◻️575『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、渡辺和子)

2021-08-31 20:07:32 | Weblog

◻️575『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、渡辺和子)

 渡辺和子(わたなべかずこ、1927~2016)は、北海道旭川市の生まれ。父親は、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎である。

 1936年(昭和11年)の2.26事件の時の父親は、陸軍教育総監の要職にあった。自宅で軽機関銃を据え付けられての銃弾をうけ、6、7人が寝間に入ってきて「突いたり、切ったり、最後とどめを刺されて」(「NHK映像ファイル・あの人に会いたい」での本人の述懐)、死亡している。その父親の死場を、1メートル位の至近距離にいて、9歳で目の当たりにした経験を持つ。

 18歳となり、キリスト教のカトリックの洗礼を受けた。29歳で修道院に入り、修道女として過ごすうちに、生涯を神に仕える道方が自分にとっては自由な人生が送れると思ったようだ。修道院に入って1年半後に、才能を見込まれてアメリカに派遣され、ボストン・カレッジで博士号を得る。


 戦後も宗教者としての道を歩いて、大いに精進したのだろう。1963年(昭和38年)に36歳という若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任する。

 彼女は英語に堪能で、1984年(昭和59年)にマザー・テレサ(死後にローマ・カトリック教会から「聖人」に認定された)が来日した際には、通訳を務めた。


 後にノートルダム清心学園の理事長・名誉学長に就任した彼女の著書に「置かれた場所で咲きなさい」がある、その柔和な人となりとともに、静かなるブームを呼ぶ。

 それにしても、「置かれた場所で咲きなさい」とは、どういうことを意味しているのだろうか。人生、堪えに堪え、受け身で終始するうちに、花が咲くことにつながるのであろうか。こんな風に、説明がなされている。


 「時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。」

 とはいうものの、それがうまくいかないこともあるだろう。それというのは、「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」(渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」)

 渡辺は、また、同じキリスト者である作家、三浦綾子の次の言葉を引いている、
 「月や花は、人が美しいと言おうが言うまいが、美しい。同じく、みにくいものも、誉められようが誉められまいが、みにくいのだ。」(三浦綾子「愛すること信ずること」)
 その上で、自分の価値は、他人との比較によってさだまるのではなく、「自分は自分として生きる。オンリーワンとして生きる」のが、価値ある生き方だという。
 そういう意味では、自分をかけがいのない独立した人格として見いだし、肯定し、そのことを拠り所として生きていく、それでこそ、人生は有意義なものになる、と言いたいのだろう。


 ここまで読んで、なるほどと思われる面もあろうが、大抵の読者は納得までには至らないのではないだろうかと見えて、続けて、こうある。


 「今という瞬間は、今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。人生は点のつながりとして一つの線であって、遊離した今というものはなく、過去とつながり、そして未来とつながっているわけです。

 お気に入り詳細を見る 神様は私たちの「願ったもの」よりも、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。しかしすべて必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることが大切です。」


 ここには、マザー・テレサとの違いは、あまり感じられない。というのも、テレサは、現実を直視して、たじろがない人であった。「私たちは世界を変えようとは思いません」(DVD『マザー・テレサの世界』)といい、私たちの目の前で苦しんでいる人を、死を前にしてあらがうすべを持たないような境遇にある人を、出来うる限り救いたい、というのが、全てであるような生き方をしていた。はたして、渡辺の到達した境地も、あるいは、そのような彼女の生き方と脈々とつながっていたのかもしれない。 

 それから、興味深い話としては、母(渡辺すず)との関係が当初はしっくりしていなかったと伝わる。それというのも、和子は後に、母が妊娠中に自分を産むのをためらったのを知っていたらしく、ある雑誌の対談で、こう振り返り、語っている。

 「胎児のときに「産みたくない」という気持ちを母が持っていたこともあり、また自分のにとっては非常に、厳しい母でしたので、私はずっと母のことは嫌っていました。」(渡辺和子「致知」2002年3月号)

 だとすれば、本人は大変辛い少女期を過ごした筈であり、それが彼女の早々の自立を促したのであろうか。ただし、その母も年老いては、娘と寄り添って生きる方向に転じたのだという。また、和子もその変化を感じて、それまでの思いを改めたのだろう、こう告白している。

 「四面道と呼ばれていたところで、小さな母が後ろに手を組んで立っている。私は途中で2つだけ買い求めた和菓子をポケットに入れていて、母を抱くようにしてうちへ帰りました。」(梯子公美子(はしごくみこ)「この父ありて、カトリック修道女・作家、渡辺和子」日本経済新聞、2021年2月27日付けより、間接的に引用)

 
 なお、学校法人のノートルダム清心学園は、1886年(明治19年)に設立された私立岡山女学校が前身、その後の1947年には、学制改革により新制の中学校・高等学校となり、1964年に倉敷市に移転する。また1949年には、ノートルダム清心女子大学を現在地に開設し、その後、附属小学校、附属幼稚園を設置する。

(続く)

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新新671○○551の5『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシック・インカム」の財源を巡って(消費税、現行社会福祉制度の関連)

2021-08-30 21:10:39 | Weblog

新新671○○551の5『自然と人間の歴史・日本篇』ベーシック・インカム」の財源を巡って(消費税、現行社会福祉制度の関連)

 その財源を何に求めるかは、ベーシック・インカムを導入する場合の最大の課題と言って差し支えないであろう。その提唱者で知られるドイツのヴェルナーは、2005年に刊行の経済誌での対談に臨み、財源につきこんな考えを述べている。

 「私たちはとうに消費税を持っているのですから。(中略)つまり、私たちはこの税制をさらに発展させて、消費税にのみ課税して、貢献(価値創造たる生産)に対しては非課税にするのです。たくさん消費する者はたくさん税を払い、つつましく生活する者は少ない税を払う。なぜなら、後者は前者よりも道路や飛行場を利用することが少なく、エネルギー消費もゴミの排出量も少ないからです。つまり、共同体から要求するところが少ないからです。

ーしかし、消費税が唯一の財源だとすると、低所得層は現在よりも大きな打撃を受けるのではありませんか?

 そのためにベーシック・インカムを導入するのです。その額は、個々の市民に最低限度の生活を保障しうる額、人間的な生活を可能にする額でなければなりませんもちろん、付加価値税(消費税)も支払うことができる額です。」(ゲッツ・W・ヴェルナー著、渡辺一男「ベーシック・インカム」現代書館、2007)

 なるほど、消費税を20%を超えるくらいに税率を上げていけば、「とりっばぐれ」はないと仮定しての税収の見積もりはかなりの額になっていく。そのすべてを社会保障費に関係するベーシック・インカムの必要給付額に充てるならば、某かの可能性が開けてくるのかもしれない。

 ちなみに、2018年度の我が国の社会保障費として計上されているのは、約32兆9732億円であって、そのうち年金給付費が約11兆6853億円、医療給付費が約11兆6979億円、介護給付費が約3兆953億円、少子化対策費が約2兆1437億円、生活扶助等社会福祉費として約4兆534億円、保健衛生対策費として約3兆5142億円、そして労災対策費として約373億円となっている。

 例えば、2020年の新型コロナ感染拡大に伴う緊急経済対策の一環として、一人当たり10万円の給付が盛り込まれた、そのことが何かしら参考になろう。これに際して、給付対象者は、「基準日(4月27日)において、住民基本台帳に記録されている者で、受給権者は、その者の属する世帯の世帯主」だとされる。
 これを実施する主体は全国の市区町村とされ、その実施に要する経費、給付事業費及び事務費については、国が100%補助することになった。なお、同事業費の総額は12兆8802億9300万円、内訳は給付事業費12兆7344億1400万円、事務費1458億7900万円が計上された。

 そこでもし、この10万円を1年分の給付額と解釈するなら、当該国民1か月当たり8333円が毎月国庫から支給される話となり、なにかしらイメージが湧いてくるのではないだろうか。

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 そこでもし現行の社会福祉制度を抜本的にいじることなく、新たな枠組みとしてのベーシック・インカムをフル導入するとなると、なにが起こるのだろう。その財源は、すでに見たように圧倒的に足らない。また、そのための財源を消費税で賄うどするならば、とりわけ勤労国民の税負担は格別のものとなり、国民の大多数が生活を厳しく圧迫されることになろう。
 したがって、その時の実現性のある、ある種妥協点を見いだすための政策としては、それは部分的なものにし、その増額分の財源は基本的に現行の給付見直し(給付の削減など)ををもって捻出するのが前提なり、それとセットなりにならざるを得ないだろう。

 次いで、ベーシック・インカム導入するに際して現行制度との調整が難しい事柄は、財源に絡めるなどして様々あるのではないだろうか。その中でもかなりの論議を呼びそうなのが、生活保護・失業給付との関連をどうしたらよいのだろうか、という問題であろう。

 ここで念のため、「それはベーシック・インカムの導入後も大方継続される」との意見もありえようが、ここでは前記のように、新旧制度にわたる何らかの、しかも大規模な財源調整なりは避けられまいとの立場から、以下、少し述べてみたい。

 まずは、生活保護給付から見ていこう。その1としては、現行の同給付が得られるためには、住所その他の生活関連情報を申請窓口に提出して、行政当局から生活保護妥当の認定をしてもらう必要がある。したがって、例えば住所が定まらなければ申請窓口で門前払いされてしまうだろう。

 その2としては、生活困難を証明しなければならぬ、その最たるものが扶養照会(ふようしょうかい)である。こちらは、生活保護法で定める家族・親族範囲での、申請本人に対する扶養能力の有無が審査される。これが申請時に問われることで自分の窮状が家族・親族に知られることが、申請者の大きな精神的負担になっている。親族との関係が疎遠か、あっても良好ではなく、生活困窮を知られたくない場合は、尚更であろう。のみならず、申請窓口では、それなりの書類に関して質問が発せられ対応がなされることで、申請する側はプライバシーに属することまで細々(こまごま)と説明することが求められよう。これらは、社会的な烙印(らくいん、スティグマ)となり得て、その人の自尊心、名誉を傷つけ、状況によっては屈辱的ですらあろう。

