○251の5『自然と人間の歴史・日本篇』屋台郷騒動(米沢藩、1863)

2021-03-15 21:14:10 | Weblog
251の5『自然と人間の歴史・日本篇』屋台郷騒動(米沢藩、1863)

 ここに紹介したいのは、なにぶん、開国だの攘夷(じょうい)だのと、日本国中がごった返していた時代の、ある東北の藩と、それに支配されまいと頑張った一地域の人々との争いのことである。まずは、極大まかな、屋台郷を巡りての年表から紹介してみよう。

 その屋台郷(現在の山形県東玉置賜郡高畠町)だが、1664年(寛文4年)には、米沢藩預かり地となる。1688年(元禄元年)には、新宿村名主の高梨利右エ門ら農民が、米沢藩悪政を幕府に直訴を断行し、成功するも、主だった者は死罪を免れなかった。
 1689年(元禄2年)には、「晴れて」ということだったであろうか、屋代郷として幕府の直轄地となる。1742年(寛保2年)には、屋代郷が再び米沢藩預かり地となる。1767年(明和4年)には、織田信浮(のぶちか)がこの地に入り、高畑入部高畠藩となる。
 1831年(天保2年)には、織田信美が天童に移住することにより、高畠は天童領となる。1848年(嘉永元年)には、この地はまたもや幕府の天領となり、米沢藩が預る形となる。
 そして迎えた1863年(文久3年)には、同藩領に準じた米沢藩預かり地となる。同藩としては、この間、並々ならぬならぬ幕府への工作を行っていたとも、伝わる。折しも、屋代郷の農民たちは、苦々しい思いを禁じ得ず、米沢藩領復活反対嘆願書をたづさえて幕府に願い出るのであったが、一揆ということで、主だった者たちは極刑となる。そして迎えた、幕末も大詰めの1866年(慶応2年)には、米沢藩が復活、この時、屋代郷は米沢藩に合併させられる。

