♦️360の1の3『自然と人間の歴史・世界篇』元素の周期表(1869)

2020-07-31 21:04:11 | Weblog

360の1の3『自然と人間の歴史・世界篇』元素の周期表(1869)

 そのおりには、時代が彼になにかしらの望みを託したのであろうか、2019年は、ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(1834~1907)が、「周期律」を発見してから150周の年であった。

 ここに周期律というのは、原子番号順に元素を並べるというのだが、メンデレーエフの時代では原子量順に、ということであった。いわば、個々の元素の持っている性質が周期的に変化するという法則を、一目でわかる形にしたかった、そうして彼がつくったものが「周期表」なのだという。

 すでに1803年には、イギリスの化学者ジョン・ドルトンが、原子量、すなわち特定の元素での、原子中の微粒子の総数という概念、平たくいうならば「くくり」を、初めて提唱していた。その後も、多数の化学者がこの問題に取り組んだ中に、メンデレーエフもいた訳だ。
 
 彼は、上記の法則性に気づいて、新しい元素の存在予測にも取り組む。そして、なんと、「周期表には隙間がありましたが、メンデレーエフはそこには1870月11日にまだ発見されていない元素で満たされていると予測し、未知の元素の3つの特性を、説明する」(ジョン・ファーンドン著、長田享一訳「世界を変えた科学者たち」悠光堂、2018)

 やがての「16年以内に3元素とも発見され、それぞれカリウム(1875)、スカンジウム(1879)、ゲルマニウム(1886)と名付けられ、3元素ともメンデレーエフの予測に非常によく一致していることが判明しました」(同)というから、用意周到というか、大願成就といおうか、とにかく堂々としたものであったらしい


(続く)


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新♦️360の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

2020-07-31 19:31:17 | Weblog
360の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

  ニュージーランドに生まれ、イギリスで物理学者となったアーネスト・ラザフォード(1871~1937)は、1911年、ガイガー、マースデンと協力して、アルファ線を原子にぶつける散乱実験を繰り返す。そして、中心にプラス電荷のかたい粒子があって、原子核というべきもののあることと、そのまわりを環のように電子がまわっていることを確信したという。そして、それ以前の頭で考えたモデルを参考に、原子核の大きさを探る。
 例えば、薄い銅箔にラジウムからのアルファ線を当て、その実験データから銅の原子核の大きさを推定すると、1.8×10のマイナス14乗メートルより小さいと出た。これは、原子の大きさの約5千分の1以下だという。

 ラザフォードはなおも前進する。1919年には、「ウィルソン霧箱」と呼ばれる装置を使って実験を行い、発生した粒子が、原子を構成する電子とは異なるもう一つの粒子として「プロトン」(「陽子」)と名付ける。言い換えると、この実験で、窒素の原子核にヘリウムの原子核を衝突させて酸素の原子核を作り出し、その結果として陽子がはじき出されるのを観測した。
 とはいえ、彼は、原子の残りの部分がどうなっているか、電子のふるまいがどうなっているかについては、全くたいうほどに触れていない。

 おりしも、1898年に夫妻(ピエールとマリー)が、パリの研究室でウラン鉱から最初の放射性物質の金属ラジウムを分離した時に、ポロニウムを発見していた。この金属の名前だが、当時妻のマリーの祖国ポーランドがロシア、ドイツ及びオーストリアの三国によって分割統治されていたことからの命名だという。
 続いて、キュリー夫人の娘夫妻イレーヌとジョリオは、アルファ線をベリリウムという金属に当てると透過力の大きい別の放射線が出てくることを発見していた。しかし、その物質が何であるかまでは、理解していなかった。

 なお、ここでいう放射線とは、今日では、高いエネルギーをもってち飛ぶ粒子(これを「粒子線」という)と、高いエネルギーをもつ短い波長の電磁波の総称にほかならない。それらでの主なものとしては、アルファ線(α線)、ベータ線(β線)、ガンマ線(γ線)、X線、中性子線がある。
 形態別では、アルファ線、ベータ線、中性子線は粒子、ガンマ線とX線は電磁波の仲間だ。そんな中でも、「ポロニウム210」から放出されるアルファ線は、強度が桁違いで強く、ゆえにアルファ線の発生源として研究に利用されているとのこと。
 また、透過力でいうと、アルファ(α)線は、透過力が弱く紙一枚で、ベータ(β)線はアルミニウムの薄い金属板で止めることが可能だ。ところが、ガンマ(γ)線やエックス(X)線、中性子線は透過力が強く、止めるためには厚い鋼鉄や鉛、水やコンクリートなどを必要とするとのこと。
 話を戻して、これらの研究に触発されたチャドウィクは、このアルファ線を色々な物質に衝突させる実験を行い、何かの粒子がはじき出されるのを発見した。この放射線が、陽子と同じ質量をもつ傍ら、電荷を持たない中性の粒子ということで「ニュートロン」(「中性子」)と名付ける。
 こうして、原子核は陽子と中性子によって構成されている、と考えられるようになっていく。

(続く)
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♦️13の1『自然と人間の歴史・世界篇』地球進化の時代区分(あらまし)

2020-07-31 15:35:24 | Weblog
13の1『自然と人間の歴史・世界篇』地球進化の時代区分(あらまし)

 ここでは、現在用いられている地質年代区分の、あらましの話をしよう。地球ができたと考えられるのが、約46億年前、それから現代までの時代区分については、こうなっている。

 まずは、冥王累代(46.0~40.0超、単位は億年前、以下同じ)ということで、その頃の地球は生物の存在をまだ許していなかった、と考えられている。

 二つ目は、大古代(または始生累代)、40~25.0超)とされている。

 三つ目には、原生累代(25.0~5.41超)とあり、その内訳は、古原生代(25.0~)、中原生代(16.0~)、新原生代(10.0~5.41)のトニア紀(10.0~)、クライオジェニア紀(7.20~)、エディアカラ紀(6.35~)とされている。

 ところで、かかる原生累代においては、スノーボード・アイス(全球凍結)という破天荒の時代があった。それは、これまでに、約22億年前と、約6億年前と約7億年前に続けて2回の、少なくとも合計3回起きたと考えられている。
 後の方の2回が含まれるのは、原生代の最初のトニア紀と、その終わりのエディアカラ紀の間に、クライオジェニア紀という、約7億2000万年前から約6億3500万年前の時代だ。
 そして、このクライオジェニア紀の間での、スターチアン氷河時代と、その後の温暖期を経てのマリアンヌ氷河時代に、2、3度目のスノーボード・アイスがあったという。
 そればかりか、その約6億3500万年前に始まるエディアカラ紀に入ってからも、ガスキアス氷河時代と呼ばれる、全球凍結までは至らないものの、非常な寒冷期があったようだ。
 さらににもう一つの出来事として、かかるガスキアス氷河時代が終わる約5億8000万年を境として、その後まもなくのあたりから、エディアカラ生物群が出現したのだという。

 そして、四つ目の顕生累代(5.41~0)というのは、その後現代に至るまでの進化の過程であって、古生代、中生代、そして新生代の三つから成っている。内、最初の古生代(5.41~2.52超)は、カンブリア紀(5.41~)、オルトビス紀(4.85~)、シルル紀(4.44~)、デボン紀(4.19~)、石炭紀(3.59~)、ベルム紀(299~)である。

 次の中生代(2.52~0.660超)というのは、三畳紀(2.52~)、ジュラ紀(2.01~)、それに白亜紀(1.45~)の三区分から成っている。

 その後にくる新生代(0.66~0)には、古第三紀(0.660~)、新第三紀(0.230~)、それに第四紀(0.0258~)が含まれる。
 内訳でいうと、最初の古第三紀とは、暁新世(0.660~)、始新世(0.560~)、漸新世(0339~)から成る。二番目の新第三紀は、中新世(0.230~)、鮮新世(0.0533)に分かれる。それから、第四紀(0.0258~)というのは、更新世(0.0258~)と完新世(0.000117~0)とに区別される。


 

(続く)


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♦️16の1『自然と人間の歴史・世界篇』その後の大量移動、全球凍結とエディアカラ生物群(約22億年~約5億4200万年前)

2020-07-28 11:27:24 | Weblog
16の1『自然と人間の歴史・世界篇』その後の大量移動、全球凍結とエディアカラ生物群(約22億年~約5億4200万年前)