 

(続く)

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675♦️♦️『日本の歴史と日本人』IPCC「第6次評価報告書」と気候変動(2021)、日本の課題

2021-08-29 09:52:08 | Weblog
675♦️♦️『日本の歴史と日本人』IPCC「第6次評価報告書」と気候変動(2021)、日本の課題
 
    さて、パリ協定の出元のIPCCが2021年8月に発表した「第6次評価報告書」によると、現時点で、気温上昇を1.5度に抑えるという「パリ協定」の目標の達成はすでに難しそうだという。  
 主な点としては、今後、気候変動の緩和策を非常に強力に行う場合から、あまり行わない場合まで、5つのパターンを想定した将来予測を科学的に実施した。以前の予測と異なるのは、1.5度に抑えられる可能性が高い「SSP1-RCP1.9シナリオ」が加わっているとのことで、都合5つの代表的な排出シナリオに基づく将来予測となっている。
 その結論については、1.5度に抑えるシナリオを除いて、どのシナリオでも2021年~2040年の間に1.5度を超える可能性があるという。この自然界は、確率で満たされていると考えれば、あとはその可能性がどれ程なのかを知りたいものだ。
 なお、10〜20年後の気候変動は、すでに排出されてしまった温室効果ガスの量でほぼ決まってしまっているので、改善の余地は相当に限られるとのことらしい。

 現在語られている気候変動の最たるものとしては、地球の温暖化であることにかわりはなく、要は、これにどのようなアプローチをしてゆくかによって、かなりの差が出るという、その警鐘なのだ。
 しかし、こちらの論点には、かなりの接近方向があるようで、まずは筆者なりに気がつく範囲で、次に掲げておこう。

○温暖化で、高水温が続くと、珊瑚は白化現象で成長か滞るようになる。そうなると、海洋生物の棲息域が狭まる。
○温暖化で、アルプスなどの氷河が溶ける。グリーンランドや南極大陸の氷も溶ける。これらは、陸上にあるとものが海の中に入るのだから、海水面は上昇する。
○温暖化で、シベリアなどの永久凍土が溶けて、地中からメタンガスが噴出する。それが空気中の二酸化炭素を増大させる。
○温暖化で、細菌類を始め、人間に害をおよぽす害虫などの生物か活発化する。
○温暖化で、海水が膨張するこどで海水面が上昇し、水蒸気量が増大し、雨雲がそれだけ多く発生する。1990年8月と2020年8月と比較すると、海水面の温度上昇は明らか。摂氏の度数が1度上がる毎に7%水分を多く含むことができる。
○海水面の上昇により、海抜の低い海岸線が海中に埋没する。
○温暖化で、気候変動が増幅されたり、新たな動きとなる。気候変動の中には、熱波、ゲリラ豪雨、線上降水帯、森林火災、台風・ハリケーンの大型化などといった異常気象が含まれる。

(続く)


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679○○『自然と人間の歴史・日本篇』東京電力が原発処理水沖合へ放出計画(2021)

2021-08-28 22:19:49 | Weblog
679○○『自然と人間の歴史・日本篇』東京電力が原発処理水沖合へ放出計画(2021)

 

 2021年8月25日、東京電力は、福島第1原発の処理水海洋放出の全体計画を発表した。「処理水」と銘打っているものの、放射能に汚染された汚染水であることに変わりはない。
 そのやり方としては、海底トンネルを新設して沖合約1キロで放出するのが基本だ。海に放射性物質トリチウムが流れることになるので、その監視強化を書いている。それに、風評被害が発生した場合の賠償方針を盛り込んでいる。今年9月に準備工事に着手し、2023年春ごろに放出を始めるという内容だ。
 汚染水東電は処理水を大量の海水で薄め、トリチウムを1リットル当たり1500ベクレル未満にして放出する考えだ。それというのは、原発近くの沿岸に放出する案もあった。ところが、放出した水を再び取り込む恐れがあるし、漁協などの納得も得られないかもしれないと考えたのであろう、そのため沖合を選んだ。放出場所は日常的な漁業は行われていない海域にあるから、といえば、風評被害も最小限に抑えられると思っているのであろうか。
 そうはいっても、放射能を拡散させてどうなるのかという話にならざるを得まい、そこで、海水のトリチウム濃度の測定場所などを増やし監視を強化するという。

 そもそも、トリチウムの大元としての重水素(D)とは、陽子1個と電子1個に加えて、陽子とほぼ類似した質量を持ち、電荷を持たない「中性子」1個で構成されている。中性子を持つため、重水素の質量数は水素の約2倍になる。
 なお、ここに質量数というのは、原子核の質量を表す整数にして、それを構成する陽子と中性子の数の合計だ。原子核の質量は、概ね質量数に比例するものの、実際の質量にはそれからの違いがあり、これを質量欠損という。ちなみに、相対性理論の一つの結論としてある、質量とエネルギーの等価をよると、かかる欠損分は、原子核の結合エネルギーに相当している。
 この他に、トリチウム(T)は3重水素ともいわれ、中性子を2個持っていることから、水素の約3倍の質量数となっている。
 なお、水素原子(H)と重水素(D)は、ともに安定な同位体で放射能を出すことはない。ところが、トリチウムは不安定な放射性同位体で、β線を放射してヘリウム3(3He)に変化していく、その半減期は12.3年とある。
 トリチウムには、宇宙線と大気中の窒素や酸素が反応して自然界で生成するいわゆる「天然由来のもの」と、原子炉などからの計画排出や核実験、事故(近いところでは、2011年の福島原子力発電所事故)などによる「人工的な要因で地球環境に拡散するもの」とがあり、その分取り扱いがややこしくならざるを得ない。

(続く)

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新550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題

2021-08-28 21:12:57 | Weblog

新550『自然と人間の歴史・日本篇』日本学術会議の6委員任命拒否(2020~)と組織改正問題


 そしての政府は、同会議に対し、政府の組織から独立させるような、揺さぶりをかけるとしか言えないような挙に出ているのであろうか。
 こうした国からの独立の提案に対し、学術会議は警戒をしているようだ。2020年12月16日に政府側に提出した中間報告では、今後を巡り、①国を代表する機関としての地位②公的資格の付与③国家財政支出による安定した財政基盤④活動面での政府からの独立⑤会員選考における自主性・独立性の5要件が、引き続き必要としている。そして、現在の形態なら5要件すべてを満たすとした。
 その上で、独立するとしても「5要件を満たす制度設計が可能なのかが論点」と、政府を牽制する形だ。
 振り返ると、学術会議は、1949年に創設されて以来、そのあり方は何度も議論されてきた。近くでは2015年に科技相の元に設置された有識者会議があり方について検討し、この時は「現在の制度を変える積極的な理由は見いだしにくい」と評価しているところだ。
 学術会議は、組織を云々する話には、こうした点を踏まえるべき、したがって設置法を改正してまであり方を変えなければいけないような「明確な理由がクリアになっているのか」としており、国民不在のままこの話が進められることに疑問を投げかけている形だ。
 それにもう一つ、今回の問題がなぜ起こったのかをめぐっては、学術会議が、組織として軍事研究禁止を継続していることが、今回の政府措置の主な背景の中に含まれているのではないか。
 これに関して、同会議の検討委員会が始まったのは、2016年6月のことだった。その前年の2015年に、「防衛装備庁の委託研究制度をめぐる論議がきっかけだった」(朝日新聞、2017年3月8日付け)という。

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 こうした議論に対して、政府の姿勢を擁護する側は、例えば、下記のような「指摘される問題点」をまとめている。

 「・学術会議の声明は大学・学会を萎縮させ、研究の自由を阻害しかねない
・近年、民生技術と軍事技術は区別ができなくなっている。防衛装備庁の制度は基礎研究が対象で成果は公表できるなど問題はない。
・中国が「軍民融合」を国家戦略とする中、日本だけが軍事研究をやらないことは日本の防衛にとってマイナス
・日本の研究者が「軍民融合」戦略を担う中国の大学・企業などと技術を共有することを学術会議が問題視しないのはダブルスタンダード(二重基準)だ」(「読売新聞」2020.5.14付け)

 見られるように、これらの大方は、「防衛研究阻(はば)む学術会議」なり、「予算に影響力」のある学術会議が政府にものをいう、そのことで「民間活用停滞」が起きている、もしくは起きかねないとの筋道を立てている。そうした彼らの主張には、「経済安全保障」の後ろ楯についているようであり、しかも、ここには憲法の平和条項や先の大戦での、我が国による、中国などへの侵略戦争協力・加担は眼中にないようである。また、この言い回しでは、中国が軍事研究を進めているのに日本はどうするのかと述べており、これだと追々「戦争への準備」への序曲へとつながっていくことにもなりかねないのではないか。

 


(続く)

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新223○○『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など、株仲間の変遷)

2021-08-28 19:42:38 | Weblog
新223○○『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代の産業(大坂油稼株の設置、絹織物業など、株仲間の変遷)
 
 その当時、灯りとりに欠かせない油の種というのは、中世の頃までは、荏胡麻(えごま)油であった。それが、江戸時代に入るうちに、都市化の進展とも相俟って需要が拡大していく。
 そうこうする間には、油を絞る技術も向上し、原料も菜種(なたね)と綿実(めんじつ)が主なものとあり、なる。
 とりわけ菜種は、油分が多く、燃やしてと煙が出ないということで、町方も含め人気を博す(なお、庶民の間での灯り取りには、安価な魚油が馴染みであったようである)。

 これが引き金となって、供給側の産地の形成も急で、換金性に優れた産品として、冬季の裏作物として大規模な産地が形成されていく。

 こうした中、大消費地の江戸では、灯油の上物(じょうもの)とは、菜種油と綿実油を合わせたとので供給されていたという。そのため幕府としては、最大供給元の大坂を目安に、原料・製品価格の安定、品質の向上へと動く。

