(116)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期の対外政策(貿易)

2015-10-27 20:23:32 | Weblog
(116)『自然と人間の歴史・日本篇』江戸初期の対外政策(貿易)

 顧みて、安土桃山から江戸時代の初期にかけての外国との貿易を始めとする関係は、どのようになっていたのだろうか。まずは、1587年(天正15年)旧暦6月19日付けで、当時博多に出向いていた豊臣秀吉が出したバテレン追放令には、こうある。
「一、日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀、太以不可然候事。
一、其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候。国郡在所知行等給人に被下候儀は当座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処。下々として猥義曲事事。
一、伴天連其知恵之法を以心さし次第に檀那を持候と被思召候へは、如右日域之仏法を相破事曲事候条 伴天連儀日本之地ニハおかされ間敷候間、今日より廿日之間に用意仕可帰国候。其中に下々伴天連に不謂族(儀の誤りか)申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。
一、黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事。
一、自今以後仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、可成其意事。
已上、天正十五年六月十九日 朱印」(『松浦家文書』)
 この中で「きりしたん国」とは、ポルトガルとスペイン。「伴天連」とは、宣教師。「黒船」とあるのは「ポルトガルの船」。「今日より廿日之間に用意仕可帰国候」とある。宣教師たちにとっては過酷な沙汰であったろう。背景には、ポルトガル人が日本人を奴隷として連れ去る噂が流れたり、長崎を領する大村純忠(おおむらすみただ)による教会へに寄進の動きがあったりで、そのため疑心暗鬼となった秀吉が態度を硬化させていったとも観られる。
 ちなみに、これより5年前の1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名複数の名代として、ローマに少年使節団が派遣されていた。日本で布教に努めていたローマ・カトリック巡察使アレッサンドロ・ヴアリニャーノが、財政難に陥っていた日本での布教事業を立て直そうとして提案したものであった。1590年(天正18年)に日本に帰ってきた4人の日本人は聚楽第で秀吉に謁見したのであったが、特段の不利益は受けなかった。しかしこれには後日談があり、それから40年ばかり時代が下った1633年(寛永10年)、先頭に立って布教活動をしていた中浦ジュリアン神父は長崎で囚われ、穴吊しの刑で殉教した。なお、4人の仲間のうち一人は「転び」(転向者)となっていて、遠藤周作の小説『沈黙』の主人公、クリストファン・フェレイラとして描かれている。
 このように秀吉の禁令は厳しい内容であったとはいえ、その中では「黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事」として、南蛮船による商売は認めていた。それから十数年が経過した16世紀も末の1592年(文禄元年)、朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)が行われることになる。『長崎実録大成』には、こうある。
 「一、文禄之初年より長崎・京都・堺之者御朱印を頂戴して広南、東京、占城(チャンバ)、 柬捕寨(カンボジア)、六昆(リゴール)、太泥(バタニ)、暹羅(シャム)、台湾、呂宋(ルソン)、阿媽港(アマカワ)等に商売として渡海する 事御免之れ有り。
 長崎より五艘、末次平蔵二艘、船本弥平次一艘、荒木宗太郎一艘、糸屋随右衛門一艘、
京都より三艘、茶屋四郎次郎一艘、角倉一艘、伏見屋一艘。堺より一艘、伊勢屋一艘」
(『長崎実録大成』、1770年刊)
ここに「占城」(チャンバ)、「六昆」(リゴール)そして「太泥」(バタニ)とは、マレー半島にあった国や都市をいう。山田長政は、アユタヤの日本人町の首長から「六昆」の太守となった。その山田は、1612年の朱印船で、長崎から台湾を経てシャム(現在のタイのありを占めていた)に渡った、そこのアユタヤ郊外に出来ていた日本人街に住んで、貿易活動を営む。やがては、マラッカ海峡の向こうのインドネシアなどにも進出して、東南アジアのかなり広い地域で交易を行っていた。その商売のやり方は、当時進出していたポルトガルやオランダなどの帝国主義的なやり方とは一線を画した、交易を通じて友好関係を築こうとするものであったらしい。