 約15億年前に、生物たちにとってさらなる転機が訪れたのではないか。約25億年前からカンブリア紀の前までが、「原生代」と呼ばれる。彼らの中で、有性生殖をする種が現れたのだ。
 そもそも、生物の生存の変化には、地球環境の変化も重要で、十数億年前には、それまでの複数の大陸が集まってゴンドワナ大陸となり、古生代に入ると、その他の大陸も加えて超大陸パンゲアが形づくられたと考えられている。
 ドイツの気象学者A・ウェーゲナーが、大陸移動説として提唱し、後にプレートテクニクス理論と結びついて、この説の正しさが認められた。それからも時を重ね、約8~6億年前の全球凍結の頃にさしかかっていく。その頃の海には、酸素が一杯に溶ける迄になっていたのではないか。ちなみに、古生代以降は、顕世代としてまとめて語られる。

 さらに時間が経過してゆき、およそ7億年前に再び、この地球に全球凍結があったと推定されており、スターチアン氷河時代と呼ばれる。

 その後、およそ6億5000万年前にもスノーボード・アイス(全球凍結)があったとされ、こちらはマリノアン氷河時代に含まれる(この時代には、全球凍結に至らない規模での氷河時代もあることに留意されたい)。

 現代では、この2度目のスノーボード・アイスが終わってまもなくのあたり、約5億7000年前あたりで、多細胞生物が多種多様な形で出現したことが分かっている。

 具体的には、オーストラリア、アデレートの北方にある、エディアカラ丘陵において、実に様々な形をした軟体性の生物化石が大量に出土している。多細胞ながら、固い殻や骨格というものがなく、軟体部のみからなっていたので、概して平たいものが多かったようだ。大きなものは1メートルを超える。
 これらは、1946~47年にオーストラリアの地質学者にしてサウスオーストラリア州政府の地質調査員レッグ・スプリッグ(1918~1994)により発見された。そのため、「エディアカラ生物群」と呼ばれる。そこでは、数え切れないほどの「エディアカラ化石群」の名で知られる化石が折り重なって、地層を形成していた。
 始めは、動物とも植物ともいえないのではないかと不思議がられていたのが、「近年の研究で「移動した痕跡」や「ひっかいた痕跡」なとが発見され、少なくとも一部は軟体性の動物だ」(2012年刊の雑誌ニュートン別冊の「生命の誕生と進化の38億年」)となったという。
 それからは、オーストラリア以外でも、ロシアのホワイトシー、カナダのニューファンドランド島などでも同様の化石が発見されている。このため、今日ではエディアカラ生(動)物群は世界に広く分布していたこととされている。殻や骨格を持たなかったことから、化石としては遺りにくいに違いない。
 そんな中でも、グロスモーン国立公園を擁するカナダのニューファンドランド島のそれは、噴火による火山灰が彼らの棲息していた海底に積もっていったため、化石が程よく保存されたものと見える。原生代末の最後のスノーボード・アイスが終わって直後の約5億7000万年前頃の地層から見つかっている。
 そのポイントだが、この島のアバロン半島南端にある、全長約17キロメートルもある断崖だ。ここに先カンブリア紀末期にエディアカラ生物群が生息していた。そもそもこの地域では、大陸の移動の始まった約6億年前に北アメリカ大陸とユーラシア大陸のヨーロッパ部分が分離し始め、その間隙を通って地殻下部のマントルが上昇して間を埋めかけていた。
 やがて、今度は両大陸が押し合うようになる。すると、大西洋プレートが北アメリカ大陸のカナダ側へと沈み込む過程で、その一部がめくれ上がり、地下深くのマントルごと地上に飛び出した。言い換えると、海洋プレートとマントルの一部が地上へと押し上げられた。
 やがてプレート表面が冷え、風化ないし降雪や雨に晒されていると、地表にマントルそのものが露出して現在の地形となった。
 こうして、かつては海の底にあったエディアカラの化石群が私たちの眼前に現れた、と考えられている。ともあれ、これらで出土した化石は、約38億年前の最初の単細胞生物から、初の多細胞生物まで約32億年をかけて、ようやくここまでたどり着いた訳だ。

 これに属する主な生物としては、海底に体を固定したものがおおかったみたいだ。いずれの化石も、輪郭がぼやけていて、跡という形だけが残るものが多く、軟体質の生物が多かったことを予想させる。もっとも、これらの化石が生物として生きていた時、エディアカラ生物群を初の多細胞生物ではないと考える説もあって、学説はいまだどれとも定まっていないという。
 一つは、エディアカラ生物群以前に、原生代中期に小型の多細胞生物がすでに誕生していたという。もう一つは、エディアカラ動物群は巨大な単細胞生物だという。

 彼ら光合成生物のさらなる大量出現は、それまでの有機物形成とその海底への堆積のスピードを早めることであろう。この過程は、酸素の放出過程でもあった筈だ。つまり、プランクトンなど多細胞生物の大量出現により、有機物の海底への沈降量が飛躍的に増えていき、二酸化炭素(CO2)固定効率の上がったのではないかと考えるのである。

 ところが、このエディアカラ生物群は、古生代のカンブリア紀直前のヴェンド紀とカンブリア紀の境界(V/C boundary)の時期に大量に死んていく。これを「エディアカラ大絶滅」といい、そのなかでわずかに生き残ったものたちが、その後の「カンブリアの生物大爆発」へとつながっていくのである。

(続く)

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新◻️120の1『岡山の今昔』鉄と銅とベンガラと炭

2020-07-27 22:11:52 | Weblog

120の1『岡山の今昔』鉄と銅とベンガラと炭

 まずは、江戸時代におけるの鉄の生産は、大まかには、この地方に古代から続いてきていたものの延長と考えて差し支えあるまい。とにもかくにも、このあたりには中世からの鉄の産地としての面目があったから、以来、その営業は脈々と続いてきていたようだ。
 吹屋(ふきや)は、いまでこそ相当に淋しい集落であるが、開削以来明治の頃までは、日本屈指の銅山の一つであった。

 そもそも、この筑後においては、「昔から備後東城方面(広島県庄原市東城町)から新見を経て成羽(なりわ)に至る吹屋往来の拠点で、中国山地の鉄の集散地でもありました」とあるように、金属生産では鉄ばかりが目立っていた。

 とはいうものの、「吹屋銅山の始まりは平安時代の807(大同2)年とする説と南北朝末期の1400年頃とする説があって明確ではありませんでした」(園部利彦「日本の鉱山を巡る」げ書房、2016)と言われるように、銅山のあるところとしても名を馳せていた。

 それが近世にはいると、それまでの「関東(石塔)銅山」から佐渡金山の吉岡山口の名をとって「吉岡銅山」と改名されたと。

 さらに江戸期には、泉屋(後の住友)、福岡屋(後の大塚)、三菱などの大店(おおだな)が銅山の採掘で巨万の富を生み出していた。
 具体的には、備中吹屋の銅山すなわち吉岡銅山は、大坂の商家であった住友家が開発した銅山の一つであった。住友にとっては、1691年(元禄4年)に開坑した四国の別子銅山が有名であるが、当時はそれと並んで、1681年(天和元年)から吉岡銅山が、同1684年(天和3年)に出羽最上の幸生銅山が開発されており、住友の重要な財源となっていた。

 これらのうち吉岡銅山は、のちに地元の大塚家の手にわたり、しだいに鉱脈が細りつつも、幕末まで採掘を操業した。当時のこの地は江戸幕府直轄の天領だった。
 1873年(明治6年)になると、その経営は三菱が買収するところとなり、同社の下で近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させたことになっている。地元の資料によると、この山間の地に最盛期には約1600人もの従業員が働いていたというのだから、驚きだ。

 1929年(昭和6年)に休山したものの、どういう成り行きであろうか、第二次世界大戦の敗戦後に採掘を再開し、以来ほそぼそと操業を続けていた。
 1972年(昭和47年)、海外からの良質で安価な銅鉱石の輸入増大に推される形で閉山した。この川上郡には、成羽町(なりわまち)の西隣に備中町がある。さらにその南が、川上郡川上町である。

 


 加えて、吹屋地区で有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったらしい。当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。

 さらに、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、炭化してつくる。化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、「木や竹を燃やしつつも空気とけつごうできない状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。


(続く)

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新♦️3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

2020-07-26 21:38:15 | Weblog

3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

 

 火星というのは、太陽からの平均距離は2億2,794万km、大きさ(赤道半径は3,396km、岩石型惑星であって、表面を玄武岩などが覆う。質量は地球0.1074倍、平均密度は3.93g/cm³、公転周期は、1.88089年、自転周期は1.026日、衛星の数は2つだという。

 1976年には、アメリカのバイキング探査機が火星に着陸し、砂や土を分析した。そして、地表が赤褐色に見えるのは、酸化第二鉄などの鉄の酸化物が帯びている鉄サビの色なのだという。