 そうはいっても、元々の政策としては、関東においても多様な油脂原料、とりわけ菜種の増産に「ハッパ」をかけていたとのことなのだが、「概して、冬撒き菜種は、関東以北での栽培には適していなかった。冬に播種され晩春に収穫される菜種は、雪の積もる地方では栽培には適していなかった。また米との2毛作であり、農民にとっては大きな負担になることも、隘路(あいろ)となった」(東京油問屋市場「百万都市江戸の灯を支えた油問屋」東京油問屋史追補版)とあり、なかなかに込み入った事情を抱えていた。

 結局、1758年(宝暦8年)に大坂油稼株の設置をして、油方仕法の制定や、江戸市場への直送を禁止し、大坂への集中を図るなどに誘導していく。大坂に菜種と綿実の両油種問屋を設けることにより、大坂の絞油業者への原料供給を取り扱わせていた。しかるべく、大坂周辺の菜種生産農家は、自分たちで使う分以外は、すへて大坂市場へ出さなければならなくなる。

 かようにして、いいところ取りをしたいかのような幕府のびほう策であったのだが、この大坂偏重の政策は、関東、ひいては西日本の菜種生産農家の反発、法令に反する搾油施設の稼働が相次ぐ。そんなことから、1791年(寛政3年)には、幕府は、灘目、兵庫の搾油業者の菜種買い取りを緩和して、江戸への直積みも認める。

 折しも、1826年(文政9年)の江戸では「油切れ」が起こり、その反省に立って、幕府は、江戸への分につき、すぜて霊岸島に油寄所を設け、江戸着の油はすべてここを通る、すなわち、同所にて油問屋及び問屋並み仕入方のものに売り渡すことを命じる。
 
 
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 二つ目として、絹織物といえば、江戸時代の後半からは、「西の西陣、東の桐生」とあるように、二つの大産地が出揃う。
 桐生については、古くは南北朝時代、桐生国綱が築城し城下町として馴染んでいく。産業では、16世紀になり桐生新町を建設し、そこを中心に絹織物生産地、絹市場(交易の場)として台頭していく。
 江戸時代に入ると、桐生は幕府領に組み入れられる。江戸中期になると、かねてからの絹織物産地、京都の西陣との関わりが出てくる。その始まりは、思いがけなくやって来た。
 その背景には何があったのだろうか。一つには、長崎貿易で中国からの生糸の輸入に頼っていた西陣の絹織物業が、同地の幕府直轄領化により、貿易が管理され、まつまた量も抑えられるようになった、そうなると、その分コストも上がってしまう。
 もう一つは、1730年(享保15年)の大火により、かなりの旗元など、それに紋織職人が職を失う。
 それと相前後してというか、西陣の高機の技術が、全国各地へ伝播していく。その主なルートとしては、西へは峰山(1720)や加悦(1729頃)へ、東や北へは長浜(1751~1752)、岐阜(1720頃)といった産地へ。
 
 
 桐生にもその流れがとどく。1738年(元文2年)頃からは、職人を桐生に迎えいれるなどして伝わっていく。しかも、染色、紗綾などの織技術の全般が、もたらされていく。西陣に特有の大型の製織技術も、某か運ばれていったのではないか。その結果、桐生の絹織物業は大きく発展し、白縮緬、御召、銘仙、帯地、刺繍物などの高級品をも製造するようになる。
 さらにそれからは、桐生から足利、八王子、伊勢崎、埼玉などの新興産地へと、技術が伝搬していく。こうして、全国各地に絹織物の技術が、さらに養蚕地とも結びついて、産地とそれを支える養蚕、そして絹織物の流通網が形成されていくのである。


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 そういえば、1868年(明治元年)のみぎり、大坂には220もの株仲間があったといわれ、その種類も十人両替に銭両替、それに質屋といった金融業が一つのグループ、製造関係で拾うと菜種絞油屋(こうゆや)、はたまた干鰯屋(ほしかや)とか綿屋が有名であり、ほかにも菱垣廻船問屋(ひがきかいせんどんや)や木綿絞結職(こうけつしょく)といった運送や役務一般まで広がっていた。
 
 そこで改めて江戸時代からの歴史をたどると、例えば、大坂天領での株数は、数十~数百と様々ながらも、大坂町奉行所に株仲間名前帳を提出し認可されることにより、公での株の売買・譲渡が管理されていた。ちなみに、幕府や藩それぞれの場での株仲間公認があると、大義名分をもって商行為の幅が広がることで利益がより多く得られると考えられていたからである。
 そうして全国規模での17世紀にボツボツ増えるうちに、明和・安永・天明年間(1764~1789)には、幕府や藩による株仲間の公認が一気にすすんでいく(今井修平「近世都市における株仲間と町共同体」(「歴史学研究」No.560、1986年10月)。これらでは、認可をする側がそのことによって得られる財政収入をあてにするようになったことがあろう。
 そうしたことで、彼らは、様々な権利と義務を通じ当時の社会と「順繰りに」つながっていた。その態様としては、第一に株仲間の正成員は株を取得することによって「天下晴れて」の営業権、株仲間の寄合(よりあい)への参加や役員の被選挙権利などの権利を獲得できる。二番目には、幕府や諸藩への「冥加金や種々の課役(無代納め物、無賃人足、馳付など)負担、仲間諸入り用金負担などの義務」(多田哲久「近世社会構造と株仲間ー日本の産業化における「先行条件」の社会学的考察」インターネット配信、1996から引用)などを負うのである。 
 こうして一時代を築いた株仲間なのだが、1841年(天保12年)の天保の改革で停止あつかいとなる。それが、老中水野忠邦の失脚後の1851年(嘉永4年)には再興される、以後、幕藩体制が終わり、明治政府によりその歴史的な役割に終止符が打たれるまで、存続する。

(続く)

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新91◻️◻️46の1の3『岡山の今昔』藩札交換の経緯とその効果(1870~1872) 

2021-08-27 22:41:20 | Weblog
新91◻️◻️46の1の3『岡山の今昔』藩札交換の経緯とその効果(1870~1872) 

 さても、幕末期での金融は、どのようにして明治の世の中に受け継がれていったのだろうか。そのとっかかりとしての1867年(慶応3年)に発行された太政官札(だじようかんさつ)というのは、発足したばかりの明治政府により発行された紙幣で、10両、5両、1両、1分、1朱の5種類の金種があった。
 当初は13年間の発行期限と目される。そうはいっても、成立したばかりの、まだホヤホヤの新政府に信用の担保を求めることや、偽札が出回ること、戊辰戦争の資金調達に大量に使われることでの混乱も指摘されていく。
 つまりは、新政府が当面の出費を賄おうとする意味合いが強く、経済の裏付けなしに発行された不換紙幣であった。そのため、その価値は短時間で下落することで、発行中止に追い込まれる。
 そこでの1869(明治2)年5月、今度はこの札を、新たに発行される金貨と交換するという兌換方針を発表するも、同時に小額面の民部省札(額面としては2分、1分、2朱、それに1朱の4種類)を不換紙幣として発行したことから、こちらでも貨幣価値の下落は止まらない。
 そして迎えた、1871年(明治4年)に行われた廃藩置県(とはいっても、幕府の「天領」であったところは、1867年(慶応3年)に公取され県となっている訳なのだが)となり、これに合わせて同年に公布された新貨条例布告による貨幣単位「円」の導入と、それまでの一切の藩札は適用なり流通が禁止されてしまう。
 
 なお、かかる条例の中身だが、主には、こうなっていた。
 その(1)としては、新貨の呼称は、「円」とし、1円の100分の1をもって「1銭」、1銭の10分の1を「1厘」とする、つまり10進法を採用。
 (2)の金貨としては、20円、10円、5円、2円、それに1円を本位貨とし、そのうち1円金貨を基本と定め、各金貨とも無制限に通用するものとする。
 (3)としては、銀貨は、50銭、20銭、10銭、5銭。また銅貨は、1銭、半銭、1厘はすべて補助貨とし、銀貨の通用限度は10円、銅貨のそれは1円とする。
 (4)としては、新貨幣と、旧体制下での通用貨幣との交換比率は、1円につき1両と定める。
 (5)としては、当分の間、貿易上の便宜を図るため1円銀貨を製造して貿易銀となし、開港場において無限通用を認める。一般取引についても相互の話合で無制限通用力を有するものとしてよい。
 それに(6)として、貿易銀と本位金貨との交換比率については、当分、銀貨100円につき金貨101円とする、つまりは金銀法定比価は約1対16というところか。


 果たして、これらの定めなりを極大雑把にいうと、金本位制を標榜するも、その実は銀と二本立て、それでいて、そのことを実効たらしめる環境づくりとは切り離されていることから、名ばかりの部分が多く出ざるを得なく、そのため、1875年(明治8年)に「貨幣条例」と改称されたものの、1897年(明治30年)10月の「貨幣法」の施行まで存続するのであった。

 それと抱き合わせというか、同時期での相場によって新政府の新札(円建て貨幣としての「明治通宝」、ほかにも新銅貨)との交換が始まる。

 しかして、これらのおよその動静についての、現在の金融当局による回顧には、例えば、こうある。
 「次に、藩札については、1871(明治4)年12月の布告によって、廃藩置県時点の同年7月14日時点の「相場」または実勢価格に、よって政府紙幣と引き換えるという方針が示された。
 この時点での藩札の総額は39,094千円であるが、大蔵省による「精密の調査」の結果、明治政府か引換義務を負った金額は24,935千円となり、その後、明治政府は藩札と政府紙幣の引換えを順次進めていった。」(大森とおる「明治初級者の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、日本銀行金融研究所「金融研究」2001.9)


 「次に、半分と札については、1871(明治4)年12月の布告によって、廃藩置県時点の同年7月14日時点の藩札の総額は39,094千円であるが、大蔵省による「精密の調査」の結果、明治政府が引換義務を負った金額は24,935千円となり、その後、明治政府は藩札と政府紙幣の引換えを順次進めていった。
 外国債については、総額4,002千円のうち、明治政府が債権者に対して、「現金即償」という条件を提示して交渉した結果、支払金額を、3,688千円に圧縮のうえ現金償還した。このうち887千円はその後債務者(各藩の旧藩主)に対しての追徴や、抵当物件を接収のうえ払い下げるなどの形で対応したので、明治政府の継承額は2,801千円となった。
 以上から、明治政府が継承した旧藩の内国債務は、藩○、藩札24,935千円の合計53,364千円であり、外国債の2,801千円を含め、明治政府の債務継承額は56,165千円となる。この結果から藩債、藩札のそれぞれ切り捨て率のほぼ全額が償還されたと考えてよいであろう。」(大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、日本銀行金融研究所「金融研究」2001.)
 
