造るやり方の説明を受ける。よく観察しておかないと、実習に入ると、各々でやることになったとき作業が進まない。頭に書き込むように教
官の模範内容を覚えておく。その後、作業に取りかかるも、よく何度も教官に泣きついたり、教官が見回りに来たとき「うーん、どうするんだったかな」などとゼスチャーすると、大抵は親切に教えてくれた。鋳型を造って、それぞれの置き場を確認すると、はや3時間の終了が過ぎている案配だった。鋳造については、その次の週の授業で「湯入れ」を行った。「油入れ」とは、その頃はやっていた映画「キューポラのある町」での鋳物風景というよりは、もっと原始的で、電気炉で融解した鉄を大きなひしゃくにもらう。もらうときは、緊張がピークに達する。
「腰を低うせんか、腰を!」
 教官の叱咤激励で正しい姿勢を整えてから湯を受け取る。それから、一歩ずつ「おそる、おそる」の程で砂場内の自分の鋳型にあるところまで運んだ。そして、ひしゃくを鋳型の口部分に当てて、ゆっくりゆっくりと「湯」を流し込んでいく。
 これら一連の作業は途中で緊張の糸がとぎれると危険である。だから、運んでいって一旦鉄ひしゃくを砂地に置くことはせず、ひしゃくを両手で持ち続ける。そのままの姿勢を保ちつつ、しっかりと足下を固める。そこで「フウーッ」と一呼吸するとよい。それから、流し込む作業に取りかかるが、すでに、腕がだるくなってきている。一旦湯を入れ始めたら、とぎれなく入れないと中に「巣」ができてしまう。さりとて、はやく全部を流し込もうとして作業を焦ると、湯口から鋳型の外に湯があふれてこぼれてしまう。そうしたら、足下が危なくなってしまう。あれやこれやで緊張が続いて、実習とはいえ、時間が無事終わったら、疲れと緊張から解き放たれた脱力感とでしばし呆然となる日もあった。
 1年生の体育の時間は、ボールを扱うものを中心に習ったように思う。ハンドボールが一番おもしろかった。その真骨頂は、ボールを味方から受け取ってシュートするときだ。ゴール前に半円のサークルが引かれていて、2、3回ドリブルで運んで自分では「バッ」と飛び上がる。そして、ボールを持った右手をやり投げの要領で振り上げてから勢いをつけてキーパーのいるゴールめがけて投げる。何やら、瞬時ではあるが自分が空中で「絵」になったような錯覚に浸れる快感があった。バスケットポールとかバレーボールをやったのを覚えているものの、クラブ活動でやっている人や経験者がいて、とても彼らにはかな
わない。バレーボールではレシーブを失敗してはならじと身構えるが、いざボールが顔の前に飛来すると、緊張で味方のどこにボールを回すかを忘れてしまう。もともと不器用なだけに、技術のなさだけが目立つ有様だった。バスケットボールはいまでも大好きで自宅からほど近い小公園にゴールのリングが設けられていて、そこで時々滑稽な動作を繰り返している。当時は、閑散とした体育館で習っていたようだ。試合となると、めまぐるしくボールの流れる方向が変わるので、それについて行くのが大変となり、息が弾み顎(あご)も上がる。おしまいの頃には、トレーニングシャツは汗びっしょりとなって、足は棒のようになったものだ。日頃鍛えていないので、身も心もへとへとになった。悔しいが、
体力のなさを痛感した。そこには、小学校の頃まで山を走り回っていたがむしゃらな元気はなくなっていた。
 学校にとどまって苦手な学業でもやり抜こうという気にさせてくれたのは、歳月とみまさかの風景、少しずつ出てきた友情の芽、家族、そして文学などへの興味であったろう。1年の終わりの頃には、数学についても何とか及第点を採れるようになり、留年や奨学金の受給をはずされることへの危惧は遠のいていった。ともかく若かったので、「力強い生命力」が内にあった。学校への道のりも、季節によって移り変わっていった。それが僕を力づけてくれたのは疑いない。
