『(84)』『岡山の今昔』17~18世紀の岡山人

2017-04-20 21:33:41 | Weblog
『(84)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』17~18世紀の岡山人

 河原善右衛門(かわらぜんえもん、1631?~1685)は、江戸時代の寛永年間に、当時の久米南条郡弓削(ゆげ)村(現在の久米南町の下弓削)に生まれた。このあたり一帯は、広くは旭川沿いの農村地帯だといえよう。家は、そこら内では、裕福な部類であったのだろう、長じては大庄屋となった。それからの彼は、この地の発展のために様々な事業を先導するのだが、脂ののりきった時に無実の罪を着せられ、処刑されたためか、その事績の全容は必ずしも明らかになっていない。1996年には供養塔が発見され、2005年その横に設置された、久米南町文化協会による石碑には、河原の生涯にわたる事蹟(じせき)について、こう記されている。
 「河原善右衛門は、寛永八年(1631年)久米南条郡弓削村(現久米南町下弓削)に生まれた。度量篤く、進取の気性に富み、経世の才に長じ、国主森長継より大庄屋を命ぜられ、よく善政を施し、地方の開発と、民の利益増進に努めた。
 その経営した事業は厨神社の移転、佐良川、弓削川など数多河川の改修、道路の開設、堤防改築、新地開墾。誕生寺池、長万寺池を始め、十六を超える貯水池の新築修築を行った。これらの池は今日に於いても、なお満々たる水を湛え、四百町歩の田畑を潤し、住民の生活を支えている。それら独特非凡の手腕は、領主よりの一層の信任と寵遇を得たが、その盛名を妬んだ心なき者の讒訴(ざんそ)により、無実の罪を着せられ、貞享二年(1685)四月二十六日、五十五歳を以て、一族九人と共に磔台の露と消えた。」
 これにあるよう、河原が一重に願いとしたのは、貧困にあえぐ農民たちを何とか救済したいということであった。数々の事業に私財を投じて取り組んだ。家族も、そんな彼を支えたのだという。この地での最大級の事績として現代に伝わるのは誕生寺池(旧名称は坪井池)であって、「天和年間、美作国久米南条郡上弓削村の大庄屋河原善右衛門によって築造」(「角川日本地名大辞典」より)と現地に刻まれているとのことである。断罪されてからしばらくの間は、津山藩(時の藩主は3代目の森長武)から善右衛門の供養は禁じられていたらしい。そして断罪に至った理由や経緯についても、新層を求めて多くの歴史家(郷土史家を含む)が努力しているものの、いまだに定説らしきものはなく、ましてや確証となる史料は見つかっていない。一説には、後に4代藩主となる森長成派の面々(家老の一人、長尾隼人など)が、3代藩主長武の「側用人政治」を攻撃するために、藩主の寵愛を一身に背負って土木工事に邁進していた河原善右衛門の追い落とし(「隠田」の罪とかで)をねらったとされるものの、なお憶測の域を出ていないように感じられる。
 幕末の1856年(安政3年)、下弓削村の大庄屋、宮本勘三郎古建立により「善右衛門頌徳碑」(ぜんうえものしょうとくひ)が建てられたことで、本来の面目、その人となりが現れ、以来郷土史家らの熱意と努力とによって、その大いなる事績と「久米南の義人」とも形容される精神とが緩慢ながらも明らかになりつつある。

(続く)

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『(77)』『岡山の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景

2017-04-17 17:52:04 | Weblog
『(77)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高野、勝北、日本原から奈義の風景