 そこで、およそこうなると、大まかな傾向ということでは、「早く藩札交換しないとどんどん目減りしても埋め合わせがないよ」との意味合いから、旧藩札価格とされるのは暴落の様子になっていく話になりかねないのであった。
 因みに、例えば、この時点での岡山藩においては「廃止札員数銭札1059万3098貫文」(当時の貨幣単位での数字)であったというのだが、このような次第で交換された札は、京橋河原で1872年(明治6年)に焼却処分となったという。
 その後も、新政府の思惑に沿って事が進んでいくうちには、大いなる国民生活の変動が避けられないことでもあったのではないだろうか。


(続く)

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46の1の3『岡山の歴史と岡山人』藩札は終幕へ(1853~1872)


 さて、話は岡山藩の金融にたち戻るが、札場(さつば)を巡る状況の19世紀前半は、不明らしいのだが、1850年(嘉永3年)頃からまた怪しくなってくる。相場の下落が始まり、1854年(安政元年には金1両が600匁(もんめ、1匁は約3.75グラム)まで下がる。

 参考までに、元禄(げんろく)の頃の鋳造貨幣の方は、金貨はいわゆる計数貨幣にて、小判(1両)、一分(ぶ)金、二朱(しゅ)金の三種類、それら三種の交換比率は1両=4分=16朱とされていた。その後、何度も改鋳などが行われ、金の含有率がへ減らされてきていた。かたや銀貨は、概ね関西以西での使用であったらしいのだが、それらは重さを測っての秤量貨幣であって、丁(ちょう)銀、豆板(まめいた)銀に分かれていた。

 これに臨んだ藩は、札価格の10分の1を切り下げたり、債務支払いの3年間凍結(モラトリアム)を布告したりで収拾しようとしたのであったが、そんなことでは「火に油を注ぐ」の類いであったという。


 かくて、城下の栄町での同年旧暦11月5日には、またもや取り付け騒ぎが起こる。どういうことかというと、モラトリアムに怒った人びとが、口々に「正銀」への引替を要求して、札場に座り込む。それというのも、藩庫にある準備銀は少なく、需要を賄い切れないのだから、ほとほと困っていたところへ、どうした巡り合わせなのか地震が起こる。


 これの余波であろうか、人びとも落ち着きを取り戻し、衝突の事なきを得たのだと伝わる、これを岡山では「安政の札つぶれ」と呼んでいる。
 その後も、一難去ってまた一難が起きていくも、1867年の明治維新により、備前岡山藩主の池田章政らが全国にも進んで版籍(はんせき)を天皇に「奉還」するに及んで、それまで長らく続いてきた「チキンレース」というか、政情は新国家の管理下での整理へと焦点が移っていく。

 

 なお、全国からの藩札については、できるだけ早く処理しないといけない。そこで、1871年(明治4年)12月の布告により、政府紙幣と引き換えるという方針が示された。その際は、同年7月14日時点の「相場」または実勢価格による。同時点での藩札の総額は、39,094(千円)とされ、これを大蔵当局が査定し、明治政府が引き換えの義務を負うことになった金額は、24,935(千円)だとされる。
 以降、政府は、かかる交換を順次進めていく(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)。


 加えるに、こうして、「道をはき清めながら」ということであったろうか、「殖産資金の供給と政府が受け継いだ紙幣の償却をねらい、1872年(明治5年)には、国立銀行条例が公布された。それをうかがわせるのが、預金や貸付、為替、割引などの業務ばかりでなく、「国立銀行券」としての紙幣を発行する権利が付与された。
 これを念頭に、岡山でも第22国立銀行が1877年(明治10年)に設立される。資本金は5万円、1000株にて、岡山市街の船着町で開業する。その発起人としては、7人のうち5人が旧士族が並ぶ。やや細かく紹介すると、旧藩主池田家(池田慶政、茂政、章政)のが62%、旧一般士族の持ち分(新庄厚信、河原信可、桑原越太郎、武田鎌太郎、花房端連、杉山岩三郎、村上長毅の面々)が29%。
 そして旧平民(広岡久右衛門、橋本藤左衛門)としての9%となっていたという(詳しくは、例えば、大森とおる「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響」、2001年9月の日本銀行金融研究所「金融研究」に掲載)

 

続く)

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221『自然と人間の歴史・世界篇』気体の状態方程式の発見(1662~1802)

2021-08-27 22:08:45 | Weblog

221『自然と人間の歴史・世界篇』気体の状態方程式の発見(1662~1802)


    1662年、イギリスの化学者ロバート・ボイル(1627~1697)は、閉じ込められた気体の圧力Pと体積Vとの間にPV=一定との関係があることを発見する。これに続いての1787年、今度はフランスの学者ジャック・シャルル(1746~1823)が、「酸素、窒素、水素などの気体の体積は、摂氏0(ゼロ)度から80度の間で直線的に変化することを発見する。
 

 これを、前記のボイルの業績と連動させて、「ボイル・シャルルの法則」と呼ぶ向きがある。ところが、彼は学会とは距離を置いていて、この研究成果を学会で発表しなかったという。

 そして迎えた1802年、フランスのゲイ・リュサックは、シャルルが見出していた気体と温度との関係を、自前の実験装置を用いて定量的に示すのに成功する。具体的には、空気、水素などを用いた気体の体積の増減を繰り返すことで、その「気体の体積は一定圧力のもとでは摂氏1度の温度上昇によって、摂氏0度の体積の273分の1度ずつ増加する」といい、これを「リューサックの第一法則」と呼ぶ。

 これに触発されたのがイギリスの物理学者のトムソン(のちのケルビン卿(きょう)、1824~1907)であって、1848年、かかる温度をゼロとする新しい温度目盛り(絶対温度T)を提唱する。さらにオランダの化学者ファンと・ホッフ(1812~1911)は、1モルの気体に対する一定量をR(気体定数)とし、n(エヌ)モルの気体に当てはめたときの関係式PV=nR0T(エヌアールゼロティー)を提案する。現代化学ではこれを「理想気体の状態方程式」と呼ぶ。


 なお、この「モル数」で表現した気体の状態方程式、PV = nR0T の導出としては、まずは、1モルの気体は、標準状態、すなわち0℃、1気圧( 1.013×105Pa)において、22.4リットルを占めており、この事実の説明から始めよう。

 言い換えると、このアボガドロの法則によると、同一温度、同一圧力、同一体積のすべての種類の気体には同じ個数の分子が含まれる。

 これは、イタリアの化学者アボガドロ(1776~1856)が発見したもの。その名前は、アボガドロの死後の1860年に開催された世界初の化学者国際会議で、彼の功績を記念して付与された。ちなみに、アボガドロは、「酸素や水素などは原子で存在するのではなく、二つの原子から成り立つ分子として存在する」ことも提唱した。


 それでは、その個数はいったい幾らなのたというと、くどくなるが、0℃、1atm、22.4リットルの中に 約602000000000000000000000個 というのだから、いかに多いかおわかりいただけよう。短く書くと、 6.02×10の23乗個 だ。

 さらに便利な表現で、短く書くと 、上記の関係を用いて1mol(いちもる)と表現でき、この個数をアボガドロ定数といい、記号で表すときは 「NA 」が便利。しかして、A = 6.02×10の23乗 /mol 。
 そこで、これを状態方程式に代入すると、こうなる。
 R0 = PV/nT = (1.013×105×22.4) /( 1×273)
  = 8.31*103 [(Pa・L)/(K・mol)]
  = 8.31 [J/(K・mol)]
 なお、R0 は一般気体定数と呼ばれ、気体の種類に依存しない定数となっている。



(続く)

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新新296○○251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

2021-08-27 22:00:55 | Weblog
新新296○○251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

 1847年(弘化4年)の冬に勃発した盛岡藩での三閉伊一揆(さんぺいいっき)というのは、同藩領地内、太平洋沿岸の一帯を占める、三閉伊通と呼ばれる一帯の農民・漁民1万数千人が蜂起したもの。大方でいうと、いわゆる「日本三大一揆」の一つに数えられる。
 
 ちなみに、これより後に、今日の岩手県花巻町の郊外に生まれた宮沢賢治(1896~1933)は、この辺り、北上山地の準平原台地(その大方は酸性土壌)を耕作することの難しさを、こう表現している。

 「この山は流紋凝灰岩で出来ています。石英粗面岩の凝灰岩、大変地味が悪いのです。赤松と小さな雑木林しか生えていないでしょう。ところがそのへん麓(ふもと)の緩(ゆる)い傾斜のところには、青い立派な闊葉樹(かつようじゅ、広葉樹のこと・引用者)が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積土です。運ばれてきてのです。割合肥沃な土壌を作っています。」(宮沢賢治「台川」)

 この辺りは、また、江戸時代後期に商工業が盛んになっていたので有名だ。
 その騒動のきっかけとしては、藩が専売制を強化し,臨時に御用金を課したことに対して、彼らが我慢ならないとして立ち上がったことにある、 
 かれらは、この要求をまとめてから、藩の重臣のいる遠野(とおの)に強訴した。遠野には、横田城があった。