 この貿易だが、徳川家康の幕府開府になっての1604年に、再開される。その後1635年の幕府による鎖国開始の前まで、大名から武士、の商人が船主となって盛んに行われた。商人には、中国人や欧州人もいた。商人たちが扱っていた品目の量及び種類については、この貿易が行われていた約11年の間での朱印状下付数は353通あった。輸出は、銀、銅、鉄、薬罐、雑貨、扇子、傘、硫黄、樟腦などであった。また輸入は、生糸、鹿皮、羅紗、絹、綿織物、伽羅、砂糖、蘇木などであった。
 要するに、ポルトガル船が長崎に着いたら、糸職人は糸割符仲間の年寄共が「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず」とし、幕府の認める京都、長崎、堺(1631年からは大坂と江戸も入る)の特権商人たちに糸割符仲間を結成させ、その仲間に生糸を一括購入させ、あわせてその値段を決めさせた。当時はまだ国産生糸の生産が少量であったことから、国内での生糸産業を保護する施策でもあったろう。
 1600年(慶長5年)には、オランダ(蘭)船ダ・リーフデ号が豊後水道(ぶんごすいどう)に現れる。これを受けて1603年(慶長8年)、幕府は長崎奉行を設置する。そして、長崎などにおける白糸 (上質の生糸)を貿易するに、糸割符制度(いとわっぷせいど、ポルトガル人仲間では「パンカダ」と呼ばれた)が設けられる。というのは、日本国が貿易のうまみに預かろうとした。中国産の生糸の輸入は、それまでポルトガル商人が独占していた。その生糸の価格決定権を日本側に取り戻そうと、1604年(慶長9年)になって、糸職人向けに次の触れを出す。
 「黒船著岸の時、定置年寄共、糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候。糸ノ直相定候上ハ、万望次第に商売致すべき者也。
 慶長九年五月三日、本多上野介(正純)、板倉伊賀守(勝重)
 右の節、御定ノ題糸高(だいいとだか)。京百丸、堺百弐拾丸、長崎百丸。三ケ所合三百弐拾丸、但壱丸五十斤(きん)入。壱斤掛目(かけめ)百六十目。」(『糸割符由由緒書』より)
 この文中には、「糸ノ直イタサザル以前ニ、諸商人長崎へ入るべからず候」とある。これを、「白糸 (上質の生糸) 割符商法」という。これにより、幕府から特別に許しを得た都市商人が中国産生糸を一括輸入する仕組みができた。徳川家康はこれらの得失を踏まえつつ、1609年(慶長14年)、オランダ国王に貿易許可の朱印を与える。そして、商館を平戸(現在の長崎県平戸市)に設置することを許した。いわゆる「オランダ平戸貿易」の開始である。1610年(慶長15年)、徳川秀忠はスペイン国に通商を許し、翌1611年(慶長18年)、広く南蛮人へ向けて通商が許可された。

(続く)

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『(45)』『岡山の今昔』備前往来1(岡山道)

2015-10-22 21:41:36 | Weblog
『(45)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前往来1(岡山道)

 美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。江戸期までは、これを「岡山道」又は「津山道」と呼んでいた。『津山市史、第三巻、近世1(ローマ数字)森藩時代』には、「『岡山道』は、鉄砲町南土手(当時は小田中村新田の内)字広瀬で川を渡り、北村(今の津山口)から、一方・佐良(皿)・高尾・福田の諸村を経て弓削(ゆげ、久米南町)・福渡(当時久米郡、今御津郡建部町)の両駅を過ぎ、旭川を渡って備前に入り、金川(かながわ)の駅を経て岡山城下に達する」とある。現在の岡山県の南の方は温暖な気候である。ところが、北の方に行くに従い、多くは山が迫ってくる地形となっている。夏は涼しさ、冬には寒さが増していく。
 5世紀後半から7世紀半ばにかけては、備前の肥沃な平野を中心として、吉備氏が君臨していた。その領地は備中、美作、備後にも及んでいて、大和の勢力に対抗していた。その備前から美作へと向かう道の主流は、おおむね現在の津山線に置き換えたルートをたどっていったのではないか。この岡山から津山まで鉄道が通ったのは1898年(明治31年)12月21日の中国鉄道が最初であり、その時は一日四往復、52銭の汽車賃であった。このうち便数は翌年3月、一日七往復に増便された。岡山駅からJR西日本(1985年(昭和60年)までは国鉄))の鉄道に乗って北へと向かう。法界院(ほうかいいん)、玉柏(たまがし)、牧山(まきやま)から野々口(ののくち)を経て金山(かなやま、当時は御津郡御津町、現在は岡山市)へと至る。
 この辺りまでの津山線は、旭川と寄り添うように走る。今では2両建てのディーゼル列車であるが、両側のた時には急峻な山々を仰ぎ見つつ北上していく。その途中の景観は、私に歌心あれば必ず詠んでみたい、それはそれは美しい景観を見せている。金川を過ぎると直ぐ、旭川と別れて、その支流の字甘川(うかいがわ)と暫し寄り添うようにして北上する。それから、この川と別れ進路を北に取って山懐に分け入り、短いが、冷え冷えと濡れた岩肌が露わな箕地(みのち)トンネルをくぐり抜けた後、建部(たけべ、当時は御津郡建部町であったが、現在は岡山市)に近づいたところで、再び旭川と出会う。
