◻️575『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、渡辺和子)
渡辺和子(わたなべかずこ、1927~2016)は、北海道旭川市の生まれ。父親は、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎である。
1936年(昭和11年)の2.26事件の時の父親は、陸軍教育総監の要職にあった。自宅で軽機関銃を据え付けられての銃弾をうけ、6、7人が寝間に入ってきて「突いたり、切ったり、最後とどめを刺されて」(「NHK映像ファイル・あの人に会いたい」での本人の述懐)、死亡している。その父親の死場を、1メートル位の至近距離にいて、9歳で目の当たりにした経験を持つ。
18歳となり、キリスト教のカトリックの洗礼を受けた。29歳で修道院に入り、修道女として過ごすうちに、生涯を神に仕える道方が自分にとっては自由な人生が送れると思ったようだ。修道院に入って1年半後に、才能を見込まれてアメリカに派遣され、ボストン・カレッジで博士号を得る。
戦後も宗教者としての道を歩いて、大いに精進したのだろう。1963年(昭和38年)に36歳という若さでノートルダム清心女子大学の学長に就任する。
彼女は英語に堪能で、1984年(昭和59年)にマザー・テレサ(死後にローマ・カトリック教会から「聖人」に認定された)が来日した際には、通訳を務めた。
後にノートルダム清心学園の理事長・名誉学長に就任した彼女の著書に「置かれた場所で咲きなさい」がある、その柔和な人となりとともに、静かなるブームを呼ぶ。
それにしても、「置かれた場所で咲きなさい」とは、どういうことを意味しているのだろうか。人生、堪えに堪え、受け身で終始するうちに、花が咲くことにつながるのであろうか。こんな風に、説明がなされている。
「時間の使い方は、そのままいのちの使い方。置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。「こんなはずじゃなかった」と思う時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。」
とはいうものの、それがうまくいかないこともあるだろう。それというのは、「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」(渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」)
渡辺は、また、同じキリスト者である作家、三浦綾子の次の言葉を引いている、
「月や花は、人が美しいと言おうが言うまいが、美しい。同じく、みにくいものも、誉められようが誉められまいが、みにくいのだ。」(三浦綾子「愛すること信ずること」)
その上で、自分の価値は、他人との比較によってさだまるのではなく、「自分は自分として生きる。オンリーワンとして生きる」のが、価値ある生き方だという。
そういう意味では、自分をかけがいのない独立した人格として見いだし、肯定し、そのことを拠り所として生きていく、それでこそ、人生は有意義なものになる、と言いたいのだろう。
ここまで読んで、なるほどと思われる面もあろうが、大抵の読者は納得までには至らないのではないだろうかと見えて、続けて、こうある。
「今という瞬間は、今を先立つわたしの歴史の集大成であると同時に、今をどう生きるかが次の自分を決定するということです。人生は点のつながりとして一つの線であって、遊離した今というものはなく、過去とつながり、そして未来とつながっているわけです。
お気に入り詳細を見る 神様は私たちの「願ったもの」よりも、幸せを増すのに「必要なもの」を与えてくださいます。それは必ずしも自分が欲しくないものかもしれません。しかしすべて必要なものなのだと、感謝して謙虚に受け入れることが大切です。」
ここには、マザー・テレサとの違いは、あまり感じられない。というのも、テレサは、現実を直視して、たじろがない人であった。「私たちは世界を変えようとは思いません」(DVD『マザー・テレサの世界』)といい、私たちの目の前で苦しんでいる人を、死を前にしてあらがうすべを持たないような境遇にある人を、出来うる限り救いたい、というのが、全てであるような生き方をしていた。はたして、渡辺の到達した境地も、あるいは、そのような彼女の生き方と脈々とつながっていたのかもしれない。
それから、興味深い話としては、母(渡辺すず)との関係が当初はしっくりしていなかったと伝わる。それというのも、和子は後に、母が妊娠中に自分を産むのをためらったのを知っていたらしく、ある雑誌の対談で、こう振り返り、語っている。
「胎児のときに「産みたくない」という気持ちを母が持っていたこともあり、また自分のにとっては非常に、厳しい母でしたので、私はずっと母のことは嫌っていました。」(渡辺和子「致知」2002年3月号)
だとすれば、本人は大変辛い少女期を過ごした筈であり、それが彼女の早々の自立を促したのであろうか。ただし、その母も年老いては、娘と寄り添って生きる方向に転じたのだという。また、和子もその変化を感じて、それまでの思いを改めたのだろう、こう告白している。
「四面道と呼ばれていたところで、小さな母が後ろに手を組んで立っている。私は途中で2つだけ買い求めた和菓子をポケットに入れていて、母を抱くようにしてうちへ帰りました。」(梯子公美子(はしごくみこ)「この父ありて、カトリック修道女・作家、渡辺和子」日本経済新聞、2021年2月27日付けより、間接的に引用)
なお、学校法人のノートルダム清心学園は、1886年(明治19年)に設立された私立岡山女学校が前身、その後の1947年には、学制改革により新制の中学校・高等学校となり、1964年に倉敷市に移転する。また1949年には、ノートルダム清心女子大学を現在地に開設し、その後、附属小学校、附属幼稚園を設置する。
(続く)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