 今では、津山から私の生家に到るには、二つの交通機関を使う。その一つは、因美線のディーゼル機関車に乗って津山駅を出発し、東津山、高野と北東にたどり、そこからは森と加茂川渓谷を分け入り次の美作滝尾駅で降りる。ここは加茂川に沿って開けた農業と林業の山あいの村で僕の好きな風景がある。短いが鉄橋が架かっている。緑と水の醸し出す叙情的風景がそこには広がっている。そこから加茂川に沿って南東の方角へ下り、さらには加茂川を離れて東へ4キロメートルばかり歩いたところに私の生まれ育った家がある。
 もう一つの公共交通としては、津山駅から中国鉄道バスに乗っていく。乗るのは、行方、馬桑方面行き、自衛隊方面行き、そして日本原行きである。このバスに乗って同じく北東方面に進んでいく。高野まで鉄道で行って、そこからバスに乗り込むルートもある。バス旅は津山から川崎を通って東津山に出る。このあたりで吉井川とは別れ、私たちが乗り合いしたバスは、支流の一つである加茂川沿いの道をたどり始める。私たち勝北(しょうぼく)の者は、河辺で加茂川を渡り押入へと北上する。高野本郷(たかのほんごう)や高野山西(たかのやまにし)のあたりは「高野田圃」(たかのたんぼ)といって、昔から美作の有数な水田地帯なのである。
 ここの鎮守には、高野神社がある。創建年代は不詳ながら、地域の守護神として建てられたのだろう。ここの古くの祭神は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)のみであったのが、鎌倉時代に八幡神の応神天皇・神功皇后が加えられた。国家神道において格式というものが定められていて、平安時代前期の864年(貞観6年)に従五位に叙せられ、さらに875年(貞観17年)には正五位下に昇進している。これと同じ名前の神社が、津山の西、二宮にもあって、そちらの高野神社の二宮の格式に比べると、下位に分類される。こちらは高野本郷地区の郷社の扱いなので、近隣の豪族などからの土地寄進などは、封建社会の中で限られていたのではないか。
 参考までに、美作国十一社のうち首位の中山神社に次いで2番目、「二宮」としての高野神社については、祀っているのは、彦波限武鵜葺不合尊(ひこなぎさうがやぶきあえずのみこと)と長い名前だ。その人物は、伝説上の神武天皇の父である、とされる。ところが、傍らの相殿に美作の国の「一宮」、中山神社主祭神の鏡作神(かがみつくりのかみ)祀っていることから、元々この二つの社は一体となって活動していたとの推測もなされてきた。
 かの『今昔物語』には、「美作国に中参(中山神社の古名、引用者)・高野と申す神在(おわし)ます。其神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞ在ましける」とあるからだ。猿や蛇を祀っているというのは、いかにも突飛なことだから、さしずめ間をとって「神の使い」か「神の召使い」といったところか。参考までに、この他に「天石門別神社」(英田郡宮地村)、佐波良神社、形部神社、いち栗神社、大佐佐神社、横見神社、久刀神社、菟上(とがみ)神社、長田神社(以上八社は当時の大庭郡、現在の真庭郡湯原町社という狭い処に寄り合いしている)があり、野村十左衛門英至(倉敷)作の『山陽道美作国図』(1816~19年刊行)余白にもそのことが記されている。
 今のJR高野駅を過ぎると野村(津山市)で、それから北東に進路をとって楢(なら)というところで加茂川を渡る。さらに数キロメートル行ったところにある上村の停留所で降りる。そこから北へ歩いて約2キロメートルのところに私の生家はある。西下部落の北端、天王山(てんのうざん、西下部落にあって標高は291メートル)という丘陵状の山懐に抱かれた傾斜の地に人々がへばりつくようにして住み始めたのは、少なくとも江戸初期にまで遡る。この地には、西粟倉村(英田郡)ほどのたおやかで、森閑たるたたづまいとはいえないまでも、ゆったりとした森と大小の棚田と溜池がある。狐尾池は1922年(大正11年)に構築された。当時のこのあたりは湿地帯であったのかもしれない。この一帯はいわゆる名所旧跡の類が見られる珍しい場所ではない。
 私の家の辺りは西下部落の最北端にある。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても、取り立てて風光明媚な場所ではない。子供の頃には国道53号線から帰る方向を仰ぎ見て、小学校の高学年ともなると、ときには「あんなとこまで帰るのか」と道中の長いのを恨んだこともあった。その人家のありよう、たたずまいは山間の僻地とまではいかないものの、それにかなり近い。でも、生まれて半世紀近く経ったいまも、私のたった一つの故郷であることに変わりはない。
 勝北の東部から奈義へと至るには、それからも国道53号線を通って横仙の山並みを左に仰ぎながら、東へ、東へと進んでいく。この道を辿って昔の人々がどのように往来していたかを伝えるものとしては、次の話が伝わっている。18世紀も末葉に近くなる頃、勝田郡真殿村(現在の勝田軍勝田町真殿)に三次郎という農民が暮らしていた。彼は4反ばかりの田んぼで稲を作っている、自作農といっても貧しい農民だった。同村に同じ農民の清助という者がいて、その娘の名を「くに」といった。その「くに」が16歳になった時、彼女は三次郎のもとに嫁入りする。嫁入り先には三次郎の父と母がいて、4人による新生活が始まる。それだけなら話はここで終わるのだが、三次郎は体が弱く、舅姑(しゅうとしゅうとめ)もまた病気がちであって、彼女にとっては新婚の頃から労働の汗のしたたる日々が続いた。
 そして迎えた1795年(寛政7年)、この地方は大洪水に見舞われ、この辺りの村々の田畑という田畑は水浸しになり、それからは不作の年が続いた。一家の困窮をなんとかしたい彼女は、老父母に、山の雑木を切って炭焼きを行い、それでできた炭を牛に背負わせて津山城府までの途中にある新野(にいの、現在の津山市勝北新野地区)に炭の中継ぎ問屋があるのを幸いに、そこまでの往復8里の道のりを日帰りで売りに行きたいと願い出たところ、舅はそれは男仕事であるので彼女で大丈夫かと心配したらしい。しかし、結局は許したものとみえ、彼女はその仕事で一家の生活を懸命に立て直していく。これが美談として伝えられ、彼は当時の藩から表彰されたことになっている(詳しくは、吉岡三平「吉備の女性」日本文教出版の岡山文庫1969年刊)。
 その沿線にて、二つ目の話を紹介しよう。1889年6月の市町村制施行でそれまで「勝北郡滝本村野」(現在は勝田郡奈義町滝本)と呼ばれてきた滝本村ほかの四か村が合併し「北吉野村」となっていた。その頃、この滝本からは「年の暮れが近づくと、村では津山の待ちへ米を売りに行く。荷車に二~三俵積み、そり代金が節季の支払いにあてられる、そんなある日、近所の小父さんに「今日はまちへ米を売りにいくけん、(津山で働いている)兄さんにあいたければつれていってやろうか」と声をかけられた。母のないマツ(後の芦田マツ)は快諾し、津山まで片道四里の道程を元気に歩いてついていったという。二ツ坂、油坂、福万寺の急坂を越え最後の楢坂を下ると、加茂川上流の船着場、川べりに灯ろうが立ち、土手の桜並木のたもとに茶屋があり、「いけやまん頭」ののぼりがはためいていた。この五厘饅頭は大きく、砂糖が多いのが評判で、蒸籠が甘い香りの除ヶが立ちのぼる」(永瀬清子・ひろたまさき監修、岡山女性史研究会「近代岡山の女たち」三省堂、1987年)とある。その通りであれば、はるばる滝本の村から津山まで一日をかけて往復したのなら、都合8里(32キロメートル)にもなり、小父さんの荷車を牛が引いていたとしても、その後について少女が全行程を歩き通すには相当の健脚でなければならなかったし、せめて返り道で楢坂にさしかかったときには、その美味しい饅頭を食べることができたのだろうか。
 さらにその先の河辺(かわなべ、津山市)は、戦前までは文字通り「河の辺り」の湿地帯であって、作物の栽培には大して向いていなかったようだ。ここに女医布上喜代免は、1924年(大正13年)に、故郷に帰って医院を開業した。それまでの彼女の足跡を辿ると、1917年(大正6年)に当時の女性としては珍しい医師免状を得てからは、大阪府庁の保健課主事として忙しく働いていた。それが故郷が貧しく、無医村であったことに触発されたのだという。それからの彼女は戦前、戦中、戦後を通じて地域医療に力を尽くした。その地域にとどまって命をつないでいくしかない、当時の多くの貧しい人達を医療面からどう支え、助けていくか、それを本当に担うのは自分であるとの自覚から数十年を働き、1981年、その仕事をやり終えて86歳で永眠したという(岡山女性史研究会「岡山の女性と暮らしー戦後の歩み」山陽新聞社刊、1993に詳細あり)。ちなみに、1959年時点の厚生省調査による日本人の平均寿命は、男が65歳、女が69.6歳とされている。

(続く)

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『(86)』『岡山の今昔』20世紀現代の岡山人

2017-04-15 09:32:25 | Weblog
『(86)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』20世紀現代の岡山人