 郷土の詩人、永瀬清子の、旭川を詠みこんだ詩に、こうある。
 「旭川のせせらぎは/知的な瞳の中の妹/二つのダムは白い城のようにそばだって、/湛えた湖のしずかさ重さ。」(『少年少女風土記 ふるさとを訪ねて[Ⅱ]岡山』(1959、泰光堂)
 さて、列車は、建部(たけべ)を過ぎてしばらく行き、旭川を渡ったところで福渡(ふくわたり、同)に着く。この辺りがちょうど岡山と津山の中間点に当たる。その福渡駅を過ぎて少し行ったところで、今度は旭川を左に見送る。今度は、その支流である誕生寺川に沿って北上していく。そこからまた津山への鉄路をたどり、神目(こうめ)から弓削(ゆげ)、さらに誕生寺(たんじょうじ)の駅へ着く。このうち弓削駅のプラットホームの標識は少し変わっていて、「川柳とエンゼルの里・弓削駅」とある。その標識を左右から対角線状に二人のカッパが座っている。どのような仕儀で想像上の生き物であるカッパがそこにいるのだろうか。
 その2人には水色の色付けがなされていて、それに陽の光が当たっているような気がしている。向かって左が子どもで、右側が母親のように見えるのだが、よくわからない。標識のてっぺんにいるのが、どうやら父親のようで、なにやらズボンのようなものを履いている。立っている筈なのに、紅葉状の足がこちらを向いているのは、愛嬌たっぷりだ。こちらの色付けは、赤銅色とまではゆかないが、なかなかに威風堂々としている。この家族の面々の表情は、3人ともやんわり笑っているようでもあり、静かに物思いにふけっているようでもある。この地になぜカッパが伝わっているのだろうかと考えを巡らしていると、やはり旭川の水と、地域の人々ののどかで、たおやかな心情が重なり合って伝説を形づくってきたのであろうか。
 弓削の次の誕生寺には、浄土宗の名刹(めいさつ)誕生寺がある。その立場所は、現在の久米郡久米南町である。法然上人・(幼名は勢至丸)が生まれた場所だ。彼は、ここで生まれてから浄土宗菩提寺(勝田郡奈義町)に修行に赴くまでの13年間を過ごしたらしい。彼の父・漆間時国(うるまときくに)はそのあたり(備関莊)の豪族であり、久米押領使を務めていた。
 法然の出生記録といっても、ちゃんとした当時の戸籍が残っている訳ではない。京都の知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』は全48巻から成ることから、『四十八巻伝』とも呼ばれる。それは単なる伝記のみではなく、長大な伝記絵巻となっている、今では京都の知恩院が所蔵する一大絵巻である。その中には、次のような、彼の父の漆間時国に至る、美作の漆間氏の由来についての記述が見られる。
 「かの時国は、先祖をたずぬるに、仁明天皇の御後、西三条右大臣光公の後胤(こういん)、式部太郎源の年(みのる)、陽明門にして蔵人兼高を殺す。その科(とが)によりて美作国に配流せらる。ここに当国久米の押領使神戸(かんべ)の大夫漆の元国がむすめに(年が)嫁して、男子をむましむ。元国男子がなかりければ、かの外孫をもちて子としてその跡をつがしむるとき、源の姓をあらためて漆の盛行と号し、盛行が子重俊が子国弘、国弘が子時国なり。」
 『津山市史、第二巻、中世』は、主にこの資料を使って、「漆間氏は平安末期から南北朝期にわたる数世紀の間、主として美作の南部で重きをなした豪族である」としている。
 さて、1141年(保延7年)、久米の稲岡荘(いなおか)を管理していた明石定明(あかしさだあき)が、その国からのお目付役である、その漆間時国を館に襲って殺してしまった。まだ9歳の彼の前で、この事件があったとされているので、まだ幼気の残る少年の身にとっては大変なショッキングなことであったに違いない。その父の旧宅跡に、1193年(建久元年)になって、法然の弟子である蓮生(れんせい)が主導して師の徳を慕い、伽藍が建立された。以来、八百年余の歳月が流れた。1873年(明治6年)、当時の北條県の命達により廃寺となるも、浄土宗知恩院派の運動があって1877年(明治10年)に管許を得て再興がなった。
 さて、津山線に戻ると、列車は、誕生寺を出た後、小原(おばら、久米郡中央町)へと向かう。小原を出ると、亀甲(かめのこう、現在の久米郡美咲町原田)にさしかかる。列車がホームに滑り込むと、そこには亀が出迎えてくれる。一つは、黄色をベースに、橙と青と緑と白の斑点が付いた大きな亀がいる。コンクリート製のようで、駅舎の上に突き出て見え、とにかく大きい。こちらに向けた目のところらに時計がはめ込まれている。口がぱっくり開いていて、なんとはなしにかわいい。もう一方の亀は、駅の改札に至る途中のホームの端にいる。こちらは岩に上に、実物を模したものといって良いだろう。おそらくは青銅製の亀が3匹這いつくばっている。いずれも首をもたげて、頭上を見上げているポーズのようだ。黒いし、背丈が低いので、視線を落とさないと乗降客はなかなかにして気が付かないのではないかとも考えられる。