 「願い上げ奉り候こと
この度仰せつけられ候御用金三千二百両、宮古通り。二千四百八十両、大槌通り。一千四百三十両、野田通り。
 ほかに毎年大豆御買上げにて候にて迷惑、なおまた塩買上げにて百姓ども一同迷惑まかりおり候ところ、五か年の軒別銭仰せつけられ、やむをえざることと納め上げ奉り候。
 この軒別銭があいすみ申さざるうちは御用金等いっさい仰せつけられまじく候との御沙汰にござ候ところ、近ごろにいたり一か年に三度四度ずつの御用金にごさ候。
 したがっておそれ多い願い上げにござ候えども、なにとぞ御定役御年貢のほかの新税御役立過金など御免下さたく願い上げ奉り候。
おそれながら願い上げ奉り候。
弘化四年十二月
大槌通御百姓共
宮古通御百姓共
野田通御百姓共

弥六郎様
土佐様」

 この年、南部藩は、領内におよそ5万2千両の新税(軒並別銭)を課し、見られる通り、そのうちの約7千両を三陸海岸地域の村々に割り当てていた。そこでこの書状は、見られる通り、この間の藩政への不信を募らせ、税の減免を訴えている。その半年に及ぶ交渉の結果、新たな課税や流通の統制の廃止など多くの要求が通り,また一揆の指導者を処罰しないことも約束させたのであったのだが。
 
 
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 1853年(嘉永6年)、今度は、田野畑村の畠山太助、喜蔵らを指導者とし、再び一揆が起る。
 
 今度の一揆の立ち上げは、沿岸北部・田野畑村でもって押し出し、亡き佐々木弥五兵衛を慕う畠山喜蔵、畠山多助(太助)、三上倉治らを頭領として、普代・野田村方面へ向かうという、一旦北上する道を選んだ。
 その出で立ち姿としては、赤だすきの肩に、筵(むしろ)を立て、それには「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗とした。そればかりか、彼らは、竹槍や棒をたづさえての役割を与えられる部隊もあって、それなりの隊列を組んで行進していたというから、驚きだ。そして、浜通りを南下する頃には、大群衆となっていた。
 
 さらに、大槌方面では、三浦命助の率いる一揆軍と合流し、やがての一揆衆は1万6千人とも言われ、釜石から藩境を越え、政治的三ヶ条と具体的な四十九ヶ条の要求を仙台藩に訴える。

 まず、願いの三ヶ条には、一、南部藩主を交迭せしめること、一、三閉伊通の百姓を仙台領民とされたいこと、一、三閉伊通を幕領とされたい、若しできなければ仙台領とされたい、とある。

 その原文としては、こうある。
 
「一、御隠居遊ばされ候甲斐守様、御入口なさせられ度、偏に願上げ候事。
一、三閉伊通に罷り在り候百姓ども一統、御慈悲を以て御抱へ、露命御助け下し置かれ度く、偏へに願上げ奉り候事。
一、三閉伊通、公儀御領に仰せ付けられ下され度く、この義御成り兼ねに候はば、仙台様御領に成し下され候様、願上げ奉り候事。
 右箇条、御慈悲を以て、願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、一統重畳有りがたき仕合せと存じ奉り候、恐れながら此段願上げ奉り候。以上」

 このような思いきった、しかも越訴になったのには、水稲生産力の弱い地帯に、この不利を克服するようにおこった新産業に、これをも押しつぶすように重税をかける盛岡藩政への著しい不信があろう。

 この交渉では、45人の代表を仙台藩に残し、一揆衆は村に帰る。その後も粘りづよい交渉が続けられての半年後、前記の45人衆と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、三十九ヶ条の要求を認めさせる。さらには一揆参加者の処罰も行わないとの「安堵状(あんどじょう)」を得て、解散する。
 
 なお参考までに、本一揆での双方及び一揆参加者内部の関係を見知るものとして、(1)「南部弥六郎奥書黒印状」、(2)「奉差上一札之事写」、(3))「乍恐奉申上候口上書之御事写」、(4)契約書(「嘉永6年6月25日」付け)などの文書が現代に伝わる。
 そのうち(1)とは、一揆に参加した三閉伊通りの農民に対する布告にて、一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印してある。
 (2)については、(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文であり、また(3)とあるのは、双方代表を押し立てての折衝中に、一揆側が仙台藩気仙郡代官に対し、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様、したがって帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものだという。
 さらに(4)は、一揆参加の面々が仙台範の仲介を受け入れて、代表45人を残し、帰国するにさいし、仲間うち後者に出した契約書であって、万一の時の家族の暮らし向きについて約している。ちなみにその文言は、次のようであった。
 いわく、「契約書 浜三閉伊通村々のため、身命相捨て候事も図り難く、若し右様の節は、一か年につき金十両ずつ十か年の間、その子孫の養育料として、村より取立て其当人に相渡すべく候事。嘉永六年六月二十五日、盟助殿、太助殿、喜蔵殿。三閉伊惣百姓中」と。
 
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 参考までに、一揆の指導者の一端について、数多き人物中から少し紹介しておこう。
 
 まずは、前篇の一揆から一人を取り上げると、佐々木弥五兵衛(ささきやごべい、1787?~1848)は、浜岩泉の切牛村(現在の田野畑村島)の生まれたとされるが、どのような親の下に生まれ、どのような少年時代までを過ごしたのか、正確にはわからないという。
 この地方の沿岸部でとれた塩を、牛の背中にのせて内陸部に運ぶ塩売り商人であった。
 1814年(文化11年)、隣村の岩泉・中里村で農民一揆が起きると、陰ながら応援したという。それが成功してからも、この辺りの農民を守る話わ行動に、自らも様々な関わっていく。
 そして迎えた1847年(弘化4年)には、本人が呼び掛けに加わり、6万両という膨大な御用金取立ての達しを下した盛岡藩に対して、農民たちの先頭に立って闘う。
 代官所から「オオカミを退治するから」と言って鉄砲や槍を借り受け、武器としたというから驚きだ。
 三閉伊の山里から狼煙を上げた一団は、村ごとに人数を増やし、宮古を過ぎ、難所である笛吹き峠を越え、遠野へと進軍する。藩庁のある盛岡に向かわない作戦であったという、

  大挙した農民軍に直面した南部藩家老新田小十郎(遠野南部家)は、善処することを約束し、一揆は成功裏に解散する。

 しかし、弥五兵衛はその先を見越していた、同藩が約束を守らない場合に備えて次の闘いを準備していたところを、密告されたのだろうか、藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされ生涯を終える。
 
 
 
 もう一人、この物語の後篇たる嘉永一揆にまつわる人物像のうち、三浦命助 (みうらめいすけ、1820~1864)には、その当時の時代の流れが乗り移っていたのかもしれない。

 それと、そもそもこの人は、陸奥国(むつのくに)盛岡藩領、その三陸海岸側といおうか、上閉伊(かみへい)郡栗林村の肝煎(きもいり)筋の分家に生まれであったという。天保の頃より、小規模なから塩や海産物を仕入れ、三閉通り沿いの農漁村を回って、いわゆる荷駄商いを行っていたとのこと。
 こちらでの一揆には、命助は指導者45人衆の一人として、途中の大槌通りへ入ってから嘉永一揆に加わった由(よし)、それには彼なりの心づもりがあったのだろうか、それとも急な思いが募ってのこと、もしくは人物を見込んで誘われてのことであったのだろうか。

 弁舌のみならず、文をつくるにたけ、それに類い稀といってよいほどの知恵が働くことで、仙台、盛岡の両藩との交渉に加わるうちに、三閉伊通りの人々にとってなくてはならぬ人となっていったようだ。

 大方勝利のうちに一揆が終息した後は、一時、村役人などを務めたという。しかし、自分を陥れる話を認めたのだろうか、京都へ出奔したという。  
 1857年(安政4年)、二条家の家臣と称して盛岡藩領に戻ろうとして捕縛される。新たな志をもって、雌伏していたのだろうか。

 それからの約6年を牢にいれられて、1864年(元治元年)に獄死するのであったが、残されるであろう妻子に生計の道などを説いた「獄中記」を書いた、その一節には、「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり」とあるという。

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 参考までに、この一揆の伝統を今に伝える田野畑村(現在の岩手県下閉伊郡)にある石碑には、こんな碑文が刻まれているとのこと。
 
 「弘化嘉永年間南部の財政は極度に窮乏し、沿岸部の野田宮古大槌の三閉伊に対する課税は苛酷をきわめ漁業権は剥奪され農漁民は鉄山で酷使されるという想像以上の悪政が続けられた。
 弘化四年(1847)には切牛矢五兵衛を先導に一万数千人が遠野南部へ嘉永六年(1853)には田野畑太助を先導に二万数千人がたちあがり仙台藩に向って南下した。
 参加者は若者が先頭にたち野ら着のままで、ひえ麦みそなどを入れたかますを背負い日やけした顔に目だけが光っていた。数か月におよぶ悪政への苦闘の抵抗は、農漁民の勇気と強い意志と団結によって腐敗した藩政を根本から変革し農漁民みずから生きぬいたのである。
 今ここに偉大な二人の指導者を代表としさらにはこの一揆に危険をかえりみずともに行動した先人のすべてを顕彰し、その霊をなぐさめるとともにこの像が永遠に田野畑村のいしずえとならんことを念願する。
昭和四六年(1970年・引用者)五月二十七日
田野畑村先覚者切牛矢五兵衛田野畑太助記念像建立期成会」

(続く)


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💗凡例(「岡山の今昔」)

2021-08-26 10:57:42 | Weblog
凡例(「岡山の今昔」)