 また、それとは別に、ところどころに黒っぽい模様が見えるのは、一説には、玄武岩の中でもまだ酸化していない部分ではないかと考えられている。
 火星にはまた、地球の百分の1以下の薄い大気があり、そのほとんどは二酸化炭素でできている。そんなところへ、火星の空がピンク色に染まり、薄暗い模様の濃淡も変化するのは、地表からまき上げられた細かい砂によるという。


 さて、2018年の火星の見え方は、これまでと違った。これも、「生々流転」の一駒というべきか。その明るさは、マイナス2等星を超え、ずいぶんと明るかった。こうなると、肉眼ではっきりと見つけることができる。恒星のようには瞬かず、赤く煌々と輝いていた。

 晴れの一日が終わりにさしかかり、やがて太陽が西に沈んだ頃に東の空に現れ、21時(午後9時)くらいに南東の空に見ることができた。時には、月とかなり近くに見えた。

 

 それもその筈で、夏には地球からかなり近い位置にやってきた火星は、太陽の周りを687日かけて回る。その軌道は楕円状であって、最も接近した7月31日には、地球との距離が5759万キロメートルになり、ここまで近づくのは15年ぶりとのこと。

 そんな火星に向けては、2020年になって、UAE(アラブ首長国連邦)や中国が探査ロケットを打ち上げた。まさに、「ラッシュ」の状況だが、いまなぜ火星探査なのだろうか。

 その理由の一つは、やはり、地球の内側を回る金星との比較であろう。それというのも、金星の環境は余りにも過酷だ。なにしろ、気温が450度を超えるという。それに、濃密な大気中には硫酸水が充満しており、気圧は地球の大気圧の百倍弱に達するというから、生物が住める環境とは想像しにくい。その点、より地球の環境に近いであろう火星が、月に続く、人類にとって新たな探検の目的地となっている訳だ。
 

 

(続く)

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♦️223の2『自然と人間の歴史・世界篇』燃焼の原理と酸素、そして水の分子構造の発見(1774)など 

2020-07-26 21:19:23 | Weblog

223の2『自然と人間の歴史・世界篇』燃焼の原理と酸素、そして水の分子構造の発見(1774)など 

 さて、イギリスの化学者J.プリーストリ (1733~1804年)とフランスの化学者ラポアジェ(1743~1794)によって、それぞれほぼ同時に発見された元素が、酸素であった。
 まずは、プリーストリによれば、脱フロギストン空気、つまり燃焼の原因は、フロギストンが抜け出すからだというのであった。

 かたや、ラポアジェは、リン・硫黄の燃焼やスズの加焼の実験等から、学んでいく。具体的には、1772年、スズなどの金属を加熱酸化して、その時の質量変化を自身が工夫を加えた精密天秤で測定した。

 ついては、その後には、それらによる質量の変化に際して空気のかなりの部分が固定されて、その結果質量が増えると考えていく。ぢし、この時点では、燃焼を引き起こす空気の中身、その正体が何であるかまでは解明せれてはいなかった。

 やがて、この事を含めた燃焼理論を確立したラボアジエは,「フロギストンに関する省察」(1783)や「化学原論」(1789)を著す。

 それらの中で、負の質量をもつとされるフロギストンが脱出するのが燃焼の本質だとする「フロギストン説」による燃焼の説明が、いかに自己矛盾に満ちているかを指摘する。

 要は、かかる実験において、燃焼による水銀の質量増加とその際に消費される空気の量、そして還元による水銀灰の質量と放出される空気の量を測定した。そこから、燃焼が空気の一成分と物質との結合であることか、明らかになったという。


 あわせて、この時の実験で言及した、空気中の「動物の呼吸に適する」成分のことを、ラボアジエは「酸の素」になる元素と考え、ギリシア語の「酸味のある」と「生じる」を合わせ「酸素」と名付けたという。ただし、塩基である石灰(酸化カルシウム)も酸素を含むので、こういう理由付けのみで正しいとはいえないだろう。
 また、「空気」というのは、大方二つの成分の気体(酸素と窒素)から成る混合物であるとした。
 
 しかして今日では、酸化されるとは電子を失うこと、逆に還元とは電子を得ることだとされる。これらのことは、前の「質量保存の法則」の提唱と相まって、彼が「近代科学の父」と評される。

 ほかにも、ラポアジェは、「可燃性気体」と酸素が結合して水がつくられることを確かめた。そればかりでなく、その逆に、水を分解する実験を行う。その方法とは、赤熱した鉄に水滴をたらし酸素と水素に分け、両者の質量の和が元の質量に等しいことを突き止めた。こうして、水とは、酸素と水素の化合物であり、元素ではないことが明らかとなった。

 それから、ラボアジエその人のその後については、フランス革命のさなかの1793年、彼が旧体制の下で「徴税請負人」を務めていたのが批判にさらされ、翌1794年5月8日の革命裁判所において「フランス人民対する陰謀」の罪をかぶせられ、死刑に処せられたのが、時代の重い教訓の一つとして現代に伝わる。


(続く)


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♦️363の8『自然と人間の歴史・世界篇』オスワルト法(1903)

2020-07-25 16:26:21 | Weblog
363の8『自然と人間の歴史・世界篇』オスワルト法(1903)


 アンモニアを原料にして硝酸をつくることができれば、ということで、ドイツの化学者オスワルト(1853~1932)が、1903年、硝酸を安価に製造する技術を発明した。これを『オスワルト法』または『アンモニア酸化法』と呼ぶ。その反応の過程は、次の三段階をたどる。

①アンモニアを酸化

 

 まずは、原料のアンモニアを約800℃の高温にて空気中の酸素で酸化する。そうすると、アンモニアは一酸化窒素となり、水も生じる。この反応の触媒としては、白金(Pt)が用いられる。

 

①式:4NH3+5O2→4NO+6H2O

 

 次に、一酸化窒素NOから二酸化窒素をつくる。具体的に、①で得られた一酸化窒素を空気酸化する方法としては、かかる反応後の混合気体を約140℃以下に冷却し、①の生成物の一酸化窒素が未反応の酸素と結合して二酸化窒素になり変わる。

 

②式:2NO+O2→2NO2

 

 さらに、二酸化窒素から硝酸をつくる。具体的には、②で得られた二酸化窒素を約50℃の温水に吸収させることで、硝酸(HNO3)を得る。

 

③式:3NO2+H2O→2HNO3+NO

 

ここで、③で生成されたNOは捨てずに、②のNOに使われる。そして。この操作を繰り返すことによって、原料のNH3をすべてHNO3に変化させる案配だ。
 以上を①式、②式及び③式をまとめると、①式+②式×3+③式×2より、
NH3+2O2→HNO3+H2O  
オストワルト法の原料はNH3、目的はHNO3であるので、途中の形成物質であるNOとNO2は別扱いとなろう。


 この発明により、アンモニアさえ調達できれば、硝酸を大量につくり、その硝酸から各種方法により硝酸カルシウム(Ca(NO3)2)や硝酸ナトリウム(NaNO3)などの窒素肥料を大量につくることが可能になったのだ。



(続く)

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♦️363の7『自然と人間の歴史・世界篇』ルブラン法(1787)ソルベー法(1862)

2020-07-23 21:57:44 | Weblog

363の7『自然と人間の歴史・世界篇』ルブラン法(1787)とソルベー法(1862)

  炭酸ナトリウム(Na2CO3、通称は「炭酸ソーダ」)とは、洗剤などに用いられる。アルカリ産業が待ち望まれて勃興の時を迎えようとする中でも、最初のイノベーションが現れる。

 1787年には、フランスの化学者ルブラン(1742~1802)が、後にこう呼ばれる「ルブラン法」を開発した。

 このルブラン法とは、典型的なアルカリ製品としての炭酸ナトリウムをつくる。その製法としては、まずは、食塩と硫酸からまずは、硫酸ナトリウム(硫酸ソーダ、Na2SO4)をつくる。これらの両方を釜の中にいれて、加熱する訳だ。
 これは、次の二つの段階をたどる。このとき、多量の塩酸ガス(HCl)が副生する。

NaCl+H2SO4→NaHSO4+HCl・・・・・①
NaCl+NaHSO4→Na2SO4+HCl・・・・・②

Na2SO4+H2C→Na2S+2CO2・・・・・3
Na2S+CaCO3→Na2CO3+CaS・・・・・4

 これらの成分の中で水に溶けるのは、炭酸ナトリウム(Na2CO3)だけであり、かたや硫化カルシウム(CaS)は水に溶けないので、黒灰を洗浄することによって炭酸ナトリウム(ソーダ灰)を分別することができる。
 そこで、固体の炭酸ナトリウムを得るために洗浄水を脱水処理する。言い換えると、かかる黒灰を水で抽出した後、硫化カルシウムを分離し、得られた炭酸ナトリウム水溶液を濃縮し、これを焼いてソーダ灰(炭酸ナトリウム)を得る訳だ。