 そしてこの地は、光後玉江の故郷でもある。1830年(天保元年)、久米北條郡錦織村(今の久米郡美咲町)に生まれた。父は津山藩医の箕作阮甫とも交流の深い医師であった。医者の子は医者にというべきか、玉江は15歳ながらも向学心に燃えていて、津山藩医の野上玄雄に入門するのだった。そこで医学と産科を学び、28歳で開業したことが伝わっているが、産科はどのようにして履修したのであろうか。以来47年にわたり、当時まだ数少ない女性の医師としての生涯を生き抜いたことで知られる。
 亀甲駅を出て小山に田んぼの入り交じった眺めの中をしばらく往くと、佐良山(さらやま)に出る。佐良山を出てからは、津山市に入って、津山口へ、そして津山線の終点である津山に着く。一方、その後の旭川はといえば、それから御津郡加茂川町(現在の岡山市加茂川)、ついで久米郡旭町へと遡り、そこからさらに真庭郡に入って落合町、久世町、勝山町を北へとたどり、その後さらに山間の地を北に遡って、源流とされる湯原湖に到達する。
 いまは、JR(旅客鉄道会社、1985年(昭和60年)の国鉄分割民営化決定により、国鉄から経営が変更されたことによる)による経営となっても、津山線のディーゼル機関車に乗って津山に向かっていると、自分が古代の舟を操って旭川を探検している姿が彷彿としてくるから不思議だ。列車が天空に輝く程の日差しを浴びた地点にさしかかると旅情によってはなぜか血がざわめき、胸がさわさわとときめくときがある。なお、これまで岡山から今日の津山までの鉄道路を古代の人々の行路に見立てて話をすすめてきたが、第二次大戦後からは中国鉄道津山線や宇野バス(林野から岡山の内山下までの乗合自動車)による方がむしろ一般的な行路だといっていいだろう。物資の運搬についても、馬車で陸路を運ぶほか、1930年代(昭和の初め頃)までは、旭川をいかだや高瀬舟が米や木炭などを積んで下っていたことがある。
 
(続く)

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新30『美作の野は晴れて』第一部、自然の猛威

2015-10-10 10:03:41 | Weblog
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30・九一『美作の野は晴れて』第一部、自然の猛威

 七夕が済むと、いよいよ梅雨も大詰めとなる。ところが、この時期に大きな災害があったのを、今でもよく覚えている。それは、吉井川水系の「1963年(昭和38年)7月、梅雨前線による洪水」の記録として、今でも語りぐさとなっている。当日の気象台当局の記録によると、7月11日(木)午前8時頃、吉井川の水位は12時30分に加茂川の増水を受けて13時には久木(ひさぎ)に達し、最高水位6メートルにもなって、合流点に流れ込んだ。私たちの勝北地域でも、昼頃になると、雨足が大層強くなった。学校の判断で、授業を途中で打ち切って家に帰ることになった。教室の窓から見ていると、時々前が白くなるほどのどしゃぶりの雨足になってきたので、怖い。
 早々集団下校の指示があり、各部落に分かれて帰ることになった。その時、私たち西下部落の者は、途中まで先生に引率してもらったように思っている。全学年揃って、一列になって進む。5年生や6年生が先頭で、先生が一番後ろの順で、足元や周囲に気を配りながら進んでいく。西中部落の途中から通常とは異なるコースに入ってからは、口数は少なく、はやく家に帰りたい気持ちを抱えながらみんな進んでいったのではないか。西中部落を南に通り抜けて西下部落の中村地域に入ると、最初にこの地区の何人かが離れていった。そこからさらに南へと下ってゆき、1キロメートル弱歩くと国道53号線に出る。そこで、先生方と分かれたように思っている。その道を坂上のバス停まで歩き、それから西下部落に入って北へと向かい、やっと胸が詰まるような気持ちが去っていくのを心のどこかで意識しながら、お互い自分のところの辻辻で「さよなら、気をつけて」と挨拶を告げつつ、家路を急いだものだ。
 それとは、異なる年にも、洪水の時があった。今度は、9月か10月の台風シーズンの時ではなかったか。日時の記憶が定かでないので、消防庁の記録を辿ると、1959年(昭和34年)9月26日に暴風雨の被害があった。広戸風も吹いたとされているので、たぶん、その時のことではなかったかと考えている。
 その日は登校していて、雨はその後も降り続いていた。曇り空ながら、ときおり面前が白くなる程の大粒の雨が降ったりで、一向に雨がやむ気配がない。そのため、授業を途中で切り上げて、早めに部落ごとに集団下校することになった。その時は先生の引率はなく、私たちだけで連れ立って帰った。道には、その雨が地面を伝わり、道の端の側溝にも濁流が流れていた。そこかしこで雨水がところ構わずな程にはみ出しつつ流れ下っている。その光景が、いつもと違って周りがほの暗い世界になっている。私たちは、普段と同じ通学路を辿って帰っていったのだが、大変危険なところが少なくとも一カ所あった。というのも、西下の畑地域の水車がある場所にさしかかると、普段は何の変哲もない川の流れなのに、その日の田柄川はいつもの数倍も水かさを増しているようであった。その川の流れの中では、濁流が渦巻いているところも出来ていて、それが生き物のように感じられて怖いなあと思った。