 それでは、この騒動のもう少し立ち入っての有り様は、どんなであったのだろうか。まずは参考までに、藤沢周平作品の中から、しばし引用させていただこう。

 「藩の体制は、その後次第に形をととのえていったものの、入部当初からの財政窮乏は容易に回復できないまま推移した。寛文四年、第二の危機が米沢藩を襲う。
 藩主綱勝が急死したが、嗣子がなかったため藩断絶の危機に直面したのである。藩では先に死亡している綱勝の室清光院が、当時幕政に参与して勢力のあった保科肥後守正之の娘であった縁を頼って、必死に存続活動を行なった。綱勝の生母生善院が、吉良義央の長子で綱勝の甥にあたる三郎を養子にしていたのを、跡目として願い出たわけである。
 正之の斡旋が効いて、当時二歳の三郎が上杉家を継ぎ、綱憲と名乗って藩断絶を免れたが、このとき伊達郡、信夫郡十二万石、置賜郡のうち屋代郷三万石は幕領とされ、米沢藩は半知十五万石に落とされた。
 しかし、米沢藩は、なお願って屋代郷三万石を預地にしてもらう。預地とは、幕府がその年貢米を米沢藩に売り、米沢藩はその代金と金納文を幕府に差し出すもので、管理だけ米沢藩にゆだねられた。
 米沢藩と屋代郷の抗争は、ここから端を発し、幕末の動乱期には、幕府が米沢藩を佐幕勢力に引きつける取引の道具とされる。
 元禄二年、屋代郷三十四ヶ村は、正式に米沢藩から切り離され、幕府直轄の天領となる。年貢の半分が貨幣であったが、上杉領時代五万石で一両だったものが、天領になると六石で一両に変ったように、屋代郷領民は、次第に疲弊を深めて行く米沢藩財政の外に、比較的楽な暮らしを営んだ。屋代郷の幕府直轄は元禄二年から寛保二年までの五十三年間続く。代官府は福島の桑折宿にあり、屋代郷に常駐した期間は短く、年貢も軽かったのである。大まかに言って四公六民程度で、米沢藩の七公三民とは比較にならなかった。
 寛保二年から安永二年までの約三十年間、屋代郷は再び米沢藩領地になる。ついで同年から寛政二年までの十七年は幕領に、寛政二年から文久三年までの六十六年間は米沢藩領地にと屋代郷の変遷は激しい。これは、逆に言えば実質四万石といわれた同地に対する、米沢藩の執着の深さを示すものでもあった。
 寛政二年に屋代郷は三度米沢藩領地に戻ったが、このときは全部ではない。それより先、明和四年に、屋代郷には上州小幡から、織田信浮が移封されてきている。
 信浮は屋代郷のうち高畠、小郡山、泉岡、塩ノ森、相野森、柏木目の六ヶ村、高四千六百五十石を領有し、高畠の古城跡に鐘ヶ城を築いて住んだ。米沢藩領地はこの六ヶ村をのぞいた土地ということになる。織田家はこの屋代郷六ヶ村のほかに、村山郡天童下に一万八千九百余石を給されており、天保元年には当時の藩主織田信美が天童に移り、六ヶ村は同家の代官支配としたが、嘉永元年にはこれも米沢藩預地となる。
 文久三年屋代郷を米沢領に準じるという、幕府の決定に至るまで、屋代郷と米沢藩のかかわり合いはこのように目まぐるしい変遷の経過を辿っているが、この年、後に屋代郷騒動と呼ばれる騒ぎが起こった。
 文久三年二月、米沢藩は代官所に屋代郷の名主一同を集めて、今後私領同様に扱う旨を布告した。これに対し屋代郷の百姓は、名主以下一致して上杉支配に反対し、同じ月のうち二井宿村慶昌寺に、百姓数百人が集まり幕命の撤回を嘆願を申し合わせている。郷民はこの後、仙台藩を頼って、嘆願書を幕府に取り次いでもらおうとし、八月になって訴状は仙台藩執政に受理されたが、九月に至って予想通りの重い年貢、課役の割当てをみた郷民は、驚倒して一気に暴動に走った。高畠東南の有無川の河原に集まった千人余の百姓は、高畠村新野総右衛門、藤七、竹森村長谷川平内を襲って、刀剣、武器、金子千三百両を軍資金として強奪した。このとき新宿村の肝煎島津才吉は、米沢藩の命に従順であることを理由に殴打されている。騒動は仙台藩士中島敬助が指揮した。
 騒動のはじめ仙台藩を頼り、また騒動の首謀者の中に仙台藩士がいたのは、米沢領は天正十九年伊達政宗が奥州磐手山に去るまで長く伊達領であり、いわば伊達家墳墓の土地であったことから、その繋りを慕ったのである。
 米沢藩の窮迫は、景勝入部以来のものだったが、家臣の困窮は年を加えるごとに増幅し、明和元年には実に「お蔵元御逼迫」のため、政事が立ち行かないから藩土を返上したい、として幕府の内意をうかがうところまで行っている。
 俸禄で暮らしが立つのは一部の上士だけだった。下級藩士は悉く百姓仕事をし、とくに城下に配置された下士の貧窮は、糞掴みの原方衆の貧しさを上廻った。例外なく物を商い、大工、屋根葺きで暮らしを立て、節を守って俸禄だけで過ごそうとする者は、むしろ偏屈者と嘲られる始末であった。
 米沢の土地に、近年まで大工様、屋根葺き様という呼び方があったのは、大工、屋根葺き、人足などの中に、内実は武家の者が多数混じっていたため、無礼を恐れて総称して様をつけて呼んだ遺風である。
 当然百姓は過酷な年貢、課役に苦しんだ。米沢藩中興の祖と呼ばれる上杉治憲(鷹山)の治世下においても年貢は七公三民を緩めることはなかった。
 屋代郷は天領の領民として、こうした米沢藩の苦境の埒外にいた。明和四年以後織田領となった高畠以下六ヶ村にしても事情はあまり変りない。織田家は小幡二万石から屋代郷、村山郡天童下併せて二万三千五百石は元高を超えて移封されていた。山県大弐、藤井右門の嫌疑に連座し、藩主信邦の隠居、家老吉田玄蕃以下重臣多数の処分を経て後の移封であり、屋代郷における領民仕置はゆるやかであったらしい。
 いわば餓狼の前に置かれた好餌に、屋代郷は似ていたし、そのことを誰よりも屋代郷領民自身が覚っていた。加えて、屋代郷は自領同様に、という幕閣の決定を手に入れた米沢藩のやり方は、かなり強引なものがあった。
 米沢藩がこの件を幕府に正式に願い出たのは文久元年三月である。表向きの理由は、御領百姓の飲酒、賭博、遊惰の風が、自然に私領にも及ぶので国政に差し支えるとした。しかしこの願いはすぐに却下される。だが米沢藩は諦めず、同年八月、翌文久二年十一月と嘆願を繰り返した。文久二年のときには世子上杉茂憲が、月番老中板倉周防守重宗にあって斡旋を頼んでいる。当然賄賂が動いたところである。
 こうした執拗な嘆願の裏には、米沢藩の時勢に対する読みがある。文久二年九月、幕府は将軍家茂の上洛に、藩主斉憲の供奉を命じ、斉憲は翌三年一月一日上洛の途についている。幕府の衰退は徐徐に明らかになりつつあって、時勢は急速に動いていた。幕府としては、東北の雄藩に数えられる米沢藩を、幕府側に引きつけて置く必要があった。屋代郷三万七千石は、幕府にとっても、いまや格好の取引の道具と変っていたのである。
 暴動を起こした郷民に、こうした情勢の変化が呑み込めていたとは思われない。郷民は天領の民の束縛されない暮らしが奪われるのを畏怖し、一途に米沢藩を拒否し、憎んだ。
 だが、暴動に対する米沢藩の対処の仕方は迅速だった。家中数百人を郷に派遣し、数人を殺傷し、数十人を捕え、たちまち暴動は熄んだ。だがこのとき首謀者数十名は仙台領に逃亡した。」(藤波周平「雲奔るー小説雲井龍雄」(中公文庫版、 第一部二より引用)

 みられるように、奥羽の一藩であるからには、幕藩体制には「明治前夜」の土壇場まで、強権政治を敷いていたようだ。

(続く)


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2023-07-14 11:52:49
屋代郷が屋台郷になってますよ

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