□160『岡)の今昔』岡山人(15~16世紀、北条早雲)

2019-02-08 23:13:11 | Weblog

□160『岡山(備前・備中・美作)の今昔』岡山人(15~16世紀、北条早雲)

 北条早雲(ほうじょうそううん、1456?~1519)は、室町時代の末期、備中の武家、高越山城主の伊勢盛定の次男として生まれた。平安時代のころには、備中国の後月郡荏原荘(しげつぐんえばらそう、現在の井原市)というのがあって、当時の伊勢氏の支配は、現在の井原市でいう尾坂・園井・西青野・山野上・荏原のあたりであろうか。「300貫文」の値打ちのする土地であったという記録(「平井家文書」)が残っているという。

 一説には、88歳までの長命であったという話も伝わるものの、歴史学の上では信じるに足る証拠は見当たらないようだ。ちなみに、出生場所については、歴史家の藤井駿(しゅん)・岡山大学教授の論文「北條早雲と備中荏原荘」(「岡山大学法文学部学術紀要」第5号)において、備中であるとしている。今日では、1467年に勃発した応仁の乱のときには、まだ故郷にいたのではないかと考える向きが多いとか。

 さて、その父の下で早雲の名前が世の中に出て来るのは、「伊勢新九郎盛時、文明十五年十月十一日、備前守貞定(盛定の誤記・引用者)の息也」(長禄二年以来申次記)というのであって、この時には若き早雲が、おそらくはいっぱしの武士となっていたのだろう。

 その後のごく大まかな足取りだが、1487年(長享元年)には、甘露寺親長の申次衆に採用され、その後室町幕府の奉行衆を務めるにいたる。また、この年、早雲は駿河に行く。1492年(明応元年)には、幕府奉行衆を退き、今川家家臣として独立を果たした模様だ。ここを正念場として精励したのであろうか、1494年(明応3年)に、今川勢を率いて近江に侵攻し、守護の斯波氏を攻める。続く1495年(明応4年)には、大森藤頼を遂(お)って小田原城に入る。

 その後、甲斐などにも侵攻するという具合で、しだいに大名として成り上がっていく。そして迎えた1516年(永正13年)には、早雲が三浦半島の三崎城を本拠とする三浦氏(三浦義同)を滅ぼす。そのいとこの大森越後守高瀬をも討ち果たし、相模全域を平定する。ここに戦国大名としての地位を確立する。

 その3年後に小田原で病死するが、その後半生は目覚ましいばかりの激務であったろう。ただし、その私生活は華美というのではなく、学問もよくし、家臣の心にも心を砕いたという。筆者は、かつて恩師の鍼灸師・志村耕一先生と小田原の早雲寺を訪れたことがあるが、早雲の「新九郎」の銘が彫られた墓石は縦長の質素なものであって、仰々しいものではないことに感心した。

 (続く)

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