「水にさらわれたらいけんなー(いけないから)、橋の真ん中を歩けえよ」
 また誰かが「気をつけにゃあいけんでえ。うろうろせんとしっかりついてこいよ」とみんなで声を掛け合いながら用心して歩いていく。
 上流の方から濁流が渦を巻いて、水かさを増して田柄川を下流へと押し寄せてきていた。その流れに呑み込まれたら、どうなってしまうかわからない。
「きょうていな(怖い)。下に落ちたら、おしまいだ、そうなったらたまらん。もう助からない。そのときはおしまいだ」
 そんなことを考えつつも、とにかく渡るしかない。そこで、どのようにして欄干のない、橋桁まで水かさが増している、コンクリート橋をみんなして渡ったのか、たぶん傘をすぼめて真ん中を足早にか、おそるおそるか通ったことだろう。しかし、そこを渡らないと帰れないのであるから、10人程度の全員が無事に向こう岸に渡ったことは確かである。畑(はた)地域の十字路まで帰ると、もう安心ということで平井と笹尾の両地区の学友と別れた。流尾地域は連れが2人だったか、道子ちゃん(仮の名)も連れていたのかもしれない。無事に家路についたときは、何はともあれほっと胸をなでおろす気分であった。
 いまになって、これまでの美作の災害記録を紐解いてみると、1934年(昭和9年)9月21日朝、四国の室戸岬(高知県)に台風が上陸した。室戸岬では、最低気圧が911.9ヘクトパスカルにもなっていた。このときの最大瞬間風速の方も、秒速60メートルを記録した、とある。この台風による被害は、全国で死者と行方不明者あわせて3千人を超えたという。
 この台風は「室戸台風」と名付けられ、1949年(昭和24年)のキティ台風、1959年(昭和29年)の伊勢湾台風、1961年の第2室戸台風と並ぶ巨大台風として、いまでも「巨大台風に襲われたら」の話によく登場してくる。
 この時は、現在の岡山県全域が被災した。県南においては、暴風雨と、高潮による津波で甚大な被害が出た。後楽園正門裏の塀には、当時の洪水の最大水位を示す「浸水線」が記されている。県北では、まず現在の「真庭市久世、惣、富尾」付近では暴風雨が吹き荒れた。中川橋にかかっている中側橋が崩れ落ちたのをはじめ、久世の野白地区の堤防も決壊した。これらにより、久世の市街地は床上浸水した。津山では、荒れ狂う暴風雨により、二宮の松並木が倒れたり、院庄の堤防が決壊したり、それから何といっても今津屋橋が決壊した。『広報つやま』(2015年9月、731号)では、「あの頃の津山」として「今津屋橋の流出(昭和9年)」の模様を、次のように伝えている。
 「岡山県が昭和10年に発行した「昭和9年風水害史」によると、津山市では同月20日の午後4時ごろから雨足が強まり夜にかけて激しさを増し、21日の未明には猛烈な暴風雨となったようです。また、岡山市向かう街道の一部だった境橋も、くの字に折れ曲がり、ほぼ全損の状態であったと記録されています。」
 この記事には、江見写真館提供の今津屋橋決壊の写真も紹介されていて、今津屋橋の橋げた近くまで、濁流が押し寄せているのがわかる。駅側の岸へ向かっての4分の1くらてであろうか、橋が流されて濁流の中に半ば沈んでいるようだ。何しろ、向こう岸の津山駅に向かっての建物も水浸しになっているようなので、土塁を積もうにもどうにも、手のほどこしようがみつからないような大規模決壊であったに違いない。
 これほどの台風であったのだが、当時の勝田郡勝北町(現在の津山の東部)や奈義町他においては、「広戸風」がビュービユーという轟音を立て吹き荒れることで、被害が拡大したことが伝わっている。ここに広戸風というのは、私の子ども時代、かなり頻繁に吹いていた。それは、県北の東側にだけ吹く、局地風と言って良い。8月から10月の台風シーズンに伴って吹くことが多い。そして、人々の記憶の片隅にこびりつくようにして覚えられている大災害とは、人々が忘れかけた頃にやってくるものだ。1959年に続いて、2004年に奈義町全域を襲った広戸風の威力は、これまでの最大規模のものであったらしい。記録によると、この年の10月20日、台風23号の日本列島北上に伴い、この地域に広戸風が発生した。台風の本州四国から紀伊半島にかけての接近、通過により、瞬間最大風速が秒速51.8メートルになったという。県北の奈義町においては、昼前から夜半までの12時間もの長時間にわたって秒速30メートルもの広戸風が吹いた。上町川・滝本地区で上下水道が断水したのをはじめ、停電も4日間に及び、町内の道路の多くも不通に陥るなど、人々は70年ぶりの大きな被害を受けた。