 臥牛山(がぎゅうさん)の4つの峰(北野方から大松山、天神の丸、小松山、前山)をも含め、このあたりの山々は、豊富な植生でも知られる。中でも臥牛山の前山は、「十分に散策可能であって、生態観察に適している」(宗田克己「高梁川」日本文教出版、岡山文庫59)とのこと。これを喧伝(けんでん)した人に、吉野善介(よしのぜんすけ、1877~1964)がいる。彼の生業(なりわい)は薬種商であった。植物の生態観察に必要な根気と愛着を持ち、1928年(昭和3年)には往年の散策ならぬ探索で培った知見をもって「備中植物誌」を著した。中央の専門家の知遇も得ていたようで、助言や讃をよこしてもらっている。本人の語りは、いかにも植物愛好家であるらしい。
 「此小著は備中国に自生する顕花植物と羊歯植物とを自然分科の下に列記したもので
各科に於ける種類の排列は学名の「アルファベット」順に依って居る。備中国は山陽道の中部の稍(やや)東寄りに位する東西約そ九里南北約そ二十里略長方形をした国で、北は中国脊梁山脈を隔てて伯耆国に接し、西は備後国に隣り、南の一方は瀬戸内海に瀬している。
 国内は備中山脈の支脈が縦横に連亘し、其間国の中央を北より南へ貫流する高梁川とこれに注げる数多くの支流とが各処に峡谷を作り、南部に於ては狭い沖積平野を成している。他勢、南より北へ向かって次第に隆まり、国の北端なる阿哲郡の北境には八百「メートル」及至一千「メートル」位な山々が起伏し、其最高点は伯耆国に跨れる花見山で標高一千一百八十八「メートル」と成っている。
 予は郷里、上房郡高梁町(国の略中部に位し、高梁川の東岸に在りて四五百「メートル」内外の峰巒(みね)に囲まれて居る)を中心として多年植物を採集したが何分業余の道楽仕事なので存分の調査も出来ず従って其れも郷里に近い処程詳密な代り遠いだけそれだけ疎略になって居るのを免かれない。今後もっと広く阿哲北境や深山幽谷や南備沿海地方などを捜したならば此目録に漏れた多くの種類が見付かるであろうと思う。予は備中植物の調査取りも直さず日本「フロラ」の開明の為めに熱心なる斯道研究家の出で、予の蒐集の上に幾多の増補刪訂を加えられんことを切望する。」
 これに収録する植物は1370種に及ぶ。吉野本人の発見した新種も40種を超えているようで、インターネット配信でこれを探索することができるのは幸いだ。彼が歩き回っていた備中の山々の群像とともに、かかる山への憧れを故郷の、後の世代に伝えないではおかないであろう。彼自身は、これに没頭することで、自然から人生の、大いなる楽しみをもらったのではないだろうか。
 世に岡山民謡、それでいて「中国地方の子守歌」と流布されているものは数々あっても、今では一つが抜きん出て有名になっている。その歌詞には、こうである。
 「(一)ねんねこ/しゃっしゃりませ/寝た子の/かわいさ/起きて泣く子の/ねんころろ/つらにくさ/ねんころろん ねんころろん、(二)ねんねこ/しゃっしゃりませ/
きょうは/二十五日さ/あすは/この子の/ねんころろ/宮詣り/ねんころろん/ねんころろん、(三)宮へ/詣った時/なんと言うて/拝むさ/一生/この子の/ねんころろん/まめなように/ねんころろん/ねんころろん」
 原曲は「ねんねん守の歌」といって、矢掛から井原にかけての旧山陽道周辺にて、少なくとも江戸時代から土地の人々によって歌い継がれていた。この子守唄を改めて世に出すのに貢献したのは、二人いる。着目したのは上野耐之(うえのたいし、1901~2001)であって、後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)に生まれた。声楽家になることを目指し上京していた。1928年(昭和3年)、恩師である作曲家に山田耕作に、幼い頃母よりずっと聞かされていた子守唄を披露したらしい。おそらくは、私の故郷にこんな子守唄がある、今や消えかかっています、ということだったのでないか。これを聞いた山田は大層喜んで、その場で五線紙に採譜し、とてもいいメロディーだから伴奏をつけて、歌曲にしてみようということになった。同年の4月には、編曲が成って「中国地方の子守唄」として発表した。広く歌われるようになったのは、やはり、この山田の力によるとろが大きいのだろう。この子守唄は、後にテノール歌手となった上野がクリスチャンであったため賛美歌風になっていることから、現在も地元の「元歌保存会」によって歌い継がれているという。

(続く)

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『(53)』『岡山の今昔』新見市街とその周辺

2017-04-14 10:18:50 | Weblog
『(53)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』新見市街とその周辺