 彼自身は1806年に、はたして、フランス革命の成り行きに大きく影響されてだろうか、自殺してしまう。とはいえ、彼の編み出した製法は、1823年にフランスで初めての大規模工場が建設される。その後は世界各地に広まり、ほぼ100年近くソーダ灰(炭酸ナトリウム)の主力工法として続いてく。

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 次には、20世紀に入ってソルベー法を紹介しよう。こちらは、塩化ナトリウム(NaCl)や石灰石(CaCO3)を原料としている。これらを用いての製法については、「アンモニアソーダ法」といい、ベルギー人の化学者であるエルネスト・ソルベー(1888~1922)が、1862年に発見した。この方法は、工業化され、別名、「ソルベー法」とも呼ばれる。

 この方法によると、まずは、塩化ナトリウム(NaCl)の飽和水溶液(飽和食塩水)に、コークス製造の際にできたNH3(アンモニア)、石灰石から取り出した二酸化炭素(CO2)を順に吹き込み、溶かす、そして、炭酸水素ナトリウムを沈殿させる。

NaCl+NH3+CO2+H2O→NaHCO3+NH4Cl  ・・・・・①

 なお、これの途中で生成されるNH4Cl(塩化アンモニウム)については、水酸化カルシウムと反応させることで、再びアンモニアとして回収することができよう。しかも、その純度もルブラン法よりも優れていたのであった。

2NH4Cl+NH3+Ca(OH)2+CaCl2→2NH3+H2O ・・・・・①からの展開

 次には、炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)を熱分解する。具体的には、二酸化炭素を循環させ、炭酸水素ナトリウムを沈殿させ、これを焼いて炭酸ナトリウムをつくる。これは、炭酸水素ナトリウムの加熱分解反応である。

2NaHCO3→Na2CO3+H2O+CO2    ・・・・・②

 こちらの副産物としてのCO2も、再利用が可能であり、その分低コストになろう。

 このソルベー法は、第一次世界大戦後には、ルブラン法を凌いで発展していく。ソルベーは、この成功を基に、事業を興す。最近では、ソルベー法とは炭酸ソーダの生産の主役ではなくなっているとの話ながら、彼のつくった会社ソルベーは総合化学メーカーとして名を馳せ続けている。

(続く)

 

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♦️363の6『自然と人間の歴史・世界篇』ハーバー・ボッシュ法(1913)

2020-07-23 20:37:47 | Weblog

363の6『自然と人間の歴史・世界篇』ハーバー・ボッシュ法(1913)
 
 アンモニアといえば、あの特徴的な臭いで知られるが、化学肥料や合成繊維などの原料として欠かせない。

 そこで顧みると、ハーバー・ボッシュ法(HB法、略してハーバー法ともいう)で作るアンモニアの製造は、およそ100余年前に登場し、2020年においてなお現役であり、なおかつ、現在もほとんどがこの方法で作られているという。

 なお、およそこの方法により、世界で年約1億4千万トン(窒素換算)のアンモニアが生産されているという。

 そこでこれに至る経緯だが、1908年になって、ドイツの物理化学者のハーバーが、アンモニア合成について研究し、実験室的に目処が立ったという。
 これを聞いたドイツBASF社は、ハーバーと共同研究の契約を結ぶ。そして1909年には、同社のボッシュがハーバー法工業化研究の責任者となり、その下に多数の化学者や装置技術者が集まる。
 触媒と高温高圧の技術が難関とされたが、上記の合成法を確立させ、1913年には、オッパウの工場で年間3万6000トンの硫安を生産することに成功したという。


 製造の方法については、窒素と水素を、高温(摂氏400~650度)、かつ高圧(200~400気圧)にて、触媒に酸化鉄を投入して、反応させる。触媒というのは、反応を促進させたり、遅らせる物質をいう。

N2+3H2→2NH3(アンモニア)


 かかる反応においては、大量のエネルギーが必要で、水素を化石燃料から作る際には、大量の二酸化炭素を出す。とはいえ、用いられる触媒は10年以上使えるという面もあるという。

 ところで、この開発劇においては、次に紹介するような、時の歴史に深く関わる出来事でもあったようだ。

 「ル・シャトリエ(1884年にル・シャトリエの法則を発見)は、この工業化の前の1901年に、この平衡反応はできるだけ高圧・低温において、高収率のアンモニアが得られると指摘していました。 

 当時のドイツは、海上輸送路をイギリスに押さえられており、窒素の原料をチリ硝石に依存した状態であったので、事を構えることはできませんでした。

 しかしこの製法によって大量のアンモニアを手中に収めることができるようになったので、時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦(1914~1918)の開戦を決意した、と伝えられています。」(井沢省吾「トコトンやさしい化学の本」日刊工業新聞社、2014)

(続く)


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♦️222の2『自然と人間の歴史・世界篇』万有引力の法則の発見(1687)

2020-07-23 09:52:12 | Weblog
222の2『自然と人間の歴史・世界篇』万有引力の法則の発見(1687)


 万有引力の法則は、アイザック・ニュートン (1643-1727、イギリス) の発見によるものであり、今では、私たちは当たり前に考えているのではないか。
 端的にいうと、宇宙の端までというか、それまでにあるすべてのものが互いに引き合う力、つまり引力を持っているという法則だ。また、これには、地球の表面と奥深くにあるだろう核との関係にも、当てはまろう。
 これによると、力の大きさは、質量に比例し、かたや距離の2乗に反比例するというものにして、こうある。


 F = GMm/r2
 ここに、質量M[kg]と質量m[kg]の2つの物体の間に働く万有引力の大きさF[N:ニュートン]は、rを物体間の距離(m)、Gを万有引力定数(G=6.673×10-11N・m2/kg2)としている。

 
 これの前には、例えば、ルネ・デカルトが「哲学原理」の中で「渦動宇宙論」を主張しており、そこでは空虚などはなくて、媒質は循環して元の場所に戻ってこなければならない。
 ついては、惑星としての地球は「この渦に乗って太陽の周りを公転していることになる。そうだとすれば、ニュートンが提唱した重力は不要になってしまうわけである」(小山慶太「科学の歴史を旅してみようーコベルニクスから現代まで」NHK出版、2012)という。
 そういうこともあって、ニュートンは、「デカルトの説ではケプラーの法則が成り立たないことを力学的に証明し、宇宙から媒質の渦を放逐(ほうちく)したのである」(同)と。
 
 
 ともあれ、この偉大な発見により、それまでの地上と天上との二元的な世界観はひとまず否定された筈なのだが、人間というものはわからない。たぶん、そういうことも意識しての総括的にいうか、ニュートンは、こんなことを述べている。

 「太陽、惑星および彗星という、このまことに壮麗な体系は、叡知と力とにみちた神の深慮と支配とから生まれたものではなくてほかにありえようはずがない。(中略)また諸恒星の諸体系がそれらの引力によって相互に落下しあうことのないように、神はそれらの体系を相互に茫漠(ぼうばく)として果てしない隔たりに置かれたのである。
 この全知全能の神は、世界の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。」(ニュートン著、中野猿人訳「プリンキピア」講談社、引用は同著の第3回の話の終わり部分)

 と、もう少し神の実在に懐疑的な調子となって当たり前ではないかとの予想とは裏腹に、彼にとって神というのは、それまでにも増して現実性を帯びることになっていったようなのだ。


(続く)


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♦️新433『自然と人間の歴史・世界篇』分子生物学(DNAらせん構造の発見)

2020-07-22 19:54:29 | Weblog

433『自然と人間の歴史・世界篇』分子生物学(DNAらせん構造の発見)

 生物学といえば、第二次世界大戦の始まる少し前から戦後しばらく迄の間に、最初の体系がつくられた。興味深いことに、オーストリア出身の物理学者のエルヴィーン・シュレーディンガー(1887~1961)が、1944年刊行の著作「生命とは何か―物理的にみた生細胞」の中で、こういう。
 「60。生物体は環境から「秩序」をひき出すことにより維持されている。生物体が崩壊して熱力学的平衡状態(死)へ向かうのを遅らせているこの驚くべき生物体の能力を統計的理論を使ってどのように言い表わしたらよいのでしょうか?前には次のようにいいました。「生物体は負エントロピーを食べて生きている」、すなわち、いわば負エントロピーの流れを吸い込んで、自分の身体が生きていることによってつくり出すエントロピーの増加を相殺し、生物体自身を定常的なかなり低いエントロピーの水準に保っている、と。(中略)
 事実、高等動物の場合には、それらの動物が食料としている秩序の高いものをわれわれはよく知っているわけです。すなわち、多かれ少なかれ複雑な有機化合物の形をしているきわめて秩序の整った状態の物質が高等動物の食料として役立っているのです。それは動物に利用されると、もっとずっと秩序の下落した形に変わります。」(エルヴィーン・シュレーディンガー著・「岡小天と鎮目恭夫の訳「生命とは何か―物理的にみた生細胞」」岩波書店、2008)