 県南沿岸部での高潮被害で付け加えるべきものに、1884年(明治17年)8月25日から26日にかけての大津波がある。この時は、25日夜から未明にかけての台風に、折からの満潮が重なり高潮になり、これで堤防が決壊し海水が広い範囲で流入した。これによる、死者と行方不明者は655人、家屋の流壊が1227戸とも伝えられる。被害が最も大きかった、現在の倉敷市福田に、当時の遭難者を祀る千人塚が建立されている。さらに珍しいところでは、1946年(明治21年)12月21日、岡山県南西部海岸一帯に地震があった。これは、和歌山県沖を震源地とする南海大地震の影響で、岡山も震度5であったのだが、この地震で相当規模の堤防の損壊や家屋の倒壊があった。  
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(6)『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代

2015-10-03 21:04:11 | Weblog
(6)『自然と人間の歴史・日本篇』石器時代

 現段階ではまだ、まるで雲を掴むような話なのかも知れないが、この日本列島に人類がいかにして住むようになったのかを考えたい。当時は「倭」も「日本」も存在しなかったであろうから、たんに「渡来人」とでも呼ぶしかあるまいが。ここでも、考古学上の発見を手掛かりにして大方の話を進めるしかあるまい。
 そこで今縄文期までにこの列島にやってきた人々を「縄文人」というのだとすれば、彼等は「いつ」、「どこから」、「どのようにして」やって来たのであろうか。ここでは、斎藤成也氏の説明から、まず「いつから」が述べられている一節を紹介する。
 「5~6万年前ごろ、当時ニューギニアとオーストラリアがつながっていたサフール大陸に、南方の東ユーラシア人が進出した。その後、その子孫集団は大きな遺伝的浮動により特殊化し、サフール人を形成していった。一方、南北アメリカ大陸へも、以前から小規模な移住は繰り返されていた可能性はあるが、15000年前頃ごろに、大規模な移住がシベリアからベーリング陸橋を通ってあり、それらの子孫集団が南北アメリカ人を形成していった。日本列島にも、旧石器をたずさえた人々の拡散の波が何回かあった。」(斎藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005)
 「現在日本列島には、1万4500カ所の旧石器時代の遺跡が所在するが、そのほとんどは現世人類が出現した4万年前以降の後期旧石器時代(4万~1万5000年前)に属す。かつては現世人類以前の人類のものとされた前期・中期旧石器時代の遺跡が100カ所以上記録されていたが、2000年に発覚した旧石器捏造事件により、その大部分が学術資料としての価値を失った。
 それでも岩手県金取(かなどり)遺跡や長野県竹佐中原(たけさなかはら)遺跡等のいくつかの遺跡は、中期旧石器時代後半(6万~5万年前)か中期・後期旧石器時代移行期(5万~4万年前)に位置すると目されており、列島最古の人類文化と考えられる。これらの遺跡は、これまでは現生人類以前の旧人によるものと見なされてきたが、最近の中国南部・東南アジア等の化石人骨の新証拠により、早期ホモ・サピエンスの可能性も排除できなくなっている。しかしながら、列島に本格的な人類文化が出現するのは、現生人類が登場する後期旧石器時代初頭からとなる。」(佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」:岩波講座「日本歴史第1巻原始・古代1」岩波書店、2013に所収)
 とはいえ、論者によっては、ここでいわれる人々、ここでは「旧石器人」と呼ぼう、が日本列島に住み始めた年代にもっと新しい年をあてている。一説には、約3万5000年前、遺跡から見つかっている彼らの骨の信頼性についても、その骨がほとんど見つかっていないことと、したがって、彼らがどのような骨格、体の特徴をもつ人びとだったのか明らかになっていないと言われる。いわば、「ないものねだりはできない」ことから、その評価はいまだに定まっていないというのが、現在までの研究で精々予見できることなのであろうか。
 次には、旧石器人たちは、どこから、どのようにして、この列島にやって来たかである。一般には、日本列島に向けて旧石器をたずさえた人々の拡散の波が何回かあったことが言われる(例えば、「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005)。そう考えると、日本列島は四方を海に囲まれていた。ついては、これへのルートは、幾つかがあったのではないだろうか。まずは、朝鮮半島から対馬(つしま)を通り九州へ入る「対馬ルート」、台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」、ユーラシア大陸の北側からサハリン(かつては「樺太島」と呼んでいた)を経由する「北海道ルート」があったと考えられている(朝日新聞、2016年2月10日付けなど)。