♦️523『自然と人間の歴史・世界篇』構造主義哲学(レヴィ=ストロース)

2019-02-10 10:28:40 | Weblog

523『自然と人間の歴史・世界篇』構造主義哲学(レヴィ=ストロース

 第二次世界大戦後に有名になった哲学の一派、構造主義の旗手の一人にフランスのレヴィ=ストロース(1908~2009)がいる。かれは、同じ国のサルトルなどによる実存主義に対し、なかなかの辛辣な批判をしている。また、文明と人間の在り方についても、進化論などとは一線を画している。幾つかの例を挙げよう。

 「人間の歴史のなかで、たった一度、たった一つの場所で、継起するもろもろの出来事を多分に恣意的に結び付けて、それらの出来事の継起の原因だとわれわれが見なすような発展図式がたまたまできあがったからといつて、・・・そのような発展が今後もあらゆる場所で起こるべきものであるという証拠にする正当性が与えられるわけではない。もしそうなら、そのような進化が起こらなかったすべての場合に、それはその社会や個々人に能力がないか欠陥があるせいだと結論つけることが、いとも簡単にできてしまうだろう。」(レヴィ=ストロース「蜜から灰へ」、小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書、2000の中での邦訳)

 「サルトルのもう一つのゆきたかたは、譲歩して「発育不全で畸形」の人類をともかく人間の側に入れることである。しかしその場合にも、人間としてのその存在は、固有のものとしてその人びと自身に帰属するものではなく、歴史ある人類がどう扱ってくれるかによってきまるものであることをにおわせる。つまり、植民地の状況に置かれて歴史なき人類が歴史ある人類の歴史を自己のうちに取り込み始めるとか、もしくは、民俗学そのもののおかげで、歴史ある人類が、意味を欠いていた歴史なき人類に意味の祝福を与える、ということによってきまるとするのである。しかし、どちらの場合にしても、風俗、信仰、慣習の驚くべき豊かさや多様性は捕捉されない。」(レヴィ=ストロース「野生の証明」、小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書、2000の中での邦訳

 さても、論争などにおいて、おのが限界まで集中して相手に立ち向かうという意味では、次のマルクス主義批判はなかなかに堂に入っているようだ。

 「マルクス主義者やネオ・マルクス主義者が歴史を知らないと言って私を非難したとき、私は彼らにこう答えたのです。――「歴史を知らないのは、あるいは歴史から眼をそむけているのはあなたたちだ」、とね。「現実的の具体的な歴史を、あなたたちは、あなたたちの頭のなかにしかない歴史発展の大法則に置き換えているのだ」と言ってやりましたよ。歴史に対する私の敬意、歴史に対する私の愛着、それは、歴史の現実の歩みが示す予見不可能性に精神のどんな構成物も取って代わることができないという、歴史が私に与えてくれる感覚に由来しています。偶然性のなかにある出来事、これは何によっても置き換えることができないものだと私は思います。構造論的分析は、この偶然性というやつと、こういう言い方を許してもらえるならば、「うまくやっていく」のでなければなりません。」(レヴィ=ストロース「遠近の回想」、小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書、2000の中での邦訳

   あわせて彼は、この世界の流れにおいて、人間もまた偶然の産物であるかのような書きぶりをしている。

 「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、習慣など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が人生を過ごしてきたものは、一つの創造のつかの間の開花であり、それらのものは、この創造との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味を除いては、おそらく何の意味も持っていない。」(「悲しき熱帯」)

 これらから推し量るに、レヴィ=ストロースの構造主義というのは、何か特定の歴史法則を見出すというのではなく、物事や諸現象をできるだけ画一的ではなく自然な流れでもって叙述するものであるようだ。一概に、抑制的にいうことは現に大切な態度であろうし、安易な一般化なり、いくつかの点を単純に結び合わせて連続性を強調するのは慎重であるべきだと言いたいのではないか。一口に、それが文明社会だからと言って、そうは呼ばれていない社会より高等であるということになるまいし、その逆もまた然りということなのだろう。それは、正しいし、サルトルやマルクスもそのような破天荒な言い方をしているのではあるまい。

  

 なお、これらの論点に関連して、物理学者のニールス・ボーアが、つぎのように述べているのも、参考になろう。

「相対論的な議論では、そのような客観性は、現象が観測者の基準系に依存しているということをしかるべく考慮することによって保証されるが、相補的な記述においては、物理学の基本的概念のはっきり定められた使用にとって必要とされる事情にしかるべく注意をはらうことにより、いっさいの主観性が回避されているのである。

 分析と総合にかんして、知識の他の分野においても、量子物理学におけるこの事情を思い起こさせるような状況に私たちは直面しているということは、哲学一般の展望からも重要である。たとえば、生命ある有機体の完全な状態、あるいは意識ある個人の個性や人間文化の特性は、全体性という特徴を示し、その説明のためには典型的な相補的記述様式が必要とされるのである。これらのより広い分野においては、経験の伝達に使用される語彙(ごい)が豊富でしかもその使用法が多様なために、またとりわけ哲学文献においては因果性という概念がさまざまなために、このような比較の目的がときに誤解されてきた。」(ニールス・ボーア著、山本義隆訳「ニールス・ボーア論文集1-因果性と相補性」岩波文庫、1999)

 構造主義的アプローチでさしあたり成功しているのが文化人類学の世界であるなら、そこでの考察の中から何かしら人類のこれまでの軌跡が浮かび上がってくるような、そんな未来に繋がるアプローチであってほしいのだが。

(続く)

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