 この予言じみた本を書いたシュレーディンガーの本職は理論物理学者であって、1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱する。また、これに関連して、量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年には「シュレーディンガーの猫」なる二律背反のパラドクスを提唱したりで、量子力学の発展を築き上げた人物の一人として名高い。
 その影響もあってだろうか、この本の刊行から約9年後の1953年には、シュレーデインガーが分子生物学的なモノの見方を提示したのは、まちがっていなかったことになっていく。

 この年、アメリカ出身の分子生物学者ジェームズ・デューイ・ワトソン(1928~)と、イギリスの科学者フランシス・クリック(1916~2004)、イギリスの生物物理学者モーリス・ウィルキンス(1916~2004)らが、分子模型を構築する手法を用いた結果、DNAという分子の二重螺旋構造を提唱したのだ。

 そこで、もう少し詳しく見よう。遺伝子の本体というのは、遺伝情報の担い手としてのDNAであり、独特の構造をなすことが、科学雑誌「Nature」1953年4月25日号にて発表される。それには、こうある。

 「われわれはデオキシリボ核酸塩にたいして根本的に異なった構造を提案したい。それは同一の軸の周りをそれぞれ巻いている二本の螺旋状の鎖でできている。

 ここではごく普通の化学的な仮定がなされている。すなわちそれぞれの鎖は、いくつかの3・D・デオキシリボノース残基をその3位および5位と結合することで連ねている燐酸ジェステルの連鎖からできていることを前提としている。

 この二つの鎖はそのその繊維軸(Z軸方向)に垂直なディヤード(すなわち二個の基)によってたがいに関係づけられる。鎖は双方とも右巻き螺旋になるが、このディヤードのためにそれぞれの鎖上の原子の配列は逆向きになる。おのおのの鎖自体はフルベリのモデル一号にほぼ似ていて、塩基はこの螺旋の内側に、燐酸基はその外側にある。(中略)

 われわれの提案した構造をきびしくテストしてみるためには、従来発表されたデオキシリボ核酸にかんするX線によるデータは不十分である。したがってここでわれわれの言いうることは、この構造は概略的には従来の実験データと矛盾しないが、より精密なデータと照合検討することを済ますまでは未証明のものと見なさざるをえないということである。」(ワトソン、クリック「デオキシリボ核酸の構造」、ケンブリッジ、キャベンディッシュ研究所、医学研究委員会生物系分子構造研究ユニット、1953年4月2日。なお、日本語訳の引用は、湯川秀樹、井上健編集「現代の科学3、中央公論社「世界の名著66」1970)


 この号で、ワトソンとクリックは、DNAの基本構造モデルにまとめる。その名を、「二重らせん構造」という。そこでのDNAには、親から子に受け継がれる遺伝情報のすべてが書き込まれており、そのDNAが二重らせん構造になっているこという。
 そして、彼らの論文の後ろには、ウィルキンスらによるDNAのX線回折像を示す論文が掲載され、このモデルの正当性を主張する。
 このことをヒトについてみると、そのDNAは細胞核の中にある46本の染色体につまっている。そのあり方・形状を例えていうと、「ねじれたはしご」のような二対状を成していて、実は4種類の「塩基」と呼ばれる小さな分子が膨大な数につながり、できている。
 1962年には、これら一連の研究が評価され、ワトソン、クリック、ウィルキンスの3人は、ノーベル生理学・医学賞を受賞する。それは、「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に対してであった。

 これらのうちウィルキンスは、後に物理学者となり、第二次世界大戦中にはカリフォルニア大学バークレー校で原爆製造を目標にしたマンハッタン計画に参加する。

 ところが、この分子生物学上の発見には、素直に称賛できそうにない、次のようなややこしい事情が介在していた。すなわちワトソンは、別の大学の女性物理化学者ロザリンド・フランクリン(1920~1958、イギリスの物理化学者、結晶学者、石炭やグラファイト、DNAや タバコモザイクウイルスの化学構造の解明に貢献した)が撮影したDNA結晶のX線写真を、彼女に断りもなく自分たちの研究成果に取り込み、全部を自分たちのものとして発表してしまったのだ。
 そればかりではなく、同じ研究者としての礼節も欠いていた。それというのも、前述のイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に発表した論文においても、ロザリンドに対しては、「未発表の実験結果の全体像や考察を教えていただいたことで、非常に啓発された」としているのみであり、彼女の撮ったX線結晶写真が決め手となった、とは述べていない。その偶然の事情が異なれば、もしかしたら、その栄誉は彼らとは違う他の研究者の手に渡っていたかもしれないのに、である。

(続く)

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新♦️360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

2020-07-22 09:41:44 | Weblog

360の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理化学(原子の構造の発見)

 まずは、電子の発見から振り返ろう。ジョゼフ・ジョン・トムソン(1756~1840)は、イギリスの物理学者、貴族であった。彼が作ったのは、真空中に粒子(今日でいう電子)を放出し、電極間を通過させる装置(その略図は、例えば、二宮正夫「宇宙の誕生」岩波ジュニア新書、1996)にである。
 これを横においてから、 左端の陰極(上にある)と陽極(下にある)の間に高電圧をかける。すると陰極から粒子が陽極に向かって飛び出すだろう。これを「陽極線」と呼ぶ。 あらかじめ、陽極にスリット、つまり隙間を開けておくと、陰極から飛び出した粒子の一部は右側に向かって飛び出すというシナリオだ。  

 ちなみに、この実験装置内部は真空になっており、粒子は空気の分子と衝突することなく電極板の間を通り、右端にしつらえてあるスクリーンに行く。そのスクリーンは電子が衝突すると、白く跡が残るようにな蛍光面となっている。

 そこで、電極板に高電圧をかけ、電場を発生させておく。当時、帯電した物体が電場によって力を受けることは知られていた。なので、こうして一定の電圧が上から下にかかっている時、陰極線を形づくっている粒子がマイナスの電荷を持っているなら、電場から上向きに力を受けるから、粒子は上方に曲がるはずだと考え、実際その通りになったという。


 1911年、フランスの物理学者アーネスト・ラザフォード(1871~1937)は、続いてガイガー、マースデンと協力して、アルファ線を原資にぶつける散乱実験を繰り返す。そして原子核というべきもののあることを確信した。それ以前の頭で考えたモデルを参考に、原子核の大きさを探る。

 薄い銅箔にラジウムからのアルファ線を当て、その実験データから銅の原子核の大きさを推定すると、1.8×10のマイナス14乗メートルより小さいと出た。これは、原子の大きさの約5千分の1以下だという。

 ラザフォードはなおも前進する。1919年には、「ウィルソン霧箱」と呼ばれる装置を使って実験を行い、発生した粒子が、原子を構成する電子とは異なるもう一つの粒子として「陽子」と名付ける。言い換えると、この実験で、窒素の原子核にヘリウムの原子核を衝突させて酸素の原子核を作り出し、その結果として陽子がはじき出されるのを観測した。

 おりしも、キュリー夫人の娘夫妻イレーヌとジョリオは、アルファ線をベリリウムという金属に当てると透過力の大きい別の放射線が出てくることを発見していた。しかし、その物質が何であるかまでは、理解していなかった。

 これらに触発されたチャドウィクは、このアルファ線を色々な物質に衝突させる実験を行い、何かの粒子がはじき出されるのを発見した。この放射線が、陽子と同じ質量をもつ傍ら、電荷を持たない中世の粒子ということで「中性子」と名付ける。

 こうして、原子核は陽子と中性子によって構成されている、と考えられるようになっていく。ちなみに、「電子の質量の現在の測定値は9.1×10のマイナス28乗グラム(9.1グラムの1兆分の1をまた1兆分の1にし、さらに1万分の1とした重さ)」(二宮、前掲書)というから、なんとも口をつぐんでしまいかねない小ささにちがいあるまい。



(続く)

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♦️363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の粒子説と波動説(18~20世紀)

2020-07-21 19:48:31 | Weblog
363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の粒子説と波動説(18~20世紀)

 今日では、光は粒子と波動の両方の性質を併せ持っていることがわかっている、そこで、これに至る過程をたどってみよう。
 18世紀になると、光の波動説が再び話題になってくる。そうはいっても、200年位の間、粒子説を唱えたニュートンの流れがあり、光の粒子説が優勢であったという。
 思い起こせば、アイザック・ニユートンは「光の屈折は、このエーテル媒質が場所によって密度を異にし、光は常にこの媒質のより密な部分から遠ざかることから起こるのではないか」「エーテル分子は空気や光の粒子よりもはるかに小さく、弾性的なものであろう」(1704年の「光学」、島尾水康訳による岩波文庫)と推論していた。