 さて、このあたりの戦後からの発展の経緯を顧みると、1954年(昭和29年)6月からに、阿哲郡新見町・上市町・美穀村・草間村・豊永村・熊谷村・菅生村・石蟹郷村が大同合併し、元の新見市となる。その翌年の1955年(昭和30年)5月には阿哲郡千屋村を編入合併した。さらに1957年(昭和32年)4月からは、豊永赤馬小字坂尻を上房郡北房町へ分離する。そして21世紀に入っての2005年(平成17年)3月31日をもって、(旧)新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町(てったちょう)・哲西町(てっせいちょう)の、つごう1市4町が合併したことで、新たな広域・新見市へと移行し、現在に至る。
 そこで2017年4月現在の新見駅に立って、北の方角を仰ぎ見ると、周囲は中くらいの高さの山にすっぽりと囲まれているではないか。無理もない、おのが立ち位置を確認するため地図を広げてみると、中国山地のほぼ真ん中に位置しているのが見て取れる。ついでに地図で新見市街の東側に追っていくと、しばらく行ったところに「豊永赤馬」(とよながあこうま)という珍しい地名のところ、高梁川上流県立自然公園に隣接して満奇洞(まんきどう)が見つかる。
 この洞窟は、ほぼ水平に450メートルの奥行きを持つ。その中位には「千枚田」(せんまいだ)と呼ばれる幅広の空間、かなり奥に入った所にはいかめしい形相の鬼が住んでいそうな「鬼の居間」があるとのこと。大正期のここに歌人の与謝野晶子(よさのあきこ)が旅してきた。夫の鉄幹と二人でここを訪れたのだと、土地の人に聞いた。その彼女が、「満奇の洞千畳敷の蝋(ろう)の火のあかりに見たる顔を忘れじ」と詠んだことから、こう命名されたと伝えられる。そして迎えた本番、最奥の洞内湖には、かの浦島太郎の物語「竜宮城」にある「竜宮橋」が架かっているのだというから、驚きだ。
 さて、この山間の新見の地に江戸期に入府してきたのが、関長次(森長継の九男にして森忠政の甥)の次男、関長政(せきながまさ)であった。彼は、森藩2代目の森長継(もりながつぐ)から1660年(万治3年)頃、宮川の墾田を分知される。その支藩の美作宮川藩(関家1万8900石)として立藩していたのだが、その実績を認められ1697年(元禄10年)8月、関長治が藩主の時、新見藩に転封される。この藩は城を持たない小藩ながら、その歴代の藩主による治世は比較的穏便であって、明治までの約3百年をほぼ大禍なく過ごす。なお、新見の町並みは、1938年(昭和13年)に市内に大火があったようだが、それでも江戸期の町並みの雰囲気の多くを現代に伝えているように思われる。
 この新見駅から程近いところ、中世の新見庄であった時代の名主屋敷跡には、入母屋(いりもや)・銅板葺きの屋根を持った、日本風の美術館が建っている。所蔵作品(千点を超えると、美術館のホームページに見える)のうちには、横山大観、川合玉堂など有名画家のものが含まれるとともに、中でも点数で約80点と群を抜いているのが、文人画家の富岡鉄斎(1836~1924)のものだという。富岡鉄斎の号の由来は、「仏説四二章経」に「仏曰くもし人、鉄を鍛え滓(かす)を去りて器成(つく)りなば、器すなわち精好ならん。道を学ぶ人、心の垢染(こうせん)を去りなば、行いすなわち清浄(せいじょう)なり」との条(くだり)にあった。ここからは、彼の持論であった「人格を研かなけりゃ画いた絵は三文の価値もない。(中略)新しい画家に言うて聞かしたい言葉は、「万巻の書を読み、万里の道を行き、もって画祖となす」と、ただこれだけじゃ」(大坂毎日新聞)との戒めが明かされる。
 この型破りの人は、幕末に向かい始める頃の京都、そこの法衣商、十一屋伝兵衛(富岡維叙)の次男として生まれた。家は、裕福であったのではないか。幼少の頃から国学、漢学、詩文などをよくした。19歳頃よりは、文人としての教養を身につけるために絵を学んだ。つまり、当初から絵師を目指したのではない。1861年(文久元年)に長崎に遊学し、南画を学んでいる。30歳代から40歳代半ば頃までは、大和石上神社や大阪の大鳥神社の神官を勤めていた。儒学と神学(日本のもの)との修学がどう結びつくのかは、不明だ。神職はさほどに忙しいことはなかったらしく、その間かなりの日数をかけて全国を行脚し、「万巻の書を読み、万里の道を行き」、さらにまた画業に精出して、気儘な文人生活を送っていたらしい。さしずめ、池大雅(いけのたいが)のような悠々たる旅であったのか、どうか。
 1881年(明治14年)には、兄、伝兵衛の死に伴い京都に戻って、ここを安住の地とした。1897年(明治30年)には、日本南画協会の創立に参加する。画風としては、細かなことにはこせこせしない性格が投影しているというか、自由大胆な水墨と多彩な色彩による独特の作風である。多くの桃源もしくは仙境を題材にした画や、中国の文人・政治家の蘇東坡(そとうば)に取材した作が有名だ。本美術館に所蔵の「武陵桃源図」(ぶりょうとうげんず)は70歳台の作といわれるが、これに似た構図は33歳の時の傑作「越渓観楓図」(えっけいかんぶうず、紙本着色)にも見られるのであり、おそらく終生のテーマの一つであったのだろう。面白いのは、「十六羅漢図」(じゅうろくらかんず)の方であって、どれもこれも、ほのぼの、ぼかぽかと温か、そして融通無碍の表情が見て取れて、何やら楽しくなってくるのである。自由奔放かつ儒者としての志を貫くことができたのは、政治向きの事は避けながらも、ほかのほとんど全ての面での真っ正直、精進の賜(たまもの)であったのだろうか。
 なにしろ、ここは山間の地なのであって、地図を広げているだけでは、どこに何があるやらはっきりしない。そんな中にも、新見市西部の満奇洞近く(隣接か)に豊永(とよなが)という地名が見える。この地域で、1986年から葡萄の栽培が行われているという。それまでのこのあたりは、備中高梁と同様に葉タバコの産地として知られていた。なにしろ、このあたりは標高400~500mの石灰岩地帯からなるカルスト台地の上にあり、岩にしみいる加減で水はけがよいのだと。そればかりか、土地の人に話をうかがっていると、ここは昼夜の温度差が大きいこともあって、県南部に負けない位の高品質の葡萄が栽培できるとのことである。まるで、ここが山梨の甲府盆地での葡萄栽培であるかのような土地柄なのではないか。
 ここでの葡萄の栽培品種としては、ピオーネや翠峰(すいほう)だと紹介された。ピオーネは、巨峰とカノンホールマスカットを掛け合わせたもので、大粒で種が無い。岡山県は、今ではピオーネの作付け面積、生産量ともに全国一位という。交配(こうはい)することで新味が出るとしても、例えば高級品種だと思われる巨峰と比べてみたら、何がどう違っているのだろうか。翠峰(すいほう)は、ピオーネとセンティニアルを交配させた品種なのだという。インターネットに上げられているところでは、黄緑色の大粒葡萄であって、福岡県農業総合試験場の園芸研究所で育成され、1996年に品種登録された。これも種無し処理をされていて、食べやすいらしい。葡萄栽培の他にも、新見産のキャビアの出荷が伸びているとのこと。これは、チョウザメの卵を加工してつくることから、これを生産している養魚場には絶えず新鮮な水が供給されなければなるまい。豊永の西にある新見市唐松(からまつ)に設けられている養魚場では、中国山地の伏流水をポンプでくみ上げてチョウザメを養殖していると聞く。

(続く)

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『(61)』『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

2017-04-11 10:17:32 | Weblog
『(61)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(室町時代)

 さて、総社に、宝福寺という禅寺がある。創立年代は不明にして、天台宗の古刺であった。それを、鎌倉時代の1232年(貞永元年)に住職の鈍庵和尚がこの地に新しく伽藍を建立した。鈍庵和尚は備中真壁(現総社市真壁)の生まれ。依頼、この寺は臨済宗東福寺派の中本山で、西国布教の一拠点となっていく。
 ここは三重塔が有名で、国の重要文化財となっている。この塔だが、1376年(永和2年)に建立された。これが分かったのは戦後の解体修理で発見された銘文であり、それまでは寺に伝わる話で北条時頼が諸国巡遊した際の寄進だとされていたのが覆されのであった。1575年(天正3年)の備中兵乱によって宝福寺の大半の建物が焼失した。戦火のなか三重塔だけは無事に残った。室町時代の塔が残っているのは、珍しい。
 この寺で幼少期の一時を過ごしたのが、雪舟(1420?~1506?)である。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。
 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」からは、何故か孤独、風雪というものを感じた。

(続く)

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『(50)』『岡山の今昔』津山市西部

2017-04-10 09:40:44 | Weblog
『(50)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市西部