 駅から、しばしば一緒に自転車で行く友人もできた。N君は家が亀の甲あたりだったか、津山線で津山まで来ていて、同じクラスだった。放課後、よく一緒に駅まで帰り、待合室でそれぞれの列車の時間が来るまでしばしの間、談笑していた。N君は理科系が得意で、僕は文化系科目が比較的よかったから、きっと話が合ったのだろう。僕が教えを請うと、彼はカバンの中からノートを出して、丹念に書き込まれた一節を僕に見せてくれていた。あとは、世間話で、そのとき、そのときに出会ったことや何かを話題にしていたようだ。
「丸尾、おまえ、暇なときは何しとるん。」
「通学が長いけんなあ、家で勉強なんかはほとんどようすりゃあせん。」
「そうかあ、わしもせんよ。せんといかんなあ。」
「Nはいつもどうしとるん、家の仕事をてご(手伝う)しとるんか。」
彼の家は、土建業を営んでいると聞いていた。だから、いろいろ大変だろうと読んでいた。
「ああ、休みのときにゃあ、ちょっとはなあ、しとるで。」
「あとは、どうしとるんか。」
「最近はどうもしとらん。」
 高校生たちも、思い思いの話もしていて、たまにそれが耳に入ってきた。
「あの人たち、高専生みたいにね。」
「そうよ、いつもああして二人で話しておるんよ。」
「何を話しょうるん。」
「ええと、勉強のことなんかじゃないんか。」
 口では彼と話しをぼつぼつ続けながら、耳をバイリンガルにしていると、ついに気にしていることが出た。
 ちょっと声を潜めるようにして、二人組の片方の女高生が言う。
「あの人、足が大きいんじゃないの。」
「しー、聞こえたらどうすんの。」
『聞こえてるがな。たしかにそうだが、ほっといてくれんかなあ。』
 昔も今も、体のこととかを取り上げて、話のつまにされるのは気持ちのいいものではない。
 家族の応援もあった。なかでも祖母はもともと厳格な人であったが、小学校中学年位から僕をかわいがってくれる方へと劇的に変わった。例えば、祖母と一緒に家の風呂に入ったのも懐かしく思い出される。一緒に入ったのは少しの期間だったのかもしれない。小柄で、色白であったが、両手、とくに指は後ゴツゴツと節くれ立っていて、長い労働の歴史を物語っていた。その祖母が、学校が休みのときに、田んぼや畑に出ていて、気遣ってくれた。
「定子(母)かあさんがいよったが、泰司は勉強が大変らしいな。」
「勉強いうてもいろいろあるけん。おもしろいのもあるけー。」
「機械のこと、だいぶんわかるようになったんか。」
おばあちゃん、僕あ、まだ1年じゃけん、まだそこまでいっとらん。いまは基礎をやっとる。」
「ほーか?」
 その後、僕も少し考えて、不安になって付け加えた。
「だんだん、むずかしゅうなりょーるけん、心配じゃあ。」
それから、ぼそっとして、
「(勉強に)ついていけんような気がして、きょうといときもあるで。」
「そうか、おばあちゃんが氏神様にたのんどいちゃるけん、大丈夫じゃ。
心をしっかりもっとれい。」
 祖母の顔から優しい眼が覗いた。
「泰司はおじいさんの孫じゃけえ、おまえはもともと頭のええ子じゃけん。」 
 祖母の顔がもっと近づいてきた。親身で心配してくれているのがわかった。
「おばあちゃんはしっかりしとりんさるけん、僕も元気でやるけん、心配せーでええよ。」
「おう、おばあちゃんもから(体)はこまい(小さい)けど、山椒の実じゃ。」
 その言葉は、山椒の実はピリッと辛い。だから、人から馬鹿にはされん、というもので、祖母の口癖であった。祖母は、学校というものに行っていなかった。彼女がひらがなを自習しているときの鉛筆で記した紙を見せてくれたときがある。外孫達からの年賀状
の返事を書く練習だったのではないか。