1、漢字はできるだけ新字体を使い、漢字・かなやカタカナの古体・略体などは、できるだけ通行の字体に改めて用いる。
1、史料などの引用・紹介に当たっては、できるだけその出所を明らかにする。また、引用文や問答には「」を付すとともに、できるだけ、その理解を容易にしてもらうための若干の説明を施す。
1、読解に資してもらうため、適宜、句読点、改行、読みがなを付す。
1、各史実につき、どのような論調が見られるかを整理し、その中からできるだけ複数の見方を紹介する。論評にあっては、公平・公正な立場からを心がけたい。
1、事象の評価をめぐって視野を広げる工夫の一つとして、その時々の国際関係がどうなっていたかを重視する。なお、適宜、史料を原文のままにても紹介し、その場合には日本語でその内容を補完するよう努めたい。
1、原則として、文中での敬称は省く。また、特定の人について、格別の言葉使いをしない。なぜなら、あらゆる人は同等であり、その価値において優劣は存在しないからである。
1、岡山人は、なるべく幅広い範囲で、約500人を選んで紹介する。そのなかでも、大まかにいうと、新たな人物像を発見するべく努めたい。というのも、いわゆる「功成り名を遂げた人」のような人選び方ではなく、社会を本当の意味で担うのは額に汗して働く人々だと考えている。
1、なるべく最近の岡山各地の状況を把握して、最新の姿を伝えるべく努める。
1、有史以来、最近では「人新世」との呼び方も流行しているようである。とはいえ、世の中を本当の意味で支えてきたのは、一握りの権力者などではなく、勤労者であるとの思いをもって、一つひとつの事象を記すよう心がける。

(続く)

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紹介💗💗💗序『岡山の歴史と岡山人』に寄す(丸尾泰司)

2021-08-25 10:12:54 | Weblog

紹介、序『岡山の歴史と岡山人』に寄す(丸尾泰司)


 この書を、額に汗して働き、ふるさと・地域を愛し、かつ切磋琢磨の人であった、父・丸尾登と母・丸尾定子、父方の祖父・丸尾安吉と祖母・丸尾とみよ、母方の祖父・為季文蔵と祖母・為季せきに捧げる
 

 私は、岡山県の山間部の農家に生まれた。専業ではなく、父母は公共工事の現場に出たりで、家族を養ってくれた。20歳からは、県外に生活の糧を求めた。次男坊であったから、あれは中学生の時であったろうか、祖父の安吉(やすきち)から、「おまえはここを出てやって行け」との言葉に、「そんなものかなあ」と身の引き締まる思いに駆られた。以来、これまでなんとか暮らしてきた。

 顧みると、ふるさとの野や山に向かって、我が胸を張れるようなものなどあるのだろうか。それというのも、私にとってこれまでの人生行路たるや、判断を迫られるような時にも、何かしら臆するところもあったりで、不本意なままで過ごすことが多かった。
 日々の暮らしをなんとかやっていくには、自分や家族の力のみならず、社会との関わりからも相当の影響を受けてきたのではないだろうか、いまようやく時を得て、万感迫るものがある。

 私に、きみのふるさとの岡山はどんなところかと問いかけてくれたら、とても良いところですよ、というのほかはない。では、どのように良いのかと問い直されるなら、この地は、そもそもは吉備の国、やがて美作・備前・備中の三つに分かれ、さらに岡山県となったのです。それらの土地名は、今も岡山人の心の拠り所となっているのです、とでも答えたい。

 そんなふるさとの悠久の歩みを回想しながら、今までお世話になった皆さんのお顔を想い起こしつつ、これまで私を支えて戴いたこの郷土のすべてに感謝を捧げる一環として試みたのが、この地を通る道を案内役に見立てたこの物語である。
 岡山県内には、まだ自身の歩いたり、通ったことのない道が万を数えるほどにあれども、これから機会に恵まれれば、愛用のリュックサックを背負って、それらをあわせてのできるだけ多くの道を巡り歩くすがら、あれこれの名所旧跡などにも挨拶してゆきたいものだ。


(続く)

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参考

 

読者の皆様へ、お知らせ(2021.7.21)

 いつもお読み頂いて、ありがとうございます。
 まずもって、暑中お見舞い申し上げます。また、新型コロナの感染再拡大があり、皆様くれぐれも健康にお気をつけて、お過ごし頂くようお願いします。
 さて、今回のお知らせというのは、「自然と人間の歴史・世界篇」「自然と人間の歴史・日本篇」及び「岡山の今昔」の3部作について、従来の歴史に未来思考のものを書き足す作業を始めます。

 もちろん、書き足す必要のない項目は、第二部がなくて第一部だけの体裁(大部分はそうです)のままで、これからも進化していくことでしょう。
 そうなると、これまでのものはどうなるんだ、という話になるのでしょう。そこで、次に案内する通り、別の新たなブログを3つ立ち上げて、こちらでは、これまで通り歴史オンリー(第一部のみ)で書き足していくことになります。

♦️♦️「世界の歴史と世界市民」
https://maruo7988m.livedoor.blog/

◻️◻️「岡山の歴史と岡山人」
https://taiji7988mt.blog.jp

○○「日本の歴史と日本人」
https://taiji79888mtm.blog.jp

 つきましては、前段の3部作と、後段の3部作の二つの流れができて、以降、この二つのグループが関連しながら、それぞれ進化していけるようにしたいのです。
 以上、回りくどい言い方となりましたが、これまでにも増して、応援して頂けると幸甚です。
管理人・執筆者、丸尾泰

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18♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代から新生代へ、中生代末期の大量絶滅など)

2021-08-25 08:57:54 | Weblog

18♦️♦️『自然と人間の歴史・世界篇』生物たちの進化(中生代から新生代へ、中生代末期の大量絶滅など)

 古生代の後は、中生代(2億5100万~6550万年前)に入っていく。その時代の境目の古生代末、もっというと同代ペルム紀と中生代三畳紀を分ける地層の境界(ちま両者の切り替わり)において起こったのが生物絶滅であって、これを「P-T境界の絶滅」と呼んでいる。この時は、当時の90%の海洋生物が死んだと言われる。例えば、中国南部・浙江省(せっこうしょう)に約2億5100万年前の、連続性のよい海成層が見られ、ここに当該のP-T境界の地層が露頭(ろとう)している。

 中生代は、三畳紀(2億5100万~1億9960万年前)とジュラ紀(1億9960万~1億4550万年前)、そして白亜紀(1億4550万~6550万年前)の三つの紀区分から成っている。まずは三畳紀の前期・インジュア期(2億5100万~2億4970万年前)においては、「超大陸パンゲア」があった。とはいえ、この大陸は赤道付近で南北に分かれていたと推定されている。大陸の北はローラシア大陸、南はゴンドワナ大陸であり、前の中生代ペルム紀での乾燥気味の大地とはうって代わり、全体として温暖かつ湿潤な気候に変化していく。続いて、中生代オレネク期(2億4970万~2億4500万年前)になると、双弓類(現代の生物でいうと、トカゲ、ヘビ、ワニなど多くの爬虫類は2つの孔を持っていて、双弓類と呼ばれ、中生代のこの時期の恐竜類もこれに入る)の繁栄があった。
 そして中生代三畳紀の中期にさしかかる。その最初のアニス期(2億4500万~2億3700万年前)には、最初のほ乳類が出現する。大型の生物が滅んだ後、ほ乳類の一部は体が小さかったのが幸いして、この困難な時期をなんとか生き延びたのだとも考えられている。同じく中期のラディン期(2億3700万~2億2800万年前)をくぐり抜けていく。その後は後期に入って、カルン期(2億2800万~2億1650万年前)には、「三畳紀後期の大絶滅(カルン期後期)」に入る。2億5000万年前頃、超大陸のパンゲアは複数の大陸に分かれる。北アメリカ大陸が別れ、現在のアフリカと南アメリカなどは、超大陸に残ったと想像される。続くノール期(2億1650万~2億360万年前)になると、本格的な恐竜時代が始まる。続いてレート期(2億360万~1億9960万年前)、獣脚類(じゅうきゃくるい)の急速な分岐がみられた。
 それから紀が改まって、中生代ジュラ紀(1億9960万~1億4550万年前)に入る。エッタンジュ期(1億9960万~1億9650万年前)の最初には、生物の大量絶滅の痕跡がある。その時の地層は、「T-J境界」と名付けられる。中生代三畳紀の末、それまで支配的であった爬虫類たちに大絶滅が襲いかかり、彼らに代わって恐竜たちが世界に広がっていく。やがて彼らの中には、30メートルもの体長に進化するものも出てきた。その草食恐竜たちを追って肉食恐竜たちも大地を闊歩していた。恐竜たちは、日本列島にも出現した、しかも沢山に。圧巻なのは、現在の福井県であって、さながら「恐竜王国」であったのだろうと推察されている。

 次の中生代シネムール紀(1億9650万~1億8960万年前)にかけては、装盾類(そうじゅんるい)が登場する。プリンスバック(1億8960万~1億8300万年前)、古竜脚類(こりゅうきゃくるい)が絶滅する。その次のトアルス期(1億8300万~1億4970万年前)においては、竜脚類の分岐があった。この期の、洪水玄武岩の地層が、南アフリカのレソト王国に噴出している。そのあるところは、現在の標高が2000メートル以上の耕地であって、その厚さは1500メートルにもなる。これほど大規模な玄武岩の地層が露出している訳は、およそ1億8000万年前、パンゲア大陸がアフリカ大陸と南極大陸に分裂したときの火山活動の結果だと言われる(白尾氏の前掲書に写真が掲載されている)。