 さて、森氏の入封により津山城下町に組み入れられたのは、33町と言われる。やがて津山の街に入ると、美作国府(津山市総社)、美作国分寺(津山市国分寺)を通ってゆく。出雲街道(旧道、以下同じ)の本道を境に左手に向う。すると、新屋敷に取り付く。西の構えの部分ということだ。この道の右手には、安岡町、ついで茅町とある。本道に戻ろう。そのまま進んでいくと、左手の寺社の北隣には西新座がある。本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいた。それが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。 、
 西寺町西から西今町にかけてはどうだろうか。このあたりの出雲街道の道筋には、寺社が多い。左に佇むのが染寺(西寺町)、本源寺(寺町)など、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などと多く並んでいて、「さすが寺町」といわれるだけのことはある。
その中から、愛染寺の鐘楼門は通りに面して建つ。一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載る。堂々ながらも、静かに感じられる。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされたという。ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。
 さらに本道から一筋南に少し下ってゆく。その途中の左右には本行寺、妙勝寺、長安禅寺、福泉寺などが並ぶ。この通りをそのまま下っていく。すると、視界が開いて、吉井川に出る。このあたりの寺は、別の任務を帯びていた。すなわち、境橋(さかいばし)を津山城下に入ろうとする敵を監視していた。武家社会というものは、町の区割りにも体制維持の工夫が読み取れる。社会への窓としては、妙勝寺の第31世、瀬川學進上人の事績が伝わる。彼が、生活に困った人のための一時保護預かりの施設を寺内に「報恩無料宿泊所」として開設したことになっている。
 それからまた左に向かい始める。本道からやや下ったところを平行(西から東へ)に走る通りに出る。西寺町東通りの左手といったあたりか。このあたりには、光厳寺(こうごんじ)、泰安寺(たいあんじ)などが建つ。中でも、真言宗の光厳寺は商家との関わりが伝わる。この寺だが、1614年(慶長19年)、院庄にいた蔵合山口氏(屋号は蔵合家)からの願いで、この地に院庄の清眼寺の住秀照より建てられたという。蔵合家とは、かの井原西鶴の『日本永代蔵』に出てくる。その中に、「蔵合家といえる家は蔵の数九つ持ちて富貴なれば、これまた国のかざりぞかし」といわれた。後には、二階町に移り繁盛をほしいままにした豪商のことである。
 このあたりには、仏教の宗派に限っても、天台から真言密教はいうに及ばず、日蓮、禅の系統、さらに浄土系に至るまで実に多彩である。これらが全体として城下の西の景観をつくっていた。さらにその道の右手には新茅町、鉄砲町と続く。本道に戻って、西今町をさらに東に行く。すると、右手に作州民芸館があり、その先は藺田川(いだがわ)があり、そこには城下町の西の関門、翁橋(おきなばし)が架かっている。
 その翁橋を渡って宮脇町に入ると、もう右手には徳守神社が間近に迫っている。このあたりを「城西(じょうさい)地区」と呼ぶ。特に、寺社の建物は堅固な造りとなっているのではないか。それに、境内があり、いざとにれば反ペイが駐留することができよう。これらの多くは森藩の津山築城から営営と整備されていったものと見える。これらの寺院や神社は、城下の西の軍事的な備えとしての役割をも担っていた、そのことは地勢という点で、疑う余地がない。それだからか、このあたりの寺の庭は門や塀はいうに及ばず、なかなかの頑丈な造りにして、敷地内も広く感じる。もっとも、出雲往来は、他藩に対しては津山の城下町を通さず、かつて隠岐島に遠流の後醍醐天皇が通ったとされる「久米のさら山越え」の道程をとってもらっていたようであるから、それが史実の通りなら、往来の景色はまた違って見えたことだろう。
 ここに徳守神社は、733年(天平5年)の聖武天皇の在位時に創立されたとも伝えられるが、その根拠は示されていない。その時の社地は現在の津山市小田中の地にあったいう。1539年(年)で社殿などを焼失した。森忠政の美作入封の翌年、藩命により1604年(慶長9年)に現在地に移って、津山城下の総鎮守とした。祀っているのは、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)らの5人で、いずれも神話の世界の人物なのではないか。 この徳守神社の年に一度の例祭が秋祭りとして催されてきた。この祭りは、美作津山藩初代藩主森忠政が1604年(慶長9年)に同宮を再建して間もなく、その肝煎りで始まったらしい。1697年(元禄10年)にはもうかなり大がかりな装いの下、総延長数百メートルにも達する程の大行列を敢行していたのだと伝えられる。
 これに参加する御輿とだんじりは、祭りの前日の宵宮にて、各町内のだんじりが夕方から市内に繰り出す。この慣例から推し量ると、「さあ今年もやりますよ」と関係する町内に触れて回ることになるのではないか。明けての本祭りには、徳守神社での神事の後、だんじりと神輿が大勢の人を乗せたり従えて市内に繰り出し、町内を練り歩くのである。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士四十七士の一人である神崎与五郎則休が、1702年(元禄15年)秋の宵に江戸から数日後に行われるであろう、生まれ故郷の祭りを懐かしんで詠んだ歌が、「海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や秋の夜の月」として伝わっている。彼は1666年(寛文6年)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ、少青年期を過ごしたのち、赤穂の浅野家に仕官したのであったが。
 1702年(元禄15年)が押し詰まってからの吉良家討ち入りでは江戸で、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがっていた、とのことである。第二次大戦後にもなると、この祭りは例年、10月第3週の土日と第4週の土日に大隅神社と連れだって行われる決まりになっていたのが、近年高野神社が加わる。これに伴い、名称も「津山祭り」として、東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称されるに至っている。
 西今町の南には、鉄砲町の町並みが広がる。藺田川(いだがわ)を渡ってからの東隣には、南新座の広い町並みが続く。そこから北にある本道に戻っていく。道の右側には宮脇町、続いて坪井町、福渡町とある。坪井町とは、町づくりの初め久米北條郡坪井村付近の人々が移り住んだことから、この名がついた。また福渡町とは、はじめ久米南条郡福渡村(現在の岡山市建部)からの入居者が中心となって出来た町人町である。さらに本道の左側には、上紺屋町、細工町とある。宮脇町には、徳守神社が鎮座していて、森家2代目の藩主森長継が荒れ果てていた社殿を再建整備した。
なお、この町の城下町になる前の郷村名としては、田中郷の小田中村であり、町名の由来は徳守神社の宮脇の意であるとのことである。
 そこから少し東に進んで、右手に3丁目と戸川町、左手には鍛冶町と下紺屋町、さらに進んで右側には二丁目、戸川町、新職人町、桶屋町、新魚町、吹屋町とある。それからまた進んで、城の堀の南側を通る街道の右側に木知原町(のちの境町(堺町))、小姓町、船頭町、左側に元魚町、二階町とある。そのまま街道を進んで、京町、河原町と行く。それからさらに東進して片原町(伏見町)、南馬場前、そして材木町とあって、宮川に出る道筋となっていた。なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)といった武家屋敷が蝟集していた。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に閉校して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
 おりしも20世紀の終わりの年、1999年(平成11年)に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があったのだ。これは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと十日朝、飛脚にふんした「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11二つ付け)ということであった。同紙によると、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線二十市町村の首長からのメツセージを受け取りながら十三時間がかりで走破し、十一日朝には津山市に到着する」とある。
これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であり、十一、十二の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。同紙に添えられている写真によると、当日は幸いにし天高く、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないか。絶好の日和であったようで、スタート場面は次のような晴れやかさで結ばれている。
 「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約三十人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
 飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら五~十キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、十一日午前十時十五分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」

(続く)