 もう一方の波動説については、どんな流れであっただろうか。クリスティアン・ホイヘンス(1629-1695) は、1690年の「光についての論考」において、光を微細な弾性微粒子がぎっしりつまっている均質な媒体としてのエーテル中の衝撃波または脈動が連なったものであるとした。
 それというのは、光を出す物体は、まずはこの微細粒子に衝撃を与える。すると、その脈動は隣り合った粒子につぎつぎと伝わって行く。また、光の波は球面の波頭をもち、その波頭はまた個々の振動している微粒子の小さな球面波で構成されているとし、次々に波を起していくとした。
 彼は、このような論理で、光が直進すること、そして反射、屈折などの現象を説明した。
 
 そんな時に、この論争に加わってきたのが、ヤングである。彼は、もとは医者であった。音の現象に興味をもち,音波と光との類似から出発して光は波であろうと考えた。
 1802年には、いわゆる「ヤングの回折実験」を行なった結果を発表する。
 そこで実験の仕組みだが、まずは細い1番目のスリット(ついたての穴)S、その次にはS1、S2(同)を持つ、ついたての板を平行に置く。さらにその後方に、スクリーンを置く(なお、かかる装置の図解としては、例えば、二宮正夫「宇宙の誕生」岩波ジュニア新書、1996)。

 そうしておいて、Sの手前の光源から平行な細い光線を入れてみた。しかして、これが単色光ならば明暗の平行な干渉縞を生じ、白色光ならば干渉縞の明線の部分は色付いて見えるだろうと。
 そうすると、スクリーンの上には、中心線の両側に明暗の縞模様が現れた。ところが、2番目のスリット2つのうちいずれか一方を塞いだところ、スクリーン上の縞模様は消えて、代わりというか、スクリーン全体がぼんやりと暗くなるのであった。
 こうなると、光が粒子ということでは、説明できない。かたや、この干渉現象は、光を波と考えると考えた方がうまく説明できるのではないか、とヤングは考えた。
 なぜなら、干渉を起こすという性質は、波動に特有なものだからというのが、キー・ポイントとなるだろう。もう少しいうと、2番目のスリットの光が、スクリーン上のある点に到着した時、波が山であったとしましよう。
 次には、スリットB(下側、上側はA)を通った光が、これと同じ点に到着した時、光の山となっていたとしよう。そうなると、波の山の高さが2倍になると。
 他方、その逆にというか、かたやその一つが波の山、もう一つが谷ということなら、スリットAとBを通った光の波はスクリーン上で互いに打ち消し合うため、その像は暗くなってしまうだろうと。
 さらに、スリットAをふさぐと、開いているスリットBからの光の波だけがスクリーンに来るので、このような明暗は表れないであろうと。
 そして、これらの事象が観察されたことで、光は波であるとの仮説に勢いが出ていく。要は、光がスリットを通った後、波として曲がり込むことが確かめられたという。
 

 19世紀中頃には、マクスウェルが「電磁波理論」をまとめ、電磁波とは空間を伝わる波動で、電波やX線などとともに、光もそうした電磁波の一種であることを証明しようとした。


 そしての20世紀にはいると、光の粒子説は、アインシュタインが1905年に光量子説を唱えて、プランクの考えたエネルギー量子の仮説を押し進めた。これによると、電磁波は振動数によって決まるエネルギーを持った固まり、粒として空間を伝播していく。

 そして迎えた1923年、コンプトン(1892~1962)にいたって、この説は、立証されたことになっている。なお、「光の粒子」は、「光子」とも呼ばれる。
 彼の実験では、単色、つまり波長が一定のX 線を黒鉛 (炭素の結晶) に 照射してみた。すると、散乱角が大きくなると散乱された X 線の波長が 長くなっていた。 
 この場合、 入射したX 線を光の 「粒子」とみなして、それが電子に衝突しする結果、散乱される。その際は、エネルギー保存の法則と運動量保存の法則の両方が成り立つに違いないだろうと考えた。

 まずは、入射したX 線の「粒子」の エネルギーを hν、運動量を hν/ c とおく。また、λ′を散乱線の波長、λを入射線の波長、hをプランク定数、mを物質中の電子の質量、cを光速、ϕ(ファイ)を散乱角としよう。
 更に、散乱角の方向に 散乱された X 線の「粒子」の エネルギーを hν'、それの 運動量を hν'/ c としよう。かかる場合、 衝突された電子 (質量 m ) が 跳ね飛ばされたのであるから、そこで働いた運動量を mv としよう。 

 すると、後にコンプトン効果と命名されるところの波長のズレ、つまり波長の伸び⊿λ (微小ラムダ)は、散乱角 φ(ファイ) を用いて、次の関係が成つ。
⊿λ = Δλ=λ′–λ=hmc(1−cos⁡ϕ)

 これによると、この式の右辺を見ると、h も m も c も定数なので、コンプトン効果の波長の伸びは散乱角 φ のみによって決まる。一方、この実験でX線を波と考えると、結果を説明できないことになっている。


(続く)


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新♦️917『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナと中国(~0721)

2020-07-21 10:33:56 | Weblog

新917『自然と人間の歴史・世界篇』新型コロナと中国(~0721)

 

 中国での感染及び対策などの状況ですが、主な流れを以下に記していきたいと考えます。

 

〇2019年12月30日午後5時43分、湖北省武漢市で医院を営む李文亮医師がネット配信にて「貨南水果海鮮市場確診7例SARS」の表題にて、人々に注意を喚起した。
 なお、以下では、現代中国語の漢字が日本漢字と大きく合わない場合があることから、そのときは適当な日本漢字なりを探して充てたい。蛇足ながら、戦後のある時、周恩来・当時の首相が日本側と漢字をできるものは一致させてはどうかと提案があったものの、当時の日本政府は断った経緯がある。

 なお、文中に紹介の中国の一般市民からの情報については、これまでのところ、主にテレビで放映された番組からの引用が欠かせません。その1としては、郭晶「武漢封城日記」、5月27日NHKのBS1で放映の「武漢封鎖76日記録、日記とラジオ市民の声」、5月25日NHKのBS1で放映の中国国営放送「武漢の24時間、ロックダウン・中国の記録」

   

 

〇それにもかかわらず、武漢市衛生健康委員会初の市民向け知らせには、こうある。「人から感染する証拠はない。状況はコントロールできる。」(「未発現明確的伝人証拠」)というのだ。

 

○2019年12月31日、武漢市政府が、原因不明の肺炎患者を確認したことを発表する。

 

○2019年12月31日に、中国はWHO(国連の世界保健機関)に、その事を報告している。
 

  ここにいうWHO(世界保健機関、1948年に設立)の本部は、2020年5月現在はスイスのジュネーブに、その事務所は世界150か所以上あるという。2020年5月現在で194かヵ国が加盟していて、職員は7000人以上に上るという。運営については、年に1回の総会で予算や政策などを決め、その執行は年2回の執行理事会で行われている。

 

○2020年1月1日、武漢市の公安当局が、ネット上にて事実と異なる情報を流したとして、8人を拘束、処分したことを発表する。



○武漢市肺科医院の杜栄輝(DU  RONGHUI)医師は、1月3日、CT画像にかつてない異常を見つけた。

 いわく、「大勢の肺炎患者を診ます。アデノウイルス、パラインフルエンザ、H1N1型インフルエンザもあります。」「一度に5~6人の初診の患者が来て、見たこともない肺炎の症状が、どの患者のも似ていて、ほぼ同じでした。胸膜に沿った部分も気管支に沿った部分も真っ白でした。」

 

 

○1月3日、米国の疾病対策センター(CDC)長官が、中国側から直接「武漢で原因不明の肺炎患者」の発生連絡を受ける。

 



〇1月6日、武漢市政府は、「原因不明の肺炎が発生している」ことを再び発表する。最初の症例は、2019年12月12日とあって、それから2020年1月5日までの間に、合わせて59人が感染したとのこと。


 

○1月6日、アメリカが、中国にCDC専門家の派遣を申し出るも、中国は認めず。

 

 

 

○1月9日、新型コロナウイルスが病原体であるとの専門家の判断を、国営テレビが報道する。

 

○1月14日、WHOが中国当局による予備調査では「人から人に感染するという明白な証拠は見つかっていない」とツイッターに投稿した。
 ちなみに、WHOの専門家は同日、(人から人への)限定的な感染が起きている可能性があると述べている。