 やがて、中生代の白亜紀(1億4550万年前から6550万年前まで)に入っていく。その最初のヴァランジュ期(1億4020万~1億3640万年前)においては、角竜類の分岐があった。オーテチーヴ期(1億3540万~1億3000万年前)になると、ローラシア大陸とゴンドワナ大陸とが完全に分離となる。その次の白亜紀バレーン期(1億3000万~1億2500万年前)になると、イグアナドン類が繁栄を迎える。植物については、1億3000年前に生態系が大きく変化したことがわかっている。はじめ裸子植物が、その後に被子植物が登場する。前者は、花らしい花は咲かないけれど、実がなる。後者は、花びらが発達することで甲虫(こうちゅう)を招き入れ、かれらの身体にしっかりと花粉がこびりつくことで、子孫を残していくことが可能となる。その次のアブト期(1億2500万~1億1200万年前)には、地球の高温化があった。
 この白亜紀の時期からは、地殻変動や海水面上昇による「海進」があった。このため、大陸が細かく海で隔てられ、大陸の細分化が進んだ。生物たちは、それぞれの領域で進化を遂げていくのであった。「翼竜は衰退の一途をたどり、代わって鳥類が空を支配するようになった。また海では魚竜類が白亜紀半ばで絶滅し、それと入れ替わるように海生トカゲのモササウルス類が現れた」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)。)とされる。
 その白亜紀前期は、およそ1億2000万年前までであった。その頃の日本列島福井地方の地層からは、イチョウやシダ、ソテツなどの植物化石が発見されている。それでも、少なくとも比較的気候が温暖湿潤な陸地のあちらこちらでは、植物たちが生い茂っていたのだと言われる。のみならず、この時代にはまだ地球上のそこかしこで恐竜などが闊歩していたことがわかっている。とはいえ、彼ら生息していくためには、おのずから自然の制約があったのであって、それは次のように言われる。
 「生息密度が高すぎると食物資源を食べ尽くしてしまうし、低すぎると繁殖できずに絶滅してしまうから、陸生大型哺乳動物の最大サイズは、これを回避できるバランスの取れた生息密度を反映している。結局、大型脊椎動物の最大サイズと多様性は、生理学的要素(代謝率が高いほど多くの食物摂取が必要)と摂取可能な食物の量、陸地面積によって制約されることになる。概して面積が広いほど、多くの種類の大型動物を養える。
 この関係は、大型の肉食動物に最も厳しい要求を突きつける。生態系全体のエネルギー収支のなかで、食物連鎖の頂点に立つ動物が摂取できるのはわずかな部分でしかないため、大型肉食動物は草食動物よりも広い行動領域を維持しなければならないからだ。」(S・D・サンプソン「失われた大陸、ララミディアの恐竜」:「日経サイエンス」2012年6月号所収)
 この制約下、今の日本列島のあるところにも、彼らは素足でやってきたことがわかっている。というのは、1982年からの発掘で、列島の他の場所では合計で10体程度の恐竜の化石が見つかっていた。それなのに、ここでは短期間の集中調査で50もの恐竜化石のかけらが発見された。この発見は、まだ人間が存在しない頃の姿に一筋の明かりをもたらしてくれたのだった(2015年7月22日のNHKの番組「歴史ヒストリア」で放映された)。さらにオーブ期(1億1200万~9360万年前)には、被子動物が繁栄した。
 ここから中生代白亜紀の後期に入っていく。その頃の地球はかなり温暖になっていた。難局にも北極にも冠氷(かんぴょう)はなく、世界の海水面はかなり高かったと考えられている。その最初のセノマン期(9360万~9350万年前)になると、ハドロサウルス類が繁栄を迎える。次のチューロン期(9350万~8803万年前)には、ローラシア東西での生物たちの交流が活発化する。コニアク期(8803万~8660万年前)には、恐竜たちの多様化がピークを迎える。サントン期(8660万~8350万年前)、続いて白亜紀のカンパニア期(8350万~7060万年前)に入っていく。その中のおよそ7400年前頃になると、諸大陸の配置が現在の姿に近づいてくる。

 そして迎えたマーストリヒト期(7060万~6550万年前)中の約6600万年前、白亜紀末期には、5回目の生物大絶滅が起こる。その絶滅の割合は、全生物種の約70%と、古生代末期のものほどではないものの、現生鳥類につながる種を除いて姿を消した。とりわけ、それまでどんどん大型化多様化して繁栄していた恐竜にとっては、驚天動地の出来事であったのであろう。その中でも、「翼竜、首長竜、モササウルス類、アンモナイトにいたっては、この時期に完全に絶滅」(寺戸真理著、柴山元彦編「宮沢賢治と学ぶ宇宙と地球の科学4地層と地史」創元社、2021)したと言われている。
 その原因については、全面的に明らかとなっている訳ではないものの、最も有力なのは、どこからなのか隕石が地球に衝突したため、それによって「大規模火災の煙や灰と、衝突の衝撃で巻き上げられた塵芥(じんかい)とが太陽の光を遮り、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながった」(前掲書)としている。ただし、この説においても、「同じく影響を受けそうな鳥類や哺乳類など一部の種はなぜ生き残れたのか、また海洋生物(特に海洋プランクトン)の絶滅についての疑問
も残って」いるとのこと。
 では、隕石が衝突した証拠はどこにあるのかということになって、この地層の境界には薄い粘土層(それにはインジウムを含む)が全世界的に共通して分布しているとし、専門家たちはその痕跡を探していた。そこへユカタン半島とその東側のメキシコ湾の海中に巨大なクレーターのあることがわかった。そこで、特に海洋生物の絶滅に関しては、2014年に、「ユカタン半島に豊富にあった硫黄を含む岩石が隕石衝突によって蒸発して酸性雨となって降り注ぎ、海洋の酸性化が進んだからではないか」(前掲書)というのである。

 その後になると、ある程度が生き残ったであろう哺乳類の種としての発達と分岐が盛んになり、多種多様な進化を遂げていったと考えられる。


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 それからは、新生代(6550万年前~現在)に入っていく。新生代は三つの紀に分かれている。その最初の第三期は、古第三期(6550万~2300万年前)と新第三期(2300万~260万年前)の二つに分かれる。その新生代の始まりに近い、今からおよそ6550万年前頃の中生代白亜紀末期とその後新生代古第三期との境目には、生物の大量絶滅があった。そのことがわかる地層の境界線は、「K-Pg境界」(Kはドイツ語の白亜紀(Kreide)の頭文字。またPgとは英語の古第三期(Paleogene)の略。最近まで古第三期の旧名である「第三期」(Tertiary)を取って「K-T境界」と呼ばれていた)と呼ばれ、デンマーク・スティーブンスクリント地区、イタリア・グッビオ地区など、世界で350か所以上の地層から露頭(ろとう)が発見されている。
 これらの地層形成の原因としては、「隕石衝突説」で説明するのが定説であり、1980年、物理学者のルイス・アルバレズと、その息子で地質学者のウォルター・アルバレズが、「中生代白亜紀/第三紀境界での生物大量絶滅は巨大隕石衝突によって引き起こされた」とする論文を発表したのを嚆矢(こうし)としている。これより前のイタリアで、ウォルター・アルバレズはK-Pg境界に当たる薄い地層を発見していた。二人は協力してその地層から採取した微量元素の分析を行い、粘土層に通常ではあり得ないイリジウムの異常濃集のデータを検出するに至る。イリジウムとは、通常の地表ではほとんど見つかっていない、地球の奥深くあるだろう、もしくは隕石に多く含まれる元素である。
 彼らの試算によると、この時、宇宙から飛来した隕石の大きさは、地下約1キロメートルのところに埋まっていて、直径約180キロメートルの円形構造をしていた。この巨大隕石の衝突で、地上ではマグニチュード11以上の烈しい揺れが起こる。メキシコ湾沿岸には巨大津波が押し寄せたことであろう。生物への影響も甚大であった。衝突で海面が沸き立ち、海水が陸地に押し寄せ、植物が死滅していった。その時、地上に巻き上げられたチリやガスは空中に漂って日光を遮り、温度がさらに低まり、植物たちは光合成ができなくなって死滅していった。植物の死はこれを食する動物の死、さらにそれを食べる肉食動物を絶滅へと追いやる。数年にわたる長い冬が地上を覆い、生物たちにとっての死の世界が地球上に大きく広がった。
 そして今から約6500万年間前になると、アメリカのコロラド高原が隆起を始める。その隆起にともなって、原生代前期のおよそ18億年前の変成岩の上に、古生代、中生代、そして新生代の地層がほぼ水平に重なっているのが、地表に現れてきたのである。およそ1000万年間前になると、「世界の屋根」としてのヒマラヤ山脈の形成が始まる。ユーラシア大陸にインド亞大陸が衝突して、上昇を始めたものである。
 古第三期の次の新第三期(2300万~260万年前)になると、ほ乳類の活動がさらに盛んになり、全地球に広がって、さらには、類人猿から原人への分岐があった。新生代の第三期の次は第四紀(260万年前~現在)に入る。この紀の最初の世は更新世ということであるが、およそ30万年前にはその頃まだ海に浮かぶ大陸の一つであったインドに、またもや小惑星が衝突したのではないかと言われている。そしておよそ20万年前、いよいよ現代の私たちに直接繋がる人類、ホモ・サピエンスが登場してくる。
 なお、以上の絶対年代の紹介にあっては、金子隆一さんの監修・小沼洋一さんのまんがによる「恐竜化石のひみつ」、学研、2015、それからNHK「地球大進化」プロジェクト編「NHKスペシャル地球大進化、46億年・人類への旅」NHK出版、2004、荒俣宏・の責任編集「このすばらしき生きものたちーカンブリア大爆発から人工生命の世紀へ」角川書店、1993、白尾元理「」岩波書店、2013、(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)などを参させていただきながら、なるべく共通な年代表記を見出そうと努めた。

(続く)

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新499◻️◻️227『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内山完造)

2021-08-24 13:24:32 | Weblog

新499◻️◻️227『岡山の今昔』岡山人(20世紀、内山完造)

 内山完造(うちやまかんぞう、1885~1959)は、現在の井原市芳井町吉井で村長をしていた内山賢太郎の次男として生まれる。
 12歳で、何があったのだろうか、精研高等小学校を退学して、大阪の商家に奉公に出る。そこを転職してから京都に移り、働くうち、牧野虎次牧師(後の同志社大学長)と知り合う。そして、キリスト教教徒となる。彼の紹介にて、目薬売りの仕事を得ると、新天地を求め、上海へとわたる。