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『(56)』『岡山の今昔』備中高梁

2017-04-09 21:18:29 | Weblog
『(56)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城があり、標高430メートルのところにある「天空の城」こと、備中松山城である。最近(2016年から)建てられた駅ビルの3階テラスから北の方角を見上げれば、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見える。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは臥牛山を構成するの4つの峰に含まれる。ここに居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であったと伝わる。この居城、秋庭氏が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。おりしも南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山としたとのこと。ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいということで、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することで高梁で落ち着いたらしい。
 ここで話を戻して、さらに戦国に入っての1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかって1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。
 その後を継いだ子の三村元親は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。
 そして迎えた1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結んだ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親は城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。
 やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わった。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であった。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主であった水谷勝隆がこの備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。同藩は、この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、城の防衛戦の一つの役割を担っていた。
 1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、その勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きであった。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)にそびえていて、現存する山城としては日本一高いところに天守閣が立っている。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のままの姿で残り、国の重要文化財に指定されている。2007年の本丸復元工事によって、天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓などが再建された。全国各地に残っている城郭の中では比較的小さいながら、古武士のような威容が整った形だ。今、城マニアの老若男女ににより賑わいを見せている、鹿児島の「天空竹田城」にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞なのであった。
 めずらしいところでは、市内に頼久寺(らいきゅうじ)がある。この寺の開基は室町期に遡る。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、諸国に命じて建立させた安国寺の一つとの伝承がある。寺内には、1604年(慶長9年)頃に造られたという、小堀遠州による設計の庭園が訪れる人を迎えてくれる。その形式は、蓬莱式枯山水庭園で珍しく、わびさびの世界が広がる。その特徴は、愛宕山(あたごやま)を借景に、白砂が敷き詰められており、その中に「鶴島」、「亀島」といったお伽噺上の島がこしらえてあり、また遠景にはさつきがふんわりと植わっていて、庭の植栽を賑わしている。「旅は情け」の故事に従えば、さつきが満開の頃にここを訪れ、座敷に座って彼の意を凝らした庭を眺めると、ここを訪れる旅人の日頃の浮き世の疲れも、さぞかし癒されることだろう。
 この高梁の山間(やまあい)の地形に、うまくへばり付いた美しい町並みの城下町を出る。それから、高梁川の川沿いをたどっての南進は、大小の渓谷や峡谷つづきであって、当時の人馬による通行は、「道なき道」のようで、さぞかし難渋したことであろう。頼みの舟のルートも、このあたりは急流続きで往来には困難がつきまとう。

(続く)

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『(81の2)』『岡山の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ

2017-04-09 18:11:40 | Weblog
『(81の2)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山のうまいもの、あれこれ

  岡山の大手饅頭(おおてまんじゅう)の由来は、1837(天保8)年当時、岡山城大手門のそばにあった「伊部屋(いんべや)」の饅頭を、岡山藩主の池田斉敏が気に入ってこう名づけたと伝わる。包みを開けると、箱の中で寄り添うように幾つかもの饅頭が並んで、「やあやあ」とかで、こちらを見上げているようだ。
 焦げ茶のあんこに、小麦粉の白がまだらにかかっている。まだらの隙間からは、落ち着き払ったかのような色あいのあんこが覗いている。あんこはこしあんである。生地は備前米から甘酒を作り、日数をかけて丹念に仕上げてあるのだと言われる。あんの材料の小豆と砂糖にも、凝っているやに聞く。このあんを、甘酒を醸し、小麦粉と合わせて発酵させた薄い皮に包み、そして蒸し上げると出来上がりとなる。これで店頭に並ぶ訳だが、これを買い求める側の心境はいかばかりか。郷土出身の作家の次の名文句が広く知られる。
 「東京へ持って帰るお土産の大手饅頭を、箱入りと竹の皮包みと、私がときどき夢に見る程好きな事を知っているものだから、持ち重(おも)りがする位どっさり持ってきてくれた。饅頭に押し潰されそうだが、大手饅頭なら潰されてもいい。」(内田百聞「第二阿房」新潮社、2003)
 一口分つまむようにして口に運ぶと、甘酒のコクとこしあんの甘さがまろやかに広がるとのことだが、ギンギラギンの濃いめの甘さでないところに、この酒饅頭(さかまんじゅう)の真骨頂があるのではないか。

(続く)

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『(43)』『岡山の今昔』出雲街道(姫路~津山)

2017-04-08 19:21:27 | Weblog
『(43)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』出雲街道(姫路~津山)