そして渡来の時期としては、それぞれ3万8千年前頃、3万年前頃、2万5千年前頃のことであったのではないかという。これらは一応、国立科学博物館の人類史研究グループから得られた、現時点での日本の代表的見解となっているという。とはいえ、類書を紐解くと他にも、中国の上海のあたりからの「東シナ海を渡るルート」、カムチャッカ半島から千島列島を経由しての「千島ルート」、日本海(韓国では、「トンヘ」と呼ぶ)を挟んだ大陸の沿海州から列島に至る「日本海ルート」も考えられるのだといわれる(斎藤成也「DNAから見た日本人」ちくま新書、2005など)もあって、全体的には判然としていない。最古の日本列島への渡来時期についても、4万年前頃にまで遡るという推測も出されていることから、いずれも、いまだ流動的な見解であるのを免れない。
 なにしろこれらは、この列島にやってきた人々がまだ旧石器使用、文字通りの狩猟採集ばかりに力を費やしていた時代のことなのである。これら一連の問いについても、それへの回答の示唆を与えるような科学上の大発見が、最近の考古学、生物学の研究から相次いでいる。
 それでは、この列島に最初にやってきた人々は、どんな暮らしをしていたのだろうか。そんな観点からは、最も古い年代の石器使用はどのくらい遡るのだろうか。2013年6月7日付け日本経済新聞に、「島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正」なる記事が載っており、こうある。
 「島根県出雲市の砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)は7日までに、出土した石器36点について見解を再修正し、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた報告書にまとめた。
 2009年の発表では、12万7千年前ごろにできた地層と、約11万年前の三瓶木次火山灰でできた地層に挟まれた地層から石器が出土したとして、石器の年代は約12万年前の国内最古と発表した。
 その後、火山灰の地層は三瓶木次層でなく、約7万年前の三瓶雲南層と判明。翌年、石器の年代を7万~12万年前と幅を持たせて修正した。岩手県遠野市の金取遺跡でも5万~9万年前の石器が出土していたことから、砂原遺跡の石器も最古から最古級と見解を変更した。
 松藤教授によると、石器を含む地層の成分を詳しく調べたところ、層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることが分かり、約11万年前と判明、石器を含む層は11万~12万年前と結論付けた。
 松藤教授は「考古学の研究であまり試みられなかった地質学の手法も組み合わせて、年代を特定できた。遺跡調査の手法を飛躍的に高める先例になるのではないか」としている。」
ここにこの列島での石器の最初の使用が、最大12万年も遡るというのは、どのように受け取れば良いのだろうか。それから時代は移って、ヨーロッパで「アイスマン」たちが猟に精出すことで命をつないでいた頃、この列島では石器時代が続いていた。おりしも地球の温暖化の影響は、日本列島にも進んでいき、約1万2000年前くらいからの海面の上昇により、海岸線はどんどん陸地の奥へと入っていく。そのため、関東平野のような平地では、今日の埼玉県の西部と南部はもとより、秩父の低地にまで海が押し寄せてきた、現代の地理学では、この現象を「縄文海進」(じょうもんかいしん)、そして埼玉県の奥まで進した海のことを「奥東京湾」と呼ばれている。
 この大いなる気候の変化は、伊豆半島にも押し寄せてきていた。例えば、黒曜石は、本列島の後期旧石器時代前半期の約4万前から約2万8000年前にかけて各地で利用されるようになっていった、と考えられる。その主たる産地の一つが、伊豆諸島・神津島(こうづしま)であった。本州とその周辺では、中でも南関東と中部地方南部では、伊豆諸島・神津島産の黒曜を使っていたことが判明しているのである。たしかに、地図を広げると相当の距離があって、同島への渡海のためには相当の航海術を必要としたことだろう。黒曜石は、主として火山活動で生成される。そのため、産地は主に本州の山岳部にある。朝日新聞は、最近も「黒曜石を運んだ海の道、人類史の謎が眠る海」の特集記事を掲載した。
 「垂れ込めた雨雲の下、伊豆諸島・神津島(こうずしま)から小さな島影が見えた。
 太古の昔、神津島とつながっていた無人の岩礁群。恩馳島(おんばせしま)と呼ばれるこの岩礁の島に、人類史の謎が横たわっている。
 恩馳島は、考古学の世界で黒曜石の産出地として知られてきた。
 旧石器時代、黒曜石は最先端のハイテク素材だった。ガラス質の黒曜石は、うまく割ると石刃(せきじん)になる。加工すれば鏃(やじり)になる。当時、獲物を狩るための道具は命綱だった。良質な黒曜石を求め、人々はどんな遠征もいとわなかった。