○1月14日から、武漢の空港、駅、バスの発着所などで、体温を検査するサーモグラフィーを335台以上配備した。


○1月15日、武漢市政府が、人から人への感染について「明確な証拠は見つかっていない」「感染の可能性の排除はできない」との見解を発表した。


○1月15日、習近平国家主席が、感染たいさに全力を挙げるよう指示したと、新華社が報道した。

 

 

 

〇1月19日、武漢市で「万家宴」と称し、大勢の市民が市当局に招待されるなど、盛会であったという。

 

〇1月20日~、中国国家衛生健康委員会が、今回のウイルスは「人から人へ感染する」と先の見解を改めた。国営テレビ報道によると、「中国共産党の最高指導部は会議を開き、新型コロナ対策チームから報告を受け、今後の取り組みを話し合いました」とある。

   その画面にて、「中共中央政治局常務委員会召開会議」、研究加強新型冠状病毒感染的肺炎工作疫情控工作」とのタイトル、および「我能力的一時大考、我門一定要総結経験、吸取教訓。要針対今次疫情〇対中暴露出来適短板和不足、健全国家〇急管理体系、・・・」云々とある。要は、「我々は、今回の対応のまずさを、次の教訓に生かさなければならない、・・・」というのである。

 

○1月21日、アメリカ西海岸のワシントン州で、武漢から帰国した男性が感染していることを確認した。それが、アメリカでの感染第1号。

 

○1月31日、アメリカが、中国全土からの入国を制限する。

 

○2月7日、トランプ大統領と習近平主席が電話会談を行い、習近平氏はアメリカの入国制限の再考を求める。

 

○2月16日、WHOが、中国へアメリカ人2人を含む専門家を派遣した。
3月27日、、トランプ大統領と習近平主席が電話会談を行い、トランプ氏は「緊密に取り組む」と表明する。

 

○4月9日、国連安全保障理事会が、新型コロナの対応にちいて初会合を行うも、決議は採択できず。

 



 

〇1月22日、中国保健当局の記者会見が国営テレビで放映された。

 国家衛生健康委員会の李・副主任いわく、「医療従事者間や集合住宅で人から人への感染が拡大された。・・・武漢へは行かないでほしい。武漢の人は特別な事情がない限り市外に出ないでほしい。」

 「全力」で事に当たろうという見出しの当局の公告には、「2020年1月23日10時」を期して、「全市全城」を封鎖状態におき、市民の理解を「総請産人市民、旅客理解支持」との表現でねがう形であり、大上段からの、こわもてのものではないことに留意したい。


○1月22日、WHOの調査団が訪中し、武漢において人から人に感染したという証拠はあるが、完全に解明するにはさらなる調査が必要との見解を示した。



○1月23日、WHOが緊急委員会の結果として、この時点での緊急事態宣言を見送る。


 

〇1月23日、武漢市にロックダウン(都市封鎖)が発動される。鉄道は、武漢漢口駅などに堰が設けられ、入れなくしている写真が放映された。同市にある天河国際空港では、全便が欠航した。この日のことを、「武漢封鎖76日記録」(台湾において発行)の著者(武漢市在住)は、こう振り返っている。

 「目が覚めたら、武漢のニュースを知って、頭が真っ白になった。封鎖って何?いつまで続くの?私はどうすればいいの?全てがわからない。」

 

 

〇1月28日付けの「ネットメディアにおける新型コロナウイルスによる肺炎の報道方針」(国家ラジオテレビ総局発)によると、「医療関係者の感動的な物語(「感人故事」)を宣伝しプラス面を描くこと」などと、利用者に指示があった。

 

○1月27日には、WHOのテドロス事務局長と幹部3人が北京に飛んだ。「公式の招待を受けたのは午前7時半。その日の午後8時には飛行機に乗っていた」という話が伝わっている。

 

○テドロス氏は、1月28日に習国家主席と会談を行う。そして、データと生物学的資料を共有することを特に協議したという。テドロス氏は習氏と握手する写真をツイッターに投稿し、「率直に協議した」、「(習氏は)歴史に残る国家的対応を担った」と書き込んだ。



○1月30日には、WHOが緊急事態を宣言した。また、アメリカが中国全土への渡航禁止をWHOに勧告する。



○2月、WHOは、この感染症を、英語のコロナウイルス(coronavirus)と病気(disease)とを組み合わせ、「COVIDー19」と命名した。



○2月3日には、テドロス氏がWHOの執行理事会で、「不必要な渡航・貿易制限」は勧めないと発言した。


 

〇2月7日、最初に感染を注意喚起した李文亮医師が、新型コロナの為死去した、と伝わる。彼は、前に市当局・警察から「デマを流した」と非難され、「自分の違法行為を反省しなさい、さもなくば法律により処罰する。わかったか?」(警察)と訊問された。その「訓戒書」(1月3日付け)には、「社会秩序を乱した」とか「法律違反だ」などとある。死後しばらくになって、一転、彼は「英雄」を意味する「烈士」とされるも、当局の責任は地方幹部の更迭にとどまった模様だ。

 ちなみに、彼の最後のネットへの投稿画面が残っていて、病院のベッドの上で呼吸器をつけた状態のものであって、「健全な社会の声は一つであるべきではない。治ったらすぐに現場に戻りたい」とのことである。この言葉は、たぐいまれな教訓そして真の勇者の偉大な発言として、世界の人々の間に永く語り継がれることだろう。

 

〇2月11日の武漢市(人口は約1100万人)では、累計で2万人の感染者を確認した。2月12日には、3万人を超える。この一日で1万3436人増とのこと。中国国家衛生健康委員会調べ。なお、この時点では、集計に漏れている人が多いのではないか、との指摘が多く寄せられていた。もっとも、この類いのことは中国ばかりではなく、4月のイギリスやアメリカの統計にも向けられている。


○2月10日には、上海、北京など主要都市で、企業の操業が再開された。

 

○2月14日からのこととして、武漢の空港、駅、バスの発着所などで体温を検査するサーモグラフィを335台以上配備した。

 

〇2月17日付けの「中国共産党新聞」によると、「第一線で戦いにあたっている医療従事者に「致尊」」と表題にて、その中には「医療従事者は党の呼びかけに応じ人民を守る責務を全うして崇高な精神を見せてくれた」とある。

 

○2月20日、習近平国家主席が、対策に全力をあけるよう指示したことを、新華社が報道する。また、中国チームの専門家トップが、「人から人への感染が認められる」と指摘した。



○3月1日、中国政府は、「ネット情報コンテンツ環境管理規定」を施行した。「デマ」はもちろん、政治や経済、社会の秩序を乱す情報をネットを使用して流すのを禁じる内容だという。とはいえ、具体的に何がそれに当たるのかを巡り、論点は尽きない。
 例えば、「ネットコンテンツの制作者は国益を損なってはならないとし、献身的な仕事で「英雄」と称される党員の功績を否定する内容や、宗教政策の批判なども禁じる。自然災害や重大な事故に際し、「不当」な評論をさせないことも求めている」(2020年3月3日付け朝日人新聞)という。



○3月1日、ニューヨーク市ではじめての感染者が確認された。デブラシオ市長は、「市民には日常生活を続けてほしい」と語っていたという。これを報道した新聞は、同市を含むニューヨーク州とカリフォルニア州との差がどうしてできたのかを、現地の話としてこう伝えている。

 「当時。NY州(約1950万人)の感染者は約200人。人口が2倍超のカリフォルニア(CA)州と同程度であったが、いまNY州では10万人を超え、CA州の10倍近くに上る。

 

 国内では、外出規制令を出した時期が明暗を分けたとの指摘が上がる。NY州は22日、CA州の主要都市より5日遅れた。この5日間でNY州内の感染確認者は10倍超の1万7千人に急増。さらなる感染拡大を招く要因となった。」(朝日新聞、2020年4月5日付け)




○3月11日、WHOが、世界的な大流行を意味する「パンデミック」の状態だと認定する。



○3月12日時点での国内では、200以上の都市が採用しているというシステムに、「健康証明」がある。これを利用する段階には、自分のスマートホンを手にして、当該掲示板なりにしつらえてあるQRコードにアクセスしたりで、当該アプリを手に入れる。そしてこれの画面にて身分証番号、家族関係や移動履歴などの個人情報を登録すると、その人が感染しているかどうかのリスクが、緑、黄、赤の3段階で示されるという。
 個人情報を向こうに明かす見返りに、自己に関わる安全情報を入手できるという触れ込みであって、今のところ強制ではないものの、一部では登録しないと職場に復帰できなかったり、店舗に入れなかったたりすることがあるという。ちなみに、この時点での北京市政府ホームページには、当該「健康コード」のデモ画面が掲載されており、顔写真の下に「異常なし」とかの表示があるという。