 さて、JRに戻って、岡山県に入ったところの「土居」(どい)、さらに「美作江見」(みまさかえみ)、「楢原」(ならはら)を過ぎて後、列車は林野駅へと滑り込む。この駅で降りて、タクシーを頼んで北の方角に向かっていくと、平賀元義が「あがた川 暁月に名のりつつ 川上とおく行く ほととぎす」と詠んだ英田阿(あがたがわ)が見えてくる。木村毅(つよし)によると、この河を「一里ものぼると山はようやく深く、嵐気をふくんで車窓にせまる。田舎の舗装もせぬでこぼこの道だが、一時間余りにして宮本村に達する」とある。
 近隣の名所は他にもあって、もう一度林野市街に戻り、再びタクシーを頼んで15分ほど行くと湯郷(ゆのごう)温泉がある。ここは、美作江見から勝間田への順路から少しばずれている。とはいえ、京阪神の温泉好きな人達の間では、豊かな自然の中でほっと一息つける湯処としてかなり知られている。湯郷温泉街の風景は、名湯・城崎温泉のたたずまいとやや似ているのではないか。ところが、こちらは城之崎のような海風も吹かないし立ち並ぶ旅館やホテルの範囲も小さい。山間の鄙(ひな)びた温泉場という呼び方が似つかわしい。いつの頃からか奥津温泉、湯原温泉と並んで「美作三湯」に数えられている。湯の郷は石楠花(しゃくなげ)の花が咲くことで知られている。また、女子サッカーを盛り上げてきたことでも知られる、スポーツに理解のある土地柄でもある。
 津山への入口ともいえる勝間田の地には、この時期に医業で多くの人材が輩出している。その中で、小林令助の働きがあり。彼の活躍は杉田玄白とも関係する。玄白といえば、語学に堪能な前野良沢と協働してして、ドイツ人の著書を翻訳しての『解体新書』を発行した人物だ。その玄白の門人として、親交があったのが小林令助であった。令助は、美作国勝南郡岡村(現在の勝田郡勝央町)に生まれる。それなりの富裕な家に生まれたおかげであろうか、江戸に遊学して、玄白のもとで外科を学んだ。また、京都では吉益南涯に内科を学んだ後、郷里に帰り、医院を開業した。令助の名は玄白の門人帳には見当たらない。それでも、玄白の日記の1790年(寛政2年)年2月17日条」に「送帰令助之作州」という詩が見える。同様の主旨の詩が、同年3月4日条にも「業成才子作州帰」という題で残る。これから、玄白が令助に相当に目をかけていたことが窺える。中でも、1805年(文化2年)年11月14日付け、玄白が73歳のときに令助に宛てた手紙が、津山洋楽資料館に残っており、紹介されている。こちらの手紙の体裁としては、前年に玄白は将軍にお目見えをしており、令助がそれに対して述べた祝賀への返礼である。ソッピルマート(塩化第二水銀、消毒用劇薬、当時は梅毒治療に用いられた)の製法などに関する問合わせへの回答、令助が仕官の斡旋を依頼したことに対しての回答などが記されている。後の彼は、但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩医に取り立てられた。
 ここで話を戻して、江戸期の出雲街道を姫路方面から西へとやってくる、歩いての旅に戻ろう。東からやってきた旅人が、蕩々たる流れに膨らんでいる吉井川に至る。今の旧兼田橋のたもとには、江戸期の石造りの道標が立っていて、「播州ひめぢ二十一里、信州善光寺百五十五里」と掘ってある。ここに善光寺とは、江戸期には伊勢神宮と並んで、一生に一度は行ってみたいと願う人々が多くいたらしい。その本尊は、「生身(しょうしん)の阿弥陀如来」(中国流にいうと「無量寿仏」)といって、552年(「欽明大王十三年」に百済の聖明王から送られたものだと伝承される。こちら旧兼田橋の道標にある「信州善光寺百五十五里」とあるのは、京からは中山道洗馬宿まで行き、そこから善光寺西街道に入って、松本の城下町を抜け、篠ノ井の追分で善光寺街道に合流し、その道を十八里余り進んで善光寺仁王門に至るルートであったのではないかと推測している。ついでにいうと、天才絵師の葛飾北斎は、83歳から89歳までの間に江戸から長野の小布施町までを4回も徒歩で往復したというから、驚きだ。江戸からは中山道を歩き、追分で北国街道に入る。さらに更埴(現在の千曲市)からは、谷街道を使って千曲川右岸(東側)を北上していく。その谷街道は、越後に通ずる通商の道でもあり、その沿道にある小布施が旅の目的地となっていたのだと伝わっているから、かれこれ200キロメートル以上を歩いてパトロンのいる小布施に出掛けていたことになるのだろう。
 吉井川を東から西に渡ってからは、城下町津山の古い町並みが残る。その途中の道筋には、森藩の時代からは江戸期を通じて、東の城下町があった。時代が明治に入ってからは、町屋の雰囲気が伸してきた。狭い街道の両脇には、下駄屋とか鍛冶屋とか、主として雑貨などの手工業品を作る小規模の町工場や商店などが所狭しと軒を連ね、庶民がごった返しで大変な賑わいをみせ。それは、昭和の初期まで続いた。具体的な道筋を西へ辿ると、兼田橋を過ぎて川崎に入ると、そこははやもう、うねうね、かくかくの道筋となっている。それから西へは東新町、西新町と来て、中之町(なかのちょう)に到達する。その中之町で北方一曲の大曲をしてからは、勝間田町(かつまたまち)、林田町(はいだちょう)、橋本町(はしもとまち)と西進していく。その橋本町にも大曲があって、ここで進路を南に一区切りしてから、津山大橋へと向かうのだ。
 町家や民家が支配的であった、城東の6ケ町の北側背後、丹後山南麓により近い高所は上之町(うえのちょう)といい、江戸期には武家屋敷が連なっていた。2015年10月に見学かたがた頂戴した津山市発行によるパンフレット『城東むかし町家ー旧梶村家住宅』
においては、武家屋敷の配置をこう回顧している。
 「東西に細長く延びており下級武士や足軽・中間の居留地である。中央のやや北側を東西に東下りの道がとおり、出雲街道と13本の小路でつながれている。この南北に延びる南下りの坂のある小路には西から西美濃屋小路、美須屋小路、国信小路、関貫小路、栴檀小路(せんだんこうじ)、長柄小路、松木小路、福田屋小路、藺田(いだこうじ)小路、札場小路、大隅小路、東美濃屋小路、瓦屋小路と言った通りの名がつけられている。この武家地は享保12年(1727年)からは松平氏の石高が5万石となったため大半が明屋敷となった。しかし、文政元年(1818年)10万石に復帰したことにより家臣数は再び増加し、明屋敷は少なくなった。」
 森藩による城普請に際しては、城を固めるための寺院や神社が数多く建立されており、それらの伽藍は往時を偲ばせる。寺院については、西へ向けて順番に妙浄寺、蓮光寺、千光寺、浄円寺、本蓮寺、大信寺が並ぶ。ここでは、その中から西新町に鎮座する大隅神社を紹介しよう。2015年10月19日に訪れた時の神社の装いは、あくまで小ぶりの伽藍で、かつ閑かな空間であった。その説明書きの看板には、こう書いてある。
 「御祭神。大己貴命(おおなむちのみこと)、小彦名命(すくなひこなのみこと)
 由緒:当社は、和銅年間以前より祀られており、この地の山澤、原野を開拓し國造りの化身と崇められた信仰無類の「豊手」という異人が出雲の國日隅宮(今の出雲大社)を勧請し、大隅宮と称したのが鎮座の起源と伝えられている。
 当社の縁起・古證文等は、天文年中尼子晴久乱の折、更に永禄年中凶徒の災によって紛失し、又宇喜田直家は当国を領したとき刀剣・甲冑・筒丸を奉納したと伝えられている。
 元は六百メートル東の地に祀られていたが、美作国守森忠政公が鶴山に築城し城下町が賑わってきた元和六年(一六二〇年)三月現在地に遷され、以来大橋以東の産土神として崇敬されている。
 当社は、鶴山城鬼門守護として代々国主の崇敬厚く、社領の寄進、社殿の造営・修理が行われた。現在の御本殿は、貞享三年(一六八〇年)に再建されたものである。
祭日。歳旦祭一月一日、節分祭二月節分日、夏越祭七月十八日、秋季大祭十月第三日曜日、月次祭毎月一日」
 この社の建立以来、この町の人々は、この社に集い、寄り添い、何を夢見てきたのだろうか。折しも、前日とこの日、秋季大祭が開かれていて、11台ものだんじりが狭い往来を行き来していた。だんじりは、津山城東の通り」を通る。神社を中心にして、西に向かっては宮川に架かる大橋のたもとまで、東に向かっては吉井川に架かる兼田橋までの、ゆうに3キロメートルはありそうだ。「練り歩くというよりは、淡々と、ゆっくり進むのだ。そのだんじりを引っ張る紅白の綱を手にしているのは、まさしく老若男女といって良い、普段はごく普通の生活をしている人々でないか。だんじりの屋台の上では、「ちびっこ」たちが陣取っている。台上の子供達と車を引く大人衆が「そーやれ」というかけ声を発するや、子供太鼓が「トントントン」とたたかれる。あとはその繰り返しでだんじりが進んでいく。歩き方は、概して緩い。時折、ゆっくりペースがだく足ペースに切り替わったりする。その時は、「ウァーッ」とかの歓声が上がる。夕方の5時ともなれば、陽はとっぷり暮れてきている。周囲は相当な暗さになり、商店街の人達などが通りに出ている。そこかしこに明かりが灯される。普段は街灯くらいなのだが、ろうそくのはいった灯ろう明かりがつく。そんな幻想的な風景が広がる中で、往来に並んでだんじり行列を見ている人達は、私もその一人であったが、普段とは違った安らぎの表情に染まっていた。
 さて、話を戻して津山城東地区を西に進んできた旅人は、この城東の、細いながらもめぬき通りを通って西へ西へと宮川に架かる大橋のたもとまでやって来る。すると、そこは江戸期の「東の大番所」があった処であって、南を臨むと宮川が吉井川に合流するところである。明治の何時頃までであったか。津山駅(現在の津山口駅)ができ列車が走るようになってからは、高瀬舟は鉄道にその座を明け渡すことになっていく。このあたりの物流の中心であった「高瀬舟」の船が、おそらくは船頭のかけ声とともに行き交っていたのが、徐々に後景へと退いていく。大橋のたもと、宮川の向こうには津山城の険しい城垣がもう目の前に迫ってきている。その威容に圧迫されるというか、昔からの旅人は、独特の風情を感じ景観を右手に拝みつつ、その橋を渡って津山の中心部へと歩を進めていったのであろう。