 1916年(大正5年)には、同じ信者の井上美喜(いのうえみき)と結婚する。翌年には、自宅の玄関先で、キリスト教関係の書物を扱う、内山書店を始める。やがて日本人、中国人の間で評判となり、哲学や文学、芸術一般などへとひろげていく。

 夫婦ともに、誠実闊達な人柄が中国人の心を捉え、魯迅(ろじん)・郭沫若(かくまつじゃく)などの文化人がここを訪れ、かれらと親交を深める。一時は、国民党政府に睨まれていた魯迅を、自宅にかくまったという。


 1945年(昭和20年)には、妻が亡くなり、上海での書店をたたむ。その2年後には、国外追放され、日本に帰る。神田で内山書店を経営するかたわら、日中友好、国交回復の活動を進めていく。日中友好協会の初代理事長に就任したりで、多忙を極めていたらしい。中国残留日本人孤児の帰国にも尽力したという。

 そんな日中関係のまだ険悪・困難な時期からの、上海そして日本人において双方の案内役をし、特には日本の作家たちと中国文学者との交流の場を提供し、魯迅・郭沫若・郁達夫らとの交友にいそしむなど、ひたすら人道主義を追求し、もって日中両国の文化交流と友誼の橋渡し役を果たした。

 ちなみに、完造の弟、嘉吉(かきつ)は、1935年(昭和15年)、東京にアジア専門書を取り扱うべく店を構え、戦後そして現在の内山書店につながる。また、21世紀になってからの珍しいところでは、魯迅と完造、その友情の書店が中国・天津で復活したのだというニュースが、日本の私たちの耳に入ってきた。

 同書店は、日本などの租界だった戦前・戦中の上海で、日中文化交流のサロンでもあったから、2021年7月装い新たな「内山書店」が、場所柄は少し違えど天津市において、日本の敗戦で上海店を閉鎖して以来76年ぶりに再開したというのだ。
 往時と比べれば、中国は飛躍的に発展し、貧困撲滅もかなり進んだといわれ、かつまた大国としての顔も覗かせるように変じた。そのみぎり、両国の心あるところでは、また一つ、全隣友好の新たな架け橋を結ぼうとの努力が実を結びつつあるのは、誠に喜ばしい。
 

 

(続く)

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新488◻️◻️216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

2021-08-23 21:29:33 | Weblog

新488◻️◻️216『岡山の今昔』岡山人(20世紀、片山潜)

  片山潜(かたやません、本名は薮木菅太郎1859~1933)は、作州の久米南条郡羽根木(現在の岡山県久米郡久米南町羽根木)の藪木家に生まれた。家は、当時のこの辺りではやや貧しかったのだろうか。
 それというのも、当時を思い出し、こういう。

 「私の家は昔から農民だった。いとのころからか知らないが、代々庄屋を世襲していたことは、長い間保存されていた古い記録からも明らかである。私の祖父は国造、母は吉よといった。父はこの村から二里のところにある越尾村の生まれで、15歳のとき養子として私の家にきて、やはり15歳だった母と結婚した。二人のあいだに子供が生まれ、私は弟の方である。兄は三つ年上だった。」(片山潜「歩いてきた道」日本図書センター、2000)

 13歳で、初めてできた誕生寺の成立小学校に入学する。ところが、わずか4か月足らずでやめてしまう。

 以後は、家業を手伝う傍ら、副業として炭焼きに精を出す。それでできた炭を背負って約6キロメートル離れた大戸下まで運搬し、売っていたと、後の「自伝」に記している。その大戸下には、山田方谷のつくった知本学舎があった。教塲から洩れてくる生徒の声を聞いて、学問をしたいとの気持ちを抱く。

 やがて1877年(明治10年)には片山家の養子となり、いよいよ学問をしたいとの気持ちが高じていく。1880年(明治13年)、岡山師範学校(現在の岡山大学)に1年通学するのだが、これにも満足できない。そして22歳の青年は、上京する。それからは、実に多様な事柄について、首を突っ込んで、学んでいく。

 1884年(明治17年)には、さらに大志を抱いて、アメリカに行く。その心持ちを駆り立てたのは何であったのだろうか。ともあり、いったん思い立ったら、引かないのが彼の特色であった。かの地の大学では、大学予科で勉強しなければならず、苦労したそうだ。コックをして働いて、学費を稼ぐ。日曜日は、教会のミサに参加するといった生活。洗礼を受けて、キリスト教徒になる。

 1889年には、アイオワ大学、現在のグリンネル大学に入学を果たす。大学院に進み、修士論文は「ドイツ統一史」であった。1894年には、友人とイギリスに行き、社会勉強の中で、神学士の称号を得た。また、アメリカに戻って、エール大学の1年の在学を終え、日本の横浜港に着いたのが、1895年1月のことであった。

 1911年12月には、東京市電従業員のストライキの応援にうごき、翌12年1月に検挙され、禁固5か月の刑の判決を受ける。出獄後の家族5人での生活は厳しいものであった、そこで一家は、1914年に日本より自由と考えられるアメリカに渡る、これが4度目の渡米であった。そのアメリカでも社会主義者への風当たりが増してくると、1921年7月、今度はソ連のモスクワに新天地を求めた。1922年7月15日の日本共産党の結成には、モスクワの地から賛成の意を送ったらしい。

 その後もモスクワにとどまり、ソ連側の論客に加わる。1940年には、アムステルダムで開催の第二インターナショナルの大会に出席し、日露戦争(1904~1905)への反対を世界に向けて訴えた。その後、ソ連の地で平和なうちに生涯を終えたとはいえ、その心は日本の地を振り返り、また振り返りの晩年であったのではないか。当代の中でも最も大いなる旅路を踏破した日本人として有名だ。

 
 そんな縦横無尽に世界を渡り歩いた感のある片山だが、学術的な話につながるような、自分なりの日本の歴史分析の視点を幾つも述べているのは、興味深い。例えば、明治維新の原動力はどの辺りにあったかについて、江戸時代の末期において起こった民衆運動にその一つを求めている。
 ただし、別にを含めて論証が試みられているわけではないので、一つの問題提起と心得ておいたらよかろう。参考までに、歴史学者の明治維新の見方には、現代においてもかなりの幅があるようで、ここでは二つばかり紹介させていただく。


 「明治22(1889)年の大日本帝国憲法発布は、立憲制によって絶対主義を粉飾したものにほかならないが、法の防壁(ぼうへき)によって己れを守らなければならなかったのは、近代的革命勢力の洗礼を受けたからであった。

 歴史的画期としての明治維新は、天保12(1841)年の幕政改革(いわゆる天保の改革・引用者)に始まり、明治10(1877)年の西南の役をもって終わる、37年間の絶対主義形成の過程であると考え、ここに明治維新史の筆を擱(か)く。」(遠山茂樹「明治維新」)

 「幕府が倒れたのは、幕府の圧政に庶民が立ち上がったというものではなかった。武威(ぶい)を標榜(ひょうぼう)した軍事政権である江戸幕府が、外国の開国要求に屈したことが、そもそもの原因である。国内支配にか関して言えば、幕府の政治はおおむね受容されていた。身分制社会でありながら、比較的風通しのよい社会であったことが、江戸時代265年の繁栄を呼んだ大きな要因だったと言えるのである。」(山本博文監修、蒲生眞紗雄、後藤寿一、一坂太郎「江戸時代265年ニュース事典」柏書房、2012)

 

(続く)

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550◻️◻️261の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、土光敏夫)

2021-08-23 15:32:35 | Weblog

新550◻️◻️261の2『岡山の今昔』岡山人(20世紀、土光敏夫)

 土光敏夫(どこうとしお、1896~1988)は、御野郡大野村(現在の岡山市北区北長瀬)の生まれ。

 関西中学校(現在の関西高校)から東京高等工業学校(現在の東京工業大学)にいく。1920年(大正9年)には、東京石川島造船所に入る。 

 その後は、1950年(昭和25年)には、社長になるという「立身出世」を果たす。1960年(昭和35年)には、播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業を設立する。当時は、世界一の生産を誇る。

 そんなレールの先にといおうか、1965年(昭和40年)には、69歳で東芝の社長になる。ここでは、経営再建に辣腕をふるう。

 そして迎えた1974年(昭和49年)には、78歳で経団連の会長になる。政治献金をやめたい、と言ったのだが。政治資金規制法改正に力を貸したという。

 そんな中でも、85歳で、第二臨時行政調査会の会長を引き受ける。「増税なき財政再建」の運動の旗ふり役を務める。

 なかなか渋い顔をして、保守政治家とタッグを組んで、働く者には我慢と質素、要するに、「万事、節約せよ」ということであろうか、広告塔にもなっていたのではないか。

 「メザシ」を食べていた、というのは噂だが、それは良いとしても、それを言われるままにしていたのであれば、本人の言いたいことは何であるのかをはっきりさせるべきであったろう。

 そんなエピソードのある土光だが、当面の日中貿易のみならず、中国の経済発展に対する支援を、新日本製鉄会長の稲山嘉寛(いなやまよしひろ)と連携して日本の経済界として取り組んだ。

 その中でも、土光は、「労働者を厳格に管理せず、だらだらさせていたら、あなた方の経済は発展できない」と述べ、日中友好に絡めて彼の経営哲学を演出してみせたことがある。

 かたや中国の方も、例えば、中国研修生たちが技術を学びに訪日し、日本の現場で学んだ成果を、帰国した中国側がまとめた文書において、「マルクスは資本主義企業の無政府的な管理を述べていたが、日本では、それぞれの企業は厳格に管理され、マルクスの時代より前進している」(NHKテレビ番組「中国、開放を支えた日本人」、2021年に再放送)とするなど、それなりに呼応しているのは、興味深い。


 類い稀な強靭な精神と知恵を、もっと額に汗して働く人々の幸せを実現する方向に役立てて欲しかった。

(続く)

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