 主な山地は中部日本と北海道、九州。調べると、黒曜石を運んだ距離は時に数百キロに及ぶことがわかった。本州で恩馳島の黒曜石が次々見つかったことは、さらに驚くべき発見だった。旧石器人が海を行き来し、恩馳の黒曜石を本州に運んだということになるからだ。その年代はどんどんさかのぼり、とうとう3万8千年前の遺跡からも出土した。
 「はい、船で往復した例としては、世界最古です」
 国立科学博物館の人類史研究グループ長、海部陽介さん(46)が淡々と説明する。
 海部さんによると、およそ5万前にアフリカを出たホモ・サピエンス(現生人類)が原罪のインドネシアから豪州へ海を渡ったのは4万7千年前。このときは「渡った」ことしかわかっていない。「行き来した」と「渡った」は全く違う。行き来には航海術がいる。」(2015年7月25日付けの朝日新聞「be」欄)
さらに、日本経済新聞2015年1月27日付けには、人骨と土器、そして石英製石器が同時に発掘されたという話も載っており、それにはこうある。
 「沖縄県立博物館・美術館は昨年12月、サキタリ洞で少なくとも9000年以上前の成人の人骨を発見したと発表した。成人1体の頭部など上半身と、大腿骨や骨盤などがあおむけの姿勢で見つかった。
ー中略ー
 サキタリ洞では7層にわたる地層が確認されている。昨年2月に9000年前の土器が上から5層目で発見された。今回はさらに約1メートル掘り進んだ7層目での発見。詳しい分析は今後進められるが、9000年前から大幅に遡る可能性がある。これまでは愛媛県や長野県でみつかった9000~8000年前の埋葬人骨が最古級だった。
 同博物館・美術館は遺物の年代決定に放射性炭素年代測定法による誤差を補正する国際的なものさし「IntCal(イントカル)13」を昨年から採用、従来の発表年代を一部修正しているが、サキタリ洞での調査では文字通り歴史を画す発見が相次いでいる。
 12年に1万4000年前の人骨と石英製石器がそろって出土した。骨と道具が同時に出土した例としては国内最古になる。昨年2月には約2万3000~2万年前の人骨、国内最古の「貝器」、9000年前の沖縄最古の土器などを発見したことを発表、今回の埋葬人骨と続いた。
 サキタリ洞での発見に注目が集まるのは、年代の古さとともに、日本人の起源を巡る研究にも影響があるからだ。というのも、日本人のルーツを考える上で欠かすことができない「港川人」が発見された港川フィッシャー(割れ目)遺跡(八重瀬町)と、サキタリ洞とは約1.5キロの至近距離だからである。
 旧石器時代の人骨は国内でほとんど発見されていない。本土は火山灰に覆われた酸性の土壌が多いため骨や有機物が保存されにくいためで、日本最古の人骨は那覇市山下町で見つかった「山下洞穴人」。同博物館・美術館によると、約3万6000年前で、港川人は約2万2000年前と見られている。本土で確実な旧石器人の骨は静岡県浜北市(現浜松市)で出土した「浜北人」(約2万年前)だけとされている。沖縄はサンゴ礁が隆起した石灰岩地帯が多く、風化から免れた。」
 2016年6月30日、沖縄県立埋蔵文化財センターや国立科学博物館などのチームが、沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡から、十数体の旧石器時代の人骨の調査結果を発表した。同遺跡は、遺跡は新石垣空港敷地内にあり、2008年に初めて2万年以上前の旧石器時代とおぼしき骨が見つかり、2012年から発掘調査が継続されてきた。7月に調査が終わるのを前に研究者らを対象に見学会を開き、発掘作業の全体像が明らかになった。
 旧石器時代の全身骨格の出土は、沖縄本島・八重瀬町の港川フィッシャー遺跡での出土以来2例目となる。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土したとのこと。見つかった人骨の中には、ほぼ全身の人骨を含め、体の部位の位置関係を保ったままのもの、つまりほぼ全身の骨格をそろえた1体分が見つかったというのだ。この全身骨格の人骨は、約2万4000〜2万年前(放射性炭素年代)の地層にあった岩陰の奥で見つかったとされる。これが事実なら、これまでの縄文時代という時代区分の前にあった、旧石器時代の人間のあり方を明らかにしていく手掛かりになるのではないか。なお、暮らしに使われる石器などの道具はなく、洞穴が墓だった可能性も考えられている。
 とはいうものの、縄文期の黎明期全体を列島の後期旧石器時代(この列島では約4万年から1万2000年前と見られる)として一色塗りすることには、異論もある。というのも、西洋流に「農耕・牧畜」を新石器時代の定義として狭くとるなら、縄文時代というのは新石器時代に達していない。ところが、その縄文時代の後期においては、弓矢で放つ鏃を削り出すような、旧石器時代にはなかったやや込み入った石器も一部使用されていたことが、最近の発掘で徐々に明らかになってきた。もともと縄文期というのは、土器の紋様の独特さにちなんだ時代区分であった。

(続く)

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