(続く)

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『(52)』『岡山の今昔美作・備前・備中』高梁川源流域から新見へ

2017-04-07 22:17:09 | Weblog
『(52)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』高梁川源流域から新見へ

 これに対しては、新見(にいみ)から南下するルートが使われてきた。このルートだと、新見から瀬戸内海の河岸の玉島まで高梁川の高瀬舟の舟運が使われていた。もしくは、この川に沿った、今では国道180号線の道筋になぞらえる古(いにしえ)からの陸路を使うか、この川筋にほぼ沿っているところをあらまし走っている鉄道・伯備線(米子と倉敷を結ぶ)の鉄路なりを見立てることができるのではないか。
 まずは北方から、三大河川のうち高梁川は一番西を流れる。この川の源流は、鳥取県境の明地峠(標高755メートル)に近い花見山(標高1188メートル)の東麓(現在の新見市)だと言われる。そこからは「いよいよ下るぞ」ということであろうか、南に進路をとる。しばらくは、現在の国道180号線に寄り添うようにして南下していた流れは、やがて「千水湖」という細長の湖に入っていく。そこを出てからは、また山間地を縫うようにして走り、新見市の馬塚から高尾付近で中国縦貫自動車道の下をかいくぐり、このあたりの中心である新見市街へと向かう。高梁川に沿っては、石灰岩質のカルスト台地(阿哲台)が広がっているとのことであり、河川の浸食により高梁川の流れは渓谷に富むものとなっている。植物分布の方も、日本ではこの地域特有のものが多い。
 このあたりの、国道180号線に沿って新見へと南下していく途中に、千屋(ちや)という地名がある。集落はぽつぽつとしかないようである。ふんだんにあるのは、自然、それも道に迫る山々なのではないかと想像できる。当然のことながら、耕すことのできる土地は少なく、しかも痩せている。この土地千屋は、上代の頃から質の良い砂鉄が採れたという。鉄を掘り出す鉄穴場(かんなば)が散らばっていた。燃料の木材は、そこら中にふんだんにあったことだろう。この業で財を成した太田家が栄えていたのだが。江戸時代も末にさしかかった1850年代、その太田辰五郎が千屋牛の改良繁殖に成功した。そもそもは、新見の竹の谷部落に出向いて、そこの難波千代平の飼育していた牛に目を付け、連れ帰ったのが、これが新たな生業となっていく。それからは、たゆまぬ努力が続き、千屋牛(ちやぎゅう)なるものが繁殖していった。彼は、そのことで名を馳せ、以来、昭和半ばまでこの地に牛市が立っていった。
 今では、神戸牛や松阪牛などのブランド牛に劣らない、脂たっぷりの牛なのかも知れないが、少なくとも井伏鱒二(いぶせますじ)が次の取材の一文をしたためた1970年代初めまでは、なかなかに勇猛な牛であったらしく、こう述べてある。
 「岡山県の千屋村は、県の西北端にあって「島根県」(?:引用者)との県境に接している。この村では毎年、七月と十一月に牛市が立つ。いわゆる竹の谷牛という優良種の系統のものを出す牛市だとされている。(中略)
 千屋では(その近隣の村も同様に)早春から十一月にかけて、牛を山に放しきりにして飼っている。牛が塩分を求めて家に帰って来ると、塩か味噌をなめさせてまた山へ追いやるが、たいていは飼主が山へ出かけて塩分を与えている。千屋の人たちは、牛の姿や顔を見て、あの牛はどこの家の牛だと見分けをつけている。飼主が「うちの牛を見なんだか」と聞くと、学校通いの子どもでも、どこそこで見たと答えている。(中略)
 龍五郎という人は竹の谷牛とい最優良種の牛を買い取って、貧乏な百姓には無償貸付で飼わせて産めよ殖やせよと努めていた。当時、竹の谷牛は世人の驚異の的になっていた種類の牛である。よそから来る博労たちは、この牛を見ると喉をごくりと鳴らしたそうだ。
 記録で見ると、これは天保元年、地方屈指の富豪であった竹の谷の難波という人が、偶然のことから飴色の見事な牝牛えを手に入れた。この牝から一疋の子牛が生まれ、これもまた優秀で、四歳で四尺二寸余りになった。次にまた牝が生まれ、次に牝の子牛が生まれた。これを四歳まで育てて種牛にして交配に苦心した。すなわち、初代と初代を掛け合わせ、それに生まれた子牛を交互に掛け合わせて二つの系統を得て、その二つの系統を交互に掛け合わせて近親繁殖体を固定化させた。これを竹の谷牛と名づけて、生まれた子牛を付近の家に飼わせて種類の散逸を防いでいた。「この交配の方法は、日本にはそれまでなかったものです」と技師の人が云った。(中略)
 千屋牛は放牧で育てるので、爪が猪のそれのように固く立って、毛は繊細で密生し、皮膚をつまむと弾力がある。眼は大きく、活力があって、温和な相とよく調和する。額が広く、ゆったりとして、眉目秀麗である。のっぺりとした感じの美貌でなくて、品位がある。顎と胸垂は幾分か大きく、胸は幅広くて広潤たる感じである。背線は、よく最近の書家や木彫家がここに目をつけているように平直である。腰はどっしりとして、やや腰骨が高めについている。だから、役牛として水田を鋤かせるとき、ぬかるみのなかで高く後脚をあげて歩くことができる。後脚の発育が良好である点は、特に他の種類の牛と異なっているところである。性格は温和であり、活発であり、繁殖力が強く、遺伝力も非常に強い。竹の谷牛は長命で連産性であって、二十三歳まで生きる能力がある。全身が白毛になって、失明するまで生きているのがある。」(「千屋の牛市」:「小説新潮」の「取材旅行」、1960年11月に所収、原文旧仮名遣い、現代仮名に改めてある)

(続く)

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