○3月12日には、国家衛生委員会が、「感染のピークは過ぎた」と発言した。



○この間の武漢市でとられた主な対策として伝わっているのは、次の通り。まずは、移動の制限が行われていく。1月下旬からは、市外との交通を遮断、市内交通機関の停止、それに市街地での自家用車の通行禁止。2月中旬からは、外出の原則禁止を打ち出す。
 次には、感染者の発見と隔離、そして治療。こちらは、2月上旬から重症者用の臨時病院2棟を建設した。新型コロナ専門の「火神山医院」は、工期10日で、2月3日に開院にこぎつけたという。同じく2月上旬、軽症患者のための臨時病院の14棟を開院した。2月中旬からは、全市民に対し1日2回の体温測定を義務付けした。


○3月25日先進7か国外相会議にアメリカのポンペイオ国務長官がでかけて会議終了後に会見し、「武漢ウイルス」の呼称を用いるとともに、「中国共産党は我々の健康と生活のあり方に対する重大な脅威となっている」と批判したという。これに対しての外務省報道官は、「ウイルスの起源は複雑な科学的問題、米国の最優先課題は、自国の感染を食い止めて国際的にも役割を果たすことであり、中国の信用を傷つけて責任を転換することではない」と述べたという。
 これは一体どういう類いの話なのだろうか。そう考えるうちに思いだされるのが、かの「スペイン風邪」との命名に当時のスペインは反対したという。だが、そのかいなく、汚名を着せられてしまったという。今では、当時のアメリカから当該ウイルスが世界に広がったとされているものの、当時のこの方面の科学的知見は今日よりかなり低かったから、その分スペインの反論が劣勢に流されていったのは、あながち見当違いではあるまい。
 今回、日本の保守系メディアの中にも、アメリカのかかる主張を「グロテスク」とさえ形容していることから、憎しみしか生み出さないようなこのアメリカ政府の態度に同意できないというのが正論ではなかろうか。ちなみに、武漢のウイルス研究所から漏れだしたのではないかとか、そのウイルスを武器として実験中であったのではなどと、色々な説が日本でも飛び回っていたようなのだが、ようやく沈静化してきたようだ。


○3月31日、中国国家健康委員会は、新型コロナウイルスに感染しながら症状のない「無症状者」の数を、4月1日から新たに計上すると発表した。この措置は、無症状者を介した感染拡大が言われる中で、方針転換したものだという。

 それというのも、無症状なのに感染するのが、このウイルスの特徴だと追々わかってきた。それまでの中国政府は、「無感染者が感染を広げる確率は低い」として、数字の公表からはずしていたというのだ。

 

 それでも問題は多々あるようで、続けてこう報道されている。「国家衛生健康委員会は31日、当局が把握している無症状者が「30日までに1541人を数え、うち205人が外国からの入国者だ」と明らかにした。一方、香港紙サウスチャイナ・モーニングポストは、中国の政府統計に入らない無症状者が2月末で4万3千人以上いたと報じている」(4月1日付け朝日新聞)という。



〇4月2日、最初に感染を注意喚起した李文亮医師が、新型コロナへの注意喚起をしたことで人民に貢献したとして、「烈士」の称号を与えられる。

 

 

 

 

○4月15日、アメリカが、WHOへの拠出金の支払い停止を表明した。


 

○4月17日、武漢市政府は、これまでの累計確認死者数を訂正した。この訂正により、17日午前0時での武漢市の累計確認死者数は3869人となり、これは、これまで公表していた数より1290人多かったという。
 同市内の累計確認感染者数も、これまでより325人増えての5万333人と訂正した。市政府は、今回「調査を尽くし、自発的に訂正した」としており、情報開示に向けてやや前進したのではないかと、各国メディアからも見られている。
 おりしも4月15日の中国国家衛生健康委員会は、新型コロナウイルスに感染しながらこれといった症状のない「無症状者」の累計人数が6764人だったと、初めての公表に踏み切った。



○3月26日、サンチェス首相は、中国の習近平国家主席と電話会談をして、医療物資の援助を要請したという。ちなみに、「AFP通信によると、中国のIT大手アリババ集団は同日、200万枚のマスクをスペインに送ると表明した」(3月26日付け朝日新聞)という。




○4月19日までに明らかになった話として、「新型コロナウイルスは中国・武漢ウイルス研究所から始まった」というアメリカ・サイドからだされている話について、「その可能性は絶対にない」とする同研究所職員の反論を中国国営メディアが伝えたという。同研究所の所長も、同様に話したという。
 また、19日までに放送されたテレビ放送から、同研究所の袁志明(えんしめい)研究員は「われわれには厳格な(ウイルス)の管理制度がある」「退職者であれ学生であれ、職員は1人も感染していない」と述べたという。 
 もっとも、アメリカ大統領と国務長官のこれまでの一連の発言は、証拠を示しての話ではなく、中国に政治的な圧力をかけ、また中国を国際的な孤立に追い込もうとする政治的立場からのものである可能性が強いのではないか。

 

 

○4月24日、「「Immuniry  passports(感染パスポート)  in  the  context  of  Copid19」(「Scientific  Brief  24  April  2020」)において、WTO(世界保健機関)は、「抗体ができたとしても、2度目の感染を防げるかは不明」との見解を示した。

 

〇4月26日、武漢市の新型コロナの感染患者の、残っていた全員が退院したと発表した。中国政府の統計によると、武漢市で入院した患者は累計で5万333人、3869人が亡くなり、4万6464人が治癒して退院した。同市での入院患者数は同月24日に47人であったが、そのうち約30人は症状が治まってもPCR検査で陽性が出続けていたという(朝日新聞、4月27日付け)。

 

〇5月2日から、武漢市を含む湖北省で公衆衛生に関する警戒レベルを最高1級から2級に引き下げた。湖北省政府が1日に発表した。中国は、感染症など公衆衛生上の警戒レベルを4段階で定めているとのこと。


 

〇米国東部時間の5月6日、米軍制服組のトップのミリー統合参謀本部議長が、新型コロナの発生源についての見解を記者会見で述べた。結論は、「われわれにはわからない」というものであった。また、元の軍幹部は自身のブログであろうか、このウイルスは自然から発生し、その由来も人為的なものではないのではないかとの見解を発表しているとのことであり、大統領や国務長官のこれまでの見解と一致していない。後者は、これを受けてであろうか、「確かだが、証拠はない」などとこれまでの強硬な主張から後退しているとのこと。

 そもそもWHOは、政治ではなく科学でもって、この問題を明らかにすることを訴えており、アメリカ首脳が根拠が示せない段階で中国を「悪呼ばわり」するのは、自らの意図が政治的なものであることをひけらかしているような印象も与えかねず、世界で今苦しんでいる中建設的な話にならず、いかがなものかと思う。




○5月13日、上海協力機構の外相会議でロシアのラブロフ外相はアメリカのコロナに関する対中攻撃を非難したと、環球時報が伝えた。14日の中国国営の中央テレビ局「CCTV」も、このラブロフ外相の発言を報道した。



○5月24日、北京で開催中の全国政治協商会議(全国政協)に出席している医師の孫鉄英・政協委員が、朝日新聞の取材に応じたという(同紙、2020年5月27日付け)。
 新型コロナウイルスへの対応で湖北省武漢市にも支援に入った孫氏は「(異常を察知し))医師に、中央政府に直接報告する権利を与えるべきだ」と指摘した。各界有力者が集うこの会議で、現場の医師が察知したら、国家衛生健康委員会に直接報告しなければならないとする制度の創設を提案する予定だという。
 これまでも、SARSの蔓延を受け病院が深刻な症例を中央機関に通報するシステムが設けてあったのだが、手続きの煩雑さもあり、役に立たなかったことが背景にあるという。今回の中国での初期対応の不備を反省し、感染症の初期情報が滞らないようにしたいとのこと。



○7月に入って、世界保健機関(WHO)は、新型コロナウイルス危機の初期段階に行った説明を修正した。中国・湖北省武漢で初めて肺炎の症例が確認された際に報告を受けたのは中国ではなく、同国内のWHO事務所からだったと明らかにしたという。

 WHOは4月9日、今回の対応をめぐる時系列の動きを公表した。これには、武漢市衛生健康委員会が昨年12月31日に肺炎症例の発生についてWHOに報告したとのみ記載されていた。テドロス事務局長の4月20日の記者会見でも、中国から最初に報告があったと述べるにとどまっていた。

 それが、WHOが今度公表した新たな時系列の報告によると、は、昨年12月31日に武漢市衛生健康委員会のウェブサイト上で「ウイルス性肺炎」の感染発生についてメディア向けの発表を見つけてWHOの地域連絡窓口に報告したのは、中国国内のWHO事務所だったという。



 

(続く)

 

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